03.2009 通し行進者の最近のブログ記事

竹田昭彦日誌No.37

< 世界大会長崎 連帯と歓喜のフィナーレ>


昨夜は、長崎市職労のお世話で「広島~長崎反核平和マラソン」歓迎夕食会が開かれ、参加しました。会場は、大浦地区の公民館で、そこのホールに雑魚寝するのが慣例です。私も泊まり、深夜まで盛り上がりました。


今朝は、長崎市役所へ行き、敷地内にある「長崎市職員原爆犠牲者」碑に黙祷を捧げました。長崎に落とされた原爆で、市職員37人が犠牲になりました。私は、元横浜市の職員だったこともあり、長崎大会に来たときはお参りしています。


今回、偶然にも、碑の前で、横浜市従労組の若い人たちと会いました。


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▲長崎市庁舎敷地にある「長崎市職員原爆犠牲者」碑


10時半から開かれた閉会総会は、被爆者、海外代表等の報告や決意表明、そして、優れた活動をした地域や、団体の参加者集団が登壇し、絵図などでアピールし、代表者が熱弁しました。


生協労組の活動披露では、ギターの伴奏付きで、歌も出ました。青年たちの決意表明では、核兵器廃絶に向けた「3、2、1、0!」のカウントダウンが呼びかけられ、会場の人たちが一斉に、両手でゼロの輪をつくりました。


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▲生協労組の平和行進取り組みを報告する沓脱隆二さん(京都生協労組)


会場は、盛り上がり、海外の代表団も登壇し、手を取りあい、会場全体が歓喜のウエーブとなりました。


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▲壇上から子どもたちが平和の折り鶴を飛ばす


これまで以上に、総会の盛り上がりを感じました。


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▲海外代表も壇上に 連帯の歓喜満ちる


今日の参加者は、7800人と発表されました。会場が狭かったです。通路に座る人も多くありました。市職員の話しでは、施設管理者から「多く入れないよう」苦言があったとのことです。


世界大会3日間では、各地でお世話になった、多くの方々とお会いしました。


これからも、平和行進に参加し、がんばります。

竹田昭彦日誌No.36

< 世界大会‐長崎/分科会 >

 

今日は、世界大会‐長崎の第2日目で、分科会、フォーラム、うごく分科会などが開かれます。 私は、分科会3の「非核平和のアジアを」に参加しました。

 

この分科会は、最初に米国、中国、韓国、日本の各代表者から、報告と問題提起がおこなわれました。そして、質疑応答があり、参加者が総括的な意見表明をする方法で進められました。

 

問題提起は、アジアの中でも、北東アジア(日本、韓国、北朝鮮、中国)の「非核平和を」が中心でした。

 

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▲分科会3「非核平和のアジアを」(正面左から)米国、(1人おいて)中国、韓国、日本の代表者
 
 

日本と韓国が米国の核の傘に入っていること、中国が核兵器を持っていること、北朝鮮の核実験とミサイル発射問題、オバマ米大統領のプラハ宣言など、これらの現状をどのように分析・認識して、「非核平和のアジア」への運動を進めるべきか、活発な論議がされました。

 

皆さんの意見表明で強調されたのは、武力には武力を持って解決するのではなく、冷静な判断と話し合いによる交渉で「非核平和のアジアを」構築することでした。

 

そのためには、各国の国民が連帯して運動をつよめ、為政者に核兵器を破棄させることです。

 

なお、参加者の総計は150人で、若い人が30%位、世界大会初参加は20%位でした。

 

分科会終了(午後3時)後、8月6日に広島市の平和公園をスタートして長崎市へ向かって走っている「広島~長崎反核平和マラソン」(500km)に参加しました。

 

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▲折り鶴を持って長崎平和公園手前の上り坂を走る「反核平和マラソン」

 

 

通し行進者の松浦さんと私で、長崎駅前から路線バスに乗り、長崎市郊外のつつじが丘(国道34号線)でマラソンの人たちと会い、私は「間の瀬峠」(県道45号線)の上りの「難所」3kmを走りました。この峠を走るのが楽しみだったので、走れてよかったです。

 

長崎市の中心地に入るには、「日見峠」の他に、「間の瀬峠」があります。 現在は、長崎自動車道(日見峠方面)や、長崎バイパス(間の瀬峠方面)ができ、「間の瀬峠」を通る車も、地元の人以外はないでしょう。

 

平和行進や、平和マラソンは、旧道を通ることが多いので、ここでも歴史を感じます。

 

この反核平和マラソンは、今年で27回目です。福岡市職労や北九州市職労などのランナーを中心にすすめています。「全法務労組」や「ランナーズ9の会」のランナーたちも参加し、タスキをつないでいました。

 

来年は、新日本スポーツ連盟で「東京~長崎」を走る「反核平和マラソン」(1500km)の計画があるようです。

 

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▲平和祈念像前で記念撮影

竹田昭彦日誌No.35

< 世界大会長崎/開会総会 >


2009年世界大会‐長崎の開会総会オープニングは、平和行進の通し行進者がリレー横断幕を持って、会場の後方から、座席中央の縦通路を通って登壇する演出でした。


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▲世界大会会場の長崎市民会館玄関風景


47都道府県を、1歩、1歩、歩いてきた平和行進が、世界大会へつながった表現です。私は、平和行進の歴史をかみしめながら、興奮気味に手を振って壇上へ進みました。


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▲開会総会壇上の通し行進者(右から)松浦宣孝さん、竹田昭彦、森悦子さん


行進団に続き、海外代表団も登壇し、紹介されました。各人が紹介されますと、誇らしげに手をあげたり、お辞儀をされたり、連帯感に満ちていました。


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▲開会総会の壇上で紹介された海外代表


国連代表で発言したセルジオさんは、各国から参加した若い人たちに、核兵器廃絶運動で力を出すよう呼びかけました。とても、印象に残りました。


国内の活動報告では、徳島県の署名活動に注目しました。県人口80万人の10%(8万人)の署名を目標にしており、8月4日現在、1万7千人分を集計しています。


この中で、勝浦町は目標を突破し、18%を超えました。50%をめざすそうです。


署名活動の原動力は、県下のあらゆる団体、1000団体を訪問し、署名の取り組みの要請をしていることです(8月4日、訪問目標を1500団体に引き上げた)。


団体訪問・要請のヒントになったのは、昨年の平和行進です。出発式を鳴門市の四国霊場八十八ヶ所第1番霊山寺境内で行い、その後、行進とあわせて八十八ヶ寺を訪問し、住職さんから署名をいただく、四国らしい発想でした。


分け隔てなく、あらゆる団体を訪問・要請する発想と、実行力がカギです。


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▲署名活動の取り組みを報告する徳島県代表の神野美昭さん

竹田昭彦日誌No.34

< 長崎市の爆心地に無事到着 >


長崎市の行進です。


7月4日に広島市の平和公園から出発し、今日で34日目、最後の行進です。


9時40分、出発式をした日見公園では、広島に落とされた原爆で亡くなった方々の冥福を祈り黙祷を捧げました。


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▲出発式で広島の原爆犠牲者に黙祷を捧げる=長崎市日見公園


長崎市の中心街に入るには、日見峠(標高200m)を越えなければなりません。行進出発直後から、約3km上った所が日見峠です。昔は、「西の箱根」と呼ばれた難所です。今回は、1926年(大正15年)に造った日見トンネル(640m)を通りました。


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▲松浦宣孝さんを先頭に日見トンネルを通る


炎天下の上りで、吹き出した汗がとまりません。


トンネルを抜け、4kmほど下り、中心街に入りました。


昼食休憩は、世界大会の会場になる長崎市民会館の所でした。


午後の行進では、繁華街の名所「鉄橋」で、20分ほどとまって、街宣、署名、行進パンフの配布などをしました。ほとんどの通行人に、パンフを受け取ってもらいました。関心が高かったです。


午後4時20分、最終目的地の原爆「爆心地」に到着しました。


5時から集結式が開かれ(参加者120人)、来賓の長崎原爆資料館長さんと、長崎県の被爆者代表の方から歓迎の言葉をいただきました。


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▲集結式でお礼の挨拶をする竹田=長崎市爆心地


通し行進者各人が、無事、着いたことに感謝し、行進中の感激を披露、核兵器の廃絶に向けて更に頑張ることを誓いました。


式には、佐賀県内を通し行進した秋山哲朗さんが見え、唐津名物の松露饅頭と唐津原爆被害者の会の記録集をいただきました。


終了後、森さん、松浦さん、長崎県内の通し行進者の宮島茂吉さん等と会食し、労をねぎらいました。


宮島さんは、労山(日本勤労者山岳連盟)のメンバー、県内通し行進14回目のベテランです。


私は、加齢とともに身体の不安もありましたが、無事、目的が達成でき嬉しかったです。ただし、堅い物を食べたことから、弱っていた前歯2本が欠けました。


お世話になった皆さま、ありがとうございます。


今日の行進距離は、参加者60人前後で14km歩きました。


長崎県の行進距離総計は、82.5kmです。


広島市の平和公園から、長崎市の爆心地までの行進距離合計は、494.5kmです。

松浦宜孝日誌No.43

7時に別棟にある食堂に行くためフロントに下りていくと森さんが新聞の「原爆症訴訟全員救済」の記事を見て興奮している。昨夜のテレビのニュースを見ていなかったそうで、厚生労働省前での上訴するなの座り込みなどを経験している彼女はその喜びとここまで来るのに64年を費やした腹立たしさに複雑な涙が出ると言っていた。


外に出ると雨が降っていて、昨夜の天気予報で台風の接近を言っていたのを思い出し最終日も雨になると覚悟を決める。携帯iモード情報で確認すると10時半頃がピークで午後は日差しがきついとある。食事を終えて外に出ると雨はとりあえず上がっている。9時に宿を出る頃には青空がでていた。


日見公園の出発式では今日の責任団体、通し行進者の挨拶の後、広島原爆の犠牲者の冥福を祈って黙祷がささげられた。


10時にスタートした平和行進はほどなく今日の難関のひとつ日見峠への上り坂にかかる、まず右にカーブしながら34号線までの坂、そして交差点を左折してからも勾配はきついが見晴らしは良くなってくる。左手に美しいたちばな湾と今朝の雨で埃が落とされた島の緑が映えていた。その風景も視野から消え、太陽の日差しと約3キロの登り坂標高差200メートルのきつい坂が休憩を待ち遠しく思わせる。


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その休憩所はほぼ登りきった、すすき塚IC手前スズキ自動車の販売店横でした。多くの人が自動販売機でペットボトルのお茶類を購入していました。その後民商さんの給水車が遅れて到着、待ちわびていた人たちは何杯もおかわりしていました。兄弟に二人の脳梗塞患者を有するDNA持ちの私はコンビニで冷凍飲料を2本購入し、1本は保冷機能付きペットボトルホルダーに、他の1本は背中の首筋に入れ体温低下に使用し、解けた分だけ飲んでいました。


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休憩の後しばらく歩くと640メートルの長い日見隧道です、バイパスが別にあり通行量は少ないものの、暗くて危険なため1列縦隊ですすみました。下りも約3キロでしたが、まだかなと思う頃、市電の始発駅でもある蛍茶屋の休憩場所に着きました。この休憩所はモルモット代わりで調査はすれど治療はせずの「ABCC」の後継施設の放射線影響研究所の前でもありました。パンフレットをもらいましたのでまたレポートします。


市内を行進している途中で署名、宣伝行動を行うなどして爆心地に到着しました。終結集会では西彼半島コースの人を含め120人ぐらいになりました。まず長崎での原爆被爆者の冥福を祈って黙祷しました。原爆資料館館長も平和市長会議に市民も参加できるものがあるとのアピールも交えてあいさつ。被団協県会長の後,通し行進者もしめくくりの挨拶を行いました。

松浦宜孝日誌No.42

長崎のテレビでは連日高校生1万人名署名活動について放映しています。先日はこのグループがオバマ大統領に広島・長崎の原爆資料館を見に来てほしいと署名を集めているというものでした。


今日はこのグループのOBで大学生になったいまも活動している学生たちの活動を紹介しています。小学校3年生の平和活動に出前授業で出かけています。また年々高齢化が進んでいる被爆者の声を聞きDVDに残して被爆体験の風化を防ぐ活動を行っています。すでに国内外で150件のDVD貸し出しがおこなわれています。彼らのモットーは「我々は微力ではあるが無力ではない」で、地道な活動を続けています。


別のニュースでは、いま被爆者に2種類以上のガンが発生し、3種類の人が34例あるなどと報じられています。


夏にはこれらの報道は多くなりますが、地元はさらに多いようです。


今日の日程
西諫早駅前  集合9:30   出発9:50
多良見支所  着 11:05  発12:30 歓迎式 昼食
バイパス高架下 着13:20  発13:40
ネットカフェ前 着14:40  発14:50
日見公園    着15:50


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▲西諫早駅出発式


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▲多良見支所での歓迎式


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▲多良見支所の合併後の平和都市宣言


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▲進行速度計算の素になる距離表示ちなみに2:24に通過


多良見支所まで休憩無しで一気に進むが朝はまだ元気、休憩は3階の部屋をお借りすることができた。ここも合併で諫早市になっており、昨日高城公園に石碑として刻まれた平和都市諫早宣言の同文が支所でも掲示されていて、町時代の石柱も残っている。


昨日長崎も昨年より29日遅い梅雨明け宣言が出され、この2日間は日差しもきつく距離もあってハードでした。昨日は足を引きずりながら歩き、最後は気分も悪くなり途中でリタイアした若い女性もいたそうです。

竹田昭彦日誌No.33

< 長崎市に入る >


諫早市、長崎市の行進です。


昨日、九州地方の梅雨明け宣言があり、やっと本格的な夏がやってきました。


朝9時半、行進出発式の前に、500mlの水を飲みました。これは、「汗が吹き出してから水を飲む」繰り返しと違い、「汗がじわじわと出る」快適さでした。早めの水分補給が、良かったようです。汗が吹き出てからの水分補給は、水分の体内吸収が悪くなり、すぐに、汗となって吹き出すようです。


11時過ぎ、諫早市の多良見支所に着くと、支所長さんから激励の挨拶をいただきました。そして、急遽、冷房の効いた会議室を、昼食休憩場所に提供してもらいました。午前の行進を、75分休憩なしで歩いたので、会議室を使えて良かったです。


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▲諫早市多良見支所で支所長さん(右)から激励をいただく


12時30分、多良見支所を出発し、50分ほど歩いた場所に、長崎バイパス自動車道の高架下の日陰がありました。参加者から「休もう」、との声が出て、20分ほど休みました。


休憩予定場所の手前、300mでした。予定の場所まで、ガマンできなかったのです。


行進を再開し、間もなくしてあったコンビニで、20人位が水を買いました。私も買いました。レジも混み、行進団から100m以上遅れてしまい、走って追いつきました。20人位遅れていることを説明し、ペースを落としてもらいました。


今日は、行進団の後部に救護車もなく、実行委員会で用意した水もなく、不安を感じたので、その後、私は隊列の最後尾を歩きました。


高齢のご婦人が、遅れだし、隊列からどんどん離れました。タクシーを拾って帰ると言いますので、宣伝カーに乗ってもらいました。


つぎに、朝から歩いていた幼稚園児とお父さんが遅れました。追いつくのが難しいようです。宣伝カーに乗ることをすすめますと、園児は、歩くと言います。


午後4時10分前、無事、終点の長崎市の日見公園に着きました。


終了式では、明日もガンバロウのかけ声が出て、予定外に、全員で「明日の平和行進ガンバロウ」を三唱しました。暑い中を歩き通した、皆さんの気持ちです。


後方を歩いていたとき、森悦子さんが信号待ち時間を利用し、右足のストレッチをしていました。足の痛みは、相当につらいようです。


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▲道路の縁石を利用して右足のストレッチングをする森悦子さん


行進は、長崎市に入りました。あと1日で終わります。


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▲午後1時41分 長崎市に入る


今日の行進距離は、区間により参加者50~70人で15km歩きました。

私の定年後の夢が実現しました。5月6日東京夢の島第五福竜丸展示館前を出発し91日かけて本日、広島平和祈念公園に到着しました。広島のうたごえの「君の道を」を聞きながら。万歳!


8月9日に生まれた私は、子供の頃から長崎の原爆記念日を意識していました。20歳でうたごえ運動を知り、「うたごえは平和の力」を実践してきました。


西播を通る平和行進にも、参加したりしなかったりでしたが、82年のSSDⅡ(第2回国連軍縮総会)のうたごえ代表団に加わり、ニューヨークを揺るがした100人のデモの先頭を太鼓と叩き歌を歌いながら勤めました。この時多くの皆さんの代表として参加したくて、姫路の駅頭に40日間毎日立ち、署名と募金を訴えました。3千人近い署名と、90万円の募金をいただきました。


以来、お返しに、駅頭での6・9行動27年、職場(日本トムソン姫路工場)の門前での6・9活動を22年続けてきました。定年退職したら平和行進の通し行進が夢でした。


長いようで短い3ヶ月でした、平和行進52回、半世紀にわたる、「核兵器廃絶、被爆者援護連帯、平和を守れ」の草の根運動の歴史の重みと、先人たちの努力、運動の蓄積と広がりを感じる行進でした。


64年前の広島・長崎での悲劇を体を張って訴え続けてこられた被爆者の皆さんの思いが、オバマ米国大統領のプラハでの演説につながり、核兵器廃絶の追い風を受けての行進でした。


沿線の東京、神奈川、静岡、愛知、岐阜、滋賀、京都、奈良、大阪、兵庫、岡山、広島とうたごえの仲間の力強い応援、激励を受け、また、被爆者の皆さんの「たのみます」と手を握られた思いを胸に歩き通す事が出来ました。行進団を励ますうたごえの力は偉大です、歌うことで力がわき元気に行進できます、息を切らし上る峠道、歌があったから楽しく越えられたと!


日本山妙法寺にまねて、沖縄のパーランク(小さく持ち運びやすく、いい音がする)を叩きながら歩きました、歩くリズムが取れ、好評でした。歌のリズムも刻みました。私はSSDⅡの時教わった、庄原の田楽のリズムを打ちながら歩きました。


平和行進は、被爆国日本の民衆運動が生み出した素晴らしいパフォーマンスです、歩くという誰にでもできる、示威行為です。暑くても雨が降っても毎年歩き通す行進の素晴らしさ!継続は力なり!


その事を生み出し半世紀以上続けられた事に参加でき、定年後の夢が実現できました。


うたごえ運動60年の歴史の中で初めての全国通し行進者としての重責と期待を浴びて歩き通す事ができました。


同じJMIUの矢部さんといういい相棒にも恵まれました。次代を担う行進者のために、改革の旅でもありました。全国の経験を伝え、少しでも良くしたいと、苦言も呈しました。


40日目の岐阜から飛び込んできた愛知の若者(22歳・21歳)の2人に勇気と希望と元気をいただきました。平和行進の広がりを実感しました。若者たちの参加を促しました。


毎日歩き、毎日宴会で、メタボ解消どころか?早寝早起きで、太ったかな?


日誌のメールは早朝です。


毎年行進を継続し、支えてこられました。多くの皆さんにお礼を言いたいと思います。


核兵器がなくなり、歩かなくてもいい日が一日でも早く、被爆者の皆さんが生きていらっしゃる間に実現させましょう。


署名を集め世論を喚起し、来年5月のNPT(核不拡散)条約再検討会議に積み上げましょう。


ニューヨークに行きましょう。ご声援ありがとうございました。


矢部さんの一言「だんご4兄弟で歩いてきました。長崎の世界大会、NPT再検討会議まで、一緒に行きたいね!」

竹田昭彦日誌No.32

< 連日の炎天 汗がとまらず >


大村市、諫早市の行進です。


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▲炎天下を鈴田峠へ向かう行進団=大村市


朝から暑く、「暑くても、暑くても、平和行進」の空模様になってました。


汗が、腕や頭から吹き出し、とまらず、休憩時間の水分補給だけでは足りません。行進中に、自販機で水分補給をしました。


連日の暑さで、宣伝カーのカセットテープが、伸びた(?) とのことで、一昨日の午後から「音声が間延びし」、調子が悪くなりました。


昨日は、私が持参した新しいカセットテープと、携帯用カセットテープレコーダーを使い、抵抗入りケーブルなどもつなぎ、マッチングを取りましたが、調子はよくなりません。


結論は、宣伝カーの拡声器システムの異常だと判断しました。今日は、宣伝カーを取り替え、順調でした。平和行進には、色いろな出来事があるものです。


行進コースの道路沿いに、公園や、神社などがない所では、高架道路下の日陰を利用し、休憩や、雨宿りをすることがあります。


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▲立体交差道路の橋の下で休憩する=諫早市


今日の午後は、立体交差道路の橋の下で、休憩がありました。昔の旅人も、橋の下で休んだり、野宿をしたりしたので、橋の下は、今も昔も便利だと思いました。


行進の途中で、飴の差し入れがありました。路肩にテーブルを置き、「差し入れです!」と書いた紙が貼られ、飴をのせてありました。行進を止めず、歩きながら取っていただく方法です。暑さを忘れ、気が口の中の甘さに集中しました。うまい!


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▲歩きながら差し入れの飴をいただく =諫早市・諫早駅近く


今日の行進距離は、参加者40~50人で17km歩きました。

松本英治日記No.90

平和行進91日目。曇り後晴れ。


いよいよ最終日です。8時に宿を出、府中町原爆慰霊碑集合、近くの府中町役場で日本山妙法寺の平和行進団が出発集会。


8時45分集会、半日の行進で平和公園です。通し行進者の挨拶は、私「平和行進の歴史を踏まえ、世論を喚起し、世界大会を成功させオバマ発言を実行させましょう」と中平君「人の温かさ優しさに触れる行進でした、いただいたお礼に元気に歩きます」コールと歌でお返し!


東区民センター目指して出発、元気に楽しく、後から太鼓の音響かせて、妙法寺の皆さんが行進!


中平君に最後だから思いっきりやれと発破、ミッキーマウスマーチ最高!シュプレヒコールも気合が入ってます!疲れネタ切れになったら、私にマイクが!行進版の追っかけ歌特集!盛り上がります!


東区役所で野上千津江区長の挨拶を受け名刺交換、多くの職員が仕事の手を止めてお出迎え!ありがたい!


広島市内を元気に行進、駅前大橋で休憩、広島合唱団が出迎え、平和公園目指して、最後の踏ん張り!


途中、Bコース(宇品~)の矢部さんと鶴田君が出迎え、イサムノグチ設計の平和大橋を渡り、小沢日本のうたごえ事務局長出迎え、がっちり握手、平和公園へ広島合唱団の「君の道を」私のために作っていただいた曲の演奏の中、ゴール!万歳!万歳!感慨無量!
昨年の通し行進者米山さん(神奈川県内通し)も出迎え、握手を!


終結集会は宣伝カーの上で通し行進者紹介と挨拶、東京~広島の私がトップで「行進52年の歴史の重みと力強さを感じ、オバマ発言の追い風に乗り楽しく元気に歩けました。被爆者の皆さんの悲願を成就させましょう」矢部さん、四国~広島コースの浅田さん、富山~広島コースの栖原さん、飛び入り参加の中平君は「推薦はありません、あえて言うなら国民の推薦で歩き通せました」と名言です!鶴田君「何にも知らず先輩について参加しました、ここに居て良いのか葛藤しましたが、広島まで来れました。カンパや民宿ありがとうございました」2人の変化が大変うれしい、僕たちです。いい若者を育ててくれたと!平和行進事務局の安井さん!


昼食を安井さんと通し行進者6人で慰労会、世界大会の打ち合わせも!ビールが美味い!


夜、広島音楽センターで広島のうたごえの慰労会に、日うた祭典で何度か行ったのに解らず、薄暮の平和行進に!


手作り料理と、うたごえ「君の道を」も歌い交わしました。勝利の美酒に酔いしれました。ありがと~う。


日誌を読んで応援していただいた全国の皆さんありがとうございました。


2009年国民平和大行進は無事終了しましたが、引き続き世界大会の成功と、来年のNPT再検討会議成功に向け奮闘いたします。


核兵器がなくなるまで、歩み続けることを止めないでしょう!がんばりましょう!硬い握手!

松浦宜孝日誌No.41

今日の総責任者は高教組諫早支部長、あいさつで「田んぼに行っていたおばあさんは爆風で異変を感じ、しばらく伏せて隠れていたが怖くなって家に帰った、お母さんは山に松ヤニを取りにいってたが林を爆風が通りすぎて行った。翌日からは炊きつけと焚き木を持って集まるように指示が出された。諫早にも火葬場はあったがそれでは間に合わない、今のサブグランドのある辺りでまとめて火葬されたのです」


また、横断幕をもって先頭で共に歩きながら、先年亡くなった、救援列車の運転手の話として「原爆投下当日、長崎に向かっていたが、たまたま出発が遅れていて直撃をまぬがれた、避難者、被爆者を川棚町に運んだ」と教えていただいた。


道幅があり、並んで歩けるときは平和行進ならではの学習の場になります。


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▲大村市内、出発後10分ぐらい


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▲平和都市諫早宣言ー全文を刻んだ碑で公園に設置


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▲バックは諫早眼鏡橋


今日の行程
大村市役所   (集合9:00 出発9:20)
岩松駅前     着9:50   発10:05
鈴田峠      着10:50  発11:45 昼食
バイパス高架下  着12:20  発12:30
諫早駅西口    着13:20  発13:30
高城公園     着14:00  発14:15 (副議長あいさつ)
バイパス交差点  着15:00  発15:10
西諫早駅     着15:35

だんだん1キロが長く感じられています。しかし残りは2日間になりました。爆心地の行進が楽しみです。

竹田昭彦日誌No.31

< 炎天下 冷水補給に大わらわ >


東彼杵町、大村市の行進です。


今日は、炎天下の蒸し暑い行進になりました。


行進コースも、長崎街道(国道34号線)に戻り、幹線道路になったので、脇道の旧道以外は、日陰も少なく、汗が噴き出しました。雨天続きから、急に暑い日になると、体温調整機能がついて行けず、ボウッとしました。


皆さんも暑かったようで、休憩の度に、軽トラックに積んだプラスチック桶の冷水麦茶が、飛ぶように「売れ」ました。ペットボトルに補給する人も、多くありました。


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▲じょうごを使ってペットボトルに冷水麦茶を補給する


私は、冷水用の氷をもらい、帽子の中に入れ、頭の前部を冷やし、熱中症の予防をしました。


長崎の行進では、自治体の首長さんや議長さんからいただいたペナントを、旗棒に掲げて行進しています。リレー横断幕に結んで下げるのと違った、感じがあると思いました。


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▲ペナントを掲げて行進する


昼休みに、時間の余裕がある場合は、持参のパソコンを開き、行進日記などを書くようにしています。短時間ですが、夜の眠い時より計が進みます。


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▲昼休みにパソコンで行進日記を書く=大村市松原出張所


今日の行進距離は、参加者50人前後で19.5km歩きました。


沿道募金は、80056円いただきました。


1日で8万円の募金は、これまでの最高です。募金活動のベテランが、例年いただいている家を訪問し、多くなったそうです。

栖原秀夫日誌No.61

13時に安佐南区役所に行く。13時20分には、棚多区長以下職員も集まり始める。13時30分に出発集会を始める時には、職員は25人、参加者はおよそ60人位が集まる。私は行進団を代表して、出発集会に参加し、激励してくれる安佐南区職員に感謝し、行進で訴えたい「核廃絶」と「横須賀の状況」と「非核3原則を守ろう」について話しました。区長からは、広島市としての核廃絶への強い決意と取り組みについて話がありました。


13時40分、私は市会議員と先頭で横断幕を持ち、安佐南区役所を出発。14時10分、旧称祇園神社に着き、10分間休憩。再出発する。


14時35分、熊野神社で地域の方々が待っている。15分間休憩し、梅ジュースや冷たいお茶を頂く。市議に声を掛けられ、地元生健会の方々と一緒の写真に。再出発し、15時20分頃には新庄橋北詰に着く。明日は此処から平和公園まで歩き、私の今年最大のイベントは終わる。まだ歩き足りない感じである。


18時から広島ロードビル大会議室で広島県実行委員会主催の「2009国民平和大行進 通し行進お疲れさま会」に参加。私以外の通し行進者の挨拶は本当に熱く、感動的である。


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▲岐阜から東京-広島コースに加わった2人の若い通し行進者

松浦宜孝日誌No.40

東彼杵役場前での出発式では実行委員会事務局が、「1958年に始まった国民平和大行進は半世紀を越えました。いま、世界は大きく変わりつつあります。オバマ大統領が4月5日チェコのプラハで演説をし、『核兵器を使用したことのある唯一の核保有国として、米国は行動する道義的責任がある』『核兵器のない世界を追求することを明確に宣言する』と述べました。アメリカの国家目標として『核兵器のない世界』宣言したのは、歴史上初めての出来事です。さらに、ロシアなど他の核保有国やNATO加盟国の政府にも、核廃絶を支持する声が広がっています。平和行進・原水禁世界大会の取り組みをはじめ、草の根から垣根を越えた対話、行動を大いに進めやすい情勢が生まれています』と挨拶しました。


続いて大村市長のメッセージ紹介「原水爆禁止2009年世界大会平和大行進にご参加の皆様、大変ご苦労様です。ご参加の各団体の皆様に置かれましては、人類の悲願であります。核兵器のない平和な世界の実現を求め、平和行進を行っておられることに、まずもって深く敬意を表します。広島・長崎に人類史上初めて核爆弾が投下され、64年目を迎える今日においても今なお原爆後遺症の苦しむ多くの方がいらっしゃいます。しかし、残念ながら今なおこの地球上には大量の核兵器が存在します。こうした中、オバマ米国大統領が今年4月に行ったプラハ演説で「米国は、核兵器のない、平和で安全な世界を追求する」と宣言し、核兵器廃絶への機運が新たな高まりを迎えています。
核兵器も戦争もない平和な21世紀を1日でも早く実現するためには私たち一人ひとりの平和を求める強い意志と絶え間ない努力をしていくことが必要であり、皆様のこのような取り組みが今後ますます重要になるものと考えます。
最後に、この平和行進のご成功とみなさまの健康、ご活躍を心からお祈り申し上げます。
                               大村市長 松本

議長からのメッセージも紹介されました。


9時20分に平戸街道を進みインターチェンジ前交差点を右折、34号線を中心に時々旧長崎街道を利用しながら松原出張所に26分遅れの11時56分に到着しました。隣の神社など日陰を求め三々五々昼食休憩に入りましたが、我々通し行進者を中心に職員の御好意で出張所の図書室をお借りすることができました。


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アナウンスカーの調子が昨日から悪くテープが悪いのではと今日は新しいテープで挑戦、さらにカセットデッキも交換するが、いずれも効果なし、結局アンプが悪いのではということで明日は車ごと交換の予定です。


P1000467.jpg▲午後1回目休憩直前まだ元気でした


2度の休憩を挟んで16時15分ごろ大村市役所に到着しました。


今日特筆すべきは一人で募金を6万円余集めた人がいたことです。今日の合計は80056円、参加者は午前、午後延べ104人でした。


今日の宿舎は戦時中は海軍病院だった国立病院機構長崎医療センターの近くにあります。女将のお母さんは婦人会の一員をして介護活動に動員されていました。長崎から鉄道で大村駅に重篤の被爆者が大量に送られてきて、血の流れている被爆患者を背中におぶってこの病院に運び込んだそうです。女将さんは幼いころで怖くてそれ以上の詳しい話は聞けなかったそうです。スイカを差し入れていただいた前田さんのめいごさんおいごさんはおとうさんの消息を求めて長崎の町をさまよったそうです。被爆地に近い大村市ではこのような話が身近できくことができます。

松本英治日記No.89

平和行進90日目。曇り後晴れ。


宿を9時に出て坂町役場へ。昨日の交流会でお会いした方々にお礼を。広島合唱団の山岡さんと握手、サークルの方たちもタスキに記名、突田さんギターを持って、集会前に「青い空は、折り鶴」を歌う。町長さんと議長さんの挨拶受け、名刺渡しお礼を!


通し行進者紹介と挨拶は私が「多くの皆さんと対話をし、世論を喚起しオバマ発言の実行を!」と!


10時出発、元気に今日も中平君がハンドマイクでコールを、積極的に!道からはずれ公園内へ。坂町原爆犠牲者追悼碑にお参り、黙祷を捧げる。広島市に近く、多くの方が被爆され亡くなりましたと、被爆50周年に立てられた碑で追悼と、普通は慰霊となっていると説明を受ける。広島市に近づくに連れ、沿道の反応が違う。


町内を行進し、海田町を歌いながら元気に,昼前になると眠い、歩きながらふらふら!中平君に眠気覚ましに歌をと、行進版を歌いました、追っかけ歌は盛り上がります。


歌ってるうちに海田町役場に到着、町長さん議長さんの挨拶をうけ、名刺を渡しお礼を!昼を回ったが、安芸区役所まで歩く、コール歌で、賑やかに、喜多川区長さんの挨拶を受け名刺交換、区役所の食堂で昼食、ざるそば定食(おにぎり、小鉢付き)安い、腹が満たされず近くの天下一のこってりラーメンを久しぶりに!満腹満腹!


突田さんがギター持ち登場、昼休み歌う会「ねがい」など歌う。うたごえの参加者の多くが来てくれています、『うたごえ新聞』読んでますと!うれしい!


2時出発、府中町へ歌いコールでアピールしながら元気に!府中町役場の近くの原爆慰霊碑前で集結集会。町長さん議長さんの挨拶を受けました、慰霊碑にお参りし手を合わせました。


宿に送っていただき、シャワーと洗濯、6時から近くのロードビル(民主団体の多く入ったビル)で行進実行委員会のお疲れ様会に、昨日の交流会にも、富山~広島コースの栖原さん登場、本日も!通し行進者6人に!


乾杯し手作りのごちそうをよばれながら懇談!通し行進者の自己紹介たっぷり、私が一番目に「行進50年の歴史の重みと、継続の力を、SSDⅡ参加時の毎日(40日間)駅頭に立ち署名とカンパのお願いの経験が、私の平和運動の原点です、世論を喚起し、オバマ発言を実行させましょう」皆さんこもごも、紹介!


若者2人に盛大な拍手が!大きく成長しています。「可愛い子には旅をさせろ」です、平和行進最高です。若者の参加をうながしたいです。世界大会は多いですが。岡山は若者多くて元気でした、若い県内通し行進者や、若い全国通し行進者を出した伝統でしょうか?奈木野佳代さんなど!


9時からJMIUの取材で広島焼きの店で飲みなおし。良く食べよく飲みました、メタボ解消どころか?毎日宴会(ええんかい?)。


いよいよ明日ゴールです。長いようで短かった行進でした、出会いの素晴らしさ、感動のドラマが一杯の行進でした。いい相棒に恵まれ、若者の参加で元気と勇気をいただきました。

矢部フォトギャラリー

東京-広島コース通し行進者の矢部常次さんが行進中に撮影した写真を紹介します。

竹田昭彦日誌No.30

< 「特攻殉国の碑」を見学 >


川棚町、東彼杵町の行進です。


行進出発地点の川棚町新谷郷に「特攻殉国の碑」があり、見学しました。


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▲石碑の4面に死没者名が刻まれた「特攻殉国の碑」=川棚町新谷郷


この地域は、大村湾の北部に位置した波静かな入り江(小串湾)で、ハウステンボスの近くです。


ここには、旧海軍の川棚臨時「魚雷艇」訓練所があったのです。


魚雷艇とは、「震洋」と呼ばれるベニヤ板製の1~2人乗りの小型高速モーターボート(長さ5~7m)で、艇首に爆薬(250~300kg)を装備した特攻兵器です。山口県の平生町で見た「回天」と同じく、人間を全く否定した自爆兵器です。


「特攻殉国の碑」には、碑の4面全体に特攻兵器の訓練や実戦で死没した特攻兵士、3511人の名が刻んでありました。そのうち、魚雷艇「震洋」で亡くなったのは、約2500人です。


行進は、大村湾に面した国道205号線(平戸街道)を歩きました。人家や歩道の無いところも多くありました。行き交う車が、渋滞気味になると、多くの車窓から手が振られました。車のスピードが落ちると、平和行進だと分かりやすいからです。元気をもらい、アップダウンの続く道を、よい気分で歩きました。


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▲出発式で挨拶する東彼地区平和行進実行委員長(右)=川棚町新谷郷


川棚町で泊まった宿の夕食で、珍しいご飯をいただきました。


宿(旅館川原)のご主人が、平和行進に参加しており、旅館業のかたわら稲作をしていました。そこで収穫した赤米と黒米のご飯です。


赤米は、小豆のあんを入れた、おはぎ風にしたもので、黒米は酢を入れた、すし風のものでした。黒米に酢を入れると赤色になるようです。


見た目も、食べても、美味しい、創作ご飯の絶品です。


夕食を一緒にした森悦子さん、松浦宣孝さんと、美食談義が延々と続き、美味しさ倍増でした。


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▲夕食で美味しくいただいた赤米のおはぎ(左)と黒米のすし(右)


今日の行進距離は、区間により参加者40~50人で11km歩きました。


沿道募金は、3560円いただきました。

松本英治日記No.88

平和行進89日目。快晴。


呉市役所8時半集合、出発準備をし、9時から集会、日曜日にもかかわらず市長さんのメッセージ代読、お礼を言い名刺を渡す。


昨日の交流会の参加者多数参加、到着集会でいい声で歌っていただいた方が司会、「元気な被爆者です」と!お礼の挨拶を!通し行進者挨拶は私が、「多くの皆さんにアピ-ルし世論の喚起でオバマ発言の実行を!」


呉の繁華街をパーランクとコールでアピールしながら歩く、日曜日で休みの店が多い、何処も繁華街は、シャッター通りになってます、


郊外に駐車場完備の巨大量販店が出来て!その中で頑張っておられる、商店の民主商工会の皆さん、昨日の食堂もそうでした。新婦人、民商、生協さん共産党の皆さんの休憩時のご接待ありがとうございました。元気をいただき、歩き続けることが出来ました。


呉は海軍の街、出発集会で呉の歴史が語られました、明治に日露戦争時海軍鎮守府が設置され、1次、2次の世界大戦を戦艦大和の建造、造船の町でも、現在は海上自衛隊の基地に!白いセーラー服の自衛官が!


旧街道を西へ、映画「海猿」ロケ地の200階段前の小学校で休憩。冷たい麦茶を!


中平君積極的に行進を盛り上げます、コール、アナウンス、歌と昨日の交流会で、岡山の青年(福田君)に学び、出来ることは、積極的に何でもしようと!実践です!


嬉しく、ありがたい、行進参加者が楽しめるよう、工夫を凝らし、誰でも入れる楽しい雰囲気創りに勤めています。


私も負けじと、行進版の楽しい歌で応援です。行進のムードが明るく元気にアピ-ル出来ます、パーランクも好評です、色んな方に来年はパーランク叩きながら歩きたいと!


日本山妙法寺の団扇太鼓に匹敵するほどの、反響です。私は、庄原の田楽のリズムを刻んでいます。SSDⅡの時、教えていただき、ニューヨークで演奏!


歌のときは、歌にあわせてリズムを叩きます、伴奏に!小さなパーランクから大きな音が、1個でも効果抜群です。昔は、小太鼓を乳母車に載せて叩いたり、桶堂太鼓を腰に付けたり、工夫しましたが、小さくて持ち運びに便利で、パーランクに!


矢部さんのオバママスク、靴の色を変えて履く、いかに注目を集めアピ-ルするか、知恵の結晶です。


吉原公民館で昼食休憩、反合の味噌煮込みうどん、卵かけをいただきました。暑い中ふうふうやりながらの煮込みうどん最高です。お代わりも!


今日は、鶴田君が調理当番に、食後のデザートは、「パパイヤ」レモン汁を少し垂らすと、美味さ倍増!「リポビタンD」で「ファイト-!一発!」元気を!心遣いがありがたい。


多くの方々に支えられて、ゴールの平和公園目指します。


国道35号線の海沿いの美しい景色を見ながら歌いながら歩く、途中海上保安大学が、海の傍に!


休憩所で呉民商名物「かき氷」、蜜色々、私は宇治金時に(ゆであずき、と練乳)疲れが吹っ飛びます。子供たちもお手伝い!


元気をいただき、終着の坂町原爆慰霊碑目指す、歌い叫び元気に!駐車スぺ-スの関係で手前の家具屋で終結集会、呉から安芸に引継ぎ式、歩いて慰霊碑にお参り、被爆後舟でこの町に避難された被爆者の皆さんがお亡くなりになり、90体の遺骨が葬ってあります、手を合わせお参りを!


2日間の休みに駆けつけてくれた、浜崎さんと握手でお別れ!良い歌をありがとう!


車で宿の海田温泉へ、シャワーを浴び、洗濯、6時から地元の方々と交流会、乾杯の後、被爆者3人の体験談を聞き、美味しいにぎり寿司とオードブル、広島名物こいわしの刺身を食べながら懇談、地元のうたごえサークルの4人と一緒に「折り鶴」「青い空は」を全員で歌いました、お礼に「木場の舟歌」を披露しました。後2日で平和公園!ゴール間近!温泉で疲れを癒し明日に!

栖原秀夫日誌No.60

9時15分、安佐北区役所前で出発集会。区長所要にて区政振興課長が代わって激励の挨拶をする。私からは、自治体の対応への感謝と「核廃絶」と「非核3原則を守ろう」と訴えて歩く決意で応える。


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▲国民平和大行進に参加する安佐北区生健会の人たち


9時30分、平和行進は40~50人で出発する。9時50分、津田診療所に着き、冷たいお茶と所長の挨拶と署名と募金を頂く。10時25分まで、地域に署名・募金活動に入る。留守宅が多く、私は署名を3筆だけ。地域の力持ちの戻りが遅く、再出発は10時40分。


12時15分頃に、「北民商事務所」に到着。40分ぐらい予定より遅い。スイカやアイスキャンデーを頂く。終着地の安佐南区役所には、50分遅れの13時20分に着く。


今日の交通整理は、先頭を行く警官以外は不慣れなようで、1時間遅れになりそうになり、私服の警官が手伝い始めたら、やっとスムーズになりだした。若い不慣れな警官が目についた。前後の連絡も旗や無線機などを使い明確にすべきだ。居ないよりまし程度では不満です。安芸高田署のやり方を学んでほしい。ごまめの歯ぎしり。


17時15分、県原水協事務局長が迎えに来る。安芸生健会事務所に連れて行って頂く。通し行進者の松本さん、矢部さん、浅田さんと一緒に安芸被団協の方たちと学習交流する。3人の話は本当に熱い。被団協の方たちの話は貴重で、とても有り難かった。


1人で、海田市駅から広島駅への電車に乗ったら、米山さんから電話が入る。明日の昼に広島に着き、明後日の11時30分には、平和公園で私を待って居るとのこと。助かります。

松浦宜孝日誌No.39

今日の送迎は宿泊しているかわはら旅館のご主人でした。昨日帰りにも送っていただきながら農作業着に変身し、旅館の倉庫からでてきた人と夜になって同一人物だと気付いたのです。その川原民主商工会副会長に集合時間までの寸暇を利用して「特攻殉国の碑」を案内していただきました。


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▲「特攻殉国の碑」


ここ川棚町は戦争末期、海軍の若者たちが「必中撃沈」の猛訓練をしていた場所でした。万策尽きながら、ベニヤ板製の艇長5.1メートルの小型高速モーターボートの艦首に250キロの爆弾を抱え突撃しようとしていたのです。それが、「震洋艇」でした。


大分県日出町の特攻潜水艇「回天」基地、鹿児島のゼロ戦特攻知覧基地、そして、ここ川棚町の臨時魚雷艇訓練所と魚雷発射場、九州にそろっている、命を軽く見た戦前の軍国主義の爪あとをみると二度と戦争はいやだ、こりごりだと思わずにはいられない。


新谷郷のリック駐車場(魚雷訓練所のころは通用門だった場所)を借りて出発集会が行われ、行進は出発した。今日は日曜日のため各自治体の挨拶やペナント贈与もなく、役所へも寄らないため、午前午後とも国道沿いの淡々とした行進になった。


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11時半に川棚駅に到着した後、30分間世界大会のチラシ配布と募金集めで商店街などを手分けして回ったが、商店街の休みが多く成果は少なかった。午後の大渡商店をお借りしての休憩では冷茶や試食品など大変お世話になりました。

森 悦子日誌No.52

引き継ぎを終えて通し行進者が一人ずつあいさつ。立った瞬間から感動がこみ上げてきました。私は長崎県まで横断幕を届けることができ、うれしく思います。


4月に入って急に右足の付け根が痛くなり、悩みました。骨の変形が始まっている、「痛い時は歩かないこと」と診断され、ここまでストレッチしながら歩いて来ました。一緒に歩いてくださる皆さんがいてくださったから歩けました。ありがとうございました。


整形外科の先生から生まれつきと診断され、ショックです。あと6日間頑張って爆心地まで歩きます。涙が出て止まりませんでした。


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松浦宜孝日誌No.38

有田町東庁舎にはもうひとつ東出張所の看板がかかっている。昨日はなぜかなという疑問は持っていたが、今日トイレを探して庁舎に入ろうとしたら、中は空家状態で別棟だけで業務を行っているようです。今は東庁舎跡、東出張所が正しい表現になります。


P1000453.jpg▲福岡で別ルートに貸し出された宮崎コースの横断幕が帰ってきました


さてここでの出発式、今日の責任団体年金者組合の司会と責任者挨拶に続いて、行進者代表挨拶は今日で最後になる県内通し行進者の元高校校長の秋山さん、今年77歳になり最後になるかもしれないと思いながら通し行進を続けてきた、ともに同じ目的で行動し仲間意識も生まれた4人に支えられてここまでこれたとも言っていただく。挨拶終了時に、前日から森さんが参加者に一言メッセージを書いてもらっていたミニ色紙をプレゼントする。女性ならではの心配りで、先生も大事な記念になりますと。


今日も先頭で、先生の有田陶芸の歴史、地理案内を得ながら歩いて行く。日本には陶芸家で人間国宝級の人は6、7人はいるが、韓国の陶芸家の作品を見たがそのレベルの作品はなかった。一流二流まで日本につれてこられ、三流以下の人しか残されていなかった過去の歴史があり文化の伝承が進まなかったことによるものでは。


九州陶磁文化館は世界陶磁器博覧会の跡を利用しています。


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▲九州陶磁文化館-遠景ドーム型建物


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▲いよいよ長崎県に入りました


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▲長崎との引継ぎ式


引継ぎ式では佐賀県実行委員長の田中さんの行進団へのねぎらいの言葉と核廃絶の佐賀県の熱い思いを長崎へ引き継いでほしいとの挨拶、続いて佐賀県被爆者団体協議会の吉冨会長があいさつしました。

「被爆64周年の夏を迎えました。原水爆禁止国民平和大行進の皆さん、猛暑の中ご苦労様です。眼を閉じれば64年前、原子爆弾が投下され焦土と化した地獄さながらの長崎の町並みが今でも眼底に焼き付いています。


原子爆弾が爆発時に発生した、熱量、爆風、それにガンマー放射線の影響で生き残った被爆者も、ガンや心のストレス障害等幾多の後遺症に苦しんでいる人が沢山います。


しかし、世界の核保有国は、さらに高性能で小型化した核兵器の開発を進めているとも、伝えられています。このような悲惨な人類の破滅になる悪魔の核兵器は一日も早くこの地球上から廃絶しなければなりません。


かねてより、原水協のみなさまと、私たち被団協は連帯して核兵器の廃絶、世界恒久の平和を、次の世代に引き継いで行く運動を続けていますが、さらにその輪を広げ、命の尊さを心に刻んで、この行進で力強く前進させましょう。


平和行進のみなさまの若い情熱に、大きな拍手と敬意を贈り、激励の挨拶といたします。
本日は、長い道のりをご苦労様でした。日本の将来をしっかり見据えてがんばってください」


この後、通し行進者が自己紹介とあいさつをおこない、横断幕・のぼり旗を長崎に引継ぎました。すこし行進の後、車移動と昼食、午後の出発式は早岐駅前で80人の参加で始まりました。


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▲早岐駅前の出発式


佐世保は大都市ではありますが、熱意でこの大多数の参加になったと思われます。


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この後ハウステンボス駅まで隊列は進みました。

栖原秀夫日誌No.59

9時35分、雨の中でしたが、民商の方を責任者に、法務局や国土交通省や厚労省で働く若い仲間9人と安芸高田市甲田支所を勢い良く出発。江の川沿いに更に上って行く。かなりのハイペースである。


10時25分、「お食事処 よねした」に着く。距離は、3.6kmである。


15分間トイレ休憩。10時40分、行進再開。11時30分、予定より10分早く安芸高田市役所に着く。距離は6.8km。参加者全員が健脚であると共に、警察官の体制がとても良いので、行進が止まらずに進んでいるので早いのであろう。


12時45分まで昼食休憩。12時45分に市役所前に行くと、安芸高田市の被団協の方々が15人もいらっしゃり、一緒に出発集会を行う。


通し行進者として私は「核廃絶」と「非核3原則を守ろう」を訴えて歩くと決意を述べ、次いで、被団協の方から被災時の惨状と平和への思いを話して頂きました。


次いで、国家公務員労働組合の方から組合別に、代表が行進への思いを訴えました。


13時5分、「被爆者」の方々に国民平和大行進の横断幕を持って頂き、「被爆者」を先頭に行進は出発。被団協の皆さんの足取りは、ご高齢にも関わらず大変力強く、私はびっくりしました。被団協の方々とは、1km程ご一緒し、握手をして別れました。


F1010111.jpg▲安芸高田市被団協の方々を先頭に平和行進


14時に「え之宮神社」前、「宮の城」信号に着き、15分間休憩する。


15時に八千代の手前の吉田町入江の駐車場の近くで、10分間休憩する。右手の川の向こう遠くにダムが見える。


15時45分、安芸高田市八千代支所に着く。私は、車で、江の川を遡り、分水嶺を越え、太田川に沿って下って行き、広島市安佐北区役所に送って頂く。安佐北原水協の方々と温泉と食事で歓迎して頂く。

竹田昭彦日誌No.29

< 佐賀県から長崎県へ引継 >

佐賀県の有田町、長崎県の佐世保市の行進です。


昨日書いた、同じ団体のリレー・リュックが3個あることについては、リュック3個をヒモで結びました。同じリュックが3個あるのは、2団体です。


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▲ヒモで結んだリュック3個を前に、連絡ノートに記入する参加者


今朝のリュックの様子を見ていると、リュックに入った連絡・記入ノートを探しやすかったようです。3個がバラバラになっていると、その日だけの参加者は、どのリュックにノートがあるのか、探しにくいからです(どのリュックにノートがあるのか、聞かれることもありました)。


松浦宣孝さんが持っていた「宮崎⇒長崎コース」のリレー横断幕は、7月24日に福岡市西区の周船寺駅で、福岡県の網の目コース「202号線コース」に引継いでいました。


その後、25、26日に前原市の行進に使われ、26日の昼に鹿家駅で福岡県から佐賀県へ引継ぎしたそうです。


そして、佐賀県の唐津市、玄海町を行進し、今朝、有田町東庁舎での出発集会に届けられました。


福岡県と佐賀県の間には、もう1つ県境の引継ぎがあることを知りました。


今日の佐賀県から長崎県への引継ぎ式は、長崎県に入った佐世保市の三川内で開かれました。参加者総勢100人が見守るなか、3コースのリレー横断幕と各団体のリレー旗が引き継がれました。


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▲佐賀県から長崎県への引継ぎ式で挨拶する長崎県実行委員会代表


休む間もなく、自分の荷物の積み替え、世話になった方々にお礼を述べ、長崎県の行進がはじまりました。一番気をつかうのは、忘れ物がないかです。自分の荷物の他に、託された折り鶴、歩いてきた県で託されたペナント、貸し出したカセットテープ、などもあるからです。

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▲3コースの「リレー横断幕」を持って行進=長崎県佐世保市


以上、無事に引継ぎ、よかったです。通し行進者のみんなが、長崎県まで来たことに感謝し、「最後のがんばりだ」と、決意を新たにしました。


今日の佐賀県側の行進距離は、参加者30人前後で6.5km歩きました。


佐賀県の行進距離総計は、93kmです。


長崎県側の行進距離は、区間により参加者60~80人で6km歩きました。


沿道募金は、2000円いただきました。

松本英治日記No.87

平和行進88日目。曇天。


夜来の雨も上がり、行進日和。JR仁方駅に9時過ぎ到着、反合の皆さんは雨の中テントをたたんで下山。大変だったようです。駅前で朝食中!昨夜はご馳走様!


姫路から、トムソンの浜崎氏登場、「君の道」の作詞者、本日明日と休みを利用しての応援です、ありがたい!6時に姫路を出たと!


9時40分出発集会、通し行進者挨拶は、浅野さんと、中平君!


10時出発、呉市内を目指し一路西へ、太鼓を叩き、コールでアピールしながら元気に!


沿道に折り鶴の用紙と署名が、募金と署名を持って待ってくださいます。


広島県入りし、他県とは反応が違います。


広支所で昼食休憩、広島県と、地元の実行委の皆さんとお弁当を食べながら、懇談!


中平君が、若者の参加が少なく危惧、世界大会は、多いのだが、行進参加が少なく、中心メンバーが70代、何処もそうです、参加しやすいムード創りも必要か?宣伝不足も?


昼からの出発時、日本山妙法寺の行進団が、拍手で出迎え、エールを送りました。途中向こうの休憩時、拍手のエールをいただきました。


すぐ後を呉に向かって行進、コールや歌で楽しく、中平君積極的に、コールや歌を歌います、私も行進版を歌いました。


呉に入る峠の麓の小学校で休憩、スイカをいただく、甘くておいしかった~!


シュプレヒコールを繰り返し一気に峠を越えて、呉市内へ、市内を元気に行進、市役所に3時過ぎ到着、集結集会、呉のうたごえサークルが練習の途中で応援に、高田龍治さんが指導、がっちり握手!「君の道」の作詞者紹介。高田さん編曲を。4日に広島音楽センターで慰労会が!突田さんもギター抱えて出迎え!ありがたいことです!


宿で風呂に入り、洗濯。5時から地元実行委の歓迎会が、駅前の食堂で、食事とお酒をいただき、交流しました、詳しい自己紹介も、七条さん非核の呉港を求める会の常任世話人の名刺も!


ジョン・ヨン・シン、ソウル大教授も参加され、名刺を交換。3・1韓国独立運動の話を!


今夜は呉の花火大会で、宿でゆっくり見ました。

松浦宜孝日誌No.37

9時15分、武雄市役所を出発。すぐに国道35号線に出る。距離表示が0キロから始まっていることに気付き尋ねると35号線はこの武雄から佐世保に伸びているとか。


直線で緩やかな上りの単調だったのが上りを意識するようになり、さらにカーブを曲がるたびにその先に峠の頂上を期待するようになってくる。


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カーブを曲がったときコンクリートの構造物が・・・・トンネルを期待したが、鉄道佐世保線のガードだった。1.5kmはあったのかやっと頂上に、しかし下りではなく平坦な道路が続いていた。


永尾駅で休憩に、駅の広場にお墓?ではなく、地元の人がお金を出し合って作った駅で、その記念碑だった。


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山内庁舎で昼食休憩、ご好意で畳の部屋と冷茶が用意されている。30分予定より早く着いていたので12時半に出発とは発表されたが、午後参加の人が1時に来るかも、ということで1時間半の休憩に変更され、今日もお昼寝タイム。(なぜ眠いか?夜はアルコールと疲れでバタンキュー、夜中や早朝にこの報告書で四苦八苦)


午後最初の休憩所は「寺の下」とのアナウンス、現地に着くと真言宗大覚寺派●地院(●部分は読み方が解らず、また部首入力の機能無しで変換できないが、上にのぎへん、下に心)の駐車場、日陰を求め境内に行くと階段脇に「奉植七十歳記念」の塔。どうやら古希の祝いに同級生で檜の植樹をしたらしい、村にとけ込んだ寺のようです。出発直後に駐車場の横の建物の表札形看板を見ると「寺の下公民館」固有名詞でした。


有田町との境に泉山にある峠で休憩、地理のわからない我々にとって目的地と同じ名前が出てくるといよいよゴールが近いと嬉しくなるものです。


途中幾度か、有田焼●●窯の看板見てきましたが、今度は本物の町内に入るのです。程なく両側に有田焼のお店が並んできます。陶器市にはこのあたりまで出店が並び80万人の人出になるとか。


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陶器の町らしくいろいろの看板もバス停の案内図も陶器でできています。


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有田町東庁舎に着いての終結集会、予定より早く着いたためか挨拶予定の町幹部は不在、我々だけで始め、終わるころに副町長が到着、別の庁舎に居たようです。このあたりの自治体では合併前の役場を部所単位で利用しているところが多いようです。


武雄のホテルに帰る道中、有田焼の陶石採石場を案内していただく。


P1000422.jpg▲後方と李三平の碑


1616年、鍋島直茂が朝鮮半島から連れてきた陶工集団の長であった李三平によって有田の泉山で白磁鉱が発見され焼成されました。この採石場跡で観光している集団、言葉が違うなと思い聞いてみると韓国から、この集団とは武雄温泉で奇遇の再開、ブサンの大学生でした。なかには福岡に4回来ているとか、九州・韓国は近い。

竹田昭彦日誌No.28

< 有田名物「ごどうふ」を食べる >


武雄市、有田町の行進です。


朝、出発地点の武雄市役所で、宣伝カーに積まれたリュックサックを整理していると、同じ団体のリュックが3個ありました。


「広島⇒長崎」「宮崎⇒長崎」「沖縄⇒長崎」の3コースが合流し、3個になったのです。


各コースが合流する佐賀県の基山町で、各団体の責任者が、まとめられるのが良いと思います。


行進が「長崎⇒広島コース」の年は、北九州市か下関市です。


リレー旗も同じパターンですが、私は1本だけ残し、他はビニール袋に入れて保管しています。リュックは、勝手にまとめる訳にはいきません。


9時10分、行進が出発して間もなくすると、国道34号線から離れ、35号線(武雄~佐世保)に迂回するコースとなりました。1.5kmほど行くと、歩道が無くなり、車道左端の白線と、ガードレールの間を歩きました。その幅、5、60cmです。そして、上りが2km近く続きました。三間坂峠です。大型トラックが車道いっぱいに通るし、今日の「難所」でした。


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▲歩道のない国道35号線「三間坂峠」を越える=武雄市


無事、休憩場所のJR永尾駅に着き、やれやれと思いました。


磁器で有名な有田町の行進は、04年、05年に続き3度目です。有田町には、「ごどうふ」と呼ばれる豆腐の食べ物があり、「ごどうふ」の看板を出した店が目に付きました。


大食漢の私は、どんな豆腐か気になりながら、食べたいが、チャンスがありませんでした。


今回、地元の人のお世話で、食べることができました。ニガリを使わない製法で、葛と澱粉を使います。黒密のたれや、醤油などのたれをかけ、食べます。


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▲有田名物の「ごどうふ」


歯ごたえあり、豆乳の香りあり、上品な食べ物でした。念願かない、満足です。


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▲昼食風景=武雄市山内総合庁舎


今日の行進距離は、区間により参加者15~16人で15km歩きました。


沿道署募金は、2000円いただきました。

栖原秀夫日誌No.58

8時、三次民商事務所前で「うたごえ」の方のギターに合わせて、「青い空は」や「折り鶴」を歌い、出発集会を行う。私は自己紹介をし、核廃絶に大きく踏み出す社会変革に関わりたい思いと核密約の破棄を訴えました。


8時20分、三次民商事務所を出発。沢山の警官が行進団に付き、交通整理をしてくれる。


8時45分、三次市役所で、歓迎集会。地域振興部長が市長メッセージを代読する。核廃絶への世界の流れを把握したもので、とても励まされました。市長からは賛同募金、議長からはペナントと国際署名を頂きました。


8時50分、再出発。9時10分、西三次駅でトイレ休憩。参加者が半分近くに減って再出発。江の川に沿って緩やかに上って行く。民家はまばらで、例年より車の通行量が少なく、とりわけ観光バスが通っていないとの声が聞こえる。


10時10分に三次市営球場の近くで休む。朝から参加している背の高い女性の足がつっている様なので、車に乗ることを勧め、本日の責任者で宣伝カーを運転している須山市議に依頼する。私は、民家が少なくなったので、米山さんからお借りした太鼓を出し、叩きながら行進を始める。


先ほどの女性は、アナウンサーとして元気に活躍。私たちの行進の先に、「非核日本平和行進」の方たちが歩いているのが見えました。


11時45分、志和地駅近くの川地コミュニティセンターに着き、昼食休憩を取る。歩いた距離は、およそ10km。みんなでお弁当を食べ、懇談し、自己紹介をする。「いつも西三次まででした。今日は最後まで行きたい」と先程の女性。隣の部屋では、私たちをガードするお巡りさんが休んでいる。


13時に再出発。背の高い女性は、「休んで治りました。歩きます」と。日差しが強いので、首に巻いたフェイスタオルを頭に被り、両頬と後頭部から首に駆けて陽が当たらない様にして、その上に帽子を被る。


13時42分、上川立駅で休憩。14時35分、警察署の担当が三次署から安芸高田署に変わる地点で、休憩。「今までの通し行進者の中では、とてもお若いですね」と背の高い女性に声を掛けられる。歩くのは慣れたようで、元気そうです。


再出発し、15時10分に集結地の安芸高田市甲田支所に着く。朝からの行進距離は、およそ16.5km。総務企画部長と議長が歓迎してくれる。部長の激励の言葉は、被爆県の自治体としての思い溢れるものでした。議長からは私たちの取り組みを讃え、労うお話がありました。市及び市議会からペナントを頂きました。解散の時、一緒に歩いた人たちから「6日に、会いましょう」と声を掛けられました。

松本英治日記No.86

10時、東広島市役所で出発集会、蔵田市長と杉井議長の挨拶を受け名刺交換!通し行進者紹介は私が「東京を出発し87日目、後5日で平和公園、核廃絶のチャンス、多くの皆さんと対話しながら、オバマ発言の実行を!」と!


10時半出発、市内の繁華街を通り、40分かけてコールでアピールしながら市内1周。


市役所から車移動で上黒瀬ラーメンやまいし(とんこつ食べたい)出発、市内を西へ桜吹雪酒造前まで元気よくアピールし、パーランク叩きながら行進。


1時20分昼食休憩、本日金属反合の昼食は冷やし中華、中平君食事当番で歩かず準備にすっかり一員!トッピング(焼き豚、金糸卵、胡瓜、トマト、レタス、からし)本格派!デザート(梨とプルーン)おいしゅうございました!


近くの門前神社で交流、通し行進者の自己紹介と各参加団体の紹介をし、2時20分出発。


黒瀬支所目指し西へ元気に歌いながら行進、反合の皆さんから始まり、私も行進版を歌いました、合間に宣伝カーからシュプレヒコールで盛り上げ、アピールしながら楽しく歩きました。


支所で休憩後、終着の飯田JRバス駐車場めざし、元気に行進、中国地方特有の赤瓦の家が多く、鯱鉾や波などの瓦飾りが、目を引く!七条君お迎えに!タスキに名前を!金属反合に参加されていた、南部合唱団の森さんは50周年の集いで帰京。タスキに記名、03年通し行進された、藤原千代さんも元うたごえだと、タスキに記名していただきました。


3時過ぎ到着、集結集会を簡単にし、解散!先導、アナウンス、集会の司会と大活躍の谷はるみ議員さんご苦労様でした。


車で宿のビューポート呉へ、シャワーを浴び洗濯をし、金属反合の交流会へご招待、新しい仲間が加わり、食事をしながら、自己紹介。桜吹雪酒造で調達したお酒をよばれる。
枝豆、刺身(たこ、いか、はまち、すずき、よこわ)と豪華、寄せ豆腐も、メインディッシュは若者2人のから揚げ、中平君はから揚げ屋やっていただけあり、手際よく美味しいから揚げをいただきました。


金属反合の皆さんに溶け込み、可愛がっていただいています。矢部さんと僕は親心か、嬉し涙が!成長しています!


美味しく楽しい交流会でした。明日私の歌を作ってくれた、トムソンの浜崎君が応援に来ます!よろしくお願いします!楽しみです!

竹田昭彦日誌No.27

< アイスキャンデーで涼をとる >


江北町、大町町、武雄市の行進です。


行進が、大型自動車の通る国道から別れ、旧長崎街道に入ると、騒音や交通事故の危険性が減るので、ホッとします。そして、家から人が出てきて、手を振られたり、募金をされたりします。これが、平和行進の「原風景」だと、思ったりします。


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▲旧長崎街道で歓迎と募金をいただく=大町町

江北町行進のとき、婦人が車で追いかけてきて、飴3袋をいただきました。受け取った森悦子さんは、ニコニコしていました。彼女は、血糖値を毎日計っていますが、甘い物が好きなのです。


佐賀県内の通し行進をしている方に、秋山哲朗さんがおられます。唐津市在住で高校教諭OBです。26日の佐賀県出発の基山町には、豪雨で参加できませんでした。


27日の鳥栖市から参加しています。半袖か、長袖か、迷ったそうですが、半袖で決行し、真っ赤に日焼けしてしまいました。通し行進者は、総計5人です。


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▲通し行進者の記念撮影(右から)松浦、溝浦、森、秋山の皆さんと竹田


江北町役場訪問のとき、玄関にある「平和宣言の町」と書いた看板が新しくなったと聞きました。それも、看板の右肩に「核廃絶を願う」の文字が加えられてのことです。


町議歴35年の中山初代さん(所属共産党)に聞きますと、平和宣言をした24年前は「核廃絶」を入れることが否決されたが、今年の6月議会で、「核廃絶」を入れた看板に改めるよう、町長に質問通告をしたら、議事前に新しくしたそうです。私は、「オバマ効果」だと思いました。


佐賀市の6月議会でも、共産党市議団が提案した「非核日本宣言」を求める意見書が、全会一致で採択されています。


意見書は、『日本政府が「核兵器廃絶の提唱・促進」と「非核三原則の順守」をあらためて国連総会や国会など内外で宣言し、「非核日本宣言」を行い、各国政府に通知し、核兵器のない世界のために共同の努力を呼びかけるよう求める』、としています。


今日は、10数日ぶりに晴天が広がり、行進日和でした。休憩時に配られたアイスキャンデーを、皆さんが、おかわりして食べました。


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▲アイスキャンデーで涼をとる=JR佐世保線高橋駅構内


今日の行進距離は、参加者25人前後で16km歩きました。


沿道募金は、3000円いただきました。

松浦宜孝日誌No.36

江北町から旧長崎街道沿いに進む。


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▲出発直後


馬頭観音で休憩。


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大町町に差し掛かると行進を待ってくれた沿道の2人から千円ずつ、さらに進むと夫婦で待っていた人から封筒に入った募金が寄せられた。用意して待っていてくれたことに感動した。


大町はかつては杵島炭鉱で栄えていて、週刊誌で日本一の小学校と生徒数5千人の数の多さで紹介され話題になったとか。


大町町役場で冷茶の接待と町長・副町長不在による教育長の歓迎挨拶を受けました。大町町は24年前「平和の町宣言」をおこない、役場玄関に「平和宣言の町・大町町」の看板を立てていましたが、日焼けで色あせていたため、書き換えを中山議員が要求していました。これに応え、町が6月議会開会日に先立ち新たに書き換え「核廃絶を願う平和宣言の町・大町町」の看板になりました。


北方庁舎での昼食休憩では、通常職員の休憩場所(畳の部屋もあり)を開放していただき、1時間10分の余裕の時間もあってゆっくり昼寝ができました。


午後は高橋駅でのアイスクリームつきの休憩で一服、歩を進めていくと先日の大雨で鉄橋の橋脚最上部まで浮遊してきたごみが付いていました。


聞くとこのあたりは鉄道も、道路も浸水で不通になっていたとか。さらに進み、車のボンネットの上に布団を干している家の中を見ると畳を立てかけ乾燥させていました。「大変でしたね」の一言だけで行進は進みました。


武田温泉駅周辺は長崎新幹線の関連工事で線路の高架化、駅の新築、区画整理が進んでいました。


武雄市役所では庁内放送で呼びかけていただいたそうで、約30人に出迎えをうけ、私の行進歴でも最多でした。

栖原秀夫日誌No.57

9時50分、飯南町頓原庁舎前で出発集会。「核廃絶」と「非核3原則を守ろう」、「核密約を廃棄しよう」を訴えて歩きますと私は決意表明。


10時に平和行進は出発。今日は高校生と横断幕を持つ。人通りは少ないが、戸の開いている店や網戸の家に向かって呼び掛ける。


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▲頓原町内を高校生と行進する。渡部県原水協代表委員(右)


10時15分、「由来八幡宮前」まで歩き、頓原町内に30分間、署名・カンパ活動に入る。留守宅は多いが、いらした家の方はみんな署名してくれました。私は7筆集めました。


10時50分、頓原庁舎前から車移動。11時、来島の飯石郡森林組合研修センター前に集まり、行進再開。


11時20分、赤名診療所に着き、車で飯南町役場を訪問。副町長と懇談。労いの言葉と町長と議長の激励金を頂く。私からはオバマ大統領の発言で、自治体の対応も変化していることを伝え、国に対し核廃絶を要請するようお願いしました。


衣掛荘で昼食休憩。14時に赤来町内を行進開始。パトカー2台で、平和行進をガードしてくれるとの事でしたが、1台2人でした。でも、最も危険な個所で私たちを守ってくれました。できれば、交通量の多い1車線の国道は2台のパトカーで守って頂ければ、本当に助かります。


14時30分に赤名町営グラウンドに着く。広島県の方たちが何人か来ている。15時、島根県から広島県への引き継ぎ集会が行われる。15時30分、広島県の宣伝カーで三次に向かう。


16時30分頃、三次民商の事務所に着き、お茶を頂く。車を乗り換え、宿泊先に送って頂く。

松浦宜孝日誌No.35

佐賀市議会は今年6月、全会一致で「非核日本宣言」を求める意見書を採択しています。その意見書を入手しましたので紹介します

     

「非核日本宣言」を求める意見書


 核兵器のない平和な世界を実現するため、いま国内外で大きな努力が求められている。かけがえのない地球を守り、子どもたちにも引き継ぐために、佐賀市議会でも「非核・平和都市佐賀市を宣言する決議」を制定している。


 2000年5月、核保有国5カ国政府は「自国の核兵器の完全廃棄」を「明確な約束」として受け入れたが、それ以後「約束」の実行の道筋はつかぬまま、今なお、世界には膨大な核兵器が維持・配備され、核使用を示唆する発言が繰り返されている。また、新時代の核兵器開発が行われる一方、北朝鮮の核実験に見られるように拡散の危険も払拭されていない。

 しかし、去る4月5日に、米国のオバマ大統領がプラハで行った「核兵器のない世界をめざす」とした演説は、最大の核保有国が歴史上初めて「核兵器のない世界」を国家目標にすると宣言し、かつて核兵器を使用した事のある唯一の国として行動する道義的責任がある、と明確に述べ、世界に向けて「核兵器のない世界」の実現への協力を呼びかけたという点で、画期をなしている。

 こうした状況をさらに進めるために、2010年にせまった核兵器不拡散条約(NPT)の再検討会議に向けて、日本政府は広島・長崎の被爆を体験した国として、核兵器の廃絶の努力を世界に呼びかけ、促進する責務がある。
 また、その努力を実らせるためには、自らもその証として「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則を順守し、世界の模範としなければならない。

 
 私たちは、日本政府が「核兵器廃絶の提唱・促進」と「非核三原則の順守」をあらためて国連総会や国会など内外で宣言し、「非核日本宣言」を行い、各国政府に通知し、核兵器のない世界のため共同の努力を呼びかけるよう求める。
 以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出する。

平成21年6月25日
佐賀市議会
衆議院議長
参議院議長 宛
内閣総理大臣
外務大臣

また、佐賀市は市教育委員会と「佐賀市平和展」を8月6日から9日まで佐賀市立図書館で開催します。


 内容は
・水木しげるの戦争展
・豊田直巳写真展「パレスチナの子供たち」
・豊田直巳スライドトーク イラク・パレスチナ報告会
・映画上映会「はだしのゲン」「レインボー RAINBOW 」
・その他  絵本の読み聞かせ 戦時中の食体験 平和の折鶴 平和の絵手紙 等々
です。


佐賀県庁の出発式では総括本部の池田課長が核廃絶は道半ばであり、転換のときです、皆さんの活動で核兵器が廃絶できるよう祈っています、と挨拶。


通し行進者代表挨拶は竹田さん。彼は昭和15年生まれでお父さんの面影を知らない世代、一番下の弟はお父さんの戦死後に生まれた。このようなことが戦争末期にはたくさんあり、戦争はいやだなと思い生きてきた。戦争もない核兵器もない世界を作るためこの運動を続けている、というものでした。


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▲挨拶中の竹田さん


行進は嘉瀬町高橋の神社、野球場のある森林公園、祇園社の休憩を挟んで小城市役所へ。


小城市役所前では日本山妙法寺の僧侶3人が太鼓をたたきながら出迎えてくれる。


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▲あいさつする僧侶


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▲小城市役所到着後、日本山妙法寺僧侶の挨拶を聞く


また「文明とは」の一文を読み上げていただく。


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▲あいさつで紹介された「文明とは」


休憩中にいきさつを聞くと、松尾市会議員が日本山妙法寺の行事に幾度か参加しており親交があった。今回、5月6日の東京夢の島での出発式に本山の僧侶が出席しており、それを報じた赤旗の記事を示して今日の平和行進で迎えを依頼していたのです。


午後の出発式の通し行進者代表挨拶は私の順番でした。3人の僧侶も立ち会っていたため、第1回平和行進は日本山妙法寺の僧侶だった西本あつしというたった一人の通し行進から始まった、出発式は盛大に行われたが峠に差し掛かるとたった一人になった、竹原で二人に、徐々に増えて最終は述べ100万人の行進になった。国民平和大行進はその流れを汲む物であり、今は全都道府県を通り、基幹11コースに8人の通し行進者が歩いている、等を話した。


午後の行進では二人で最後尾で歩いていただけるという。新しい参加者にわれわれも張り切って歩いた。マイクで「われわれは国民平和大行進です。・・・・日本山妙法寺の僧侶も一緒に歩いています」と訴える声も晴れやかで誇らしげに聞こえた。


途中でわれわれの集団と離れがちになっていることに気付き、歩調をあわせることに、78歳、80歳で太鼓をたたきながらの行進は大変だと思う。


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▲遠景山の中腹に日本山妙法寺の仏舎利塔


仏舎利塔のふもと近くの交差点で3人目の僧侶が車の近くで太鼓をたたきながら、出迎えてくれた。当初なぜ3人で行進しないのか、と思っていたが回答が待っていた。車を移動してきてここからお寺に帰るのだ。


全医労は看護師さんが多く、スピーカーの音に合わせて、ハミング、歌声タンバリンの音にぎやかに行進していて距離を感じさせなかった。

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▲江北町非核平和宣言ー全文を表の道路から見えるよう掲げているのは珍しい

松本英治日記No.84

三原駅10時集合、宿を早く出て、コーヒーブレイク。昨夜一人で近くの居酒屋で蛸刺しで一杯!矢部ちゃん怒る、だってもの食べないんだもん!


三原城址の見学も、新幹線の裏に石垣だけで、建物は無し!浮城の面影無し!


出発集会前に、広島合唱団の突田さんのギターで歌う会、引継ぎの時も、ありがたい!
通し行進者の紹介と挨拶は矢部さん「84日かけてここまで来ました、平和公園まで元気に歩きましょう」と!


家族連れの参加者が。子供さんに横断幕持ってもらう、昨日から、東京~広島と四国~広島の横断幕掲げる、JMIUの横断幕も!賑やかに!


三原の繁華街を元気にアピールしながら行進、太鼓叩きながら賑やかに!


三原市役所で、議会中で市長のメッセージ代読、名刺を渡し、市長さんによろしくと、お礼を!


市内を元気に竹原に向かって行進、JMIUの金属反合の仲間からうたごえが、続いて中平君が「折鶴」と「ミッキーマーチ」を歌う、私も負けじと、行進版「森熊、平和の歌、さんぽ」を歌い、本日の終着、和田町沼田大橋南に到着。集会をし、三原の皆さんとお別れ、1時間余りの行進でした。


車移動で竹原市へ、途中那須のフェリー埠頭で昼食、金属反合の皆さんと、オープンサンドとコーヒーをご馳走に!


瀬戸田行きの乗り場で西日光耕三寺と日本画家平山郁夫画伯の故郷で美術館も、蛸飯が有名です。家族と職場の旅行で2度行きました。


竹原市役所で3人の地元の方の出迎え受け、行進横断幕の引継ぎ式!本日はこれまで、明日ここから出発します。


宿に2時頃入り、シャワーと洗濯、雨の予報がはずれ、行進日和でした。


金属反合の皆さんから夕食のお誘い、片道1時間のキャンプ場で交流会、キャンプ生活しながら、JMIUの行進旗を繋ぎます、14年目です。


鰹のたたきとチゲ鍋、そして、蛸飯、ビールで乾杯し、球磨焼酎、お酒と豊富に、差し入れに竹原の地酒2本持って行き、1本空に!


若者2人もお世話に、すっかり溶け込んでいました。


食事をしながら、詳しい自己紹介をし、深い交流でした、気心の知れた仲間と飲む酒の美味いこと!


9月11日(金)の金属反合は我社トムソンがメインです、歌と太鼓を持って行きます。よろしくお願いします。派遣切りに抗して裁判闘争に立ち上がった後輩たち、頑張れ!正社員を勝ち取ろう!


姫路工場の未来が掛かった闘いです。応援よろしくお願いいたします。

竹田昭彦日誌No.26

< タンバリン鳴らし 賑やかに行進 >


佐賀市、小城市、江北町の行進です。


今日の行進責任団体は、全医労(全日本国立医療労働組合)です。佐賀県下に4つの病院があり、看護師さんを中心に組織しています。


行進は、看護師さんたちが持参したタンバリンを鳴らしながら進む、賑やかさでした。


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▲行進で鳴らしたタンバリン


また、アナウンサーが歌を歌い、隊列者に歌の指揮もします。


県庁での出発式と、江北町役場での終了式では、「原爆許すまじ」を合唱しました。


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▲佐賀県庁を出発する平和行進


タンバリンを鳴らしての行進は、2005年からだそうです。ヒントになったのは、その年の5月、ニューヨークの国連本部で開かれたNPT(核兵器不拡散条約)再検討会議に向けた、5月1日に、マンハッタンでの「国連要請国際平和行進」参加と言われます。そこでは、各国のパフォーマンスが、鳴り物入りの踊りなどで披露され、沿道の人たちに好評でした。平和行進の国際交流も、よいものです。


毎日の昼食・休憩は、公民館などの公共施設を借りています。今日は、小城市の市議会の議場でした。行進参加者各人が、議員さんの番号を表示した机で食べました。


議場での昼食・休憩は、全国の行進でも珍しいと思います。


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▲昼休み風景=小城市議会議場


午後の行進には、日本山妙法寺の小城市にある仏舎利塔の僧侶の方が、団扇太鼓で参加しました。


ドン ドン と、団扇太鼓の音が「戦争をきらい、人間相互に敬う」世界平和の願いとなって、響き渡りました。高齢の方にもかかわらず、小城市牛津庁舎から仏舎利塔がある近くまで、2㎞ほど歩かれました。


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▲日本山妙法寺の僧侶の方が団扇太鼓で行進=小城市牛津


今日の行進距離は、参加者40人前後で15.5km歩きました。

森 悦子日誌No.51

佐賀県庁から行進。今日は、全医労の担当。圧倒的に女性が多い。みんな手ごろなタンバリンを持ち、いっせいにたたいて、歩き、手をふり、「へいわこうしーんでーす」と声がひびきます。私は顔負けの気持ちでした。


佐賀県庁、課長より、64年目の長崎被爆です。平和行進をお迎えできることは喜びです。みなさんの核兵器のない世界をめざして行動されていることに敬意を表します。核兵器をもつアメリカや開発をしようとする北朝鮮など、廃絶への道のりは長いですが、全国民の悲願です。私たちも同じ思いです。平和行進の成功を祈っています。


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▲佐賀県庁での出発集会


通し行進者の竹田さんは、父を戦争で亡くし、戦争はいやだと大きくなりました。原爆をなくせの私たちの平和行進がオバマへ伝わった。世界から核兵器廃絶の見通しが明るくなった。と、あいさつ。


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▲日本妙法寺の尼僧さま。行進で初めて出会いです。


私の母を思い出します。尼僧さまのように、腰がまがり、小さな人でした。おじいちゃんが火葬場の仕事をしていました。母は、一人っ子で父は、養子でした。


私は、おんぼやきの6女でした。我が家にはいつも現金がなく、質屋さんにも行く、学級費がもっていけない貧乏でした。父や母にひどい言葉を浴びせました。


父は、轢き逃げされ、母は、養護老人ホームで呆けて、娘の私も識別できず亡くなりました。尼僧さまの姿を見て、昔の自分を詫びたい、できるならばと思います。平和行進に参加した動機は、ここにあると思います。


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▲お弁当です。とくにお赤飯がおいしかった。




F1000141.jpg▲森林公園の入口にある「俊寛の碑」です。引き取り手がなかった俊寛の死を悼み、建てられました。歴史を知らない私は、学習せねばと思います。


今日は、よく歩けました。このTシャツは、佐賀医療生協の人々。いいなと思い、声をかけました。


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15時45分 江北町役場に到着しました。副町長からあいさつ。行進たいへんご苦労さまです。この間、世界の恒久平和を願ってきましたが、今なお原子爆弾の新たな開発をしょうとする国もあります。わが国は、唯一の被爆国、平和で明るい世界をめざす責任があります。地道な活動が力となります。


今日の参加者は58人、歩行距離は、17.5kmです。セミの声、飛びかう赤とんぼに気づかいながら歩きました。

栖原秀夫日誌No.56

9時15分、多根公民館に着く。白築公民館長、落部清子さん、石飛さん、清子さんの大正琴の仲間の落部さんが迎えてくれる。清子さんから沢山の千羽鶴を託される。


F1010107.jpg▲国民平和大行進の富山ー広島コースの行進団を代表して落部さんから折り鶴を託される


毎年、清子さんが通し行進者に託されるので、最近はこちらから連絡してお寄りしているとのことです。清子さんが最初に折り鶴を託したのは、横浜在住の通し行進の大先輩、竹田さんです。その時は、清子さんは平和行進の話を聞き、願いを込めて折った折り鶴を渡したいと、大正琴の仲間の落部さんに相談したら、落部さんの車に乗せて貰い、行進のコースで待って渡したそうです。それ以来毎年続けています。


雪に閉ざされた冬から春に掛けて折り鶴を折っているそうです。公民館で折り鶴を預かるようになり、石飛さんの手料理を頂くようになりました。


少し歓談し、「道の駅 掛合の里 駅鈴」に向かう。雨の中を元気に出発。今日は医療生協の人が多い。


今日も車の多い1車線の道路では、パトカーが行進の前後に付き、さらに前方対向車線に警官が歩いて交通整理してくれました。平和行進が安全に進められ、本当に感謝します。


竹下登元首相の家の前も通る。日倉橋の手前で終了し、出発地点に戻り昼食に。食べてる間に雨あがる。


12時40分、車移動を開始。13時に吉田郵便局に着く。13時30分に行進開始。吉田大橋交差点の先まで行き、45分間周辺に署名・カンパ活動に入る。広場で遊ぶ小学生に署名して貰う。どの家でも説明をきちんと聞いて、署名をしてくれる。私たちは13筆集める。


署名活動を終えて、集合場所に行ったら強い雨が降り出しました。ラッキー。

竹田昭彦日誌No.25

< 長崎街道を行く>


吉野ヶ里町、神埼市、佐賀市の行進です。


福岡県の門司から、国道3号線沿いに歩いてきた行進コースは、昨日、鳥栖市で3号線から別れ、国道34号線(起点鳥栖市)に変わりました。


昨日歩いた34号線は、九州自動車道が土砂崩れで交通止めになったことから、迂回する大型トラックがどんどん通り、たいへん危険でした。


佐賀県の行進には、お巡りさんが付かないので、安全をとって歩道を歩きました。


今日の34号線は、迂回路から外れたので、車道を歩きました。


34号線の終点は長崎市です。長崎街道とも呼ばれ、34号線に入り組んで旧長崎街道の一部が所々に残っています。


午前に歩いた神埼市の神崎宿あたりは、旧街道の標識と名所旧跡の案内が、至る所にありました。立ち止まって見ることはできないので、なるほど、なるほどと、眺めながら歩きました。


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▲蓮の花を見ながら国道34号線を行進=神埼市姉川


佐賀県の行進は、行進責任者が日替わりで、県単位で構成した団体があたります。今日は、新日本婦人の会佐賀県本部でした。宣伝カーと救護車の運転手も、婦人でした。平和行進の隊列の最後につく救護車には、後部に「私たちは、国民平和大行進です。お先にどうぞ」と、矢印を書いた紙が貼ってありました。後方から追いついて来た車両には、何をしている車かが分かり、よい方法だと思いました。


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▲救護車の後ろに貼り付けた「お先にどうぞ」


午後の後半、佐賀市の市街地に入ると、陽射しが強くなったことと、混み出した対向車のスピードが遅くなったことから、行進団が「平和行進でーす」と手を振ると、多くの車窓から手が振られました。


ここ数日、雨天続きで、車窓や沿道の人から手が振られるのが少なかったので、嬉しかったです。平和行進は、人と人との繋がりです。


今日の行進距離は、区間により参加者25~35人で16.5km歩きました。


神埼市役所訪問では、お願いしてあった「核兵器のない世界を」の署名、74筆をいただきました。


沿道署名は募金は、3150円をいただきました。


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▲佐賀市役所での歓迎式で挨拶する副市長(右)

栖原秀夫日誌No.55

9時30分に雲南警察署の向かい側の旧木次消防署前で出発集会を行いました。私からは「広島まで核廃絶と核密約廃棄を訴えて歩きたい」と決意を表明しました。


雲南市議と横断幕を持って元気に行進。市議からは、「(そんな大声で)喉を痛めませんか?」と尋ねられました。「喉に力を入れてはいません」と応えました。


木次土手を行進する時、パトカーが前後に付き、前方の対向車線を警官が歩いて交通整理をしてくれたので、安全に行進できました。感謝です。


木次駅に着き、新町と三日市の商店街に30分間署名・カンパ活動に入る。私は市議と行動する。署名は5筆。


雲南市役所に向け再出発。11時5分に雲南市役所に着き、副市長や議会事務局長と歓談し、激励、市からの激励金と市長と議長からのペナントを頂きました。


13時30分に雲南市役所から再出発。簸上橋に着き、そこから三刀屋町三刀屋ダンク前に車で移動し、30分間三刀屋町内に署名・カンパ活動に入りました。私は又、市議と組みました。幾つか署名して貰い、自民党の竹下さんの後援会事務所に入り、冷たい烏龍茶をご馳走になり、事務所にいた3人の方から署名を頂きました。皆さん、「核兵器廃絶は、日本国民、みんなのねがいだ」と言ってました。


三刀屋ダンク前に戻り、三刀屋町内を行進する。三刀屋中学校前まで歩き終結する。三刀屋を歩いた時は必ず行くという「永井隆記念館」に、連れて行って頂きました。永井さんの手紙などを読み、永井さんの書いた著書を沢山読みたいと思いました。


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▲行進後に私と永井隆記念館を訪ねた人たちと

松本英治日記No.83

平和行進84日目。曇り。


栄屋旅館に荷物を置き(車で運搬)、徒歩で市役所へ、9時45分集合ですが、映画博物館を見たくて9時に出る、残念ながら、10時開館でした。


博物館で仏像展も10時から!宣伝カーからリレー旗やナップサックを出し準備を。


10時出発集会、市長挨拶代読をうけ、昨日ご馳走になった、住田会長の挨拶を受け、通し行進者の紹介と挨拶は中平君「岐阜から軽い気持ちで飛び込みで参加、皆さんにお世話になり、京都で被爆者から手を握られ頼むぞと、64年の思いが乗り移り、広島、長崎まで僕が行くべきだと感じました。被爆者の体験を直に聞ける最後の世代だと」と!いい挨拶に感動!


住田会長はパン屋さんで、お八つに昨日はアンパンと蒸しパン、今日はラスクとクッキーをいただく。


10時20分、元気に尾道市内の繁華街を行進、以前家族で、生蛸を食べに。今年無くなった義父も元気でした。


レトロな町並みで、画廊も多くゆっくり来たい街でした、駅前再開発で一新されていました。元気にコールでアピールしながらの行進です。


広島県に入り沿道の声援が、病院の窓からや人家の声援も!


新浜フェリー埠頭に11時半着、少し早い昼食休憩、反合の皆さんが冷やしソーメンを、おなか一杯いただく、デザートにメロンも!埠頭で昼寝も、曇りで潮風が心地よく寝れました!


旧山陽道から国道2号線へ、海沿いの交通量の多い道を一列で行進。しまなみ海道の橋を眺めながら、糸崎神社で休憩、古い由緒のある神社で神宮皇后が立ち寄られたと!クスの大木も。


尾道から三原への引継ぎ式が、三原市内の旧山陽道を元気に歌いながら、中平君の、ミッキーマーチを皮切りに、私も行進版を(森熊、大きな歌・平和の歌付、さんぽ両方、ねがい)を歌いました。


休憩の建工労の事務所前で冷たいお茶とミニトマト、そして、冷たいコーヒーありがとうございました。元気を貰い、三原駅目指し西へ、三菱重工三原製作所の門前で守衛さんがマイクで激励!


三原城址を見ながら旧山陽道を行進、新幹線と在来線が高架で並行、三原駅で集結集会、8月のやっさ踊りの幟が多数!


三原はだるまの町でいたるところにだるまが!衆議員選予定候補の花岡多美世さんが教えてくれました。三原城は浮城で昔は海岸が迫っていたと、今の繁華街は埋立地だそうです。


宿の山根旅館横に三原城の潮見櫓後の石垣が!

森 悦子日誌No.50

7月27日の参加者は、午前中21人、午後16人です。行進距離は、17km。私は6.7km、3分の1。情けないと思います。


今日は、初めて痛み止めの坐薬を使い、車に乗らず歩き通しました。


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▲旧道 長崎街道あるく。


今日の責任団体は、新婦人の会。司会から宣伝カーの運転、通し行進者のお弁当の世話まで分担してこなしたみなさんに脱帽です。


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▲神崎市役所を10時30分訪問後、長崎街道神崎西木戸口で休憩のとき。


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▲お昼のお弁当


木戸口の休憩地に茶店があり、かき氷が食べたかった。


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▲3号線を歩きます。ちょっとしたひまわりを見つけました。


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▲休憩で出たスイカ

16:02、佐賀市役所に到着しました。今日の参加者は、10団体50人、私の歩行距離は、17kmです。


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▲佐賀市役所に到着


佐賀市役所副市長さんからあいさつ、通し行進者から溝口さんが代表して感謝の言葉を述べました。


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▲日本年金者組合のぼり旗と。今日一日中青年がもってくれました。

松浦宜孝日誌No.34

佐賀県の平和行進運営は日毎の責任団体で通し行進者送迎に始まり、総指揮者、アナウンスカーの運転、うぐいす嬢、随行車まで責任を持っているようで、今日はすべて新婦人、と言うことでお迎えも新婦人佐賀県本部田中会長でした。


車中の雑談で、江戸時代の治水に功績のあった人物から来た地名のいわれなどに話がおよび、神埼(かんざき)市の「埼」は珍しい読み方ですねというと、松本清張の『点と線』だったと思うがこの「埼」という字だけわかっていていろいろ知らべた結果、ここの神埼に行き付いた、という風に小説でとりあげられている。また森さんは鹿児島の川内(せんだい)という字がどう呼ぶのかわからず困ったという。


等々の後、目達原駐屯地のフェンスにある壁画のことが話題になった頃、基地正面入り口を通り、行き過ぎたことに気づいた。


せっかくだから迂回でも壁画を見ようということで塀づたいに走るが基地は広く、なかなか壁画のところまでたどり着かない。やっと見つかった時、初めて見る二人はこれはすごいと感嘆。ここからなら私も三田川庁舎への道順はわかり、道案内して到着した。


出発集会はふるかわさんの司会で始まり、通し行進者の代表挨拶は県内通しの秋山さんがすることに、初日が列車不通で基山町には行けず、今日3日目だが1日で腕が日焼けしてひりひりする。平和に係わった人が亡くなった、慰霊の旅ということで歩いている。


田手神社休憩後、今日最年少の4歳の葵ちゃんに先頭での横断幕所持を頼む、私の平和行進最年少新記録になる。しばらくの間お父さんと一緒に持ってくれた。


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▲4歳の葵ちゃんに横断幕を持ってもらう


私は自由が出来たので、長崎街道でただひとつ残っている一里塚などの写真をとりながらすすむ。


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神埼市役所では3階ホールをクーラーで冷やし、冷茶を用意していただいた。歓迎集会では市長メッセージ(総務部長代読)とペナントを頂く。次の休憩は西木戸口跡でした。


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▲西木戸口跡


姉川公民館の昼食休憩では新婦人の冷えたスイカが待っていた。疲労した体が冷たいだけでなく少し甘みを欲しているのか、非常においしい、たくさん用意されていたのでどんどんいただく。弁当も豪華。


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▲豪華な弁当


午後は国道利用が続き、直線道路で風景が単調になっている。この単調さは疲れやすいという。私は100メートルごとの距離表示利用で時速の計算、カウントダウンで気をまぎわらせている。


推定樹齢630年の楠の木のある老松天満宮、城東中学校での休憩を挟み、佐賀市の中心部に進む。アーケードのある商店街の「シャッター商店街」はよく見る風景になってきているが、車道歩道が分離されている広い道路に面した閉店店舗の連続は異様だ。

 
佐賀市役所では山下議員が携帯での到着予定時間、人数の小まめな連絡で多くの職員とペットボトルの冷茶が待っていて多くの拍手で迎えられた。

松浦宜孝日誌No.33

ホテルから鳥栖市役所に到着後、市役所に昨日預かってもらっていたのぼり旗を階段下から取り出し、表で並べる。


アナウンスカーの大きさにもよるのだろうが、昨年北海道⇒東京コースを歩いた森さんも市役所で預かってもらえたことはなかったとか。各自治体と地元原水協との関係の歴史的積み重ねだと思う。


行進は国道34号線と時々江戸時代からの歴史的街道を進んでいくが、高速道路のがけ崩れによる一部通行止めの影響で34号線は大型車を含め通行量が非常に多かった。当初は車道を2列縦隊で行く予定でしたが、危険なため通行量が少なくなるところまで歩道を歩くことになった。


竹田さんが行進に参加していた小学校1年生の女の子のおじいさん、おばあさんと話していると、この子のお姉さんと数年前沖縄からのコースを歩いたとき一緒に歩いていたことがわかった。歴史です。


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▲小学校1年生の女の子と竹田さん


2回目の休憩場所は旧街道沿いにあった「村田町五反三歩分館」という珍しい名の公民館だった、五反三歩が地名のようです。


三養基郡みやき町中原庁舎に到着、昼食休憩後に出発集会、末安町長の挨拶とペナントを横断幕へ取り付けて頂く。出発までの雑談で、ここの庁舎の特徴的形態に話が、ヨーロッパを旅したとき中世のお城の跡を役所にしているところが多かった。そこで300年はもつように石造りで中央には塔も、インスピレーションが配置はコの字型にして図面を書き、工事に入ったところ、偶然昔の役場跡で配置もコの字型、大きさもほぼ同じだった。歴史的偶然です。


行進は県重要無形文化財「米多浮立」(役所にある壁画)で有名な上峰町役所を経て対戦車砲を持つ、訓練飛行で飛び交うヘリコブターの下、自衛隊目達原駐屯地の横を通りながら進む。


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▲役所にある壁画


基地の塀には小学生、中学生が卒業記念に描いたのか「平成11年」からのものがずらりと並んでいる。自衛隊の基地融和策がうかがえる。


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▲小学生、中学生の絵がずらり


この基地は太平洋戦争時の飛行場滑走路の一部を利用していて昔の正門跡は少し離れているところにあった。


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吉野ヶ里役場三田川庁舎で終結集会が開かれ、平野副町長があいさつ、ここでも山間で避難したところもあったような激しい雨でも平和行進を続けてこられたことに敬意を表します。


通し行進者代表で森さんが足の具合いが悪く行進の最後を歩くことが多かったが、そこではスピーカーの声で道まで出て来た人々と10人は握手した。中には毎年平和行進が通るのを楽しみにしていると話す人、スピーカーの音を頼りに探し当て50年ほど前、3年間役員をしていて歩いたことがあると3千円のカンパを持ってきてくれたことなどが報告されました。


宿に向かう途中で吉野ヶ里遺跡を車窓より案内していただき、高教組会館に立ち寄りました。ロビーには4枚一組で平和と集団をテーマに教師集団で論議し造られた壁画があります。

竹田昭彦日誌No.24

< 自衛隊基地の塀に小中学生の卒業記念絵 >


鳥栖市、みやき町、上峰町、吉野ヶ里町の行進です。


昨日は、連日の豪雨と疲労で、集中力が切れ、忘れ物をしました。携帯電話、デジカメ、メモ帳、サイフなどを入れたウエストバックです。無いことに気がついたのは、宿の部屋に入ってからです。


豪雨で持ち物が濡れることから、ポケットに分散していたのを、一括でビニール袋で包み、ウエストバックに入れていたのです。貴重品紛失のダメージが多く、頭が真っ白になりました。


時間をかけて記憶をたどると、忘れたのは行進終了後から宿に着く間です。車に置き忘れた可能性が高く、地元の役員と連絡を取って2時間後、宣伝カーにあったことが分かりました。届くのは明日なので、休養だと言い聞かせ、8時前に寝ました。


鳥栖市の行進では、2005年に「沖縄⇒長崎コース」を歩いたとき、ご一緒した中島夫妻とお孫さんに会いました。前回のお孫さんは、小1年生の男の子でしたが、今回は小1年の女の子でした。同居しているお孫さんは、4人(小6、小4、小1、3歳)だそうです。行進へ順番に連れてきて、平和をつなぐファミリーです。


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▲右から中島夫妻と孫のえみちゃん


しばらくぶりに晴れたので、田園地帯の日陰の歩道に腰をおろし、休憩しました。のどかな行進風景です。リレーノートに記入する人たちも、ゆったりとペンを進めていました。
自衛隊の目達原駐屯地(吉野ヶ里町)に沿った道路を通ると、塀に小・中学生の絵が、数100mも続いて画いてありました。ビックリするやら、身震いしました。なぜ、こんなことが。


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▲自衛隊の目達原駐屯地の塀に画かれた小・中学生の絵=吉野ヶ里町


小・中学生の卒業記念に画いた絵で、10年前からはじまっています。軍国教育をする自衛隊の1人勝ちです。「教え子を再び戦場におくるな」の精神は、どこにいったのでしょうか。


今日の行進距離は、区間により参加者20~25人で14.5km歩きました。


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▲リレーノートに感想文を書く全法務労組の行進者

森 悦子日誌No.49

佐賀県へ引き継ぎ。ずーっと夜は一人ぼっちだったが、今日から竹田昭彦さん、松浦宣孝さんと一緒。嬉しいです。


昨日のことですが、午後は行進を止めるということにならなかった。次の弥生が丘まで歩いていこう、そして相談しようと決まり、歩きました。


びしょ濡れのまま、空が明るくなったり、ザァーッと降ったり、コロコロ変わってなんとかなった。私は、疲れたのと足も痛く車に乗せてもらいました。


16時鳥栖市役所に到着。お茶の接待、市長あいさつ、ペナント記入などありました。驚いたことに明日使うのぼり旗を役場で置かせてくれました。初めてで驚きました。


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▲鳥栖市役所

森 悦子日誌No.49

佐賀県へ引き継ぎ。ずーっと夜は一人ぼっちだったが、今日から竹田昭彦さん、松浦宣孝さんと一緒。嬉しいです。


昨日のことですが、午後は行進を止めるということにならなかった。次の弥生が丘まで歩いていこう、そして相談しようと決まり、歩きました。


びしょ濡れのまま、空が明るくなったり、ザァーッと降ったり、コロコロ変わってなんとかなった。私は、疲れたのと足も痛く車に乗せてもらいました。


16時鳥栖市役所に到着。お茶の接待、市長あいさつ、ペナント記入などありました。驚いたことに明日使うのぼり旗を役場で置かせてくれました。初めてで驚きました。


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▲鳥栖市役所


佐賀県内自治体は必ずお茶接待!!最後の訪問。吉野ヶ里役場三田川庁舎ではこのように接待をいただき、ほっとします。ありがとう。


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栖原秀夫日誌No.54

9時に雲南市加茂総合センターに着く。朝からの雨が小やみになる。


9時20分、センターを訪問し、職員に挨拶。9時30分に出発集会。私は「ゴールが近くなり、広島をめざして、核廃絶と核密約廃棄を訴えて歩く決意を述べました。


9時40分に行進開始。加茂中町内を元気に行進。町外れの河原の土手まで行き、署名・カンパ活動に入りました。私は県教組OBの方と組む。大きな家が多く、竹内さんの家では話が弾み、川の氾濫に因る大災害に遭われたこと、亡くなられた旦那様は竹下登元首相と義兄弟で長いこと加茂町長をされていて町を再建したことなどをお聞きしました。「原爆反対なのよね」と、私たちに確認し、気持ち良く署名をしてくれました。とても素敵な奥様でした。名士の署名を頂いたので、これからと思いましたが、時間がきてしまいました。署名7筆。


車で大東町柿坂のバス停前に移動する。新しい参加者あり、少年2人に私と一緒に横断幕を持って貰い行進する。雲南市大東総合センターで、雲南市の歓迎を受ける。その後、私は先程の元教員の方と署名に入る。先生は先程の教訓を生かし、知人の店から署名に入る。知り合いのためカンパも頂けました。するとその後もカンパを含めスムーズに頂けました。署名5筆、カンパ1500円。しかし、時間が来てしまい終結地点に急ぎました。


昼食をレストランで参加者と食べる。車で奥出雲町仁多庁舎に。13時30分に町役場としての歓迎の挨拶を頂く。町内を行進する。ぐるりと町内を周り、署名に元町議と入る。時間が少ないが、元町議知り合いの家に当たり3筆集める。再び車で移動。14時30分に奥出雲町横田庁舎で町役場からの歓迎を受ける。横田町内を行進する。


行進終了後30分間、先の中学校の先生だった方と署名に入る。元教師は今までの教訓を生かし、知人の店を訪ね3人の署名を頂き、その後にその近所に入り、在宅の家からは効率的に書いて頂きました。


署名行動終了後、映画「砂の器」で有名になった亀嵩駅に連れて行って頂き、美味しいお蕎麦をご馳走になりました。

松本英治日記No.82

平和行進83日目。快晴。


福山駅前で、福山城横のキャッスルイン福山に宿泊、福山城と市内は、姫路文連のツアーで見学済み。


8時半市役所集合、歩いて行く、9時出発集会で市長の挨拶代読、通し行進者紹介と挨拶は中平君。素直で心のこもったいい挨拶をするようになりました。拍手!


久しぶりに、太陽が暑くなりそうです、宣伝カーにばち発見、二度目です、引継ぎは、バタバタして、荷物移動など、大変です。


福山市内を元気にアピールし太鼓を響かせ行進、月曜ですが、夏休みで、子供連れも。矢部さんちゃっかり若い女性を横断幕の真ん中に、2人の若者は、子供とペアでカンパ隊に。がんばりました。飽きたら、パーランクに興味、叩かせてあげました。


広島県に入り金属反合(反合理化闘争委員会、トムソンが何度もお世話に、9月はメインに太鼓持って行きます)が宣伝カーで、キャンプをしながら、JMIUのリレー旗を繋ぎます、ベテランの闘争の猛者たちで、賑やかに、歌うし、シュプレヒコールも!元気元気!


反合歌集(43曲入りの本格版、93・05年通し行進者の奈木野佳代さん協力)まで!さすが!コールの文案も!ミッキーマウスマーチの行進版の歌詞もありがたい!いただきました、各地で行進用独自歌集が!


丘の上の済美中学校で昼食休憩、部活の中学生多数、校庭で昼食、金属反合におよばれし、うなぎのまぶし丼と味噌汁漬物、めっちゃ美味かった。さすが、14年間キャンプでリレー旗繋いだ仲間、飯も美味い!体が塩分を!味噌汁が染み込む!さすが経験者、労働者の知恵と連帯の力を実感!ここで若者2人もお世話になっています。人生のベテランたちの中でもまれ、また成長するでしょう。


練習終わった中学生がオバママスクを被り写真に、矢部ちゃん写真送ると、住所をメモ!子供たちに大人気です!


旧山陽道の細い道を一路西へ、常夜灯や一本松の後など、写真に!人家が途切れ、国道2号線に、すかさず、歌が金属反合の仲間から、私にもマイクが、行進版特集で盛り上げ歌いました。


中平君ミッキーマーチ行進版に挑戦、なかなかの物、岡山の福田君のを聞き覚え。


16時、高諸神社から車移動で尾道へ、マイクロバスの中で大歌う会、地底の歌が、私は睡魔が!


浄土寺下から市内をゆっくり行進、軒並みカンパ隊が、市役所まで30分かけて、アピ-ルしながら歩く。尾道映画博物館も!


集結集会で鶴田君挨拶、素敵ないい挨拶でした。成長清聴!


宿で風呂に入り、漁師料理の店へ、全印総連の長谷川さんと地元市議で原水協会長のご接待、美味しゅうございました。

栖原秀夫日誌No.53

10時に一畑電鉄雲州平田駅前で出発集会を開催。国土交通労連の仲間を中心に、医労連の仲間と、およそ15人が集まりました。そして出雲市平田支所に向けて、元気に行進。沿道のお店から家族で出て来て手を振ってくれるなど、嬉しい反応が幾つも有りました。


支所に着き、署名・カンパ活動に入りました。最初に入った家で、隣近所がしてないからと断られ、周りを回って署名を集めて再訪問しました。「もう来たのかい。早いね」「この人は、この近所に住んでる人じゃない。店に来ているバイトだ。この人は、あの家に来ている人だ。みんな隣近所の人じゃない。上手いね。まあ書くよ」。私としては、とても苦戦しました。30分間で4人でした。


終了後、県事務局長に古代出雲歴史博物館へ連れて行って頂きました。そして、昼は名物の割子そばを頂きました。


午後からは、原水協代表の西尾さんの家に連れて行って頂き、県原水協代表の渡部さんから原水協運動の歴史について、西尾さんからは広島の被爆の惨状などを教わりました。勉強しなくてはならないことを幾つか確認しました。

森 悦子日誌No.48

停滞している大雨前線は、九州北部に史上初という大雨を引き起こしました。


ホテルに7時半お迎え。どしゃぶりの中で出発式。実行委員長は「雨にも風にも負けず行進します。このたび2009年世界大会は、核兵器廃絶運動、史上初めてオバマさんの発言、行動を受けて大変盛り上がっています。長崎の女子高生が署名行動を取り組んでいる中に、久留米市にもいると聞いている。みなさんのお志が実現するように祈っています」。


参加団体のひとことメッセージをお願いしました。9団体29人。行進スタートしたらすでに雨が降っています。どんどん降って大粒になり、カッパを着ていようがお構いなく降ります。


9時50分、西鉄小郡駅前到着。電車が止まっているとか?簡単なあいさつのあと、行進、もっと、もっとひどくなって先が白くなって見えません。足元は、川となって流れています。休憩で必ずトイレに、と心がけていますが、体が冷え切ってもうがまんができません。車でコンビニ探し。冠水が始まっています。


佐賀県に入った所からマイクロバスに分乗して、基山町役場までいく。とにかく全身びしょ濡れで、だんだん冷え切って寒気がしてきました。


ノートもびしょ濡れ、記録はできず。災害本部が設置され、忙しいのに町長は福岡県から佐賀県の引き継ぎ式に参加して、あいさつ、署名、ペナントをいただきました。雨の中、歩いてくださった仲間のみなさん、ありがとう。

松浦宜孝日誌No.32

今日も雨の中での筑紫野市役所からの9時前出発です。靴が2足とも濡れていて、よりましなゴルフシューズを履いていましたが、5分もたたないうちにソックスが湿ってきて、10分後には水深7~8センチの水たまりに上から入りました。


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▲あちこちで排水溝からの逆流


豪雨の中を天気予報で言っていた時間雨量80ミリはこれぐらいの雨なのかと道路に落ちた雨粒で出来る「王冠」の大きさと量の変化を話しながら一気に旧3号線をエフコープ筑紫野支所まで歩きました。


ここで接待とトイレ休憩の後歓迎集会をおこない、エフコープのあいさつでは、「伝えてください明日へ・・・・」という聞き書きによる被爆体験証言集を毎年発行していて、店舗等でほしい人に配布しています。


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▲エフコープ筑紫野支所での接待


また、職員中心に平和市長会議が呼びかけ人となり国際連合に提出する要請書と、エフコープが呼びかけ人となり福岡県下の各市町村に「ヒロシマナガサキ議定書」への賛同を求める要請書の2つの署名に取り組んでいることが紹介されました。早速、署名用紙と証言集をいただきました。


休憩の間にJRの運転見合わせや、止めてきた駐車場が浸水でタイヤ半分まで浸かっているなどの情報も入りましたが、とにかく次の目的地基山町役場まで行こうと「帰りはどないしよう」との不安を抱えながら出発しました。


休憩無しの予定でしたが、女性のトイレ休憩の要望でヤマダ電機に立ち寄ることになりました。休憩前後も雨脚は衰えず、排水の悪い登り坂の下部は急流になってT字型交差点を横切る時には長靴の人でも水が入る状態でした。


基山町役場では沖縄からのコースとの合流、佐賀県への引継ぎ式がありました。

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▲引継ぎ式ーレンズも曇り気味


通し行進の森さんとは5月7日以来の再会です、長崎まで通し行進者4人で歩くことになりました。


昼食時、その4人と事務局で午後の行進を中止もふくめ再検討することになり、論議の結果、雨も上がっており途中でも中止できる体制(随行車の確保)で弥生が丘駅をめざすことになりました。


駅直前で黒い雲が空を覆いましたが、休憩中には小降りになり田代神社、さらに鳥栖市役所まで進み、無事到着しました。

竹田昭彦日誌No.23

< 福岡県から佐賀県へ引継 >


福岡県の筑紫野市、佐賀県の基山町、鳥栖市の行進です。


早朝からの豪雨で、行進の中断もありそうな荒天です。連日の豪雨は、各地で列車の停止や避難などが出ています。


9時、豪雨の中、気合いを入れ、筑紫野市役所から佐賀県へ向かって出発しました。この地域で、行進を40年続けている年配者は、「こんなに雨が降るのは初めてだ」、と言っていました。本当に凄い、道路の低めの交差点などは激流で、プール化しています。私が履いていた長靴にも、水が入ってしまいました。行き交う車は、高速船のように水しぶきを上げています。


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▲雨宿り休憩=エフコープ筑紫野支所


12時15分、予定より15分遅れて引継ぎ場所の基山町役場に着きました。


ここで合流する「沖縄⇒長崎コース」は、既に着いていました。そのコースは道路の冠水にぶつかり、行進を中止し、車で来たそうです。そして、一昨日の午後と昨日は行進を中止したと言います。


引継ぎ式は直ぐに開かれ、基山町長さんの激励挨拶をいただき、リレー横断幕が、無事、佐賀県へ渡りました。


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▲引継式に「沖縄⇒広島コース」リレー横断幕(右側)が合流=佐賀県基山町


佐賀県の行進も豪雨です。空とにらめっこしながら、なんとか終点の鳥栖市役所まで歩くことができました。


福岡市の行進中(22~25日)に、参加者に行ったアンケート結果を紹介します。紹介するのは、設問が4個ある中の3個目で、『「核兵器のない世界を」の署名について』です。


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▲福岡市行進でのアンケート回答(61人)集約グラフ


これは、行進参加者(約300人)で、アンケートに回答した61人分を集約したものです。


今日の福岡県側の行進距離は、区間により参加者35~40人で11.5km歩きました。


福岡県の行進距離総計は、総計158kmです。


佐賀県側の行進距離は、参加者35人で9km歩きました。

松本英治日記No.81

平和行進82日目。雨時々曇り。


今朝も雨、老舗旅館の「辻与」さんに宿泊、5・15事件で暗殺された犬養毅(木堂)由来の旅館。掛け軸や書簡が額装され、写真と共に展示、明治の反戦詩人内海信之(青湖)の子息で戦後姫路の文化運動の再建に尽力された故内海繁(歌人)の文学碑建立に参加し、準備で岡山の文学館や、龍野市小犬丸の自宅に訪問、父上は犬養木堂と親交があり憲政擁護運動に加わる。龍野公園に、親子文学碑が!感無量です!


笠岡市役所で9時から出発集会、市長の挨拶受ける、日曜日にありがたい。名刺渡しお礼を!


通し行進者紹介と挨拶は中平君「人の優しさ感じる行進、優しさで、戦争も核兵器も無くそう!」


雨の中元気に市内行進、日曜日で子供の参加者多い、横断幕持ってもらう。歌いコールしながら行進、街はずれの公園にある原爆犠牲者の慰霊碑に鐘が、道を渡り、手を合わせ打ってきました。


夏休み中の小学校で休憩、福田君雨の中でも大活躍、岡山弁のコールが面白い。「核兵器をのーなせー!」など!


本日11日間の岡山県から最終県広島に引き継ぐため、休憩時、15分で昼食、お弁当とソーメンいただく。雨の中サンダルで歩いてたら、豆が出来そうで、急遽靴下を履く。


県境を元気に越え、引継ぎ場所へ、広島の皆さんの中へ、広島のうたごえ歌って出迎え、握手を交わす。


引継ぎ集会前に、一緒に歌を歌う「青い空は」「ねがい」ほか、引継ぎ集会、各県代表の挨拶、通し行進者の紹介と挨拶は矢部さん、「82日かけて広島に来ました、90日の休暇を取って歩いてます、社長も、仲間も応援してくれてます。核兵器を廃絶しましょう!」と!


小雨の中を、元気に広島県内行進、引継ぎのドサクサで、パーランクの撥紛失!太鼓叩けなくなる。残念!


広島合唱団の皆さんが、ギターと歌で行進を盛り上げ励ましてくれました。休憩時にタスキに記名してもらう。福山でうたごえが響いたのは久しぶりだと(行進後の歓迎慰労会で)、松本効果です、ありがたいことです。全国各地で多くのうたごえの仲間が、タスキに署名!数え切れない!


いよいよ広島平和公園まで、カウントダウン後9日です。ヒロシマ・ナガサキで是非会いましょう!


沿道や一緒に歩いた多くの皆さんの思いを元気に届けます!

松本英治日記No.80

平和行進81日目。雨後曇り。


昨夜来大雨、警報も!8時45分宿を出て、9時から出発集会、休庁日だが、支所長の挨拶を受け、名刺を、通し行進者紹介と挨拶は私が、「世論を広げ核廃絶にチャンスを生かしましょう」


雨の中元気に出発、通し行進旗を積み忘れ、宣伝カー引き返す。雨でハンドマイク使えず、肉声でコール。


休憩のコープさんで、防水スプレー探すが見つからず、運動具店しかないか?


雨も小降りになり、ハンドマイクをポンチョに入れ、歌とコール、県内通しの福田君元気にがんばる!


浅口市役所で昼食休憩、予定より早く着く、議長さんの挨拶受ける、食後出発集会で市長さんの挨拶を受け、名刺交換、休みなのにありがたい!


昼休み、昨日の遺影の方の名前を確認、全国通し2回した、奈木野佳代さんに、地元の方に確認して教えていただきました。


昼から雨も上がり、元気に歌いながらコールしながら西へ、旧道をひたすら歩く、太鼓のリズムが歩きやすかったと、午前中の総指揮者の女性市議さんが!


中継時近くに小学生7人が行進に参加。横断幕もって、私も、森熊、大きな歌、さんぽなどを一緒に歌い、楽しく行進、30分程歩いて帰しました。


笠岡市役所前に色とりどりの風船を持ってお出迎え、集結集会でメッセージ付きの風船を一斉に飛ばしました。

松浦宜孝日誌No.31

きょうの出発は福岡市役所8時30分、九州電力に向けて雨の中を歩きました。九電に前もって要請書を送っており、平和行進途中でその結果を聞こうというものでした。


3人の通し行進者、原水協事務局役員ら8人の要請団で訪問、九電側は龍エネルギー広報グループ長ら3人が応対しました。


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▲九州電力担当者に要請書を手渡す


要請文の項目部分は
1、原発の危険性を増幅するだけのプルサーマル計画は即時中止してください。
2、既存原発の総点検をおこない、これを公表し、安全が危ぶまれる原発については運転停止を含めた必要な措置をとってください。
3、原発は安全性に問題があり、自然エネルギーの導入に本腰を入れ、原子力エネルギーからは段階的に撤退してください。
というものでした。


これに対し文書回答を求めていたのにそれは無く、口頭で
1、日本はエネルギーも不足しており、また安定供給は使命です。国も安全性を認めており、その基準にそってテストを重ねデータ収集した上で、安全を確認しながら進めます。
2、地熱エネルギーは3倍に増やすような計画がある。
というものでした。


行進は南区役所集会、コジマ電気の休憩を挟み、空自春日基地に向かいました。同基地では内閣総理大臣、防衛大臣への要望書を提出しました。


その項目部分は
1、唯一の被爆国として、核兵器廃絶のための国際条約の締結をめざした国際交渉を開始するイニシアチブを発揮してください。
2、憲法9条、非核三原則を遵守し、世界平和に全力をあげてください。
3、海外の派兵は直ちに撤収してください。
4、自衛隊は違憲・違法な国民監視活動を直ちに中止すること。
というものでした。


春日市ホールでの引き継ぎ集会では、いすテーブルで食事ができるようにセットされ、参加者全員分のカレーライスが用意されていて、おいしくいただきました。


春日市も昨日の大雨で昨夜から非常召集で徹夜状態での市長の挨拶を頂き、その御協力ぶりに頭が下がります。


先頭で横断幕を持って完歩した小学校1年生も舞台で挨拶しました。


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▲先頭で横断幕を持って完歩した小学校1年生


ここで福岡市原水協のみなさんとはお別れ、筑朝地区原水協にひきつがれました。行進は大野城市の集会、大宰府を守った土塁にあった東門跡で休憩を経て、古刹、学校跡などの近くを進みながら大宰府市に着きました。


大宰府も大野市同様、非常召集後の市長、職員の歓迎でした。


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▲非常召集後の大宰府市長の歓迎


集会途中から振り出した雨はスタートのころには豪雨になりました。その雨で側溝の溝蓋でクランチング部分からは雨水が噴出して道路が広範囲に川状態になっているところもある中、一路筑紫野市役所へ。到着頃には雨は上がってきました。

栖原秀夫日誌No.52

9時から出雲市役所正面玄関で出発集会。出雲市からは総務部長をはじめ3人の職員が休日にも関わらず参加して頂きました。激励の言葉と、市長と議長からペナントを頂きました。


9時30分に行進は雨降りの中を出発。10時15分に塩冶町の恵比須神社に着き、雨の中ですが、15分間休憩し、1時間近く塩冶町周辺に署名・カンパ活動に入りました。


11時30分に再出発。12時頃に出雲市郵便局に着き、昼食休憩。志谷さんと出雲市原水協の役員の方と出雲駅で食べる。


13時30分、雨降りの中、出発集会を開き、行進を再開。14時過ぎに大曲診療所に着き、接待を受けて休憩。14時30分、診療所周辺に署名・カンパ活動に入る。


15時に行進再開し、15時30分に「出雲弥生の森・駐車場」に着く。終結集会を開き、記念写真などを撮り、解散する。


本日は、従来にない程署名やカンパが集まったので、来年も署名の時間を十分に取りたいとのことでした。私は志谷さんの運転する宣伝カーで、松江市に戻る。

森 悦子日誌No.47

あさ、歩いて筑後市役所へ。今日は土曜日なので、昨日のうちに事務局長が筑後市長及び市議会議長からメッセージ、協賛金、ペナントをいただき、懇談会で披露しました。


F1000116.jpg▲桑野照史筑後市長からの激励メッセージ


筑後市役所では、冠水、落雷など大雨災害警報本部が設置されていて、行進を続行出来ないと中止しました。11時から12時半の交流会に変更!終わったあと、記念写真です。


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11団体から30人の参加があり、急でしたが、みなさんあいさつをくださいました。


私は、生い立ちから昨年礼文島-東京上野まで歩いた経験と感動を話し、沖縄からの行進について話しました。


貝田議員宅で休憩させてもらい、16時30分、久留米両替公園で私たち2人は引き継ぎを行いました。


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おまけ

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▲柳川下りは増水で中止でした。船頭さんの好意で撮らせてもらいました。

竹田昭彦日誌No.22

< スナップで見る今日の行進 >


福岡市中央区と南区、春日市、大野城市、太宰府市、筑紫野市の行進です。


行進では、各役場訪問の他に、九州電力本社と航空自衛隊春日基地(西部航空方面隊)を訪問し、要請を行いました。


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▲福岡市役所で、出発式前に団体リレー旗を宣伝カーから出して並べる=福岡市中央区


0725kyuudenn.jpg▲九州電力本社で、広報部の幹部の方(左)に「原発の危険性増幅するだけのプルサーマルは計画は即時中止して下さい」など、3項目を要請する=福岡市中央区


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▲行進で疲れた2歳児が、お父さんの肩上で居眠りする=福岡市中央区


0725kiti.jpg▲航空自衛隊春日基地で管理部の幹部の方(右)に「唯一の被爆国として、核兵器廃絶のための国際条約の締結をめざした国際交渉を開始するイニシアチブを発揮してください」など、政府宛の4項目を要請し、対応を聞く=春日市


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▲昼食の「春日平和カレー」をたべながら、福岡市から筑紫朝倉地区に引継ぎ式をする=春日市役所


なお、「春日平和カレー」は、春日市が援助し、30年も前から行進者を接待している名物カレーです。


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▲通し行進者(右、溝浦義則さん)を励ます太宰府市長=太宰府市役所


今日の行進距離は、区間により参加者35~45人で21.5km歩きました。


春日市、大野城市、太宰府市、筑紫野市の市役所訪問では、豪雨による水害対策で超多忙なところ、市長さんや幹部の方から歓迎と激励の挨拶、冷水の接待をいただきました。


太宰府市役所から筑紫野市役所までの行進は、雨具の準備をする間もなく、豪雨で全身がビショ濡れになりました。梅雨は、いつ明けるのでしょうか。

松本英治日記No.79

平和行進80日目。曇り。


8時半、船穂公民館に。出発準備(リレー旗とリレーザックを車から降ろす)をし、9時出発集会。館長さんの挨拶受け、名刺渡す、通し行進者紹介と挨拶は矢部さん。


9時20分元気に出発、参加の中学生に横断幕を!途中国民平和大行進歓迎の張り紙と遺影を持たれた女性が。第1回の平和行進の西本さんと一緒に県内を歩かれた、ますもとしん子さんが毎年ここで出迎えてくれていたが、昨年91歳で亡くなられたと、娘さんが!(「岡山県平和行進発祥の地」になるほど)平井事務局長が説明、先人に手を合わせて、行進続ける。


他にも東京まで一緒に歩かれた女性がいらっしゃるとか!


町内を元気にコールと歌を響かせて歩く。県内通しの福田君(24歳)元気!ミッキーマウスマーチの行進版最高、ノリノリで!楽しく。


再び高梁川を渡り、倉敷市へ。玉島支所で昼食休憩、支所の食堂で、うな丼とざるそば。矢部さんピラフとざるそば大、ほとんど残し、そばは私が、食べすぎでづつない。


玉島町内を歌いコールしながら元気に歩く、昼食後睡魔が、すかさずマイクが、太鼓が止まりフ~ラフラ!すかさずマイクが、行進版を歌う、歌いながらは寝れない。


眠気も覚め、元気にアピールしながら歩く、山陽道を西へ!ひたすら歩く!


浅口市金光支所に3時半到着、集結集会簡単に!明日もここから出発!金光教の発祥の街、老舗旅館の土佐屋へ、若者除く3人と全印総連の若者2人と!予約聞いてないと!(連絡ミス?)何とか泊めて頂く。洗濯のため、コインランドリーとコンビニ探しに町内を散策。何とか見つける!


夕食後部屋で、関西共同印刷の2人と懇談、疲れてすぐ寝てしまいました。

森 悦子日誌No.46

朝8時30分過ぎても、お迎えがなく、あわてて歩いていくと、もう出発式が始まっていました。一日目というのに恥ずかしい。


雨が降り出し、だんだんひどくなります。今日は驚くほど参加者があり、一列2人でながーい隊列でした。横断幕は3人が持ってくれたので、宣伝カーのすぐ後ろを歩きました。だから先頭の写真です。


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昼休み前、原水協各団体が集まって協議し、中止決定。筑後市と連絡取り、私を引き継ぎに。貝田さんがお迎えに。時間があるからと星野村へ連れてくださいました。かすりの工房へも、とてもうれしい。ありがとう。


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▲星野村「原爆の灯」前

竹田昭彦日誌No.21

< 米領事館で オバマ大統領の広島・長崎訪問を要請 >


福岡市中央区、城南区、早良区、西区の行進です。


福岡市の行進では、行進中に各区の役所を訪問し、区長さんに激励の挨拶をお願いしています。


今日の行進で訪問した4区のうち、城南区では区長代理の区政推進部長さんから激励をいただきました。他の3区は、対応がありませんでした。同じ福岡市でも、区によって対応が違うのはなぜか、不思議です。


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▲平和行進団を激励する福岡市城南区・区政推進部長(左から2人目)


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▲網の目行進の「城南コース」横断幕が、城南区役所で幹線の「広島→長崎コース」に合流


中央区の行進では、在福岡米国領事館を訪問しました。


玄関で担当官(政治・経済専門官)にお会いし、「オバマさんに、広島・長崎の原爆資料館を見に来てください」など、5項目を要請しました。


従来の要請行動では、警備員が受け取るだけで、担当官と会うことがなかったそうです。今回は名刺の交換もしました。そして、警備の日本のお巡りさんたちも穏やかでした。
原爆を最初に使用した国の大統領として、オバマさんに広島・長崎の原爆資料館を是非とも見て欲しいです。


要請5項目は、以下の通りです。

1.オバマ大統領に、広島・長崎の原爆資料館を見に来てください。
2.核兵器廃絶のための国際条約の締結をめざして、国際交渉を開始するイニシアチブを発揮してください。
3.2010年のNPT(核不拡散条約)再検討会議において、核保有国によって、核兵器廃絶への「明確な約束」を再確認してください。
4.米軍艦の博多港入港は福岡市の「平和都市宣言」に反するので、今後入港はしないでください。
5・米軍の板付基地を即時全面返還してください。


0724ryoujikan.jpg▲在福岡米国領事館で、担当官(後ろ向き)にオバマ大統領の広島・長崎訪問を要請する平和行進団(右側)


天気の日替わりに困っています。今日は、終日豪雨でした。気が滅入ってきます。


豪雨の中でも、宣伝カーから流れる平和行進の声を聞き、戸を開け、手を振る人が必ずおります。今日も3人おりました。「頑張るぞ!」と、大きな励みになっています。


今日の行進距離は、区間により参加者45~70人で21km歩きました。

松浦宜孝日誌No.30

今朝から城南区役所まで横断幕を一緒に持ってもらった被爆者の一人は、18歳で長崎に徴用され、1年で広島に異動になって被爆しています。


異動していなくても長崎で被爆していただろうし、この歳まで生きてこられたのでこの運動を続けている、被爆の影響でこんな頭になったと髪の毛の無くなった頭を指していました。


仕事は進水台の組み立てで、戦艦の製造もありましたが、戦争末期にはあの回天も製造していたとか。


9時に中央区役所を出発した行進は9時40分頃、アメリカ領事館を訪問し要請文(抗議文では受け取ってもらえない)を領事館の政治・経済専門官に手渡しました。


昨年までは休みだったり、手渡せてもガードマンだったりしたとか。大統領が変わればこうも変わるのです。


要請文の項目部分
1、アメリカ大統領は広島・長崎の原爆資料館を見に来てください。
2、核兵器廃絶のための国際条約の締結をめざして、国際交渉を開始するイニシアチブを発揮してください。
3、2010年のNPT(核不拡散条約)再検討会議において、核保有国によって、核兵器廃絶への『明確な約束』を再確認してください。
4、米軍艦の博多港入港は福岡市の「平和都市宣言」に反するので、今後入港はしないでください。
5、米軍の板付基地を即時全面返還してください。


さて、平和行進は城南区に進んで行きました。


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ここには七隈から40人で1時間かけて網の目行進で進んで来た人たちが合流しました。


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城南区では吉沢区政推進部長が挨拶にたちました。今日の団長は被団協の役員で、団長挨拶として「国を相手の訴訟では18連勝している。被爆者の高齢化は進んでいる」、被爆者援護法の制定等にふれ訴えました。


次の早良区役所でも同様に網の目行進が合流しました。


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平和行進は誰でも出来る、歩くという素朴な行動で平和を訴えています。北九州では盲目の二人が横断幕をもって歩きましたが、今日は車椅子の人が参加しました。


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行進は早良から西区役所、JR周船寺と進みましたが、朝からの雨は時々止むことはあっても一日中降り続き、周船寺につくころはかなり激しくなっていました。帰りの車中ではさらに豪雨になってきました。


市街地に帰ってくるとあちらこちらで道路が潅水しており、夕食に行こうとしていた大濠公園近くのうどん屋さんは、雨水が玄関の敷居まで来ており、おまけにその店の構造はカウンターの人の足を置く部分は敷居より20センチほど低くなっており、危機的状況でした。


夕食時のテレビでは市内各地で時間雨量110ミリを超えていると放じていました。案の定アナウンスカーの駐車場に行く道路は潅水して通行止めになってしまいました。

栖原秀夫日誌No.51

9時に斐川生協病院を7人で出発。志谷さんの計らいで病院にお勤めの若い女性2人と先頭で横断幕を持つ。いつも通り私は大きな声で元気に手を振り行進しました。


途中から出雲市の新婦人の方が1人参加。2km位行進して、今在家親水公園で休憩。10時に再出発したら、昨日ご一緒した自治労連の石田さんから松江保健生協の田辺さんに電話あり。「10時に病院に来たが、行進団はどこに居るのか」と。田辺さんは行き先などを連絡。暫くして、石田さんと国公労連の方3人と合流。段々増え、石田さんにもまた会えて、本当によかった。


10時50分に共栄町公民館前に到着。休憩地点から2km位。午前の取り組みは終了。


13時に斐川町役場前に。13時30分、出発集会を25人の参加者で行う。総務課長から町長メッセージが読み上げられ、激励して頂く。町長と議長からのペナントも頂く。


F1010104.jpg▲斐川町役場での出発集会で島根県通し行進の志谷さん。庁舎に「非核宣言の町・斐川町」のスローガン。


10人位で斐川生協病院に向かって、薬剤師の方と青年と一緒に横断幕を持って元気に行進。雨の中の行進でしたが、付いてくれた中年の警察官の方が、とても一所懸命にやられていて、本当に感謝します。


終結地の斐川病院には2.5km位行進し、14時30分に着きました。


車で出雲市大津コミュニティセンターに移動。17時に出発集会を60人位で行う。私は、「核廃絶」と「非核3原則を守ろう」を訴えました。


17時30分に70人位で出発。又、実行委員会の配慮で、若い女性2人と横断幕を持つ。私はいつも通り大声で手を振り行進。一緒の女性は、ビックリしたようで、腰が引けてました。


沢山の警官が一所懸命に交通整理をしてくれました。本当に有り難いです。1時間位で出雲市役所に着き、解散しました。

栖原秀夫日誌No.50

9時、島根県庁を尾村県議の紹介で訪問。総務課長に会い、事前に送付した署名などの要請を行う。私は「非核3原則を守ることが、唯一の被爆国としての責務」を訴えました。


島根県原水協の西尾代表委員が国際署名を出して、「あなた個人として署名して下さい」と追及する姿勢に、西尾さんの豊富な経験を感じ、敬服しました。


議長不在のため島根県議会事務局長に会い、要請。議長室の絨毯や椅子のふわふわ感は生まれて初めての物でした。知事部局へと同じ訴えをしました。


10時、片寄市議の紹介で松江市役所を訪問。総務部次長と議会事務局次長に会い、要請しました。「松江市は平和都市宣言をしており、観光都市として何よりも平和を求めている市です。核廃絶への政府の積極的努力を求める意見書を、松江市議会は全会一致で決議しました。皆さんと気持ちは同じです」との言葉を頂きました。


車で松江市白湯天神前に移動し、11時に行進出発。11時15分に幸町に着き、周辺に30分間署名・カンパ活動。乃木駅に向かって再出発。


12時10分、乃木駅到着。14時、玉造厚生年金病院前を出発。14時15分、玉湯町交差点に着き、付近に署名・カンパ活動に入りました。


14時45分、玉造温泉駅前に集まり、終結集会。本日は、国家公務員の労働組合の方々が多く参加し、署名51筆、カンパ8700円を集めました。私は自治労連の方と一緒に署名活動を行いました。明日も来てくれると言ってました。楽しみです。

松浦宜孝日誌No.29

今日は、昔は通し行進者の休養日だったのを昨日のコースが18時30分から歓迎集会が予定されていて予定時刻に間に合わせるにはハードな日程だったため、二つに分けて今日昼からの行進になったそうです。


13時、浜男公園を出発。名島運動公園の休憩で福岡医療団、新婦人の湯茶の接待を受ける。そこから九州大学内の公園まで歩を進め、そこでも休憩の予定でしたが、今日の参加者は90人近くで1回の信号では渡りきれず、毎回後続待ちの時間が必要となり休憩時間がなくなってしまいました。


構内でユーターンし、もと来た道を引き返し、東区役所に向かいます。予定時刻に到着した東区役所では市職労の接待、集会での市の挨拶を受けました。

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▲九州大学正門を出るところ


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▲車道を行進



福岡市原水協では各議会会派に行進団への激励挨拶、募金、国際署名を要請していましたが、残念ながら共産党以外の会派からの挨拶はありませんでした。



千鳥橋・千代診療所ではお茶のほかミニトマト、キャンディ、チューペットの接待もありたくさん頂きました。福岡県庁、博多区役所を経て水上公園に予定より10分ほど早く到着しました。


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▲千代診療所の休憩 出迎え接待の人を加えると120人近くに



歓迎集会では各団体の挨拶、原爆許すまじの全員合唱が行われ、閉会挨拶では、ともに3回目の平和行進参加の小学校3年生の女の子、6年生の男の子が先頭で横断幕を持って完歩したことが紹介されました。


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▲ホークスのユニホームを着た兄妹

竹田昭彦日誌No.20

< 歓迎集会で被爆体験を聞く >


福岡市東区と博多区の行進です。


12時45分、昨日の行進が終了した東区の浜男公園で、出発式が開かれました。


一昨日は豪雨にあい、昨日は皆既日食でした。今日は暑くなりそうです。


午後1時、行進に移ると、出発式のとき60人だった参加者は、さらに増え、80人を超えました。


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▲商店街を携帯スピーカーで訴え行進=東区


車道を2列縦隊で行進する指示なので、隊列が100mにも長くなりました。交差点の青信号を1回で渡り切れません。分断された後続を、待ちながらの行進が、頻繁に続きました。


お巡りさんが付かない車道の行進は、最大の注意をしました。宣伝カーや隊列が、第1車線の左端に寄り過ぎると、第1車線と第2車線の間を通り抜ける車があり、危険性が増すからです。


先頭の宣伝カーと、後尾の救護車は、第1車線の左端ではなく、真ん中を通るようにお願いしました。


6時20分、終点の「水上公園」に無事着きました。天気も、さほど暑くならず、よかったです。


水上公園では、「福岡市原爆被爆者の会」と書かれた折り鶴を図案化した旗を持つ、被爆者の方たちに出迎えられました。


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▲福岡市原爆被爆者の会の歓迎=福岡市・水上公園


そして、「国民大行進福岡県歓迎集会」が開かれました(参加者150人)。


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▲福岡県歓迎集会=福岡市・水上公園


来賓者挨拶のなかで、3人の方が被爆の話をされました。原爆が爆発した瞬間は、太陽が地球に落ちたかと思うような、火の玉と爆風だったそうです。


北九州市の門司から行進に参加し、長崎まで通し行進する体内被爆者の溝浦義則さん(63歳)は、挨拶のなかで、初めて被爆体験を具体的に話しました。


小学生のとき、ABCC(米国の原爆傷害調査委員会)から、体内被爆の人体調査を追跡されたのです。


また、小学校では、被爆した生徒20人、普通の生徒20人が、6年間に渡って知能比較検査をされた、と話しました。


つらい体験を、人の前で話すことは、本当につらいことです。私は、涙して聞きました。


今日の行進距離は、区間により参加者75~85人で16km歩きました。

松本英治日記No.78

平和行進79日目。曇り後晴。


8時45分総社市山手支所で、出発集会、支所長の挨拶受け、名刺渡す、通し行進者紹介は中平君「人の優しさ感じる行進、優しさで核廃絶、平和を」と!


総社市内を元気に行進、古墳を通り住宅街へ、コールし太鼓たたきながら、県内通しの福田君元気に、若々しいコールでノリノリです!私はふざけて、外人口調で笑いを!


平和の歌も歌ってくれます、ミッキーマウスの行進版最高!大阪でも聞きました。コープ総社東で休憩、お昼の清音支所は、周りに店がないとのことで、弁当調達!炊き込み弁当とカレーパン。


カレーパンはおやつ代わりに直ぐ食べました。


総社市役所目指して元気に歌いコールしながらの行進です、出発時から参加の二人の子供に横断幕持ってもらう、最初は恥ずかしそうだったがだんだん元気に!


市役所で副市長の竹田さんと副議長の挨拶受け、名刺交換。市長さん、議長さんによろしくと!通し行進者紹介と挨拶は矢部さんが「本日の新聞に革新懇核廃絶アピール各界58氏が賛同」を紹介!


お茶と凍ったチューペットありがたい!子供たちとドライアイスを水に入れ遊ぶ。お茶に入れると炭酸味に!


田園地帯を歌いコールしながら、元気に行進。女性の参加者が多く歌がうけました。私も行進版を4~5曲歌いました。うけました!


清音支所で朝食休憩、到着集会で支所長の挨拶受ける名刺渡す、職員さんが大勢で出迎え。会議室で昼食の弁当を。前庭に旧清音村100年の石碑が!


農村地帯の清音町内を元気に、長い高梁川を渡る、車と歩行者別に!倉敷市真備の市内行進、元気一杯に、真備歯科診療所で休憩、民医連の若い看護士さん多く参加、元気に歌いコールしながら行進。


終着の真備支所へ、3時半到着。吉備のまきびの銅像がデンと!


終結集会で支所長の挨拶受け名刺を渡しお礼を、職員が大勢で!


通し行進者紹介と挨拶は私が「暑い一日お疲れ様、多くの皆さんと対話し、オバマ発言の実行を!」一日横断幕持って歩いてくれた、平井君2年生と吉岡さん3年生に拍手。80代の石井さん元気に、ゴム動力の鳩を持って行進されました、昨年はうまく飛んだが、今年は調整不足で飛ばなかったと、徹夜で作られたそうです。


若い参加者にうた新宣伝紙お土産に渡す!私の日誌読んでねと!


宿に送っていただき、シャワーを浴び、洗濯して、ほぐし家へ。矢部さん全身1時間、私はスタッフがいず、足裏を35分して、行進の疲れを癒しました。夕食はいつもの居酒屋「モミの木」で。4日中3日お世話になりました。明日は金光町へ!

森 悦子日誌No.45

長洲町役場訪問。道路幅狭く、進行方向に歩道がありません。交通量も多い。一列になって歩きます、こわい。


町役場まで20kmあるといい、車でピストン輸送。田んぼのそばから私も長洲町役場まで歩きました。


町長は、水道料金の借金返済があり、合併しなかったといいます。町長、副町長ふたりとも署名、家族も記入。ペナントも記入してくださいました。


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▲署名する長洲町長


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▲副町長は女性、熊本県で初!


昼食は、長洲四王子神社で団体ごとにお弁当。私たちはラーメン屋さんへ。ラーメンを注文。白いスープ、意外とあっさりしておいしい。



13時20分出発。ハーモニカにあわせて「青い空は」を全員合唱。線路の脇を歩く。やはり、車に乗せてもらうことに。




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▲助手席からの光景



三池炭鉱で解雇され、電気工事関係で働いてきた後期高齢者の方の車に。すぐ向こうは海、海苔生産地。しかし、諫早湾の闘いは、ここでもたくさんの支持があるんですよ。ひどい雨で雷もすごく、旗を倒して収まるのを待ったこともありました。



ふっとみると、マフラーをかぶった小さな老婆が立っていて、車から下ろしてもらいました。握手しながら「元気でいてください」しか言えない自分が情けない。「行進が毎年通るのを楽しみにしていました。昔は、一軒一軒回って募金を集めていました」と話してくださいました。



隊列の一番後ろにいたので会うことができました。帽子を脱いで何度もおじぎをしている男性を見かけ、飛んでいって握手、強く握り返される手に待っててくれる人びとがいる、平和行進の喜びです。



14時18分、南荒尾駅に到着。皆さんにこの感動を伝えました。



荒尾市役所訪問。玄関先に市長、市議会議長そして幹部職員が並ぶ歓迎集会が開かれました。荒尾市長はあいさつの中で、大暑という暑い日に、行進ごくろうさまでした。日本は、唯一の被爆国として核兵器廃絶を世界に向けて訴える使命と責任があります。荒尾市は、昭和59年に非核都市宣言を決議し、非核三原則をめざして努力しています。平和市長会議で訴えるアピールをバックアップしています。大変力強い内容でした。




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▲荒尾市長のあいさつ



市議会議長も、「世論のさらなる盛り上がりを期待しています」とあいさつされました。



そしてお見送りを受け、16時30分まで行進。引き継ぎの公園に到着しました。




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▲福岡県への引き継ぎ式




F1000103.jpg▲荒尾・玉名原水協の事務局長。2日間参加され、行進を成功に。藤好さんという足が丈夫な82歳の女性が行進を盛り上げ、引っ張っていると言っても過言ではありません。

松浦宜孝日誌No.29

9時に古賀市役所を出発、途中で買い物をして後方から追いかけた時に人数確認したところ71人での行進。

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▲古賀市役所を出発


新宮町での休憩中に日食眼鏡を借りて太陽を見ると直径比で4分の1ほど欠けています。今日は天気予報は曇りで平和行進日和ですが、日食観察はだめだとあきらめていました。


それが時々うす曇になり、人の影が映るようになり、テレビでやっていた紙に穴を開けてその穴を通した光が映し出す形を見ようとしましたが、にわか作りでボールペンであけた穴は昔のダイエーマークになり、うまくいきません。


そこで何人かが持っていた日食眼鏡を借りました。


行進途中では時々手ごろな雲が出て、雲が日食眼鏡の代わりをして肉眼でも欠けているのが確認できます。しかし、信号待ちなどでは二度三度と眼鏡を借りて観察。時計の文字盤で7時から8時の位置にあった三日月型の太陽が、さらに細くなり、10時ごろの位置になったころ急にひんやりとした風が吹き涼しくなりました。


ナフコ和白店では福岡医療団の人たちが、飲料水スイカ氷水で出迎えてくれました。ここまでの行進は78人。


香椎花園(遊園地)での休憩では、コンビニでソフトクリームを買って食べました。暑いとき体力を消耗した時はこれが一番です。


今日の終着は香椎浜男公園に13時半頃、ここでは年金者組合の人たちのお茶や饅頭での接待が待っていました。


少し休憩後の終結集会で今日の行事は終わり、昼食時にはビールがのどを潤してくれました。


今一緒に歩いている県内通し行進者は長崎で胎内被曝し、5ヵ月後の1946年1月生まれです。挨拶のとき「もっとも若い被爆者です。私より若い被爆者をもう作らないでほしい」と訴えています。


また、アメリカは第2次世界大戦でこれ以上のアメリカ人の戦争犠牲者を出さず、早く終結するために原爆を使用したのだと言っているが、日本が竹ヤリで応戦しようとしている情報も握っていたはずで、アメリカ人の犠牲者がそう増えるはずはない。ソ連に対する優位を保つため、核爆弾の実験のための使用でした。


現に、長崎では気象変化を観測するための態勢も準備しての投下だったのです。彼らは小学校1年より胎外被曝、胎内被曝、被爆していない対照児それぞれ20人ずつのグループでの放射線による影響の調査を6年生まで続けられています。


彼が3~4年生のころ出来たABCCでは治療はせず、原爆が人体にどのような影響を与えているかの調査だけを行っています。まるでモルモット扱いで、学校にジープで迎えに来てABCCに連れて行っています。


彼の元にはABCC(原爆傷害調査委員会)と厚生省国立予防衛生研究所からの感謝状が残されています。


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▲感謝状


彼と同様の調査が行われていたことは、NHKスペシャル「その時 私は母の胎内にいた ~長崎・原爆学級~」で2003年8月7日に放送されている。その内容はインターネットで見る事が出来る。

竹田昭彦日誌No.19

< 皆既日食を見ながら行進 >


古賀市、新宮町、福岡市東区の行進です。


昨夜は、福津市宮司の石津さん宅に、私と宮崎から通し行進者の松浦さんが泊めていただきました。そのことから、近くにある「宮司嶽神社」見学や、地元の青年たちとの交流会があり、有意義でした。「宮司嶽神社」は、世界遺産登録を目指しているそうです。
今日は、国内で46年ぶりの皆既日食がありました。


行進が、新宮町役場から福岡市へ向かった11時前後になると、太陽を見ながらの行進となりました。薄曇りですが、観察用グラスで見ると、日食がすすむ太陽がよく見えました。


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▲皆既日食を観察する小学生


予想外だったのは、日食がはじまると、急に気温が下がり寒くなりました。体感温度は、10度くらい下がった感じです。


大気圏外にある月が、太陽光線を遮断するので、地上の日陰の涼しさとは、全然違う冷たさです。


この体験から、人為的に作り出す地球温暖化は、あらゆる生命の危機になるだろう、と思いました。そして、太陽の恵みに感謝しました。


行進と平行した反対の歩道を歩きながら、募金袋とチラシを手に、どなたにも、核兵器廃絶を訴える人がおりました。福岡市原水協事務局長の西島由太郎さんです。にこにこしながら、自転車の人にもチラシを渡し、行進団の方を指さし、意味を話していました。短時間で、募金の趣旨が伝わります。多くの方から、募金を頂いていました。


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▲歩行者から募金を頂く西島さん(右)


行進では、出発式や休憩時間に、携帯用テーブルをセットし、参加者の受付やアンケート(設問に○方式)を書いていました。手際よい、うまい方法だと感心しました。


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▲休憩中にアンケートを書く参加者


今日の行進距離は、参加者約80人で13km歩きました。

栖原秀夫日誌No.49

9時に東出雲町役場に集合。町長と議長から激励を受け、それぞれからペナントと激励金を頂く。役場を9時30分に出発し、9時45分に揖屋駅に着き、付近に署名等の活動に入る。


10時20分に、車移動。10時30分に浄土寺前から出雲郷公民館まで7分程行進し、付近を20分程署名等活動に入る。


竹矢町まで車で移動し、11時20分から5分程行進し、30分程付近に署名等活動に入る。参加者は21人。署名は87筆。カンパは6873円。行進や署名活動が終わる度に、責任者の吉儀町議から果物を頂きました。


昼食は大森猛元代議士のお姉さんの山崎夫妻と東出雲町議の小笹夫妻と、松江のサンラポーむらくもで食べました。今日は小笹町議の旦那さんの誕生日、引き続き行進があるので、お茶で乾杯しました。


食後は、小笹さん宅で休憩しました。小笹町議からはご自宅の取れたてトマトをご馳走になり、ホテルに送って頂くときには、町議特製のいなり寿司弁当を頂きました。


17時30分に「プラバホール」に集合。200人以上の人たちが集まり、出発集会を行いました。私は平和行進への思いを訴えました。


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▲プラバホールでの出発集会前に参加者と


18時に出発し、松江市内を私は気持ち良く大声で「核廃絶」、「非核3原則を守ろう」、「核密約を廃棄しろ」と行進し、大手門前の駐車場には1時間程で着きました。


途中からの参加者が多かったのか、解散地点では300人以上でした。終了後は医労連の平和を語るビアパーティーに参加しました。


F1010103.jpg▲ホテル白鳥屋上で医労連の平和を語るビアパーティーでノリノリの若者たち

松本英治日記No.77

平和行進78日目。曇り後晴れ。


昨日の大雨がウソのよう、本日は日食の日。


9時倉敷市役所へ、市長代理の挨拶を受ける。通し行進者あいさつは私が「行進で市民に訴えオバマ発言の実行を!」矢部さんは網の目コースへ行ったので4人の紹介。


20分出発、女性県会議員さんの先導で、市内を元気に、県内通しの福田さんがハンドマイクでコールと歌!餅やで休憩、おはぎを食べる、疲れが吹っ飛ぶ感じ、行進中雲間から欠けた太陽がのぞく。昨日歩いた子供も合流、写真手渡す、その前の日に歩いた子も家族で参加。楽しく元気に!


休憩場所で日食の観測会、眼鏡を貰い、しっかり観測、天体望遠鏡の映像も!数年ぶりの天体ショーを楽しむ。


水島支所で昼食休憩、支所長の挨拶受け、名刺交換、オバママスク登場、近くの民医連水島共同病院の職員さん、ここから、大勢で参加、大総合病院にビックリ、埼玉に次ぐ大きさで千人の職員が!車椅子のお年寄りと職員総出でお出迎え、通し行進者は、お年寄りと握手を交わす、激励されました。「ようこそ国民平和大行進のみなさん」歓迎の横断幕も!元気をいただきました。


水島工業地帯は、児島湾の干拓で出来た街、大きい片道2車線の道路が縦横に、観光地倉敷より、活気が感じられる。


市内の旧道を歌いコールしながら元気に、途中から、ギター(角南)と歌い手(田辺)さん登場で福田さんと私とで、元気に歌いながら賑やかな行進でした、パーランクは子供に!


高梁川に架かる旧霞橋西詰間で元気に行進しました。終結集会で凍ったチューペットをいただく、ありがたい!3時過ぎに解散!


民医連の皆さんと交流会のお誘い、別コース歩き、観光中の矢部氏に電話、5時半にお迎えが、ホテルに!


豪雨の中で、底の剥がれたサンダルの修理を、シャワ-を浴び洗濯して、交流会へ、田辺市会議員さんの車で、水島で一番の焼肉屋へ、韓国料理を堪能!


水島原水協の事務局長さんも、那岐野さんも全国通し経験者、他民医連の皆さん10数人と交流しました。

森 悦子日誌No.44

7時50分お迎え。この2日間よく歩けました。先頭から離れても行進にしがみついて歩きました。


夕べは帰りが18時すぎで、コインランドリーで洗濯をして、体をいたわって銭湯に行きました。


ホテルに帰ったら、もう11時。湯に行ったことが寝不足になってしまったみたいです。足の疲れが残って、10時25分頃には、痛みが出始め、ダメかなと不安感が。宣伝カーに乗せてもらいました。情けない。


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▲荒尾・玉名の行進


右手に左手に水田を眺めながら、玉名市役所に向け、行進を続けて進みます。2人のお子さんも車に乗ったり、のぼり旗を持ったり、最後まで歩きました。


民医連の2人は夜勤明けなので昼食まで参加。4月に入ったばかりの人も参加。歩き終えて、感謝の気持ちを話してくれました。さすが火の国の女性だね。


16時10分、玉名市役所に到着。まず目に入ったのは3人の職員がカップにお茶を入れているところ。ありがとう。おいしかった!


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▲玉名市集結集会 記念写真


たくさん参加をありがとう。今日の歩行距離は、15.4km。県労連に着いたら16時20分でした。ごくろうさまでした。

森 悦子日誌No.43

8時お迎え。車に乗って途中でガソリンを入れ、一直線に走る。9時、北部総合支所に着き、少し足を慣らしておこうと駐車場を歩いて時間を待った。


10時行進開始、50分歩いて休憩、11時40分植木町役場に到着。町長、町議会議長とも不在。総務部対応で町議会議員選挙告示で対応できないというお話でした。


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▲植木町役場のスイカ。スイカの名産ちー。行進中、道路脇の店にならんでいたよ。


昼食をとり、13時30分午後の行進スタート。


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▲昼休みを終え、午後の行進でーす


40分を2回歩いてピストン輸送され、15時40分山鹿市役所に着きました。


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▲自衛隊の車両が走る。


昨日は、行進お休みでした。午前中は、横断幕を持って先頭を歩きました。ザァーと降ったり、雷が鳴っていたり、晴れ間があったり、そんな一日でした。


午後の行進は、全医労の青年に横断幕をたくして、私はストレッチを繰り返し、いちばん最後を歩きました。


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7月17日より元気で歩き、少し痛みもやわらいできたかな?今日の参加者、午前16人、午後13人、歩行距離は、14km。


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松浦宜孝日誌No.27

岡垣東部の出発式では広島の三次で山越に原爆を見たという岩本岡垣原水協会長が挨拶、第1回原水禁大会から参加し情熱を感じられました。


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▲出発式


今日の横断幕は最年少の自治労の女性に頼んだがそこに中2の女の子も加わりました。


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▲雨の中を進む


宮崎出発以来これまで本降りの雨は避けてこられましたが、今日だけは晴れ男効果はまったく通じませんでした。昨年の伊丹、5月6日の東京以上の大雨で歩道も川のようになっていました。


今日の責任者によそではこのような時どうしていますかと質問されたが、様子を見て中止する決断も必要と思いますが、雷が鳴っているので、とりあえずのぼり旗は止めましょうと答え広い場所で車を止め、回収しました。


10時半の西鉄赤間営業所ではこれから行進する人たちが雨具体制で待機していました。引継ぎ前の人のなかには用意がなく、ビニール袋をかぶって代用していた人もあり、その違いが明瞭でした。


しかし、万全の準備をした人でも今日の雨ではぬれねずみ状態でした。午後の宗像を出発するころには小ぶりになり、やがて曇り空になりました。


17時到着予定の歓迎集会も20分遅れるなど今日の平和行進はハードでした。しかし、どしゃぶりの雨の中を歩く我々を見てびっくりしながらも温かく手を振ってくれる人たち、このような中でも行進したという充実感が残った。


今日は民泊でスーパー銭湯に行き、食堂で食事をすることになった。車中で宗像市の庁舎に世界遺産を目指す垂れ幕があったことが話され、そのひとつの古墳と神社を案内していただいた。石室に使用した巨岩をこのように高い所にどのように運んだのか古代ロマンミステリーに興味がわいた。

竹田昭彦日誌No.18

< 豪雨の長距離行進 >


岡垣町、宗像市、福津市、古賀市の役場訪問と行進です。


9時、岡垣町の東部公民館で出発式を開き、岡垣原水協会長さんと町長さんから、歓迎と激励の挨拶をいただきました。


会長の岩本さんは、広島の落とされた原爆を三次市で見たと話され、「オバマ米大統領のプラハ宣言により、核兵器廃絶の展望が開けてきた、今日の行進は歴史的になるでしょう、自信を持って行進して下さい」と、激励されました。


岩本さんは、第1回原水爆禁止世界大会に参加し、一貫して核兵器廃絶運動を続けている方です。


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▲岡垣町原水協の旗


行進がはじまると、小雨模様だった空が、にわかに暗雲が垂れ込め、豪雨となりました。午前の岡垣町と宗像市の行進中、豪雨が続きました。


落雷予防に団体リレー旗も宣伝カーに積み込み、ひたすら歩き続けました。


豪雨のはじめのうちは、水溜まりを歩かないよう注意していましたが、道路が川になり、ジャブジャブ進みました。


そのようなことから、予定通りの休憩もできず、宗像市「赤間バスセンター」で行う、岡垣町から宗像市への引継ぎ式も取りやめました。


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▲豪雨の「城山峠」越え=岡垣町


私は、遅れた人が気になり、後半は後部を歩きました。


雨は、午後に止みましたが、終わってみると24.5km歩く、大健闘です。


今日訪問した役場のなかで、古賀市と富津市の市長さんが、平和市長会議に加盟したことが紹介されました。先日行進した北九州市も、加盟する話を聞きましたので、予定を含めますと、県下の自治体66のうち、16になります。


最近、平和市長会議に加盟する首長さんが増えています。


今日の行進距離は、区間により参加者25~40で24.5km歩きました。


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▲福津市「東福間公園」での記念撮影

栖原秀夫日誌No.48

9時10分、素敵な安来駅舎を見て回る。「安来武士」のポスターが目を引く。観光にかける意欲を感じる。店内の飾り付けや陳列の仕方を眺めていたら、県内通し行進者の志谷さんに「コーヒーを飲まれますか」と声を掛けられ、ご馳走になる。


9時30分に出発。私は大きな声で「核廃絶」と「非核3原則」を訴えて歩きました。同じ宿に泊まっていたスポーツ大会に参加する女子高生たちと出会い、心温まる声援を送って貰いました。


10時20分に安来市役所に着き、議長に面会し、国際署名や非核日本宣言署名を頂きました。


10時30分に安来市の歓迎集会が行われ、総務課長から市長メッセージが読み上げられました。私からは歓迎に対するお礼と日本が非核3原則を守るように訴えて行きたいと決意を述べました。


車で荒島に移動。11時から荒島駅付近を行進。11時15分から30分間、地域署名に入る。短時間で有るが、署名やカンパが結構集まる。


再び車移動し、13時30分から下意東付近を行進し、20分間、署名・カンパ活動に入る。


再び車で東出雲町の神社前まで移動し、14時から東出雲町役場に向けて行進。


到着後、付近に署名・カンパ活動に入る。15時に終了。


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▲元国会議員の大森猛さんのお姉さんご夫妻と東出雲町役場前で

松本英治日記No.76

平和行進77日目。豪雨。


本日は、どしゃぶりの豪雨、9時早島町役場で出発集会、佐藤町長、小池議長の挨拶を受け、名刺交換!通し行進者紹介と挨拶は矢部さん。県内通しの3人集合、谷口さんと福田君の若者は前半と後半のリレーで参加。歌いコールで賑やかだが、本日は大雨で、ハンドマイク使えず肉声で!楽しく盛り上げてくれました。若者二人の宿泊も福田さん宅で送り迎えも、ありがたい話です!


大雨で合羽を着てても中までグショ濡れです、午前中ハーモニー倉敷まで、女性の議員さんが総指揮で先導してくれました。雨の中パーランクにビニール袋かぶせて、叩きながら歩きました。


コープ倉敷北店で昼食休憩、雨に濡れた体に手作りの暖かいカレーが参加者全員に振舞われました。久しぶりに食べるカレーはおいしゅうございました。旅に出ると、弁当や定食が多くて、カレーやラーメン、うどん、焼肉等が食べたくなります、贅沢でしょうかね?
本日はカレーで最高でした。午前中3時間、午後1時間半の少し楽な行進でした、大雨で助かりました。


コープさんの出発集会で5人の少女が応援文を群読してくれました。感動!食事といい、皆さんに愛される平和行進です!到着時と出発時、多くのコープ職員さんが出て応援してくださいました。


昼からは、倉敷駅裏のチボリが閉園で廃墟に!駅舎を通り、繁華街から美観地区を歌いコールしながら楽しく、子供たち(おばあちゃん、お母さんと三代で揃いの平和行進の手作りTシャツ着て)が先導してくれ賑やかに市役所まで元気に歩きました。


3時に終結集会、子供たちと記念撮影し、駅前のステーションホテルへ、シャワーを浴び着替えて洗濯をし、今日撮った写真を子供たちに渡すべく、プリントに、矢部ちゃんの優しさです。


夕食、昨日の居酒屋へ。気さくで気に入りました。昨日食べそびれた「ままかり」(美味しくてまんま借りた程)の酢漬けを!名物です!食後、矢部さん連れて昨日のほぐし家へ。残念、休みでした。


本日矢部さん別行動(赤磐網の目コース)なので、写真を私に託されました。


JMIU中央から、広島・長崎での世界大会資料がホテルにFAXで送られてきました。矢部さんがコピーし、私と若者2人分も!ありがとう!いつも、お世話様です!

森 悦子日誌No.42

7月20日熊本日日新聞より「天草市役所を発着点とする本渡地区の約2キロを、市民ら約50人が行進した。原水爆禁止天草協議会の主催。参加者たちは、のぼり旗や横断幕を掲げ、核兵器廃絶と平和を訴えた」以上、小さな記事が載っていました。


朝7時30分出発、9時40分着。天草の原水協代表の中山さんは、「世界で核廃絶がクローズアップされ、G8でも実現しようと提案された。長崎の被爆から65回目、ようやく実現への第一歩となる平和行進です。元気よく、共に核兵器なくそうと歩きましょう。世界大会は、流れを飛躍させるよう、青年を中心にこれからの活動、署名を広げよう」とあいさつしました。


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▲この旗ざお、ぜんぶ使ったんです

宣伝カーから降りて目につきました。意気込みが伝わってきました。新婦人の会、県から4人、天草で10人、熊建1人は初めての参加。小森陽一さんのお話を聞いて感動。民商1人、一人10筆の署名を、代表も送ろう。民医連4人、暑いけどがんばる。命の平等を、訴え盛り上げる。建公労、えらいこっちゃ、4人しかきとらん。日本共産党1人、いよいよ衆議院が解散、これからの進路、平和、憲法、消費税など国民の声が届かないような二大政治では同じ。


皆さんおつかれさまです。天草原水協では、世界大会に参加する人を紹介しました。すごいことです。数人でお食事をしました。天草の行進は、復活して4回目。通し行進者としては、もう少し行進してもいいなと思います。95キロ車を走らせ、地元の意見を尊重しながら、でも2キロだけでは物足りないね。


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松本英治日記No.75

平和行進75日目。雨後曇り。


昨日は私が会長している、兵庫のうたごえ合唱発表会のため、自宅から神戸へ、行進75日目は、お休みです。岡山市内行進です、他の4人にお願いしました。11時半宿へ!


9時に岡山市役所へ、昨夜の大雨も上がりかけで、出発集会は、軒下で、市長代理の挨拶を受け、名刺交換。通し行進者の紹介は私が「半世紀の草の根運動を広げ、核廃絶のチャンスを実現させましょう」と!


岡山市内を元気に歌いコールしながら行進、夏休みで子供づれや、若者の参加も多い!
昨夜、行進の交流会と、青年の交流会も持たれたとのこと!


残念ながら参加できませんでしたが、ありがたいことです!元兵庫のうたごえの事務局長(神戸青年合唱団)の野口さん(香川音楽センター)が差し入れ持って会いに来られたようです。会えなくて残念でした。電話でお礼を!ありがとうございます!


県内通しの谷口さん、スーパーメガホン担いで、コールと歌で大活躍!私も得意の行進版を歌いました。雨も上がり元気に楽しく、子供たちが横断幕を!


行進中、団員の中野君(国労)から電話、今岡山駅との事、昼食休憩の場所の最寄の駅を教えてもらい連絡、二人の男の子を連れて登場、差し入れのまねき(姫路)の駅弁もって、ありがとう!兵庫県で会えず、追って来てくれました。姫路での歓迎会の日は、下の子の1歳の誕生日で来れなかったと!遅い結婚でしたが、おとうちゃんに!よく飲みに!上の子がぐずり、直ぐ帰りました。


岡山市を離れ、早島町へ歌いコールし、アピ-ルしながら楽しく歩く、3時過ぎ近代的な、新築の町舎に到着!集結集会、中平君が挨拶と紹介。「人の優しさ感じる行進です、皆が優しくなれば戦争は無くなる」と!素晴らしい!成長しています。出会いと感動の行進です!


宿の倉敷へ、4連泊です。シャワーを浴び洗濯し、食後市内を散策!もみ所で、疲れを癒す、腰と肩が凝ってます。歩く事は腰にきます、肩は多くの人たちの思いがタスキに!


矢部さんにお願いし、行進終了後(8月4日以降)の広島、長崎の世界大会の宿をJMIUにお願いしてもらいました。兵庫は広島にはあまり行かないとの事で!

松浦宜孝日誌No.26

今日が宵宮、片面は信長・秀吉・光秀が、他面は壇ノ浦の戦いでの登場人物が飾られた立派な黒崎山笠の準備がすすんでいる駅前商店街からの出発です。


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▲出発・後方に山笠


昨年大分から広島を通し行進された県原水協筆頭代表理事の小沢さんも今日は歩くとベトナム風編み笠姿で集まっていた。もっと歩きたいが、今年はありがたいことにオバマ発言の影響か、講演の依頼が多く、忙しい日を送っている。講演はボケ防止には一番いい、また毎日エレベーター・エスカレーターを使用せず階段を使うなど一万歩を歩いて鍛えているとか、身習わねば。


今日も最年少は民医連健和会の人で、今年の入所とか。行進団を若い人の集まりに見せたいからと先頭の横断幕を持ってもらう。


11時の八幡西区役所折尾出張所跡の公園での湯茶の接待と休憩を挟み、12時半までに2代前が長崎の医者出身の町長だった水巻町についた。その町長の功績が現町長にも引き継がれ、平和行政が進められている。


ここでは行進者と出迎えの人80人の到着集会だった。


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▲到着集会でシュプレヒコール


午後の行進でも若い美女2人に先頭に立ってもらったが、やはり健和会からだった。遠賀町の集会は暑いからと町の計らいで庁内を使って行われ、副町長の挨拶に加え、組合の委員長も挨拶に立った。私の中では初めてのことでした。


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▲遠賀町庁内での集会 労組委員長挨拶


休日にかかわらず、職員も多くの人で麦茶と氷水で接待していただいた。今日の終着の岡垣東部公民館ではスイカ、梅干2種類、らっきょうも用意され疲れて空腹の胃を満たしてくれた。


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▲岡垣東部公民館での到着集会

栖原秀夫日誌No.47

8時30分、伯耆町溝口観音堂の前に到着。8時50分、雨の中で出発集会を行う。私は行進に際し、被爆国である日本は非核3原則を堅持しなくてはならないと訴えました。


9時50分、3km歩いて伯耆町吉定公会堂に着きました。休憩し飲み物を頂きました。


さらに1.4km歩いて、10時25分に伯耆町役場に到着。10時45分に伯耆町総務課長から歓迎の挨拶を受けました。お茶の接待も役所から受けました。


11時に再出発をして、4km位歩き、12時に永江団地公民館につきました。


13時に再出発し、宗像神社と米子市民文化センターで休憩し、約8km歩き、島根県への引き継ぎ会場、米子市錦海町団地西入口の公園に、15時30分に着きました。


16時から引き継ぎ式を行いました。17時から、安来駅近くの飲食店で歓迎会を開いて頂きました。


F1010099.jpg▲島根県への引き継ぎ式前に伊谷理事長(中央)と鳥取県内通し行進者の谷口さん(左)、天木さん(右から2番目)、石橋先生(右)と


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▲島根県への引き継ぎ式で歓迎の横断幕を作ってくれた人たちと

竹田昭彦日誌No.17

< 雨と曇天下 シュプレヒコールを響かせる >


北九州市八幡西区、水巻町、遠賀町、岡垣町の行進です。


9時、八幡西区黒崎駅前で出発式を開き、行進がスタートしました。


朝方から降り出した雨は、スタート時に止んでいたが、行進して20分ほどすると雨出しました。


皆さんが、雨具の準備をしており、スムーズに傘をさすなどしました。


その後は、止んだり、降ったり、繰り返し、午後は止みました。


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▲水巻町役場での歓迎式


行進は、主に国道3号線の歩道を歩くので、対向車の車窓に手を振っても、距離が遠すぎて、反応がほとんどありません。


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▲国道3号線の遠賀川橋を渡る=遠賀町


単調な行進に気合いを入れたのは、携帯スピーカーによる歌声とシュプレヒコールです。


シュプレヒコールの音頭を取ったのは、行進事務局の島崎義廣さんです。終始、スピーカーを肩に掛け、頑張っていました。


昨日と今日、募金袋を首に下げ、沿道募金に精出す年配のおじさんがおりました。長年続けておられるそうで、募金される家や店舗を熟知していました。


今年は、行進が両日とも休日になり、閉めている店が多く、募金高が平日の半分以下だそうです。不景気と重なり、募金を出すより、「私の方に募金して下さい」、と言われる世の中になった、とも話します。


午後4時過ぎ、雨降りと曇天の蒸し暑い行進が、終点の岡垣町中央公民館につくと、歓迎の拍手とスイカの接待がありました。スイカの接待は初めてです。一同、美味しく喉を潤しました。


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▲スイカの接待=岡垣町東部公民館


今朝の黒崎駅前での出発集会や、訪問した水巻町役場、遠賀町役場、そして岡垣町東部公民館では、歓迎式が開かれ、休庁日にもかかわらず、各自治体の幹部の方から激励の挨拶やペナントをいただきました。


今日の行進距離は、区間により参加者30~50人で17.5km歩きました。


沿道募金は、9000余円いただきました。


昨日、2か所での署名と募金をいただいた合計は、107筆と3940円です。

竹田昭彦日誌No.16

< 25年続く黒崎駅前の署名行動 >


北九州市八幡東区と八幡西区の行進です。


今日の行進は、宿を出るのが10時だったので、宿の近くにある若戸大橋を見に行きました。若戸大橋は、北九州工業地帯の真ん中にある洞海湾に架かる橋で、若松区と戸畑区を結びます。1962年に開通し、日本で最初に完成した長距離の吊り橋です。全長627m(支間長367m、海面からの高さ42m)あり、当時は東洋一長い橋と称賛されました。


この橋を見て、日本の高度成長はじまりの「シンボル」だったろうと、思いました。


10時半、昨日の行進が終了した戸畑区牧山で、戸畑区から八幡地区(八幡東区と八幡西区)へ引継ぎ式をしました。朝から引継ぎ式をするのは、珍しいです。


そういえば、昨日の午後3時、戸畑駅前で戸畑区から若松区への引継ぎ式がありました。そして若松区の行進は、今日、独自に行います。


八幡東区の行進がはじまり、20分ほどすると、通った高台の海寄りに、旧八幡製鉄(現新日鉄)の本社があった、と聞きました。今は、その跡にマンションが建っていました。
旧八幡市の市歌に、「天下の壮観我が製鉄所」と歌われ、、繁栄が謳歌された八幡製鉄です。今は、溶鉱炉も、製鉄所もなくなり、取り巻く商店街はシャッター通りでした。


私は、1960年から7年ほど製鉄所(日本鋼管)で働いたことがあり、興味のつきない行進コースでした。


午後3時過ぎ、八幡西区の黒崎駅前で署名行動をしました。


黒崎駅前の署名活動は、1984年にはじまり、今年で25年になります。毎月6・9署名行動をしており、1000回近くになるそうです。


0719syomei.jpg▲署名を訴える小沢和秋さん(昨年の福岡県内通し行進者)=八幡西区・黒崎駅前


携帯用スピーカーに書かれた「八幡地区原水協署名推進委員会」の文字を見たとき、歴史と誇りを感じました。聞きますと、長年愛用しているそうです。


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▲長年活躍する「八幡地区原水協」の携帯スピーカー


今日の行進距離は、区間により参加者45~65人で8.5km歩きました。


署名行動は、黒崎の他に八幡東区のレインボープラザ前の商店街でも行いましたが、集計は持ち越しです。


0719izoku.jpg▲平和遺族会の増野ノリ子さん(右)にお会いする=八幡西区・レインボープラザ

松浦宜孝日誌No.25

昨夜の宿泊は海員会館で、コインランドリーで乾燥機を使っていたが、取り出しに行っても乾いてない、壊れていたのだ。改めて他の乾燥機を使っての待ち時間にロビーに居た4人の外国人と酒を飲みながらつたない英語で懇談した。


ミクロネシアから来た研修漁船員で明後日沖縄方面に出港し、次は焼津に向かうという。日本の漁業もこの人たちに支えられているのだ。リーフレットの地図で示しながら、平和運動で6月24日の宮崎から8月6日到着の長崎まで44日間かけて車と徒歩で行進していると言うと、一様に驚いていた。うちの一人はグリーンピースの平和運動はよく知っていると言っていた。


さて今日の出発は昨日終了の牧山の旭硝子工場前から。出発式で戸畑地区から八幡地区への引継ぎも行われ、戸畑の人6人も参加し見送ってくれた。


午前の到着施設前では北九州歌声の仲間が歌で出迎えてくれた。中央商店街などで宣伝署名活動を行ったが、日曜日は閉店の店が多いという。人通りも少ない。近くの各店舗になるべきダイエーグルメシティも閉店売り尽くしセールを行っていた。典型的な大型ショッピングセンターへの客の流れがあるようだ。


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▲出発前の原爆許すまじの合唱


午後の八幡原水協島崎事務局長の出発あいさつで、「小倉原爆」の予定を狂わせた、八幡の8・8空襲のことが紹介され、その後の行進中も地理案内とともに、そこでの出来事が説明された。


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▲午後の出発集会時


標高30メートルの小伊藤山に市の洞窟のような防空壕があり,その中で300人の人々が犠牲になった。入り口は三方にあったのだが、崩れてふさがったり、近くの印刷工場のインクが貯蔵されていてそれが燃えてのガス中毒?窒息死?なのか遺体はきれいだったそうだ。空襲は朝の10時頃のことで、大西産業に学徒動員で来ていた花尾高等小学校の生徒が引率の先生とともに工場の防空壕で犠牲になった。このあたりまでが焼け野原だった等です。


黒崎駅に到着後、早くついたので予定を変更してまず陸橋の上で宣伝署名活動を行った。ここでの核兵器禁止署名活動(6・9行動)は1984年に始まり今年7月で930回を数える伝統的なものです。


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▲初期から使っているハンドマイク


そのときの署名は138筆、カンパ7984円だったそうです。


歓迎集会では八幡西区役所の区次長の挨拶と三役の署名入りのペナントが手渡された。


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▲八幡西区役所三役の署名入りのペナント

栖原秀夫日誌No.46

8時30分、米子市文化ホールに。ピースアクション鳥取2009市民平和行進(鳥取県生協連)の人たちが沢山来ており、一緒に出発集会を行いました。


9時に出発し、9時20分頃に米子市役所に着き、米子市総務課長と境港市総務部次長が待っていました。それぞれ歓迎の市長メッセージを読み上げました。私も挨拶の機会がありましたので、歓迎へのお礼と世界的な情勢から行進を決意したことと、横須賀に原潜が2隻も入港し、「核密約」が明らかになり、「非核3原則」が変更されそうな動きに反対していきたいと決意を述べました。


米子市役所でピースアクションの方たちに送られて再出発。私と一緒に横断幕を持ったのは、鳥取の東部と中部を行進するときずっと「教え子を再び戦場に送るな」の大きな旗を掲げていた「石橋先生」の奥さんの石橋市議でした。


市議になる前は、自治労連県本部の役員だったそうです。パワフルな感じの方でした。休憩時にスイカやアイスを頂きました。


予定より30分位遅れ、12時30分に米子市のはずれの和田公民館に着きました。境港市の方々の「ご接待」で昼食を頂きました。地元の海で採ったテングサで作ったところてんなど、全て地元の作物とのことでした。野菜たっぷりで外食ばかりの私には優しい食事でした。


13時30分に再出発。途中から激しい雨になり、「鬼太郎ロード」を歩く頃は、滝のような雨の中を歩きました。激しい雨でしたが、沢山観光客が居て、例の通り私は大きな声で核廃絶を訴えて歩きました。


境港駅近くの会館で終結。約18km位の行進でした。激しい雨の中の行進、境港市の皆さん、本当にご苦労様でした。帰り道、大雨の中をトライアスロンの参加者が走っていました。車が上げる水しぶきを被っているのを見て、ここまでに成る前に終わって良かったなと思いました。


F1010098.jpg▲休憩時に米子市文化ホールから参加した父子と撮る

栖原秀夫日誌No.45

8時50分、大山町役場前で出発式。町長の激励を受けて出発。本日は鳥取県では一番長いコースです。歩くテンポを早くするように言われる。


途中で水分補給休憩を入れ、約5km位で大山口駅前に10時30分に着く。予定より10分早い。


昭和20年7月28日、この駅の近くで、列車空襲が有ったことを伝える慰霊碑の前で、町会議員から説明を受けました。


11時に再出発。約3.6km歩いて、米子市淀江中央公民館に12時5分に着く。予定より10分早い。地元の方が用意してくれた昼食を頂く。黒豆入りの酢飯むすびが特に美味しかった。


予定より5分遅れの13時20分に再出発。4.7km歩いて、予定より20分早い14時40分に日吉津村役場に着く。村長と議長からは、心温まる激励を受けました。私が代表して、お礼の言葉を述べました。


時間調整で長めの休憩。朝、名和の町を行進していた時に、途中参加してくれた米子市淀江の女性が、此処で帰りました。通し行進の横断幕を一緒に持って貰い、話を聞きました。京都で保育士をしていたそうで、息子さんが考古学を学んだことが縁で、退職後は旦那さんと鳥取県に転居して、妻木周辺で遺跡発掘ボランティアをしているとのことでした。羨ましいですね。また、来年は県内通し行進をしてみたいとも言ってました。楽しみですね。


旧日野橋西詰で休憩をとり、日吉津村役場から約4.9km歩き、予定時間より7分ほど早く、16時53分に米子市文化ホール前に着きました。若い教員が多く参加していました。

松浦宜孝日誌No.24

昨日はコースとしては休養日でしたのでブログは休みました。


広島長崎コースの出迎えでは通し行進者の竹田さんと5月夢の島出発以来の再会で硬い握手を交わしました。門司側との引継ぎ後北九州市役所までの行進では宮崎⇒長崎コースの横断幕を持って同行しました。


今日は北九州市役所前出発式で始まりました。みんながそろうまでの式の前に夾竹桃の歌・原爆許すまじ・折鶴などを歌った。


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小倉の平和行進責任者塩塚さんのあいさつは「アメリカは小倉に原爆を落とす予定だったが前日の八幡の空襲で小倉は煙が充満しており、3回目標物を探したが見つからず、長崎に向かった。私は80歳になるが、長崎の犠牲者の供養のためこの運動を続けている」という主旨のものだった。


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10時30分ごろ境川・上中原橋で戸畑側に引き継がれた後(それまでの参加者63人)、戸畑民商での休憩を挟み、戸畑区役所まで69人で行進を進めました。


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歓迎集会の後、通し行進の竹田さん、県内通し(長崎まで引き続き参加予定)の溝浦さんと私、それに市職労、新婦人の代表等と北九州市唯一の女性区長等と面談、平和行政の更なる努力を要請しました。


午後はJR戸畑までの行進、その後、駅前および商店街で宣伝署名活動を行いました。やはり人口の多い都会の人は中小都市の人と比較しビラの受け取り、署名する人の割合は少ないようです。


ここで枝コースの若松に引継ぎを行った後、牧山の旭硝子北九州工場前まで行進を約40人で行いました。


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松本英治日記No.74

平和行進74日目。快晴。


本日は、昨日の雨とうって変わって快晴、熱くなりそう。


7時10分に宿を出、西大寺の東区役所へ、平和の塔(原爆被爆者の慰霊碑)に献花し、折り鶴を奉納してお参りする。被爆50年と60年の記念塔が両サイドに。竹永みつえ市議のご案内で!記念撮影!


東区役所に戻り、出発集会、土曜日で参加者多い、夏休みに入り子供づれも、やはり若い参加者が多い、オバマ効果か、若者効果かありがたく、うれしい!若い二人もご満悦!


区長さんの挨拶受け、休みにもかかわらず、湯茶の接待もありがたい!通し行進者の紹介と挨拶は若い中平君「被爆者の被爆体験を聞ける、最後の世代です、岡山に入り若い人の参加が増えうれしい!」と!


竹永市議が総指揮者で行進に出発、西大寺は裸祭り(2月)で有名、一度来たいものです、駅前の噴水に裸祭りのモニュメントが!


元気に太鼓叩きながら行進、二人の子ども(兄弟)が横断幕を、途中、カンパ隊にも、パーランクにも、興味を!貸してあげて打って貰う!


もくもくとひたすら歩く、休憩時以降県内通しの谷口朋美さんが、ハンドマイクかかえて、コールと歌を、単調だった行進が、俄然元気に、私にも歌ってと、喜んで「行進版特集」をひととおり歌いました、参加者ノリノリで、若い参加者が多くて、楽しい!


円山のショッピングセンターで昼食休憩、ホルモン焼きうどん定食をボリュームたっぷり、久しぶりでおいしかった。


昼からの総指揮者は県議さん。女の子のお孫さんを連れて先導、名刺渡す。急激な坂道をコールと歌で登る、私も歌いました。山の上に岡山県の原爆犠牲者の慰霊碑と、空襲犠牲者の慰霊碑があり、セレモニー、原水協の代表者、被爆者の代表者の挨拶を受け、お参りを、参加者一人一人お線香を上げお祈りしました。岡山合唱団の山崎弟さん、タスキに記名!


長い休憩の後、山をコールと歌いながら楽しく下り、路面電車の走る市内を県庁へ、元気に楽しく歩く。総指揮者は昔岡山大「みみんこ」で歌っていた崎本としこ市議で記名してもらう!


岡山共立病院で休憩、大きさにびっくり!各休憩時、お茶と凍ったチューペットが用意され、熱した体にありがたい!心配りがうれしい!


京都生協の追っかけさんも参加、全印総連のリレーも完璧、JMIUも確実に!県庁で集結集会、4時解散!宿まで送ってもらい、私は明日行進お休みで兵庫の合唱発表会参加のため、自宅へ!男3人の孫に再会!


昨日、玉野の行進でアコの伴奏と、素敵な歌を歌ってくださいました。濱越さんと福田さん!出発時と行進中宣伝カーで!タスキに記名していただいたのを、思い出しました。

竹田昭彦日誌No.15

< 北九州市 区毎に引継ぎ進む >


北九州市小倉北区と戸畑区の行進です。


9時15分、北九州市役所前で、小倉北区役所の総務課長さん(区長代理)から激励をいただき、行進は戸畑区へ向かいました。


北九州市の行進は、行政区毎に行進実行委員長が替わり、引継ぎをして進みます。小倉北区から戸畑区への引継ぎは、区界を流れる境川に架かる「上中原橋」の歩道でした。幅、2mほどの歩道上に、それぞれ50人ずつが向かい合って行いました。


私は、歩行者も通るので、ハラハラしたが、近くに公園や広場がないのでしょう。地元の人たちは慣れた様子です。短時間でうまく引継ぎました。


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▲小倉北区(左)から戸畑区(右)へ引継ぎ式=区界の「上中原橋」


昼の戸畑区役所訪問では、会議室で行進団の代表が区長さんとお会いし、平和行政の更なる発展を要請しました。区長さんは、ご婦人です。要請後、「ご婦人の区長さんは全国でも初めてでは」、とお聞きしますと、「他にもおられます」とのことでした。


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▲戸畑区長さん(右から2人目)への要請=戸畑区役所会議室


戸畑区役所の庁舎は、全国でも珍しい造りです。玄関前の道路に面して、階段状の観覧席が、屋上方向にせり上げて造ってありました。


これは、役場の建物の一部が、年に1回、1日だけ開催する「戸畑祇園大山笠競演会」(今年は7月25日)の有料観覧席なのです。


私には、異様な「無駄づかい」の典型に見えました。


午後の行進途中、戸畑駅前で署名活動を50分行いました。宮崎県から通し行進をして来た松浦さんが、オバマさんの仮面を付け、盛んにアピールしました。通行人がよってきて、握手を求めていました。


夕方、宿の近くで太鼓と鐘の音が、いつまでも続きます。コンビニへ行く途中、音の鳴る方向に行ってみました。小学生の男女が、祇園祭りに向けて特訓中でした。1人が1分30秒の交替で、男生は太鼓、女生は鐘です。熱心さに、しばらく観察しました。


小さいときから伝承する祭り文化は、太鼓や鐘の音が体内にしみ込み、遺伝子となり、「無駄づかい」だと批判されても、役場の観覧席が成り立った意味合いを、「なるほど」と思いました。


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▲祇園祭りの太鼓と鐘の練習をする小学生=戸畑駅北口・公園


今日の行進距離は、区間により参加者60~20~40人で11.5km歩きました。


戸畑駅前での署名活動では、105筆と募金1050円いただきました。

栖原秀夫日誌No.44

八橋駅を9時に出発。4km位歩いて、赤碕駅に10時頃到着。20分位休憩し、再出発。


2km位歩き、赤碕町坂上の広場に11時頃到着。10分位休憩し、再出発。


3km位歩き、大山町中山公民館に12時頃到着。地元の方の「ご接待」で昼食を頂きました。


13時15分頃に再出発。かなり強い雨の中の行進となり、2回休みましたが、メモを取りませんでしたので、休んだ場所は海辺でしたとだけ申し上げます。


昼食を頂いた所から約7km位、雨の中を歩いて、3時30分頃に大山町役場に着きました。早く着いたので、明日のコースの確認をしながら帰りました。


民商や教員の若い人たちが、頑張っているのを見て、米子の将来は明るいと感じました。

竹田昭彦日誌No.14

< 平和行進 歓迎!のポスターが続く >


北九州市門司区と小倉北区の行進です。


9時半、門司区の鎮西橋公園で出発集会を開き、門司区役所へ向かいました。


門司区役所は、関門海峡が眼下に見える高台にありました。旧門司市役所で、由緒ある建物(国登録文化財)です。


ここで、反核平和マラソン(広島~長崎500km)の友人に出会い、8月8日の長崎の宿(公民館での雑魚寝)を頼みました。


区長代理の総務課長さんから激励をいただき、国道3号線沿いを西へ向かいました。


今日の行進には、お巡りさんが見えず。歩道を歩きます。


コースの沿道には、「歓迎!平和大行進」のポスターが、次から次へと電柱など出してありました。行進が進んで行くと、住民の方たちが行進を待っておられ、拍手で歓迎されました。有志の方からは、差し入れ(金一封)をいただきました。


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▲沿道の住民から激励を頂く=門司区


門司区役所から門司駅まで、50枚出したそうです。門司区の行進実行委員長の波田千賀子さんは、「昨年の2倍の取り組みをした」と話していました。


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▲平和行進「歓迎!」のポスター=門司区


午後1時、門司駅前での出発集会では、大川診療所・歌う会メンバーによる指揮で、合唱しました。歌は、「原爆を許すまじ」、「八月の小倉」、「ふるさと」です。


歌った「八月の小倉」は、1945年8月9日に米軍爆撃機B29が、原爆投下を小倉に定めて飛来したが、曇天だったことから投下を長崎に変更した、悲惨な心情と、核兵器廃絶の決意を歌っています。


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▲大川診療所・歌う会メンバーの合唱=門司駅前


門司区から小倉北区への引継ぎは、区界の手向山トンネルを出た先の道横の広場でした。


ここで、「宮崎⇒長崎コース」のリレー横断幕が合流しました。宮崎から通し行進してきた松浦宣孝さんと、ガッチリ握手をしました。


今日の終了式は、北九州市役所前の公園でした。最後の締めで、「核兵器廃絶を目指してガンバロウ!」など、3本のスローガンを三唱しました。


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▲終了式で「核兵器廃絶を目指してガンバロウ!」を三唱=北九州市役所前


今日の行進距離は、区間により参加者が40~55人で13km歩きました。


門司区コースの沿道募金は、1万5000余円いただきました。

松本英治日記No.73

平和行進73日目。雨。


朝から久しぶりの雨、引継ぎジンクス、小雨がぱらついたが!


8時半宿を、備前市役所で9時出発集会、市長代理と議長の挨拶受け、名刺渡し御礼を!
通し行進者紹介と挨拶私が!「姫路に住んでいて、孫と一緒に歩きました。子や孫たちのためにも、核兵器の無い世界を!」


焼き物の里備前市内をコールしながらの行進、至るところに窯や、展示販売の店が、じっくり見に来よう!常滑、瀬戸そして備前、行進の醍醐味です。


土砂降りの雨の中での行進です、ひたすらもくもくと歩く、雨で太鼓も打てず、手持ち無沙汰!


日本刀の産地、長船支所で昼食休憩、全身ずぶぬれ、カッパ着ていても中と外から汗と雨で。


お弁当いただく。休憩中に洗濯機見つけ乾燥を試みるも時間不足でした。残念、冷たいまま着ました。


本日も若い参加者が多い。昼からパーランク、ビニール袋で包み、叩きながら歩きました。


邑久町竹下夢二の故郷を歩く。家族で牛窓に遊びに、朝鮮通信使の博物館もあった!合併で瀬戸内市に!


瀬戸内市役所で市長代理と議長の挨拶受け、名刺渡す。


私はここから、本隊と別れ、玉野市コースへ、市役所表敬訪問、久しぶりに新市長の黒田さんと懇談、全国の経験を話し、ペナントにサインをお願いし、賛同募金をいただきました。


話が弾み、「若者二人が飛び入り参加して歩いています。平和施策充実と核兵器廃絶のチャンスです、草の根運動と、自治体の力を合わせましょう」と!


議長さんとも懇談、賛同募金いただきました。市長さんから早速ペナントが託されました。行進での挨拶と、可能であれば一緒に歩いて欲しいと。


玉野市内を行進、約一時間、雨も上がり6時から薄暮の行進となりました。市民にアピール、宇高連絡船の港街、以前、姫路文連で直島へ、地底美術館など、おもしろかった!
岡山市内まで送っていただき、回転寿司をご馳走になりました。


赤旗新聞の電話取材を受けました。

森 悦子日誌No.41

今日の行進は、妊娠4ヶ月の女性が参加し、行進もされました。4kmとはいえ大変なことです。明日も水俣病現地調査に参加されると聞き、驚きました。


若い人の参加は、私たちの喜びです。初めて参加の人もいて民医連は頼もしい団体です。帰りにおいしくって、豪華なお食事をご馳走になりました。ありがとう。


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▲阿蘇神社


世界の恒久平和と安全は、人類共通の念願であり、平和を愛する諸国民は、核兵器の廃絶と軍備の縮小を強く希求するところである。


我々は、世界最初の核被爆国民として、核兵器の恐ろしさと戦争の悲惨さをかみしめ、非核三原則の厳守はもとより、この惨禍を再び繰り返してはならないことを、全世界の人々に訴えるものである。


阿蘇市は、恒久平和の基本理念のもと、自由と平和の構築を子々孫々に継承するため、ここに「平和都市」を宣言する。


以上、決議する。


平成21年6月24日 阿蘇市議会


阿蘇市議会に、「核兵器廃絶・平和行政に関する」陳情があり、6月市議会では、次の3点について採択した。1、「核兵器廃絶・平和都市宣言」を決議する。2、原爆投下の日 8月6日と9日にサイレンを吹鳴する。3、クリーンエネルギー政策を推進する。


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午後は、日差しが強く、行進も長い。国公や民医連の若者たちが私を引っ張って歩かせてもらいました。ストレッチを繰り返しながら。ほんとにありがとう。


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▲辛島公園到着


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▲辛島公園での熊本市集結集会

松本英治日記No.72

平和行進72日目。曇り後晴れ。


兵庫県最後の日、9時前出発集会、多くの人と激励の握手を!市長代理と副議長の挨拶を受け、名刺を渡す、県原水協代表の西岡先生が赤穂(義士)事件のことを解説。


通し行進者紹介と挨拶は私が「草の根平和運動の歴史と重みを感じ、オバマ発言の実行を!」平日にもかかわらず、引継ぎでも有り、参加者が多い!


残念ながらうたごえの参加者はさくらんぼの鈴鹿さんと、団の村坂さんのみで寂しい!岡山引継ぎは、いつものこと。私がうたごえ行進旗を!


出発集会後、元気に赤穂市内を行進、私が先導、村坂夫妻にタスキに記名を、川本ゆりちゃんにも、昨日松本あっちゃんにも会えたのに残念!昔のうたごえ仲間!


旧備前街道の町並をコールしながら元気に、専従をやめられた村坂さんと話す、矛盾を感じる、広がりと組織性のギャップ、行進の中でも感じる。


県境の二つの峠越え、登りは歌で、行進で仕入れた、追っかけ歌(森熊行進版、大きな歌、大きな歌の行進版、さんぽ行進版などを歌いながら息を切らして峠越え、下りはシュプレヒコールで、県境を越え、いつものように引継ぎまで歌い続けました。


岡山県との引継ぎ集会、通し行進者の挨拶は私が「兵庫の皆さん10日間お世話になりました、岡山の皆さんよろしく」岡山のうたごえ3人で出迎え、山崎さん毎年、SSDⅡ同窓の小室さんも!握手を交わす!


引継ぎ後すぐ岡山側出発、慌しく車の中で弁当をいただきながら、岡山の説明を事務局長の平井さんから受ける。


兵庫の皆さんは引継ぎ後日、生でおいしい魚でご苦労さん会、今年は残念ながら指をくわえて歩きます。


岡山の参加者は若い人が多くて感激!元気に歌いコールしながらノリノリで楽しい行進です。県内通し行進者も3人中2人が若い。これからが楽しみです。


備前市役所まで海沿いの道を歌い叫び、ノリノリで楽しく行進しました。5時過ぎ着!楽しい一日でした。若者二人は派遣村のシェルターへ!

森 悦子日誌No.40

9時45分お迎え。宇城市役所訪問。昨日会った冨田さんも参加。平和行進は、はじめて参加と言いました。嬉しい。昨日お誘いしたばかりなのに。


市長も市議会議長も不在。こちらの手違いで署名もペナントもいただけず。8月の世界大会までにはとお願いしました。


松橋駅に30人参加で出発式。国公や民医連、新婦人、日本共産党からも参加。冨田さんは軽トラックに「大矢野原日米合同演習反対」というパネルを貼って、ゆっくりと伴走。途中で私が痛くなってストレッチをすると、車に乗るように勧めてくれました。


ちょうど12時に宇土市役所に着きました。市長、市議会議長も不在。おふたりの署名は準備されてあり、受け取りました。ありがとうございました。


大型スーパーまで移動して昼食、熊本野菜ラーメンを食べました。

13時40分、午後の行進開始、15人、次の駅で年金者組合旗を持っていた方が帰ったので、行進者はみな若者、14時20分まで歩いて宣伝カーと一台でピストン輸送。


川尻から熊本工芸会館までふたり一組で署名行動。41筆です。


15時30分、また行進、2回休憩取りながら歩き続け、6時前にやっと辛島公園に到着、長い行進でした。私の足で距離は、17キロ。よくがんばりました。何度も立ち止まってストレッチして、みんなから励ましをうけ、嬉しい一日でした。

竹田昭彦日誌No.13

< 山口県から福岡県へ引継 >


下関市の行進です。


夕方には関門海峡を渡り、山口県から福岡県へ引き継ぎます。


9時半、下関市役所前の公園で出発集会を開き、市長さんの激励メッセージ(総務部長代読)をいただき、行進はアーケードの商店街からはじまりました。


行進しながら、昨日のような豪雨がくるか、曇り空を見上げました。


40分ほど歩くと、第1回目の休憩所(旧国立下関病院前)に着きました。


この休憩所の接待は、手作り紫蘇ジュースが定番だそうです。ペットボトルから注がれる、色鮮やかさが、飲みたい喉を刺激しました。


「今年は少し甘すぎた」と言いながら、手際よくそそぐご婦人は、行進者との会話に、目を細めていました。


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▲休憩所で紫蘇ジュースの接待=旧国立下関病院前


行進が終わりに近づくと、私の後ろを終始歩いていたご婦人が、「今年も歩いたわ」、と満足感を話しました。お聞きしますと、77歳になる稲葉さんです。28、9歳ころから歩いたと話しますから、行進参加を50年間も続けてきた人です。敬意を表します。


山口県内行進11日間、毎日歩いた労働組合がありました。「国土交通共闘」と書いたリレー旗を持った、国土交通省の関連でつくる組合(全運輸、全港建、全建労、全気象)です。


県下の全運輸の2分会(山口陸運支局、宇部海運支局)が主力になって取り組まれました。阿東町の行進(11日)には、5人が参加され、地元の人たちを励ましました。


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▲山口県内を毎日行進した「国土交通共闘」リレー旗=福岡県門司港


夕方6時、山口県から福岡県への引継ぎ式は、門司港で開かれました。総勢60人参加の中、リレー横断幕「広島⇒長崎コース」をはじめ、各団体のリレー旗が無事に関門海峡を渡りました。山口県の皆さま、大変お世話になりありがとうございます。


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▲団体リレー旗が山口県(左)から福岡県(右)へ渡る=福岡県門司港


関門海峡の通過は、宣伝カーが海底トンネル自動車道を、行進者は船で渡りました。私は、宣伝カーで行きました。


今日の行進距離は、参加者40人前後で14km歩きました。


沿道募金は、3万7553円円いただきました。


山口県を行進で歩いた距離の合計は、118kmです。

栖原秀夫日誌No.43

9時に倉吉市役所に。市長さん以下28人が迎えてくれる。鳥取県生協のピースウォークの方たち8人も一緒に出発集会。司会は佐藤市議。市長の歓迎の言葉は、タイムリーな内容であると共に、ご自身の核廃絶への思いが溢れるお話で、私は感動し泣いてしまいました。お礼を申し上げると共に、非核3原則を守るため頑張って歩く決意を申し上げました。


10時50分、北栄町役場に到着。長谷川町議の司会で、副町長と議長が挨拶。職員16人が迎えてくれる。


11時10分、北栄町中央公民館に到着。地元の方から「お接待」で昼食を頂きました。大谷農村公園まで行進し、アジサイ公園まで車移動。14時30分に出発し、15時に琴浦町役場に到着。15時30分に歓迎集会。副市長以下25人が出迎えてくれる。市長と議長から激励金を頂く。倉吉市と琴浦町は、国際署名、非核日本宣言署名などお願いした署名に対し全て応じてくれました。


行進は八橋駅で、米子実行委員会に引き継がれました。本日は10.5km位歩きました。

松浦宜孝日誌No.23

昨日の築城基地についての資料(A4サイズで12ページ分)を徳永市議からいただいているので基地の概要を紹介します。


航空自衛隊は日本列島を北部航空方面隊(三沢)、中部航空方面隊(狭山市)、西部航空方面隊(福岡県春日市)南西航空方面隊(那覇市)の4つに分けて防空任務を分担しており、西部航空方面隊の分担空域は鳥取県、四国以西、日本海西部、対馬海峡、東シナ海を覆っており、日米共同作戦上重要な位置を占めている。そのうち第八航空団がここ築城にあり304飛行隊、第6飛行隊が配置されている。そして、第2高射軍第7高射隊が豊津にある。


米軍再編での築城基地への具体的な動きとして緊急時(戦争)に新田原基地と築城基地を米軍が使用。そのため、基地の使用・運用施設を整備・増強する。整備・増強された施設を使用し、米軍と航空自衛隊の従来型より、より実践なみの訓練を行う。嘉手納基地で行われている深夜や早朝の訓練が築城基地でも実施される可能性がある。


今日は行橋市役所での集会で始まった。出発式では八並市長の挨拶とペナント授与、議会事務局長も出席、最後まで見送っていただいた。


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▲行橋市役所での出発集会


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▲スタート直後


北九州市に12時に引き継ぐまで、11キロ強を苅田町役場集会をはさんで行かなければならず、少しハードでしたが、参加者の平均年齢は今日の行程を理解してのものか、10歳以上はいつもより若く時速4.2キロの速さでも落伍者なしで歩き切った。


事務局の話では例年は気候に左右され間に合わないことが多いと言われたが、今日は天気予報では曇り時々雨だったのに、うす曇りで風もあり、絶好の平和行進日和だったのだ。


午後の行進は北九州市側のスタートは下曽根駅前から目的地は市役所前(7キロ強)でした。


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▲下曽根駅前から行進出発


政令指定都市らしく参加者もぐっと多くなりました。


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▲北九州市役所到着


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▲市に対し原水爆禁止行政ガンバロウ三唱



北九州市は広島⇒長崎コースも受け入れることになり大変だと思う。明日は宮崎⇒長崎コースとしては休養日だそうだが、広島からの出迎えに行くことにした。

森 悦子日誌No.39

9時八代コミュニティー広場に集合して出発式。全通信4人、全労働2人、全建労3人、民医連1人、熊建2人、労災病院1人、新婦人の会1人プラス5人、民商1人の参加です。


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▲熊本で会ったくまけんの旗で~す。


2回休憩とって約2時間歩きました。車2台でピストン輸送。今日は、怪しげな雲が現れ、雨がポツリポツリ!


F1000037.jpg▲これは、全通信の旗で~す。120人の職員仲間が書いてくれたメッセージです。それぞれの思いをしょって歩くとあいさつされると、身が引き締まります。


11時30分行進スタート、12時鏡町アーバン着。昼食は、このスーパーで買って2階を借りて食事、おにぎり2つとほうれん草の白和えにした。民商の人がスイカを切ってくださり、ご馳走になりました。


今日の担当者と3人で車に乗り、13時半、氷川町役場を訪問。町長、副町長不在。熊本県が雇用対策で採用面接に行かれたとのこと。雇用内容について聞いてみたり、派遣村や私が山谷地域で勤務していたことを話したりして、収入役の方が、学生の頃のアルバイトの経験談に花が咲きました。


道の駅直売所の利益が年間6億円あり、利用される方から喜ばれています。調理師を求めています。また、公園の管理なども必要です。すでに町長、町議会議長の署名は、書いて用意してありました。


行進団は13時に出発しており、14時に追いついて砂川まで行進。14時50分に分乗して、15時12分行進スタート、松橋から駅まで。15時34分に到着しました。


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▲松橋駅に到着


「氷川町は、いぐさの名産地。中国製におされて値が下がるばかり。町長は、どこへ出かけても必ず畳の宣伝をして自慢出来る。町では畳替えをする場合、補助金を出します」と、吉川議員。


彼の兄弟姉妹は、みんな兄の影響を受けて、平和行進に参加し、つないできた家族です。すばらしいですね。


松橋原水協の山田さん、新婦人の会から、そしてどこかでお会いした方、すぐに思い出せず。今日の宿泊場所で夕食をと誘ってくださり、嬉しく思いました。


コインランドリーが離れていて大変不便でした。ホテルに帰ったら、18時を過ぎて待たせてしまった。それから2時間、昨年の平和行進の写真集5冊を見てもらいながら話が進みました。誰かしら?と思った人は、冨田さんと言います。5月原爆症認定裁判上告するなと厚生労働省座り込みに熊本県代表で参加された一人でした。


6月1日公害総行動デーでも一緒だったのです。ほんとに会えるなんて最高に嬉しい日でした。

松本英治日記No.71

平和行進71日目。晴れ後にわか雨後曇り。


新宮教会の朝食の準備にきてくれた、元姫路労音事務局員のななちゃん、東播の坂田月代さんの妹ですって!名刺と、うたごえ新聞渡す。


おいしい手作りの朝食いただき、門前で記念撮影!穂積牧師にお礼を言って出発、洗濯お願いした、電気屋さんまで朝の平和行進です。


お預けした洗濯物いただき、記念撮影。ありがとうございます。募金もいただきました。
車で集合場所のJR本龍野駅へ、駅舎の立替工事中、駅前の赤とんぼの像も移転、姫路文連の森正枝さん差し入れの缶ビール持って登場。元市議の山本富士子さんと懇意!うた新渡す!


出発集会で私が通し行進者紹介と挨拶、「対話の行進で、オバマ発言の実行を!」姫路方面からの電車が着き、参加者増える。元職場(JMIUトムソン支部)の同期の佐々木と井垣(西播4日間の通し行進を長年続ける、門前6・9の仲間)さんが!多くの知り合いと握手!


「青い空は」「青い地球を」歌って出発、小京都龍野市内の古い城下町の街並みを太鼓叩き歩く、途中日山大師(原爆の火がある)で休憩予定が、一昨年から中止!住職がお亡くなりになったらしい!


田園地帯を、コールしながら賑やかに、休憩の種畜試験場で相生の出迎え、握手を!元団員の三宅民子(研究生の同期)さんうぐいす嬢で!空模様が怪しくなり、にわか雨が、直ぐ上がる!


相生市役所で市長代理の挨拶受け、名刺を!私が挨拶、「昼から最大の難所高取峠、元気に越えましょう」と!午後1時昼食休憩!


出発集会後、2時出発。造船の町相生市内をコールしながら元気に、高取峠手前で休憩、水分補給し、一気に上りに、うたごえ響かせて「青い空は」追っかけ歌特集「森熊行進版」「大きな歌」「さんぱ」行進版と両方、息を弾ませながら歌い交わし頂上へ、反対車線を歌いながら歩くカーブの連続で交通量多く怖かった!


赤穂事件の早かごのモニュメントの前で休憩、写真撮影!展望台で「あっこが、赤穂(おこお)」!


下りはシュプレヒコール!で一気に!JR坂越駅前で休憩、団員の村坂夫妻(夫人は市議)で迎え、多くの知り合いと握手!市内を市役所に向かって元気に行進、途中3人の子どもがついてきます、横断幕や、パーランクを叩き一緒に歩く!どこまでもついて来るので、途中で帰らす!


5時半過ぎ市役所到着。30キロの東京~広島間最長のコース無事集結!顔見知りにうた新宣伝紙渡す!私の行進日誌がと!


宿で食事をしながら、県内通しの皆さんと交流、昨日に続き。事務局長の梶本さんも!要望いろいろ、全国の経験も!

竹田昭彦日誌No.12

< 行進を豪雨が急襲 無念の中止 >


宇部市、山陽小野田市の、市役所訪問と行進です。


午前、宇辺市役所での出発式には、2人の被爆者が紹介され、被爆体験談と歓迎の挨拶をいただきました。「核兵器と人類は共存できません」と、つよく話されました。


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▲被爆者の方と記念撮影(右から2人目と3人目)=宇部市役所


宇部市役所の職員の皆さんに見送られながら、今日の行進は「暑くなるな」、と覚悟して出発しました。


ところが、1kmくらいすると、急に風と暗雲が出てきて、アッ、と言う間もなく、豪雨が襲いビショ濡れです。


持っていた横断幕も、強風に押され、豪雨で目が開けられず、前が見えません。


お巡りさんも、どうしますか、と対応を即します。


直ぐには、雨宿りする、カッパを着る、逃げ場がありません。


公園がある場所まで頑張って歩き、豪雨が続くと見て、中止となりました。


「雨の日も、風の日も、平和行進」と豪語しても、無理に頑張らない、適切な判断だったと思います。


午後、山陽小野田市の行進では、全盲の大木千代子さん(69歳)と横断幕を持って歩きました。大木さんは、今回が28回目の参加だそうです。生まれた当時の栄養状態が悪く、その後、失明したそうです。


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▲連続28年目の行進をする全盲の大木さん(中央)=山陽小野田市


終戦(1945年)前後は食べ物が無く、私も姉弟の4人が、食べ物を奪い合っていました。姉と私が力尽くで先に取って食べるので、食べる物が無くなり、弟たちは泣いていました。


私が就職するとき、駅での別れぎわに、母は「皿をなめないよう」、言い聞かせました。食べ物の汁などが付いた皿を、私はなめて空腹をしのいでいたのです。


家では注意しなかった母が、世間に出て、はずかしめを受けないよう、注意したのです。


大木さんの話によると、この地域には、行進に38回参加した浅田さん(93歳)がおられると言います。


今は、歩けなくなって介護施設におり、施設の前を通ったときに、玄関で手を振られました。半世紀続いている行進の歴史は、素晴らしいです。


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▲行進者に手を振る93歳の浅田さん=山陽小野田市


宇部の行進が中止したとき、年配のご婦人から封筒をいただきました。出発式のとき、私が話した遺児の悲惨さを聞かれ、私へのカンパでした。ありがとうございます。


今日の行進距離は、区間により参加者が35~45人で6km歩きました。

栖原秀夫日誌No.42

今日はJR泊駅から出発。NHKが取材に来ている。強風で横断幕がヨットの帆の様になり、歩きにくくなりました。空には龍のような雲が何本も上に昇っていき、雨も降り始めました。さすがはNHKです。雨にも風にも負けず、取材を続けています。


10時30分に湯梨浜町松崎の法林寺に。伊谷理事長が待っていました。法林寺で阿弥陀様に手を合わせ、「こころの火」を拝見しました。星野村の「平和の火」を起源とする長野県松本市の神宮寺の「原爆の火」を、阪神大震災で復興活動をした神戸元気村の山田和尚が、2000年に「こころの火」として分灯されたものだそうです。


法林寺では子供会や青年団などのキャンプファイヤーやキャンドルサービスの聖火としているとのことです。NHKの取材はここまで続きました。


11時に法林寺を出発し、11時50分に羽衣会館まで行進。阿弥陀様のお陰でしょうか?雨風も止み、元気に歩けました。羽衣会館では地元の方の「ご接待」でみんなで昼食。昼食後、交流会。私は「非核3原則を守ろう」と訴えました。その後、和室で昼寝。


13時に湯梨浜町役場へ車移動。13時15分に着くと、鳥取県生活協同組合の人たちが待っていました。生協方の音頭で、「ポニョ」などの歌を歌いました。


13時30分から副町長の出迎えの挨拶を貰い、私は出迎えに対するお礼と非核3原則を守るよう政府に言っていくようお願いしました。生協のピースウォークと一緒に、医療生協倉吉診療所に向かいました。


倉吉診療所では、院長の歓迎を受け、お菓子や飲み物を出してくれました。生協の方も缶ジュースを出してくれましたので、交流と考えて頂きました。ピースウォークの方とはここでお別れ、「明日、また会いましょう」と声を掛けられました。


倉吉駅まで元気に行進。三朝高原入口まで車移動。三朝温泉街を元気に行進。


16時28分、岡山大学三朝病院前から町役場まで車移動。三朝町役場では副町長をはじめ9人の職員が迎えてくれました。お礼と「非核3原則」を守るよう政府に言っていくよう要請しました。本日の歩いた距離は14.5km。


F1010097.jpg▲10日から15日まで、いつも先頭で横断幕を持ってくれた円鏡師匠に似てる方と記念写真

松浦宜孝日誌No.22

築上町(合併前の椎田)役場前での集会で今日は始まった。その後車7台で車パレードで築城基地前に移動、あまり台数が多く交通量も多いので最後尾には「平和行進 お先にどうぞ!」と表示した。


基地に向かってシュプレヒコール。


★世界から核兵器を完全になくそう!
★ヒロシマ・ナガサキを繰り返すな!
★築城基地に米軍は来るな!
★米軍再編・強化は絶対許さないぞ!
★来年のNPT再検討会議を成功させよう!
★ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ、ノーモア被爆者!
★憲法九条を守ろう!
★PAC3配備反対!
★被爆国日本は、核戦争阻止で動け!
★被爆者の願いを受け継ごう!原水爆禁止世界大会を成功させよう!
★核兵器のない世界をつくるため頑張ろう!


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▲基地に向かって抗議行動


行橋(泉)丸和前に参加者も増えて車9台でのパレード移動、宣伝署名活動を30分行う。京築地区協議会の署名用紙には住所の欄の次に募金額の欄もあり、中には千円の募金の人もあった。


基地高射隊前に移動し抗議行動を行う。行橋市市議の徳永議員が、この基地での問題点を訴えながら抗議行動を行う。「いま、パトリオット2に変わり、パトリオット3(PAC3)配備の基地強化工事が進められている」。そしてここでも抗議のシュプレヒコール

豊津丸食前に移動して宣伝署名活動を行う予定だったが、移動中に大粒の雨が降り出した。文字通りの日和見でしばらく停車していたが、結局少し早めの昼食をとることにし、「みやこ町」豊津支所2階会議に移動し弁当の到着待ち。私の「晴れ男」効果もそろそろ色あせたのか、2箇所の宣伝署名活動が流れてしまった。


昼食後の空き時間で私に平和行進について話してほしいとの要望で、DVD「鳩ははばたく」を見ようとしたが、今日は連泊で宿に置いて来ていた。仕方なく、口頭でそのあらすじと今年訪問してきた宮崎、大分両県での取り組みの特徴などを含めて報告した。


午後は「みやこ町」本庁までの行進と集会など行ったが、予定より早めの終了となった。今日の参加者は30人だった。


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▲「みやこ町」本庁までの行進


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▲「みやこ町」本庁集会

森 悦子日誌No.38

8時半前にお迎え。宣伝カーの後ろ座席に男性が3人いて楽しい会話。熊本弁でチンプンカンプン。東京土建と同じ団体で元気がいい。


肥後田浦駅から出発。国法務3人、全労働2人、全建労2人、民医連2人、熊建4人、全労災1人、新婦人の会4人、日本共産党1人ほかあわせて21人の参加です。


10時30分、道の駅田浦到着。車に分乗してトンネル2つ越え、海が見えるところまでピストン輸送。揃ったら11時55分、また、行進して12時20分ようやく日奈久温泉に到着です。


F1000036.jpg▲道の駅たのうらのミニトマト みずみずしいミニトマト。袋いっぱい150円。


「なかはら」というお店で予約してあり、美味しい。


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この「なかはら」は、老夫婦がお菓子屋さんを経営されていましたが店を閉じてしまいました。何かに使ってと地元の主婦の数人で始められた食堂です。10種類のおかずが並んでいて、どれもおいしかった。心がこもっていて地場産を使ってほんとに最高!!日奈久温泉「まち歩きガイド本」に書かれています。


食後、日奈久温泉街で署名行動。3人一組で一軒一軒まわり60筆集めました。先日ここはNHKで開湯600年足湯ができたと報道されたばかり。行進者交代しながら楽しみました。


もう一度ピストン輸送。けっこう時間がかかる。14時40分から歩き出し、15時52分最終の八代市役所に到着でした。


午後の参加は、17人。歩行距離は、11kmです。


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相変わらず右足の付け根が痛む。横断幕は、皆さんにお願いして私がパチリと。カンカン照りの一日でした。


16時すぎ八代市役所訪問。市長、副市長不在、総務部課長、企画振興部部長が応対。核兵器は、ないのがよい。平成18年に非核都市宣言を決議しています。


修学旅行や語り部さんに被爆の学習依頼や写真展など取り組まれています。今度図書館に署名用紙をほしいとお願いしました。ペナントは、八代市と書いてあります。


帰り道、たびたび市役所に来て、市側に申し入れをおこなっていると聞きました。さすがです。新日本婦人の会 支部長の言葉です。

竹田昭彦日誌No.11

< 激励の色紙をいただく >


山口市旧小郡町と、宇部市の行進です。


9時20分、小郡支所(山口市小郡総合支所)で出発式を開き、副支所長さんから激励の挨拶をいただきました。職員さん10人の拍手に見送られ、「行ってきまーす!」、と大きな声で答礼し、今日の行進がはじまりました。


小郡支所は、旧小郡町が山口市と合併(05年)する前の小郡町役場です。山陽新幹線の現「新山口駅」も、2003年までは「小郡駅」でした。


支所を出て、市街地を4km行進して、支所に戻ると、支所から冷水の接待がありました。合併しても、小郡支所の平和行進に対する支援は、変わりないと感じました。


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▲プラカード「核兵器をなくそう!」を持ってアピール=山口市小郡


全国津々浦々の行進では、旧街道や、昔からの商店街を行進することが多いです。


今日も、商店街を行進しますと、老舗の奥から年配の人が出てこられ、手を振る方や、レジから手を振る方がありました。


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▲吹き流しの商店街を行進=宇部市新天町


シャッターを閉めている店舗も多くありますが、平和行進が毎年通る、歴史の重みを感じます。


大型スーパーや量販店が進出してくる前の、賑やかだった商店街は、戻ってくるのでしょうか。儲けに走るだけの資本の論理は、昔からの商店街の繁栄と、人のつながりを、根こそぎ奪ってしまいそうです。


宇部市「常磐公園」での出発式のとき、通し行進者3人(上田、岡田、竹田)へ、激励の色紙と折り鶴が贈られました。


私がいただいた色紙には、18人の方から、核兵器廃絶と平和への思いが書いてありました。うれしい限りです。


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▲激励の寄せ書き=宇部市


今日の行進距離は、参加者が区間により25~45人で10km歩きました。


小郡コースの募金は、2071円いただきました。


宇部コースの募金は、17203円いただきました。

松本英治日記No.70

平和行進70日目。曇り後晴れ。


地元を歩くコース、自宅を若者2人と飾磨へ。


多くの参加者と激励の握手を!9時前出発集会、通し行進者の紹介と挨拶私が「70日掛けて姫路に帰ってきました、オバマ発言を実行させましょう」


宮崎家お母さんと紀ちゃん参加、若者に募金も!小田響子ちゃんも、新婚の労音の清生(若者9条の会たけのこ代表)ちゃん元気に歌ってくれる。竜野まで)ありがたい!


地元で、私が先導、コースうろ覚えで間違える、責任者の姫路市原水協事務局長の高島さんに何十年の歩いてるのにと!カンパ持って待っていただいているのにと!今までついていくだけでしたので?反省!


自宅近くの公園で孫の葉久が走って出迎え、女房と参加!多くの人に激励の握手!元気に歌いコールし、太鼓叩きアピールしながら歩く!


葉久ちゃん、熊よけ鈴と、太鼓でご満悦!途中の駅でお別れ、この子等の為にも頑張らねば!


私の名前入りのカンパ袋が撒かれていて袋を持って待っていて下さいます。通し行進者冥利に!ありがたいことです!


昼食休憩の網干市民センターで元団員のちぃろ(加納)とてら(柴田)ちゃんが冷たいトマトで出迎え!ありがたい!


お昼は、近くのステーキハウスで疲れた体が肉を欲している。先日2日連続焼肉パーティだったが!おいしかった!


ヘルスコープ網干診療所(日ごろお世話になってる)で休憩。カンパいただく!


姫路に別れ、太子町役場へ、町議の桜井夫人(私のファン)が出迎え握手を!冷たいトマトも!


副町長の挨拶を受け、名刺交換。町内を竜野に向かって行進、途中で靴底が剥がれ、苦労!靴屋に飛び込むも、3時間かかると、断念!


コンビニ探す時には無し!やっと見つけ接着剤買う!修理は夜!


竜野前の休憩地、解り難いので走って先導!


竜野市で元団員の八十川さん、元市議の山本さん(うた新読者、新竜太鼓の立ち上げ時参加、私が指導)などと握手!


八木副市長の挨拶受け名刺交換、合併前の揖保川町長で、私が指導した揖保川町の和太鼓「川」のこと、話す、アクアホールの杮落としにも鯱で出演しました。また呼んでくださいと!


車移動で新宮町へ、故梶原牧師が、熱心に町内に広められた町、カンパを持って待たれている町民の皆さんが、30分の行進で4万円の募金が、1万円札も!


新宮教会で宿泊、通し行進者全国5人と県内5人と地元の皆さんと交流!私も行ったSSDⅡ(第2回国連軍縮総会・ニューヨーク)当時の魚住、梶原牧師の話に!


憲法守る集会、信教の自由求める集会など、一緒に取り組みました。

栖原秀夫日誌No.41

鹿野トレーニングセンターに8時30分に。8時50分に出発集会。鹿野町の民医連の若い女性が沢山参加している。


9時に出発。鹿野町内を行進する。街並みは美しく、表札の他に家の前に「屋号」の書かれた瓦が置いてあるのが面白い。封筒を持って家の前で待っている方が多い。街の伝統と事前宣伝の賜物でしょう。


10時頃、勝谷地区公民館前で休憩。紫蘇ジュースを頂く。鹿野町を抜けて、気高町に入る。


11時、長泉寺前で休憩。休む度に地元の紫蘇ジュースを頂く。


12時に浜村遊魚センター 魚見で昼食休憩。地元の方たちの「お接待」で食事を頂く。食後に「折り鶴」の歌唱指導を受ける。また、私はベンチで寝てしまう。


13時30分に起こされる。青谷支所に車移動し、13時40分に出発。青谷駅で休憩。私は駅でトイレを借りる。私の姿にビックリしたのか駅員は他の行進者に尋ねていたようで、私がトイレから戻ったら「ご苦労様です」と駅員さん。その間に、地元の有力者は周辺に募金活動に入っていたようです。


15時頃に長和瀬漁港で休憩。また、紫蘇ジュースを頂きました。


16時頃に泊小学校前で数人の小学生が合流。国民平和大行進の横断幕を小学生に持って貰い、小学生を先頭に行進しました。


16時40分頃、本日の終着地、泊駅に到着。終着集会を行い、スイカや冷たい麦茶を頂いて解散しました。およそ16.5km位歩きました。


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▲泊駅前で参加者全員の記念写真

松浦宜孝日誌No.21

中津市民病院前を10時に出発。


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▲暑いので藤棚の下で出発集会


市役所まで行進し、市長・議長に要請行動を行った。総務部長と面談し、ペナントと協賛金をいただく。署名については出来ないとの回答だったが平和市長会の署名は秋葉広島市長から集めることを了解されているということで再考をお願いした。しみず議長からは署名、ペナント、協賛金をいただく。


市役所から山国川の河川敷までの行進の後、福岡県と引継ぎ式を行った。


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▲左大分側右福岡の参加者


引継ぎ式の後、吉冨町まで行進を行いました。役場前集会では「青い空は」をみんなで合唱し、挨拶とペナントを横断幕につけていただいた。


車パレードで上毛町に、豊前市をそれぞれ訪問役場前集会で同様のセレモニーを行った後、豊前市まるしょくまえで宣伝・署名活動を行った。

森 悦子日誌No.37

9時から出発式。初めに通し行進者といわれると戸惑ってしまう。水俣病についても話した。日本共産党からあいさつ。これまで52回続いてきた平和行進、核兵器なくせの運動は、世の中が大きく変わろうとしている。オバマのプラハ演説は、自分が生きているうちはという、しかし、G8サミットでは、核兵器廃絶を議題にと積極的な発言がありました。核兵器をつかわせない、広げさせないために私たちは、今日も歩き続けましょう。


8時50分行進スタート。歩き出して9時40分に車で戻って水俣市役所訪問。入口近くに核兵器廃絶宣言都市の看板がありました。市長はじめ3人が出迎えてくださり、3人ともにその場で署名。熊本県ではペナントがあり、松崎さんが500円と聞くので1000円と答えてポケットマネーで応じて頂きました。


隊列に戻って行進し、次は、津奈木町役場訪問。海で事故が起き、副町長が応対、ペナントもポケットマネーで書いて頂きました。


昼食は、みんなでランチを。また車で芦北町訪問。総務部の課長?5人が並び応対。町長から何も聞いていないとの一転張りで名刺も頂けず。


先の補欠選挙で5000票を取り、次回の候補者も発言。15歳以下の医療費無料を実現させ、全国に先駆けた実績がある。平和の課題についても積極的にとお話ししました。ペナントも初めてと躊躇されたが、「芦北町」と書いて頂きました。行進に追いついたのが13時30分。少し休んで行進、佐敷駅に14時40分着。みんなで分乗して15時09分歩きました。


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▲午後14時40分佐敷駅到着。真っ白な雲、まるでソフトクリームね。


15時35分やっと肥後田浦駅到着。のべ46人。男性の足で25,942歩。ペナントが、用意されていたので私の出番あり。役立ってほんとに嬉しい一日でした。


F1000030.jpg▲肥後田浦駅集結集会。赤いTシャツの彼は、町議を4期され、大手術を2回されていて元気、横断幕を一日中持って私たちの足取りをまとめてくれました。空白地域を埋めていくのが楽しい、生きがいだと話してくださいました。あのずっと山奥に50世帯が住んでいて懇談会を開いたことを話してくれました。都議選で5人も落選したこと。彼は、自民党じゃダメ!と思う人が広がっているのだから、これからどうがんばれるかだよ。東京の皆さん、ご苦労さまでした。

松浦宜孝日誌No.20

宇佐市の観光ガイドブックを見ると「神と仏」「歴史と自然」とある。「神と仏」-全国4万余社の八幡様の総本宮である宇佐神宮がいち早く神仏習合を行い、その境内に弥勅寺を建立しています。


また、東西本願寺の別院がそろって市内にあります。その宇佐市長洲支所から町内一巡で今日の行進ははじまりました。


出発式では県被団協会長もあいさつ「被爆の真実を明らかにし、国家補償を」「核の恐ろしさを世界に」等を話された。


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▲あいさつする宮崎県被団協会長


車移動の後、宇佐神宮周辺でも行進した。


P1000316.jpg▲宇佐市の非核平和宣言塔。以前の塔は台風で壊れ再設置したが今度の場所は少し目立ちにくい


市長・市議会議長要請では市長が平和市長会議長崎大会に参加予定、6日、9日の12時に黙祷のためのサイレンをならす(昨年は故障でならなかったとか)ことが表明された。被団協への補助金が3万円から3千円に削減されている問題では各団体一律3千円にしたが、個別の状況を配慮した見直しが必要との答えがありました。


その後、四日市に移動後の行進、午後は飛永バス停で中津市との引継ぎ式、中津市民病院まで7.1キロを2時間かけて行進しました。


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▲中津市との引継ぎ式

竹田昭彦日誌No.10

< 平和行進に中国人も参加 >


山口県庁と山口市役所訪問、山口市の行進です。


9時、県庁訪問では、県庁前の広場に行進団と県庁職員が整列し、平和行進の歓迎式を整然と挙行する、貴賓客歓迎式典の雰囲気でした。


毎年、行進団の参加者と、同数の職員が整列して行うそうです。


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▲山口県庁での歓迎式


午前の行進では、宮野江良の江良共同墓地にある「原爆死没者之碑」を訪れ、黙祷を捧げました。


この碑は、広島で被爆した兵士が、宮野江良にあった山口陸軍病院で息絶え、穴に埋めて放置したままであったのを、1973年に山口大学ユネスコクラブが発掘調査し、身元不明の13体を収骨したことから、翌年に碑建設委員会が結成され、県民の募金で建立されました。


現在、碑の隣地に「非核三原則の貫徹と核兵器廃絶を誓う」碑を建設中でした。


これは、山口県内の原水協(原水爆禁止日本協議会)、原水禁(原水爆禁止日本国民会議)、労働組合の労連と連合、青年団(日本青年団協議会)など、11団体が核兵器廃絶の一点で統一し、募金で建立するメモリアルです。


核兵器廃絶運動をすすめる、新たなはじまりです。


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▲山口市の宮野江良にある「原爆死没者之碑」


今日の行進には、在日中国人の3人が参加しました。山口県労連傘下の組合に結集する20歳代の女性たちです。研修生として滞在していますが、待遇が良くなく、改善を求めています。


彼女たちは、沿道の人や行き交う車窓へ、積極的に手を振り、「コンニチワ!」と、声をかけていました。笑顔が絶えない、すてきな人たちです。


労働組合を知る前は、苦しいばかりで、泣いていたそうです。


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▲中国人も行進(左から2人目、3人目、5人目)


今日の行進距離は、区間により参加者30~40人で8km歩きました。


沿道募金は、事前に行進が通るお知らせをしていたこともあり、3万5423円いただきました。

松本英治日記No.69

平和行進69日目。快晴。

 

9時、高砂市役所出発集会で若者の鶴田君が通し行進者紹介挨拶。

 

9時半、出発。ブライダル都市高砂市内を元気に行進、本日も「あらぐさ」の太鼓で見送り、西本さん歌いながら行進も!

 

旧街道をうたごえ響かせ、コールでアピールしながら西へ、住吉橋で休憩。本日の神戸新聞東播版に写真入りで行進の記事が掲載され、持ってきていただきました、「姫路市の松本が61歳の誕生日目指して、長崎へ」と!うれしい!

 

姫路市に入り大塩で引継ぎ集会、すし辰さんで昼食名物の箱穴子寿司を矢部さんが、私は盛り合わせ寿司と昆布うどんのセットをいただく。おいしかった!

 

行進中、すし辰のお姉さんが行進団へ募金を!ありがとう! 浜国道を西へ、先導者がいないので、ルートを良く知ってる私が道案内、わが団の参加者5人が後方で歌とコール担当!泥さん得意の自衛隊で鳴らした掛け合いコールを!

 

大きな歌の行進版も即興で!さすが!すごい!

 

灘のけんか祭りの松原神社で休憩、とんさん登場、宣伝カーのうぐいす嬢に!

 

学校帰りの小学生がオバマ仮面に釣られ行進に参加、泥さん大活躍で大きな歌行進版を一緒に歌いながら! 旧街道を飾磨へ、いつもの様に居酒屋賀川さん(私の太鼓の教え子)が冷たい飲み物を用意、もう十年来の事!ありがとうございます!

 

飾磨街道を北上、姫路市役所で市長代理と副議長さんが挨拶名刺を渡し、姫路市民ですと!

 

非核平和宣言都市宣言の碑の前で行進横断幕広げ市議団や、参加者と写真撮影!

 

真ん中の孫、羽久ちゃんと妻が参加、孫と手を繋いで先導!熊よけ鈴にご満悦!

 

大手前公園目指す、姫路の繁華街、御幸通りを歌いコールしながら終着点へ。

 

集結集会、ご挨拶を「元気に帰ってきました!」

 

喫茶「みんと」(太鼓教室の教え子)で年金者組合の皆さんと乾杯!孫と妻も! 帰りに居酒屋賀川さんで食事と乾杯!色んな方に応援募金いただきました。ありがたいことです!

栖原秀夫日誌No.40

8時50分、鳥取駅前で出発集会を行いました。9時に鳥取大学に向けて、鳥取生協病院の若い看護師さんを先頭に歩き始めました。途中、医療生協の会員の方々が沿道に並んで歓迎してくれました。また、原水協事務所の前で、新婦人の方たちの「接待」を受けて休憩しました。


F1010095.jpg▲千代川にかかる八千代橋を渡る「教え子を再び戦場に送るな」の大きな赤旗。


11時30分に鳥取大学に着きました。自転車で買い物に出て、平和行進に出合い、一緒に100m位歩いてくれる「鳥大の女子大生」に出会いました。鳥大では昼食を頂きました。鳥大の教職員の方と交流しましまた。校内にアジアの国々から来たと思われる若者が沢山居て、少し驚きました。


13時、とても人懐っこいケィツ教授が校門まで見送りに見えました。その際に私に質問した言葉「大切な行動です。マスコミの取材はありますか」は印象に残りました。


14時、末恒地区公民館に到着。地元の方からアイスと冷たい麦茶を頂き、冷房の効いた和室で横になる。出発の声が掛かるまでの15分間は全く記憶がない。


15時20分頃に宝木地区公民館に着き、地元の方から冷やしたタオルと手作りの美味しい紫蘇ジュースをたっぷり頂き、疲れが吹き飛びました。


16時をすぎた頃、酒津という漁港の町で、「行進団を上回る人数」のお婆さんたちが出迎えてくれました。歩行補助具に腰掛けられた方の顔をしわくしゃにして涙目で笑っているのが印象的でした。


16時41分、浜村駅に到着。本日の歩いた距離、およそ16km。雨の予報が外れて良かった。本日の宿は、国民宿舎山紫苑。温泉が楽しみです。

竹田昭彦日誌No.9

< みすゞ通を行進 長門市 >


長門市役所訪問と行進、美祢市の行進です。


美祢市の行進は、市役所周辺の他に、美祢市に合併する前の旧秋芳町と、旧美東町を歩きます。


9時、長門市役所で出発式が開かれ、日曜日にもかかわらず、市長代理で総務部長さんが出席されました。そして、市長名と議長名を書いたペナントをリレー横断幕に結ばれ、市長からのメッセージを披露しました。


0712nagato.jpg▲長門市長と議長からのペナントを総務部長(左)が横断幕に結ぶ=長門市役所


行進団は、励ましをいただき、今日も元気に出発しました。


コースは、市街地を通って「さわやか海岸」(北長門海岸)へ。海辺で休憩して、詩人の金子みすゞの名を付けた「みすゞ通り」を歩き、仙崎駅で終わりました。


地元の人に聞くと、みすゞの人気は衰えず、夏休みになると、「みすゞ通り」は大勢の観光客になるそうです。


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▲金子みすゞ記念館前を行進=長門市仙崎


広島県から山口県のコースに入った7月6日から毎日、山口県内通し行進者の上田丈二さん(52歳)、岡田美郷さん(20歳)とご一緒しています。


ご両人とも活発な方で、最初の日から、手を振り、声を出し、元気に歩いています。


上田さんは、マツダの派遣切りとたたかう、裁判闘争の原告団で、正義感の強い方です。労働者の権利を守ることと世界の平和を結んで、訴えています。


岡田さんは、高校生のときから、原水爆禁止運動に参加され、今年は県内通し行進者に挑戦です。山口県で、女性の県内通し行進者は初めてだそうです。


私は、ご両人の若いパワーに押され、がんばっています。


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▲山口県内を通し行進する上田さん(右)と岡田さん(中央)=美祢市


今日の行進距離は、区間により参加者13~20人で9.5km歩きました。


長門市コースの募金は2777円です。

森 悦子日誌No.36

熊本行進2日目は行進お休み。


みなくるバスに乗って湯の鶴温泉センターに行きました。共同風呂で柔らかい温泉。3人しか入ってなくもったいない。ゆっくりしようと思ったが、二度も入れば十分です。途中でのり巻きやケーキを食べながら売り場の椅子を借り、平和行進のことを話してみました。署名用紙を持ってなきゃ。


次のバスの時間まで待てないから歩きました。青空で川やだいぶ伸びた稲とブロッコリーの木々に思いを寄せて歩きました。


ビジネスホテルに帰って読書です。「杉本家の水俣病50年」「僕が写した愛しい水俣」明日からの行進に役立ったらいいと思います。資料館で感動した文を紹介します。


ある予言の中をゆくような
たとえようもないこの苦しみ
ただただこの身はつねにさびしい
朝もなく昼もないのか このくらやみ
目も見えない 聞こえない
これはもう 生まれない前の海に 戻っているのではないか
一代ではない 二代ではない 生を生きて
ひょっとして 先祖の悪いことが などと考えながら
ふと目をあげれば はるか向こうに
草の花のようなのが 流れてゆく
遠く離れて一輪 たしかに花が漂っている
生まれようとしている生命だろうか
もしかしたら あれは わたしではないだろうか


バスを待っている時、76歳のおばあちゃんが「私も水俣病、左足が右足より3センチ短い、きつく引っ張られて、却下された。5センチだったらいいんですって」。夕食を食べて外に出たら、共産党の仁比聡平議員が水俣病救済法の報告と問題点を訴えている場に出会いました。

松本英治日記No.68

平和行進68日目。


東播地方を行進。出発、到着至る所で、東播センター合唱団民謡集団「あらぐさ」が太鼓で応援!西本、角尾さんありがとう!元気付けられます!


明石市二見の合同センター(つばきの明石市議選挙事務所)では毎年、宿泊と食事をさせていただけるとのこと、受け入れ体制万全です。朝食時、明石タコとサラダ、手作りカレーなどなどいただく、おいしくてうれしい!


二見市民センターで出発集会、太鼓と歌で神戸青年の見満さんアコで伴奏、西本さん歌で、角尾さん太鼓で応援!


京都の沓脱さん追っかけで登場、責任者は、西播在住の西井先生!播磨町役場まで元気に行進、清水ひろ子町長(吉永小百合似の美人)が出迎え、歓迎挨拶受け、議長さんも、名刺交換


休日なのにありがたい!元神姫バス争議団のチャコさん町議で活躍中!


加古川市目指し、元気に歌いコールしながらの行進です、日曜日で子供連れの参加者もあり、楽しく行進バージョン、平和の歌を歌いながら行進!


加古川市役所1時着、加古川市長代理の挨拶受け名刺交換。四国~広島コースの浅田さん合流!


昼食休憩、近くの讃岐うどん屋で早くておいしい食事!とろ玉うどん大といなり寿司!
出発集会、円ちゃん今日も!元気に歌い叫び歩く、浜国道(250号線)の旧道(西国街道)を!


高砂支所で休憩、エイサー踊ろう会のおばさんが出向かえに!祝日に支所あけていただき接待を!


国労の本田君が今日も!中野氏はどうして居るやら?(夜も来ず)


高砂市役所4時50分着(10分早く)登高砂市長と副議長の挨拶受け、名刺交換。集結集会。


本日日曜日で、姫路での歓迎集会に!通し行進者5人で参加。


姫路カトリック教会で、民主団体、労働団体、文化団体などなど、約100人の参加で盛り上がる。


ありがたくてうれしい会でした。明日からのファイトをいただきました。元気の出る会でした。


若者たちへのカンパも。同会場でJMIUトムソン支部の派遣切り裁判の支援集会後で大勢の参加者が!がんばれ!


県内のうたごえの仲間も!ありがたいことです!

栖原秀夫日誌No.39

8時40分に若桜(わかさ)町役場に到着し、8時45分に平和行進出発集会を始めました。


小林若桜町長と谷川議長から激励の挨拶とペナントと「寸志」を頂きました。


若桜町内をご高齢の方々と1km位行進し、富枝入口まで車で移動しました。そこから「はつとう道の駅」まで2km位行進しました。そこから八頭(やず)町役場船岡公民館に車で移動し、郡家(こおげ)西地区公民館まで2km位行進し、少し早い昼休みとなりました。地元の方の「ご接待」で、お腹一杯頂きました。


12時30分から公民館周辺の家に40分間署名・募金活動に入りました。私は12軒の家を訪問し、8人の方と話し、11筆頂きました。


13時15分に八頭町役場に着きました。日曜日にもかかわらず冷房の入ったロビーに入れていただき、冷たいお茶の接待を受け、井山副町長から激励の言葉とペナントと「寸志」を頂きました。お礼の言葉を私に任されたので、町の取り組みと激励の言葉への感謝を述
べ、「非核3原則」を守るように政府に言って欲しいとお願いしました。そこから堀越まで3km位行進しました。


そこから国府町総合支所まで車で移動し、鳥取駅南口まで4.5km位を行進しました。途中、2.5km位歩いた辺りの日本共産党の事務所で冷たいスイカをご馳走になりました。午後の暑い日差しの中を歩いて来たので、とても美味かったです。

松浦宜孝日誌No.19

今日は観光地として有名になった湯布院での網の目行進です。以前は宮崎から出発してそろそろ休みが必要だということで休養日になっていたそうですが、せっかくなら温泉でゆっくりしたらと言うことで前泊を湯布院でゆっくりし、1時間程度の行進の後は次の宿泊地に向かうという日程です。


由布院駅を出発し幹線通りを進み、観光客の多い通りを引き返すと言うコースです。このコースは大分からの参加者も親子連れが目立ちます、行進の後は観光と温泉に入って帰ろうということです。


昨年は20人でしたが今年は28人の参加でした。私は先頭を歩いていて気付きませんでしたが、行進の後ろでは観光客で少しだけ歩いてくれた人、コースが逆向きだったら一緒に歩けるのにとか。前向きの反応があったようです。


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▲湯布院での行進には子どもたちも多く参加


宇佐市への移動の途中、遠入さんに日出生台演習場が一望できるところで明治以降の基地の歴史を含め説明していただきました。


基地は15kmの長さがあり、今の大砲は発射点から着弾点まで6kmのところに目標があるそうです。昨夜聞いた雷の轟きはここでの大砲の音だったのです。夜9時3分に訓練終了のサイレンが鳴ったそうです。近くに住む人は夜までかなりの騒音に悩まされています。

森 悦子日誌No.35

熊本県内行進1日目。


朝8時20分お迎え。人吉に向け車で向かっていると連絡があり、人吉に向かう道路の土砂崩れが起きてもおかしくない状態で通行止めになる可能性があり、私が行くのは中止と決まりました。またホテルに戻りました。


私の彼は、時間まで待っているのも嫌なんでと帰って行きました。どんなにうれしかったか。ありがとう。メールがたまっているので午前中は、集中。


午後、タクシーで水俣市立水俣病資料館に行きました。映像による歴史を見て、不知火海を埋め立てて、水俣の痛みをベールに包み込まないでと祈りたい。魚や魚貝類を主食にし、まさかからだに猛毒が垂れ流しになっていた事実は知らされないまま数十年。原爆症と同じだと思いました。


今年の全国公害被害者総行動デーに参加をして来ました。館内を4時過ぎまで回りました。この7月8日国会で民主党も賛成した法律の中味は新聞を読んでいないのでコメントできません。


資料館から見える不知火海は、穏やかで、青々としていました。その昔、企業の繁栄のために人間の命を虫けらのごとく扱われた歴史を直視しなければと思います。本2冊買いました。鹿児島医労連から資料をもらいました。

松浦宜孝日誌No.18

昨夜は阿部さんのお家に泊めていただき、今朝近隣を案内していただきました。阿部さんの庭には長崎山王神社で被爆した楠木の二世が植えてありました。


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▲長崎で被爆した楠木二世


またその兄弟が回天神社にもあり、交流の深さが感じられます。


「回天」は第二次世界大戦時の特攻潜水艇です。


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帰りの燃料はなく、推進能力は敵艦より遅く、潜望鏡の性能は劣っていたため、体当たりも出来ず多くの命が海に沈んでいったのです。時には爆弾が重過ぎて、あるいはハッチを閉めるタイミングが遅くそのまま沈む回天もあったそうです。いかに無謀な戦争を行っていたのかこのことだけでもわかります。日地町はその訓練基地だったのです。回天神社周辺には当時の施設がいくつか保存されています。


今日の出発は豊後路の小京都と言われる杵築市からです。今日も4姉妹の次女と5歳の4女が親子連れで来ていました。熱心さに頭が下がります。


法務局前で出発式の後、北台武家屋敷、駕籠が許された御殿医の佐野家前、商人の町、小藩ながら譜代大名で許された日本一小さい天守閣の下を通り法務局に戻ってきました。


国東道の駅まで車移動の後、そこから国東市役所まで行進しました。国東市では今年初めて平和行進が行われました。


昼食の後、今日最後の行進地、昭和の風情漂う豊後高田市に向かいました。スーパーの駐車場から商店が昔の形態のまま営業している昭和の町並みを行進しました。


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▲豊後高田市の行進


観光客だけでなく地元の購買で商店街が成り立っているのでしょうが、先行きが心配でした。

松本英治日記No.67

平和行進67日目。曇り時々晴れ間。


8時50分出発集会。昨日に続きみどりの解説、じっくり観察、中国侵略の掘り込み、伊勢神宮、橿原神宮、宮崎神宮の方位が刻まれていた。


9時10分出発、いったん須磨方面へ戻り、南側の歩道を海沿いに行進、パーランク叩きながら、さくらんぼの樫村さん山の会で、市役所センターの森原さん、後藤元西播センター団長夫人、南保さん(OGも)参加、挨拶交わす。タスキに記名!


2国を西へ、塩屋より北上し、滝の茶屋から住宅街を訴えながらの行進。


垂水区役所で休憩、区長代理の挨拶受け出発、商店街通り住宅街賑やかに行進、舞子公園・明石大橋下で休憩、老人ホームの方々が出迎え、手作りの七夕飾りと、飴のレイをいただく、よろしくと託される。スイカとお茶の接対を!


明石市役所まで旧山陽道を西へ進む、市長代理の挨拶受け名刺を渡し、昼食休憩近くの食堂でいわしの煮付け定食ボリューム満点おいしかった。到着が遅れ、35分で昼食休憩。いそがしい!


出発集会、姫路労音エイサー部会の上田円ちゃん登場、握手を交わし出発、明石市内を、元気にアピ-ルしながら、海沿いの旧街道を西へ。円ちゃんが初めて平和行進に参加、おしゃべりしながら歩く、メールで土日の行進日程を確認し、来てくれました。うれしい!


休憩時、国労の本田君の奥さんが2人の女の子と一緒に参加(昨日は夫婦で)、歌を一緒に歌う、行進バージョン特集!賑やかに楽しく歩く、矢部さん交通整理を、狭い旧道を車を交わしながら歩く。


途中、西井先生が出迎え、握手を!住吉神社で最後の休憩、巨大な藤の木が有名らしい!樫村さんとお別れ、20分遅れで到着。集結集会、通し行進者の紹介は、鶴田君が!


初参加の円ちゃんの感想を、「明日も来ますと!」


今週号の赤旗日曜版に僕たちの記事宣伝、若者に支援訴え!カンパ寄せられる、ありがたいことです!お風呂(クアハウス)と食事(ファミレス)ご馳走になり、民宿(溜まり場)させていただく、ありがたい!


いよいよ、本日姫路で歓迎会交流会!楽しみ!

竹田昭彦日誌No.8

< 子ども達も平和行進。 >


阿東町、萩市の行進です。


今日は土曜日、学校が休みなので、子どもの参加が多かったです。


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▲幼児も「平和行進で-す!」


とくに、萩市に合併する前の旧須佐町と旧田万川町では、6人の子どもが参加しました。


5年前(04年)、私が「長崎⇒広島コース」を通し行進したときに歩いた子どもが、今回も参加しており、懐かしくなりました。当時1年生だった女の子は、6年生です。


5年前は、「イラク戦争反対」の小さなプラカードを持っていたが、今回は桃太郎旗を持ち、下の子をリードしています。


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▲子ども達も行進(中央の子が5年前1年生)


3日前から、宣伝カーのカセットテープの調子が悪く、困っていました。15分くらい流すと止まってしまう上、自動でA面からB面に切り替わらなくなりました。


その都度、運転手か誰かが、宣伝カーの後部にある機械を操作しなければなりません。地域ごとに、行進責任者や運転手が交代することもあり、大変でした。


原因は、自動でA面からB面に変わるとき(オートリバース)、テープ端に録音されていない余白が長いため、無音の時間が2分7秒ほど生じます。


そのとき、「テープを鳴らせ!」、と行進団から声が飛び、(または、運転手が異常だと思い)、動いているカセットテープを抜き出したりします。それで、テープにノイズが入り、狂ったようです。


解決策は、カセットテープ端に余白の無いよう、満タンに録音することです。テープの話が、途中で切れても大丈夫です。現場の運用では、テープの途中から再生するのが普通です。


なお、片面30分のテープを、60分のテープにすれば、トラブルは少なくなると思います。50~60分くらい行進して、10分休憩のパターンが多いからです。


今日の行進距離は、区間により参加者14~25人で6.5km歩きました。


阿東町コースの募金は9350円です。

栖原秀夫日誌No.38

8時30分、岡山県との県境に近い智頭町の町役場前駐車場に着きました。9時に出発集会を行いました。智頭町役場からは藤原教育長が代表して激励の挨拶とペナントと「お志」を頂きました。


智頭町内を行進する。古くて立派な家並みや酒蔵もあり、改めて落ち着いて来てみたい町です。呼び掛けに応えてくれる人も多い。


車で佐治町に移動する。佐治町の水田には蛙もイモリも一杯いる。無農薬なのでしょうか?佐治町内を小学生を先頭に行進する。あまり人に出会わない。佐治町総合支所でトイレ休憩をする。


その後、車で用瀬町に移動。用瀬町内を平和行進し、流しびなの館の裏にある中央公民館で地元の方々から「お接待」を受け、地元産の食材で作ったお寿司などを頂きました。食後に交流しました。


午後から河原町に入り、河原町内を平和行進し、途中で「梅ジュース」の差し入れがありました。「ニュータウン」で署名・募金活動で各戸訪問に入りました。私は15分間に10軒位訪問し、4人と話し、署名2筆、500円を頂きました。教訓は「最後までやりきること」でした。

森 悦子日誌No.34

鹿児島平和行進最終日。


鹿児島に到着して15日目、行進が始まって13日、いよいよ鹿児島の行進も終わり。今日も元気よく歩こう。


8時20分にお迎えに。実は昨日つれあいの信義さんが東京からやってきました。日焼けした私の顔を見て笑いました。夜は、全医労の後藤さんが友人を誘って食事に誘ってくれました。嬉しかったです。だって私は、おいしい所に案内できる訳がない。本当に楽しい時間でした。きびなごのお刺身は、おいしかった。彼は薩摩焼酎をうまそうに飲み、4人の会話は、愉快で腹を抱え笑いに笑っていい思い出です。


わざわざ出水市まで8時間かけて私の足や体調を気づかって来てくれたことに感謝します。いつも素直になれない私ですが、ほんとにありがとう。今日は、気軽に何でも言える人がいるって、なんて幸せでしょ。


8時45分市役所訪問。市長は不在。市議会議長ともに署名は後で届けていただけるそうです。募金は、きちんと受け取りました。


合併後、2009年4月1日、3月市議会で「出水市平和都市宣言」が決議されました。ここにメッセージを届けます。「出水市は、市民の英知とたゆまぬ努力により、人と自然が融和したにぎわいのあるまちづくりをすすめており、北薩地域の中核都市として限りない発展を続けている。私たちは、平和で豊かな郷土を次の世代に引き継ぐために、再び戦争による惨禍を繰り返さないことを誓い人類共通の願いである恒久平和の理念に基づき、核兵器の廃絶と軍縮を全世界に訴え、ここに『平和都市』を宣言する」


出発式には、たくさんの参加があり、わたしの足も軽やかに声出して行進しました。鹿児島平和行進は、今日でお別れです。足を痛め、皆さんに気づかってもらってばかりで嬉しく思います。コープ鹿児島労組の皆さんには、飲み物や温泉に招待してくださり、足の心配してこえをかけてもらってありがとう、優しさを忘れない。


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▲出水市 出発式


おいしい幸船での昼食、新鮮なお刺身、うまい海老カツ、かぼちゃたっぷりのお汁、腹いっぱい、おいしかった!


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▲昼食を終え、米ノ津を行進。


行進は、まだまだ続きます。この後も、後ろに下がってついていく私でした。ふたりの女性と握手しました。


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▲つれあいが写してくれました。


県境に向けて行進中、綺麗な赤い花を見つけました。


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▲真っ赤な色。


鹿児島県内の行進を終えて、ブロッコリーの山並み、青い空、あざやか草花、虫や鳥たちのさえずり、自然とたわむれながら歩きました。メールを早く当日までに近づきたい、必死だったんです。お湯をはってゆっくり正座をすっかり忘れて足の手当てしなかったことが悔やまれる。残りの行進は、何よりもからだをきづかって歩きます。鹿児島の皆さん、優しい心使いありがとうございました。


県境到着は、14時30分。鹿児島コープの皆さんか゛森さんがんばれー、森さんがんばれーと行進横断幕をはって出迎えてくださり、うれしい!!!


熊本県原水協に引き継ぎました。たくさんの出迎えでさっそく横断幕を持って行進です。


足に自信のない私をきづかーって3人の方が先頭をうれしく思いました。海を見ながら山道を下って行きました。ゆっくりと歩いて水俣駅まで約6kmあります。不知火海を左側に見下ろしながら車ばかり出くわす国道をひたすら歩きました。


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▲県境から水俣駅まで行進


熊本県原水協の5つの課題 ①20万人の署名 ②2万羽の折り鶴 ③平和行進参加 2000人 ④世界大会参加200人目標 ⑤ニューヨークへ20人派遣成功に向けてがんばりましょう。


今日1日の行進距離は、15kmでした。

松本英治日記No.66

平和行進66日目。曇り後雨後曇り。


御影公会堂に、輪田鼓(神戸市役所センター合唱団太鼓チーム)の団長田中氏と樫原さんと坂口さんが太鼓を持って応援に!北川君もありがたい!


神戸青年合唱団の団長堅木さんと兵頭さんも昨日に続き!握手を交わす!


出発集会、私が挨拶し、通し行進者紹介。若者の参加で盛り上がる。


西国街道を西へ、東灘区は震災で大被害を受けた所。王子公園で休憩、雨が降り始める、青年合唱団の見間さん登場、みんな元気か合唱団の坂井さんも!


三宮の繁華街を賑やかに歌いコールしながら歩く、神戸市役所で市長代理の挨拶を受け名刺を!市労連の事務所で昼食。


宗教者平和協議会の新間さん(83歳)の挨拶は分裂した時の苦悩と歴史が語られる。歩けるだけ歩きますと、団扇太鼓叩きながらの行進です。最後まで歩かれました。


県庁で知事代理の挨拶を受け、雨が本降りに!元県議の井村さんと話しながら歩く、内のかみさんの高校の先輩。兵庫区内を歌いながら行進、田中君のギターに北川君のインカムで、私はハンドマイクで歌詞コール。長田区内は、震災時火災で大変だった所。いまだに当時のままの建物が!


神戸共同病院前で冷茶とお絞りの接対、ありがたい。大上君も。後で交流会の計画。


須磨区を歌いながら先導の田中先生が、旧跡の説明を!須磨は源平の戦いの地一の谷。敦盛塚も。


みどりの塔前で集結集会。みどりの塔の解説、八紘一宇(世界を一つの家にする、神武天皇の橿原遷都)の侵略の歴史の証拠!


25キロの行進さすがに疲れました。ビアパーティで乾杯!


宿舎のシーパル須磨に荷物を置き、神戸共同病院の歓迎交流会へ、司会は、元神姫バス争議団の市原さん、なつかしい!


フラダンス、よさこい鳴子踊りも。ご馳走になり元気をいただきました。ありがたいことです!

栖原秀夫日誌No.37

9時30分に岩美駅前に到着。ちょっと激しい雨でした。


9時50分、岩美駅前で鳥取県内平和行進最初の出発集会を行いました。鳥取県原水協伊谷理事長の主催者挨拶がありました。「現在、鳥取県に490人の被爆者がいます。被爆者は火傷がもとで、汗をかく毛穴が塞がって、暑い夏を過ごすのは、とても厳しい」との話が、被爆者の実相として具体的で分かりやすく印象に残りました。


岩美駅を出発する時は、雨が小降りになりました。岩美町役場では、町長はじめ20人以上の役場職員に温かく迎えられました。小雨の中、とても嬉しかったです。


また、その後の行進では、葬祭場でもてなしを受けて休憩しました。平和行進では初めての経験でした。


大谷公民館に着き、周辺のお家を鳥取生協病院の看護士2人と訪問し、お留守のお宅も多かったですが、2軒のお家から募金を頂きました。大谷公民館で、行進団は地域の人たちの「ご接待」を受け、地元の材料で作ってくれたカレーや野菜サラダなどをみんなで食べました。食後は交流学習をしました。


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▲大谷公民館でカレーを頂く前に伊谷理事長と


鳥取砂丘入り口まで車移動し、そこでまた地元の方からスイカを頂きました。


13時30分に出発し、14時20分に原爆慰霊碑に着き、全員でお線香をお供えしました。


14時45分に鳥取市役所に向けて出発。16時頃に鳥取市役所に到着し、深澤副市長はじめ20人以上の職員に迎えられました。歓迎の市長メッセージはとてもタイムリーな内容でした。市議会を代表し、市会総務委員長の激励挨拶がありました。そこに生活協同組合の人たちの平和行進も到着し、鳥取駅まで共に行進しました。


鳥取駅前のモニュメントの前で両行進団はエール交換し、一緒に記念撮影をしました。

松浦宜孝日誌No.17

「一緒に歩いていいですか」別府市内を行進中、店先で立ち話をしていた4人連れの女性が飛び入り参加し、「どこから歩いているんですか」「「どこまで歩くんですか」「原爆なんかなくさないとね」などと話しながら最後尾を一緒に歩きました。


宣伝カーの「一歩でも二歩でも一緒に歩きませんか」の呼びかけだけで本当に歩いてくれる人がいるのは私は初めてです。


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▲休憩中に参加者と記念写真


日地町議会議長への訪問では、これまでは議会事務局で事務的な受け渡しでしたが、今年は議長が在室していて「お客の用事が済んだから入れ」ということで、議長室で面談しました。


オバマ発言からサミットでの政治宣言「核兵器のない世界に向けての約束」などに話が及び、議長は「核兵器をなくすことに保守も革新もない、みんな反対だ」と自らアピール署名とペナントに署名しました。また募金の要請にも「もらうことはあっても出すことはあまりない」などと冗談を言いながらもポケットマネーから募金しました。


日地町も平成の大合併を退けていますが、合併を行った自治体は本庁が遠く離れてしまい大変苦労しているようだとか、あの綾町の農協組合長出身町長が農協と町が一体となっての運営で活躍していることなどが話されました。


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▲別府市と日出町引継ぎ

森 悦子日誌No.33

阿久根市役所訪問。10時から議会があるというので市長には会えず。総務部課長とお会いしました。市役所として1985年9月14日に非核自治体宣言を決議しています。カンパはできない。子どもの教育は、考えてみようと思っているとのこと。

 

市長は、防衛大学、航空隊出身で平和には関心がなく苦手です。市長不信任で解散、出直し選挙で当選。 市の労働組合に対して「人の家に土足であがりこんで失礼ではないですか?」と言い、訴えられています。助成金も署名もしない。私は、いわき市では非核自治体宣言にふりがなをつけて小学生全員に配って平和教育の一環として取り組んでいる話をし、是非とも取り組んでほしいとお願いしました。市長に伝えておくとのこと。

 

コープ鹿児島から2人、全労働2人、全法務2人、全医労1人、民商2人、ほか1人、計11人で行進開始です。市長選挙では対立候補が有利と思っていたこの街は?って驚きだった。私は阿久根市を過ぎるまで核兵器はいらない。原子力発電所もいらない。自衛隊もいらない。平和がいちばん。もちろん、大きな声で「こんにちは、へいわこうしーんでーす」。 駅までに玄関に来て手を振ってくださる人にかけより、握手させてもらいました。10人になりました。

 

宣伝カーの音を聞いて、歩道を渡って「私は長崎で被爆しました」と2千円カンパをいただきました。涙があふれます。車を止めてヤクルトをくださる人。出発式が始まる前、きれいな若い女性が「私は9条が大好き!だからがんばってください」と立ち去る車、励まされました。ありがとう。

 

今日も先頭を歩けていません。みんなについていく、声を出して。道路側の玄関が開いて、ご夫婦が手をふって、次におふたりで拍手、嬉しくてうれしくって。 14時35分、出水市役所に到着です。今日の行進距離は、12kmでした。出水民主商工会の青年は初めての参加。仕事は、車で、足の付け根が痛いと申していました。

竹田昭彦日誌No.6

< 中学生の平和作品展 下松市 >


光市、下松市の行進と市役所訪問、周南市の行進です。


11時、行進が光市から下松市へ引き継がれ、工場街に入ると、大きな工場の2階の窓越しに、手を振る2人の婦人がありました。思いがけない激励です。


市街地に入り、対向車に向かって手を振ると、多くの車窓から手が振られます。ハンドルから両手を離し、振るドライバーもあり、「安全運転大丈夫かしら」、と思うほどでした。


昼過ぎに着いた下松市民会館の歓迎集会のときに、私は、手を振る人が多い印象を話しました。


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▲歓迎の挨拶をする下松市役所の担当課長さん(左)=下松市民会館


すると、司会者から、広島、長崎に原爆が投下された時間に、市役所でサイレンを鳴らすことや、市役所のロビーに中学生の平和を願う作品(工作物)を、月替わりで展示していることなど、話されました。


昼休み、その作品を見せてもらうと、ガラスケースに入っていました。


「作者の願い」と題したプレートには、「核兵器に巻きつく木のつるで、自然の力強さを表し、中央の木の上の折りづるは、平和の象徴と全ての生物の繁栄を願いました」、と書かれ、中学校名と生徒名(5人)がありました。


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▲下松市役所に展示した中学生の平和を願う作品


下松市には中学校が4つあり、作品展示は10年も続いているそうです。


月替わりの展示で、10年間も続いていることは、凄い平和教育だと驚きました。


「作者の願い」を作品化する学習過程と、先生方の指導、それを想像しただけでも、関係者のご苦労と、宝の山がありそうです。


今日の行進距離は、区間により参加者10~25人で20km歩きました。


周南市コースでの募金は、1万2352円いただきました。

松本英治日記No.65

平和行進65日目。曇天。


尼崎市役所9時集合、市長、議長代理の挨拶を受け、名刺渡す。


阪神センターの福島千尋さん登場、本日はアナウンサーだと、歌集を渡し、宣伝カーでアナウンスの間に歌も!さすがです!


神戸市役所センターの笠井副団長も職場から、うたごえ行進旗を持ってもらう!


兵庫県下を西国街道を西へ、出発時と途中から保育園児が参加、大きな鳩のワッペン着けて!


西宮の引継ぎ集会の武庫川河川敷まで、一緒に歩く、孫の姿が!


西宮のうたごえの仲間が歌って出迎え、さくらんぼ(5人)と、こぶし(8人)。平日やのにありがたい!タスキに記名を!


さくらんぼの団長の福田さんCDカセットで伴奏流し、持参のハンドマイクで歌う!私も行進版を披露!「森熊」「平和の歌」(大きな歌の行進版)「さんぽ」オリジナルと行進版など。


こぶしの団長がリレー旗を!


西宮市内をうたごえ響かせて行進、市役所で昼休憩30分、兵庫はひたすら歩くので、忙しい!


出発集会で、山田市長が挨拶、名刺を交換。


中国街道を西へ、歌い叫び、太鼓叩きひたすら歩く。六甲山は雨雲の中。麓は行進日より!


旧国道を西へ、有馬街道、2国を!芦屋市役所で市長代理と議長の挨拶受ける、名刺を交換!


神戸青年合唱団の兵頭さん登場、タスキに名前を!さくらんぼの多田さんも!こぶしも入れ替わり。


終着の御影公会堂へ、戦前からの建物で、映画「蛍の墓」にも登場!


行進中、赤旗日曜版見せていただく、大阪での取材。


素晴らしい記事です。さすが!


宿に荷物を運び、阪神御影駅前の6・9行動に参加。兵頭夫妻の姿も!今朝職場の門前6・9もやってくれてるでしょう!


来月の今日は61歳の誕生日、長崎の世界大会で!

松浦宜孝日誌No.16

今日は本コースに戻って大手公園からの出発です。別府・大分間のシーサイドコースで潮風を受けながら気持ちよく行進できます。海側に車2車線分の自転車道と歩道があり横断幕をいっぱいに広げての行進です。


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▲シーサイドコースを行進


ただ、このコースでは近く車椅子マラソンが予定されており、練習中の猛スピードレース用車椅子がいつ前後から現れるかも知れないので、歩道側は常にあけておく必要がありました。


またここは別府毎日マラソンのコースでもあり、次回テレビで見るときはまた違った視点で見ることができるでしょう。


この間大分市内は4日間かけて約50kmを歩き通しました。ことしは、親子連れの参加者など幅広く、総数でも昨年を上回りました。


13時に別府側との引継ぎ式が東別府駅広場でありましたが、県被団協事務局長の河野昭二さんが挨拶され「皆さんのこのような地道な運動が核兵器廃絶につながります。年をとって思うようにできませんが、一緒にがんばりましょう」と行進団への激励をいただきました。


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▲別府側との引継ぎ式


この後別府大学前駅まで行進を続けました。

栖原秀夫日誌No.36

7時30分に豊岡合同法律事務所の坂本さんが迎えに来る。湯村温泉に9時前に着き、夢千代像を見る。吉永小百合さんの手形は、小さな私の手よりも小さい。


9時30分に温泉町民センター前駐車場で出発集会を行う。谷口町議が主催者挨拶を行う。馬場支所長が激励の挨拶をする。新温泉町は町として折り鶴を広島市に送ったり、広島の老人ホームに温泉を届けたりしているなどの話あり。核廃絶を目指し、平和憲法を讃える議長メッセージも読み上げられました。


行進では多くの住民からカンパや署名や折り鶴が寄せられました。JR東浜駅前で鳥取県への引き継ぎが行われました。18時から鳥取市高齢者福祉センターで平和行進前夜祭が行われました。鳥取県の取り組みが見えてきました。


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▲但馬でいつも一緒に歩いた米田さん(左から2番目)と湊崎夫妻(両端)

森 悦子日誌No.32

草道駅までの行進を変更して西方駅15時に到着しました。


暑い中少し曇っているようで暑い行進でした。すずや食堂で昼食中、宮里住まいの林さんが来られ、三千円カンパを頂きました。


50年前、市役所労働組合書記をしていて6年間平和行進を歩いたが、23歳で結婚後、離れてしまい現在95歳、93歳の両親の介護で通院途中でこの行進と出会って、両親を家に置いてから会えるといいなと思い病院でペンを借りて書いていたとあります。


座ってもらってお話を聞きました。あの当時3日間歩いたそうです。懐かしくって声をかけてくださったんです。ずっと行進が続いて来た成果ですね。もっともっとお話聞きたかった。両親のお世話があるので帰っていかれました。


まわりのみんなは、初めてだと喜びました。お手紙には、「蒸し暑いなかでの平和行進、少しでも平和が訪れますように、今より住み良い世の中になることをねがっています。」宣伝カーとシュプレヒコールの声が届いたんです。


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▲すずや食堂に来られた林さん。ほんとは、ゆっくりお話を聞きたかったです。

松本英治日記No.64

平和行進64日目。曇天時おり小雨。


昨夜雨、何とか上がる。8時過ぎ宝塚市役所へ、昨日市長が広島で被爆後最初に芽吹いたアオギリを根分けして戴き植えると!非核平和都市宣言のモニュメントは、火の鳥(手塚治虫)でした。


市役所周辺を散策!9時出発集会、元気に市内行進、伊丹市へ、住宅地、狭い道を一列でコールしながら行進、スポーツセンターで休憩。うたごえで出迎え、ありがたい!タスキに署名を、裏側に書くスペース少なくなりました。全国の皆さんの熱い思いを肩に背負っての行進です!


行進リーダーと横断幕を持つ矢部さんとトラブル、勝手に横断幕たたむなと、凄い剣幕で「初めてで何処が終着点か解らなかったため」最後まで着いて来いと!説明不足やし、地元は毎年やけど、僕らは初めてなんですよ!


矢部氏怒ってカンパ隊に!来年歩く人たちのため、しっかり総括して下さい。何にも知らない若者たちが歩けるように、改革の苦言を呈します。


長年やられてるので、ご苦労は解りますが、私たちは、全国を歩き、良いところを一杯見てきましたから、あえて言わせていただきます。トラブルが目的ではありません。良い経験を交流したいのです。リーダーも全国通しされてるのに?


元関電争議団の砂野さん登場。タスキに署名を!


伊丹の陸上自衛隊正門前で抗議行動、抗議文を読み上げ、シュプレヒコール!


市内をコールしながら行進、旧西国街道の町並みも!


伊丹市役所で昼食休憩、雨のため出発集会での太鼓中止に残念!


市長代理と議長の挨拶を受け、中平君が通し行進者紹介。大きな拍手が!


ハンドマイクかかえ、市内を歌いながら行進、「折鶴」「青い空は」「大きな歌」「森熊行進版」「さんぽ」(オリジナルと行進版)一緒に歌っていただきました。


休憩地で、奈良の通し行進者浅野さん登場、姫路労音にいた、西口さんも、医療生協で仕事中に歩いていました。挨拶交わす!


尼崎市役所で休憩、挨拶は無し、長い道のりを、市内行進、長いアーケード街を訴えながら、阪神尼崎駅へ。終結集会!


宿でシャワーを浴び、ピ-スバーべキューに招待され、交流しました、団の先輩、勝さんも!お礼に、「折鶴」と得意の姫路の民謡「木場の舟歌」を!


若者たちにカンパも!

竹田昭彦日誌No.5

< 人間魚雷 回天を見る >


柳井市、平生町、田布施町の行進と役場訪問、上関町役場訪問です。


朝から雨降りです。4日に広島の平和公園を出発してから、初めて雨降りの行進です。


9時半、柳井港駅前で出発集会を開き、「雨の日も、風の日も、平和行進」、とあいさつして気合いを入れ、スタートしました。


例年、柳井港駅から柳井市役所へかけての行進は、募金が多く寄せられるそうです。5万円寄せられたこともあったと聞きました。今年は大雨で、募金活動を中止しました。


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▲雨天を行進=柳井市


柳井市役所へ行進団が着くと、玄関に職員の方が20人ほど出ておられ、拍手の歓迎を受けました。その場で、副市長さんから歓迎のあいさつがありました。


話は具体的で、プラハでのオバマ演説や、衆参両院の核兵器廃絶の決議などにもふれられ、市長が平和市長会(会長:秋葉広島市長)に加盟すると言われました。市の積極的な取り組みが伝わってきました。


日本が起こした太平洋戦争で使用した兵器に、「回天」と呼ばれる人間魚雷があります。「回天」とは、魚雷に1人の人間が乗り込み、海を潜って敵艦に忍びより、体当たり爆破するものです。乗り込めば、中からハッチ(出入口)を開ける仕組みが無く、必ず死ぬ人間魚雷です。航空特攻隊よりひどいです。特攻機は、不時着や天候により帰還もあり得ました。


行進の合間をぬって、「回天」の訓練場があった平生町の阿多田と、光市の光井港を訪ねました。阿多田には「回天」の実物大(直径1m長さm)のレプリカ(映画「出口のない海」のロケで使用)と資料館があります。光井港には「回天の碑」があります。


光井港の碑文には、「わたしたちは誓う 未来の子どもたちへ 平和の志を確かに伝えることを」と書いてありました。


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▲回天の碑=光市光井港


今日の行進距離は、参加者12人前後で10㎞歩きました。

松浦宜孝日誌No.15

県下全自治体で平和行進を行いたいということで、今日は竹田市、豊後大野市での市内行進でした。これで1村を除く全ての市町を平和行進が通る予定になります。この2市は昨年久しぶりに平和行進を復活させ、地域の皆さんから温かく迎えられ、行進した地元の皆さんから「来年も是非に」との要望に応えたものでした。


10時からの竹田市では30人近い参加者が小雨の中、市役所から広瀬神社下まで沿道の声援を受けながら行進しました。ここは滝廉太郎の故郷で荒城の月はここの岡城址を歌ったものです。


移動中の車窓から見た岡城址は歌そのもののイメージでした。昼食は原尻の滝の見える道の駅まで連れて行ってもらいベトナム人留学生2人とともにミニ観光もしました。


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▲原尻の滝


13時からの豊後大野市はJR三重駅から町内を市役所まで、地元の人たちの参加者25人(昨年は20人)で行われました。沿道の人々から「がんばってください」「ご苦労さんです」などと激励を受け、行進中7筆の署名も寄せられました。私のコープこうべを退職後云々という挨拶を聞いて、地元市議が実は私もFコープのOBでと経歴の載った名詞を改めてわたしてくれました。平和行進ならではの出会いでした。


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▲JR三重駅から出発


これらの市でも要請行動行っていますが、下記のような要請文を事前に送付した上で行っています。

1、署名「核兵器のない世界を」の国際署名にご賛同いただくこと。また、議員、職員、自治会など住民の皆さんにも協力を呼びかけていただければ幸いです。


2、8月の広島、長崎の日を中心に原爆写真展の開催や被爆者を招いた被爆体験を聞くつどい」などの開催を検討いただくこと。


3、平和市長会議が勧めている核兵器廃絶のための「ヒロシマナガサキ議定書」=都市賛同署名にご協力いただくこと。


4、広島、長崎への中高生の派遣など、非核平和行政をいっそう充実していただくこと。


5、原水爆禁止世界大会への賛同ペナントへの揮毫と平和行進、世界大会への賛同募金にご協力いただきたいこと。

栖原秀夫日誌No.35

午後からの日程なので、のんびりとテレビを見たり、洗濯したりして午前中を過ごしました。


14時20分に国労OBの湊崎さんが迎えに来ました。乗り込んだ宣伝カーには、但馬に入っていつもいる湊崎さんの奥さん、但馬通し行進者の米田さん、平和遺族会の片山さんがいました。


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▲但馬平和行進の最高齢者、片山さんと簗瀬駅前で


3時に簗瀬駅前で出発集会を行いました。朝来市議の鈴木さんが主催者挨拶を行いました。「山東コース」は4時に簗瀬駅に戻り終了しました。


5時30分に朝来市役所前で「和田山町コース」の出発集会を行いました。主催者挨拶を鈴木市議が行いました。朝来市の激励はありませんでした。


平和行進は7時前には市役所に戻り、終了しました。朝来市の両コースとも沿道からの支援が沢山ありました。私が泊まった「てつや」のご主人も「和田山コース」に参加し、お母さんや奥さんはお仕事の忙しい時間にも関わらず、沿道で声援を送ってくれました。私と一緒に歩くご主人が学校帰りの生徒に「お帰り」と掛ける言葉にとても暖かい心を感じました。


旅館にはご主人と帰りました。ご主人は娘さんと一緒に、平和行進の通る沿道にお知らせと署名用紙と折り紙を配布したと教えてくれました。平和行進は見えない献身的な活動に支えられているのですね。

竹田昭彦日誌No.4

< ゾウリをいただく >

 

岩国市の行進と市役所訪問、周防大島町の行進と役場訪問です。

 

昨日、岩国駅前で行進終了式のとき、新婦人(新日本婦人の会)岩国支部まりふ班の方たちから、会員が作ったゾウリ(草履)をいただきました。ミニチュアなので履けませんが、私が小学生のころは日常的に履いていました。懐かしさと、長崎まで歩く足の準備ができた思いです。

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▲頂いたゾウリ

 

自宅から履いてきた靴は、マラソンシューズです。行進一日目(4日)を歩いてみると、きつめで、長距離歩行に合わないことが分かりました。5日に量販店で、軽くて(片足320g)、つま先が広めの靴を買い、履き替えました。マメができてからでは、手遅れです。

 

岩国市役所を訪問すると、新しくなった話題の庁舎でした。 この庁舎は、市民過半数による米軍岩国基地強化反対の意志を、国が、お金の力でひっくり返して「完成」したそうです。

 

そもそも国は、庁舎建設のお金(基地交付金)を出すことになっていたのを、基地強化に反対すれば取り消し、賛成すれば出すと態度を変えたからです。

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▲岩国市長のペナントを頂く(右から2人目)副市長

 

周防大島町での行進(参加者10余人で2km)が役場に着くと、アロハシャッツ姿の職員さん20人ほどに出迎えられました。すごい歓迎です。

 

歓迎式では、町長さんから「核兵器廃絶のために皆さんと一緒に取り組む」、と話されました。そして、職員の署名簿129筆をいただきました。

 

歓迎式に先立つ大島町の行進には、総務課長さんと町議会事務局長さんが、役場代表で参加しました。町をあげての取り組みが、よく分かりました。

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▲周防大島町を平和行進

 

今日の行進距離は、区間により参加者10~20人で15.5km歩きました。沿道募金は1万2672円です。

五十嵐成臣日記 6月27日~7月6日

6月27日


信濃町より飯綱町へ、国道18号を中心に時々集落に入り行進。夜、JMIU長野地本を中心に歓迎会


6月28日


飯綱町役場より国道18号ぞいに行進。豊野支所(長野市)まで行進(晴)


6月29日


豊野支所より田園地帯を行進、「城山公園」(善光寺近く)で須坂コースと合流し、善光寺門前を通り長野市役所へ、夕方より雨の中を行進


6月30日


長野県庁前で出発式、県議会議長があいさつ、NHK長野(当日昼のニュースで放映)や、新聞社の取材などがあり、山梨-東京コースと群馬-東京コースと途中で別れて出発。山梨コースは長野県内最大26km、山中を歩くコース。信州新町まで。


7月1日


信州新町の町内をカンパを集めながら行進、毎年のことで用意し待っている人が多いとの事、犀川沿いに山中を行進、途中で雨の中を明科駅まで行進。


7月2日


明科駅より安曇野を歩く「国道19号」(田園地帯を歩くと思っていたが?)...松本中央公園(松本城)まで行進。


7月3日


松本中央公園より国道19号沿いに旧道を入りながら歩く、中山道村井宿の古い町並みを通り塩尻まで行進


7月4日


塩尻駅より行進「善知鳥峠」(太平洋と日本海との分水嶺)を通過 辰野町役場で上伊那コースと合流。中央本線の川岸駅で引継ぎ。


7月5日


川岸駅より行進、ここでJMIU諏訪地域の支部と合流。岡谷市で記念写真、この後、88歳のお年寄りより原水禁大会の記念品のセンスのさし入れや97歳のお年寄りがカンパを持って平和行進を毎年待っているとのこと(記念写真をとる)。今日は先宮神社が終点。


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▲カンパを持って毎年待っている97歳のおばあちゃんと記念写真


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▲諏訪大社前を行進


7月6日


諏訪教育会館を出発。諏訪市役所で市長・議長の激励を受け、雨の中、甲州街道旧道を行進、夕方茅野市へ。茅野市には平和の炎が運動公園にあり、見学


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▲国道20号を茅野市へ向けて行進

松本英治日記No.63

平和行進63日目。曇天。


大阪最後の日、豊中市役所へ、8時半~出発集会、市長・議長代理の挨拶を受け、中平君が挨拶、大阪府内でのカンパとお世話のお礼をこめて!「人の優しさに触れ、戦争を無くしましょう」と。本日もカンパが!


9時出発、うたごえの参加者が確認できず、通し行進旗持って歩く。市内を元気にコールと太鼓で!


池田市役所で、「青い空は」のうたごえで出迎え、新婦人の皆さんアコ2台、20数人で!とよのうたごえサークル「こぶし」も中に、タスキにサインを!西さんも参加引継ぎに!市長議長代理の挨拶を受け、名刺交換。出発時小雨が、引継ぎジンクス!直ぐ止む!


いよいよ、仲間の待つ兵庫県川西市へ、舞台に音響が接置され、兵庫のうたごえの仲間が歌と太鼓で8人でお出迎え!うれしい!手を振り、握手を。


引継ぎ集会で挨拶、大阪の皆さんありがとう!、兵庫の皆さんよろしく!、慌しくお別れの握手を交わし、記念撮影し、昼食。


12時50分出発集会。川西市長、議長の挨拶代読を受け、うたごえの皆さんの太鼓と歌に送られ、市内へ、アピールしながら、行進兵庫県は、歩道を歩くようです。


交通量の多い狭い道を1列で、行進距離が長く、長蛇の列に、休憩時太鼓で出向かえ、うれしい!宝木さん(日本のうたごえ顧問)も握手を交わす!阪神センターの2人ギターで歌いながら、私も、森熊行進版他歌う。


宝塚大劇場横を通り、手塚治虫記念館前を通過、市役所へ元気に歌いコールしながら、中川新市長(女性)のお出迎え、素晴らしい挨拶を受けました。広島の秋葉さんと仲が良く。互いに行き来!


集会後、医療生協高松診療所で歓迎バーべキューにご招待され、懇談しました。ありがたいことです!久しぶりにお肉をいただきました。疲れた体にしみこみます。

森 悦子日誌No.31

昨日は、国民宿舎さのさ荘に泊まり温泉で水風呂、気泡風呂があり、私の前に入った人が交互に入るとよく温まると。お湯の中で正座すると疲れがとれると教えてもらったのを思い出し、5回ぐらい繰り返したら、なんだか足が軽くなった。


朝も温泉へ。昨日より痛みが治まった気がしてうれしかった。今日は行進のなかでも難関とか。トクホンや湿布を貼って出発式へ。人集まらず。昨日お悔やみが2件も重なったという東市議が担当。


F1000295.jpg▲出発式。みんなの前で足が痛むことを話し、夕べの温泉での足休めの効果があると信じています。


いちき串木野市役所訪問。市長不在。市長と市議会議長から賛助金もらいました。今年は、行進を少し変更しようとなりました。

 

F1000297.jpg▲市役所前。いちき串木野は、まぐろ漁業で栄えました。ビキニ被災で核兵器反対運動が盛り上がった時代がありました。募金も沢山集まりました。



さあ歩きはじめ、昨日より足が軽い。金山蔵まで上り。歩道を一列になって歩いた。水分補給してまた歩いた。顔が汗びっしょり、拭いても流れ出す。大型車が走って宣伝カーは、遠く離れてしまった。途中の郵便局前で一休み。水を飲ませてもらいました。



芦ヶ野ドライブインには11時45分到着。ここまで9キロ行進しました。昼食。車を取りに行って相談。電車移動とか言っていたが、川内市まで宣伝カーとほか一台に乗りました。途中で歩きました。



15時の予定が14時に到着。最後まで参加は8人、全法務2人、全労働2人、コープ鹿児島2人、市議と私。がんばりました。



その後、午後3時から薩摩川内市役所を訪問。総務部秘書室長と市議会事務局課長おふたりの署名と市長、市議会から賛助金を頂きました。


F1000300.jpg▲私と51歳の市議、元市議、さつま西民商、もう一人の5人で要請。赤旗の野中広務氏特別インタビューの記事を手渡しながら「宿敵」だったという人までが平和を語る世の中に変わろうとしている、とうったえました。

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▲ハンドマイクを持ってシュプレヒコールを繰り返しやってくださった。51歳の市議です。人家がありそうだとやりました。鹿児島の方言バージョンもあり、最後までピシッと決まった行進でした。

 

ホテル到着15時30分でした。今日の行進距離は、11キロです。ご苦労様でした。

栖原秀夫日誌No.34

10時に養父市養父地域局前の駐車場で、国民平和行進養父コース出発集会を行いました。


主催者挨拶は予定していた藤原市会議員が市議会出席のため、参加者のほとんどが医療生協の方でしたので、医療生協役員の朝倉さんが急遽する事に。魅力的な声と話し方で、情勢も的確に伝えていました。


街は人通りは少ないのですが、お家から出て来て声援してくれる方が結構いました。署名やカンパを持って待っている方もいました。


養父コース終了後、朝倉さんに声を掛けられて、みんなで珈琲を飲みに行きました。朝倉さんは、八鹿高校事件の闘士で元養父町町長でした。別れるとき、昭和61年に朝倉町長が建てた石碑「非核平和宣言の町 養父町」の前で、朝倉さんと最高齢行進者の方と記念写真を撮りました。


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12時45分に養父市役所前駐車場で、国民平和行進八鹿コース出発集会を行いました。竹浦市議が主催者挨拶し、広瀬市長と市議会議長から激励のメッセージがありました。


養父市は非核宣言を行ったので、石柱を建てるとのことです。朝倉さんは30万円という破格に安い費用で建てたそうですが、この度のはどんな物でしょうか。


八鹿コースの行進も、人通りは少ないのですが、お家から出て来て手を振って声を掛けてくれたり、カンパを渡してくれる方がいました。八鹿コース終了後、みんなで飲んだ差し入れの麦茶がとても美味かった。


医療生協の成田さんに朝来市和田山町の宿、「てつや」に送って貰う途中で、竹田城に連れて行って貰いました。石垣とそこからの景色が素晴らしく、大変不便な所ですが、仲の良い方と天気の良いときに来ることをお勧めします。

松浦宜孝日誌No.14

ベトナム留学生4人が参加!!この裏には二つの相反するハプニングがありました。ひとつは一人が日曜日に参加の予定でしたが、お腹をこわし参加できなくなりました。ところが今度は今日から大学で3人目の新型インフルエンザが出たということで休講になり参加可能となったのです。


ということで今日の横断幕はこの4人娘が,母国語でわれわれには何を言っているわかりませんが、かしましくおしゃべりしながら最後まで持ち続けてくれました。


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▲ベトナム4人娘


休憩や時々3人先頭になった時の話では、講義は英語と日本語でおこなわれ、環境(エコ)について学んでいるそうです。原水爆禁止の活動に参加できたことには感激していました。


12時20分から到着した大手公園で「中央集会」が百数十名の参加で行われ、これまでの中間集計、これからの課題(厳しい職場環境など困難はあろうが、残る期間を全力を挙げて行進を成功させよう。来年のNPT再検討会議に向けて、誰でも参加できる「核兵器のない世界を」の署名に取り組もう。世界大会に多くの代表を送ろう)予定、決意表明 などが報告されました。


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▲中央集会


午後は大分市長、市議会議長、知事、県議会議長に要請行動を行いました。

森 悦子日誌No.30

鹿児島平和行進9日目。


鹿児島平和行進実行委員会の池田さんから東京都議選の不在者投票の封筒をもらい、朝、日置市役所選挙管理委員会にて投票を済ませました。


戻ると出発式が始まっていて、私の出番でした。高江の座り込みが大々的な工事をさせないでいること、都立小児3病院廃止条例で民主党まで巻き込んだたたかいは、小さな力だけどきっと大きな勝利につながっていくに違いない。今日も頑張って歩きましょう。


9時30分スタート。副市長と会う約束でしたが会議が始まり、ドアの外でお会いしました。市長は、奥様の氏名でカンパをもらいました。


10時45分、ゆすいん(日置市伊集院健康づくり複合施設)まで行進。登りがきつかった!休憩。鹿児島野菜ジュースおいしい。


車で移動。東市来駅から行進。昼食は、国民宿舎吹上浜荘でまぐろ丼定食700円を350円負担。私はなしよ。18人で食べたから格別おいしい。


午後の出発まで足湯に。新旧市議の懐かしい歌声。久しぶりとか、楽しい昼休みでした。


午後は、暑い行進でまっすぐの一本道。じつは私は、右足付け根が痛くなってストレッチしながら最後を歩きました。病院にかかったことがないという80歳をすぎた男性がもくもく歩き、私を追い抜いたり、情けない。


今晩は、串木野の温泉です。夕食がマグロ尽くしで食べきれない量でした。


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▲夕食のマグロ尽くし。おいしい!食べきれない!


今日は、日本共産党の新旧議員4人が、一日宣伝カー、伴走車の運転、誰でもできることではありません。感謝感激!今日の行進距離は、12キロ。


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松浦宜孝日誌No.13

大分県内最長のコース佐賀関~鶴崎駅間23キロを医労連、医療生協の人たち計6人が歩き通しました。


天気予報では曇りでしたが、行進が進むにつれて青空が広がり、夏本番の暑さになってきました。入道雲もできましたが、太陽をさえぎる位置ではなく、風も少なかったこと、それにこのコースは行進がサイクリングコースを進むところが多く、宣伝カーと離れているため、ただ黙々と歩みを進めました。(今日は歩くことに専念していたため写真がありません)


昨日の最年少記録が更新されました。今日は午前の後半と午後の途中でそれぞれ4歳の男の子がおじいさんと20分、お母さんと35分参加しました。汗びっしょりになりながら、遅れまいと一生懸命歩く姿は大人に勇気をあたえていました。


JR鶴崎駅到着後、同駅頭で「6・9行動」を行いました。通行人はあまりいませんでしたが、列車から降りてくる人たちに「核兵器のない世界を」の国際署名を呼びかけ30分足らずの行動で高校生など38筆の署名を集めました。

竹田昭彦日誌No.3

< 広島県から山口県へ引継 >


広島県から山口県へ引き継ぐ日です。行進は、廿日市市の大野浦駅から山口県の岩国駅までです。


8時半、大野浦駅に着き、お巡りさんとコース打合せがありました。行進には、毎日6~10人のお巡りさんとパトカーなどが付き、安全を確保してもらっています。国道2号線を歩くときなどは、大いに助かります。対向車を前方200m位で止め、行進団の後方に渋滞した車を、その対向車線を使って通してます。行進は、止まらず進めます。


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▲お巡りさんと打合せ=八日市市大野浦駅前


この3日間、廿日市市のコースで出動されたお巡りさんが、私に、「関門海峡は、どのように行進するのですか」、と聞かれました。一瞬、「意外な質問」と思いました。すぐ、仕事上、気になって、想像したことに気づきました。私も、興味のある関門海峡行進です。


広島県から山口県への引継ぎ式は、国道2号線の広島県大竹市と、山口県和木町の県境を流れる小瀬川の栄橋を渡った右岸広場でした。


午後2時25分、引継ぎ式がはじまり、「広島⇒長崎コース」のリレー横断幕を、無事、山口県へ引き継ぎました。広島の皆さん、お世話になりありがとうございます。


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▲広島県から(左)山口県へ引継ぐ


4時50分、岩国駅に着いたところで、駅前で5時から1時間、署名活動(6・9行動)がありました。20歳前後の人たちが、すすんで署名されるので、大きな「変化」を感じました。これまで、体験のなかったことです。オバマさんが、「核兵器のない世界」を示したことを話すと、知っており、「がんばって下さい」と、激励されました。世の中が変わってきました。


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▲岩国地域原水協の署名活動=岩国駅前


今日の広島県側の行進距離は、参加者が区間により25~30人で11.5㎞歩きました。大竹市役所訪問では、市長さんから激励のあいさつをいただきました。


これまでの広島県の行進距離合計は、44㎞です。


山口県側の行進距離は、参加者が区間により25~36人で6㎞歩きました。和木町役場訪問では、総務課長さんとお会いし、町長さん名のペナントをいただきました。


山口の沿道募金は1万3228円です。岩国駅前の署名活動は13人参加で、81筆いただきました。

松本英治日記No.62

平和行進62日目。曇り後晴れ。


8時に宿を出、高槻市役所へ、45分から出発集会、市長代理が市長のメッセージを読み、名刺交換。


通し行進者紹介と挨拶は私が「若者たちの参加で元気が」月曜日でも、参加者多い。京都府内通し行進した久永さん追っかけで登場、京都民報を持って、熱い握手を!1日歩いてくれ、京都の網の目行進が11日に終了するので、その後元気であれば、姫路のコースに来てくれるかもと!


うたごえの参加者にタスキにサインを戴き、元気に歌いながら市内をアピール。


大きな総持寺団地をうたごえを響かせ行進し休憩。


11時半、茨木市役所前のグラウンドまで市内行進し、昼食休憩。


12時30分出発集会、生協の若いお母さんがたちが、ゴム風船の犬創りのパフォーマンスを!和歌山市民生協の田村さんが、握手を!


市長代理と議長代理の挨拶を受け、通し行進者紹介と挨拶は、矢部さん。


摂津市に向かって元気にアピールしながらの行進です、府内通し行進者6人他にうたごえ新聞を手渡す、パタパタ鶴の楠田さん読者でした、うたごえの仲間も拡大工作していました。


接津市役所で休憩、市長さん議長さんの挨拶をいただく、コープの追っかけ行進者2人にも、宣伝紙を、一人は読者で遅れて着くと言っておられました。


終着の吹田市役所へコールしながら行進です、5時前に到着、市庁舎横にミストが!副市長が市長のメッセージを代読、議長の挨拶を受け名刺交換。


88歳の被爆者の挨拶、「死ぬまで訴えます」と!


行進者紹介と挨拶は中平君が、「人間の優しさを感じながら歩いています、皆が人を思いやることが出来れば、戦争は無くなる」と!涙がでました。日々成長しています!


いよいよ、明日は地元兵庫県へ!

栖原秀夫日誌No.33

10時に香美町役場・村岡地域局前駐車場で村岡地域の商店街を回る平和行進の出発集会を行いました。


集会後、商店街などを歩きました。山に囲まれた高原のような空気を感じました。人通りは少ないのですが、お店やお家から人が出て来て、手を振ったり、声を掛けてくれたり、カンパや折り鶴や署名を渡してくれる方が迎えてくれました。


午後1時に香美町B&G海洋センター前で出発集会を行い、香美町役場に向けて行進しました。横浜育ちの私には懐かしい港の匂いが漂う町でした。但馬通し行進の方の地域の為、沿道の商店からの声援や署名、カンパが多く、取り分け沢山の折り鶴が寄せられました。


香美町庁舎前駐車場で終結集会を行いました。長瀬幸夫町長と副議長が行進団を激励しました。

森 悦子日誌No.29

今日は行進お休み。朝ご飯をゆっくり食べて、コインランドリーへ。


昨日今日でメール日記を追いつかなきゃと思いケイタイとにらめっこ、おかげさまでやっと一安心。


そして鹿児島中央駅まで歩きました。ときどきストレッチしながら地図を見ながらまず白熊くんのお店、抹茶味を写真に写しました。


F1000287.jpg▲白熊くん抹茶味。鹿児島の夏はこれをたべんとね。ミルクと合わせてあっておいしかった。


霧島温泉、そして歌声の会場へ、違っていた。


F1000288.jpg▲これが霧島温泉です。鹿児島には、数多く銭湯がある。お湯はちょっと熱め、気持ちいい。郡元、中村温泉などに入りました。7月3日の花の湯は、岩盤浴もたっぷり楽しませてもらいました。


市電で戻りまた会場へ。第一部は間に合わず、終了まで楽しみました。立ち見の人もたくさんあり、盛大です。団員は、数多くないがハーモニーがよく、客席と一体感があり、ほのぼのとしました。ふるさと、赤とんぼ、翼をくださいなど親しみ多い選曲も良かったです。 障害のある人も会場が一つになって、手拍子、声援素晴らしい。心が満たされました。帰りは歩きました。和菓子屋を見つけて、またまたおいしい。


F1000289.jpg▲市民病院近くで和菓子屋で発見。あんこが大好きな人に!4種類のあんこと抹茶あん、小さめでもおいしい!

夕食は、ホテルで黒豚カツ定食に満足です。まだ7時すぎだというのに寝てしまいました。目が覚めてまたメール、あけても暮れてもメールでした。

竹田昭彦日誌No.2

< 被爆者が逃れた来た山陽道 >


廿日市市の市役所訪問と市内の行進です。


9時50分、廿日市市の市役所で出発式が開かれ、市長さんと議長さん(市議さんが代理)から、激励のあいさつとペナントをいただきました。


市職労さんからは、金一封をいただきました。


皆さんのあいさつでは、オバマさんのプラハ演説が取り上げられました。


アメリカの大統領が、「核兵器のない世界」を示したことは、世界に大きな影響を与えています。


秋葉広島市長の造語「オバマジョリティ」(オバマ大統領+多数派)が、流行しそうです。


廿日市市には、被爆者が4千人おられます。県下で、広島市に次ぐ多さです。


広島で被爆した人たちが、助けを求めて山陽道伝いに逃れ、廿日市市で息絶えた人も多いと聞きました。


廿日市市地御前の西向寺には、原爆や戦争で亡くなった犠牲者たちを供養する、石碑の菩提塔があります。


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▲西向寺境内の菩提塔=廿日市市地御前


平和行進団は西向寺に寄り、住職の奥さんから、戦後に菩提塔建立の経緯や、碑文の説明をいただき、黙祷を捧げました。


西向寺では、「原爆投下以後の9月6日から、絶えることなく毎月6日(月命日)に本堂で法座を勤めています。祥月8月6日には、この石碑の前で、8時15分からお勤めがあります。どなたも御参拝ください(説明文より)」、としています。


住職の奥さんのお兄さんは、山口県の光海軍工廠で空爆死したそうです。


行進には、広島合唱団の方が参加しており、ギターを弾きながら歌い、賑やかでした。


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▲ギターを弾き歌い進むお二人さん


今日の行進距離は、参加者が区間により30~45人で、14㎞歩きました。

松本英治日記No.61

本日は、大阪城近くの宿を7時半出発、8時前に守口市役所に、奈良を一緒に歩いた浅野さんが出迎え!日曜日で私以外は大東コースへ、相棒と若者がいないと寂しい!


出発集会で副市長が市長の挨拶を代読、名刺交換。


私が挨拶「行進50年の重みと、オバマ発言の実行、非核神戸方式も」


大阪府内を西から東に歩く?守口から門真にかけて、パナソニック(松下電器)の企業城下町で大工場や研究所が林立!


愛知の豊田市を歩いた時、不況で、市の税収が十分の一に600億から60億になり大変だと話されていたのを思い出す、ここはどうか?


門真市役所で休憩と集会、市長代理の挨拶を受け、市内を元気にアピールしながら行進、寝屋川市役所で昼食休憩、さしみ付きの豪華弁当をいただく。


出発集会時に右翼の宣伝カーが妨害に、一人が降りてきて、チラシを要求、証拠が欲しいのだろう?何処からお金がでているのやら?行進中何度も遭遇、派手な妨害は無い!
捨て台詞に「無くすのはいいが、日本も持たないと馬鹿にされる」と!


市長代理の挨拶を受け出発、市内を歌いコールしながら元気に成田不動尊まで、丘の高台にデンと!ここで休憩、太鼓の音が、車のお守りの祈祷の太鼓でした。


97年に通し行進した、高橋(大田)真希さん登場、静岡でお母さんが、大阪にいますと言われていたのを思い出す、そうそう、若者の通し行進者でした。さすが経験者、元気にコールをしてくれました。


京都から、行進追っかけの沓脱さん(だんな)も登場、元気に歌ってくれました。京都の沓脱佳音利さんの行進歌集(森熊の行進版、さんぱの行進版、など)活用しています、平群の平和のうた(大きな歌の行進版)も!


枚方市役所で集結集会、先に着いた大東コースの3人と再会のハイタッチ!市長代理の挨拶を受ける。河内風鈴の屋台参加も涼しげな音を!


途中、赤旗日曜版の取材を受ける、高槻の宿でも食事をしながら取材!


食事後、平和のための税理士の山路(府内通し)さんと飲みに、ごちそうさまでした。高槻の駅前は、私の親が一時期住んで居たので昔来たことが。懐かしい!

栖原秀夫日誌No.32

今日、兵庫県は県知事選挙の投票日。午前は出石を11時から歩きました。出石町町長であった奥村忠俊豊岡市議と一緒に行進したためか、町の人から沢山の声援を受けました。奥村さんのお店「出石城」で昼食を頂きました。お皿に載った蕎麦は噛み応えも良く、汁の色は関東人にも馴染めて、味は関西人をも納得させるものでした。私は12皿も食べてしまいました。


午後は豊岡から日高まで9km強を歩きました。80歳代の平和遺族会の方が、私たちを誘導するために走っていました。平和の取り組みを真剣に取り組んでいる方は本当に元気です。沿道からの声援は本当に嬉しいですね。


ところで、本当に僕の声は遠くまで届くのですね。結構広い川、円山川の反対側の家にいたお婆さんが僕が声を出すと手を振ってました。自分でもビックリしました。今日は久し振りに喉が渇きました。

松浦宜孝日誌No.12

昨夕、散策に出かけた。目的地なしにホテルを後に、川沿いに進んでいくと見覚えのあるところ、行進ルートに出た。行進休憩時に寄れなかったお城に登る途中、防空壕を見つけた。このような歴史遺産にも戦争の傷跡を残していた。この近くが八町大路で土曜夜店が開かれていた。


この町には可児醤油(かにしょうゆ)が西暦1600年(慶長5年)江戸時代初期から409年続く老舗で味噌、醤油を作っている。さっそく味噌アイスクリームを注文した。店には板垣退助からの「板垣死すとも自由は死なず」自筆の手紙も飾ってあった。


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▲板垣退助自筆の手紙


一本の通りだけ昔の面影を残した町はよくあるが、この町は横丁、裏通りにも歴史が息づいていた。


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▲路地に入っても美しい


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▲八町大路


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▲午前中の行進


さて今日はあの姉妹は?小学校2年生、4年生も加わって4姉妹になって戻ってきた。他の家族の親子参加もあり、5歳から87歳までの多彩な参加者でにぎやかに臼杵市役所を出発、途中スーパーマルショクで休憩の後、熊崎駅までのべ22人で歩いた。


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▲4姉妹


昼食休憩の後、大分市一尺屋Aコープ跡地で引き継ぎを行い、佐賀関までの6.5キロを休憩をはさみながら行進しました。


途中から降り出した雨は白木の休憩に入った途端に本降りとなったが、ここでは恒例になっているという元町議宅の冷たいスイカ、甘いとうもろこしの接待があり、疲れた体に心地よかった。


5歳の女の子も昨日の5キロ、今日の10キロ強を歩き切りました。

竹田昭彦日誌No.1

< 広島→長崎コース120人で出発 >


2009年平和行進「広島⇒長崎コース」の出発です。


行進は、広島市の平和公園を出て、西区役所と佐伯区役所を訪問し、廿日市市役所まで歩きます。


出発式は、広島平和公園噴水前で開かれ、12時、参加者一同が原爆犠牲者に黙祷を捧げ、広島県原水協代表の大森さんのあいさつ、広島市長さんと同議長さんの激励メッセージなどがありました。


12時20分、行進が出発し、核兵器廃絶を訴える行進団に、行き交う人や車窓から賛同の手が振られ、うれしくなりました。


オバマさんが、プラハで演説した「核兵器を使用した唯一の国として米国には行動する道義的責任がある」との表明が、原爆をなくす展望を与えているように感じました。


私もオバマ演説に励ましをもらい、出発式では「オバマさんも、私も、生きているうちに原爆をなくしたい」と、決意を表明しました。


佐伯区の行進では、家や店から人が出てこられ、折り鶴を1羽、2羽といただきました。すごいなあ、と感動しました。今年は、佐伯区コースを旧街道を歩くように距離を伸ばし、事前に折り鶴や募金の訴えを案内しました。この取り組みは、廿日市市の行進に学んだそうです。


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▲沿道の店の人(右)から折り鶴を頂く=広島市佐伯区



集計しますと、折り鶴250羽、募金1万9800円、署名11筆いただきました。



廿日市市の方は、繁華街にポスター100枚張り出すなど、活動の蓄積があり、約2千羽の折り鶴をいただきました。



今日の行進距離は、参加者120人前後で17.5㎞歩きました。




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▲広島平和公園を出発した平和行進

栖原秀夫日誌No.31

12時30分に京丹後市久美浜庁舎前で出発集会を行いました。


集会後、周辺を行進しました。小雨の中でしたが、沿道から支援の声が掛かりました。


14時に河梨峠で京丹後実行委員会から兵庫県実行委員会に引継ぎました。豊岡合同法律事務所で日程などの説明を受けました。


3時30分に城崎大会議館前で出発集会を行う。雨が降り出し、次第に大雨になる。城崎温泉駅までの温泉街を行進する。呼び掛けに応えて手を振ってくれる観光客、宣伝カーの呼び掛けに気付きカンパや折り鶴を持って店先に立っている商店主。雨はキツかったですが、行進する私が励まされるような良い雰囲気でした。ご高齢の参加者にお歳を尋ねると、84歳とのこと、「毎年参加しているから」と。感激です。


17時30分に豊岡市民会館駐車場で出発集会を行いました。また、雨が降り出しました。激しい雨の中を行進を始めました。大開通りを歩き豊岡駅迄行き、宵田商店街を通って市民会館駐車場に戻りました。激しい雨の中での行進のため、ビックリして見ている人も居ましたが、商店の方々が店先で待っていて、カンパや折り鶴を渡してくれました。ここも好い雰囲気でした。


今日は行進に合わせて雨が降ったようです。今までの逆さまですが、事前の取り組みのお陰で、気持ち良く歩けました。感謝。

松浦宜孝日誌No.11

津久見市は扇子踊りの町であり、またセメントの町でもあります。


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▲市役所玄関前の扇子踊りの碑


この町が今日のスタートです。埋蔵量日本一を誇る石灰石の町はセメントと漁業で栄えた町でもありました。


しかし、漁業はさらに遠洋に、鉱山もセメントも合理化が進み3万8千の人口は今や約2万人に減少しています。


昨夜、町を歩いてスナックの看板の多さに驚いたことを行進をしている地元の人に尋ねると、昔は遠洋漁業の漁師、セメント運搬の船員が多数上陸してスナック街も人であふれていたが今は見る影もないとか。


行進は名前そのままセメント工場のある「セメント町」を歩み、いくつかの採掘でなくなった山と現在露天掘りの進んでいる山、採掘鉱石を運ぶベルトコンベアーを見ながら進みました。


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▲露天掘りの進んでいる山


途中から可愛い5歳の女の子も家族3人で行進に参加しました。


臼杵市に車移動の後、臼杵との引き継ぎ式、津久見だけの人とはここでお別れ。長崎で再会したいと声かけ別れました。


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今日は土曜日で町にこどもが多いいだろうと大分初見参のオバマさんも参加したが、町行く人はあまり気づかず姉妹や参加者にはうけました。八町大路という古い町並みも通って市役所まで楽しく歩きました。お姉ちゃんは明日も参加と言ってましたが妹さんは?


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松本英治日記No.60

平和行進60日目。曇天。


本日は、大阪の繁華街の行進です。住吉区役所(沢の町公園)に8時着、奈良通し行進の浅野さんが出勤前に、スーツ姿で激励に!握手を!


出発集会ぎりぎりに若者到着、セレモニーの後、「青い空は」を歌って、9時元気に市内へ、天王寺公園目指して、アピールしながら行進。


天王寺界隈は建築ラッシュ、近鉄が高層ビルを建設中、20代の頃、姫路から藤井寺の家に帰ってた所、懐かしい!


うたごえ隊が歌って出迎え、ありがたい。繁華街を歌いコールを繰り返し、行進、300~400人の隊列に!うたごえがビルの谷間に響きます。


大阪城・教育塔前で昼食休憩、おかずたっぷりの豪華弁当です。人との出会いと食事も楽しみの一つです。お昼は弁当が多いですが?


1時15分、出発集会、セレモニーで橋本府知事のあいさつ代読。


行進出発時、公園を散策していた、イギリスの少女2人が参加、近くの中学生も一緒に歩く、大騒ぎで、写真のラッシュ!


先日赤旗新聞に行進参加の若者の記事を書いてくれた記者も、「素晴らしい記事をありがとう」とお礼を!若者たちの参加を期待しています。おかげで、カンパも!


イギリスの少女は、次の休憩地大阪市役所まで歩いてくれ、握手をして分かれました。行進団から、パタパタ鶴や、折鶴のレイを掛けてあげました。国際交流に!


南森町を通り都島区役所へ、まさしく大阪の繁華街のど真ん中を歌いコールし、行進団が進みます、途中から網の目行進も加わり、途中参加の人々も含めて500人の行進に膨れ上がりました。


土曜日で、家族連れの姿も、まさしく平和大行進です。終着の旭区役所まで元気に賑やかに!大宮南公園では、地域の子供祭りの最中でした。集結集会で解散。


私は、大阪のうたごえの皆さんとの交流会に、男声合唱団昴の練習場(ねむかホール)へ、約20人の皆さんと交歓しました。歌い語りに元気を戴きました。ほんとにありがたいことです。


多くに皆さんが、歌って参加してくださり、交流会も各地で開いていただき感謝感激です!

森 悦子日誌No.28

鹿児島平和行進8日目。


わたしの足が痛むのを心配してコープ鹿児島労組のおふたりが日当山はの湯に誘ってくれました。


鹿児島の行進では何かとお世話になっています。今日は、よく晴れています。出発式、県国公のあいさつ。オバマ発言、北朝鮮問題もありますが核兵器廃絶へ向けて道すじが出来つつあります。平和行進も大きな意味があります。1日元気で歩きましょう。


医療生協10人「お互いに平和の願いを奮い立たせて!」、全法務2人、全司法3人、全労働3人、全運輸7人、全気象、コープ労組8人、年金者組合4人、民商1人、新婦人の会1人「43年平和行進歩いてきた。希望が見えてきた。青い空を守りたい」、日本共産党3人。


わたしは、沖縄高江の座り込みが政府を動かす原動力になっていること、今日もたくさんの皆さんと歩くことを嬉しく思いますとあいさつ。


11時には国立南九州病院で休憩。12時30分到着、予定通りでした。今日の距離は、6キロ、60人の参加でした。


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▲鹿児島市へ戻る時、桜島だよ


F1000280.jpg▲国道10号、田植え中のところや最中の田園を眺め行進。私に代わってコープ鹿児島労組の人たちが先頭を。一番前の人が交通整理を、私は横断幕から離れてちょっと前を歩いっています。


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▲よく晴れて加治木町役場から出発。12時半、青木水流公園にて集結集会。

森 悦子日誌No.27

鹿児島平和行進7日目。


今朝は、9時25分にお迎え。雨が降ってじめじめしています。昨日の送りとお迎えは民商。離れているので本当にありがとう。


出発式には、民商、全法務、全医労、全運輸、医療生協国分病院、コープ鹿児島労組、日本共産党など60人の参加。雨にもめげず歩きました。


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▲午前、コープ国分店にて休憩して、お茶の差し入れ。しっかり降っています。


11時45分、霧島市役所へ訪問。市長不在。


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▲11時45分雨の中、霧島市役所到着して記念に。


日本共産党市議 宮内さんがリードして、署名のお願い、ポスター2枚貼ってほしいと依頼。パンフレットと今年のバッジ3個をポケットマネーで買ってくれました。


F1000276.jpg▲核兵器のない世界をめざして、日本非核宣言ふたつの署名のお願い。行進中ポスターを庁舎内に貼ってくださいと言うのは、初めての出会いで~す。どこでもやれることですね。


職員に署名を集めてほしいと数十枚お願いしました。またパネル展をとお願いすると同席した職員が7月31日から8月10日までの予定になっていますと回答。市議26年の実績ですね。


昼食終えて、また行進、雨はまだ降っています。コープ鹿児島労組から7人参加されて元気な声と手ふりに答えてくださる人も目立ってきました。


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14時隼人支所に到着。雨がやんでいました。明日は、晴れかな!今日の行進は、8.7キロでした。


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▲午後いつの間にか晴れてきました。隼人支所到着。みんなで記念写真で~す。

松本英治日記No.59

平和行進59日目。曇り後雨


8時40分、和泉市役所で出発集会、市長代理の挨拶を受け名刺を渡す、名刺を持っていない方が多い。市長さんによろしくと!通し行進者挨拶は若者に!年齢を言うと盛大な拍手が、日々成長!


西さんがアコを担いで登場、ギターも2台に、集会前と出発時に歌う「青い空は」と「折鶴」市内を歌いながら、コールしながら、元気に行進。紀州街道を北上、横断幕は泉州平和大行進が先導!


和泉大津市役所で集会、市長代理の挨拶、名刺を渡す、大阪いずみ市民生協労働組合副委員長の松本英児さんが名刺を、私はひではるですと!市内を元気に行進!太鼓でリズム取りながら。


高石市役所で集会、副市長さんの挨拶を受け、名刺交換、障害者作業所の仲間が25人行進に参加、前列で、楽しく行進しました、短時間でしたが、頑張りました。


浜寺公園に1時過ぎ着、昼食休憩、刺身の入った豪華弁当でした、鶴田君のは、氷が解けて、水びたしでした。


1時間20分の休憩で、周辺を散策、昔は賑わったでしょうが、今は、閑散とした、駅前!途中から小雨が、元気に歌いコールしながら歩き、石津太(いわった)神社で休憩、奇祭があるようです。本降りに!堺市役所目指して、雨の中を歌いアピールしながらの行進でした。


市役所に5時過ぎ到着集会を、市長代理の挨拶を受け、名刺交換、通し行進者の紹介と挨拶で私が「対岸の兵庫姫路です、『非核神戸方式』とオバマ発言をの実行を!」


集会後、駅前で通し行進者と地元実行委の交流会があり、楽しく歓談しました、通し行進の経験を交流できました。電車移動で宿へ、南海、地下鉄で大阪の中心へ。大阪城の見える、宿です。


府内通し行進の楠田るみさん大きなパタパタ鶴を持ってアピールと名刺交換、折り方を教わる。

松浦宜孝日誌No.10

地元代表6人で市長、議長を要請訪問し署名・ペナント・協賛金をいただく、今日は写真の校門を持つ佐伯小学校向かいから出発です。


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▲佐伯小学校の校門


時間まで周囲の散策、珍しいものを発見した。「御下櫓」とあり、入るとトイレです。行進前だったので利用しましたが、中は近代的なつくりです。


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▲「御下櫓」=トイレ


これらは女性参加者には不評でした。校門とお城風の塀で2000万円使っており、トイレもかなり高額だったとか、もっと税金はほかに利用してほしい・・・・・。



写真のメンバーで行進スタートし、途中で最高齢者86歳の一団が参加し佐伯市の参加者はのべ36人、造船の町坂ノ浦まで歩いた。


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▲最高齢者86歳の一団が参加


車移動の後、津久井市との引継ぎの上浦まで豊後二見が浦(遠景)を見ながら行進。引継ぎ式のあとは少し寂しくなったが、車移動の後、津久井市役所まで約1時間半を行進し、要請行動を行った。


予約した時間よりだいぶ早かったが、市長副市長そろって参加、署名・ペナント・協賛金をいただく、広島、長崎の被爆写真セットの購入、あるいは広島原爆資料館からの自治体向け借り出しで、公民館活動として展示会、あるいは被爆の語り部などの活動を8月に取り組んでほしいと訴えた。市長からは教育委員会と相談したいとの回答だった。

栖原秀夫日誌No.30

10時、与謝野町加悦庁舎前に集まり、15人位で出発集会を行い、与謝野町野田川庁舎に向けて3km位の平和行進を行いました。


府内通し行進者の久永さんはパンフレットを配りながら沿道の人たちとふれ合い、会話の中で沢山の感動を貰っています。


私は先頭で米山さんに貰った小太鼓を叩くのですが、なかなか上手くできません。天気の良い日、人通りの少ない所で叩いて行き、広島に着くまでに、「法華の太鼓」になれば好いなと思ってます。


11時に野田川庁舎に到着。車で移動。11時半頃、与謝野町と京丹後市の境近くの平地地蔵公園で宮津与謝実行委員会から京丹後実行委員会への引継式を行う。


この公園には少し大きなお地蔵様が居ます。このお地蔵様は「この地方では最大の一揆、文政一揆で獄門にされた一揆の指導者の霊を祀る為に建てられたとも云われている」と、この地方の学校では教えられているそうです。窮民の為に立ち上がり惨殺された指導者は、常に後の世では伝説の英雄なのでしょう。


12時40分に実行委員会として20人位で京丹後市に申し入れを行いました。対応したのは副市長。物腰は柔らかいのですが、前進した回答は得られませんでした。


F1010087.jpg▲京丹後市へ申し入れを行う丹後労連石井議長(左)と丹後合唱連盟岩崎会長(中央)、受ける副市長(右)


13時から庁舎前で出発集会を行いました。副市長が市長メッセージを読む形で挨拶しましたが、TPOにマッチした内容で好感が持てました。


集会後、市役所周辺を25人位で行進し、今日の予定は終了しました。京丹後で私たち通し行進者を運ぶ運転手は教職員組合の素敵な女性書記長。以前は与謝の海養護に勤めていたとのこと。こんな素敵な活動家を育てるなんて、「与謝の海」はやはり素晴らしい職員集団ですね。

森 悦子日誌No.26

鹿児島平和行進6日目。


昨夜は、ビジネスホテル枇榔びろうに宿泊。連絡が不十分だったのか予約先ではなかった。近くのスーパーが休みで食べ物がなしと言ったら1食分間に合うからとと作ってくださり、良かった!


来た時から駐車場の車。気になる。聞いてみるとご主人が志布志事件で闘っている川畑 幸夫さんだと知りました。平成15年、県議選えんざい事件の当事者でした。誰にでも容疑がかけられる危険性があります。えんざいは許せません。詳しくは、「踏み字」で。


平和行進は、常に学習の場です。1回目の行進は4029歩。12人参加。そして車で移動。2回目は、9人。今日の担当は民商。事務局3人+ふたり、朝電話をもらって行進初登場。女性3人の会話がいつも一緒って感じでそばにいて楽しいものです。


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行進中、車が止まりお店に用があるのかと思ったら千円のカンパをもらいました。声をだして、手をふる周りの人々に共感を呼びかけているんですね。


次は、曽於市(そおし)7人で行進。共産党市議の五位塚 剛さんが市長候補として立候補予定、横断幕をいっしょにもって歩きました。一段と張り切って「平和こうしーんでーす」と声たかだかに訴えました。7月19日告示、7月26日投票、頑張ってください。末吉記念館まで行進。歩行距離は、6キロ。


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▲前を歩く人がおらず写真を撮ってくれる人がいなくって急に後ろ向き撮りました。

松浦宜孝日誌No.9

今日は宮崎から大分県への引継ぎの日です。


延岡市役所向かい側、元警察署があった場所が駐車場になっており、そこで出発式が行われた。多忙の中、延岡市長から歓迎挨拶がおこなわれ、2つの署名と被爆者援護募金が手渡された。これで、行進訪問19自治体すべてから2つの署名を集めることが出来た。


集会後、延岡駅まで平和行進を行ったが、行進を待っていた人から千円のカンパが贈られた。


われわれは行進の後、大分県との引継ぎの重岡駅まで車で移動したが、斉藤さんら平和マラソンのメンバーは朝6時30分に延岡裁判所から40キロ弱を6時間半かけて走って重岡駅に現れ、大きな拍手で迎えられた。


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▲平和マラソンを走る若いランナー


メンバーは変わっているが斉藤さんは30年近く毎年走っているとか。


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▲30年近く平和マラソンを続ける斉藤さん


宮崎の引継ぎの挨拶では県内の行進で昨年を上回る620人の参加があり、行進後の署名活動で900筆のアピール署名が集められたことが報告された。


引継ぎ式の後、ドライブインまでと車移動の後、一日上下各3便しか停車しない上岡駅から佐伯大手前公園まで平和行進を続け35人が参加した。

松本英治日記No.58

平和行進58日目。晴れ後曇り。


昨日と打って変わって日差しがきつい。出発セレモニーで大阪は生協さんが主催者挨拶、市長代理の挨拶を受け名刺を。


うたごえの仲間が、ギターを持ち5人で参加、ありがたい!集会前も歌う会。


行進中も元気なうたごえが響きます、「ミッキーマウスの替え歌」はリズミカルでノリノリで最高、若者たちも入りパーランクで伴奏、パーランクを持っての参加者も。2台に!


貝塚市役所でもセレモニー、副市長の挨拶を受け名刺交換、市内を歌いコールしながら元気に!旧街道を泉州平和大行進の横断幕先頭に!市内行進!


岸和田城内の市役所で昼食休憩、本日は大阪最長の行程で35分で集会、副市長の挨拶を受け名刺交換、だんじりのやりまわしの町並みを歌い叫びながら元気に楽しく行進!だんじり見物に来たいものです。衣装グッズを売る店も沿線に!


忠岡町役場で大阪のうたごえの皆さんが歌いながら出迎え、豊田さん高橋さんらと握手、ありがたいことです。和田町長さんの挨拶を受け、名刺交換!歌いながら元気に町内行進、常時歌声が響く楽しい行進になりました、若い参加者もおり、ノリのいい行進でした。矢部さんが挨拶の時初めての参加者に手を上げてもらうと10人ほど、楽しんでいただけたかな?来年も歩いてくれるかな?


終着の和泉市役所では、冷たく冷やした、葡萄ジュースと冷やしあめ湯がおいしゅうございました。24キロの疲れが吹っ飛びました。実に楽しい行進でした。

栖原秀夫日誌No.29

昨夜は西舞鶴繁華街を行進した後、私は溜まった洗濯と毎日の報告の為、失礼しましたが、府内通し行進者の久永さんと横須賀から私の激励に来た米山さんは映画「ニワトリはハダシだ」のロケ銭湯「吉原・日の出湯」に入って来たそうです。


漁港舞鶴の吉原にある「日の出湯」と言うと、名前だけで想像してしまいます。長い船旅で朝着いた漁師が遊郭に行く前に垢を流した銭湯に二人の女傑が入ったとは・・・。


今朝はまず、舞鶴実行委員会から宮津与謝実行委員会に引き継がれました。


宮津市役所では森総務室長から市長メッセージと賛助金を頂きました。宮津市職の小濃委員長から激励の挨拶を受けました。やはり京都です。自治労連が強い。蜷川府政の宝物、与謝の海養護で働いていた人たちが行進に沢山参加され、結婚前に妻に勧められ読んだ「みんなのねがい」を思い出し感激しました。障害児に関わった米山さんは取り分け感激してました。


与謝野町役場では、総務課長が町長のメッセージを読み上げ、賛助金をいただきました。


伊根町に向かう前に、碓氷峠越えの平和行進に参加する米山さんと別れました。


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▲与謝野町で別れる米山さんと私の笑顔


伊根町役場では副町長他5人の職員が出迎えてくれました。役場に隣接する「ホット館」、たぶんデイサービスもやっているのでしょう。粋な名称の素晴らしい建物です。副町長が町長に代わって挨拶し、賛助金を頂きました。


その後、日本共産党の町議が伊根町職労組のメッセージを代読したのにはびっくりしました。さらに労組の役員と思われる女性に町議が「○○くん」と呼ばれたのにびっくり。とどめを刺されたのは、町議定数10人のところに3人の日本共産党議員が居て、町政を支えていると語る若い町議の顔の輝きでした。「伊根は好イネ。また来たイネ」。


本日の行進はそれぞれの役所の前後2km位でした。移動は快適な借り上げバス。移動中は落ち着いて景色を堪能しました。京都の行進の特徴は、集会での主催者挨拶がキッチリして参加者の私語が少ないこと、参加者から自然にシュプレヒコールが湧き起こること、ともかく快適なことです。

松浦宜孝日誌No.8

今日の日向市役所前は移動献血車が来ていたため2階会議室で出発式を行った。市長は上京中ということで市の激励挨拶は総務部長から行われ、2つの署名と被爆者援護募金が団長に手渡された。


昨日、都農町の地元あいさつで町議が原爆の紙芝居を披露したので私はパソコンDVDで第1回平和行進の記録映画「鳩ははばたく」のさわりの部分の音声を流そうとしたがパソコンの音量が少ないのと拡声器のボリューム不足であまりうまくはいかなかった。


行進は門川町までの10キロ弱、曇り空で雨の心配もなく風も吹いていたのだがやはり、湿度気温とも高くハードな行進でした。しかし30人の参加者はほとんど落伍者もなく無事歩ききりました。


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今夜からホテルは宮崎ウェルシティから延岡に移動。宮崎の行進もあと半日となった。


よく洗濯はどうしているのですか?と質問を受ける。また時間が取れるようになったら通し行進(基幹コースの目的地まで参加、県内の最初から最後まで参加が県内通し)に挑戦したいとの声も聞きます。そこで私の場合の行動パターンを記してみます。


まずホテルに帰ったら、シャワーを浴びます、この時下着や洗濯したい上着類を着替え、そのまま洗面所か浴槽で洗ってしまいます。吸湿速乾性の場合は翌朝までには乾きます。また連泊ならばそのまま室内に干しておきます。


持って来ているのは靴2足、ソックス4足、トランクス4枚、長ズボン2本、半ズボン2本、下着兼用になるティーシャツ4枚、長袖シャツ3枚、半袖シャツ1枚、晴れの日用と雨の日用の帽子2つ、雨ガッパ2枚です。いずれも大雨を想定し翌朝までに乾かない時の用意です。


先輩や私の経験から湿った靴で足が柔らかくなると靴ずれが出来やすくなります。また1日履いているので臭いも出ます。この時期ですので暑さと雨対策両方が必要です。


全国通し行進者の募集は2月3月頃にあります。推薦団体を経て原水協に出されます。正式に通し行進者になると出発式などでの挨拶が要請されるため自分で宿を確保しながら歩く「かくれ通し」の人もいるようです。

森 悦子日誌No.25

鹿児島平和行進5日目。


鹿児島市から8時発のフェリーに乗船して桜島を眺めながら、コープ鹿児島労組と日高さん4人で楽しい会話、9時前に到着。


垂水市役所で出発式。垂水平和委員会、市議のあいさつで始まった。農民連、コープ労組、全法務、新婦人など15人参加。市街地から新生町まで行進。真戸原 勲さんは85歳、彼は今日の南日本新聞社社説に「核持ち込み密約」「うそ」謝り真相説明を、を取り上げ、いままで南日本では載らない核のことを書く、世の中が変化してきている。この平和行進が半世紀続いて来た大きな成果です。歩けるかな。一歩でも歩きたいと思って参加します。30年前、鹿屋からバス2台で長崎まで世界大会に参加したもんだ。15年間国会議員候補だったんだよと話してくれました。


ここにも平和行進の重みを感じます。昼食は、とんかつ竹亭、お肉が柔らかくうまかった。午前中の歩数は、18,000歩です。


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午後13時30分、鹿屋運動公園から出発。朝から右足付け根が痛んでいた。歩くペースに乗れば大丈夫と思っていたが、冷や汗が出る始末。がまんしてはいけないと思って宣伝カーに乗せてもらった。


今年の4月、突然歩き出すと付け根が痛み、憂鬱になり、気になってはいたがほっておいたら1カ月続いた。整形外科に行き、レントゲンの結果、付け根の骨の変形が始まっているという。痛かったら歩かないこと、痛み止めの座薬を出してくれました。


5月6日、平和行進夢の島から出発して3日間参加しました。ストレッチしながら、ゆっくり後ろに下がって歩いた。沖縄出発まで収まっていたのでなんとかなるわと気楽に考えている。


沖縄行進の2日目も痛かったので少し宣伝カーに乗ったのでした。今日は終点地まで乗せてもらった。情けない。

松本英治日記No.57

平和行進57日目。晴れ後曇り風強し。


8時10分宿を出て、車で河内長野市役所へ。


9時から出発集会、大阪は生協のピ-スパレードと国民平和大行進が一緒に歩きます。主催者の生協の若い女性の挨拶、副市長が市長のメッセージを代読、議長も代読、副市長と名刺交換。


本日の赤旗新聞に通し行進の若者の記事が大きく報道、京都で取材された物、感動して見せていただく、いい記事です。「載ってるよ」と連絡が何件か。若者の中平君に、通し行進者の紹介と挨拶を!


行進者の反応大で募金も戴く。


地元、河南平和大行進の横断幕を先頭に、私たちの国民平和大行進の横断幕が続き、市内を元気にアピ-ルしながらの行進です、200人位の隊列です。


河内長野駅で電車移動、富田林市役所へ、ここも生協の若いお母さんが主催者挨拶、副市長が市長の挨拶を代読、議長の挨拶を受け、名刺交換!通し行進者の紹介と挨拶を若い鶴田君に!


市内を元気にアピ-ルしながら行進、PL教団の白い塔が目を引く、金剛山がはっきり見えるときは、晴れだそうです。行進のスピ-ドを気にしながらの行進、お年寄りの参加者のため!


羽曳野市役所で昼食休憩、1時に到着、途中「日本一の鯛焼き」をごちそうになる。疲れた体に甘い物がおいしかった。飴の差し入れも!若者2人はビラまき隊に!


昼食後、2時から出発集会、ここも生協の若いお母さんが主催者挨拶、市長代理が市長のメッセージ代読、議長も、名刺を渡す、通し行進者は私が「行進50年の重み、オバマ発言の実行のため、対話の行進を!」


元気に市内行進、シュプレヒコールでアピールしながら!


藤井寺市役所で休憩、冷たいカルピスと麦茶がありがたい!出発集会、子ども連れの若い生協のお母さんが主催者挨拶、市長代理の市長挨拶の代読、名刺を交換。通し行進者挨拶は矢部さんに!昔両親が、九州から出てきて藤井寺に電気量販店の寮に勤めていたので良く帰ってきました。懐かしい!球場はなくなりましたが。


出発までの時間、みんなで「青い空は」を私のリードで歌って出発!羽曳野市と入り組んだ住宅街をアピ-ルしながら元気に行進です。


途中下校時の中学生の女の子がオバマ仮面にさそわれて参加、行進横断幕を持ってもらいました。


松原市役所4時半到着、良く冷えた西瓜が、ありがたい!


集結集会でも、若い生協のお母さんが主催者挨拶、市長代理が市長の挨拶代読、名刺交換。通し行進者は、私が挨拶「お疲れ様でした、毎日元気にアピールしましょう!」


中庭に「アンネのバラ」と「愛吉・すずのバラ」が植えてありました。


宿舎の泉佐野市へ移動。洗濯を!毎日塩が吹くほど、汗が出ます!風があり、曇りで行進日和でした。

栖原秀夫日誌No.28

昨夜は事務局長の齋藤さんと、いつも齋藤さんを支えている南條さんの2人と宿泊しました。本当に2人は息が合った好いコンビです。夜遅くまで2人で活動の事を話し合っていました。なのに朝早く宣伝カーの中を2人で片付けていました。献身的な2人の姿勢に脱帽です。


朝、8時50分に若狭和田駅前で出発集会を行い、30人位で高浜町役場に向かいました。若い副町長と議長と総務課の職員6人が迎えてくれました。激励の言葉とペナントを頂き、接待を受けました。


再出発し、高浜町立石の広場まで歩きました。民医連の若い仲間の頑張りで、2万5000円以上も集めました。


青葉山のトンネルを車で越えて、京都への引き継ぎ集会。京都は50人位が参加していました。福井の齋藤さん・南條さんとは「長崎で会いましょう」と別れました。


東舞鶴で役員の方々とお昼を頂く。東舞鶴の八島公園に集まりました。神奈川から米山さんが来てました。出発集会を行い、40人位で商店街や海上自衛隊基地周辺を行進しました。


終了後、府内通し行進者の久永さんと京都原水協事務局長の小杉さんに五老スカイタワーに連れて行って貰い、海上自衛隊基地などの説明を受けました。米山さんと久永さんとお刺身が美味い店に行き、夕飯を食べました。


19時から西舞鶴の街で、ピースキャンドルマーチを50人位で行いました。米山さんから太鼓を貸して頂きましたが、雨でしたので、持って行きませんでした。

森 悦子日誌No.24

鹿児島平和行進4日目。


知覧平和公園から行進。6月24日に鹿児島に着いた後、鴨池生協クリニックの松下先生が行進の時は見れないだろうと知覧平和会館へ連れて行ってくださったので大変嬉しく勉強となりました。


出発式には、生協病院事務長、町づくり委員会、新婦人、全法務、コープ労組、日本共産党など参加。いざ、行進。


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▲川辺医療生協病院組合委員の皆さんです。素敵でしょ。


途中、要請団は南九州市役所へ行きました。市長、副市長共に不在。署名は、おふたりからいただきました。


私は、先日平和会館を見学した感想を述べました。約1時間、残された写真や手紙を読んで涙が止まらなかった。とくに明日は死んでいく17、18歳の青年の姿を想像すると、なぜ死を恐れず向かっていけたのだろう。残念に思う。頭のいい青年ばかり。戦争は、二度としてはいけないと思う。


会館に続く石灯籠は、ひとつひとつに仏様が彫られて大好きな息子の供養を願い、建てられたと思う。沢山の観光バスが見学にやってくるようですが、世界に向け、本当の意味で戦争反対を発信してほしいと思います。


10時、市議会事務局長にも会い、署名を受け取りました。市役所として、毎年全国から知覧を訪れた人々に募集し、スピーチコンテストを開催しています。要請団は7人。


10時20分、豊玉姫神社で合流。水車で動かすからくり人形、今年は、「うらしまたろう」作品づくりを見せてもらい、また行進しゅっぱーつ。田植えの終わったばかりの田んぼを眺めながら。急に雨が降ってきてカッパが間に合わずびしょぬれ!川辺生協病院まで4回もどしゃぶり。少しおさまってまた、惜しみなく降ってました。


昼食は、組合委員さんの手づくり。とてもおいしいかったです。


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▲鹿児島医療生協川辺医療生協病院組合委員の皆さんが作ってくれました。ご馳走さまでした。


13時から「森 悦子さんを囲む会」でした。松本先生は、30年ぶりの平和行進でした。「被爆二世です。小さな小さな運動の積み上げで、20世紀は安心して暮らせる世の中が来るよう、オバマさんの発言を支持し、日本政府が核兵器廃絶を発信すべきときです。ひとりひとり一歩づつ歩いて行きましょう」。たった5分のスピーチ。


さあ、私の番。生い立ちから、父の仕事は火葬場でした。許可書を持って依頼に来るため、子ども心に恥ずかしく友達も呼べない。現金がなく、学校へ順番でしか持っていけないのが悲しい。なぜ貧乏があるのか両親を嫌い、高校を卒業したら家を飛び出した。これまで生きてきたこと。平和行進は、多くの人々と共有したいと思います。15分も話しました。


また、行進しゅっぱーつ。南さつま市役所訪問。副市長から署名を受けました。20人参加。今日の歩数は、18,000歩。

栖原秀夫日誌No.27

昨夜は美浜町のビジネスホテル西郷に齋藤事務局長と高教組の書記の方と泊まりました。その方は50歳で、風貌を含め横浜市従の本田さんに似ていました。青森の出身で、青森を出て福井県の女性と知り合い、こちらに住むように成ったとか。言葉の端々に奥様に対する強い愛情を感じました。


今朝はJR三方駅に集まり、若狭町三方庁舎まで25人位で行進、副町長と議長に迎えられました。それぞれから激励の言葉を受け、ペナントと賛助金を頂きました。二人とも三方庁舎からの行進に参加して一緒に歩いてくれました。議長さんは車移動の所まで歩いてくれました。


若狭町上中庁舎まで車移動。女性職員が沢山迎えてくれました。参加者から「ここは福祉関係のみが全て集められていて、三方に住むもんは、ここまで来るのは大変だ」と、市町村合併への不満を聞きました。


私と横断幕を持っている方の家で、休憩し、手厚い接待を受けました。


車に乗ったり、行進したりして、昼に小浜市役所に着きました。昼は「かねまつ」で850円の刺身定食を食べ、とても満足しました。


13時から小浜市役所前で出発集会を行いました。市長と議長から激励され、ペナントと賛助金を頂きました。


25人位で行進再開。行進と車移動でおおい町名田庄総合事務所に到着。所長の手厚い接待を受け、名田庄をぐるっと行進しました。


車移動と行進で、16時40分頃到着。町長と10人の職員が出迎えてくれました。町長から激励の言葉とペナントと寸志を頂きました。


今日の平和行進は、全体として33人が参加し、千円の街頭募金を頂きました。明日は、京都に入ります。


米山幸子さんが横須賀から来るとのこと。街頭に人が居ない時、一緒に歩く人を励ますため太鼓を持って来てとメールする。了解の電話あり。嬉しい。


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▲福井県平和行進実行委員会の吉田一夫代表と「派遣切り」でパナソニックと裁判闘争を闘っている河本猛さん

松本英治日記No.56

平和行進56日目。曇り時々小雨。


奈良の宿を10時出発。午前中は行進はなく、引継ぎの移動のみ!


大阪柏原市役所へ11時半着、市役所の食堂で昼食。隣の市民会館の喫茶でコーヒーブレイク。


大阪のうたごえの西さん、武さん登場、握手を交わす。タスキに記名を!


12時45分、市役所前の大和川河川敷で出発集会。


奈良からの引継ぎは無い。主催者挨拶、来賓挨拶、柏原市長代理の挨拶をうけ、通し行進者4人紹介、和歌山市民生協の西田さんが新たに参加、大阪府内行進の6人も!


和歌山市民生協の、愛知を歩いた、宮下さん、岐阜を歩いた竜崎さんと再会、握手をかわす。激励と見送りに大勢で!


宮本たけし元議員も参加、オバマ仮面を被り、身長体重同じだとご満悦!激励挨拶!


1時15分出発、大阪のうたごえの皆さんと歌いながら。集会前も歌う。うたごえ仲間10人ほど参加、タスキに記名。


生協のおかあさんの持つ、中河内市民平和行進の横断幕先頭に、私たちの国民平和大行進の横断幕が続きます、歌を歌いシュプレヒコールを響かせ元気に行進、八尾市役所までの河内路を、2時間休み無く歩く。延々と長い道のり、途中コープさんのお茶の差し入れ、ありがたい!


3時20分、八尾市役所で歓迎集会、市長代理の挨拶を受け名刺を。河内音頭の本場、町舎前に銅像が。河内音頭祭りのポスターも!


市内を、アピ-ルしながら行進、東大阪めざしひたすら歩く、旧街道の細い通りや、繁華街を元気に。途中から断続的に降る雨にも負けず。


汗と雨でぐっしょり。5時20分遅れて集結地の公園着、雨のため集会も手短に!


車で宿の河内長野荘(天然温泉)へ!7時過ぎ到着、温泉で疲れを癒す。

松浦宜孝日誌No.7

今日は高鍋町、川南町、都農町の出発式とその周辺の行進、そしてコープ高鍋店頭でのアピール署名活動でした。


27日、西都市での岩元勝也団長の挨拶原稿をいただきましたので紹介します。

みなさん、こんにちは!


私は昨年の今頃、こういう所に立ってお話をするなど考えもしませんでした。米軍200人を宿泊させる宿舎作りと、C17大型輸送機を発着させる滑走路作りです。


私は新田原を作り変えないでと、本当にそう思いました。それで平和委員会に参加させてもらいました。今、何が行われようとしているのか、気がついた者が発信していかなければならない!そういう思いでこの一年かけぬけて来ました。


私たちは小学生の頃、「原爆の子」とか「ひろしま」などの映画を、学校から西都に連れて行ってもらい見ました。原爆の、人を焼き尽くし、すべてを破壊した映像は鮮烈なものでした。核の恐ろしさは忘れられないものとなっています。


その恐怖の兵器を何度も実験で繰り返す北朝鮮。人類に何を残そうというのでしょうか。そしてまた、それに対峙する米軍を新田原に入れるなど未熟な政治家の感情的な対応に思えてなりません。


私はこの間、何度も新富町議会へ傍聴に行きました。町長さんは「施設は自衛隊のものだ、米軍のためではない」旨の答弁をされました。しかし、その指導をしてきた防衛省は最近どうしようもなくなって「米軍のC17を入れるため新田原の工事を始める」と公然といい始めました。


出来るだけ教えず、隠し切れなくなると本音が出る!そういうやり方が今、核兵器の海峡通過のことでもわかり始めています。宗谷や津軽海峡など5つの海峡で領海幅を3カイリに狭め、米軍の核の通過を優先していたことが、外務次官経験者数人の証言によって明らかにされています。


昨年は「米兵の犯罪の裁判権を米軍に移す」密約が明らかになりました。


日本政府は、日本の誇りを次々にかなぐり捨て、アメリカに従属してきたのです。今回の新田原の工事も、環境アセスメントをやらないなど、米軍の強力な圧力でことが急がれている。そう思われてなりません。


最近、平和遺族会の方の「硫黄島の報告」を聞きました。硫黄島ではまだ1万人近くの遺骨がアスファルトの下に眠っていると言います。とても悲しいことが今も続いています。私も叔父と従兄弟をあの戦争で亡くしています。米軍を入れる今回の工事に,私たちの税金が90億円も使われます。戦死された方々は絶対に許さない!私はそう思います。


イラクの悲惨な戦争を見ていてもわかるのは「戦争は憎しみだけふくれあがらせ問題は何も解決していない!」ということです。


私は今、二つの大きな願いがあります。ひとつは戦争をする国づくりはもう止めてください!ということ。


もう一つの願いは、教え子を戦場に送らないで下さい!ということ。


この平和行進がこれらの願いを吸収し、世界の平和を大きく前進させられることを期待し私のあいさつとします。

 

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森 悦子日誌No.23

鹿児島平和行進3日目。


午前9時、市役所駐車場にて出発式。7団体参加。医療生協指宿支部を結成して4年目。「かわいそうなぞう」をやったが子どもが寄って来なかったな。消費税をなくす会で活動。政府は、侵略国家としての反省がない。全法務は、県内通しを頑張っている。


市役所訪問。副市長ほか3人が応対。市長の署名は無し。現時点ではどうかな、動向を見ながら検討したい。他への影響があるとのこと。


私のあいさつの後、九条の会から発言、非核都市宣言の文章を市民の多くは知らないので広報に載せてほしい。8月号はこれから企画の段階なので前向きに検討します。平成18年9月に合併してすぐ3ヶ所に看板が建っているが、指宿駅前にも建ててください。と要望しました。


その後、指宿駅に向け行進。駅前で署名行動、鹿児島生協労組委員長がオバマのお面をつけて訴え、千円持って走って署名してくれた女性がいました。


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▲指宿市役所から駅まで行進。快晴。


F1000261.jpg▲お面がよーく見えるかな。鹿児島医療生協労組委員長が訴えています。静かな駅前でさわやかな風となりました。


11時30分、また市役所まで行進を終え、車で枕崎へ移動、そして遅い昼食となりました。出る時宣伝カーが後ろの車に接触事故となり、ひとまず先に枕崎市民会館に向かいました。


13時30分、行進の始まる時間になっても宣伝カーが来ませーん。仕方なく音無しで行進が始まりました。枕崎市副市長訪問の時間になっても来ませーん。参加された皆さんに助けてもらいなんとか終わりました。どんな話をしたかも覚えていません。外に出てやっと宣伝カーが到着。市内を行進。


市役所で終わりですが、市議会議長訪問を忘れていて、また庁舎へ。署名していただきました。その時解ったのですが、おふたりが市議でした。女性の市議さんと宿泊先に移動。なんとなくどーんと疲れが。もうすぐ100年になるという古民家へ。合併して4票差で落選した友人、福島出身、以前は、酪農家でした。修学旅行で田舎暮らし体験の受け入れで乾燥機購入や献立などの苦労があります。


週刊枕崎民報第1694号はきっと平和行進特集よ。送ってくださるようです。楽しみです。今日の歩行距離は、10キロでした。


F1000265.jpg▲枕崎行進。この町は、鰹節の生産が多い。おいしいんだよ。2千円のカンパもありました。

栖原秀夫日誌No.26

元県議の吉田一夫さんの案内で初めて事務局長の齋藤先生と油平旅館に泊まりました。


今朝も吉田さんが8時に迎えにいらっしゃいました。男女共同参画センターに集まりました。


石川県で歩いた中西さんと井上さんが現れました。中西さんは「栖原さんが他県の行進に参加すると勉強になるよ、と言ったから」と。井上さんは「栖原さんの追っかけです」と。私としては感激です。


9時に25人位で、敦賀市役所に向かう。1km以上行進し到着。総務部長から激励を受け、市長と議長のペナントを頂きました。


生協つるが診療所まで行進し、激励と接待を受けました。少し休憩し、私は参加者と交流しました。敦賀パナソニックに4年以上勤めて「派遣切り」となり、裁判で闘っている河本猛さんと話しました。今年大会が開かれる長崎の近くの香焼町の出身だそうです。


その診療所を医療生協の若い仲間も加わって30人位で出発。予定より遅れて12時半近くに美浜町の佐田公民館に到着。みんなで楽しくお弁当を食べました。私は食後の昼寝をし、その間は外は大雨だったとか?


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▲石川県から参加した井上さん(左)と中西さん(左から2番目)。生協つるが診療所前の出発時。


13時半に出発しましたが雨はほとんど降っていません。美浜町役場に到着。教育長から激励を受け、町長と議長のペナントを頂きました。


若狭町に入る頃から雨が激しくなり、民医連や高教組の若い参加者もいますが、80歳以上の参加者もいて、厳しい行進となりました。


途中、車移動もしたため、JR三方駅には予定の17時より早く到着。雨のため、終結集会で参加者の感想が聞けなかった事が残念でした。

松本英治日記No.55

平和行進55日目。曇り時々小雨。


昨日は休養日で自宅に。帰りに神戸で「井上由子さん ドイツ留学(3年間)壮行会」に参加し激励を!神戸市役所センター合唱団の専属ピアニスト。


池辺晋一郎先生も激励に来られていました。終了後奈良へ!


9時、斑鳩町役場で出発集会、奈良街道(大阪~奈良)を大阪方面へ行進、奈良蟻の会の皆さんが6人、タスキに名前を!


太鼓を叩き歌いながら行進、途中竜田川を渡る、万葉集で有名な!古人の思いを感じつつ!


平群(へぐり)町へ町内行進、平群の名物女性稲月さん登場!スーパーメガホンにインカム(無線の頭に付けるマイク)で、元気に、アナウンス、コール、歌と大活躍です。


これが、ほんまの平和行進だと!30人位で、生駒山(大阪奈良の境の山)を望みながら行進。


私も、インカムで歌いました、平和の歌(大きな歌の替え歌で平群バージョン)


1、平和の歌だよ あの山の向こうから 聞こえてくるだろ 平和のうただよ
2、憲法九条 皆で守ろう 世界に輝かそう へぐりの里から
3、九条大好き 戦争はしないよ 戦車や戦闘機で 平和は守れない
4、平和な未来を 子供らに残そう 力を合わせて 平和を守ろうよ


と、「夾竹桃のうた」を久しぶりに歌いました。稲月さん手作りの平和歌集(7曲)には、行進アピ-ルも!


平群町役場で岩崎町長の挨拶を受けました。町職員が大勢でお出迎え!感激!


三郷町内行進、町長代理の挨拶を受け行進、町会議員の神埼さんは、蟻の会の団員さん、タスキに名前を!宣伝カーでアナウンス、コール、歌も歌っていただきました。


終着の王寺町へ行進、平和の鐘のなる街(時計塔)町舎の大きく非核平和宣言の街と(正面に懸垂幕)!


大勢ほぼ全員か?の職員が出迎え、大感激!町長代理の歓迎挨拶、議長さんも!


馬場功(元うたごえ事務局)さん登場!お久しぶり、差し入れいただく、私が青年部長の頃、馬場宅(天理教の教会)で交流会を!


通し行進の若者の宿を、忘れてました。


若者たちにカンパがたくされました。

松浦宜孝日誌No.6

今日の出発式は将棋盤、碁盤のカヤ材の産地綾町と国富町だった。綾町はこの地名を消したくないとの思いで合併を退けており、また農協も単独で頑張っている地域です。東京など都会から農業、工芸で移住して来る人が多く、あまり人口が減ってない町です。


いずれの町でも町職員の出発式への参加が多く、今年の流れになっているようです。私の挨拶はそれにともない西本あつしさんの平和行進にふれ、その流れの中に今年の平和行進があり、11コースと連帯して行進を進めようというものでした。


通し行進者にとって嬉しいことのひとつが観光・名産案内であり、新しい人との出会いや旧知の人との再開です。この間鵜戸神宮、西都原古墳、そして今日の平和台公園を案内していただきました。


一時平和の塔という名前に変えていたのが、また八紘一宇の塔に戻されています。


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▲「八紘一宇の塔」⇒「平和の塔」⇒「八紘一宇の塔」と変えられた


この塔の素材の石は世界から寄贈ということになっていますが、軍の力でぶんどってきた物だそうです。


37年ぶりに元コープこうべの友人に会いました。宮崎市役所からの行進に参加した長崎さん(旧姓相田)は、北海道出身で当時の灘神戸生協に就職、結婚で宮崎に引っ越していた人です。顔は変わっていましたが性格の豪快さは同じでした。歓迎会にも出席していただき、旧交を温めました。

森 悦子日誌No.22

今日は、移動日。鴨池クリニックの松下先生がマラソン大会の予選会を終えてから昼食に誘ってくださいました。


鹿児島医療生協の青年医師3人と奥さまと一緒。生野菜中心に切り替え5キロ体重が減って風邪をひかないし、体も軽く仕事もはずむそうです。アジアのお店でとても美味しいものでした。


朝からどしゃ降りで鹿児島中央駅まで送っていただきました。JRは、不通。1時間待ってバスで指宿へ向かいました。温泉で「びわの葉入り砂むし」に挑戦。温泉に3回も入って満足満足!!

浅田健司日誌(6月28日)

午前11時過ぎ、東洋町白浜農協前広場に集合、約20人。水床トンネル前まで平和行進。


途中、民家の多い所で署名行動に入り、10筆程度集まる。


午後1時前、水床トンネルを通り、徳島県に入る。


1時過ぎより、高知から徳島への引継式を開催。その後、約2時間平和行進。20人程度の参加であった。

栖原秀夫日誌No.25

越前市役所に8時30分に集合し、8時50分に出発集会を行う。


総務部次長が市長のメッセージを読み上げ、賛助金とペナントを。議会事務局長から議長名のペナントと議会名の賛助金を。9時過ぎに25人で行進開始。街頭署名・カンパ活動を展開しながら、南越前町役場まで約6kmを行進し、署名18筆、募金7700円を集めました。


南越前町役場では、休みにもかかわらず町長と町議会議長が出迎えてくれました。町長から激励の挨拶とペナント、賛助金、国際署名、非核日本署名などを頂きました。議長さんからも同様に頂きました。


南條地区公民館で昼食と休憩。13時に南越前町役場前を11人で出発。今庄駅まで、6km位行進する。募金は3000円集める。終結集会を持ち、全員で感想を出し合う。


自動車で敦賀北小学校に行く。17時20分に出発集会を行い、30人以上の参加者で行進を開始。行進中に何人かの人が隊列に加わる。津内三丁目会館まで2km位を歩きました。


会館で私や県内通し行進者の齋藤さんからのメッセージがあり、ビデオ「ヒロシマ・母たちの祈り」が上映されました。参加者は被爆者の実相について初めて触れる人が多かったようで、とても意義ある集会でした。


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▲敦賀市津内三丁目会館での平和集会

松浦宜孝日誌No.5

昨日の願いが通じたのか雨バージョンで出かけましたが、行進の間は一滴の雨も降らず行進日和となりました。


今日は宮崎市役所から宮崎神宮まで3キロ、約300人の行進で小学生4人が横断幕を持ってくれました。


残念ながら写真を取れていません。写真は特別参加のオバマさん?です。


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私の挨拶は51年前の西本あつしさんが歩きはじめた歴史とそれの流れとしての今年の11基幹コースと連帯したこの行進をみんなで歩きましょうと訴えました。


今日も午後から署名活動を行いました。例の如くホテルに到着すると雨が降り始め、メールを打っている今、雷も聞こえます。

森 悦子日誌No.21

鹿児島平和行進2日目。


市電谷山行き終点に7時に着くとすぐお迎えに。8時15分から、かごしま医療生活協同病院医局の朝礼であいさつさせてもらいました。病院は、6月にリニューアルして226床から306床になり、異動などで職員は少し減ってみんな忙しい。私の見たかごしま医療生協は平和運動に積極的で頼もしい。昨年の世界大会の壇上での発言は、素晴らしく輝いていました。帰省後いろいろ議論になったようですが、次につなげるためのもの。今年の世界大会への参加も期待します。


玄関では、すでに80人ぐらい集まってうたごえのみなさんが歌っていました。出発式には病院から、民商、共産党、コープ労組、かごしま生協労組代表からこの病院が行進の出発になって20年、黙っていては認めてしまうこと、行動することが大事です。オバマさんは、自信がないので自分が生きているうちはと、言っている。連れて来ていっしょに歩こう。そしてオバマさんのお面を頭に着けて。みんなから(笑)


歩き始めて10時20分ごろ、頑張ってくださーいと数人の声が、見上げると窓を開けて手を振ってくれる応援に会いました。嬉しかったですね。


谷山電停で休憩、京都から鹿児島に就職したという23歳の青年から声をかけられました。シュプレヒコールは、やらないのですか?と聞かれました。


23歳の青年は、前川さんが頑張ってくださいって言っていました。ありがとう。彼に私は平和行進にはシュプレヒコールは、そぐわないと思う、3月1日ビキニデーの分科会でも強調しました。


沖縄の平和行進は、沢山シュプレヒコールしました。今もなお米軍基地に生活と生命を脅かされ、日本政府は、アメリカべったりです。闘いがある以上黙っているわけにはいきません。そのことを伝えて宣伝カーに乗ってもらいました。結果はどうだったでしょうね。


F1000255.jpg▲10時半すぎ、休憩終えて市電のそばを歩いています。京都出身の青年がシュプレヒコールが始まるところです。


11時半、宇宿福祉館に着き、昼食。交流、学習、日本共産党鹿児島県議員まつざき真琴さんが講師。昨日と同じく世界大会のパンフを紙芝居にまとめながらお話しでした。私も今度作ってみようと思います。


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▲まつざき真琴さんは、厚紙B4で作った紙芝居でお話ししました。


午後は、鹿児島医療生協労組の女性ふたりと先頭を歩きました。1日の距離は、17キロでした。


17時から「市内行進ご苦労様会&通し行進者との交流会」があり、10人で楽しく飲みました。ありがとうございました。

栖原秀夫日誌No.24

8時33分、福井市内のベル西口で出発集会を行う。


本コースは、鯖江市神明公民館まで徒歩で行進する。私は池田町役場と越前町役場に自動車で、福井県原水協の齋藤さん、末永さん、石川さんと民医連の佐伯さんと向かう。


池田町で、石川さん(国労OB)の国鉄時代の友人堀田幸雄さん宅を訪問する。堀田さんは脳梗塞の後遺症でお身体がご不自由に。柱や梁や囲炉裏が素晴らしいお家でした。でも、ご主人が倒れた為、民宿が運営できなくなり、今は民宿はやられていません。民宿再開を願います。


池田町では、総務課長からペナントと町長の非核日本宣言の呼びかけ署名を頂きました。


越前町役場では副市長と議会事務局長の激励あいさつを受けました。越前町は副市長と議会事務局長からペナントと激励金が、市長から非核日本宣言よびかけ署名を頂きました。


鯖江市婦人会館前駐車場で、本隊を待つ。11時40分に行進団到着。カンパ隊の頑張りで、1万2435円を集めました。行進団は33人でした。


13時に23人で行進再開。鯖江市に入る。鯖江市では副市長から市長メッセージとペナントと激励金、議会事務局長からペナントと激励金を頂きました。


17時過ぎに越前市役所に着きました。午後からの行進距離は約8.5kmでした。


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▲頑張った子どもたちと越前市役所前で撮る

浅田健司日誌(6月27日)

午前中、馬路村役場前から村内住民への呼びかけ、署名協力の訴え、高知県平和委員会の和田事務局長と二人で行う。


午後、北川村役場から村内一周


夕方5時より室戸市役所前で集会後、市内を行進し、署名活動にも取り組む。参加者11人 署名14筆 募金1580円、ペナント協力2000円であった。

松浦宜孝日誌No.4

天気予報では曇りのち雨で何時から降りだすか、朝から雨の日バージョンの靴、上着、帽子で出発はしましたが、行進、署名活動が終わるまで持ってくれました。


さすがに晴れ男?ゴルフの時もカッパを着るのは20回に1回以下、今日もホテルに着いてから本降りになりました。願わくは明日の行進出発の時にはあがって欲しいものです。


さて、今日は新田原基地のある地域のコースです。団長もそのことに触れた挨拶でした。正確をきすため後日原稿を頂いて報告します。


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松本英治日記No.53

平和行進53日目。快晴。


9時、奈良市役所へ、平和のモニュメント、金色で手を合わせた上にとんぼが!非核平和都市宣言の石碑も!前庭に!


出発集会で挨拶「元気にアピールしながら歩きましょう」


土曜日だが、参加者少なめ(50人くらいか?)掛川さんはじめ4人の奈良蟻の会仲間が!


市内を歌いながら元気に行進、朱雀門を通る、来年が遷都1300年!そう言えば、歴史で習った(710年)平城京!


行進はデモ申請なので、車道を歩くが、警察官の指示で歩道を歩く?


いたるところに古都奈良の佇まいが!ゆっくり散策したい!


金魚の街大和郡山へ、いたるところに、飼育池が、さすが、金魚の街!


子供の頃炭住に天秤棒担いで金魚売りが「きんぎょえ~えぇ!きんぎょ!」と!


高校の同級生が森精機(大和郡山)に就職したのを思い出す、陸上部の同輩!同クラス!どうしているやら?


市役所で歓迎セレモニー、市長代理がメッセージを!副議長さんも、閉庁日なのにありがたい!


昼食休憩、城下町の佇まいが!前池には錦鯉が、太鼓の音に反応!寄って来ます!口を開けて!


出発集会で、通し行進5人各自が自己紹介、若者たちにカンパの訴えも!


市内を歌い訴えて行進。掛川さんミニハンドマイクと、ミニアンプも!うたごえが響きます!


まほろばの里斑鳩へ、法臨寺で休憩時、太鼓の音で副住職さんが、日本山妙法寺のうちわ太鼓かと!沖縄のエイサーのパーランクですと!


夢殿の横を通り、法隆寺前で休憩、中学の修学旅行で来ました、45年前、ゆっくり散策したい!


斑鳩町役場で終結集会、町長代理と議長の挨拶を受ける!通し行進の若者が、カンパのお礼を!成長しています!


明日行進休養日なので、自宅へ!

五十嵐成臣日記 6月19日~6月26日

6月19日


新津を行進後、田上町⇒加茂市を訪問。市長は元防衛庁長官で新潟九条の会代表世話人とのこと。最近の自衛隊は田母神などの右傾化が目にあまる。注意が必要と話していた。


平和行進には、議会の時間を1時間遅らせて待っていてくれる。


6月20日


新潟大より行進。出発前に新大の職員・学生による「核廃絶についての意見書」(47人の署名入り)を投函。


午後は新潟市役所より160人以上の参加で行進。夕方、亀田駅前より行進後、終了。


6月21日


新潟より再度、三条に戻り行進。田植えの終わった田園地帯を終日歩く。この日は30℃を超える、今までで最高気温と晴天だった。


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6月22日


終日自治体訪問。魚沼市、南魚沼市、湯沢町、津南町、十日町市、川口町。各自治体の対応は良かったが、十日町市のみ、市長の代理として出席したのは教育委員会の係長。名刺も持たず、名札を見せるのみ。募金、署名は受け付けず、ペナント購入のみだった。


6月23日


小千谷市、長岡市を訪問後、平塚公園より行進。途中、外に出て手を振る人、お盆の灯篭を並べ行進を迎える人などがあった。


車移動で刈羽村へ。村長が対応し、原発についても意見を交換した。


その後、柏崎へ向かい、市内を行進してこの日は終了。


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6月25日


柏崎市に訪問。保守系議員の中に反核に対するアレルギーがあるようで、核兵器の廃絶と反原発がイコールになって反発が強いようだ。


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▲柏崎市長と懇談


市長は核兵器の廃絶という点には前向きだが、議会で話し合ってとのこと。


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▲「核兵器のない世界を」署名をいただく


刈羽村も村長は前向き。柏崎を置いてきぼりにはできないが、事務方に検討をさせているとのこと。


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6月26日


上越市、妙高市を訪問後、妙高高原に向け山の中(集落もある)を行進。県境で長野へ。


引継ぎ集会には県境の町、信濃町長も参加していただいた。

森 悦子日誌No.20

鹿児島平和行進1日目。


みなと大通りに着くと合唱団「風」のみなさんが集まっていて、「青い空は」「原爆許すまじ」を歌う。


風のみなさんとは6月24日「うたのひろば」におじゃまして心ゆくまで歌わせてもらいました。月一回の歌声喫茶が開かれ、男性も多い素敵なステンカラージンも最高?!余談コーナーでした。


テレビ局数社が来ていました。9時に出発式。実行委員長の溝口さんから「戦争する準備が進んでいます。さわやかな確固たる風を吹かせよう」とあいさつ。


民医連の代表から「鹿児島、奄美から署名が1万1千筆集まっている。さらに3万筆をめざそう。反核医師の会が11月に開かれます」。


全商連の代表からは「64年前、私は中学2年生、長崎佐世保の軍需工場で働いていた。貨物列車に白いシーツがかぶされ、真っ黒などくろなど見えた。焼けただれた姿、何が何だか解らず呆然としていた。慌てて上官が『貴様らいいか、見たことしゃべったらいかん』と怒鳴られ、悲惨な光景は忘れられない」。


新婦人の会の代表は「オバマさんの発言を受けてアメリカ大使館に要請行動しました」。


日本共産党から、山口ひろのぶさんがあいさつしました。鴨池クリニックまで行進しました。


昼食後の交流会は、いつもは30人ぐらいなのに50人参加でお弁当もイスも足りなかった。


はじめに国民平和大行進鹿児島市実行委員長 鴨池生活協同組合クリニック小児科 松下賢治氏から今年のパンフレットを読みながらお話されました。自分の関わりや動機からわかりいいお話でした。


交流では、行進する人がひとつになれる。3年ぶりの通し行進者がいてとても元気をもらった。おじぎをしてくれた。憲法の署名をしてくれた。鹿児島市長や市議会議長が署名した。谷山9条の会のパンフレットを埼玉の平和行進で20冊注文があった。


F1000270.jpg▲お昼学習会で紹介されたもの。10問10答形式。2009年5月3日発行


九州ブロック組合委員交流会にいくのに元気が出た。昨年は杖をついていたが歩いている。孫やひ孫に核兵器のない世界を、歩くって楽しい。年金者組合全国大会で組合員を増やし、表彰された。公務交共一般や全運輸など、書ききれない参加がありました。私の足での歩行距離は、14キロでした。

松浦宜孝日誌No.3

今日の団長は気象庁OBの橋村さん。串間市役所までの車中で気象庁の職員がどんどん削減され予算も700億円と押さえられ、正確な予報や地震速報に支障が起きていることを話していただきました。


自治体の器具を流用したときメンテナンスがされてなく、時には階段に地震計が置いてあり、人が歩くと針が振れるとか、機種が異なるためそのままのデータが使えず修正を加える必要があるとか。また回線が少なく専用回線でもないため速報が遅くなるそうです。グアム移転思いやり予算の1割です。国民の命を守ることに使って欲しいです。


今日のコースは串間と日南市でした。串間では25人の職員の参加も得て出発式が行われました。


日南市役所の玄関を入ると名産の杉を使ったベンチ、書棚、手作りの時計など、ロビー一杯の丸太を利用した職員の作成したオブジェ、それに笑顔の総合案内係が場を柔らかくしていました。


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▲名産の杉を使った手作り時計


午後にはスーパー前でのアピール署名活動を行いました。

浅田健司日誌(6月26日)

午前10時田野町役場訪問。町長や議長不在で総務課長に要請。


午前11時に訪問した北川村でも同様であった。


午後1時東洋町役場訪問、町長、議長に要請、署名、ペナントに協力してくれる。


午後4時に到着した奈半利町でも斎藤町長と木下議長が応対、署名・ペナント募金に協力してもらえた。


夕方5時半、安田町役場前で出発集会。初めは10人前後であったが、最終時の参加者26人、ペナント募金7000円。


なお、これまで寄せられたペナントを全部宣伝カーにつるして数えると253本であった。


今日は上記のとおり5ヶ所の市町村を訪問したが、距離も遠く、海岸沿いや山中を車で移動、美しい緑の山に室戸岬や羽根岬ビロー樹や漁港など美しい景色が多かった。

松本英治日記No.52

平和行進52日目。快晴。


昨夜、京都駅前のホテルでうたごえ喫茶に招待していただきました。


楽しい一時を過ごしました。京都引継ぎ集会で歌ってお迎えしていただいた皆さんの名前をタスキに書いていただきました。


今年のうたごえ祭典を控え、盛り上がっています、多くの参加者で楽しみました、新聞の取材で遅れてきた、通し行進の若者たちにカンパもいただきました。


沿線のうたごえの皆さんの温かさを感じながら歩き続けています。


本日は、京都6日間最後の日です。お世話になった小杉さん(京都府原水協事務局長)の車で、7時半宿を出て、精華町役場へ。


9時から出発集会、町長さんが激励の挨拶に、名刺を渡しお礼を!


町内を元気に歌い訴えながら行進、本日も沓脱佳音利さんが!ありがたい!(奮闘に拍手です!)


奈良に向かって、古い町並みをひたすら歩く、木津川市役所で市長代理の挨拶を受け、名刺を交換し御礼を!


市坂のいずみホールで小休憩、冷たい飲み物で一息入れ、奈良県を目指す。


途中、人家の切れた所で、歌をと要望され先導の宣伝カーに沓脱さんが乗り込み歌ってくれました、「青い空は」「たんぽぽ」「野に咲く花のように」など一緒に歌いながら県境の峠を越えて、奈良県へ!


般若寺で奈良県との引継ぎ集会に、奈良のうたごえの皆さんが歌いながら迎えてくれました。早速タスキに記名を!今さん、掛川さん他8人で、一村さんも!


慌しく引継ぎ集会、京都の皆さん6日間お世話になりました、奈良の皆さんこんにちは!よろしくお願いいたします。


途中岐阜から行進を始めた2人の若者たちの激励に、カンパとタスキを携えて!愛知から3人の方が応援に!


奈良のうたごえの皆さんからもカンパをいただき、彼らに託しました。ありがとうございました!奈良名物「柿の葉寿司」とお弁当で慌しく昼食!


出発集会で自己紹介と挨拶それぞれが!県内通し行進は全印総連の浅野さんのみ!奈良市内を元気に歌いながら、訴えながらの行進です。県庁で知事代理の挨拶を受け、名刺を交換!


市役所まで元気に行進。オバママスクで子供たちにアピールしながら!大人気です。


市役所で、市長代理の挨拶を受け、名刺交換!集結集会!


宿に入り、シャワーを浴び、浅野さんの知り合いの店で食事。交流しました。

栖原秀夫日誌No.23

9時30分に大野市役所前で、大野市内平和行進の出発集会を約60人で行う。副市長と市議会議長から激励を受ける。大野市内を約4km位、30人以上で元気良く行進する。


郊外の大きな書店前の駐車場で休み、勝山市のローソンに車で移動。ローソンから行進を再開。勝山市役所まで、約1kmを元気に行進。勝山市役所で昼食休憩とする。


地元の責任者の方に連れられ、「八助そば」に行く。当然、おろしそばを2枚注文する。待って居る間に、「久保差し物店」という個性的な家具屋さんの話を聞く。家に帰ったらインターネットで調べて見よう。


13時から勝山市役所で勝山市内平和行進の出発集会を行う。総務部長さんが市長メッセージを読み上げ、市議会議長からは激励の言葉を頂きました。その後、すこやか健康センターまで1km以上を20人位で歩きました。


永平寺町の志比堺の広場まで車で移動。永平寺町役場まで約1km位を再び歩き始めました。永平寺町内平和行進の出発集会を役場の前で行いました。副市長が市長メッセージ
を読み上げ、ペナントと協賛金を頂きました。議会は事務局長からペナントと協賛金を頂きました。その後、町内を1km位ですが、暑い西日を受けて頑張って歩きました。

松本英治日記No.51

平和行進51日目。快晴。


京都駅南の宿を7時半出発、最南端の南山城村へ車で1時間半。


1時間前に着き、村内散策、古びた村舎の前に、立派な文化ホールがデンと!


宇治茶の産地、抹茶入りのお茶と抹茶こんぶ飴を買いました。


写真に収め、10時に手仲村長と懇談、真摯に対応していただきました、署名とペナント、賛同金をいただき名刺を交換、激励されました。


村内行進、全国通し行進者が来たのは初めてで歴史に残る日です。


元気にアピールしながら行進しました、空気がおいしい!沓脱佳音利さんが!


車移動で笠置町へ、温泉のある街、町役場に表敬訪問、松本町長と石田春子議長と懇談、真摯に対応していただき、署名と、ペナント、賛同金をいただき、町長自ら横断幕を持ち歩いていただきました。


風光明媚な温泉町を町内行進。歌いながらアピールしました。関西線の沿線。昼食にうな丼を。丸々一匹入り、安くて美味しい!関西と関東ではさばき方が違うらしい!栄養付け過ぎ!


車移動で、宇治茶の産地、和束町へ、テレビの入った議会中で面談できませんでしたが、元議員さんの戦争体験をきかせていただき、感動!


町内を歌いアピールしながら行進しました。至る所に茶畑が!扇風機が付けてあり、質問。霜よけだそうです。静岡でも気になっていて、疑問解消!


車移動で宇治田原町へ、途中下校中の小学生にオバマ仮面をかざし、誰だ?にこやかにオバマさんと!写真に!


早く着き、町内散策、ローカル紙の記者とさっきの小学生に遭遇、庁舎前で、横断幕広げて記念撮影!3年生の女の子3人に名刺と署名用紙を渡しました。


3時半から会議室で、総務課長と懇談、真摯に対応していただき、名刺を交換、核廃絶のチャンスを生かしましょう!町長さんによろしく!


町内を歌いながらアピールし、文化会館まで、歩き平和の鐘を撞きました。豪華な文化会館と体育館が併設!


今西久美子町議と名刺交換、地元の太鼓チームの方で話が弾む、パーランクたたいていると、エイサーも今年取り組んだと!太鼓祭りも毎年開催とのこと!

森 悦子日誌No.19

いよいよ鹿児島上陸。


フェリーは 大揺れ、座っていられないのでずっと眠っていました。


数人の方とお話しして朝食を共にしましょとさそってくださった渡さんと出会いました。


奄美から鹿児島に住まいを移し保健所の指導員ボランティアです。私が糖尿病でインシュリンを打っていることを心配して、長生き出来ることを一番に考えなさいと何度も言われました。嬉しかったですね。


25日に会うことを約束しました。25日は桜島のすぐそばまで歩いて、医労連池田さんの連絡で慌てて戻ることに。渡さんは、私のために温かいおにぎりを作ってくださっていたのです。


午後13時から鹿児島市訪問。市長不在、核兵器廃絶署名記入と多額の賛助金を頂きました。また鹿児島市議会議長さんも同じです。ありがとうございます。


15時から鹿児島県庁訪問。知事不在。お話するだけでした。


15時30分記者会見、一社のみ来ていました。やるぞと意気込んでいたのにがっかり。


夜は鹿児島医療生協労組の「DVD上映会&ビアパーティ」に参加させてもらいました。

矢部常次日記 第51日目

今日は、京都府でだだひとつの村、南山城村と3つの町を行進する。そのために車での移動で、行進しては次の行進先に移りながらの期待できるパレードだ。


南山城村は、府内唯一の村、京都府の東南端に位置し滋賀県・三重県・奈良県にそれぞれ隣接して、村の中央に流れる木津川。人口3974人の村で村役場には、「とうとうと流れる水面に映える山々の緑・山腹に落ちる大小の滝は、見るものの心をひきつけて止みません。また木津川の古称"いずみ川"の名による広域観光園"いずみ路"の起点であります。本村のシンボル高山ダムの周辺になだらかに広がる茶畑、太陽をいっぱいうけたお茶の味、香りは宇治茶の生産地の一つとなっています、今後も都市近郊の農村として、リゾート・観光農業を導入した新しい村づくりを目指しています」と記されており「ともに暮らしを高め、心豊かなふる里をめざそう」の村紹介の表示板が目に入った。


村と言えば、過疎化で生活するにも大変と思うが、私には村紹介の表示板に記載されたように心豊かな地だと感じた。


笠置町では、要請行動(懇談)の後、村内行進、思いがけなく町役場出発の時、町長さんが先頭に立って全国通し行進の横断幕を持って行進してくださり参加者全員感動。


行進する前にポーズを取り楽しむ若者2人、そして行進中に石垣の横に飛び出した石の階段を上る中平くん、町並みに楽しんでいるようだ。


和束町庁舎では、議会中であり町内に知らせるため、今カメラが入っているので対応できず、代わりに元日本共産党の町会議員・大西さんが戦争体験を熱く語り私たちを激励(熱が入り語りが、行進スタートの時間を少し食い込み実行委員の方が中断するよう合図する)。


宇治田原町を行進中には、下校中の小学生とすれちがう、子供たちは手を振って私たちを激励してくれ、役場に到着したら、途中で会った女の子3人が歩いていたので聞くと、田原小学校:藤田梨乃ちゃん・高田じゅなちゃん・湊真唯ちゃんと名前を教えてくれ写真を一緒に撮り帰って行った。その後、町に作られている平和の鐘をみんなで撞き町を後にした。

浅田健司日誌(6月25日)

馬路村役場まで車で約1時間、この地の名物「ゆず」など縁いっぱいの山中道路。右側に安田川が流れ「清流キャンプ場」等あり、川の流れの中でアユ釣りをしている姿も多かった。


馬路村役場では村長など不在、山崎総務課長に要請、後日、署名用紙の郵送を約束。


続いて訪問した安田町でも総務の課長代理に要請内容を伝える。


安芸市では、松本市長が快く迎えてくれ、署名・ペナント等に協力、握手など激励してもらえた。


夕方5時半頃から安芸市内、海岸沿いの美しい公園で平和行進の出発集会を開催。市長から激励メッセージも届けられた。


この公園には美しい時計台があり、時報とあわせ、その塔に備えられた小さな扉が開き、人形の踊りと共に可愛い童謡が聞こえてくるようになっている。


海側の個所には長大な防波堤が築かれ「日本一高い防波堤」"海面より16m高い"との表示があった。


また、公園から遠く離れた所であるが、明治20年に建てられたという「野良時計」も見ることができた。


この時計は、島中源馬という人物が建てたという八角形の掛時計で、今は動いていないが、地元の人々は大切にしている。夕方からの平和行進には、安芸市9条の会の旗を掲げた人など36人が参加。署名37筆 ペナント協力8000円、募金4949円であった。

栖原秀夫日誌No.22

JR森田駅前に8時30分に集まり30人以上で行進を始める。車椅子の年金者組合の方も参加される。行進に合わせ、街頭カンパ活動を展開する。


休憩予定の県立博物館は休館日、隣の公園で休む。福井大学教職員会館に行き、歓迎交流が行われる。


次に光陽生協病院まで行き、みどり薬局でみんなでカレーを食べる。私は此処で血糖値を計る医療器具を買う。


13時に光陽生協病院前公園で、80人以上の集会を行う。60人以上で福井市役所に向かって出発。


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▲光陽生協クリニック前公園にて


福井市役所は課長が市長のメッセージを代読し、市長と市議会からペナントと激励金を渡される。市役所から新たに沢山の人が行進に加わり、90人以上での行進となる。


ベル西口まで、朝から20km位行進し、街頭募金も約14000円も集まりました。

松浦宜孝日誌No.2

昨日の出発式のことが地元の宮崎日日新聞に掲載されました。


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また、今日はケーブルテレビが取材に来ていました。マスコミに取り上げられることが運動の発展と署名の取りやすさにつながるのではと思います。これも地元の人たちの努力の積み重ねでは。


今日の出発式は都城市市役所前でおこなわれ、最近まで日本一若い市長だった長嶺市長が挨拶されました。同市では今までは代理で、初めてのこととか。また平和市長会議にも入ったことが報告されました。


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11時からは三股町前での集会と行進を行いました。私は昨年5月末に退職し、今までやりたくても出来なかった平和行進通し行進を決意し兵庫県下を歩きました。その体験と昨年東京-広島コースの通し行進者の助言で今年の全国通しを決意したことを話しました。


午後からはコープ都北店前でのアピール署名にオバマ大統領のガンマスクを付けて参加しました。

矢部常次日記 第50日目

宇治市役所に着くと、平和の鐘と平和の像のモニュメントが目に入った。私はそくさま全国通し行進の横断幕を平和の鐘のまえに並べ写真を撮る。


朝8時過ぎだから、市役所に働く職員さん、そして市役所前を通る学生・サラリーマンが私たちを横目に見て職場・学校に急ぐ。


「平和の鐘ー祈りー演奏曲名・6月1日~7月31日8時から19時まで・沖縄の日(6月23日」」と書いてあったがメンテナンス中で鐘は聞けなかった。モニュメントには、宇治市の要請に応えて、沖縄戦で被災した首里城公園の石・被爆した広島市役所旧庁舎の敷石・被爆当時爆心地(長崎)の側を流れる下の川の護岸に使われていた石が贈られ展示されていた。贈られ展示された日(平成16年8月15日)が書かれており、今は亡き伊藤一長市長さんの署名がありイタイタしく感じた。


「核兵器廃絶平和都市宣言・昭和62年10月8日決議・10月16日告示」のモニュメントには誰が見ても判り、自冶体の姿勢が見える。


松本さんと久永さん(県内通し行進者)は、久我山町への要請行動に出かけ、大久保という市内で合流。


市内を行進して城陽市役所に着くなり市への要請行動、そして昼食(要請行動参加者の昼食はオアズケだったが時間に余裕であり、私はオアズケの方が美味しく食べられた)。


市内を行進して京田辺3kmの標識の橋で、歩道橋を歩くように警備の警官が指示した時、地元の方が「なぜ車道でないのか(これまでは車道を行進していたのだろう)」と少し口論、私は交通量を考えれば警官が指示したのは正しいと思い、先頭にいたので少し口をはさむ(警官の指示は他の県では当たり前と)。


行進にはいろいろある、学校帰りの子供たちの声援を受ける(オバママスクの効果もあり)、しかし子供たちは反対側の歩道を歩いているので、なかなか行進と声援する子供たちを同じ写真に入れるのが撮れなく残念だ。


京田辺市役所に約1km強の所で、昨年まで行進に参加していたが今年は歩けず、家の前で行進団を待っているとの事を聞き、行進より先に私と中平・鶴田くんが急ぐ。そうしたら道路まで出て待っていた被爆者の小野さん夫婦、「国民平和大行進歓迎の詞」の手紙を受け取り固い握手。私も感動したが、それ以上に若者は感動したようだ。手紙は京田辺市役所でのまとめ集会で読み上げられ、小野さんの気持ちが参加者全員に伝わった(私は、実行委員の人にお願いして手紙をお借りして、宿で写真に収めた)。

浅田健司日誌(6月24日)

高知県芸西村役場訪問、村長不在で副村長・安岡千晶さん(女性)が応対、署名など、後日郵送を約束。


夕方5時40分より集会を開催。会場は村役場からかなり離れた海岸沿いの広場で、芸西村職員組合が観光バスで参加してくれた。行進参加者36人、ペナント協力3000円 募金額2450円であった。

森 悦子日誌No.18

奄美の平和行進実行委員会委員長は、荒田 まゆみさんといいます。長い間奄美や鹿児島医療生活協同組合で医療の基礎づくりされた方です。自治体訪問も彼女なしではうまくいきません。


23日午前中私を「金作原(きんさくぱる)」原生林へ連れてもらいました。海だけが美しいのでなく、山、原生林があるからだよ。そして自然を壊そうとする勢力との闘いも必要だと話しておがみ山にトンネルを掘る計画に終戦後住み続けたおばぁたちと住民運動を始めた話を、そしてその山に連れて行ってくれました。


奄美の復帰について学ぶため県立図書館へ。1952年7月、講和条約第3条撤廃署名録 署名99パーセントをはじめとする記録を見せられました。荒田さんのパワーあふれる行動に驚くばかり。


奄美の穴井さん、川上さんありがとう。22日の3回の行進後、ビアパーティを開いてくれ、奄美中央病院の医師4人も参加。


午後の行進には、院長先生も歩いていました。まさに奄美平和行進は、医療生活協同組合が大きな柱です。あっぱれ!

森 悦子日誌No.17

奄美行進3日目。


瀬戸内コースで18時からの行進ですが、14時に中央病院を出発して瀬戸内に向かって走りました。


沖縄高江のブロッコリーの森と同じ森だと気づいて嬉しい。マングローブに寄り、自然の美しさにうっとり。波で石が丸くなって、海水は、生暖かいです。


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▲マングローブ


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▲午後6時30分から行進。7時に終わり、慌てて記念写真です。

栖原秀夫日誌No.21

芦原温泉駅を9時に15人で出発。


9時15分に芦原市役所に。副市長の出迎えを受け、ペナントを頂く。障害者施設「ハスの実」の仲間たち15人が待っている。「ハスの実」の仲間と坂井市役所に向かう。


坂井市役所では副市長と議長から激励の挨拶を受ける。坂井市は昨年から原爆の実相を伝えるパネル展を行っているとのこと。ミニデイホーム「しんじょうよりあい」に向かい、昼食の「接待」を受ける。カレーの付け合わせのラッキョウが個性的で美味しかった。行進をしてきた人とデイ利用者で歌を歌い、デイ利用者から沢山の折り鶴を頂きました。


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▲「しんじょうよりあい」で利用者から折り鶴を送られる。


13時30分に「ハスの実」の仲間と別れ、丸岡総合支所に15人で向かう。丸岡総合支所では、支所長が迎えてくれる。20人位の参加者が合流。春江総合支所に向かう。


春江の街には伝統の縮緬が今でも元気である。支所では支所長の激励を受ける。本日の歩行距離は12km位か?参加者は全体として70人弱か?

松本英治日記No.50

平和行進50日目。曇り後晴れ。


7時半宿出発、連泊はありがたいが、移動距離が長く朝早いのに閉口!


8時半宇治市役所着、本隊から離れて、久御山コース(久御山町役場)で表敬訪問、総務課長他と懇談、平和都市宣言20周年で記念事業「平和祈念『折り鶴』」6月17日~7月16日まで募集、7月23日出発の「平和のための小・中学生広島派遣事業」に託されます。平和行政推進に敬意と感謝、被爆の実相を広げ、オバマ発言の現実化のために、国民1割の1200万署名の協力を要請、来年のNPT再検討会議に積み上げましょう。


9時50分、町内行進出発地へ、集会後10時に10数人で行進開始、40分の行進途中、大久保陸上自衛隊駐屯地通過、広大な敷地が自動車学校の様。うたごえを響かせ行進。


大久保で本隊と合流し200人の行進に、城陽市役所まで、元気に歌いながら賑やかに行進。表敬訪問、人事課長他と懇談。平和行政の推進に敬意と感謝し、核廃絶のチャンス、協力を要請。昼食休憩!


12時40分、出発集会、沓脱さんタスキに署名、ご夫婦で参加うたごえを!


綴喜郡に引継ぎ休憩、お茶とアイスクリームがありがたい!きゅうりも!


京田辺市へ、歌いアピ-ルしながら元気に行進、途中被爆者の小田さんが手書きのゼッケンを着け出迎え、手書きのメッセージを託され、通し行進団と握手、特に若者たちに期待が!


3時半、京田辺市着、集結集会で、市長のメッセージと議長の挨拶を受け、通し行進者紹介と挨拶、若者たちに物心両面の支援を要請。


集会後、表敬訪問し、総務部長他と懇談、平和行政に敬意と感謝し、核廃絶のチャンスを生かしましょう。協力を要請!宿へ!本隊は、井手町へ要請と町内行進へ。

松浦宜孝日誌No.1

昨夜までの雷雨が一転、気温の上昇を心配するほどの好天となりました。


えびの市役所前で午前10時から出発式が行われ、池ノ上団長、柳田市長代行等の挨拶があり、オバマ大統領のプラハでの演説が紹介され今年の平和行進の意義が強調されました。


その後、小林市、野尻町、高原町を訪問しました。野尻町、高原町では町の職員いずれも20人以上が、役所前での集会に参加しており、取り組みの高さが示されていました。


今日から長崎到着の8月6日まで頑張って歩きます。


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矢部常次日記 第49日目

中平くん・鶴田くんは、昨日作った名刺を表敬訪問(長岡京市役所)で初めて名刺交換。対応した方も受け取るなりビックリだ。・・・名刺にもいろいろある、写真を入れたもの・地元の良さをアピールしたもの・観光アピールするもの、そして自分の肩書だけ記入したもの等あるが、こんな名刺など私も見たことない。私も、貰い写真に撮った。・・・


今日もビックリすることがあった、午後からの長岡京市役所から大山町役場までの一時間以上の国民平和大行進に、体格の良い青年がオバマのマスクを見て「これ被れるのですか・私被ります」と言うので目の位置を合わせるためにタオルと一緒に渡し「一昨日も被った人がいたが、無理をしないように・タオルで汗を拭いて良いから」と声をかけた。


日中は暑く歩いているだけで汗がにじみ出るくらいなのに、たいした我慢だ、途中1回マスクを外したが到着の大山崎町役場まで被り続け、返してもらった時にはタオルは絞ると汗がにじみ出るくらいだった。・・・御苦労さまでした。・・・


行進中、遠くの駐車場にいた若いギャルが、そのオバマ姿を見つけてこちらに指をさし何か言っている。すかさず中平くんが、ビラを渡しに行き何か話す(どんな話をしたのか聞けなかったが、中平くんは、丁寧に説明したのだろう、ギャル3人はどう感じたのか。・・・)


中平くん・鶴田くんは、何時から沿道での宣伝活動をやり始めたのか私は覚えていないが、ビラを渡し、会話する姿は様になってきたように思い、私は全国通し行進の横断幕を持っているので、カメラを向けるがなかなか気に入るシャッターチャンスがない。(・・・誰か撮っていたら貰いたい。・・・)


ビラを渡そうとしても受け取ってくれない事もあり、彼達にはどう感じているのだろう、私は、一昨年東京から神奈川県内を行進した時、ビラ宣伝をした時を思い出す。その時は「私関係ありません」と言葉にしないが避けてすれちがう人もいたからだ。


私たちと10数人で車で移動して、網の目行進が行われる八幡市内に行き、15時から16時30分位まで行進とまとめの集会を行い、すべてが終わったのは17時位となった。ここでも地元の方が中心で生協関係の参加者が多く、平和に対する歴史もあり、まさに市民ピースパレードだ。

森 悦子日誌No.16

奄美行進2日目。


午後6時、公園から出発。女性ふたりの素敵なお店でお茶して時間ギリギリに到着。はじめの出会いがありました。夢の島の出発式でいつもご一緒する方の妹さんご夫婦にお会いしたのです。74歳でした。涙があふれて言葉が出ません。行進のはじめに記念写真です。


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栖原秀夫日誌No.20

富山から歩き始めて20日目、石川県から福井県に入ります。


加賀市役所に8時45分に行く。加賀市役所の部長が市長のメッセージを伝えて、職員の署名・カンパを頂きました。


20人位で歩き始めました。石川県で一緒に取り組んだ人たちと歩くのはこれが最後だと思うと、私らしくない話ですが、周りの景色に目が行って、声があまり出ませんでした。


晴れて蒸し暑い中、何回か休み、約6km位歩き、蓮如上人の吉崎に11時20分に着きました。


福井県への引き継ぎ集会を行いました。福井県の参加者は60人以上。


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▲石川県をいつも一緒に取り組んだ人たちを福井県への引き継ぎ式で撮る


昼食後、出発式を行い、行進を25人位で始めました。民医連の若い看護師さんが大半です。


北陸地方の特徴でしょうか?民家の無いところを車で移動するなどして、芦原温泉街を抜けて、坂井市三国総合支所まで、行進した距離は7km位。役所からは支所長が歓迎してくれました。

松本英治日記No.49

平和行進49日目。曇り後晴れ。


昨日は、初めての休養日で50日ぶりに自宅に、2歳の孫がキョトンとして誰やろと言う感じで。直ぐ馴染みましたが!


やはり、自宅は落ち着く!ゆっくりする間もなく3時半の電車で京都へ、6時からのJMIUの京滋・大阪地本の激励会に30分遅れで参加、8時から場所を変えて、生協労組の歓迎会に、ダブルヘッダーでお腹もお酒も満杯、ありがたい話です、何がメタボ解消や!そら、太るわ!


自宅で、かみさんが、快適な生活!との事、まさしく「亭主元気で留守がいい!」ご迷惑をおかけしています!反省!自由気ままに生きてます!平和行進「ええで~!」の意味が!


本日は、ゆっくり朝食を取り、忘れていた林学さんの追悼文を書きメールで!


9時過ぎにお迎えが、向日市役所へ、9時半から、出発集会前のうたう会で沓脱さんはじめ、うた協の仲間がアコもありがたい!


私は向日市に表敬訪問、市長代理と面談し、平和行政に敬意!名刺を交換!行進に短時間でも参加の首長さんもと!


40分出発集会、挨拶を受け、「本日は、沖縄戦終結の慰霊の日、日米安保発効の日」との事。


通し行進者の紹介、私が挨拶しました。


11時出発、ここからは西国街道を一路西へ、150人の行進、歌を歌い、コールを繰り返し賑やかに!歌は、京都のうたごえの仲間に任せて、太鼓をたたきながら先導!


長岡京市役所で表敬訪問、会議室で懇談、平和行政に敬意を!経験のため、通し行進の若者たちも参加!そのまま、会議室をお借りして昼食。


出発集会で、挨拶を受け、行進者紹介、若者たちに募金のお願い!


市内を元気に行進、途中見覚えある建物が、日うた京都祭典の和太鼓と民舞の祭りの会場でした。今年も京都で日本のうたごえ祭典です。


行進歌集に宣伝も抜かりなく、挨拶の中でも訴えました。


西国街道を大山崎町へ、天下分け目の天王山の麓の町、「非核平和宣言の町」のモニュメントが庁舎の前にドンと!


表敬訪問、平和行政に敬意と感謝。名刺を交換!


車で淀川対岸の八幡市内行進へ、生協のおかあさんたちが仮装とうたごえで賑やかに行進!沓脱さん頑張る、伴奏のCDカセットを活用、私も「森熊行進バージョン」「ねがい」「さんぽ行進バージョン」を歌いながら元気に、東高野街道を八幡市役所へ。


集結集会で生協の皆さんに誉めていただきました。


若者たちにカンパをお願い!地元愛知では、大騒動になっているとのことです。若者たちの奮闘に答えるために!

浅田健司日誌(6月23日)

香南市役所は市長不在で市議会議長のみ話し合えました。要請に応えていただき、署名、ペナント、募金にも協力してくれました。


その後、雨でしたが、和田氏(高知平和委員会)と現在建設中の自衛隊宿舎や射撃訓練場などの予定地になっているという広大な山林を見に行きました。


午後5時過ぎ、香南市役所前広場集合。雨にもかかわらず、22人が集まってくれました。その後、赤岡支所前まで平和行進。22筆の署名と810円の募金が寄せられました。

矢部常次日記 第48日目

今日は、昼過ぎ14時より表敬訪問(地元では、要請と懇談としており歴史ある行動である。毎年少しずつ成果をあげており、これまでの京都府内の各自冶体での平和の取り組み施策が整理され誰が見ても判るようにパンフになっている)である。


松本さんは、兵庫知事選挙の為自宅に帰り、若者2人は一日休養日として、訪問は私と実行委員会関係者10人程度で行う。


府庁では、府庁そのものが歴史ある建物であり、私たちが案内された会議室も歴史を感じる。私は、自己紹介して名刺を渡し、全国通し行進者・松本さんのこと、そして若者2人(愛知県知多市在住)が広島まで行進することを話し、懇談では、「京都府にある舞鶴港を『神戸方式』(市議会でアメリカ艦船が核兵器を搭載していない事の証明書を提出すれば入港を認める市議会決議)を決議するように、議会と府知事に伝えて欲しい」と話した。


・・・松本さんが言うには、神戸では決議してから33年間、一度もアメリカ艦船は入港しておらず、その反面、姫路港には3回アメリカ艦船が入港して、神戸方式を無し崩そうとしていると話す・・・


京都市では、プレハブの建物(庁舎がいっぱいで会議室が用意できないのか)の会議室に案内された(冷房は効いていた)。


当然対応する方(職員)は違うのだから、同じ事を話してもよいのだが、少しでも理解して市長に伝えやすいように、自分の平和への取り組みをしようと思った訳、なぜ国民平和大行進に参加したかを話す。 夕方には、JMIU(全日本金属情報機器労働組合)の歓迎会、その後生協労組歓迎・交流会を開いて頂き、交流が出来ました。


・・・中平・鶴田両君は、1枚の紙に2人の名前と住所そして22歳・21歳を強調した手作りの名刺(A4用紙を4分割した)を今日の中で準備して、大切そうにしてJMIUの歓迎会のお店に早く着いたのでお店の人からハサミを借り、お店の前で切っていた。・・・

森 悦子日誌No.15

奄美平和行進1日目。


午前8時10分、事務局長の迎えで中央病院の朝礼に参加し、あいさつさせていただき恐縮しました。


駐車場に集合して宣伝カーと先頭車の二台で出発。


9時43分、大和村大棚に到着しました。はじめに大和村村民の江崎定信さんからのあいさつ。今も原爆の数十倍の核兵器があり、人類にとっての脅威です。


政府は2、3年前に米があまりすぎたといい、汚染米を押し付け、給付金と言ってばらまき、消費税は値上げを言い出し、すべて軍事費に回してしまう。世界情勢が核兵器廃絶に向かっているのに日本だけが変わっていない。持ち場、持ち場で平和を訴えたい。みんな畑に出ていて、人影はない。でも歩きました。


10時40分、大和村訪問。事務局で打ち合わせして臨んだので良くできました。小玉三郎さんが退職時、一時間の平和教育を行った経験を話しました。伺っておくといいながら同和教育にも力を入れていると言う。


11時50分海岸べりで休憩。冷たく冷えたスイカを食べ、珊瑚礁で海の色が変わっていて素晴らしい。でも埋め立てが過ぎ悲しくなりました。


奄美は水不足もないのにダム建設が行われ、77億8千万円も使われました。現在用水がにごり、臭くて飲料水として使用不可の状態。なんという無駄遣い。


埋め立てて養殖エビのため池を作ったが2度の倒産で放置のまま、ヘドロがたまっていました。必要以外に埋め立て、木を伐採してチップの工場があり、パルプの原料だそうです。


この部落にはそれぞれ土建屋がいて常にお金や物を配って村民をアメで釣っていて選挙になると寝返ってしまうといいます。


15時、奄美文化センターから行進出発。


16時から奄美市長を訪問しましたが不在でした。名瀬市と合併した奄美市は、平成18年6月に非核平和宣言しました。実行委員会として大和村同様に要請しましたが、宣言を制定しているのでそれなりのことは実行するよう努力するというお返事でした。


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▲奄美市を訪問して要請

栖原秀夫日誌No.19

動橋駅前に8時50分に着く。駅であの中西さんが待っている。今日は月曜日だけど娘さんは居ない。雨が酷いんだもの、当然です。


雨のため、参加者は私、内藤事務局長、県内通し行進者の藤田さんと南さん、中西さん、寺井病院の若い女性、加賀の平和委員会の方の7人で雨の中を歩き出す。


雨が酷いため、街頭や水田にはあまり人が居ない。対向車の窓は閉まっており、演技力を発揮しなければと、手振りと笑顔に気を集中する。偶に人が居ると、嬉しくて大声を出すが、偶に出す声に艶は無い。


加賀温泉駅で休む。加賀市内のジャスコから再出発。加賀市役所まで行進する。雨という悪い条件の中で頑張っているためか、対向車や街頭の人の反応はとても良い。行進した距離は5km位かな。


終わって6人で昼食を食べる。私は電車で帰る中西さんが電車に乗るまで駅で話し相手になる。中西さんがホームに行ってしまっても、チェックインには時間があるので、大聖寺付近を散歩する。九谷焼と歴史の街でした。


口笛を吹いて川沿いの道を歩いていたら、下校中の小学生の女の子に声を掛けられた。岩手で見かけた川に似ていたので、私は「この川には河童はいないの?」と尋ねました。「テレビで見たけど、きもい。此処では見ないよ」と。そんな話をしていたら、百名山の深田記念館に着き、見たいので別れる。入り口に立ち、中を見たら、迷子になっている自分に気付き入りたくなくなり、早足で賑やかな方向に向かい歩き出しました。

浅田健司日誌(6月22日)

午前10時、高知市役所を訪問。議会開催中で、市長、市議会議長も応対できず、市長公室課長から、署名用紙、ペナントを受け取りました。


午後、南国市役所で、橋詰市長と西山市議会議長、香美市役所で門脇市長と中澤市議会議長それぞれすでに署名、募金を用意。ペナント協力も快くしてもらえました。


夕方5時過ぎ、香美市山田小学校前に集合。現地周辺の人々に署名、カンパを訴え、市内を平和行進。参加者は30人を上回りました。


今日の署名は42筆、5370円の募金、商店街の人から缶ジュースも寄せられました。

矢部常次日記 第47日目

滋賀県は今日半日行進して京都府に入る。朝早く起き(日課となってきた)、日誌をまとめながらホテルの部屋から見える琵琶湖をみて滋賀県内の行進を思い起こす。


出発の大津市役所前では、昨日泊めて頂いた家からギターを頂いてきたと、送って頂いた車から降りる鶴田君は車酔いをすると言い、少し眠そうだが若者2人は元気で、カメラを向けるとポーズをとる。


大津市役所前の駅からJMIU中央の山本副委員長が手を振りながら私のそばにきて固い握手「元気かい、顔を見れば判るけど」と心温まる言葉。


行進は、宣伝カーが先頭で行進団がそれに続く、しかし運転手の方は地理は知っていても、車と歩くでは勝手が違い、行進責任者に行き先を聞く、責任者が行進の先頭に常時いなく、地元の人たちがそのたびに「こっちだ、あっちだ」と話すので行進は一時中断。


京都府に近い県境の峠では、交通量も多いが行進には気持ちが良い。峠を超えたところで40分の休憩「時間は早いが此処で昼食」と責任者が言う。近くのお店が1軒あったが日曜の為開いておらず、飲み物を買った。私たちは昼食の準備など聞いておらず唖然とする、中平・鶴田両君は泊めて頂いた家から弁当を持たされ、皆に気にして離れた場所で弁当を食べており、嫌な気持ちにさせたなーと近寄らなかった。


自動販売機でお茶を買い飲みながら歩くと、大津警察署藤尾交番・逢坂山検問所と書かれた交番、パトカーと乗用車が1台、その中に2人の警官(私は、警官と知らず何時もの様に平和行進の事を話す)。その後、行進責任者が話をしており警察官が「京都府の方へいつ行進が通過するかを連絡しておきます」と話す(滋賀県では、行進団の警備など誰もせずで京都では警備の警察官が多く出るとの事・・・変だなー・・・)。


また、引き継ぎの日に雨が降り、休憩中だったので行進には影響なし、行進スタートしたら閉まっていたはずのお店が開いており、地元の人が買い物する姿。・・・本当に憑いていない。・・・


京都では警備の警官も多いが行進参加者も多くなり、何処から来ているのか観光客の姿・街の人で一杯で行進団も活気で沿道にアピールする。


祇園石段下では、ピースパレードの行進団と合流、700人近くに膨れ上がった行進団だ。


京都市役所前のまとめの集会が合同で行われ、通し行進の私たちと若者2人も発言。22歳・21歳と話す2人に大きな拍手。・・・若いということはいいなー、私も若い時があったのに・・・


京都に入りおじさんが、オバマのマスクを見て「被れるのか貸してくれ」と話し、暑いにもかかわらず汗だくになりながら被り、行進最後まで歩いてくれた。そしてピースパレードの行進団の中にもオバマのマスクを被り、ピエロの様に盛装したオバマの姿、お互いに固い握手。・・・考えることは同じだなーと感じる。・・・


夕方は、京都生協の招待で交流会に参加、冷酒をのみ楽しく交流、美味しく楽しい時間で少し飲みすぎた。いろいろあった長い1日が終わりホテルに帰りすぐ寝てしまった。

森 悦子日誌No.14

朝5時に起き、不安な気持ちを仕方無く重いリュックをしょい、フェリーに乗りました。


午後4時20分、徳之島に一時下船。奄美医療生活協同組合徳之島診療所の看護師長さんをはじめ出迎えてくださいました。


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沖縄のこと、原爆症認定のこと、お話しました。みなさんうちわを掲げ答えてくれました。


乗船する人も少なく慌ててお別れしてしまったと後悔しています。おいしいトウモロコシをありがとう。


そして8時20分、名瀬に到着。4人の出迎えを受けました。船から見えた日の入りをぼっーと眺めていました。私は奄美は、はじめてです。

松本英治日記No.47

平和行進47日目。曇天後小雨後晴れ。


8時15分タクシーを呼ぶが、来たのが25分、考えられない?市役所へ。


9時から出発集会、日曜日にもかかわらず、市職員が来て頂き市長代理の挨拶を受け名刺を交換し市長さんによろしくと!通し行進者が紹介され、私が挨拶「50年の重み、オバマ発言の実行、非核神戸方式」。


県内通しの服部さんが奥さんの急病で欠席、お見舞いの電話をすると、県庁から参加との事、大津市内を賑やかに、コールとうたごえを響かせ歩きました。


日曜日で子供連れの参加者150人で!途中服部さんの元気な姿が!


県庁で知事代理の挨拶を受け名刺を交換、オバマ効果か、自治体の対応が良い!矢部氏が挨拶。大津息吹の奥村さん今日も!


旧東海道を一路京都へ、峠を越え元気に行進、途中お昼ごろ軽食休憩、近くに店無し、日曜日で休みに、そういう事なら食事の用意するのに!連絡無し!毎年苦情の出るコースらしい?


京都府に入り山科の引継ぎ集会のラクト山科公園まで、三条通りを西へ元気に!引継ぎ集会に滋賀の倍以上の人が出迎え、京都のうたごえの仲間も歌って出迎え、穀田衆議院議員も!


激励を受ける、滋賀県側の挨拶、京都府側の挨拶、被爆者のご挨拶、通し行進者の挨拶それぞれ、「滋賀の皆さん6日間ありがとう。お世話になりました、京都の皆さんよろしく!」別れを惜しむ間もなく出発!若者2人に宿とカンパを訴えました。


450人のまさしく平和大行進となりました。私は横断幕を持ち太鼓を叩きながら先導、うたごえ隊は後方で元気にうたごえを響かせています。


途中、昼食を取ってなく、腹が減りコンビニでパンを買い、休憩時間に食べる、2時を回っていました。


山科から京都市内へ元気に!滋賀県では、警察官が付かなかったが、京都に入ると大勢でサポ-トありがたい!


三条から四条へ円山公園、八坂神社の前で生協のピースパレード(250人)と合流、オバママスク登場2人に!


市役所へ市内を元気にアピ-ルしながら700人の大行進団に!4時着市役所で集結集会。市役所と府庁は明日表敬訪問!


明日は行進初めての休養日です、生協さんの歓迎パーティに参加し交流、お礼に姫路の民謡(木場の舟唄)と、森のくまさん(行進バージョン)を披露し一緒に歌いました。


集会後帰省のため京都駅へ、新幹線が出たばかりで45分待ち、在来線で9時半、50日ぶりに自宅へ!

浅田健司日誌(6月21日)

早朝、本格的な雨降り模様。天気予報もそうだったので、気になっていましたが、午前9時頃、高知市役所前集合の時には雨も上がり、傘を持って参加してくれた人たちも全然傘をささず行進することができました。


今日の行進には、教組や公務員などの若い人たち20人余の参加でした。


高知市内は車も人通りも多く、有名な、はりまや橋あたりでは観光客も多いようで、みんな元気良く行進。沿道の人たちも、良く手を振ってこたえてくれました。


午後3時、鹿思神社前出発。南国市役所到着までの約2時間の行進にも28人の参加で最後まで元気に歩き、23筆の署名、6548円のカンパが寄せられました。

栖原秀夫日誌No.18

9時30分に金沢市内の小高い丘、卯辰山の玉兎ヶ丘原爆碑「平和の子ら」像前広場に行きました。


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▲金沢市卯辰山玉兎ヶ丘原爆碑「平和の子ら」像


10時から「折り鶴」など何曲か歌い、集会を持ちました。20人位が参加しました。


終了後、元気良く行進をしました。対向車に乗っている沢山の人たちから激励されました。


丘を降りた天神橋周辺で、署名・カンパ活動を25分間行いました。37筆、2300円が集まりました。


賑やかな街を大きな声で核廃絶をアピールして歩きました。金沢市役所まで、2.5km位かな。


市役所前で散会し、金沢大和のレストランで昼食を取り、石川県教育会館のホールに行きました。核戦争を防止する石川医師の会主催の映画祭「夕凪の街 桜の国」を見ました。


被爆の残酷なシーンは絵画で表現し、被爆者の思いは主人公たちが語ったり、表情で表したりして、作品のメッセージを伝えてました。私は途中から泣き通しでした。被爆者への理解を深めるため、いわれなき差別を無くすために、是非沢山の人に見て貰いたいと感じました。

森 悦子日誌No.13

フェリーの中で横になっていると全身マッサージを受けているような心良い気分です。


次は、徳之島です。昨夜は、布団の中で感動溢れ涙が止まりませんでした。


高江ヘリパッドで出会い話した女性2人が行進に来て歩いてくれました。一晩少し話しただけでしたが、行進ははじめて。お互いに手を握り締め再会を喜びました。国際通りでの出会い、ずっとうるうる。どんな人にも熱く語る大切を学びました。


沖縄行進7日間を終えました。


なんといっても行進に10人の通し行進者がいたことは驚きでした。事前の打ち合わせもなく1日目の夕食の時初顔合わせ。沖縄の3青年が部長を引き受け、6回のニュース発行も協力しあってやってくれました。


通し行進者の内4人は、大阪の60代70代で、それぞれ頼もしい方々でした。7回目、2回目参加と沖縄行進で元気を貰っていると言われ、常にリードしてくださいました。写真専門の前田さんは本当に楽しく、1000枚撮っています。高江の佐久間さんは、へリパッドいらない座り込みのお礼を言いたいと行進に参加。ずーっとサンダルで歩いて大きな声で「平和行進でーす。一歩でも二歩でも歩きましょう」と元気いっぱいでした。彼は座り込み参加の仲間が平和行進を支えている姿に感動していたと思います。


最終日は、叫びながら訴える姿が焼きついています。私は晴れたカンカン照りを体験していないので予行練習かな、また参加したいと思います。

森 悦子日誌No.12

行進7日目。沖縄最終日です。


昨日から今日のことを思うと別れが悲しくなる。もう一日同じホテルに泊まれることになりました。なんとなく嬉しく思いました。


8時5分、豊見城市役所到着。市長代理からのあいさつ「いまわしい沖縄戦から64年、忘れてはならない歴史です。北朝鮮の核実験は、今すぐ核を使わせる状況にあることを示してします。恒久平和を願い2001年非核平和宣言、2009年平和市長会議に加盟しました。さらに平和への事業をすすめていきます」。


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▲出発式 沖縄生活協同組合各支部旗がずらり!


あいさつが続いて、最後に小禄にお住まいの3人による三線「戦場を恨む母」の演奏でした。語り言葉で解らないところがありました。だけど涙が止まりませんでした。ありがとう。真っ青な空、あざやかな木々、心地よい風に満足満足。


ワンポイント学習は、佐事事務局長から核兵器廃絶をめざしての署名行動の説明と行動提起です。14時15分に与犠公園に着きました。13日行進前夜祭に参加してくださった仲本さんからゴーヤジュースと冷たいタオルの差し入れが。うれしかったです。

矢部常次日記 第46日目

東京・夢の島をスタートして46日目、多くの方にお会いして感動・激励。しかし行進中に、車の中から行進団に対して「罵声」をかけて通り去る人も数人いた。いろいろ考えがあっても良いが罵声に対しては気分が悪い。


昨日、網の目行進(高島市コース)から本コースの草津市役所に車で送って頂き合流して、高島市コースの内容を終結集会で報告。その後、草津駅にて署名(核兵器のない世界を)宣伝行動を草津原水協の人達と1時間くらい実施。行進終了後であり皆久しぶりの歩きで疲れており日中も暑かった事と駅まで徒歩で10分程度かかった。・・・みんなは署名・宣伝行動の意義は判ると思うが自主参加と言う事もあって参加者は少ない・・・結果として、8人参加・50分間の署名・宣伝行動であったが、行動の中で素晴らしい出会いがあった。


高校生の宮本尚子さんと政川咲樹さんが、私たちの所に来て「署名させて下さい、こんな活動どこかの学校でやっていますか・・・」と真剣に会話、お互いに握手して去って行った。


地元の方に、近県または全国の学生の活動を調べ連絡して頂くようお願いし、署名は28筆の結果であった(多くない出会いかもしれないが、これだから署名・宣伝行動は病みつきになる。・・・みんなも参加すれば感動得られたのに・・・)。


昨日の感動で気持ちも清々しくホテルを出発。草津市役所~瀬田唐橋・旧東海道を歩き滋賀県庁に到着、私の気持ちがそうなのか、行進参加者の人達の顔が明るい。


気に入ったのは、ひとつの横断幕だ。『2010年NPT再検討会議にむけて 核兵器のない世界 Appeal for a Weapon-Free World 国際署名にご協力を』と書いてあり、布地も良いがバランス・色彩が良い。


この横断幕を先頭にして、その後に全国の通し行進の横断幕が行進。


私は思う、平和大行進はパレードであり参加者も楽しく、沿道にどう訴えるかだ。若者2人が行進に参加した次の日から、こんな工夫もした(横断幕に持ってきた洗たくばさみを付け、3人または4人で同じ位置に取り付ける、そうすれば風のないときなどは両手があき、沿道に手を振ることも出来るし、写真も撮れる)。


2人が加わった事で平均年齢も下がったが、4人が持つ横断幕は、団子4兄弟みたい(多少無理かな)。

松本英治日記No.46

平和行進46日目。曇り後晴れ。


宿で朝食後、隣のスターバックスでモーニングコーヒーを。


8時10分、お迎えの車に荷物を積み、徒歩で草津市役所へ、土曜なのに、市職員がお出迎え、9時前から出発集会、市長代理の挨拶を受け、支援金とペナントを市長と議長からいただく。


歓迎のお礼を言い、9時に出発、土曜日で50人ほどの参加者。


大津息吹合唱団の奥村氏と京都ひまわり合唱団の西田氏が参加タスキに記名を!


旧東海道を元気に行進、太鼓を叩き、シュプレでアピ-ルしながら、途中歌ってと言われ、お答えしました「青い空は、折鶴、ねがい、大きな歌、森のくまさん(行進バージョン)など」歌詞コールしながらアカペラで。


行進中、携帯で22日が行進休養日で帰省の予定を、京都の原水協とうたごえの竹内君に報告しました。


大津に入り瀬田の唐橋を渡り青年会館で昼食休憩、赤旗新聞と滋賀民報の取材を受けました。


オバマ発言効果か参加者も増加、市民の反応も上々、平和行進50年の歴史と共に、継続の力強さと、被爆者の皆さんの命を掛けた闘いが、実りつつあること、飛び入りの若者の参加などを報告!


定食の鰹のたたきとハヤシパスタをいただきました。美味しかった!


交通量の多い大津市内をアピ-ルしながら行進、旧東海道の町並みを見ながら、膳所(ぜぜ)神社で休憩、旧膳所城の城門が、神社の門に移築されていました。


膳所医療生協のご接待は、冷たい飲み物とアイスキャンデー!ありがたい!


民宿させていただき、別コースを歩いた若者たち合流!にぎやかに!歌とシュプレを交互にしながら、滋賀県庁を目指して一路西へ!


オバマ効果か自治体の反応良好、表敬訪問した高島町では、行進団50人に、町長、議長はじめ110人の町職員全員のお出迎え!など。集結集会で報告されました。


本日も若者たちにカンパのお願いと民宿のお願いが!


滋賀県内行進参加者500人に!明日日曜日で、京都引継ぎの参加要請を!


滋賀県最後の夜で、お世話になった、井本県原水協事務局長と県内通しの服部さん(来年の通し行進か?)と4人で慰労会を開いていただきました。


50年の歴史を踏まえたうえで、来年からの行進者のための提言もさせていただきました。


若者たちふくめ多くの人に歩いてほしい!毎日感動のドラマが!

栖原秀夫日誌No.17

小松市の橋本市議が8時15分に迎えに来る。小松市は基地の街、保守系市議は自衛隊出身者も多いとか、数日後には非核都市宣言の縦幕が、自衛官募集に変わるとか。


「平和行進の出発式が、市役所で行われる事を守りたい」と、言う市議の言葉に厳しい状況を感じました。


9時30分に小松市役所を出発。私的には、平和行進としては久しぶり、労働運動をやってきた私的には懐かしい、シュプレヒコールをあげて進む行進を行いました。


20人位の高齢の参加者が、2駅先の動橋駅まで(12km)頑張って行進しました。60歳前の私から見ると、命懸けに見えて、頭が下がりました。

浅田健司日誌(6月20日)

午前10時前、大豊町役場前集合でしたが、3人で出発。1人が宣伝カーなので、2人で横断幕を持ち、元気にアピール。有名な「大杉の苑」(樹齢3000年、日本一の大杉)に到着し、署名運動と宣伝カーからの訴えを行い、11筆の署名と2000円の募金が寄せられました。


午後は高知市能菜山から高知市役所まで行進。土曜日で官公庁休日もあり、国公労連、教組、自治労連などから若い人たちが参加。雨の中元気に行進しました。


夕方5時頃、高知市役所に到着。この日は他のコースからも市役所に到着、合流することになっており、終結集会には100人を超えていたと思われます。

栖原秀夫日誌No.16

本日は09国民平和大行進小松実行委員会の企画で午後からの行動となりました。ついては午前中は1時間半程、「こまつの寺院めぐり」をしました。


本蓮寺、称名寺、勝光寺、勧帰寺、本覚寺、本光寺などを見学しました。どの寺にも一向一揆など農民と僧侶が一緒になって、領主や侵略者と戦った歴史がありました。


最後に本折日吉神社に寄り、末社の稲荷神社には食事(生命の安全)を、大黒様には交通安全を祈願しました。途中で和菓子屋「御朱印」で上生菓子を買い、店先で食べさせて貰いました。結果、お茶のサービス付き。


昼食はじっくり検討し、「食房まりもり」の800円のランチ。大正解でした。早速お稲荷様の御利益あり。「夕飯も」と思い夕方の開店時間を店員に聞くが、「6時から」と聞き、今夜は6時15分に待ち合わせなので、諦める。


13時30分に橋本市議の「旦那様」が迎えに来る。小松みなみ診療所の職員の方々に30分程時間を頂いて訴える。次いで、「デイ」の利用者と30分程話し合う。夜の予定まで時間があるので、宿所に近い芦城温泉(料金420円)に浸かり、湯船の中で軽いストレッチ。夕飯はダイエットの為に小松だいわのレストランでヘルシー定食に。


6時15分に橋本市議が迎えに来る。再び診療所へ。オカリナ演奏と被爆者西本多美子さんを囲んで、平和のつどいが25人以上の参加で行われました。


主催者として、実行委員長の牧野さんは、「原水禁運動は、今年はニコニコしてしまうような年。今夜は楽しく歌いましょう」と挨拶されました。


まず、オカリナで懐かしい歌が合奏され、みんなで歌いました。次いで、西本さんが被爆体験や被爆者運動について語られました。参加者の多くは初めて被爆の実相を聞いたようでした。


私はまとめの発言を依頼され、面食らいましたが、「もっと被爆の実相を語る場を作り、被爆者援護充実と核廃絶をめざしましょう」と訴えました。


帰り道、橋本市議に送って貰いながら、被爆者の方々の運動の前進と幸せを願わざるを得ませんでした。


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▲北本さん、藤本さん、西野さんの演奏に合わせて歌う参加者

松本英治日記No.45

平和行進45日目。快晴。


8時20分宿を出、徒歩で野洲市役所へ、9時出発集会で主催者、山仲市長の挨拶を受け、名刺を交換。


本日2コースのため、私が挨拶、「オバマ発言の実行と、行進50年の重み」野洲市に歓待のお礼を言って出発。


岐阜から飛び入り参加した中平、鶴田両君に、行進実行委員会からの通達(広島まで歩けるよう援助を!と、私たちも助言しました。彼らの思いを大切に!)


県原水協の方からうたごえ新聞の宣伝紙を受け取る、早速、自己紹介代わりに手渡す。
野洲市内を元気に太鼓の音と、シュプレヒコールで訴えながら行進、中山道を守山市へ、市役所で市長代理の挨拶を受け私も答礼!「核兵器の無い世界を!」市内行進しながら栗東市役所を目指しコールしながら行進。


近江富士に見守られながら、元気に!栗東市役所に12時半着、歓迎セレモニーで、市長代理の挨拶を受け、名刺を!職員食堂で昼食580円の日替わり定食(一口カツと小鉢2冷奴とおから、ご飯と味噌汁、漬物付)安くて美味かった!役所で休憩中、栗東市の姉妹都市や、産業の展示物を拝見。


1時40分出発し、本日の終着地、草津市役所を目指しコールでアピ-ルしながらの行進です、休憩時、女性の参加者から歌をとハンドマイクかついで、持参の平和歌集を買っていただき歌いました。「青い空は」、「折鶴」、「さんぽ(行進バージョン)」、「森のくまさん(行進バージョン)」歌詞コールするため、しんどく追っかけ歌が中心に。


旧中山道から分かれて、旧東海道に合流し草津市役所へ!


草津駅前で署名行動に参加、8人で約1時間の行動。28筆の署名が、滋賀県は、住民の1割14万筆が目標、コープさんが半分集めると!「核兵器なくせ署名」を広げ、来年のNPT再検討会議に!国民の1割1200万筆を!

矢部常次日記 第45日目

今日は、本コースから離れ、網の目コースの高島市コースの為、昨日移動して熊谷さん宅に泊めて頂く。


滋賀県は、琵琶湖を囲んで広がり県庁の大津市・雪の多く降る米原市・城跡地彦根市・そして長浜市、草津市があり、琵琶湖の対岸に高島市がある。


移動の車の中で、熊谷さんは言う「滋賀県は東西南北で大きく気候が違い、植物などは品種も多い。その自然を壊する、饗庭野演習場が高島市側にある(饗庭野演習場は中部方面隊の最大の演習場で富山・愛知~山口・四国から演習に来る)。


家に到着するなり、1本のビデオを見せて頂いた。熊谷さんが自ら撮影したビデオでそこには、一般訓練・ヘリコプター訓練・都市型訓練(ゲリラ・テロ対策で基地内にレストラン・銀行など本物そっくりの建物を作っての訓練)そして市街地徒歩訓練の様子が、7分程度にまとめられており編集があまり良くされていないので、更に不気味さを感じた(市街地徒歩訓練については、愛知県での小牧基地での訓練と同様、訓練が県下全域へ広がり、住民生活に大きな障害と自然破壊が進んでいるとビデオを見ながら思った)・・・災害時での自衛隊の活動には理解できるがこんな事が必要なのだろうか・アメリカ基地の撤去・廃止と同時に自衛隊基地についても考え直す時でもあり、憲法(特に憲法9条)に照らし検討すべきと私は強く思う。・・・


熊谷さん宅付近は、田園が広がり道路には消雪パイプが埋められており、私の田舎と同じく、帰省した様に感じ煙草を吸いながら散歩し、美味しい食事をいただき良い思い出となった。


高島市では、職員全員の出迎え(100人以上)を頂き、西川市長さん、渡邊議長さんの歓迎・激励、そして、非核都市宣言の朗読(市職員:馬場智美さん『昨年までは、行進実行委員会で朗読していたとのことで、こころ良く引き受けて頂いたとの事』)


非核都市宣言もすごい、宣言作成には子供から大人まで幅広く論議され2006年3月30日に決められ高島市と記載されていることだ。・・・行進してきた市町村では、××議会と記載されているのが大半だからだ。・・・


金曜日とあって行進参加者が55人と少なかったが、これまでに取り組みを進めてこられた市民のみなさんの努力に感激。

森 悦子日誌No.11

行進6日目。


摩文仁から出発して晴れていたのに雨が降りだし、署名行動は中止となりました。ガラス村まで2kmノンストップで歩きます。


途中、高校生の沖縄平和ツアーと出会い歓迎を受けてうるうる。


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▲平和記念館にて 糸満市出発式


昨日の終結には陸軍病院第20号壕を見学し、今日は、地上戦最後の地を歩いて二度と戦争を起こしてはいけない決意を新たにしました。


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▲南風副市長さんと記念撮影

浅田健司日誌(6月19日)

今日は4カ所の自治体を訪問。宣伝カーで山から山を越えるとき、美しい水流の川、緑いっぱいの山林は絶景でした。


大きなダムを眺めたことも心に残っていますが、何よりも米軍戦闘機の墜落現場に行った時のことは忘れられません。1994年10月14日、米軍の空母艦載機A6Eイントルーダー攻撃機が高度120~150mを時速500kmで超低空飛行し、90度近い急旋回を行ったため、パイロットが失神して墜落。2人が即死亡しました。周辺に散開した状況と、異様な臭気は、いつまでも残ったとのこと。その100m先には保育所や学校があったのです。


その現場、大川村「早明減湖」の前に、1997年10月14日付で高知県平和委員会。嶺地平和委員会が作成した大きな看板が当時の状況を語ってくれていました。


その後、訪問した4カ所の自治体、大豊町、本山町、土佐町、そして大川村と、それぞれ快く署名、募金に協力していただけました。


署名行動では、民家が山中にあって困難でしたが、87筆。行進も4人の時や10人のところなど様々でしたが、元気にアピール(今も超低空飛行訓練が続けられているのです)。日本一人口が少ない大川村(470人)でも21筆集まりました。

五十嵐成臣日記 6月10日~6月18日

6月10日


秋田市・県⇒自治体訪問後、由利本荘に引き継ぎ、本荘駅近くを行進。地元の原水協が行進地域に独自の案内チラシを配ってあったので、外に出たり、窓を開けたりして手を振る人が多い。


秋田県原水協事務局も、山形への引継ぎのため、本荘へ来る。


6月11日


朝から雨。西目―にかほ市などを訪問。街宣をしながら引継ぎ地、三崎公園へ。引継ぎ集会には50人以上参加。その後、国道まで行進し、各方面を回りながら酒田市へ。


6月12日


この日は生協病院などを訪問後、署名行動。人通り少ない。


午後、市内行進。生協病院や、国公の人を中心に50人くらい。


6月13日


朝、鶴岡・田川地区へ引継ぎ(庄内町役場)。副町長、議長など歓迎の挨拶の後、行進(一部車移動で)三川町へ。副議長司会で歓迎の集会。町長あいさつがあった。


6月14日


三川町より鶴岡市に向かう途中、農村地帯の集落を行進。ほとんど人影が見られない。各集落で地元の人が数人の出迎えがあった。


鶴岡市内行進では、店の外に出て手を振る人があった。


6月15日


鶴岡より新潟に向かう途中、温道庁舎で歓迎のあいさつを受け、いくつかの集落を行進しながら新潟の引継ぎ地、鼠ヶ崎ビーチセンターで引継ぎ。新潟側100人位の出迎えの後、山北支所で歓迎集会⇒町内行進⇒朝日支所で街宣⇒村上市、片町より市役所まで行進。店から出てきて手を振る人も多い。


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▲引継ぎ集会であいさつする西潟昇新潟県原水協事務局長


6月16日


村上市役所を訪問。市長、議長と会う。その中で、議長より、6月議会で「非核平和都市村上宣言」を可決して、村上市長はそれを受けて、9月議会に「非核平和都市村上宣言」を提案すると話があった。


村上市内を行進や街宣し、関川村(村長の歓迎あいさつを受ける)、胎内市より新発田市へ行進。


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▲新発田市内を行進


6月17日


新発田市訪問後、阿賀野市へ行進、市役所訪問⇒新潟の奥、会津との堺の阿賀町へ向かう。


6月18日


阿賀町訪問後、町内にある原爆模擬爆弾が落とされた場所を見学(資料館と改地)しました。原爆模擬爆弾は、阿賀町、柏崎など新潟の3カ所に落とされたとのこと(7月25日)。


また、阿賀野川公害訴訟の昭和電工の工場を山の上から見学し、五泉市へ。行進後、新津市へ引継ぎし、この日は終了。

矢部常次日記 第44日目

行進スタート場所も色々ある。今日は、安土駅前で駅裏側の安土城敦資料館横の広場でホームから見えるが少し判りずらい(出発集会を始めようとしたら十数人が、あちらの方で待っていたと集まって来た。そして中平・鶴田くんも電車の為、少し遅れたが出発には間に合った)。


広場には「織田信長」の桃太郎旗が並び相撲やぐらがある。(説明の立て看板には『安土町は、近代相撲の発祥の地です。この相撲やぐらはその伝統を受け継いでいくために建てられました。』と書いてありました)。


この安土町は、隣市の近江八幡市との合併問題があり反対・賛成との意見があり今問題がくすぶっていると聞いた。行進して安土町役場に着き、津村孝司町長さんをはじめ多くの方の出迎え、そして歓迎と激励を受けペナント(町長さん・議会のサイン2本)を頂いた(名刺を渡しお礼の挨拶したが名刺は頂けなかった)。


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▲安土町の津村町長より署名・ペナント・賛同金を頂く


行進スタートまで時間があったので、安土町役場周辺を見ていたら、平和都市宣言のモニュメントを見つけた。そのモニュメントには「平和でありたいということは、人類すべての共通の願いである。私たちの安土町は、美しい自然と豊富な歴史・文化遺産にはぐくまれた平和の町である。この平和を恒久のものとするため、世界で唯一の被爆国の国民として、その惨禍と戦争の悲劇を再び繰り返さないため、全世界の人々に核兵器の怒ろしさと、平和の尊さを訴えなければならない。安土町は、我が国の基本方針である非核三原則を堅持し核保有国はもちろんすべての国に対し、核兵器廃絶と平和を守ることを強く訴え、ここに平和都市であることを宣言する 平成6年12月20日 安土町議会」とあった。


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▲安土町の平和都市宣言


合併には、安土町という地名がなくなることなど問題があり良くは判らないが、この宣言と平和施策は堅持して残して欲しいと感じた(今回の平和行進の中で、合併によりこのような宣言が失なわれ、結果的に住民サービスまで低下した市町村の話を聞いたからである)。


行進は、近江八幡市・京海道を通り小さな町を通過して野洲市役所に到着。市役所での歓迎は、市役所の職員の方などは多く参加して頂くが、沿道での反応は、イマイチではと思う・・・。

松本英治日記No.44

平和行進44日目。快晴。


8時半に宿を出、安土駅に織田信長の博物館と幟が、相撲を奨励したようで、立派な相撲やぐらが駅前にデンと!


10人あまりで、町内を元気に行進し、町役場で町長の挨拶を受け、名刺を渡し、通し行進者の紹介と私も挨拶「核兵器廃絶と非核神戸方式を!」


朝鮮人街道(朝鮮通信使が行き来し文化を運んだ道)を西へ安土町内から近江八幡市内へ、太鼓でリズムを取りながらアピールしながら元気に、84歳のおばあさんも歩かれ、歩く速度に気遣いながら歩く、ついつい速くなる!


近江八幡市で昼食休憩、兵庫県原水協の梶本さんから電話、兵庫での宿泊の確認(自宅に何日泊まるか?7月12、13の2日のみ、6月22日は休養日なので21日に帰省)。


出発集会で市長代理の挨拶を受け名刺交換、城下町の風情の残る町並みを行進し、旧中山道の宿場街を一路西へ、アピ-ルしながら元気に、横断幕は、通し行進者が交互に持ち私は太鼓を打ちながら!、オバマ仮面健在!子供たちに大人気!


行進中近江牛や、鮒寿司の看板が目に付く、赤こんにゃく、丁稚羊羹(丁稚奉公してる者が薮入りのおみやげにご主人様に!丁稚が買える値段の蒸し羊羹)が名物。近江商人の発祥の地!


野洲市役所めざし、田植え、麦かりの済んだ田園地帯近江米の産地を近江富士を眺めながら元気に西へ、家々の玄関に「信楽焼きの狸」が目に付く!さすが滋賀県!


4時過ぎ野洲市役所到着。20キロの行進でした。

浅田健司日誌(6月18日)

土佐市役所を訪問すると、板原啓文市長が私たちの到着を待っていてくれていたようで、すでに用意した署名用紙、ペナント、募金を、そして議長不在ということで、議長の分も、市長から手渡されました。


その後、時間的余裕もあり、地元役員の徳弘嘉孝氏が、奥さんとともに市内を案内。ジョン万次郎が出航したという浜辺や、美しい「あじさい街道」約2kmも見ることができました。


夕方5時半から、土佐市公民館前広場で出発集会を開催。22人の参加で平和行進を行いました。その途上、寄せられた署名9筆、募金が2600円でした。

森 悦子日誌No.10

行進5日目。担当は、実行委員会。コープ沖縄常務理事新垣さんのあいさつ「慰霊の日には組合員とともにファミリーウォークで5キロ歩きます」。


議会の合間を見つけ日本共産党議員4人が駆けつけてくださいました。2回休憩をとり、西原町中央公民館到着。軒下でお弁当。


15分から「内部被曝について」ワンポイント学習。熊本裁判で証言された矢ヶ崎弁護士。全員に資料を配っていただいた。手元にあります。


次に上間町長さんのあいさつ「あいにくの天候の中ご苦労さまです。平和行進を迎えることができ嬉しく思います。核兵器廃絶の願いは世界中で、オバマ大統領の発言にしめされるように、活動の成果と感謝しています。沖縄の地上戦で67パーセント5100人の生命が犠牲になりました。1985年被核平和宣言、1992年平和条例を制定」。


午後は、晴れ間もみえ、南風原黄金森公園までシュプレヒコールして歩きました。

栖原秀夫日誌No.15

9時30分に能美市立辰口図書館前で出発式を行う。地元の民医連の人たちが来てくれる。20人位で行進を始める。


周りの水田の稲は富山の朝日町辺りの稲と比べ、丈で2倍以上、太さでは5倍以上に成長している。この成長の早さでは、8月に広島に入る頃には、刈り入れが見られそうである。雨の予報のせいか、水田に出ている人は昨日より少ない。


辰口児童館付近で署名・カンパ活動に入る。とても反応の良い地域で、断られる家が少ない。55筆、3,400円集まりました。


11時15分頃に能美市役所寺井庁舎に到着。4km位歩いたかな。


13時に能美市役所寺井庁舎で出発式を行いました。寺井病院を中心に民医連からの参加者が50人、見送りの市職員が30人、盛大な式典になりました。総務部長から市長メッセージとペナントと「国際署名」とカンパを頂きました。


行進は、民医連の若い女性が10人位で縦笛を合奏し、車椅子に乗られた高齢者も参加していました。


寺井病院前では、30人位の人たちが励ましてくれました。高齢の参加者はここまでで、後は若い鼓笛隊を中心に20人で、小松市役所までの5kmを行進しました。「鼓笛隊」を見ていると、横浜憲法劇の若い人と同じ魅力を感じました。


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▲行進している若い民医連の仲間たち

森 悦子日誌No.9

行進4日目。今日も雨。出発点は、コザ通り。真っすぐ行くと嘉手納基地だ。ミュージックタウン前。沖縄市は、「音楽によるまちづくりを推進しています」。市長代理メッセージで、県民4人に1人犠牲となり、焦土と化し、地上戦となった。


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▲沖縄市副市長があいさつのあと少しだけ一緒に歩いてくださった。

松本英治日記No.43

平和行進43日目。快晴。


8時半宿を出、徒歩で彦根市役所へ、9時から出発集会。市長代理の歓迎挨拶を受け、名刺交換。通し行進者の紹介、本日は宿の都合で若者2人は途中から合流、私が挨拶「行進で世論を喚起しオバマ発言の実行を!元気に歩きましょう!」


西沢甲良町議の奥さんが昨年の日本のうたごえ60周年祭典に有明コロシアムにこられたそうです、今年も夫婦で京都祭典に来てくださいます。近いもの!


甲良町役場で町議の西沢さん他と山崎町長(民主党)と懇談、核廃絶はもとより、憲法9条の遵守が大切と歓待されました。


豊郷町役場で本体と合流、歴史的建造物の小学校の取り潰しで有名になった町。全国からの要望で現存しています、旧中山道をひたすら西へ!


荘町役場へ、途中旧郡役場の古い木造建築の保存運動が、我が母校筑豊工業高校(旧鉱山学校)の校舎と同じ様な造りで懐かしい!現存していない。


愛荘町役場で町長以下全ての町議会議員が出迎え、村西町長と議長が歓迎挨拶!昼食休憩に。町内行進し愛知川駅へ。


近江鉄道は米原から近江八幡、貴生川へ水口にお囃子を習いに、信楽にも行った事が。
愛知川駅で中山道の写真展が江戸から京都までの宿場の絵と共に、伝統工芸のびん細工手まりを販売していた。


電車移動で河辺の森駅へ、近江平野の田んぼの中の駅、待ちかまえた、地元の人と、合流し33人で歩く、去年は10人だったとの事、オバマ効果か!


うたごえの人歌ってと言われハンドマイクも伴奏も無いなか、元気に歌いました。「青い空は」「折鶴」「青い地球を」などを!


東近江市で職員の歓迎を受け、市長代理の挨拶、名刺を渡し、市長さんによろしくと!終結集会が3時に終了。


車で宿の近江八幡市へ!お風呂に入り洗濯をし、ゆっくりくつろぐ!矢部氏に行進の写真の処理をお願いしました。

矢部常次日記 第43日目

彦根市役所に集合して市内を行進。電車(近江鉄道)での移動が2回あるので、新婦人の団体から「ウォーキング・ハイキングフリーきっぷ21.6.17」と書かれた名刺サイズ半分の切符がプレゼントされた。


宿泊先の関係で若者2人(中平くん・鶴田くん)は彦根口駅で合流、無人駅であり切符が買えない。そうしたら、新婦人の人が用意していてくれたのか「フリーきっぷ」を若者にプレゼントしてくれ、ひとまず安心。


豊郷町役場では「恒久平和宣言の町 豊郷町」のモニュメントがあり、町の平和の施策がどうなっており、具体的取り組みはどうか期待、町長さんの歓迎・激励のメッセージを受ける。


中山道愛知川宿を行進、かやぶき屋根をトタンで覆った屋根の家が目立つ。ロープが張られ保存される「旧愛知郡役所」の前を通り、愛荘町役場愛知川庁舎前で愛荘町・村西俊雄町長さんから歓迎・激励を受けた後名刺交換(久しぶりに町長さんから名刺をいただく)。


町内を行進して愛知川駅から電車移動、駅は「愛知川駅コミュニティハウス」と書かれており、小さなギャラリーがあり「いっぷくしもって中山道 宿場町のとっっておきの祭」と題して写真と町の名産品の飾りが並べてあった、そのひと隅に旅人の記録帳があったので「2009原水爆禁止国民平和大行進・東京~広島90日間歩く・インターネットで『平和行進2009』を見てね」と日時・名前を記帳して電車に乗る(電車はワンマンカーであり、バスみたいに乗る時、乗車きっぷを取り、行き先場所ごとに乗車金額が光る表示板があった)。


河辺の森駅で電車を降り、田園地帯(家はポツポツあり遠くに町並みが見える)の道をひたすら歩き、東近江市役所で解散。

浅田健司日誌(6月17日)

「いの町」を訪問、塩田町長は町長室から外出前であったが、快く私達を迎え、署名・募金に協力してくれました。議会義務局に行きましたが、議長・副議長とも不在、協力要請を行いました。


「いの町」一周の平和行進には15人が参加、1歳半の幼児を連れた女性も最後まで行進してくれました。行進途上、36筆の署名、1812円の募金が寄せられました。

栖原秀夫日誌No.14

9時30分、白山市役所前駐車場で出発式を行う。市から総務部次長さんが市長さんのメッセージを読む。市長以下職員の署名とカンパを頂く。


川北町役場までのおよそ5.5kmの道を15人位で行進する。天気は良く、左手の遠くに白山などの山が連なり、周りは田んぼと集落で、農作業などで働いている人々が居ましたので、大きく手を振り、大声でアピールしながら歩きました。参加者の皆さんも、私のように手を振り大声でアピールしていました。


参加者からは「ゆっくりな歩き方だけど、時間の経つのが解らず、楽しかった」と、感想がありました。私は「手を振ると応えくれるのが楽しいですね」と答えました。


川北町役場では副町長から激励の挨拶を貰いました。ふと気が付くと、この5日間、私といつも歩いている人が2人居ました。石川県原水協の内藤事務局長と中西さんという女性です。事実上の県内通し行進者です。皆さんに紹介するために、明日は写真を撮りましょう。

矢部常次日記 第42日目

これまで行進して来たが、歓迎集会・昼食は「歓迎 国民大行進」と書かれた中山道・垂井宿で垂井関ヶ原実行委員会の方々に温かく迎えられた。

 

旧旅籠で「垂井宿・お休み処旅籠 長井屋 」と看板がある。聞くと200年以上前に建造され地元の人により大切に手入れされている(昔、旅人が休んだ風情が目に映る・・・)。

 

そして、出迎えの方々の中に垂井町・中川満也町長さん、町議会・衣斐弘修議長さんが待っていてくださり歓迎と激励を頂いた。名刺には「中山道 垂井宿」「竹中氏陣屋跡 やさしさと活気あふれる快適環境都市」と写真があり住民と一緒に旅籠を保存していく姿勢が見られた(最近地方財政が緊迫しているのか、私たちが名刺を渡しても「今持っていませんから・席に戻れはあるのですが」と貰えない市町村が半数)。

 

昼食は、岐阜県内を通し行進してきた鈴木和子さん(新婦人岐阜支部)が野菜サラダと冷やした枇杷を行進者全員分を用意して持ってきて下さった。(本当に美味しかったです・・・有難うございます。・・・)

 

これで2回目、引き継ぎ(岐阜県・滋賀県)の前に雨となり、少しの時間降って止む(にわか雨だが、松本さんが言う「誰かがいると雨が降る」と笑う・・・1回「東京都・神奈川県」は、ずっと雨であり、もう1回は、私が居なかったからだ...お互いに笑い顔を見合う)。

 

にわか雨も関ヶ原を通り抜けた時から人家が多くなる近くで止んだ。

 

県引き継ぎは、関ヶ原中央公民館で行われ、屋内という事もあって、団体リレー旗は車に納め、皆が会場に入り行われた。

 

車で移動して県境を通過して滋賀県に入り米原市役所・行進そしてまた車で移動して長浜市を行進。

 

追加、関ヶ原の休憩場所で変な表札を見かけました。「大切にしましょう 水準点(赤文字)建設省国土地理院」とあり連絡先の電話番号が書いてあった(暇の時でも聞いてみよう・・・)。

浅田健司日誌(6月16日)

日高村役場を訪問、戸梶眞幸村長と戸梶昭澄村議会議長と面談、約30分話し合い、署名・ペナント・募金の協力を得た。村長議長が同姓ではあるが、親族であるわけでもなく、この村では同姓が多いとの事であった。


午後12時半頃より高知市役所前広場で「海賊対処新法」に反対する緊急集会とデモ行進があり参加してきました。参加者数は約50人。


夕方5時半より約1時間平和行進。参加者6人、38筆の賛同署名3267円の募金があった。

松本英治日記No.42

平和行進42日目。晴れ後雷雨後晴れ。


岐阜県最後の日、8時宿を出、大垣公園城西広場へ、8時20分出発集会。トランペッターの水上さんが!


大垣城の横の公園です、名古屋城、犬山城、岐阜城と戦国武将の群雄割拠の地、本日は天下分け目の関が原で滋賀県に引継ぎです。


あっと言う間の6日間でした、岐阜の皆さんありがとうございました。出会いとドラマを感じた日々でした。


出発セレモニーで挨拶「ヒロシマ、ナガサキの心を広げオバマ発言を実行させよう!」と!


大垣城下を元気に歌いながら行進、芭蕉にゆかりの街で至る所に碑が!


本日は、引継ぎ後の日程が判らず、岐阜県の日程では、15時10分引き継ぎ集会とのみ、滋賀県の情報無し!


旧中山道を一路西へ、途中湯上さん登場、トランペットとギターの弾き語りの豪華競演です。


途中便意をもよおし、苦労しました。


垂井町内の旧中山道の町並みや宿場を通り旅がらす気分でした。


昼食休憩は、ふれあいプラザ夢の屋、長浜屋(中山道の旅籠)住民が自主管理!


歓迎集会で、垂井町の町長さんと議長さんがご挨拶に、名刺を交換しお礼を!


私の挨拶は、「古き良きものは、残す努力をしないと、残りません!皆さんの努力で後世に!青く輝く地球も!子や孫たちのために!」


岐阜県内通し行進者の方が、新鮮なサラダと、枇杷の差し入れを!ありがたい!


旧街道の旅籠での弁当は格別!また、ゆっくり来たいです。徳川家康初陣の地なども!
引継ぎの1時間前、また雨が!名残の雨か?犬山(愛知~岐阜)でも!


雨の中を、湯上さんの歌が響きます。孤軍奮闘の湯上さんに置き土産!昨日のうたごえ新聞読者を!今月で21人目だと!


天下分け目の関が原で、引継ぎ集会!岐阜県の皆さんありがとう!滋賀県の皆さんこんにちは、よろしくお願いします。


岐阜県の通し行進者の皆さんとは、宿を共にしなかったので、ゆっくりお話できず残念でした。ありがとうございました。握手を!


滋賀県に入り、車移動で、米原へ。山東支所で歓迎セレモニー市長代理の挨拶を受け、多くの職員がお出迎え!市内行進し、アピ-ル、伊吹山の雄姿が!


長浜市役所へ車移動、5時半から出発集会で市長代理の挨拶を受け名刺を!通し行進者5人(私ら2人、若者2人、滋賀県内通し1人)の紹介!


黒壁の街、昔の風情残る湖北の城下を市内行進!一周し市役所で集結集会、若者たちに、カンパの訴えが、心優しい皆さんの思いが!

栖原秀夫日誌No.13

昨夜の金沢市繁華街の行進は250人も参加し、宣伝カーの訴えだけでなく、参加者のアピールと共に、タンバリンや歌声が街に響き渡っていました。


今朝は昨夜の終結地近くの有松・貴船神社に9時30分に集合し、10人ぐらいで出発。4kmぐらい歩いて野々市町役場に11時30分に到着。参加に遅れた方が自転車で追いかけて来ているとの情報だが、まだ追いついていない。


私は石川県原水協の内藤事務局長の自宅で昼食を頂く。昼食後、野々市町役場に戻る。時間があるので、庁舎を見学。モダンでオープンスペースで受付はカウンターになっている。またインターネットを利用出来るスペースがあり、子どもたちにも親しみ易いようになっている。


行進の出発に際し、町長自ら激励の挨拶をしてくれました。今までに無かったことだそうです。情勢を反映しているのでしょうか。15人ぐらいで出発。追いかけて来た方も合流できました。


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▲野々市町役場に集まった参加者


若宮公園でさらに参加者が加わり20人以上になり、白山市役所まで行進しました。4.5kmぐらいかな。


参加者からの「いつもより、手を振ってくれる人、多いかな」の声に、大声でアピールしている私としては、とても嬉しかったです。

森 悦子日誌No.8

3日目、一日中雨が降り続いて大変な行進でした。終結集会は中部協同病院で行われました。スイカ、メロン、パイン他ごちそうになりました。


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矢部常次日記 第41日目

このコースは、昨年の国民平和大行進50周年(51回目)の時に地元の人たちの努力により新たに計画され大成功した網の目行進(本コースとは違い支線コース)である。


県によっては、1日のコースが5つから最大、愛知県の様に14コースも計画されている。運動の高まりによって網の目行進がされており、各々歴史とロマンがある。


本日このコースを行進出来ることは光栄であり、どんな出会いがあるのかと大きな期待を持って、長良川スポーツプラザを出発(行進スタート時点が違うので、松本さんとは朝食を一緒にした後、私は少し早く出る)。


行進するとお寺が多く鐘桜が目立つ。実行委員の方が2枚のコピー(カラーだが当時の写真は白黒)を見せてくれた。内容は、『鐘は1里(4km)四方に届くようにと、この地方では最大級の物が作られた。ところが太平洋戦争になると金属不足から鐘まで兵器にする為、どこのお寺からも荷車に乗せられ供出された。戦争が終わり、運が良かったのか池野東教会の鐘だけは無事に戻ってきたのです。皆の喜びと有難い涙の中、元の鐘桜に吊り下げられ、今も幸せと平和を願う昔通りの音色を響かせている』と『150年の歴史を持つ下八幡正圓寺の梵鐘(ぼんしょう)には赤タスキがかけられ、喚鐘(かんしょう)も一緒に大勢の人々にの見送りを受けながら荷車にのせられ、国旗と共に出征して行き、帰らぬものとなった写真』である。


また、今年の6月10日岐阜新聞に掲載された「戦争体験、後世に。神戸町・長久寺が初の『語る会』元兵士の門徒4人が、非戦訴え」のコピーを渡してくれその場で読みました。


真教寺では平和の鐘を行進者・参加者を代表して鉦を撞かせて頂き、「原爆犠牲者・親父を含め戦争犠牲者に黙とうして、核兵器廃絶と真の平和を希求」し2回撞きました。


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▲平和の鐘をつく


行進コース2回目で月曜日とあって参加者が少なくなると思っていたが、昨年より多く初めて会う方、飛び入りもあり成功、来年以降も若い人の参加をさらに増やし続けなければと話す小倉さん(実行委員の一人、JMIU愛知地本執行副委員長)。


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▲小倉さんとJMIU組合員


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▲初めて行進に参加した人たちと


前日貰った「第4回網の目平和大行進実行委員会」の議事録を見ると分単位のスケジュールと役割分担・昼食準備・記録、そして雨の場合の対策など参加者に不自由をかけない日程が話され、成功したんだと確信(私などには、まねの出来ないことであり敬意・・・)。


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▲ブラジル労働者:吉田・熊谷さん

森 悦子日誌No.7

2日目はキャンプハンセン第2ゲートからの出発。医労連の担当。雨降り続いています。


4回のワンポイント学習会があり、沖縄の闘いについて生々しく聞くことがてきました。金武町伊芸区米軍実弾墜落を認めないため、軍用地の契約をしない決議を決めました。基地の闘いは、ますます重要です。


沖縄通し行進者は10人。大阪から4人、東京から2人、のこりは沖縄の人です。

栖原秀夫日誌No.12

10時30分に森本駅に集合し、東金沢駅に向かって歩き出す。


神谷内交差点付近で署名・カンパ活動を14人で行い、48筆、1220円を集めました。


東金沢駅口交差点で休憩し、城北クリニックに向かいました。


13時に到着し、集会を行いました。行進距離およそ3km。


17時30分から18時まで香林坊で署名や募金などの回収に取り組みました。


事前に配布したビラや鶴の折り紙を出して来るお店や私の説明を聞き、署名を改めてして大きな1コインを持って追いかけてくる店長さんなど、とても感動しました。


18時30分に金沢市役所前を出発し、香林坊などの繁華街を3kmぐらい行進しました。署名は40筆位かな。

浅田健司日誌(6月15日)

高知県平和委員会の和田事務局長と二人で、午前10時○崎市を訪問したが、議会会期中ということで面談できず、事前に要請していた署名用紙をいただく。


午後、仁淀町役場を訪問、藤崎町長、安井事務局長が応対、署名・ペナントに協力,町内で見かけた見事な桜の樹について話すと、あればバラ科のもので「ひょうたん桜」と言って、町のシンボルとなり、別に「ひがん桜」と言うのもあって県の天然記念物になっている、など話してもらえた。


その後、越知町役場も訪問したが不在。署名協力は用意してくれていて総務課長が対応してくれた。


午後4時、佐川町を訪問し榎並谷哲夫佐川町長と面談,快く署名などに協力、この町には茶畑が多いこと、世帯数6200、人口14000人余など、話がはずみ、1時間近く話しあった。(今までは、長くても10分程度)この町長は牧野富太郎博士の甥にあたるそうです。その後、佐川町役場前から町内一周の平和行進には40人程度の参加、募金額8512円であった。

松本英治日記No.41

平和行進41日目。快晴。


9時宿を出発、新婦人の事務局長の宇留津さんが車で集合場所へ、彼女は同郷の福岡県筑後の出身で、25年目だと聞く。懐かしい!珍しい苗字!うたごえ新聞の宣伝紙をお土産に!


美江寺公園で9時40分出発集会、主催者挨拶等あり、私も「行進50年の重みを感じ、オバマ発言の実行を!元気に歩きましょう!」


岐阜市内をアピ-ルしながら行進、市役所と離れた郊外に県庁が!県知事代理(市民参画部長)の歓迎挨拶を駐車場で受け、職員食堂で昼食、瑞穂市を表敬訪問、会議室で市長代理と議長代理の挨拶を受け、署名とペナントを預かる。


国道21号線(片道3車線)を一路西へ、近くに民家もなく、単調に歩くのみ、行進団を励ます歌やシュプレヒコールを繰りかえしながら歩く歩く早足で!ひたすら大垣目指して。車にアピ-ルしながら!


21号線を離れ、大垣市内へ旧城下町のたたずまいの中を、歌を歌い、コールをしながら歩く。


大垣公園城西広場で表敬訪問(網の目コース)の皆さんが盛大にお出迎え!集結集会。


本日も20キロ以上の行進でした。


地元のJMIU(全日本金属情報機器労働組合)の皆さん日系ブラジル人(3人他)労働者とブラジル料理店(一階はブラジル商品のスーパー)で交流会、肉中心の料理で950円で食べ放題、日本人には、安いが、不況で仕事が無く、めったに来れないと!生活保護申請中の方も!


20年以上日本で生活し子供も日本語で育ち、行政は、不況でブラジルに帰そうとする(帰国旅費30万円出る)が、帰れる状態ではないと、言っておられました。


浜松から西の東海地方には、大量の外国人労働者が!安い賃金で働かされています。大垣のJMIUに170人のブラジル人組合員が!


宇留津さんに電話、お世話になったお礼と、新聞の勧誘、読者になっていただきました。うれしい!岐阜の湯上さんに託します。


明日は5日間の岐阜県最後で、滋賀県へ!

矢部常次日記 第40日目

関市ワークプラザを行進団がスタートとしてすぐに、大きな登山用バッグを背おう若者2人が、行進に加わってきて行進を始める。


休憩時点で話を聞くと、広島まで行進して行くと言う、バッグを宣伝カーに詰め込み身軽にして行進。


愛知県知多から来た、中平猛(22歳)、鶴田伸治(21歳)の先輩と後輩と言う友達同士だ。


中平君が携帯片手に私の写真を見せてくれた。(どこで撮られたのか覚えていなかったが)そして話す「お母さんの名刺を貰っていると思うがその息子です」と言う。そう言われれば、少し記憶が戻ってきた。


知多市会議員の中平ますみさんの息子さんだと判った、名刺を貰った時、激励と同時に息子が平和行進に合流して広島まで歩くと話されていた(私がよく聞いていなかったのか『何処の場所から参加する』かは知らなかった)。


全国通し行進者が4人になり平均年齢も大きく若返った。そうなると行進団は元気が出る、休憩の時などは「このお茶を飲みな・持ってきた冷えたオレンジを食べな」と地元の行進参加者の方が親切にしてくれ、行進のみんなと交流しなじむ。


みどり病院で昼食、午後からは長良川リバーサイド有料道路(自転車・歩行は通行無料)の川沿いのハイキングコースの行進だ、日差しは暑いが川沿いであり緑も多く歩きやすい(河原では日曜日とあってキャンプや泳いでいたり、ジェットモーターボートでエンジンを最大にふかし楽しみ転覆する人の姿もあり、楽しむ人が多く羨ましく感じた。・・・俺たちは歩いて行進しているのに・・・)。


昼から、昨日も行進参加したお父さんと一緒の中洞ほのかちゃん(小学4年生)が行進参加していた「先頭で横断幕を一緒に持って歩かない?」と話すと喜んで歩いてくれた。(昨日は、お父さんがハイキングに行こうと誘い、ついて来たのだそうだが、昨日・本日と歩いて平和行進をどう感じたのだろう・・・数年経ってから感想を聞きたいと感じた)。

松本英治日記No.40

平和行進40日目。快晴。


8時半宿を出、関市ワークプラザ(勤労会館)へ、9時出発集会、主催者挨拶、地区労の挨拶、市長のメッセージ代読、通し行進者の紹介と挨拶では私が「トムソンの事、オバマ発言の実行、「非核神戸方式」の宣伝」!


9時半、岐阜までの20キロ以上の長丁場出発、パーランクを叩きながら元気に市内行進、土日と長良川水サミット開催中で一部通行止め!


うだつの上がった旧街道の町並みをシュプレヒコールでアピ-ルしながら50人以上の行進です。


名鉄の廃線の道、赤茶けたバラスと電柱だけ残り異様な光景を長い距離通る。


民医連の大きな「みどり病院」で昼食休憩、午前中職員さんが参加!近くの店でうなぎ丼をいただく。


出発集会で病院の先生から挨拶を受け出発!


昼から歌いながら行進、一杯歌いました、ハンドマイクでアカペラで!長良川沿いの歩道を、日曜日で家族連れで川遊びの皆さんと車にアピ-ルしながら!


元気に昨日の午前中と、本日昼からお父さんと参加した中洞ほのかちゃん(4年生)が横断幕を持ち歩きました。


岐阜市内に入り、湯上さん登場、トランペッターの水上学さん(松平さんの知り合い)も参加で賑やかに!


金華山の麓を歩き、市内の繁華街をアピールしながら元気に!


美江寺公園での岐阜市歓迎集会では湯上さんが歌ってお迎え、岐阜市民と役所の方も、市長からの歓迎メッセージの代読、名刺交換、通し行進者の紹介と挨拶。


本日から広島まで通し行進する愛知(知多)の若者二人(中平君、鶴田君)が紹介され決意表明、仕事が退職になり、歩く決意を!


明日からが楽しみです、60のおじさんコンビと、20代コンビの珍道中の始まりです。地元の方々に焼肉店での交流をしていただき、宿へ!


本日岐阜市内行進は150人で!

栖原秀夫日誌No.11

石川県に入って2日目、9時30分に津幡駅前で出発集会を行って、金沢市に向かって出発。


途中、花園小学校付近で署名・募金活動を行う。署名23筆、募金500円が集まりました。


12時頃に森本駅に到着し、解散しました。16人の参加で、およそ6kmを行進しました。


民医連から参加した若い人からは「初めて参加しました。署名を頼む大変さ(苦労)がよく解りました」と、感想が出されました。

浅田健司日誌(6月14日)

日曜日で自治体訪問はなく、仁淀町役場前で平和行進出発等会、古くからの町役場を眺めていると、大きな柿のところにツバメの巣が二つありました。形が違うので現地の人に聞いてみるとツバメの喉の色が白色のものと黄色の喉をしたものとに分かれているとの事を教えてくれました。集会には8人が参加、町内を一周。


沿道の人に手を振ると、よくこたえてくれました。行進者のところに募金を届けてくれた人もありました。


午後の行進までの時間、この日は高い山頂まで行くと恒例の祭りがあると言うことで、坂道を登る途上、道の両脇に美しい「あじさい」が満開でどこまでの続いています。山の中腹に「第5回日の浦あじさい祭り」と書かれたアドバルーンが上っています。


この坂道は、「あじさい街道」と呼ばれ、その長さは2.5kmという事です。頂上には神社広場があり、黒石小学校の児童が餅つきをしていました。その後越知市を平和行進、15人の参加で9599円の募金がよせられました。

森 悦子日誌No.6

沖縄行進1日目。


朝7時、高江を出発し、8時過ぎに辺野古に到着しました。11日からずっと雨、どしゃぶり、カッパを着て参加です。


出発集会には200人参加。赤嶺政賢議員のあいさつは参加者全員が励まされました。車椅子のおじぃの言葉で「皆さんいい顔している。辺野古や高江の闘いに負けない自信に満ちている」-感動的でした。

矢部常次日記 第39日目

朝、別のコースを行進している松本さんから電話「昨日は、久しぶりに市内を行進した所・初めて行進が計画された地域と楽しく皆さんの接待も良かったよ、地元も『全国通し行進者が来てくれる』とあってはりきり元気だ・・・本日の午後は合流して関市歓迎集会に参加、お互いにガンバローとエール。」


昨日旅館に着いたとき、おかみさんが「もう一人の方は、東京から来るので夜の8時半過ぎに来るとの事ですよ・予約されているが名前は今はっきりしていない」」というので明日の出発時間を知らせるため「来られたら、私の部屋に連絡してください」と伝言し、夕食後町並みを見て回った。


この美濃市は、「うだつの上がる町なみ案内」と看板があちらこちらにあり、大きな財を得て建てた大きく立派な家並みが続く、あまりのものすごさに路地を回りすぎて、自分が泊まっている旅館が判らなくなった、夕方なのでジョギングする人もあり「こんばんは」と声を掛け合うが昨日の郡上八幡の市内と雰囲気が違う。


東京から来たと言う人は、全印総連の菅野さんだった。菅野さんとは、5月27日に静岡県で行進を一緒にやり話もして親しかったので、話は早い。


全印総連はリレー旗を県や地区を担当を決めて組合員で広島まで行進する。行進も22年間も継続され歴史の重みを感じる。この岐阜県では、宿泊は全国通し行進者と同じで地元の実行委員会の人の対応は違う。出発集会・歓迎集会などで、全国通し行進者が紹介され挨拶そして全印総連の参加者が紹介・挨拶する、その後県内通し行進者が紹介され時間があれば挨拶する。


良い取り組みと思うことは、他の県でも行っているが、参加団体・個人そして初めての参加者に手を挙げてもらい紹介していることだ。(JMIUの組合も紹介され今年で15回リレー旗を継いでいるのにと思い、JMIU組合員として少し全印総連がうらやましい)。


市内を行進して感じたことは、昨夜町並みを見た時感じたことと同じく、家には人がいる気配はするがあまり行進を見る姿がない、そして道で会う人のオバママスクへの反応もいまいちだ。


行進参加者とも話すが、毎年参加している方も同じ感想で、シュプレヒコール・平和の歌など歌い行進し参加者は元気だが町の反応が気になる。・・・地域性なのか・・・。


午後は、岐阜市内に移動して折り鶴平和行進にピースウォークの方・市民と市内を行進、人数が多いと元気で皆の顔も明るい。

栖原秀夫日誌No.10

富山県から石川県にリレーされる日です。


小矢部市役所を出発し、小矢部商工センター入口付近で、署名・募金活動をし、近くの石動高校の先生が合流し持ち込んだのを合わせて、120筆・1万8698円集まりました。


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▲小矢部市役所前で荒木兄妹と再会し一緒に横断幕を持つ。周りにはお世話になった方々


倶利伽羅トンネル石川県側出口付近の広場で引き継ぎ集会を行いました。ここまでで歩いた距離は3kmぐらいかな。


富山県の平和行進の到達点は、参加者899人、署名1666筆、募金20万3312円でした。


石川県の行進は倶利伽羅から越中坂のJAで昼食を取り、中津幡駅付近で10分間署名を6組程で取り組み、47筆を集めました。私は在宅の家で断られる事はありませんでした。事前ビラ配布などの取り組みがあったとの事です。


津幡町役場まで歩き、副町長から激励を受けました。

浅田健司日誌(6月13日)

9時30分、中土佐町久礼駅前で出発集会。18人参加で町内一周。


午後12時より梼原町を平和行進。


15時30分より津野町姫野々から山崎まで行進後、署名行動に入り、70筆近く集める。


18時から約45分間平和行進(須崎市役所前から高岡教育会館まで)。


夕方からの行進にはたくさんの折り鶴を持って高齢の婦人が来てくれる。年齢を訪ねると「この地に嫁に来て65年になります。今年で91歳になりました」と言う。


この折り鶴を一人で毎日作ったとのことに驚き、「必ず広島、長崎、そしてニューヨークに届ける」と言うと、「それならまだ沢山ありますので」と言って大きな紙袋に入れた折り鶴を手渡してくれた。

松本英治日記No.39

平和行進39日目。曇り後晴れ。


8時宿を出、8時45分美濃加茂市役所で出発集会、通し行進者を迎えて初めての網の目平和行進ですと主催者挨拶、私も挨拶「オバマ発言の実行と非核神戸方式を広げ、元気にアピールしながら歩きましょう」


40人の参加でシュプレヒコールを繰り返しながら1時間市内を行進しました。9条犬も登場、乳母車に乗った1歳から80代まで参加されました。


車で関市に移動、美濃市~関市コースに合流し、関市若草プラザで歓迎集会。主催者挨拶、被爆者の挨拶、関市長のメッセージ代読、通し行進者2人の挨拶「美濃市にある、日本トムソンの姫路工場で昨年まで働き、第二組合が姫路には、未来が無いので皆で岐阜に行くか辞めるかの二者択一を計り姫路を脱出、私たちの組合の力で姫路工場を存続させ、派遣切りと闘っています」と挨拶!浜崎氏の話題が出され、夜電話しました。


車で岐阜市へ移動、昼食のおにぎりを食べながら、岐阜市内折り鶴平和行進の出発集会が岐阜市金公園で湯上氏が音響を用意し準備、握手を!

会前に「青い空は」と「折鶴」を一緒に歌いました。


主催者挨拶は、生協さん、被爆者の挨拶、通し行進者の挨拶2人ともと和歌山市民生協の竜崎さんも挨拶、県内通し行進者3人の紹介、共作連の皆さん(10人)が南中ソーランで盛り上げてくれ、一緒に歩きました。


湯上さんが行進中も素敵な声でギターを弾きながら歌ってくれました、私はパーランクで伴奏しながら、先導しました。


岐阜の繁華街を歌いながら、シュプレヒコールを繰り返し1時間20分の行進で、150人が元気に歩きました。


宿の関市に戻り、明日また関市~岐阜市まで歩きます、この変則コースは、国民平和行進と市民平和行進(生協中心)の統一のなごりだそうです。

森 悦子日誌No.5

高江へりパッド座り込みテント前で沖縄原水協佐事さんと原水協代表弁護士芳澤さんと6月10日ベトナムで開かれた弁護士協会で決議された文書を読み合わせしました。辺野古、高江の闘い支援の決議です。


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矢部常次日記 第38日目

本日の私の郡上コースは、14時から行進スタートする。松本さんは、土岐市~多治見市~可児市コースで9時30分出発、そして今年初めて計画されたコースもあり楽しみと地元のすごい歓迎だろう と思う。


郡上は32夜踊り続ける「郡上八幡踊り」で有名であり、一度は来てみたい観光地のひとつだ。


いくら観光客が多いにせよ「7月11日からあちこちの町内で32夜踊り続け、8月13日から16日がクライマックスで宿など取れない」と地元の人が話す。この地域にそんなパワーがどこにあるのかと午前中は、旅館の自転車を借り見て回る、「JMIUの腕章を付け写真を撮る」ので「あんた何処の新聞社なのか」と声をかけられ話し込む(東京~広島コース通し行進者:矢部の名刺をホルダーにして首に掛けているのでそれを見てもらう)


すると、家に戻り写真とコピーを持ってきてこの場所(柳のある小川の橋)と同じ風景が神奈川の下田にあると言い、雑誌からコピーした写真でよく似ている(時間がなかったが、いろいろ話し最後に「広島まで頑張りな、いい会社に勤めているのだから」と激励を受ける)。


またもやハプニング、郡上八幡駅まで行き12時に旅館に戻り、連絡あった市役所にタクシーで行き待ち合わせ場所に行くが誰もおられず20分待ち、あまりにも腹がへったので近くの喫茶店に行く(2時間前の待ち合わせで変だなと思ったが?・・・実は市長室に12時30分に来て欲しいとの事で、議会中だからこの昼しか時間が取れず市長さん・議長さんが表敬訪問を待って頂いていたとのこと)。


『私は何も聞いておらず』連絡の不手際だった、私は失礼な事をしたことを謝り、2枚の名刺を議員さんに渡し陳謝してもらうよう依頼。


もう一つは良いことがあった、旅館で都合悪く夕食が作れないとの事で昨夜行った店で会ったお客さんが市役所・教育委員会庁舎前で「矢部さん」と呼ぶ、市の職員だったのと聞くと「保育園で働き用で来たのよ、昨日は楽しかったしママも喜んでいたよ」と話し、近くにいた行進参加の人達を驚かせた。

昨日は、どんな話をしたのかはあまり覚えてたいないが、確かに楽しかった。覚えているのは、「今年の郡上八幡踊りに来な、泊まるところはお店でもよいし・自宅でも泊まれるよ」と言ってくれ名刺を貰ったことだ。


この温かさは、市内を行進しても判った。「こんにちは、国民平和大行進です」と言うと家の玄関を大きく開き、出迎えてくれ笑顔だ(これだったら、ドロボーや事件など無いだろう、そして防火にも各町名ごとしっかりしている)。


行進終了後、明日のスタート時点の美濃市に車で送ってもらう。

松本英治日記No.38

平和行進38日目。快晴。


8時半宿を出発、お迎えで土岐市役所へ、網の目行進ですが、全国通し行進者が来ると奮闘していただきました。


表敬訪問では総務部長と秘書課長に会う。総務部長の加藤さん個人としてペナントをいただく。議長さんとも会うが、趣旨は賛成だがだめ!「オバマ発言の実行をと自治体に協力要請、行進に参加される首長、議長も」と!名刺を交換。市長さんによろしくと!


9時半、出発集会で市長のメッセ-ジ代読!、主催者、被爆者の挨拶の後、私も、一人なので、じっくり挨拶させていただきました。「誕生日、オバマ効果、非核神戸方式」と、土岐は久しぶりの行進で42人の参加者で元気に市内行進(30分)を行いアピ-ルしました。


車移動で多治見市へ、両市とも焼き物の街、じっくり見学したいが、無理!


11時から産業文化センターで出発集会、会館前で警備の警察官が「ご苦労様!東京から歩いてと!」と激励されました。歓迎ムード。多治見も久しぶりで全国通し参加効果です。


主催者、副市長の木俣さんが、市長のメッセージを代読、被爆者の挨拶を受け、私も土岐市と同様にじっくり挨拶させていただきました。


11時半、市内をパーランクを打ちながら行進、シュプレヒコールでアピールも。こちらも、30分の元気な行進で40人が参加されました。


交通整理の警官が、毎年してくださいと、主催者に、私に頑張ってと握手を求められました。素敵な光景で、昼食休憩中話題になりました。


多治見名物のスパゲティ(卵敷き)をご馳走になりました。おいしかった~!大繁盛のお店でした。


車移動で可児市へ、駅前で2時から出発集会、こちらは、毎年歩かれているそうで、主催者、被爆者、私の挨拶、ここも、じっくり訴えさせていただきました。


今夜宿泊の美濃加茂からお迎えの方も歩かれました。ローカルな行進も素敵です。こうして、網の目で草の根で本行進に繋がれます。


2時半、市内をシュプレヒコールでアピールしながら、約1時間半行進しました。20数人の行進でしたが、元気に歩きました。市役所で市長のメッセ-ジを受け解散しました。


宿泊の美濃加茂市へ車移動、宿に4時半着、久しぶりにゆっくり休養させていただきさした。8時に就寝!

栖原秀夫日誌No.9

明日は石川県に入ります。午前中は国宝の瑞龍寺や立山の山並みが美しい雨晴展望台に連れて行って貰いました。


13時15分に福岡町中央公民館で出発集会。宣伝カーのエンジンがオーバーヒートし、横断幕・旗・ゼッケン・署名用紙・ビラもありません。荒木さん(生協労組)が宣伝カーが駆け込んだガソリンスタンドに行き、取ってきてくれました。少し遅れて、手短に集会を行い、宣伝カーなしで行進を始めました。


福岡町中央通り北銀前周辺と小矢部市中央児童公園前周辺で署名・募金活動を行いました。小林さん(富山県原水協事務局長)が富山民商の宣伝カーを持ってきました。自転車に乗った婦人が途中から行進に加わりました。終点の小矢部市役所まで来てくれたので感激し声を掛けました。彼女も感激しているようで、大きな目が潤んでいました。


小矢部市からは平和都市宣言の中で新たに核廃絶を文言として入れたいとの考えが示されました。参加者からは「長年の要求が実現した」と喜びの声が沸き起こりました。本日の参加者は27人、戸別訪問で署名は59筆、募金は7,100円集まりました。


小矢部市の市長と議長からペナント、激励金、市長以下職員の署名57筆、募金2,000円を頂きました。夕飯は地元の割烹「ゆず」で堀内先生と肝っ玉母さんの太田さんと会食しました。御馳走様でした。

森 悦子日誌No.4

会見終わってまた高江に戻る途中で雨に降られて4時半過ぎに着きました。


座り込みに参加する人は、県内の他、インターネットで知った人も多くいろんな旅人もやって来て座り込みをして、夜は音楽を楽しんでいます。青い家は、すごいです。誰でも受け入れています。驚いています。


この日も高尾山で知り合った4人が来ました。今日は、滝のような雨でも一日中座り込みしていました。私は携帯でメールを送っていました。


ヘリパッドの座り込みは、朝7時から夕方5時まで当番制を取り入れ、非暴力後は本人次第です。ずっと降り続いています。行進中雨かも?

浅田健司日誌(6月12日)

津野町役場を訪問するが町長不在。議会事務局長、総務課長が応対。町長に署名用紙、ペナント等手渡すことを約束。


その後、梼原町役場及び中土佐町役場を訪問したが、同じく不在。


17時30分より中土佐町役場から平和行進で市内一周(26人参加)。

栖原秀夫日誌No.8

6月11日、富山に入り8日目。いつもお世話頂く富山県原水協の小林事務局長の案内で、南砺市の3つの行政センター(利賀・平村・上平村)を訪問し、「国際署名」を窓口に置いて頂き、ポスターを掲示して頂く事を依頼致しました。どちらでも快諾して頂けました。


運転手は、ほとんど毎日サポートカーなどで大活躍の荒木さん、4日目の平和行進で感動を頂いた兄妹のお父さんでした。とても楽しい道中でした。

松本英治日記No.37

平和行進37日目。曇り後晴れ


愛知最後の日、7時荷物を持ち宿出発、江南市民文化会館に行く時に渋滞に巻き込まれ、8時半到着、すぐ出発集会。


江南市の挨拶を受け、通し行進者の挨拶は、「12日間お世話になりました。愛知の力強さを感じました、ありがとうごさいました。ナガサキで会いましょう」


江南市内を歌いながら行進、脇谷君がギターとうた新持参、早速県内通しの早川さんが読者に、脇谷君におみやげ!浜島さんから、おみやげ戴く。気配りがありがたい!頑張ります!


柏森駅から犬山へ電車移動、愛知最後のお礼を込めて、うたごえ隊に、途中から、アコの加藤さん、武藤さんも合流賑やかに。


犬山の城下町は昔の町並が、雲行きが怪しくなり突然の豪雨に!愛知名残の雨か?木曾川を渡り岐阜県へ、各務原市民プール横で引継ぎ集会。


「愛知の皆さん12日間お世話になりました、岐阜の皆さんよろしく!」愛知の行進参加者6400人、署名4000筆、カンパ36万5314円、ペナント230本、折鶴5万羽以上。


岐阜の湯上さんにうたごえ旗を、愛知の皆さんにうたごえ新聞と愛知の申込書を渡す、お礼を込めて!読者になって!


バス移動で各務原市内へ、広大な市民公園で、出発集会。5日間よろしくと挨拶、市内行進でギターを弾きながら歌う湯上さん元気!市内を1時間の行進、市民公園で終結集会。明日2コースのため、矢部氏は郡上へ、私は、土岐市へ宿のルートインへ、土岐は久しぶりの行進で、通し行進者が来ると、歓迎され、革新懇の中島さんと、議員のおぜきさんと食事をしながら懇談、出来ることは何でもしますと、出発集会で得意の民謡を!

矢部常次日記 第37日目

12日間の愛知県の国民平和行進も、早いもので今日半日行進で木曾川を渡れば岐阜県になる。


私は、組合の用で静岡県・愛知県の引き継ぎには参加できなく、後で松本さん(全国通しの行進者)に引き継ぎの感想・愛知県での半日の行進について聞くと参加できず残念(組合の方も、私のJMIU川崎支部の結成40周年の記念行事であり、私は今委員長であるので、元気な姿を皆に見てもらいたいし、行進に送りだしてくれた組合員・友人に感謝したかったから大切だ)。


それだけに愛知県のあと半日を大切にしたく少し力が入り江南市民文化会館を行進スタートする(しかし行進スタート前に、江南市役所に表敬訪問することだったが車の移動で道路が混み、訪問は地元の県内通し行進者を中心でやって頂くよう携帯で連絡、また宣伝カーも遅れ準備も大変)。


またもハプニングだ、天気予報では、曇りで一日大丈夫と思っていたら木曾川を渡る1km弱手前で、スコールみたいな雨を受け行進一時中断、少し大きな広場でお店もあるところで、軒下でカッパなど雨具をあわてて身に着ける。実行委員会の方でビニールのカッパも用意されており、それを借りて着る人も多数。警備して頂く警察の方は準備していなかったのか雨に濡れ、早く行進をスタートして岐阜県に引き渡し任務を完了させたいと思ったのでは。ご苦労様でした、私たちのために。


木曾川を渡るころには、雨も小降りになり雨具も必要ないくらいだ。木曾川から見る犬山城は素晴らしい、初めての私に「横断幕は皆が持つから、カメラで撮りな、この場所がいいよ」などと言ってくれる。


親しい多くの仲間に囲まれ幸せ者だ。橋の上では、県内通し行進者の方が沢田昭二さん(原水爆禁止日本協議会代表理事・名古屋大学名誉教授)を紹介して頂いた、御名前は知ってはいるがお会いするのは初めて、「愛知県に入った時、君は居なかったからな」と名刺を頂き写真を一緒に撮らせてもらう。


引き継ぎも感動の場面だ、県内を行進の先頭を歩いた「原爆の火」に誓いをこめ灯した火を消して、全国の団体リレー旗を各自引き渡す(東京~神奈川~静岡での引き渡し場面と雰囲気は違う)。


岐阜では、引き継ぎ集会後用意されたバスに乗り、各務原市市民公園で出発集会そして市内を行進、行進後は松本さんと別れ明日のスタートの地に向かう。私は、郡上市に自家用車で送ってもらい岐阜県の工程を詳しく車の中で聞く。


愛知県内通し行進者(16人)の方、また県内実行委員会の方、ご苦労様でした。県内行進参加者6400人・4000筆の署名・36万5314円のカンパ、そして市町村の首長さんからの賛同のペナントを含め230本と愛知県での取り組みのすごさに歴史を感じる。有難うございました、長崎でお会いしましょう(和歌山から参加の宮下さんご苦労さまでした。岐阜県での参加の竜崎さんと楽しく行進します、どこかで会えれば嬉しいですね)。

浅田健司日誌(6月11日)

午後、黒潮町役場訪問。「下村正直町長」が署名、募金、ペナントに協力。


午後17:30より黒潮町田の口より平和行進。参加者5人程度で署名を訴えながら元気よく行進。20筆程度の協力を得る。

森 悦子日誌No.3

今日は、午後県庁にて記者会見があります。那覇市に帰宅する新婦人常任委員会棚原さんに同乗させてもらいました。

 

午後13時から県庁記者クラブでおこなわれました。沖縄タイムス社、琉球新報社、沖縄テレビの3社です。初めに沖縄原水協の佐事さんが平和行進の説明をされ、私は昨年歩いたこと、今、高江ヘリパッド座り込みに参加していて、知らされていないことばかりです。見たこと聞いたこと共有したいと思う。原爆症認定裁判の全員救済を、日米安保条約解消、基地のない沖縄を返してほしいです。と訴えました。

 

14日からの行進には、9人の通し行進者がいます。

矢部常次日記 第36日目

朝の新聞で「東京高裁、政府上告断念 原爆症認定集団訴訟、いよいよ大詰め!」の記事を読んだ。そして、舛添厚生労動大臣が被爆者・原告と面談をしたという。連日による厚労省前での座り込みを継続してのやっとのことだ。


一宮市役所前の出発集会で、昨日東京に原告として行動した原爆被災者の2人の方の姿があった。


挨拶で、愛知の原告の森敏夫さん「私は、2年前の名古屋地裁の判決で原爆症と認められませんでした。中村てる子さんとともに大変悔しい思いをし、名古屋高裁で勝訴できるよう頑張っています。全国の皆さんが、私たち敗訴した者を含めて原告全員の救済を求めていただいていることに感謝します。名古屋地裁は、私の病気がよく判らないとの理由で原爆症と認めませんでしたが、私の受けた病気については、専門的な研究が最近進んだばかりで被爆してから後、私は長い間、理由の判らない疲労・倦怠感など経験してきました。原爆ブラブラ病です、原爆が健康にどのような影響をあたえるかがすべて判っているわけではないのです。ですから被爆との関係が疑われる病気のすべての被爆者を広く救済していただきたいと思います・・・」と、だいぶ大きい文字で印刷したレポート用紙2枚を手を震わせながら話す。


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▲原告の森さん


被災者の中村さんは娘さんと一緒に参加しており「この子供をどうしてくれるのか・・・」と怒りを込め、昨日舛添厚生労動大臣と面談した一人として生の声を話された(麻生総理・鳩山民主党代表はべつだが、舛添さんはお母さんの介護のことを事を自慢げに話す場面を見たことがあり、世襲問題よりも、原爆被災者・核兵器廃絶など、国としてやるべき事が沢山あるのではと思う、それに労働者派遣法の抜本的改善、一部の経営者の方ばかり見ず、ポーズでなく国民の方を見よと叫びたい)。


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▲中村さんと娘さん


64年を超えても今なお苦しみ続け、殺され続ける被爆の実相と核兵器の恐ろしさ、政府の対応に新たな怒りを感じ胸が痛み涙ぐみました。


木曽川庁舎でのまとめの集会で、県内通し行進者で地元在住の早川さん「楽しくて仕方がない、来年も歩く...」とうれしい報告。


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▲オバマさんより黒く日焼け(オバママスク活躍)

浅田健司日誌(6月10日)

午前、行進なしにつき、宿泊地の部屋で活動記録等、残務整理。


午後、四万十市を訪問。「田中金」四万十市長が応対。快く署名、募金、ペナントに協力、市政運営や環境問題等話が弾み、市長応接室で45分程度会談した。


四万十市議会議長、岡村剛承(よしつぐ)氏も署名、募金、ペナント作成に協力。以前大阪にいたこともあるとのことで、大阪市内や堺の模様なども話し合った。


四万十市は美しく整備されており、雄大な川の流れは格別であった。「名水百選の認定」が昭和60年7月22日、黒導川は平成20年6月25日となっている。


午後5時から署名行動に入り、20人程度の参加で60~70筆程度の成果を上げた。

松本英治日記No.36

平和行進36日目。曇天後雨。


7時20分宿を出、一宮市役所で9時出発集会。連泊で助かるが、移動距離と朝の早さに閉口!毎日お迎えありがとうございます。


ホテルの朝食は7時からバイキングですが、本日7時20分出発でバタバタ!


9時から一宮市役所で出発集会、市長代理と議長の挨拶を受ける。


移動時間に新聞に目を通し社会情勢を、昨日被爆者訴訟上告断念の記事、全ての被爆者の皆さんに国家補償を!


出発集会での被爆者の挨拶に感銘!被爆され、お子さんが障害を持って生まれ、親子で挨拶に、「よろしくお願いします」と手を握り締められました。


平和行進通し行進者の重い使命を感じます、自治体の首長さんや多くの皆さんから託された思いを抱いてヒロシマ・ナガサキに届けます。たくさんの千羽鶴も!


本日、左右木愛ちゃん(東三河青年合唱団)ギターを抱えて参加、脇谷さんと2台で伴奏、ありがたい!


歌い手が少なく、私も歌いましたよ!


一宮は、繊維産業の街、のこぎり屋根の工場がいたるところに!明り取りの効果が!女工哀史をも思い出す!


尾西庁舎で昼食休憩、弁当いろいろ、うなぎ弁当を!おいしかった~!


市内を歌いながらの行進です、木曽川庁舎で休憩、挨拶で「平和行進50年の積み重ねと、被爆者の皆さんの命を掛けたたたかいを胸に楽しく元気に歩いています。毎日が楽しく、出会いと感動の日々です」と!


疲れより、使命の重さを感じた行進でした!


初めて参加された、皆さんの感想に、感銘!こうして広がり新しい担い手が育ちます。素晴らしい運動です。


カンパ隊に初めて参加した若者の感想は、「ありがとう」と言われ感動!「来年も歩きます!」と!


平和行進の素晴らしさを日々感じて、歩いています。

栖原秀夫日誌No.7

今日は休養日となりました。黒部峡谷のトロッコ電車に乗りに行きました。


宇奈月湖の碧翠色の湖面に掛かる橋の赤色の美しさは本当に素晴らしかったです。自然が作り出した仏石や梟木には自然の不思議と人の願いを感じます。


発電所の職員などがトロッコ電車が運行しなくなる冬季に通う「冬季歩道」という人一人がかがみながら歩くような小さな施設は宇奈月温泉から欅平まで21km以上もあり、この地方の自然の厳しさと暮らす人たちの過酷さと力強さを感じました。

五十嵐成臣日記 5月31日~6月9日

5/31 早朝7:00 北海道原水協の岩渕さん、道内通し行進者の小川さんに見送られ、北海道(函館)をあとに青函トンネルを通り青森へ。


11:30より平和公園で引継集会。250人を超える参加者。医労連、国公、民医連など若い人が多く、ノボリも多く活気のある行進。


6/1からは自治体訪問をしながら津軽半島を1周(蓬田村、外ヶ浜町、平舘村、今別町)。竜飛岬まで行き、五所川原へ。


途中の村々では、ほとんど人が歩いていなく、行進のスピーカーの声だけが響いている⇒五所川原で引き継ぎ集会。


6/2 五所川原市役所より行進(つがる市木造駅、鶴岡駅、板柳駅)⇒浪岡支庁舎まで
通る町々はシャッター通りになっている。郊外には大きなショッピングモールがある。


6/3 元浪岡役場前を出発(常盤村、藤崎村、田舎館村)。それぞれの村を通り、各村々での参加者(その村の行進のみに参加)も加わり、黒石市へ。黒石市もメイン通りはシャッターの閉まった店が目立つ。


平川市を通り弘前市へ、市役所前で引継集会のあと市内を行進。


6/4 弘前市役所を出発。勤医協、国公、生健会、新婦人、コープ会員など80人以上が参加。途中、移動はバス(大型、中型)を使い、大鰐町へ。駅前より古い温泉町の中を行進。知り合いもいるのか、あちらこちらで声をかけ合っての行進となった。


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この先は碇ヶ関を通り、秋田との引継の矢立峠へ。引継の後、大館市内を市役所まで行進。


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6/5 大館市役所へ表敬訪問し、副市長と懇談。「核の廃絶は国民の悲願。頑張ってください」と励まされ、北秋田市役所への行進。途中、小林多喜二生誕の地、下川沿を通り、記念碑生家(今は無い)の前にある多喜二が遊んだといわれる一位の古木を見ながら行進。


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北秋田市役所前で引継。林業の村へ表敬訪問し、副村長と懇談し、この日は終了。


6/6 北秋田市より太鼓の館-北秋田空港を見学。能代との引継のきみまち坂へ。この日は朝から雨。


能代市内まで各町を宣伝カーで行進をする。能代駅より市役所まで行進。雨は小雨になり、公園内で集会。生健会、新婦人、共産党などより挨拶があったが、健保労組から、「能代社会保健病院の存続のため、能代市や自治会と共に運動することになった」との報告。この日はここで終了。


6/7 能代より高速バスで秋田市へ。署名活動に参加。660筆集まったとのこと。高校生の署名が目立つ。


6/8 早朝再び能代に戻り、能代市、八峰町、三種町など自治体訪問のあと、秋田市、土崎地区で平和行進。


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古い港町で昔は栄えた町だったが、今は人通りも少ない町になったとのこと。


6/9 男鹿市、大潟村などを訪問。男鹿市は漁業以外に産業がないとのことで、募金を断られた。


夕方、秋田駅前で秋田中央集会と平和行進。核廃絶のアピールとシュプレヒコールの声を響かせました。

栖原秀夫日誌No.6

氷見市内の平和行進に参加しました。氷見市民会館に集まり、出発集会を行い、まず周辺の家に署名・募金活動。その後、市役所を訪問しながら商店街などを行進しました。


伏木本町広場に集まり、周辺に署名・募金活動に入りました。その後、伏木駅前まで行進しました。参加者は16人。42筆、2,400円が集まりました。歩いた距離は3kmぐらいかな。


昼に富山に戻り、全国的なブランドラーメン店「大喜西町本店」でラーメンを食べました。チャーシューがたっぷり。汁は真っ黒で塩辛く、ライスを取って、一緒に食べると良さそうです。労働者のラーメンかな。


夕方には、富山駅前地下道の「6・9行動」に参加しました。パネルを沢山並べ、タペストリーを掲げて「国際署名」を肉声で呼びかけました。声は地下道に響き渡り、パネルに見入る人、激励の声を掛けて通る人も居ました。終了後、富山県原水協の小林さんの音頭で歓迎会を行って頂きました。

森 悦子日誌No.2

ヘリパッド反対の会DVDを見せてもらい、感動した私です。赤旗で知るぐらいの情報しかなく知らないことばかりです。


反対座り込みはもう少しで2年になります。国は、東村高江の住民に対する通行妨害禁止仮処分命令の申し立てをしており、裁判が続いています。


ヘリパッドの工事は、やられていません。7月には、またやってくるだろうと予測しています。今日座り込み現場に木製のオスプレイの手作り模型が届きました。

 

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松本英治日記No.35

平和行進35日目。曇天。


宿を7時半、津島市役所に8時半到着、出発準備をし、8時45分から表敬訪問、市長と議長に面会、9時から議会があり、短時間だが、会っていただくありがたい!メッセージ、ペナント、支援金全て両氏から戴く。


挨拶のみ代理。市役所前のモニュメントに非核平和宣言都市と部落差別撤廃都市と明記、感動!矢部さんが見つけ挨拶に取り入れ!兵庫の八鹿高校事件(新婚時代駆けつけた、1990年神戸祭典で合唱構成「広く深き流れに」)を思い出す。


市内を元気に行進、本日うたごえ隊手薄のため、私も歌って参加、休憩の愛西市佐織公民館までアカペラで!愛西市の副市長と議長の挨拶を受け、名刺交換。両氏が行進にも参加してくださいました。


市内を賑やかに歌いながら、アピールしながら行進、武藤(昌)さんがギター抱えて登場、うたごえが響きます。途中、平和の文字が町中に何と平和町でした!稲沢市平和支所で昼食休憩、平和町が合併で稲沢市に!


出発集会で挨拶、「64年苦しみ続ける被爆者の皆さんがご存命の間にオバマ発言を実行に!」ご挨拶いただいた富田さん(88歳)愛知県原水爆被災者の会(愛友会)広島で被爆。と握手をしていただき、名刺を交換、新たな決意を!


稲沢市内を元気に行進、うたごえ新聞読者の方々に、声を掛けていただきました。「お待ちしてました、元気に頑張ってと」ありがたいです。毎週楽しみに読んでますと!元気が出ます。


市役所で市長と議長の挨拶を受け、行進にも参加していただく。姿勢の素晴らしい首長さんたち!感銘!市内をアピ-ルしながら、歌いながら(滝田さん(フリー)と大森さん(名青)のうたごえが)楽しく行進!


稲沢駅までの道のり、旧街道の町並みが、残り写真に!本日20キロの長丁場、5時半到着、よく冷えたスイカがお出迎え、毎年新婦人の皆さんの差し入れ、名物に!


初めて参加した、医療生協の若者たちが、カンパ隊で活躍、(靴擦れで引きずりながら)初々しい感想を、「いい経験をしました、また参加しますと!」50年の積みかさねと、新たな広がりを感じた行進でした。

浅田健司日誌(6月9日)

午前中、時間的に余裕があり、高知県平和委員会の和田事務局長が平和行進宣伝カーで土佐清水の海岸沿い道路を一巡案内してくれました。


日本列島で最初に黒潮が打ち寄せるという四国最南端の足摺岬・遊歩道の入口に建立されたジョン万次郎の銅像、亜熱帯植物の代表格と言われるアコウの大樹、第2次世界大戦の悲惨さを無言で語る「旧海軍特攻隊の基地跡」など見ることができました。


もう一つ、特に忘れられないのは、この地に「上庄先生を憶う」と表示された「上田庄三郎像が1983・11・10付で建てられていたことでした。


午後、土佐清水市を訪問しましたが、市長不在で総務課長と議会事務局長が応対。非核行政の今日的意義と被爆者問題の実態等、要請行動を行いました。


17時30分からの平和行進には、丈夫な板で手作りのプラカード10枚を用意した全運輸の人たちや、医療生協、新婦人など30人近い人たちが元気に行進しました。

矢部常次日記 第35日目

今日のスタート地点、津島市役所に到着。「おはようございます」と皆明るい。


宮下さん(わかやま市民生協から参加の県内通し行進者)が、津島市は、「セッタ」の生産で日本の過半数を占めている所だよと携帯で調べたことを教えてくれた。セッタ(相撲さんが履く草履)と言っても宮下さんには、なじみ無いのか余りよく知らないみたい。


いつものことだが、私は時間がある限りスタート時点がどんな所か見て回る。そしたら「核兵器廃絶宣言都市 昭和57年3月23日」と「部落差別撤廃宣言都市」の看板(実行委員でいろいろ世話をしてくれる岩倉市議会議員の横江さんがあとで教えてくれたのだが、看板の事を「啓発看板」と言うそうだ)を目にした、私の疑問は「部落差別撤廃宣言都市」に日時が無くいつ宣言されたのか書いていないことだ。


地元の参加者の人に聞くが誰も判らず、激励をいただくため待っていた市職員の方に聞いた。その場で判らず時間があるので、わざわざ庁舎に戻り調べて頂いた。


結果は、「平成5年7月6日に宣言した」とのことである。少し皮肉を言えば、啓発活動であるならば、宣言日時やその経過などがあるといいのになーと感じた。「核兵器廃絶宣言都市」も同様だが市民にどう知らせ活かすかは、行政であり市の財政にあまり負担でなければ付け加えてはと思う。


毎日聞いても良くならない交通安全もそうだが(行政は市民に知らせる努力は、毎年やっていると思うが)。


国民平和行進も愛知県内はあと、今日を含め2日半だ。愛知県ではカンパ隊の取り組みだ、沿道でのカンパと署名を訴え会話することだ、なかなか出来ないことだが1回やると病みつきになると参加者は言う、私は一昨年に東京・神奈川県を通し行進した時カンパ隊(ビラ配布の宣伝が主)をやったが大変だった。


これまでカンパ隊で頑張った皆さんに「ありがとう・御苦労さま」と思い、全国通し行進の横断幕(国民平和大行進)を持って大きな声で沿道に訴え行進。

栖原秀夫日誌No.5

高岡市役所での出発集会は雨でしたが、歩き出すと雨は上がりました。

 

泉が丘団地と西高岡駅付近と福岡町の八幡神社付近で署名・募金活動を取り組み、76筆・6,546円を集め、福岡町の中央公民館で到着集会を行いました。

 

およそ15kmぐらいを核兵器廃絶を訴えて、元気に歩きました。参加者は47人、神奈川と比べて教員や生協労組員や国公労組員が多いようです。晴れて良かった。

松本英治日記No.34

平和行進34日目。快晴。


7時半宿を出、瀬戸市へ、宮川モールで9時から出発集会、さすが焼き物の町、いろんな物が、焼き物で!案内板も陶板です。じっくり散策したいが、だめ!


本日も加藤さんアコを担いで、県内通しの藤山さんと、早川さんと、武藤(昌)さんが歌って行進、私は、パーランクで!無くなっていた、バチは他の車で発見。市内を賑やかに行進し、瀬戸市役所へ、河川敷で太鼓演奏でお出迎え(ばたばたしてチーム名聞けず)!


私は市に表敬訪問、議長さんがペナントを、市は無し、市町代理がメッセージを!名刺を渡す。尾張旭市へ歌いながら、コールしながら行進しました、市民会館で歌でお出迎え、ハリバ山耕平氏ギターで演奏、松原、高見さんも歌って、タスキに名前を!


昼食は市民会館で、食事をしながら交流会も、通し行進で挨拶!市内を賑やかに行進し、市民にアピール!大森東島公園で休憩、新婦人のフラダンスでお出迎え、心が和みました。


守山市内を元気に行進、95歳のおばあさん(長沼よしえさん)が元気に行進。上空を自衛隊の真っ黒な輸送機や、ジェット機が飛び交います。異様な風景!守山自衛隊前で牛歩で被爆パネルを掲げて抗議、要請も!


近くの守山生涯学習センターで終結集会、地上8階地下1階の馬鹿でかい建物が、血税で!演習として、通勤時間帯に装甲車や、戦車が、街中を、通勤も迷彩服で、市街戦訓練用の施設も建設、海外派兵の臨時施設も!愛知で一番募金の集まるコースで、カンパ隊活躍、544筆の署名と、8万4162円の募金が集まり記録を更新しました。


守山医療生協のコーラス(14人で折鶴と青い空は)を入江(名古屋青年合唱団)さんのアコ伴奏で会場の皆でうたいました。参加者全員に、(平和のお手玉、おばあちゃんの手仕事)が配られました。


集会後、武藤(いくら)さんの手配と、入江さんの車で、林学さんの自宅にお線香を上げに!名古屋で会う約束をして、4月28日にお見舞いしたのに残念です。自宅を記念館にと言う話も?ここでたくさんの優しい曲が生まれたのですね!約束を果たして、お別れしてきました。

矢部常次日記 第34日目

瀬戸市は焼き物の街である、宮川モールに着くなり時間があるので、近くを見て回った。

近くに、川があり橋の欄干には焼き物のタイルが貼られ時代を感じる。またこの地は平和行進の財政の一部になるピースグッズ(核兵器をなくそうのピースウォークの小旗など)がここで作られ、全国で売られ活用されている。地元出身の県内通し行進者、田中詔子さん(めいきん生協)は、行進スタート・休憩時間には、休む時間もなくグッズのお店を出し「今年は、このグッズが人気よ」と行進参加者に宣伝して買ってもらう(まるで笑いを誘う「男はつらいよの寅さんみたい」・・・)。


行進に対する地元の歓迎もいろいろ工夫され、行進の疲れを癒してくれる。河原が道路をはさむ瀬戸市役所では、河原で地元のサークルのメンバーが元気のよい太鼓の演奏で出迎えてくれ、大森東島公園では、ブルーシートを敷き新婦人の小組(7人と子供1人)のみなさんがフラダンスで歓迎(参加者からは『アンコールの声』・・・)。


瀬戸市役所から行進に加わった、平和行進に参加初めての病院に務めるという加藤さん「昨年、何かの行事で平和行進を知り、夫婦でよく旅行はするがこんな行進に参加してみたいと思っていた。今年初めて旦那が務めなので朝の用をすべてやり、地元の知り合いがいないが、思い切って参加しました」と私の隣で歩き話をした。


尾張旭市民会館の昼食後、出発集会で司会者の方に頼み加藤さんにマイクを渡し初めて参加の感想を話して頂いた(少し強引だったのでビックリしたようだったが、その前に一人初めて参加の感想を話した事もあって、感想をとくとくと話してくれた。・・・その後、私に感謝して「うまく話せなかったが話せてよかった。良い友達もできそう、これからも毎年参加したい」と言って頂き、私の強引な行動に安堵し終結場所まで歩いた。


もうひとつ感動することがあった、それは95歳の長沼ヨシエさんが大森東島公園から守山自衛隊前、そして終結場所(守山生涯学習センター)まで行進、最初は行進の先頭だったが一歩二歩と遅れるその横を県内通し行進者の遠藤錦子さんが手を差し添えて一緒に歩く姿があった。


終結集会の終わりに平和歌集を全員で歌い、おばあちゃんも歌集を見て口ずさんでいた、そして参加者全員に「平和のお手玉 おばあちゃんの手仕事」のおみやげをもらい解散。

森 悦子日誌No.1

沖縄⇒長崎コースを通し行進する森悦子さんは6月8日から沖縄入りしました。日記を紹介していきます。

 

朝9時発の飛行機で着きました。高江のへりパッド反対の座り込みに参加しました。空港から遠く離れており、驚きました。今晩から青い家にお泊まりです。その様子は明日のお楽しみに。

浅田健司日誌(6月8日)

午前9時30分、高知県平和委員会・和田事務局長とともに三原村役場を訪問。久保知章村長、川村議長、木戸議会事務局長が応対。私たちの要請に応え、ペナント、署名、募金(5000円)に協力を得ました。


午前11時、宿毛市に到着。市長不在、議会事務局長、寺田市議会議長、企画課長他、2人の職員が応対。私たちの要請内容については、別途検討する旨表明するのみで、署名や募金協力は得られなかった。


その後、2006年及び、2008年の2度にわたり、イージス艦が入港したという宿毛港を見に行く。港を見下ろせる山の中ほどに、昔の日本軍の貯油庫や弾薬庫、魚雷等の入っていたという古いトンネル跡が数ヶ所にあった。


午後2時、大月町役場に到着。町長が応対。署名、ペナント、募金にも協力してくれる。大月町ではすでに住民過半数の署名協力があったという。


その後、「おおつき九条の会」事務局長であたご館(本田地区「ふれあいサロン」)館長の安田勝氏宅に着き、あたご館開きの話など聞く。


午後5時40分より大月町内を平和行進。29人の参加、沿道募金2500円が寄せられました。

矢部常次日記 第33日目

人間は勝手だ、快晴だと気持ち良いが、雨や梅雨時などは歩きたくなくなり文句の一つを言う。


今の時期は、良い気候だし日曜日、行進参加者も多くなることに期待。


本日は、名古屋市内の14コースから出発して市内中心部に12時30分から13時30分に若宮広場へ合流する。平和大好きマラソンもあり毎年盛り上がりもすごく、今年初めてのコースもある。


私たちは、本コースの中村公園(豊臣秀吉を祭る公園)に参加、健康散策園路があり散歩やジョギングに利用下さいと看板があり広い。参加者が集まってくるその中に「おにぎりの会」と言う大きい桃太郎旗を持った数人の姿があった。(旗には、中村区役所前炊き出しボランティア)と書いてあり、話すと彼達は、派遣村で相談活動をするなかで相談してきた派遣で働く労働者だ、そして多くの仲間のためと、中村区役所前炊き出しボランティアをやる若い青年・・・いっしよに写真を撮ろうと言うが恥ずかしそうになかなか入らない。・・・しかしカンパ隊など初めてと思うが繁華街の沿道で署名とカンパを訴える・・・。


中村公園を行進スタートの時は気付かなかったが少し歩いた時、沿道で私たち行進者を見ながら歩く小学4年生の子供がバッグを肩にかけている。「いっしょに歩かないか」と話すと隊列に加わり通し行進の横断幕を持って私の隣を歩く。誰もがどこの子だかわからなく、どこまでもヤンチャに歩くので心配で話すと「去年も歩いたよ・みんなのあとで後ろを歩くのってつまらない・歩くなら先頭がおもしろい、そして一番聞きたかった事を最後に、お父さんは後ろにいるよ」と恥ずかしそうに話す言葉を聞き安心。


途中の休憩場所(茶の木島公園)で、バックを持ってもらい昼食の西柳公園まで行進。茶の木島公園でもう一人、お父さんと歩く小学4年生位の子供がいたが「先頭は恥ずかしい」と、お父さんと行進。


若宮広場に私たち行進団が到着した時は、「2009 ピースアクション」は始まっており、和太鼓(熱田区のグループ「宮っ鼓」)の競演に迎えられ、すこし経って平和大好きマラソンのメンバーが入ってきて来て大きな拍手。最後の行進団が来た時はさらに大きい声援となった。


参加者は、2000人、本日だけの国際核廃絶の署名907筆・カンパ3万9750円との報告で広がりの大きさに驚きだ。愛知県原水爆被災者の方も10人椅子に座り、参加者はコンクリートの広場に座る。全国・県内通し行進者は前列に横断幕を並べそこに座る。各行進の報告と通し行進者の紹介と短い時間だが松本さん・私そしてわかやま市民生協から参加の宮下さんが発言の機会を頂き、参加者の笑いと真剣に聞く視線を受け話させていただいた。


17時から青年主催の交流会に向かう為公園から歩く、そしたら別の公園でミニコンサートをして、今終わりあとかたづけするグループに会い責任者の野田さん、「最近屋外でコンサートをやる個所がなくて困っている」と話しかけられ、私がタスキとオバママスクを持っているので、「どんな事をやっているのか?」と聞かれ「国民平和大行進の事」を話し、横断幕を持つ松本さんと私の写真を撮ってくれ、自分たちのブログに入れると話してくれ名刺交換。(ブログの内容を見てみたい・・・)


青年交流会後、うたごえとJMIUの仲間数人で二次会。ここでも隣の席にいた若者にも声をかけられた「何の目的で歩くのか」と言い国民平和大行進のことを話すと「俺もそんなことやってみたい」と飲んいるけど真剣、「明日参加しては」と話すと「月曜で休めない」と言う。・・・インターネットを見て来年参加をと会話、最後に「広島まで頑張って元気で歩いて下さい」と激励を受ける。

栖原秀夫日誌No.4

富山県庁前から出発し、射水市を通り、高岡市まで、5箇所で署名活動し、188筆、26,151円を、181人で集めました。12kmぐらいの平和行進でした。街中を行進したので、沢山の人々に声を掛けることができました。

 

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▲途中から行進が速くなり妹を背負って歩いた兄妹愛に感激し、3ショットを撮る。

松本英治日記No.33

和行進33日目。快晴。
 
 
本日は11コースと平和大好きマラソンが名古屋市内で繰り広げられました。
 
 
私たちは、宿を8時に出発し地下鉄で中村公園へ、豊臣秀吉(日吉丸)生誕の地で秀吉が祭神の神社が中村神社です。
 
 
9時から出発集会、日曜日で多くのコース設定ですが、うたごえはここに集中、ギター2台(脇谷・山岡)アコ(加藤)シンガー(武藤<イクラ>、山崎、中山)で9時半歌いながら賑やかに市内行進。
 
 
休憩の名古屋駅前の西柳公園で西北コース2が合流、地下街で昼食、念願のラーメンを!(宿の近くで夜食にもとんこつ、今日はカレー、旅をしてると弁当や定食が多く、らーめんやカレーが食べたくなります)。
 
 
京都生協の沓脱さん(奥さんはうたごえ、東京の出発集会も)が新人さんの若い女性を連れて、平和行進追っかけ参加。握手を!
 
 
集結地で2009ピースアクションのある若宮ひろばまで、繁華街をアピ-ルしながら賑やかに楽しく行進!
 
 
1時半のオープニングには、間に合わず、歓迎演奏の宮っ鼓(熱田区のグループ、女性中心)の和太鼓演奏から参加。舟橋さん登場握手!
 
 
通し行進者の紹介で挨拶「被爆者の皆さんの命を掛けた闘いと、50年に及ぶ平和行進の草の根の力がオバマ発言を!実現させましょう、生きてる間に!非核神戸方式も」
 
 
矢部さんも!県内通しの皆さんも!被爆者の訴えと原爆訴訟原告の皆さんと「いのちをかけて」と「HOPEヒロシマ・ナガサキから」、を名古屋青年合唱団の皆さんと一緒に歌う!
 
 
参加団体の訴えの後、折鶴平和行進へ、一番の繁華街・栄へ、うたごえの皆さんと歌いながら歩く!
 
 
流れ解散で、青年交流会の民主会館へ、日本福祉大と民青同盟の若者とうたごえとJMIUとの交流会で、私たちの若かりし頃を語り、今の若者たちの真摯な考えに共通点を見出し感動。社会変革の立場で交流出来て、貴重な時間を!

浅田健司日誌(6月7日)

午前10時より、えひめ南農協御荘支所前で出発集会。参加者20人弱。小学3年生の孫を連れた80歳近い人も見送りに来てくれました。


集会後、愛媛、高知の県境まで行進。11時40分頃到着。


午後12時より引継式を開催。高知県側を代表して県平和委員会事務局長の和田忠明氏、新婦人代表等より挨拶。


引き継ぎ式終了後、愛媛の参加者に別れを告げ、高知県内行進をスタート。


午後2時すぎ、三原村役場に到着。昼食後署名行動に入る。その後平和行進で村内一周。

松本英治日記No.32

平和行進32日目。曇り後晴れ。


7時40分宿を出、小牧空港を見学、自衛隊の輸送機3機見学、地域の活性化のために、ブルーインパルス(曲芸飛行)の配備が計画されていて反対運動が!騒音と墜落事故が心配!騒音の花が?


本日5コース同時出発で、小牧市役所へ、9時から出発集会。市の関係者の挨拶を受け名刺渡す。


市内を歌いながら行進。昨日雨のため、太鼓は叩かず宣伝カーに積んでいましたが、本日バチが見つからず、音なし行進となりました。県内通し行進のの早川成子さんと、藤山さんが歌ってくれます、私にもマイクが、伴奏無しでアカペラ歌いながら行進しました。


小牧基地の手前で2コース合流、代表団を作り基地に要請行動、正門前に2重のバリケードが!名刺を出し柵越しに要請書を手渡し、要請文を読み上げ当直の三佐が対応するも、名前も名乗らず!国家権力の姿勢を見た思い!無礼千万!


美濃町公民館で昼食休憩、お弁当の他に、サラダ、フルーツが!ありがたい、心のこもった接待に感謝!太鼓を出し、桜の枯れ枝で簡易バチに!摺り鉦でリズムを取る人が、楽しく合わせて歩きました。


途中で1コース合流、歌い手が少なく私も!行進参加者よく歌ってくれます。JR勝川駅前で2コース合流、休憩時、太鼓の歓迎演奏が!中学生と大人のチームでした。七尾の豊年ばやしでお出迎え。休憩時3曲演奏(ぶちあわせ太鼓、屋台ばやし、太鼓ばやし)うずうず!名刺を渡しお礼を言って行進に!


春日井市役所ロビーで終結集会、市長代理と議長代理の挨拶を受け、お礼に名刺を!広瀬まりさんの歌とアコの伴奏で歓迎演奏、名刺を渡し、タスキに名前を!所属は無く、ソロのシンガーで、愛知北エフエムのパーソナリティでした。手話を入れて素敵な演奏でした。「折鶴」を!


コープ春日井店で歓迎交流会、挨拶の合間に、先ほどのアコとまりさんも参加で大うたう会を武藤(昌)が担当、行進中昼からギターを弾きながら参加してくれました。私もマイクで一緒にうたいました。お礼に「木遣り」唄を披露しました。先ほどの太鼓チームの指導者の先生も!英語の先生がオバママスクを被り、英語でプラハでの演説を!感動!楽しい交流会でした。

栖原秀夫日誌No.3

滑川市役所から富山市役所まで167人の参加者で平和行進(約11km)し、署名357筆、募金51,648円を集めました。

 

目立ちたがり屋の私は、人の多い市街地での行進が一番気持ち良くできました。

 

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▲6月6日富山市生協北部センターにて

矢部常次日記 第32日目

昨日と変わって朝から晴れた。本日の行進は、5コースで昼過ぎの14時頃すべて合流して行進する感動的な平和行進になった。


高蔵寺弾薬庫前を通るコース、西山駐屯地を通るコース、小牧東部の桃花台コース、豊山町役場から出発するコース、そして、本コースの小牧市役所を出発して小牧基地を行進するコースだ。


私と松本さんは、本コースに参加(少し言わせていただくが、5コースが計画され、これまでの地元や実行委員の皆さんの努力で築かれた、あいち平和行進だと思う、2人一緒のコース参加はもったいないと感じた。ケースバイケースがあり、愛知県の事をもっと知り話さなかった自分に反省、表面だけしか見れないので)。


仕事で自衛隊基地にも入ることがあり、小牧基地について多少仕事関連で知っている。最近はそうではないが、自分がこの仕事に従事していた約30年前に1回、自分に浴びせられた防衛省(旧防衛庁)の失礼な攻撃に今でも怒りを感じ収まらない。ついそのことを話し、知り得たこと(大したことではないにせよ)話しまいそうでなので、朝の全国通し行進者の挨拶は松本さんにやって頂いた。


しかし小牧基地への「核兵器廃絶2009年あいち平和行進における航空自衛隊小牧基地への申し入れ」での対応に更に怒りを感じた(これまでも自衛隊の人と話しても良い人が多く親切なのに)。


任務がそうさせるのだろう、ゲートは2重で警備は奥のゲートだ。私たちの申し入れに対して、奥から若い隊員が来て上司を呼んだが、その方は申し入れ書と松本さんの名刺を出したが、受け取らず私の1枚のみ受け取り参加者全員が名前を話したが、名前を言わず階級はと聞くと「見れば判るでしょう」と最後まで沈黙。地元自冶体の反対決議や住民の心配に真剣に検討して回答または実施するか、それより、この申し入れが机の上に積まれる事になるのではと感じた。


1、小牧基地の機能強化を行わず、アメリカ軍に使用させないこと。
2、海外に派兵している自衛隊を、すみやかに撤退させること。
3、空中給油輸送機及び機動衛生隊を小牧基地に配備しないこと。
4、ブルーインパルスの展示(曲芸)飛行は行わないこと。
5、名古屋空港の管制を国土交通省が行うよう防衛省など関係機関に進言すること。


申し入れはこの5点の内容だ。基地を抱える住民は事故が起きたら安全など死活問題と思う...俺には関係ないと思う最近の人は「申し入れ」にどう思うのだろう、やはり関係ないと思うのかな?...「1点でも賛成できないのか」と問いたい。...マ二アは喜ぶが...


一日の終わりに、ピースフェスタ春日井・愛知平和行進小牧共同連絡会の共催でステーション上八田店で店長の歓迎挨拶で交流会が行われ、私は焼酎のお湯割り・手作りの料理とすいとんで、楽しい時間を過ごさせて頂き幸せ。


ここでもオバマのマスクが活躍、オバマ発言を高校の英語の先生がマスクをつけ「プラハでの発言の要点をスピーチ」をする(当然、通訳を同席させてのスピーチ...会場は、盛り上がる)。

浅田健司日誌(6月6日)

今日の予定は行進ではなく、現地実行委員会の「署名行動日」として位置づけられていましたが、署名行動予定地までの(主要駅頭ターミナル)車の往復配置が困難とのことで(片道2時間弱)現地実行委員会の方たちとの交流会のみとなりました。


私たち通し行進者(野口、浅田)を含め8人の参加で、行進の経験談などを語り合いました。

栖原秀夫日誌No.2

黒部市役所前を出発し、平和行進(約12km)と署名集め(4回)を行いながら魚津市、滑川市と進みました。

 

魚津市役所では澤崎義敬市長と山本弘吉議長が出迎えてくれました。市長は「今年は平和市長会議を代表して世界大会に参加する」と表明し、参加者は強く励まされました。

 

市役所や公民館に置かれて集まった署名246筆と341筆の職員の署名も頂きました。

 

戸別訪問では、121筆と19,023円が集まりました。

矢部常次日記 第31日目

朝から久しぶりの激しい雨だ。(しかし30日間で5日くらいしか雨に降られていないのでついている)。


雨だから準備は大変だ、毎日の行進ニュースを配布・宣伝カーに平和行進の横断幕の取り付け、そして全国通し行進のリレー旗を車から降ろし並べて参加者を待つ。


出発集会が始まる(市役所前の広場を借りているのだから仕方がないが、警備の人が使用許可を取っているのか・ここの範囲で場所をと規制、煙草は敷地外でと注意する・・・そう言えば名古屋市は市長が新しく選ばれたばかりで、理解ある市長だと思っていたが、そうではなさそうだ・・・)。


行進スタートとなると、松本さんは数人で市長・県庁に表敬訪問、そして私は清須市・春日(はるひ)町・豊山町へと表敬訪問のため車で出かける(松本さん、2人とも行進から離れるので「全国の国民平和大行進の横断幕」を誰が持ってくれるのかと心配する)。


道が混み、また市長村の合併で市役所の場所が支所もあるので間違え、約束の時間から大きく遅れ清須市役所に到着。しかし清須市役所では、今年初めて副市長さん・副議長さんが待ってくださり、私たちを温かく迎えて頂いた、瀬尾副市長さんは歓迎・激励の中で「小学生の時、広島へ行き原爆資料館を観てのショックと胸に刻んだ思い」を語り私たちを励まして下さった。


連絡してあるとのことだが心配しながら春日町役場に到着。議会中だが議会を休憩して会って頂くとのことだったが、歴代の町長さんの写真のある町長室に案内された。すると、はつらつと体格の良い品格のある河合幹雄町長さんと後藤町議会議長さんそして加藤町議会議員さんが部屋に入ってこられた。


名刺を交換して挨拶、予定の時間を私たちの勝手の都合で変更したことをお詫びすると、町長さんは、この場の緊張を解き放すように「平和行進ご苦労様です、皆さんの要請については、本日の議会で、加藤議員の一般質問で、私も同感であり『すべて賛成して実行する』と答弁したばかりです」と堅苦しい挨拶・52回目の平和行進の歴史、そして今オバマ発言で大きく情勢が変化していることを私たちが話すより先に話され、和やかで温かい表敬訪問でした。


私に対しては、「90日間歩くのだから、トライアスロンなど何かスポーツやっているのか・足や体は大丈夫ですか」と温かく激励して頂いた。


今年の10月1日に清須市と合併するが、春日町は全国で一番小さな面積の町(村を入れても3番目)で合併しても春日町の良さを残し、議員歳費の浮いた分は福祉と平和施策に使う事を条件で合併する。私は失職するが、農業をして町の事はボランティアで援助する。自信と確信を持って話される町長さんの言葉に感動し、こんな方が、名古屋市・愛知県のトップいや国会議員になって頂きたいと思い、固い握手と写真を撮らせて頂いた。


3ヵ所の表敬訪問を終わり行進に合流して「こんにちは、平和行進です」と大きな声で沿道に呼びかける。

松本英治日記No.31

平和行進31日目。雨。


朝から雨、宿を7時20分発、8時10分名古屋市役所で出発集会、武藤(イクラ)ちゃん登場、引継ぎ集会でも歌われた、被爆者集団訴訟を支援して「いのちをかけて」武藤昌代・藤村記一郎詩曲、を雨の中ギターの弾き語りで二人で演奏、心がこもり素敵!


私も挨拶、オバマ発言に対する被爆者の皆さんの涙雨です、実現させましょう、非核神戸方式を!


行進団に横断幕を託し、名古屋市と、愛知県に表敬訪問、市は、例年通りの回答で、市長が変わったのに変化もなし、失望!沿線の自治体の対応と、非核神戸方式を宣伝。県も紋切り型の回答で、平和市長会議の要請も、担当者が認識していない始末に、叱責!各担当部署の関係者が出てきたがお粗末!首長に伝えるよう確認して、行進へ!


北名古屋市文化勤労会館で合流、昼食休憩。雨の中歌いながらの行進です、ポンチョの中でエレキギターを弾き伴奏、武藤(昌)のうたごえが響く、3時半岩倉市へ到着、庁舎に「非核平和宣言のまち」の懸垂幕がよく目立つ!会議室で、表敬訪問、副市長と議長と懇談、真摯で適切な対応の敬服!県、名古屋市との違い明確、支援金、ペナント、署名を預かり、集結集会でも挨拶していただきました、宣言に恥じない平和行政を展開されています。小学生の広島・長崎での平和学習などなど!沿線の自治体の対応の違い、進んだ所を紹介し、非核神戸方式を宣伝!オバマ発言の影響か?自治体の対応に変化が!


通し行進者の仕事を果たしています。岩倉の年金者組合との交流会に!諸先輩の貴重な体験を聞く。町長をされた、大長さんの話は、ぴか一!自治体交渉の典型!県内通し行進者の、募金集めの経験は、署名を勧め、カンパをお願いし、ご苦労様ですと言って頂くと募金も集まると!80歳位のおばあさんが3千円の募金を、千円だけいただいた話に感動!毎日、素敵な出会いとドラマが!

浅田健司日誌(6月5日)

宿泊地から愛南町まで約1時間半、自治労連の車で宇和島を走りました。小高い山が多く、トンネルを通り抜けるとすぐ目の前に美しい港が広がります。真珠の養殖も多いそうです。


"日本一の漁港"と言うだけあって、数多い漁船に驚きました。目の前を観光バスが走っていましたが、私たちの車からは平和行進を大きく呼びかけながら進み、沿岸で働く人々も良く手を振って応えてくれました。


愛南町役場では、清水雅文町長が応対。私たちの要請に応え、署名やペナントに協力。募金も5000円用意してくれていました。


夕方6時から津島市所の隣、岩松公民館前で集会を開催。雨の中でしたが、20人近くの人たちが参加。約1時間余り元気に行進しました。

矢部常次日記 第30日目

本日で歩き始めて30日だ、今日歩けば30日になり行程の3分の1になる。嬉しい事が出来、多くの人に会い沢山の励まし、それに託された願いに足取りも軽い。


常滑市役所は、すぐ近くに中部国際空港がある(仕事の関係で職場の仲間は空港に来ているが、私は来たことはなく、又別の用事で名古屋には来ても常滑市には来ていない)。思わず、全運輸中部航空支部中部空港分会の行進参加の皆さんと写真をいっしよに撮らせて頂きまた、始業前の職場に携帯電話。


全国通し行進者も大変である、松本さんと2人なので交代だが各自冶体に表敬訪問をする。


県内通し行進者、原水協・平和委員会の人、それに地元の人などでチームをつくり訪問(あらかじめアポをとり、事前にお願いしてあった市町村への5点に渡る「あいち平和行進」としての行政へのお願いに対する回答と挨拶・懇談である)。


私はこれまでの行政の対応は良く知らないので、失礼のないよう少しは考え、52回目の国民平和大行進の重み、とりわけ今年の核廃絶についてのオバマ発言での世の中の動き、それに30日間の自冶体の取組の特徴など話す(私は、組合でいろいろの会社経営者の方とお会いすることもあるのだが緊張する。・・・あとで短時間にせよ表敬訪問したメンバーで話し合うので少しずつ慣れる)。


本日は、東郷町・日進市に表敬訪問。今6月議会で大変忙しい中対応して頂く、しかし行政毎に対応はまちまちである。非核都市宣言を決め取り組んでいる所、それとも財政難・他の県内行政の動向を見てから施策に入れるなど様々(住民はどう感じているのだろう、平和は大事と思っているのでは)。


昨日は、KATCHという、知立市を中心とした地元のケーブルテレビ局が取材にきており、今日の朝まで数回放映される(タイトルは知らないが『核兵器のない平和で公正な世界を』についての国民平和大行進は、どんな反響だったのだろう)。その他、地方の新聞社からの取材もある。


時間は遅くなったが、甥(東京に住む姉の子供で5年前転勤で愛知に努める勤続10年)と東海市太田川駅近くで、松本さんと3人で食事をした。彼いわく「何で90日も歩くようになったのか」との疑問、インターネットで「平和行進2009」を見てくれと話すと少し見たと回答。ホテルに帰って姉に電話・・・。

松本英治日記No.30

平和行進30日目。曇り後晴れ。


7時10分宿出発。車で常滑市役所へ、中部国際空港近くの広い駐車場で出発集会。市町代理の挨拶を受け、ペナントと募金戴く。被爆者の挨拶「原爆症認定裁判18連勝だが、厚労省は、上告期限の11日の後に面談すると言う。被爆者の皆さんの命を掛けた闘いに終止符を!」私も挨拶、「東京を出発し30日。やっと三分の一、元気に歩きます」


今日も加藤さん(OH人生男性合唱団)アコ抱えて!歌いながら市内行進、休憩時歌ってもらった武藤ちゃんと「コール東海」の小林、松本「合唱団知多」の大西、竹内さんにタスキにサイン!他に富田(OH)柴田さんも!多くのうたごえの仲間の参加で心強くありがたい!名鉄大野町駅まで歌いコールしながら歩く。


常滑は、焼き物の町、ゆっくり見たかった、残念!電車移動で知多市役所へ、市民会館の和室で昼食休憩、助六弁当、目先が変わりありがたい、美味しかった。


知多市の挨拶を受け、歌いながら市内行進。私もマイクを持ち「ねがい」「大きなうた」「たんぽぽ」を歌いながら歩きました。途中アコの調子がわるくなり、修理しながら何とか東海市役所に3時に到着、市役所のホールで集結集会、150人の行進でした。


通し行進者の自己紹介、表敬訪問に行ってる(矢部他)2人を除き初めて紹介されました、県内通しは16人で時間が無く、いつも省かれてました。1歳の幼子を抱いたお父さんが挨拶「この子のためにも平和を」拍手に包まれました。比較的楽な行程でした、終了後、矢部氏と甥っ子さんと待ち合わせて食事に!9時半に宿へ!

浅田健司日誌(6月4日)

午後12時、宇和島市吉田支所前で出発集会。行進に入る。13~15人程度であったが、みんな元気で沿道から手を振ってくれる人も多かった。


行進参加で私たちを待っていてくれた人の中に、以前、大阪原水協・大阪平和委員会で頑張っていて、この地に移られた方が先頭に立って案内してくれた。


松野町、鬼北町、宇和島市を訪問。募金協力各5000円、ペナント、支持署名に協力してもらえた。

浅田健司日誌(6月3日)

午前10時過ぎ、自治労連事務所(松山)より車で西宇和本庁へ。11時半頃到着。それまでの間、約1時間20分、新緑に溢れ澄み切ったドライブコースの景色は抜群でした。


しかし長い歴史の中で守られてきた日本の農業が破壊されてきた中での、ハイウェイドライブコースにどれほどの道路予算が注がれただろうか。美しい山の中腹にまた新しい道路建設計画の美しい大きな看板がさらに出されている。


午後0時前、本庁前で出発集会。小雨の中、新婦人代表が折り鶴を届けてくれた。副市長より、市長不在につき後日署名やペナントを届けるとのこと。


その後、西予市(13:30)、八幡浜市(15:30)を訪問。どちらも4人の職員、部・課長が応対。5000円の募金協力、署名・ペナントを書いてもらえた。


午後6時、西予野村総合支所前より約1時間の平和行進。雨の中、40人余の参加で元気に行進した。

松本英治日記No.29

平和行進29日目。曇天。


8時10分宿へお迎え、9時に知立市役所併設の文化会館ロビーで「原爆と人間展」開催中。会議室で清水副市長と副議長(共産)と懇談、市長のメッセージをいただく、非核平和都市宣言の審議中との事、被爆体験を小学生に!


出発集会で挨拶を受け、市民から託された折鶴800羽預かる。今日も、西三河青年合唱団「歓迎」横断幕で参加、携帯アンプでギター伴奏と、マイク2本で準備万端、市内を歌いながら、コールしながら、楽しく行進しました。


野田公園で昼食休憩、手作りの食事(豆ごはん、赤飯、おにぎり、肉じゃが、サラダ、から揚げ、など心のこもったおもてなしに感激!10年来続けられているそうで、なお感激!


本日の行進責任者は地元の藤山さん(トヨタ労働者合唱団)です。同団の加冶佐さんから激励の寸志をいただく感激!


昼休みに、西三河とトヨタ合同で歌う会を!行進中もうたごえが響き渡りました。私は昼から別行動で高浜市と碧南市へ表敬訪問、高浜市では、議長さんが議会で図ってないので、個人的にペナントに署名!市も懇談し、お願いしましたが、だめでした。


行進沿線の市町の対応をはなし、非核神戸方式の宣伝も!碧南市も会議室で市町代理、議会事務局と懇談、成果は有りませんでしたが、反対ではないので市民の要望があれば、との事でした。運動を盛り上げ、世論の力で行政も国も動かしましょう。オバマ発言を、被爆者のご存命の間に実現させるために!


集結集会では、4歳の子連れのお母さんが、挨拶。行進中に麦畑と田植えの済んだ田んぼに、風がそよぎ、行進日和でした。本日から宿がメルパルクに変わりました。

矢部常次日記 第29日目

朝、実行委員会の方が宿泊先まで車で迎えに来て頂き、出発場所の知立市役所に向う。


愛知県では、2日目から10泊すべて同じ場所に宿泊して、送り迎えはすべて車での移動だ。県内のすべての自冶体を訪問・行進するため車移動も時間がかかる。実行委員会は、私たち全国通し行進者の宿泊先近くで拠点(愛知原水協事務所)を置き毎日の行進ニュース(2009あいち平和行進「あるく」)を発行している。ニュース発行も県単位でいろいろやり方が違い事務局の1日の作業は大変だ。行進が終わってからと翌日の行進コースの連絡と体制確認、ニュース作成そして全国通し行進者の送り迎えまで、作業はこれだけでないだろう、疲れを見せず元気で私たちを世話して頂く(眠る時間はあるのだろうか、私などの健康よりも心配。・・・これまで52回の平和行進でいろいろあったのだろうが、特に自分には、これまでも言いたい事を話し、判ってもらう様な性格であり、職場の仲間からは「ストレスを感じないだろう」とよく言われるくらいだから、実行委員会の方は、あまり心配しないで欲しいと思い、感謝)。


1日の予定が終わってからレポートをまとめたり洗濯などやることも多い、連泊となると旅館では、落ち着かなく過ごしづらい(私は、仕事で何カ月も出張することも多く、それなりの宿泊先を選び、環境を整えてきた)。そんなこともあって、宿泊先をビジネスホテルに変えてもらうようお願いし変えてもらった(私だけの思いでなく、共に行動する松本さんも同じ思いでは・・・)。


嬉しいことに知立市役所では、「原爆と人間展」が庁内に展示されている中央公民館前での出発集会、市長は公務で出張中とのことで清水副市長さんが、市民の手で折られた約800羽の折り鶴を行進団に託され、市長のメッセージと同時に副市長の立場で歓迎と激励の挨拶そして行進の先頭を歩いて頂いた(聞くところによれば、昨年は50メートルくらい今年は150メートルだと言う。私にとっては、神奈川県葉山町で森町長さんが行進して頂いてから、2回目の感動)。


恒例となっている願行寺に行き、旧米軍依佐美基地によって感電事故で亡くなった小学2年生宇都秀樹さんの地蔵「受難の像」に対し行進参加者全員で線香。


刈谷市役所では、反戦地主としてご奮闘された高齢の長谷川さんが当時を語り挨拶。


お昼ご飯は、地元新婦人からの豪華な差し入れに、聞いていたにせよビックリ、美味しく頂き、腹いっぱいになり、あまり食べない私にとっては昼からの行進に影響しそうだ。

浅田健司日誌(6月2日)

午前11時過ぎ、大洲市役所に要請行動。副市長応対(総務課からも2人)。ペナント、署名に協力。募金額5000円。

 

午後2時、伊方町役場訪問。総務課長と議会関係の職員2人が応対。議長及び町長からの募金額5000円とペナント、署名簿はすでに用意していた。

 

午後4時、内子町役場訪問。副町長、総務課長が署名、ペナント、募金5000円を用意してくれていた。町役場の近くの山林で山火事があり、消防活動がまだ完了していないので、行進参加はできないが、目的地までの行進成功を期待しているとの激励あり。

 

内子町は大江健三郎の出身地でもあり、できる限りの協力は続けたいとのことであった。

松本英治日記No.28

平和行進28日目。晴れ。


鶴舞駅前の鶴舞旅館を7時25分出発し、岡崎公園へ。


8時半から代表5人で岡崎市を表敬訪問、会議室で、市長代理の武田公室長他3人と懇談、10年に渡り、挨拶もペナントも募金も無かったが、今年原爆組写真を購入していただきお礼と、私の経験から、ペナントは、「各自治体の首長さん、議長さん、各種団体と今年から、個人も書いていただき、世界大会に掲示し、お土産として、海外代表に託されます、来年国連でのNPT再検討会議にも持っていかれますのでとご検討ください」と、募金は被爆者援護募金として使われます、と説明し、理解を求めました。名刺を交換し、柴田岡崎市長さんの名刺もいただき、よろしくお伝えくださいと!


公園に戻り出発集会へ、「松本英治さん歓迎 西三河青年合唱団」の横断幕が、感激!4人と固い握手!木村京子団長と名刺交換、加藤さんもアコで。「青い空は」を皆さんで歌って出発!


市内をうたごえとピースコールを響かせて行進、徳川家康の岡崎城も、行進中、うたごえ隊に混じり太鼓で伴奏、私にマイクが「青い地球を」と「ねがい」を歌いました。マイク2本で歌詞コールしながら歌いあるきます。


白山神社で昼食休憩、昼休みうたう会も!楽しく、1時50分歌って出発、安城市役所へ、山田副市長さんの挨拶を受け、市長と議長のペナントと募金が、少しですが、と先導で歩いていただきました(4人の市職員さんと)。


歌いながら市内行進し、コープ安城よこやま店のくすのきハウスで交流会、パン、おにぎり、そーめん、みそしる(名古屋名産八丁味噌)で疲れが吹っ飛ぶ!ご挨拶で、心のこもったご接待で、皆さんの思いを広島・長崎に届けます!


車で豊田市役所へ移動、6時から出発集会、うたごえ「パレット」の皆さんが、アコ、クラリネット、ジャンベ、タンバリンで演奏、歌も素敵!薄暮の市内を歌いコールしながら行進、共産党の事務所で歓迎夕食会ありがたい!豊田の闘いを詳しく聞きたかったが、残念!電車で宿へ、9時半着。長い充実した一日でした。

矢部常次日記 第28日目

毎日晴れが続く、東京出発の3日間と静岡で1日雨で、後は1日くらい雨がパラッと降っただけで行進中は、降られていない(広島まで一緒に歩く松本さんは、私とコースが違ったとき、雨風で行進が大変の時があった)。


・・・23日目の静岡・天竜川を行進した時、松本さんからの携帯「雨風で飛ばされそう、まともに旗など持っていられない、そちらはどうか?」とのこと、私の居るところは、多少風はあったが、AM9時過ぎには雨あがる。・・・私はついているのか、それとも要領いいのか???


したがって、ポンチョは何時も持っているが必要ない。


本日は、行進距離短いという(昨日のように距離が長い所は、熱い日差しの中だけに1時間に1回10分くらい休憩が欲しい・・・場所選定に実行委員会は苦労するだろうが)。


私は、新潟の田舎育ち、道を尋ねると地元の人は「すぐそこ」と言うが距離は長い。昨日歩いた豊橋市内は田舎とは違う。・・・都会に長く住んでいるので、そう感じるのかも・・・。


岡崎市役所・出発集会の時、参加登録を全員に書いてもらう。出発にあたり参加団体・個人が全員紹介される(時間的に制限あるが、この事はみんながまとまり親しみ交流しやすい。行進中よく見る光景、団体同士ひとかたまりで歩き私語が多い≪久しぶりに会うからかも・・・≫これでは、友達がいなく話嫌いの一般市民は参加しづらいのではと思う。(私の考え)


感動することが今日もふたつあった。昨年初めて行進に参加した若いお母さん、今年は、1歳になる村井あつむ(男子)・まつり(女子)のふた子のあかちゃんを連れての参加。乳母車もあるが、参加者が家族の様に世話をする光景だ(私は、休憩のときオバマのマスクで話しかける。女の子はじっと見ているが、男の子が最初はじっと見ていたが泣かせてしまった。ごめんね、大きくなって嫌わないでね・・・)。


半日歩いたのだが病気にならないのか心配、あのお母さんと多くの親しい人がいるので良い子で育つと安心だ(白山神社で参加の感想を疲れも見せずマイクで話してくれた)。


もう一つは、川崎で親しくして頂いた山本さんが、25歳くらいの娘さんと参加していたのだ。もう何年たつのか覚えていなかったが名前で呼び合い、この地にいるなんて不思議でびっくり。


岡崎市・豊田市を地元の方と私で、表敬訪問と市の核廃絶・平和施策をお聞きでき懇談。

矢部常次日記 第27日目

昨日夜8時10分ころ豊橋駅に着き、あらかじめ聞いていたホテルに向かう。ホテルに着くなり、もしや駅で出迎えてくれて待っていたのに会えなかったかもと思い、フロントから愛知の実行委員の佐竹さんに電話、留守電だ。そしたらホテル・フロントの女性のいわく、「いま2階のフロアであいち平和行進の方が食事と打ち合わせをやっておられますよ」と話す。


2階では20人くらいで打ち合わせ中、私の夕食も準備されていた。松本さんも参加しており、わかやま市民生協の宮下さん他、愛知県内通し行進者は16人であることなど、これから県内12日間の日程の資料を受け取る、自己紹介して食事を頂く。


私が遅く参加したので21時30分から松本さんと2人で、これからの宿泊のこと・愛知での平和行進実行委員会の討議結果について詳しく説明を西岡さん(春日井平和委員会:事務局長)から受ける。


25日目のレポートなどまとめていなかったので、いろいろやっていたら12時を過ぎた。明日が大変と途中でやめ寝ることにした。


マイクロバスで豊橋市役所に行き、豊川稲荷公園からの行進スタートのため松本さん・宮下さんと数人がスタート時点に向かう。


小坂井町役場で感激の合流。町役場の手前の木陰で、先に到着していた豊川稲荷公園からの行進団が出迎えてくれ、合流して小坂井町役場に全員で平和大行進。


25km行進するという日程だ、昨日の事もあって少し眠い、休憩が楽しみ(煙草を吸うことができるからだ・・・)。


終結集会・その場での交流会で、カンパ隊で頑張った方が紹介されカンパ金額・「核兵器のない世界を」国際署名の沿道署名累計と感想を話す、後藤麻里さん(みかわ市民生活協同組合に入協して3ヵ月、休みだったので参加した若い女性)は『午前中はカンパゼロ円・署名ゼロ筆だったが午後からは頑張りました、楽しかったです・・・次の言葉が出ず少し詰まる・・・』感動したのだろう、参加者から「言いたいこと判ったよ!」と大きな拍手。交流会では、行進の交通整理を初めてやったという21歳の青年が感想を話す。・・・若いということはいいなと思い、自分はどうだったのかと思い起こす。

松本英治日記No.27

平和行進27日目。快晴。


8時15分豊橋市役所集合、午前中2コースのため、私は、車で豊川稲荷公園へ、海軍工廠戦没者供養塔前で8時45分出発集会、県内通し3人同行、セレモニーで挨拶、「毎日の行進で市民に訴え、オバマ発言を実行させましょう!非核神戸方式を!」コープさんや、民主団体から、千羽鶴を託されました。


9時半出発。50人で元気に豊川市内行進です、歌集の準備はされていましたが、歌のリーダーを任され、2人でコールしながら、歌いながらの行進です。「青い空は」「青い地球を」他を、歌い続けました。ピースコールを交えながら!


11時に小坂井町役場の手前で2コースが合流し250人の隊列に、名古屋青年合唱団、西三河青年合唱団など愛知のうたごえの皆さん多数参加でアコ(加藤)とギター(脇谷)の伴奏で、賑やかに歩きました。


小坂井町役場でのセレモニーは、町長と議長の挨拶を受け、名刺を渡す。


休憩後、町内を歌いながら行進、御津生涯学習センターで昼食休憩。出発セレモニー後、町内行進トヨタうたう会の藤山さん(県内通し行進本日参加)と握手、行進中、私にもマイクが、「大きなうた」と「ねがい」を歌って行進、後はお任せし、太鼓でリズムを!三河湾沿いの潮風に吹かれての楽しい行進でした。蒲郡市役所までの長丁場でした。愛知で一番長い行進だそうで、23キロ歩きました。


集結集会で市長と議長代理の挨拶を受け、名刺交換。カンパ・署名隊の感想も、初めて参加したコープの若者男女(入協2ヶ月の女性と2年の青年)は初々しく素直な感想に拍手!延べ20人のカンパ隊(267筆の署名、39944円のカンパ)ご奮闘に拍手!民青同盟の21歳の委員長は交通整理で走り回って、好印象でした。昨日の桜丘の高校生といい、若者たちの奮闘に、未来を感じた行進でした。


鶴舞駅前の旅館に連泊です。うたごえの参加者に通し行進タスキの裏に神奈川からうたごえの皆さんの名前を書いていただいています、静岡、愛知と名前の数が増えます。東京の皆さんや参加したのに書けてない方ごめんなさい!皆さんの思いを背負って歩きます。

五十嵐成臣日記 北海道を歩き終えて

5月6日礼文島を出発して26日をかけ、36自治体訪問をし、首長や議長、教育長(代理も含む)と面会、「核兵器のない世界を」の署名、'09長崎大会へのペナント、平和行進への募金をお願いし、懇談しました。

 

どこの自治体でも核兵器なくす、平和への思いは同じ、北海道は首長や幹部職員の親、兄弟が戦死したり、戦争に言った人も多いのか、考え方や立場が違っても、核兵器廃絶、戦争に反対と平和行進への理解を示していただきました。

 

この26日間、北海道を歩いてみて、北海道は広大で自然の豊かな所という一般的な見方と違い、戦後の炭鉱閉鎖から始まり、農業の大型化、機械化による借金と減反などの農政のツケを負わされ、農業の後継者もなく、他に仕事もなく、若い人は外へ出て行くしかないとのこと。そうした中で、平和行進は高齢者が多くなってきているが、核廃絶と平和への思いはとぎらせてはいけないと。頑張っている様子は頭の下がる思いでした。

 

また、国鉄の分割民営化の首切りと戦った全動労の皆さんが地元に帰り、それぞれ活動され、平和行進の先頭に立っていただきました。

松本英治日記No.26

平和行進26日目。晴れ後曇り。


静岡県最後の日、日曜日でもあり、大勢の参加(200人)、出発集会で挨拶、13日間のお礼を!

浜松センターの松浦さん(SSDⅡ同窓生)が電子アコを持って登場握手!小沢さんはじめ、静岡のうたごえの皆さんも多数で感激!東海道を歌いながら一路愛知へ!


今日も空君が先導、子供連れのお母さんも、(2歳くらいのよちよちよち歩きと、4歳くらいの姉妹を連れて)最高齢は90歳の加藤さん現役です!


隊列を整え、住宅街の愛知県への引継ぎの湖西西部公民館前広場へ埋田先生の「青い地球を」を元気に歌いながら、450人以上が待ち受ける愛知の仲間の中に、太鼓を叩きながらの先導で!

昼食後、引継ぎ集会、静岡の皆さん13日間ありがとう!いい勉強になりました。労をねぎらいの握手を交わしお別れしました。


愛知の皆さん12日間よろしく!被爆者の挨拶を受け、桜丘高校の原爆の灯がトーチに移され、高校生10人が挨拶し、先導で運びます。母校へ!愛知のうたごえの仲間と握手し、行進旗の引継ぎです。


矢部さんが欠席のため、全て、私が挨拶しました。静岡の心と、沿道募金は何と82万円に達したとのこと!ありがとうございました。勇気と元気をいただきました。


愛知の行進団の先頭あたりを通し行進の横断幕を持ち、太鼓でリズムを刻み、歌いながら愛知県内へ!


引継ぎ集会には、650人が!旧東海道を歌いながら賑やかに行進します、12人の高校生が原爆の灯を掲げて行進です。


日曜日で、桜丘10人、平ゼミ2人の参加。うれしい!原爆の灯の平和の塔のある、桜丘学園へ、一路歌いながら、450人の大行進団です。途中、旧東海道街道の町並みや、本陣跡を通り、写真に!


桜丘高校に到着、多くの高校生が出迎え、正門正面に原爆の灯の塔が!出迎え!校庭で歓迎集会、原爆の灯20周年、太鼓部も20周年、歓迎演奏、「木やり太鼓」感動です!


歓迎セレモニーで、組合、校長、生徒会の挨拶、素晴らしい、平和教育です。太鼓部の桜花太鼓「太鼓ばやしと屋台ばやし」私もうずうず!通し行進者を代表して挨拶、私も太鼓打ちですと!オバマ発言を実行させましょう!非核神戸方式を世界に!お礼に「木遣り」歌を一発!大好評でした、太鼓部に皆さんと行進横断幕を広げ記念撮影!


宿で、愛知県内通し行進者18人と交流会。新たな出会い、12日間楽しみです、どこかで、林学さんにお線香を!

浅田健司日誌(5月31日)

午前10時、松山駅前で出発集会を開催。参加者数も100人を超え、今日も愛媛新聞やNHK、赤旗等の記者が来ていた(報道陣だけで10人以上、出発集会だけでなく、2~3人の記者が一緒に行進し、終結集会の最後までいた)。

浅田健司日誌(5月30日)

今日の行動予定が午後からのものとなっており、午前中は野口さんと一緒に買い物などに行き、午後12時15分、「松山労連」から聞いていた「ハーゲンダッツ」という"呼称"の大きな商店街入口の広場に集合。集会を行う。

その後全員で署名行動に取り組み、183筆の成果をあげた(16人参加)。

それから11人で昼食交流会を開催し、交流を深めた。

浅田健司日誌(5月29日)

午前10時、県庁訪問。引き続き、松山市議会も訪れ要請行動。

午後、久万高原町役場でも同様の行動を行い、その後行進した。

県庁訪問の際には、NHKや愛媛新聞、しんぶん赤旗記者等が取材に来て、5月30日付けの報道があった。

NHKでも放送があったとのことだが、目にすることはできなかった。

松本英治日記No.25

平和行進25日目。晴れ後曇り。


旧東海道の松並木や、旧跡の常夜灯や、一里塚などを、見ながら一路西へ、本日も、うたごえの仲間が、静岡の小沢さん、浜松センターの青野さん他で、歌いながらの行進です。静岡の埋田先生の「青い地球を」は定番です、「青い空は」「折鶴」他を歌いながら、タンバリンや、カスタネットで賑々しく。


私は、通し行進の横断幕を持ち、パーランクでリズムを取りながら歩きます。青野さん持参の歌集A3の用紙に切り込みを入れ、8ぺ-ジの歌集に12曲挿入を使って!休憩時、小沢さん持参の平和歌集を買っていただき、歌唱指導も!「歩いて行こう」や「ピ-ス・ナイン」を!


舞阪文化センター浜名分庁舎で挨拶を受け、ペナントを預かり名刺交換し、昼食。


本日夜の組合の会議の参加のため、一時帰郷する、通し行進の相棒矢部さんを、舞阪駅で見送り、出発。浜名湖沿いに新居町民センターまで歌いながら行進。町長と議長代理の挨拶を受け、ペナントを預かり名刺交換。


新居には、旧東海道の関所が昔のまま保存されています。昔の物は、残す努力をしないと残せません。国宝姫路城もです(明治の初頭廃藩置県で荒れ放題で売りに出されたとの事でした)。残せたから、世界文化遺産に!


鷲津駅前・ひまわり公園まで、元気に歌いながらの行進でした。先頭の横断幕を5歳の横田空君(浜松センターのお子さん)一諸に持ち、「こんにちは、平和行進です」「核兵器を無くしましょう」と元気に!


静岡12日目の行進の集結集会、事前の準備とカンパ隊の活躍が目立つ、行進でした。宿で、お世話になった埋田先生、北川事務局長他と通し行進者4人(矢部、山崎欠席)の7人で最後の晩餐。感想を出し合いました、カンパの多さに50年の歴史を感じ、募金袋に独自の工夫が、米軍、自衛隊基地の多さ、碌碌産業の様な若い組合員の参加、そして、うたごえの仲間の歌って参加の力強さ、を感じた行進でした。


いよいよ明日は愛知に引き継ぎです。また、新たな出会いが楽しみです。

矢部常次日記 第25日目

25日目にしてリタイヤかと言われてしまいそうだが、私も一応組合の役員だ。静岡・愛知県の皆さん、そして平和行進参加者に悪いが1日半の休みをとる(当然オバマさんも休み≪毎日、大変な任務だからだ≫休憩の時などは、置き忘れてしまうからだ)。


今日は、天気予報もはずれ、晴れの一日になりそうだ。出発集合の場所にJMIU組合員のフレイタスさん(ブラジル人で日本の労働環境について、ブラジル大統領に書簡を送り、ブラジル労働者をはじめ、外国労働者を多く組織する元気な人だ。私とは徳島で、派遣で働く光洋シーリングテクノの正社員化で闘う激励集会で出会った人)と久しぶりの再会で「マイフレンド」と固い握手。


あとで静岡地本委員長:鈴木さんに聞いたのだが「外国人がデモ行進に参加するといろいろ難しい事になりそれが心配でなかなか平和行進に参加しづらい、しかし平和行進は政治活動とは違うと話し討議したそうだ」「明日は多くの外国人組合員が行進に参加するだろう・・・」と鈴木さんは胸を張る。


行進が進み、とうとう舞阪文化センターに到着、近くの食堂・おにぎり屋さんも閉まっており行進参者が10数人、弁当を持ってきていない・・・大変だ、地元の人が電話してくれ全員食事を摂る・・・。


私たちと実行委員・宣伝カーの運転手には事前に弁当が準備されていたので心配ないが、もう何回も参加の人は、手作り弁当やお新香・ジャガイモの煮物など持ってきており、小学生の時、おふくろが作ってくれた運動会での弁当を思い出す。


昼から休みを1日半とる時間が来た。行進から離れるのも辛いものがある、明日は静岡にさよならして愛知県に入る、ので引き継ぎ式にも出られない。


これまで静岡県内を元気で楽しく歩いた行進者4人の仲間と固い握手でこれからの健闘を誓いJR弁天島駅から松本さんとは、5月31日夜に合流すると握手。JR弁天島駅で、手を振って行進者を見送る、隊列を離れて平和大行進を外から見るのも必要かも・・・。


インターネットであらかじめ調べておいた電車より一本早い電車に乗ることにしたが8分くらい電車が遅れ、JR弁天島駅から浜松に行き新幹線に乗る。


これまで、お世話して頂いた実行委員会の皆さん、お疲れ様でした。愛知県に行っても頑張ります。

矢部常次日記 第24日目

今日は、4コースに分かれ行進をスタートして昼の浜松市役所で合流する。


①浜北コース:松本さん・山崎さん、②浜松基地コース:高橋さん、③南部コース:小林さんそして④の本コースの東部(東海道)コース、向さんと私、すべてのコースに通し行進者が担当。


集合時間が一番早い浜北コースなので、6時45分に6人人員で朝食して1日頑張ることを誓い、それぞれ出発。


向さんと私は、9時40分集合で一つとなりの駅近くからの出発だったので、ゆっくりして8時15分過ぎにホテルを出た、電車に乗ろうとした時、向さんの携帯が鳴る。地元の実行委員会の中谷則子さんからだ。「今どこですか、集合前に浜松東区役所に表敬訪問することになっているのよ!9時の約束」と言われ、何も聞いていない2人は唖然。


早くホテルを出たことが結果的にプラスしてギリギリセーフ、浜松東区役所に約束の時間通りに到着、鈴木区長さんにお会いでき、短時間にせよ「名刺交換、そして平和大行進の横断幕・オバマのマスクのことなどを話し、核兵器のない平和で公正な世界を原水爆禁止2009年世界大会・長崎の本大会パンフを説明」して手渡し、丁寧に挨拶して区長室を出て事前に呼んでいたタクシーで皆の集まる場所に向かう(少し年配のタクシー運転手「まだ慣れないので、行き場所を聞いても判らないんですよ、近くの駅で良いですか」と言う。「案内するから、場所まで行って」と話し到着)。・・・リストラか何かで転職したのだろうか?・・・


将監第一公園の休憩場所に、すでに到着していた、南部コース:小林さんら行進者に迎えられ合流して、4コースが合流する浜松市役所に向かう。


道路事情・距離などで、何年もやってきても、時間的に難しい。昼休み時間であるが、市役所と浜松区役所が入っている庁舎なので、女性の区長さん・職員・組合の方など多数出迎えてくれ、歓迎と激励集会。時間も押し迫り、一番遠いと思われる浜北コースが到着していないが、集会が始まった。少し話したところで浜北コースの行進団が到着。大きな拍手で出迎え、話は中断・最初から集会。


集会には、250人くらいだったと思うが合流後の午後のコースは多くて80人くらいの行進団だ。


夜方は、JMIU静岡地本が歓迎交流会をしてくれた(私も悪かったが、金曜日と言うこともあって席が取れず、後から参加した小林さん・高橋さんそして向さんは、来てくれたが顔だけ出して、別行動になって悪い事をしてしまった。・・・ごめんなさい、明日は午前のコースをみんなと歩き、組合の用で1日半行進をぬけ、静岡県内行進者と別れ、愛知県で行進に合流するのに。・・・)。


(有難うございました、長崎での原水爆禁止2009年世界大会で再会を・・・行進頑張ります)

松本英治日記No.24

平和行進24日目。晴れ後曇り。


本日は午前中4コース、8時浜北区役所集合、出発集会、区長の挨拶、ペナント預かる。名刺交換。


行進24日目の挨拶、神戸方式も!県内通しの山崎さんと、本日はアコなし、県評の宣伝カーで別の場所へ。昨日のコープ・ピースウェーブの会の皆さんが参加、うたごえとコールで賑やかに行進、私は、太鼓で伴奏。


30人ほどの行進でしたが、楽しく元気に!浜松市役所に4コース合流して、集結集会。市長代理と中区長の挨拶受け、ペナントを預かり、名刺交換。本日も小沢さん登場うたごえ新聞拡大!

浜松センターの青野さんと硬い握手、SSDⅡの同窓生!昼食時、昨年の日本のうたごえ合唱団南京公演に行ったご夫妻と再会!


昼からは、市内を大勢で行進、うたごえ響かせ、賑やかに!小沢さんや、コープのお母さんギターとアコの伴奏で!熊野神社で集結集会、楽しい行進でした、明日、土曜日なので、参加を要請。


浜松の自衛隊の基地調査に、市の真ん中に10キロ四方の広大な空軍基地、爆音災害が!国民の血税で高額の装備が4機配備されたとのこと。年間5兆円の軍事費は、大企業が受注し分け取り。大型装備に金をかけ、細かな、装備は陸上自衛隊の中古を払いうけしていると、隊員の証言が!まったく無駄な予算、「軍事費を削って、暮らしに回せ!」


宿の近くで地元JMIUの方々と交流会、トムソンの昨日の金属反合の話も、正社員めざし、頑張れ、後輩諸君!行けなくて残念!赤旗に写真が!

矢部常次日記 第23日目

今日は、県内通し行進の山崎さんと本コースのみんなと別れ天竜・浜北コースに参加。


天竜川の舟下りで有名な所だ、指定された待ち合わせ時間より1本早い電車に乗り込む、山崎さんは自宅から来るので現地で会えば良い。


天竜浜名湖鉄道で掛川駅を8時19分の電車に乗る、隣駅が掛川市役所のある駅なので通勤客でいっぱい、しかし3つの駅を過ぎたころは、ワンマンの運転手と乗客5人となった。多少雨が降っていたのだが、傘もささずホテルから来たので少し濡れた(大きなバッグは前日宣伝カーに積んでいたが、朝ホテルに宣伝カーが来てくれたのに、小分けしたバッグを車に乗せず手に抱えたままだった)。


電車には、バッグのほかにオバマのマスクを持って皆に見えるように座席に座ったので、掛川駅から乗客は見て見ぬふりをしているが注目。天竜浜名湖線は、掛川駅~JR新所原駅で東海道線に接続される第三セクターの電車で天竜二俣駅に天竜浜名湖鉄道の本社がある。私の乗った電車は天竜二俣駅終点で15駅あり単線なので45分程度かかる(電車の旅が好きな私にとって最高)。


待ち合わせ時間まで30分以上あるので天竜二俣駅でスタンプを手帳に押し遠州天竜下りの手ぬぐいを駅で買い求め観光案内所にも顔をだした。


通し行進者のオレンジのタスキをホテルから掛けているので、待ち合わせではすぐ判る。鈴木さん(浜北原水協事務局長)が声をかけてくれ、山崎さんも電車で到着。


午前中は、明日行進スタートの浜北区役所に行き、明日は私がこのコースに来れないので市担当の方に名刺を渡し挨拶、その後は、天竜川地区を案内して下さった。そして西尾さん(天竜地区原水協会長)に紹介され昼食(行進者を代表して、うな重を頂く・・・みなさんごめんね・・・)。


昼食前に、天竜区役所で公務で忙しいのに野中副区長さん、佐野社会福祉課課長さんと懇談させていただき通し行進者の役目を果たした(忙しい中、だいぶ時間を割いて頂き有難うございました)。


13時に行進スタート、天竜市原水協の年季の入った青い旗が風になびく、30年以上の歴史の地区内行進で2人の通し行進者の参加も初めてと30数人の行進だが、100人以上のように元気なパレードとなった(これまで頑張ってこられ、志なかばで亡くなられた方に、頑張る決意)。

松本英治日記No.23

平和行進23日目。雨後曇り後晴れ、強風。

 

 8時半集合、掛川市役所で市長代理と議長の挨拶を受け、ペナントと賛同金をいただく。今日も2コースのため、私が挨拶し通し行進者の紹介を!

 

雨の中を旧東海道の松並木を西へ!今日もアコを担いで名古屋君(国鉄静岡うたう会「シグナル」)午前中のみ登場!雨のため宣伝カーの中で伴奏、コープしずおか西部発ピースウエーブの会(浜松センターの団員も)が素敵な歌集(手作り)を、首からかけられ、見やすいように文字が逆に!19曲とシュプレヒコール!オリジナルな詩の替え歌9曲(さんぽ、森のくまさんなど)歌唱指導やリードもしていただきました。

 

雨もやみ、アコも行進の中へ、うたごえの響く行進です。私は昨日の張り切りでのどに違和感が、咳も!午前中、休憩まで、お任せしました。

 

歌リーダーが抜けられ、昼食休憩の袋井市役所までの1時間歌いました。 市役所で強風の中歓迎セレモニー、立っていられないほどの風!昼食後、ロビーでお抹茶の接待、曜日により、コーヒーか、本日はお茶をいただき、疲れを癒す!

 

 強風の中一路西へ、お昼でアコの名古屋君も去り、咳が出て歌えず、太鼓叩きながら市内を歩く。磐田市へ、トンボ博物館で休憩、アコでお出迎え、「愛と平和のプロジェクト」の遠州屋長介さん!磐田市役所で歓迎セレモニー、非核平和の街の懸垂幕が庁舎に!モニュメントも!

 

市内行進し、終着のコープ国府台店へ、学校帰りの小学生の女の子3人が横断幕持って行進に参加! 終結集会は、埋田さんの挨拶、私の通し行進者紹介。コープさんのおしるこの接待、ありがたい!宿の浜松へ、途中遠州屋さんから電話で、うたごえサークル作る相談をしたと!ばんざい!また、来てくれます。行進者全員(6人)でうなぎを食べに!明日の英気を養いました。

浅田健司日誌(5月28日)

砥部、東温を行進(午後からの行動であった)。

行進参加者は10人以下であったが、元気よく歩いた。

東温市での要請行動でも、良く発言してくれた。

松本英治日記No.22

平和行進22日目。快晴。


9時菊川市役所集合、いつものように30分早く着き、宣伝カーから通し行進旗約30本を並べ準備。


出発集会では、地元実行委員会の挨拶、市長、議長代理の挨拶を受け、名刺を交換!通し行進者の代表が、行進者5人(県内4人)の紹介をし、挨拶、今日は、矢部さん!行進リーダーの紹介と注意事項を聞き、出発。道案内の人、宣伝カー、行進リーダー、県実行委の横断幕、通し行進の横断幕、後は自由、で歩き始めます。


本日は掛川在住の名古屋氏(国鉄のうたごえ、SSDⅡの同窓生)がアコを抱えて参加!(アコ2台)歌のリーダーがいないので、ハンドマイクデビューしました。名古屋氏が用意してくれた歌集を使って、「青い空は」からスタートしました。市内を歌いながら行進しました。


静岡は、特に菊川は美味しいお茶の産地です。八十八夜に一番茶が済んだところです。バス(マイクロ)移動で次の場所へ、バス内でもうたう会です。「ねがい」を指導しました。


到着地に桐箪笥の店が、覗くと色の変わった箪笥が、真っ白に再生されていました。九州の家に母親の花嫁道具の色の変わった桐箪笥がありました。関西に来る時手放したそうですが!(惜しいことをしました)


御前崎市内を歌いながらの行進、(青い地球を、折鶴、大きな歌、さんぽなど、たくさん歌う)。御前崎市役所で市長、議長代理の挨拶を受け、昼食休憩。


バス移動で大東支所へ、会議室でのセレモニーは、所長の挨拶と議員さん!原発があり、プルサーマル計画が実施されそう、30年前の古い原発が廃炉され、新たに6号機が建設されそうで、反対運動が!宣伝カーのウグイス嬢がいなくて、急遽県内通し行進者の小林さんが!


次の休憩で、アコと歌で宣伝カーに乗り込み歌とウグイス嬢(おっさん)も!好評でした。やっと、風邪がなおり、まだ、高音は伸びませんが、いい声だと言っていただきました。さあ、今からが本領発揮です。明日も、小沢さん来ないし、アコの名古屋君が昼まできてくれます。


掛川市役所で終結集会。明日ここから出発!名古屋氏と慰労会!美味しい酒でした。9時には、寝ています。健康的な生活です、でも、太ったかな?

浅田健司日誌(5月27日)

今治市第2桟橋より船に乗って上島に入り、島内を行進。

午後4時半頃、西条市役所を訪問。募金協力等あり(今治市と同じ)。

矢部常次日記 第22日目

朝からハプニング。掛川駅から菊川駅に東海道線で向かう、人間の心理として、大阪の方面に行進しているのに東京の方に戻ることになる、それに駅ではエレベータ工事中・通学通勤客で利用者も多い(都内の利用者の混み具合とは違うが)、どのホームから出発するかはっきりしない、駅員に聞いたらあっちのホーム、いやこっちのホームと教えて貰い更に混乱(聞いた人が悪い、駅員と思っていたらそうでなく乗客を整理する人だった)。結局予定していた電車に乗れず17分待って乗る。


早く集合場所に行くようにしているから、十分間に合う、菊川市役所には数人集まっていた。


地方では特に市町村の合併で行政も大きく変わる、「非核都市宣言」を決議していたが合併で、今は棚上げの市などもある。平和政策だけでく住民サービスはどうなっているのかと思う。


行進してはバス移動だ、1日バスをチャーターし「平和行進小笠・掛川実行委員会」と書いてある。


旧町が今は支所となっており支所での対応もまちまち、行進も22日目だから地域の実行委員会も取り組みもまちまちであり、「募金のお願いの封筒とビラをセットして事前に宣伝している所」「歓迎平和大行進・核兵器も戦争もない平和な世界を 5月27日10時頃 小笠を通ります」のステッカーが多く貼ってあった。


実行委員会の努力は目に見える。しかし私は思う、せめて時間を10時と同じでなく少しずつ時間をずらし手書きで記入されていればと感じた。(だったら自分でやってみろと言われそう・・・ごめんなさい言いたい事を書いて)平和を愛し迎えてくれる市民に感謝・激励されます。

浅田健司日誌(5月26日)

北条総合支所前から行進を開始。

午後4時半頃より今治市役所で要請行動。市長・議長より募金1万円、ペナントの協力。

その後約1時間平和行進。

松本英治日記No.21

平和行進21日目。快晴。


8時半、藤枝市役所で出発集会。昨日の北朝鮮の核実験に、平和行進実行委員会として、抗議声明!昨日の、焼津の久保山愛吉さん墓前で聞きました!


市長代理と議長代理の挨拶を受け、私たちも挨拶「焼津の心、分裂を回避した静岡の心」を胸に刻み、「非核神戸方式を全世界へ」と!」集会前アコ2台で歌う会!


藤枝市の繁華街を行進、藤の花の垂れ幕が多数、街頭に!東海道を一路西へ!歌いながら、太鼓叩きながら!今日もうたごえの仲間が、行進リーダーも!


JR六合駅裏の神社でコープの琴の会の皆さんの演奏と歌でお出迎え!藤枝~島田への引継ぎ、昼食後の出発時も演奏と歌でお見送り、ありがたい!島田駅まで、電車移動!昨日の録録産業の方が、先導カーの運転手を、若者たちによろしくと!若かりし頃の職場(トムソン)を思い出す。


島田駅前で集会後、「悪魔の飽食」旭川公演に行っていた小沢喜和子さん登場、本日送られてきた、うた新の宣伝紙で宣伝!


市内行進扇町公園で休憩、市労連が飲み物の差し入れ、太平洋戦争末期、ここに、広島・長崎の原爆の模擬爆弾が落とされ、被害が、忘れないための、慰霊碑が!行進参加者で黙祷を捧げ出発。


大井川の手前で昔(江戸時代)の町並みが保存されていて、タイムスリップ!鉄橋を渡る手前にたけのこ保育園児7人と保育師さん3人が、合流!元気に2キロの長い橋をわたりました。本日の終結地点まで歩いてくれました。孫を思い出す!


今日も暑い一日でしたが、うたごえの響く行進でした。沿道に事前にチラシと募金封筒がくばられ、募金を持って、待っていただいています、本日の募金93738円でした。素晴らしい!50年の積み重ねの成果です!こういう地道な活動や被爆者の皆さんの思いが、オバマさんに届いたのでしょう!オバマ仮面大人気です、子供たちに!

矢部常次日記 第21日目

藤枝は、サッカーで有名だ。ホテルには有名な選手のユニホームなど名前入りで紹介されており、高校も3校あり、昨日会話した彼も学校に通いながらサッカーをやっているのだろう。


「先輩は素晴らしいが、自分はまだ1年目、早く先輩みたいになりたい」と話す、体格の良い彼だ。平和行進にも興味を示し「インターネットが無いので、田舎の友達や親に電話してコピーしてもらい札幌に帰ったとき見ます」と言ってくた。名前も聞かずだったが有名な選手になるだろう。サインを貰っておけばと後で後悔。


その点、今年の3・1ビキニデーにはじめて参加し県内通し行進をやっている高橋さん、ホテルでもホテルで働く人を含め客でも、会う人に平和・原爆・戦争の事を会話し「原水爆禁止の国際署名」を貰っている。ひょっとしたら彼も署名していてくれたかも。


出発集会・各地域での引き継ぎ集会で行進者が話す、署名でもそして行進中でも張り切る高橋さん。カンパ隊でのこと「ある駄菓子屋さんに入った時、女の子たち5、6人が、財布の中から1円・5円・100円とカンパしてくれた」と話す・・・。こんな姿を国会議員・財界の人などは現場を見て考える必要がある思う。


大井川の橋を渡る手前で、たけのこ保育園の子供達と先生2人が、私たち行進団を出迎えてくれていた(時間に合わせ園のバスで来たという)。そして、子供達も歩いて大井川を渡る。


車道と歩道が別とはいえ、行進の先頭を歩くのが早い子・遅い子と先生が大変。橋を渡り切るなり「喜びの顔だ」・・・。


金谷水神公園で休憩・子供達もおもむろに持ってきたおやつとポットからジュースを飲む。これから電車に乗って帰るとのこと、手を振って別れ私たちは行進スタート。


宿に戻るなり写真を整理(なるべく全員が写るものを探し)して、橋本さん(静岡県働くものの安全と健康を守るセンター事務局長)にメールで送り、園に届けて頂くことを依頼。

浅田健司日誌(5月25日)

愛媛県・四国中央市職労事務所で打ち合わせの会議が持たれ、自治体訪問を討議。「非核平和行政についての要請行動」に入った。

四国中央市では市長公室長、議会事務局長等4人の管理職が対応。要請内容を重視する旨約束。ペナントや奉賀帳への署名協力をいただいた。

続いて、新居浜市でも議会事務局長、市民総務次長等4人と話し合いを行い、同様の結果を得た。

午後4時から新居浜市中央公園に集合、参加者40人程度で約2時間の平和行進を行った。

松本英治日記No.20

平和行進20日目。快晴


8時半出発集会、行進団から離れて、静岡市と県へ表敬訪問!市長は公務で市民活動部の田島部長と懇談、市長のメッセージとペナントをいただく、賛同金は無し、市議会議長も公務で機会事務局長の鳴澤さんと懇談、議長のメッセージとペナントをいただく、賛同金はなし。県知事も公務で公室秘書室主幹の高木氏と懇談、ペナントと賛同金いただくが、メッセージはなし。県議会議長も公務で、秘書室長補佐の渡辺氏と懇談、ペナントと賛同金はいただくが、メッセージはなし、市や県対応もまちまちだが、表敬訪問をし通し行進者の役割を果たす、名刺を交換し、「非核神戸方式を」宣伝し任務を終える。


タクシーで行進団に安部川で合流、市内をみずほ公園まで行進しJRで焼津へ、マイクロバスで弘徳院へ。


昼食後、第五福竜丸事件の学習、解かり易く、感動しました。出発集会の後、久保山愛吉(第五福竜丸の無線長でビキニ環礁でのマグロ漁で米国の水爆実験の死の灰を浴び、「原水爆の被害者は私を最後にして欲しい』と言って無くなる)さんの墓前で手を合わせる。


焼津市内を行進、港が改築され、かつての遠洋漁業基地は更地になっていた。でも市民の関心は高い。市役所で市長代理の山下総務部長の挨拶の代読と議長の挨拶を受け名刺を交換しました。


目抜き通りを行進し、コープ焼津店で休憩接隊を!バスで、大井川町へ合併で焼津市に合流したが、行進しました。


平和行進歓迎の手作りアーチが、若者がたくさん同じ作業服で待っていました、建交労録録産業分会の組合員さんでした。


大井川町内を行進、航空自衛隊静浜基地へ。米軍基地が、今は自衛隊が使用、騒音が酷い!上小杉児童公園で終結集会。録録産業の若者が多数参加!感動!米軍基地時代クライスター爆弾で住民が多数無くなった事件があったと、ミッドウェーの艦載機によるタッチ&ゴーの訓練で騒音災害、先日も自衛隊の航空祭で、1週間騒音災害!


行進中、カンパ隊奮闘、1万円のカンパも!暑い一日、5時半藤枝の宿へ!今日も静岡のうたごえのなかまが参加してくれました。

矢部常次日記 第20日目

晴れた月曜日の朝だ。ホテルから通し行進者5人(富士山にマラソンで2回登り、山が好き平和が好きと言う県内通し行進者の山崎さんは自宅から参加)は、集合場所まで近いのにわざわざ遠回りして静岡駅前大通りを「通し行進者はタスキを掛け・大きなバックをもちながら、おはようございます」と勤め先に急ぐサラリーマン・学生さんの多い人波に交じって集合場所へ向かう(すでに平和行進、皆からは、この人達なんの集団と思ったのでは?県庁所在地だから)


9時出発集会、松本さん・向さん・高橋さんの行進者3人そして静岡平和委員会の数人で県庁/市庁を表敬訪問に行く、それを参加者全員で激励して行進はスタート。


表敬訪問した方は、10時15分ころ静岡名産・安倍川もちの一番うまいという店前を通り安倍川の橋を渡った川土手を歩いている時合流(急いだらしく、少し息は荒いが顔色は良い・内容の成果は?)。


弘徳院で昼食、出発まで時間がせわしないが食べてすぐ、飯塚利弘さん(久保山愛吉さん・ビキニ環礁の悲劇の地元の先生をやっていたという語りべ)のミニ学習会。昨日久保山さんの墓前で、オバマ・アメリカ大統領の発言、平和大行進が52回目で今日来ることなど、話し報告した。愛吉さん・奥さん(すずさん)との会話を得々と話してくださり、私だけでないと思うが参加者全員涙ぐんだ。


「『原水爆の被害者は私を最後に』という夫、愛吉さんを愛し悲願が達成される日が生きているうちにと『ヒバクシャとその遺族が生きているうちに一発残さず核兵器をなくしてください』と被災39周年1993年3・1ビキニデー集会にお集りの皆様へ」と飯塚利弘さんの話が、愛吉さん・すずさん本人が私たちの前で今話している様だった。


私は現役の労働者、大井川町役場(今は合併で焼津市)に焼津駅から移動に焼津市のバスで着く。近づくなり目に入ったが「歓迎大井川コース」の4メートル近いプラカードだ。初めは市の職員かなと思ったが違う、建交労組合の碌々産業の15人以上の組合員だ。工作機械製造で昭和16年東京・蒲田より工場疎開して創立107年。組合員は110人くらい社員は150人で2つ組合があるという。航空自衛隊静岡基地ゲートを通りターンして終結集会となった。そこにも碌々産業の組合員が出迎えてくれた総勢30人以上。


司会は、委員長が重要な会議の為出られず、代って平和担当部長の若い武井清美さん(設計技師)と県の横断幕を先頭で持った2人で進められ、行進者には飲みものまで準備して頂いた。


5回行進の小林さん「毎回この組合は、行進参加とすごい歓迎よ!、皆で考え今年初めてプラカードを作ったのよ」と話す。武井さんが「工作機械は今の不況で大変」と宣伝カーを運転してサッカー選手も泊る宿泊先に送ってもらった。ここでも札幌から来た1年目の選手と大浴場で会話。

矢部常次日記 第19日目

静岡県に入って6日目、初めての本格的の雨だ。今日は通し行進者は3ヶ所に分かれる。


小林さんと高橋さんの2人の女性は、山際に近い所から、そしてアコーディオンを肩に背負って演奏しながら行進する山崎さんは、地元の平和行進に参加だ。


残り3人は清水区役所へと車で移動中に、携帯が入る。小林さんからだ「こちらはドシャ降りの雨よ(後で聞いたら、行進始まってからは小降りになったとのこと) そちらはどう」と元気な声が聞こえる。


こちらはまだ降っておらず曇り、清水区役所の出発集会 毎日、通し行進者が紹介され一人ずつ話す。集まってくる参加者は同じでないので、同じ事を話しても良いが皆は、自分の行進への決意と昨日までの感想のポイントを話す、県内通し行進者は交替でみんなの特徴をまじえて全員を紹介する。


私が話し始めたころ雨が落ちてきた。気がついたら地元の実行委員の方が頭の上を傘をかざしてくれた。


行進中はそんなに強くないが雨、今日運動会で行くんだ。中止かもと言う小学生、お母さんと妹さんが歩く、そこの橋までと小学生が横断幕を持って車道を先頭を歩き、お母さんと妹さんは、歩道で見守る。


午後は、晴れたがいつでも降ってくるようなくもり空、清水山公園に着くなりすごい雨になった。休憩して出発、しかしすごい雨なので予定の時間より15分早く出ることにした。(ここから参加があるのではと責任者は時間を決めるのに関係者と話す)。


終結の常盤公園に着いた頃は雨もやみ、平和行進静岡県歓迎集会と一日のまとめ集会を開く。雨の中と言え、カンパは2万7千円を超える。


静岡県に入ってから、すべての個所で、うたごえの仲間が歌で歓迎してくれる。松本さんは日本のうたごえの推薦で歩いており、静岡のうたごえの仲間が激励交流会を開いていただくとのことで、私と向(むかい)さんも参加させて頂いた。


もと国鉄労働者で、うたごえをやっていたという木野忠(静岡市平和委員会理事長)さんの姿もあり労働者として活動しながら、うたごえを皆でやり平和活動をやってきたことなど話しを聞き、時間はあっという間であった。

松本英治日記No.19

平和行進19日目。雨後晴後雨後曇り。


9時清水区役所で出発集会、今日もうたごえが響く、ギターで弾き語り、いい声。行進実行委員長の被爆者の川本さんの挨拶の後私も「毎日の行進、世界大会、NPT再検討会議を成功させ、オバマ発言を実行させましょう。非核神戸方式を世界に広げましょう!」。


市内を行進、今日も子供が一人先導してくれました。休憩時コープさんの接待。ありがたい!


草薙駅まで行進し、近くの老人の家で昼食休憩、お弁当に味噌汁付、ありがたい!お代わりも。


車移動でルーテル光教会へ、「なかま」の皆さん5人が歌って出迎え、セレモニーの後、出発、おくり出しも歌で!


静岡市内、繁華街を楽しくアピールしながら行進、本日は、日曜日で4コース同時進行、他のコ-スの県内通し行進のお姉さまたち、小林、高橋さんが合流!明るく賑やかに。


途中の休憩時、土砂降りの雨に!カッパを着て行進。雨も上がり、常盤公園で終結集会。ここでもうたごえでお出迎え。うたごえと、カンパ隊大活躍!本日のカンパ43163円。50年間の積みかせね成果です!ありがたい事です。


歩くという誰にでも出来る行為で核廃絶、と平和をアピ-ル素晴らしい活動です。こういうことの積み重ねが、被爆者の皆さんの命を掛けた遊説が、オバマ発言を!


行進後静岡のうたごえ、平和運動の皆さんとの交流会へ、飲みながらじっくりお話しました。宿の近くの「じねんじょ」屋さんで、飲みながらおしゃべり、子供のころ掘りに言ったことや、平和・核問題も話題に!被爆国の首相の態度が問題に!孫から写真入りのメールが「じいちゃんがんばれ!」と!ありがたい!疲れが吹っ飛びます!

矢部常次日記 第18日目

いつものように朝起きて、昨日の日誌をまとめる。どこを行進したのか、何を感動したか資料などを見てのまとめだから時間がかかる。早く寝て朝起きる毎日、日課になってきたので苦にならない。


今日は土曜日、6時半にメールを送り(18日目にして日誌に写真を文章に入れた、容量の関係で1日目は上手くいったが2日目から失敗。パソコンの取り扱い説明書などを見て研究する事もせずだから苦労)送信はOK、しかし心配、それで職場の仲間に電話し確認してもらい受信した内容を確認。彼からは、「良い写真だ」との回答、パソコンを立ち上げるまで職場のことなど話す。「会社の取締役から彼は今どこを歩いているのかと聞かれたので≪インターネットで平和行進2009で検索すれば≫と話した。その後、組合機関紙でも平和行進の内容を記事にして職場の皆に配布」、そして5年前に川崎よりここ今日、行進する由比に引っ越した望月さんのことで「先週、由比に行きみかんを沢山貰って来た。23日行進に参加すると言っていたよ・・・アーそうだ今日だ」など話した。


富士川駅で望月さんと会い固い握手。彼(先輩なのに)と5年ぶりなのに普段の様に話す。


由比本陣(東海道廣重美術館)で昼食、休みとあって観光客も多く「平和大行進だって、東京から広島と書いてあるよ」と横断幕を見て話す団体もあった。私は自転車でツーリングの50代のグループと話した。結構やっているらしく日焼けした顔、そしてなかなか良いサイクリング車だ、「来月は仲間で北海道を走る」など会話、私からは広島まで90日間歩くんですよと話すと「大変だなー、そんな長期で休めるなんてうらやましい」との返答。お互いの健闘を祝ってエールを送り別れた。


移動して清水駅、商店街のアーケード(川崎の銀流会のアーケードを思いだす)を歩き、次郎長通りへと進み、「この通りは、募金が集まり1万円をカンパしてくれた時もあったとのこと、それでカンパ隊をさらに増やす。民医連から参加の若い澤端真紀さん(後で名刺交換)も加わり総勢10人以上、わかやま市民生協から県内通し行進する向章好さん、これまでもカンパ隊で頑張っている彼が「良く走ったし反応が良く感動している時間がないくらいだった」と終わってから話す。本当にご苦労様でした。


午後だけの集計で、5万7163円とこれまでの最高の額だ。本日の終結集会は鉄舟寺、参加者全員で建造されている原爆慰霊碑にお祈りしてから集会。地元のうたごえのメンバーのギターと県内通し行進者の山崎さんのアコーディオンの演奏で「原爆許すまじ・青い空は」の2曲を合唱した。


昨日に続き午前・午後とも小学生が行進に参加。向さん「これまで行進に子供が加わることがなかったので感動する」と胸の内を話す。

松本英治日記No.18

平和行進18日目。快晴。


朝富士駅から富士川駅まで電車移動、9時から出発集会、今日も静岡のうたごえの仲間が!挨拶の後「青い空は」と「青い地球を」を歌って出発。ギター2台とアコ、ミニタンバリンで賑やかに歌いながら出発、旧東海道を一路西へ!宿場町蒲原を通り、由比本陣で昼食休憩。


朝、姫路の大上さんからメールで林学さんがお亡くなりになったと。先日お見舞いに行き名古屋で会いましょうと別れたとこでした。残念です。歌いやすい素敵な作品をたくさん創られ運動に貢献されました。詳しい日程をと!


由比では、広重美術館を見学。浮世絵の彫り、摺り。など詳しく見学、群青のグラデーションがたまりません。買って帰りたかったけど荷物になるので!


JR由比駅まで歩く、旬の桜海老が!清水駅まで電車移動、電車の中でもオバマ君人気者!


清水駅前のアーケードを通りアピール、子供が二人参加して先頭の横断幕を持って歩く。


次郎長通りは、カンパ隊のドル箱で、毎年多額の募金が、10人が2班に別れて軒並み訪問、鉄舟寺まで!本日の募金は、57163円でした。カンパ隊ご苦労様でした。鉄舟寺では、「なかま」の高木くん他が、歌って出迎え、握手を!原爆犠牲者の慰霊碑があり、お参りしました。


快晴で暑い一日でしたが楽しく歩けました。風邪も大分よくなりました。24日林さんのお通夜に行きたかったのですが、静岡のうたごえとの交流会が予定されており、断念しました。名古屋に着いたらお線香でも!安らかにお眠りください!民医連の看護士さんにうた新宣伝!宣伝紙なくなりました。

矢部常次日記 第17日目

毎日感動が多い、昨日のレポートで大切な事を書きこまなかった。


昨日の午後の行進(沼津市役所~市内~今沢基地)でカンパ隊活躍。 事前の宣伝・そして歴史が背景か。事前に配布した「平和のための募金」封筒が30数枚。他にも募金を家の前で待っていてくれるのだ。その一枚に「毎年毎年ごくろう様でございます 風邪にかかりません様に 皆様のお身御大切に。ごくろう様でございます。 沼津市小諏訪一老母より」の添え書きがあった。・・・感動・・・。


今日も感動したことが二つあった。ひとつは、香葉台公園から富士宮市内そして富士宮市役所の午前コースだ、募金が昨日の5万804円を超え5万2670円となった。午後の富士市内のコースでも2万4866円であった。


県内通し行進者の小林和江さん(県内行進5回のキャリア、伊東市平和委員会理事長)が言う。「すごいでしょう、多い時で7,8万円の募金が集まる時があるのよ、静岡県では、毎年募金の中から毎年同じ額を被爆者の会に送らせて頂き、あとは行進の宣伝カーのガソリン代とビラ作成の費用になり、3.1ビキニデーの実行委員会で管理しているのよ。」と日焼けした顔で話す。


静岡県は、いろいろな市民団体と統一しての行進であるから「原水爆禁止静岡県平和行進」の横断幕があり県内通し行進者と市民が先頭を歩く、しかし遠慮してなかなか自分から持ってくれる人はいない。カンパ隊だってベテランも中にはいるがそうではなく大変、小林さんは横断幕を持ち、カンパ隊を援助しているが、横断幕を他の人に頼んで、いつでもカンパ隊に加わりたいのをじっと我慢。


もうひとつは、富士市内である。学校帰りの小学生(市立第一小学校)の隊列にあった。アメリカ大統領のオバマ覆面にも興味をしめし「オバマだ・・・」と指をさす、そして行進に対して「何をやっているの...頑張れ...」と声をかける。広島まで歩くんだよと言うなり、すぐ返答「広島って遠いんだよ、何日もかかるし」と。行進しながらハンディータイプの太鼓をたたく松本さんの近くに寄って来た。


少しでも一緒に歩かないと声をかけたら、7人の小学生が行進に加わり、他の子供は商店街のの両サイドで応援。話しながら行進、終結場所に着くなり「さようなら...」と手を振りながら家路に帰っていった。


女の子が学校で飼育・観察しているのか、カメをケースに入れて持つ子、またヘビを2ヒキ瓶に入れ持っている姿があった。週末だから家で飼育・観察するのかと思ったが家では、大変では?

松本英治日記No.17

平和行進17日目。晴れ後小雨後曇り。


香葉台公園で9時出発集会。雨の予想を覆し、日差し。芝川町の野村町長の挨拶を受け、名刺交換。昨年は歩いていただいたそうですが、本日は公務のため、無理でしたが、挨拶に来て下さいました。


閑静な住宅街を行進。車移動で、JR富士宮駅南口平和の像広場で再出発集会、挨拶「非核神戸方式をアピール」しました。


10時半出発、富士宮市内を歌いながら行進、小沢喜和子さん今日も!明日から「悪魔の飽食」旭川公演に行かれるのに、池辺先生によろしく!と伝言!富士宮市役所で集会、市長代理の挨拶を受け、名刺交換!本日は曇天で富士山は顔を出さずでした、残念!駅前の平和の像の解説も、1984年非核都市宣言、平和のモニュメントの作成を市民に呼びかけ650万円のカンパで平和の像「はばたき」が造られました。


富士市へ引継ぎ集会後、富士宮市役所で昼食。車移動で吉原南公園へアンサンブル「ユニット」の歓迎演奏、公園にPA持ち込んで!うたごえの仲間たちも応援に、歌い交わしました、歩きながらも!富士市役所で、市長代理の挨拶を受け、名刺交換。市内をうたごえを響かせ行進しました。


途中富士市第一小学校の生徒が下校中9人が行進の横断幕を持ち参加してくれました。終結の富士平垣公園まで!子供たちと歩けたのが非常にうれしかった。広島まで歩いて行くと言うと驚いていました。


今日もカンパ隊大活躍でした。富士宮市でも、富士市でも、平和行進歓迎のポスターが張り巡らせれ、事前の準備万端でカンパも待っていただいています。毎年の積み重ねの成果を感じた行進でした。雨にも降られず!行進日和でした!

矢部常次日記 第16日目

御殿場国立青年の家を出発する、富士山を背に反対側には広大な土地にアメリカ基地・CAMP FUJI。


青年の家のとなりには、滝ヶ原駐屯地がある。9時20分出発なので、すでに青年の家では30人以上の青年が同じスポーツ服で行進していた、そしてCAMP FUJIゲートでは、私たち行進者に判らない様に写真を撮って監視していた。そこに2機の軍用ヘリが飛んできて基地に降りた。


昨日、宿泊先に向かう途中、東富士演習場にある基地(富士・滝ヶ原・駒門・板妻の各駐屯地)を見学して、平和委員会の方から説明をうける(富士山、お茶とみかんと伊豆の温泉の≪静岡≫が面積比全国第3位の「基地県」で東京の山手線がスポッと入る...)。


富士山を「世界文化遺産」へ登録しようとしているが、イラク戦争などに直結の訓練・陸上自衛隊と米海兵隊が砲弾を使い富士山を標的に撃っている。富士山は8合目以上は何処から見ても綺麗だが、裾野では自然破壊が進み、また富士山には無数の空洞(溶岩トンネル)が存在しているので砲弾訓練が行われれば、被害が重大...と話された。


御殿場市内そして沼津市内を行進して最後は今沢基地だ。昨日のレポートにも書いたが、事前の宣伝と歴史だろうか、行進そのものは70人から80人の参加だが、募金カンパ隊の動きは活発。


市町村からのペナントと賛同金を、今回行けない所は事前に貰ってきており、沿道のすべてに訴える。行進の関係で午前と午後に参加者も入れ代わる。これまで半日で最高1万9千円くらいだったのが、沼津市役所から今沢基地(これが基地?と思う砂浜・上陸作戦に使っており両サイドにフェンスはあるが誰でも入れる。急に深く・流れも速く遊泳禁止だ)までの間、まとめの集会で責任者のカンパの集計発表。「皆さん驚かないでください、4万9千××円」と言うと、少し離れた場所から、事務局の北川さん(県平和委員会、3・1ビキニデー事務局)が『もっと増えています、5万8百4円になっています』と大きな声で話す。


参加者全員「ウォー」の歓声と拍手。明日からの行動に励みになった。

松本英治日記No.16

平和行進16日目。晴れのち曇り。


国立青年の家9時集合、キャンプ富士の隣で出発集会、通し行進者2人と県内通し行進者4人が紹介され、一人ひとり挨拶、私は「昨日見た、東富士演習場といい、キャンプといい、米軍と、自衛隊が、のさばっているのが、腹立たしい。非核神戸方式を広げましょうと」立派な道が幾筋も、自衛隊の車両がほとんど!


9時20分、アコの伴奏で「青い地球を」を歌いながら出発。風邪が治りきらず、息が切れる。まだ無理です。ハンドマイクデビューは!少し歩いて、マイクロバスで御殿場市役所へ、休憩後、市内行進。永原セブンイレブンで昼食休憩。バスで沼津市役所へ。


昼休み、三島どんぐり合唱団の方と出発前の歌う会をやっていると、公安警察が、1時からの集会届けなので、マイクはだめといわれる。肉声でやりました。


副市長の挨拶を受け、市内行進、事前に平和行進の通過時間と平和のための募金袋が配布されていて、募金を持って待っていてくださる姿がよくみられる、封筒にメッセージも、「風邪をひかぬよう、頑張って歩いてください(沼津の一老婆より)」。本日昼からだけで、50804円の募金がよせられました。カンパ隊大活躍でした。


昼から今日も小沢喜和子さんが!歌いながらの行進です。休憩の片浜小学校で、歌集を買っていただき、歌う会を静岡のうたごえの仲間と!米軍今沢基地(千本松原を背に駿河湾に面した、93x271mの砂浜と県道(旧国1)に通ずる2本の進入路、合わせて、2・63ヘクタール(沼津海浜訓練場)さらに沖合いに4~5kmに向かって末広がりに広がる台形状の海面水域(沼津乗下船及び積込積下訓練場)1952年沖縄に司令部を置く在日米海兵隊に統括されるキャンプ富士演習場の管理下にあった。ベトナム戦争時よく使われた、今は、LCAC(エアークッション型揚陸艇)の演習場へ変容!日米共同訓練への足がかりにされ、現在自衛艦の揚陸訓練を行っているとの事!(LCACの出現により従来型上陸舟艇では、世界の海岸17%しか上陸作戦ができなかったが、LCACでは、80%になったといわれている)。


浜辺で学習をかねた終結集会。明日の出発地、富士宮市の宿に送っていただきました。行進にオバマ仮面登場、子供たちに人気です。相棒の通し行進者矢部さんが、持って行進中です。

松本英治日記No.16

平和行進16日目。晴れのち曇り。


国立青年の家9時集合、キャンプ富士の隣で出発集会、通し行進者2人と県内通し行進者4人が紹介され、一人ひとり挨拶、私は「昨日見た、東富士演習場といい、キャンプといい、米軍と、自衛隊が、のさばっているのが、腹立たしい。非核神戸方式を広げましょうと」立派な道が幾筋も、自衛隊の車両がほとんど!


9時20分、アコの伴奏で「青い地球を」を歌いながら出発。風邪が治りきらず、息が切れる。まだ無理です。ハンドマイクデビューは!少し歩いて、マイクロバスで御殿場市役所へ、休憩後、市内行進。永原セブンイレブンで昼食休憩。バスで沼津市役所へ。


昼休み、三島どんぐり合唱団の方と出発前の歌う会をやっていると、公安警察が、1時からの集会届けなので、マイクはだめといわれる。肉声でやりました。


副市長の挨拶を受け、市内行進、事前に平和行進の通過時間と平和のための募金袋が配布されていて、募金を持って待っていてくださる姿がよくみられる、封筒にメッセージも、「風邪をひかぬよう、頑張って歩いてください(沼津の一老婆より)」。本日昼からだけで、50804円の募金がよせられました。カンパ隊大活躍でした。


昼から今日も小沢喜和子さんが!歌いながらの行進です。休憩の片浜小学校で、歌集を買っていただき、歌う会を静岡のうたごえの仲間と!米軍今沢基地(千本松原を背に駿河湾に面した、93x271mの砂浜と県道(旧国1)に通ずる2本の進入路、合わせて、2・63ヘクタール(沼津海浜訓練場)さらに沖合いに4~5kmに向かって末広がりに広がる台形状の海面水域(沼津乗下船及び積込積下訓練場)1952年沖縄に司令部を置く在日米海兵隊に統括されるキャンプ富士演習場の管理下にあった。ベトナム戦争時よく使われた、今は、LCAC(エアークッション型揚陸艇)の演習場へ変容!日米共同訓練への足がかりにされ、現在自衛艦の揚陸訓練を行っているとの事!(LCACの出現により従来型上陸舟艇では、世界の海岸17%しか上陸作戦ができなかったが、LCACでは、80%になったといわれている)。


浜辺で学習をかねた終結集会。明日の出発地、富士宮市の宿に送っていただきました。行進にオバマ仮面登場、子供たちに人気です。相棒の通し行進者矢部さんが、持って行進中です。

矢部常次日記 第15日目

昨日静岡県に入り、宿泊先に移動して、県内通し行進者(小林さん、高橋さん、山崎さんそしてわかやま市民生活協同組合から参加した向さん)4人と全国通し行進者松本さんと私、事務局北川さんそして静岡県平和委員会理事長の埋田昇二さん(1980年代から今日まで、原水爆禁止世界大会や国民平和大行進のなかで歌われている「青い地球を」の作詞された方)で夕食後、静岡県の原水爆禁止平和行進の歴史と今回の平和行進実行委員会の内容と県内13日間のコース、そして県内網の目行進について学習と打ち合わせを行った。


協力共同した県内統一平和行進を追求し、いまはそれが実現でき定着している事、オバマアメリカ大統領のプラハ発言など熱が入り会話が進む。


三島市役所では、自冶体要請という形で時間をとって頂き、小池市長・足立副議長さんが原水爆禁止について熱く語り、歓迎と激励をうけた(市役所3階の大きな部屋に、行進参加者ほぼ全員が案内されての歓迎集会)。


三島市以外に住む行進者から「市長の原水爆禁止への取りくみ姿勢に感動した・ほかの市では、こんな市政は無いね・・・など」と声が聞かれた。


昼食は、おにぎり・とん汁そして野菜サラダを地元の婦人の方々に準備して頂き、行進参加者全員がおいしくいただき、私などは、おかわりしてとん汁を2杯美味しくいただいた。


静岡県に入って感じることは、昨日の行進に対する警察警備のやり方、ふたつ目には募金カンパ隊を行進参加者に呼びかけ沿道の家・店に軒並み入りカンパを訴える行動。


通し行進の高橋さん(伊東市から参加の新日本婦人の会で初めて平和行進参加)が、入った家でビラを渡したら、奥の部屋に行き貯めていたお金を持ってくるなりカンパ袋にジャラジャラといれてくれ「袋が重く感動して涙が出た」と隊列に戻るなり語り、それを聞き感動。

松本英治日記No.15

平和行進15日目。快晴。


出発集会で挨拶「非核神戸方式を中心に」。9時45分出発。三島市役所で市長の歓迎集会を会議室で。初めての経験、素敵な市長さんの挨拶を受ける。モニュメント作成計画中とのこと!


沿道でのカンパが凄い、待っていただいています。カンパ隊大活躍!常時富士山がお出迎え!快晴で暑いが、快適!静岡のうたごえの小沢喜和子さんがずっと歌って励ましてくれました。素晴らしい!県内通し行進の方がアコを引きながら応援!神奈川県は、常時警察が、20人程ついて、交通整理をしてくれましたが、静岡県は、なし!公安警察が3人ついているが、行進団への注意のみで、何にもしません。交通整理も独自で!三島市役所で昼食、手づくりのおにぎりと、味噌汁野菜サラダに漬物、ありがたい!


1時間の休憩で1時半出発、富士山にむかって歩く、先頭は、静岡県実行委員会の横断幕、次に私たちの国民平和行進の横断幕を持ち、パーランクで歌のリズムを取りながら行進です。裾野市役所に3時半到着終結集会。明日出発の御殿場へ。


途中、東富士演習場を見学、広大な敷地、まさしく「富士を撃つ」着弾点の近くにも行く!自衛隊と米軍海兵隊が使用しています。国民の血税で買った、特殊車両が、幌をかぶり、ごろごろ置いてあり、訓練中か、銃声も!異様な世界でした。迷惑料して、予算が下りてるとの事、地元自治体に豪華な施設や、防弾予算も!家の改築、新築時に出るそうです、鉛板を天井に入れるそうです。富士山の溶岩を拾う。コレクションに!(松代大本営の石、筑豊・夕張の石炭)

松本英治日記No.14

平和行進14日目、曇天。


湯河原の温泉13日間の疲れを癒し、今日の出発地湯河原観光会館へ。本日静岡に引継ぎのため、通し行進旗とリレーリュックの点検。東京の大熊君が早々と到着。神奈川のうたごえ石倉さん他で歌いながら出発集会を待つ。


集会後10時出発、温泉街を歌いながら行進し湯河原駅へ。松平さんが菅裕紀(ゆき)さんという女性を連れてトランペツト2本で登場、励まされます。


行進で歌い、休憩で歌う。冨田湯河原町長の挨拶を受け、お礼に名刺交換!引継ぎの前で、湯河原名物の弁当をいただく、おいしかった~!4歳の女の子とお母さんが一緒に歩く。孫を思い出す。地元姫路はインフルエンザで大変らしい。


千歳橋川端公園で静岡の皆さんの出迎え、アコ5台の伴奏と歌で盛大に、を受け到着。引継ぎ集会、挨拶の後、通し行進横断幕とともに静岡県側に、神奈川の皆さん13日間ありがとうございました、いろいろ学ばせていただきました。静岡の皆さん13日間よろしくお願いいたします。


これまで一緒に歩いてきた神奈川の皆さんのお見送りを受け1時20分出発、少し歩きバスで、熱海市内へ、市内行進、熱海駅で休憩、繁華街を歌いながら行進。大熊君のギターの伴奏で!参加者も一緒に!熱海海浜公園で終結集会。


熱海の温泉宿で、疲れを癒す、静岡の行進運営委員長の埋田昇二さん(「青い地球を」の作詞者)の静岡の平和行進の歴史を学ぶ、「静岡の心」原水禁運動分裂を乗りこえて、のお話に感激!明日からの行進が楽しみ!

五十嵐成臣日記 5月16日~18日

5月16日 朝、江別より札幌の野幌百年記念塔より札幌市内の平和行進が始まった。この日、行進は市内4ヶ所より中島公園に向けて行われ、幹線コースは豊平川・札幌駅前通・すすきのを通り、途中他のコースと合流しながら中島公園へ。のべ500人以上が参加したとのこと。北海道に来て最大の平和行進となった。
 

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5月17日 北海道原水協の総会に出席。


5月18日 札幌市長、議会議長を表敬訪問。午後、全国で唯一、被爆者が管理、運営をしている原爆資料館「北海道ノーモアヒバクシャ会館」を訪問した。ここは北海道の小中高の児童生徒、大学のサークルなどの人たちが平和教育の一環としてよく訪れるとのこと。また、ここの会員の人たちは語り部として学校訪問をされているということだった。


この会館は、札幌駅より千歳線で十数分の「平和」駅で下車すると、目前です。このような資料館は、広島や長崎などで公的施設としてあるが、民間の、しかも被爆者自身が作っているのは大変なこと。二度と被爆者を作らないでという思いを感じた。

松本英治日記No.13

平和行進13日目。快晴。


9時秦野市役所出発集会、昨日と打って変わり快晴、行進後初めて富士山がお出迎え!


古谷市長の挨拶、市役所正面の市民憲章とオバマ発言を引用した素晴らしい挨拶、市民憲章の傍に広島の火も設置との事!


お礼に通し行進者として、名詞を交換しました。私も挨拶、「快晴の富士山に迎えられ、オバマ発言を実現させるため、元気に行進しましょう。」


今日も、被爆者の皆さんが先導されました。秦野市内をパーランクを打ちながら元気に行進、前を歩かれる被爆者の皆さんから太鼓が耳につき疲れると、中止しました。


コープかながわ渋沢店真で行進、接待を受け、真鶴町民センターへ車移動、駅前の大衆割烹で昼食、美味しい海の幸を!


真鶴町長代理の挨拶を受け、町内行進、Aコースと久しぶりに合流し、坂道の町内を行進、鄙びた漁港です。真鶴駅まで、1時間の行進。3時半に終結集会。


暑い一日でした。宿泊地の湯河原に移動。明日神奈川県13日間の最後、温泉でお別れパーティを、感想を述べ合い、私は「基地の多さ、被爆者の先導、土建とコープさんの参加の多さ、各首長の真摯な挨拶に、長年の運動の広がりを感じました」。宴会の最後にお礼に播磨の民謡「木場の船唄」を披露しました。


宴会後神奈川の労働運動、平和運動の貴重な歴史的お話を聞きました。労働運動と平和運動が一体になり、進められています。今年も神奈川のJMIUから二人の通し行進者が!(東京~広島、矢部さん。と北海道~東京、五十嵐さん)


明日の昼静岡県に引き継がれます。うたごえ新聞一人読者に!(富山~広島コースの通し行進者、栖原さん8月から)

矢部常次日記 第12日目

今日の行進は、4コースで前日の準備が大変。宣伝カーの手配から行進に使うプラカードやリレー行進の横断幕など仕分けを携帯電話で連絡を取りながらチェックする。実行委員の会話を聞くとまさしく口論しているようだ(行進参加者に不自由なく行進を成功させる為の口論、熱意が伝わる)。

 

朝インターネットで、すべてのコースの天気予報を調べた。私は参加しないがコースの一つに箱根マラソン(復路)の元箱根から出発して旧箱根街道から湯本駅を行進するコースがあるからだ。 雨が降れば、道路は川のようになるからだ(参加者は元気で歩くだろーとエールを送る)。

 

昼食休憩の大礒町役場に到着して、三好町長の歓迎と激励の挨拶では少し日がさし「行進日和・・・」と受け、このままだと一日雨は降らないかなーと期待。 しかし昼食終り、行進スタートの頃からポツポツ雨が落ちてきた、1時間半くらい歩いた国道一号線では本降りの雨、そして海岸と並行しているので雨風で横断幕・旗を持っての行進参加者は苦労。

 

今日の最終到着地の二宮町役場では、坂本町長の計らいで歓迎とまとめ集会は役場内のフロアーに100人くらいの参加者全員が濡れた合羽姿などなのに入れていただき始まった。

 

二宮町は、1945年(64年前)広島に原爆が落とされた1日前8月5日に、ここ(国鉄)ニ宮駅周辺で艦載機・B51の機銃掃射を受け、幾人かの尊い命が奪われた。目の前で父を失った12歳の少女が、その悲しみを乗り越えてけなげに生き抜く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」の像(昭和56年8月5日に町と住民の力で建てる)が駅南口にある。

 

映画にもなり「わずか12のわたしには 友の情が身に沁みる 天に召されたお父さん 守って下さいこの形見 ガラスのうさぎ 抱きしめる」と3番まである歌がある(ガラス工場で働くお父さんへの思い)。

 

建造から10年後から町をあげて墓参集会を続けている。 私たち行進者は、行進のまとめ集会終りに、1番:地元の方、2番:町長、3番:議会議長のリードで「ガラスのうさぎ」を合唱した。

 

また、JMIU労働組合中央執行委員の西さんが組合の用で近くまで来ていたので回り道して、二宮駅で出迎えてくれました(事前に連絡あったにせよ嬉しく、西さんはJMIU団体リレー旗・参加者の日誌をチェックしてくれました。・・・私は、特別扱いでJMIUのリレー旗だけを面倒見れないので)。 解散後、宿泊先まで宣伝カーで移動(今日で運転終わりになる、高松さんに激励を受け握手。そして車のキーを預かり明日に備える)。

松本英治日記No.12

平和行進12日目。5月17日(日)曇天後雨。


厚木さつき公園9時半集合。10時からコープさんの企画で出発集会、日曜日でもあり、若者の参加も。集会の前にアンサンブル「しじま」の演奏「青い空は」と「ねがい」素敵!市長さんのメッセージを受け、被爆者の挨拶、私も挨拶しました。「米軍に帰ってもらい、非核の神奈川県に、そのためにも元気に歩きましょう。」


10時半出発。先導の行進実行委員長は新婦人の若きお母さん。2人のお子さんも一緒に行進。今日も被爆者の皆さんが先導されました。厚木市内の繁華街を行進、次の公園でプラカードのコンテストと、アンサンブル「しじま」の演奏、「私が愛した街」の後「青い空は」「ねがい」を2曲は全員で一緒に歌う。うたごえ新聞(私の記事)を渡す。楽しく工夫された企画。ピ-スコールも優しい。本日はなんと4コース同時開催、実質は5コース。


電車移動で3コース合流、伊勢原市民会館会議室で出発集会。ここも、素敵な企画、昼食後1時に会の挨拶、市長さんの挨拶、被爆者の証言、新婦人の「おこりじぞう」の朗読、涙が!私の挨拶「オバマ発言を実行あるものに、毎日の行進と、世界大会とNPT会議を実らせ、被爆者の皆さんの生きていらっしゃる間に実現を!雨が降り始めましたが元気に行進しましょう。みなさんの思いを、広島、長崎に届けます」、年金者合唱団の皆さんと、「芭蕉布」「青い空は」「ふるさと」を一緒に全員で歌い2時15分出発しました。うた新の宣伝紙渡す。カンパをいただきました。鶴巻駅まで雨の中の行進となりました。4時半到着。明日の出発の秦野市の宿へ!

矢部常次日記 第11日目

今日は、1市4町(大井町・山北町・松田町・開成町そして南足柄市)をパレードする。これまではAコースを歩いて来たのだが、今日はBコースに変わった。


神奈川は広く、すべての市町村を歩くことは大変であり、ましてやハイキング・山歩きをあまりしてこなかった私にとって、名前は聞いたことがあったにせよ初めて通る町内である。


南足柄市は神奈川で有名な、「マサカリかついだ金太郎・・・」の足柄山のふるさとであり、若いころ来たことがあるが、あとの町は車で通ったかも知れないが東名高速が通る田園がある山あいの町だ。


昔は林業と田畑で生計を立てていたのだろうが、マイホームを求めて移り住んだ人も多く道路事情もよく休耕地も目立つ。


ただ一つ、山北町は記憶にあった、郵政民営化で郵便局がなくなり町内の手紙・郵便物は他の町に集められてから配達されるので2、3日遅くなったと聞いていたからである。このような事は全国に多数あり、そして市町村合併で住民サービスが低下していると思う(政府はどう思っているのか・・・大企業優先の政治は断ち切る必要があり、また平和・基地問題でもアメリカ優先では困る)。


政府・財界の陰謀はあるが、政治家を選ぶのは国民なのだからと、この平和大行進に力が入る。


行進には、その町々で参加してくるので行進人数は入れ代わり、そう多くない人数のパレードである。


すべての市役所・町役場に実行委員会が事前に申し入れをしての平和大行進であるから、対応は様々だが、今日の1市4町で「今年は参加者が少し少ないですね」と言われる場面もあった。(昨年は、51回目の50周年ということもあり力を発揮したが、今回は土曜日であり町内の行事・学校の運動会など重なり少ないと聞くが、問題は年々参加者が高齢になり若い人が少ないことである)。ここ一番、前向きにもの事をみんなで考え取り組もう・・・。


今日、おもしろい行進をした。中央実行委員会の安井さんから頂いた「オバマ・アメリカ大統領の覆面」を被ったり、私の顔近くで持ち上げての行進。覆面はそう長くは被れないがおもしろい・・・。沿道・車・バスですれちがう人などが関心を持つ、子どもたちは当然だが、若い男女とも関心を示し手を振ってくれる。移動のときなどは話しかけてくる中学生・高校生、お母さんと一緒の小学生女の子に、私から声をかけてみたら「オバマさんだよ」と答えが返ってきた。また松田町役場では、歓迎と激励をくれた。町長さんが「その覆面を、役場の入口正面に展示するから、貰いたい」と集会前の雑談で、参加者全員いとなった。

松本英治日記No.11

平和行進11日目。曇天、行進日和。


9時藤沢市役所集合、昨夜交流した藤沢合唱団の皆さんも。市長(代理)被爆者の挨拶を受け、本日も2コースで私も挨拶「米軍基地があるため、忌まわしい被害が後を絶ちません、非核神戸方式を、神奈川にも!米軍に帰ってもらいましょう。オバマ発言を、被爆者の皆さんが生きておられる間に実現させましょう」と!


出発まで時間があり、初めてうたごえデビュー。私のリードで「青い空は」を全員で歌い、9時半出発、本日も原爆被災者の会のタスキをかけ先導されます。


繁華街行進後、国道1号線へ、昔の東海道です。松並木の中を歩きます。休憩はコープさんの接待が。飲み物、お菓子、飴、ありがたい!


茅ヶ崎市役所で昼食、近くの安くて美味しい中華料理を。茅ヶ崎市長代理と被爆者の挨拶を受け出発、歓迎の挨拶をされる、首長さんに行進実行委員会の通し行進者の名詞を渡しお礼を。行進で知り合えた方には、個人の名詞を、肩書きだらけの上に2009年国民平和大行進(東京~広島)通し行進者と書いた名刺を200枚新調しました。


東海道を西へ、宣伝カーの歌に合わせて、パーランクを打ちながら!茅ヶ崎と平塚の境の長い馬入橋でハンドマイク担いで先導されていた、神奈川県原水協の事務局をされている、森田弘子さんにうながされ、ハンドマイクデビューしました。「青い空は」を歌いながら歩き、喜んでいただきました。「そろそろ本領発揮しなくては!」元気に平塚市にはいりました。


平塚市役所で本日の行進終了、流れ解散しました。明日は4コースのため、私の出発地、本厚木まで送っていただきました。体調回復しつつあります。

松本英治日記No.10

平和行進10日目、5月15日(金)快晴、風強し。


9時、葉山町役場で出発集会。町長さんの素晴らしい挨拶をうける。毎年中学生に非核平和標語コンクールを開き入選作を庁舎に掲示。「葉山から 非核のバトン 世界へ」素敵な取り組み。


町長さん先頭に、被爆者の皆さんが先導!逗子市へ、米軍池子基地ゲート前で抗議のシュプレヒコール。緑豊かな池子の森を破壊し、米軍住宅700戸建設、さらに、横浜市側にも、750戸建設予定、国民の税金(思いやり予算)で!逗子市役所で市長の挨拶を受ける、米軍住宅建設に反対、庁舎に垂れ幕も!


電車移動で鎌倉へ。市内行進、鶴岡八幡周辺は小中学生で一杯、手を振りアピール。市役所で、市長の挨拶を受け、コープさんの飲み物接待。長崎被爆者の証言を聞く。


繁華街を行進後、電車移動で大船へ、大船観音で終結集会。巨大な観音様の前で、原爆犠牲者慰霊碑、平和祈念塔、原爆の火の塔、折り鶴飾り台があります。


今日も松平さんのトランペットが響く観音様の前でグノーの「アベ・マリア」感動!被爆者の証言を聞き、最後にうたごえメンバーと、「原爆を許すまじ」1・4番を参加者全員で歌う、トランペットの伴奏で、4番私にマイクが。風があり歩きよい行進でした。


風邪が治りきらず、咳が出てしんどい!うたごえデビューお預け!行進後、藤沢合唱団と交流しました。憲法守る集会に池辺先生で盛り上がる。

矢部常次日記 第10日目

大きなキャリー付きバック(海外に行くような)を持って移動し、行進中は宣伝カーに乗せてもらうが、宿泊の手続きの時は「通し行進者」のタスキをして、あらかじめ予約してあるホテルにチックインする。ホテルの人や宿泊客からは、「何をなさっているのですか」と話しかけてくれる。8月6日に向け広島に90日間毎日歩いているんです、東京・夢の島から二人で、しかし毎日多くの人が歩くんです、また高齢になった被爆者の方も毎日多く参加します・・・と話すと、ビックリした顔で立ち話が進む。


私は、話すことは好きだし多くの人に会えることも楽しみだ。相手は「ごめんなさい、疲れておられるのに長くなって、頑張ってください」と話は終わり部屋に入る。


部屋に入って思うことは、話した相手は「平和のこと・原水爆禁止の私たちの取組み」をどう思い・賛同して貰えたかなと自分に問いかける。


朝の葉山町役場での出発集会では、町長さんが参加、通し行進者の松本さんと二人で、町長さんに挨拶し名刺を渡そうすると、「ごめんなさい、まだ集会まで時間があるから名刺を取ってきますから」と、わざわざ私たちのために町役場に入って行かれ、戻ってくるなり深々と頭を下げて名刺を渡して下さった。心の名刺を受取り、町民は素晴らしい町長さんを選んでいるなー・・・それだけではない、平和に対する心のこもった挨拶と激励と公用があるのに、時間ぎりぎりまで平和行進の先頭に立って歩いていただいた(葉山町の皆さん・森英二町長さん有難うございます。・・・元気を貰きました)。


鎌倉のパレードでは、八幡宮二の鳥居・三の鳥居そして北の踏切・鎌倉市役所と歩く、沿道は修学旅行の中学生・小学生、観光客が多く手を振って「頑張れ」の声も多く聞けた。また、外国人も関心を持ってくれ、見るなりカメラを向ける。


鎌倉市役所では、市からのメッセージを受け、パレードの雰囲気から一変して被爆者の生々しい被爆証言を聞き涙ぐんだ。


今日は2回の移動(私たちは車での移動だが)、最後は大船観音原爆慰霊碑(原爆の火・広島長崎の被爆した石を建立した碑がある)での懇談会集会である。現地の都合で一段上の大船観音の前での集まりとなった。都合をつけ駆けつけてくれたトランペッターの松平さんが(これで平和行進に6回目、静岡への引き継ぎの時も来ます、また念願の大船観音さん前での演奏といい2曲吹く。


その後、被爆者であり県内通し行進者の塩瀬さんの被爆証言を聞き、うたごえの仲間と全国通し行進者・松本さんのリードで参加者全員で「原爆を許すまじ」を歌った。

矢部常次日記 第9日目

今日の天気予報を見ると、神奈川県内は最高気温が24度と昨日よりも2度ばかり低い(まさしく平和行進日和、私たち参加者は、気持ち良い1日になる。とくに御高齢の被爆者の方にとっては歩きやすい)。


三浦半島の先端の海岸近くの民宿「でぐち荘」に宿泊、私は3年前に泊まったので2回目、おばさんが『御苦労さま、今年は川崎の箕輪さんは来られていないのですか毎年手紙をくれるんですよ』と話す。


行進者・実行委員の永沢さん・森田さんそして宣伝カーを運転してもらう高松さん総勢8名の泊まりで民宿の人とは、家族同様話がはずむ。出発のとき民宿のパンフをもらい挨拶し民宿をあとにした。


三浦市と言えば、アメリカの水爆実験でビキニ環礁の被害を受けた市である。焼津の第五福竜丸(現在は、東京夢の島に展示されている)は、知る人は多いが、100隻の漁船が被害を受け、被曝したマグロが大量に埋められ処分された土地なのだ。今は埋められた場所に分譲マンションが建っている。


地元の人は、被害の悲惨さから口にしなかったためマンション住民は知る余地もない。


行進して感じることだが、繁華街の都市は人が多いが小さな市・町では不況のせいか人通りが少なくシャッターが閉まり張り紙が貼ってある店、町工場から旋盤など機械を運び出す姿が目に入る(地元の人に聞けば、廃業した店・倒産・廃業した工場だと云い、同業者だと辛いものがあると話す)。


三浦から移動して横須賀市内の平和行進。昨年9月25日に強制配備された2つの原子炉をもつ原子力空母ジョージ・ワシントンが母港としている所だ。ましてや、今年1月から4ヵ月かけて約束違反の修理を米本国から専門技術者550人を連れてきて、日本の住友重機の労働者も含め7万人が従事する大修理。空母の横に台船を横付けし、その上に特別工場をつくり立ち入り禁止区域を設け軍需機密のもとに行った。

第1次冷却水の交換、原子炉をおおうフィルターの交換、原子炉部品の交換をおこなうとされており、交換するものは原子炉で直接放射能をあび、放射能汚染されたものばかり。そのうえこのメンテナンスは、2年に1度おこなわれるといいます。


首都圏住民3300万人がいる東京湾の入口・横須賀で、ほんとうに怖しい。私たち行進団は、基地前でアメリカ軍のこれまでの被害者に1分間の黙祷と怒りをこめ1分間の無言の抗議を行った。


あまり汗をかかず、風が強かったので日蔭では肌寒い1日で参加者の顔色もいい、ご苦労様でした。

松本英治日記No.9

平和行進9日目。快晴後小雨後晴れ。


9時半三浦市役所にて副市長の挨拶を受け出発。小さな漁港だが、ビキニ事件で被害をこうむり、核廃絶の関心が高く、行進団に声援が!京浜急行三崎口まで歩き、電車移動で北久里浜駅へ、駅前の食堂で昼食、本場のまぐろのづけ丼を食べる、流石に美味い!


1時半根岸公園出発、横須賀の繁華街を行進、昨年9月配備された、米原子力空母ジョージ・ワシントンの抗議のアナウンスが響く、市民の7割の反対を市長が裏切り配備が決定、約束違反の原子炉の修理までしていた事が判明。


市役所前の公園で休憩、6月の市長選の候補者、呉東弁護士の挨拶を受け、名詞を交換、「是非勝って非核の港に」と!米軍ゲート前で抗議行動、英文の横断幕を掲げ、米兵の事件の被害者への黙祷と、無言の抗議行動を展開しました。


横須賀には、11隻の米軍艦が配備され、母港化されています。本日も港に原潜1隻と軍艦3隻が停泊していました。終結集会の挨拶で、「非核の港神戸から来ました。米軍に帰ってもらい、横浜も横須賀も非核の港にしましょう。」と!本日の泊まりは逗子!

矢部常次日記 第8日目

朝、宿泊の上大岡駅前のウィリング横浜のホテルから外を見ると、傘をさして通勤する人が見える。今日は雨になるのかと思ったが、チェックアウトの時はすでに雨は降っておらず行進日和。


「おはようございます、平和大行進です」と沿道に呼びかけるが声がかすれて出ない。体調は良いのにと、水を飲む。


神奈川県内は広く、すべての市町村を行進するのでコースも多い。川崎では、今年初めて一部2カ所コース出発そして合流、5日目から8日目まではA,Bコースになり実行委員会も大変である。


12日目(17日:日曜日)はA~Dコースとなり、もっとと大変である。実行委員会は、まず72時間前までにデモ行進の届出を各管轄の警察に出す必要がある。52回も平和行進を重ねているから、最近ではもし届出が出していなければ連絡が実行委員会にくるまでになっていると聞きました。これだけではなく私たち通し行進者の宿泊先の手配など・・・。


行進当日は、会議を重ね地元の実行委員会の人と分担して毎日のニュースの発行・リレー旗の仕分け、そして積み込み積み下ろしなど、やることは沢山あり私たち通し行進者も手伝うが要領がつかめないと足でまといになる。私は、3年前に県内通し行進をやったので少しは役に立つと感じる。


せめて、行進にリレー旗を出している団体は、行進参加者に徹底して集合時間より早く来て準備を手伝うことや、たまには団体の責任者が参加して援助してほしいと感じる。


しかし参加してくる人たちは気持ち良い、それは「何かお願いすれば」気持ち良く手伝ってくれる、今日は行進中に沿道で配布する宣伝ビラを短時間に折ってもらった。


県内通し行進者が中心で配布し、話しかければ反応もいい、地元の方がいっしよに署名をもらって歩き、ふだん、話しかけない所にも顔を出して20名の署名を頂いた事を聞いて、さすがだと反応のよさを感じる。1日のまとめの集会では、平和歌集「青い空は」を皆で歌い核兵器廃絶の実現を誓った。

五十嵐成臣日記 5月7日~13日

残雪の白く輝く利尻富士を見ながら礼文島を出発してから今日で1週間。礼文島に渡る時は風が強くかなりフェリーもゆれましたが、帰りは静かな時間の旅でした。


稚内では市民センターで出発集会後、南稚内駅まで行進、日本最北端の町だからか風が強く、のぼりを持つのも大変そう。


次の町名寄へはJRで移動、南稚内を出てすぐエゾシカ、十数頭が線路上を移動中。列車もスピードを下げて走るが、しばらくエゾシカが線路の外へ出るまで減速運転、車窓から外を見ていると湿地に水芭蕉が群生している、さすが北海道。


列車に3時間乗り、名寄へ到着、夕方6時より、出迎え集会の行われたのは、名寄開拓時代に建てられたキリスト教会、名寄市の文化財になっているとか。集会后、暮れなずむ名寄市内を行進。


3日目は、日程の関係もあって、自治体訪問が5ヶ所。北海道は広いので移動も車となった。自治体訪問を終えて、士別町に戻りここも暮れなずむ市内を行進。名寄と同じだが、人口が少なくなったとは言え20人近くが参加。香港から里帰り中の4才の女の子から「がんばって」と激励をもらいその日のうちに旭川へ。


翌日は朝10時より平和行進、出発地は自衛隊駐屯地の前の運動公園を行進。戦車が通っても大丈夫と言われている「あけぼの橋」を通り旭川市役所へ。参加者は医労連の若い人も多く、100人を超える参加となった。その後「買い物通り」で核兵器廃絶の署名活動に参加した。


10日深川市に入る。関東の水田に比べ3~5倍と広い。機械化した農業で収益もいいと思ったが、土地改良や機械購入のため借金その上減反で大変との事。


11日深川市役所、妹背牛町を訪問し滝川市に入る夕方の平和行進となったが初の甫での行進となった。


これまで通った各市町は農業の後継者も少なく、深川市などではハローワークの職員などは縮小、配転で組合員もいなくなって行進参加者も少なくなっているとの事。そういう中で年金者組合や新婦人の皆さんが頑張っていた。


13日奈井江町に入った所で高教組OBの原水協の方よりTELで、奈井江商高の2年生が修学旅行で11月に広島へ行くので、平和教育の一環で授業の中で平和行進について話してもらえないかとの話があり、30分でしたが平和行進に私が参加した事などについて先生の問に答える形で話しました(奈井江の先生方の平和への思いに頭が下がる思いで旧炭鉱の町美幌に入り、行進と交流会をして13日はおわりました)。

松本英治日記No.8

本日8日目の行進です。曇天、小雨後晴れ。


横浜市営地下鉄立場駅9時半集合、今日も2コースのため出発集会で挨拶、「米軍基地があるがゆえにの事件が絶えず、自主独立の日本にしましょう」と!10時出発。


米軍深谷通信基地を通過、広大な土地に巨大な鉄塔が、元日本軍の通信施設を接収。巨大な円形の基地です。今は使われておらず返還を要求しています。使用時は電波障害が起こったそうです。


うたごえの仲間がアナウンサーで歌も歌いました。ハンドマイクデビューはまだですが。


コープかながわハーモス深谷で昼食。午前中3キロの行進。


1時出発、閑静な住宅街や小雀公園で休憩、コープさんからお茶の接待を!4時過ぎJR本郷台駅到着。平日のせいか女性の参加が多い。午後7キロのゆっくりした行進でした。


2コース合流し、三浦半島先端の三崎へ、民宿でぐち荘で海の幸とまぐろの兜焼きをいただく。3・1ビキニの水爆実険で焼津より、被害が大きかったのが三崎です、被爆マグロを埋めた谷あいに今では、マンションが建っていました。

矢部常次日記 第7日目

今日は、神奈川県庁・市役所と神奈川の中心を歩く、そして大きなアーケード二つを行進。


どんな顔で市民は、私たちの平和行進を迎えてくれるのだろーと期待も大きい。


昨日は、神奈川県内を通し行進する、わかやま市民生活協同組合の岡村愛一郎さんと何故、平和行進に参加したのか・現役で働きながら90日間の休暇を取ることが出来たのか・お互いの仕事などを話した。


岡村さんいわく、平和行進で沿道の人は「良く話しかけてくれ、手を振ってくれ気持ちいいですね」と話してくれ、私も「そうだなー」と思い、行進に参加した気持を共有できた。


横浜市長・県知事のメッセージは、代読にせよ横浜市都市経営局国際政策室・国際政策課担当課長山本治氏そして神奈川県県民部国際課課長川口真友美氏と対応もすごい。


これもひとえに、52回目平和行進をやってきた成果であり、これまで運動を進めてこられた方々に感謝と敬意を述べたい。


アメリカのオバマ大統領のプラハでの発言の効果かもと私は思うが「大いに歓迎はするが、発言だけにせずに、実行する手立てを早急にとって欲しい」と感じる行進。


実行させる一つとして、多くの人に呼びかけ平和行進を成功させる事だと 声も大きくなる。


繁華街の声援も多く、お辞儀して行進を見守る方や高校生・子供たちが手を振ってくれる。なかには行進に文句を言う人もいるけど。


もう一つは、沿道の人から行進中に3000円のカンパを直接いただき感激。

松本英治日記No.7

行進7日目。曇天の行進日和!


神奈川区役所9時半出発。区長の挨拶を受け、米軍ノースドックへ、日本軍が造り一回も使わず接収された施設、手前の村雨橋はベトナム戦争で戦車の輸送を阻止した場所、「戦争は通さない、戦車は送れない」当時参加した、神奈川合唱団の菅野さんに説明を聞く。


横浜のメイン「みなとみらい」を行進中、三菱造船所の話も!近代化とエキゾチックのいりまじった港町、非核神戸を思い出す。市役所で挨拶を受け県庁で昼食。


県知事(民主党)代理の挨拶は、オバマ発言を引用した画期的な内容でした。本日も被爆者の皆さんが先導されました、盲人の方々も行進されました。今日も松平さんのトランペツトが激励に!神奈川のうたごえの皆さんも。2コースが昼から合流し250名の隊列に!私が歩く事でうたごえの仲間がいつも横断幕を持ち、パーランクー(エイサー用の太鼓)を叩きながらの行進です。まだ、風邪が完治せず、うたごえデビューはもうしばらくお預けです。もうしばらくの猶予を!

浅田健司日誌(5月11日)

高松市役所前で開催した出発集会には60人余が参加。市代表や原爆被害者の会、全商連代表などの挨拶を受け、真夏を思わせる快晴の中、元気に出発した。

出発集会には、山陽新聞の記者や瀬戸内放送、山陽放送などの姿も見えた。

また、一昨年、北海道-東京コースに参加した時、関東方面を一緒に歩いた千葉の県内行進者の野口さんも、今年は香川・愛媛を通し行進される。

矢部常次日記 第6日目

平和行進も6日目となった。3年前の(東京~神奈川県内を行進した時)時と違い足も痛くならず、気持ちも晴れやか。


海老名市役所での出発集会で「90日間歩き続け、平和を訴えること・そして現役の労働者であり、行進期間・広島原水爆禁止世界大会・長崎の本大会に出て8月15日まで休暇をとり8月16日から会社に出勤します」と決意をこめ挨拶。(そんなに長期で休暇を取れるのか?・・・会社の許可は・職場での応援してくれているのか・・・)との声「会社も職場の仲間も気持ち良く送り出してくれたから、歩けるのです。組合の仲間をはじめ、会社・職場や多くの人に感謝しています」と追加して述べました。


綾瀬市役所では、市長さんは出張の為出られなかったが副市長さんが歓迎と激励のメッセージを、そして市議会議長・10名の市会議員さんの歓迎を受け「市の非核・平和の取組のすごさに」感動を受けた。


また、被爆者の会で活動されている、被爆者の方の「悲惨な被爆体験」を気持を抑えて話され聞きながら私は、涙が出てしまった。


厚木基地では、行進が通ることを知ってか、アメリカ軍のポリスが何台かの車に分乗して、最初から通過する最後まで警備をし我々の行進を見ていた。もう一つは、戦闘機の発着前準備でのエンジンテストでこれまでに聞いたことのないすごい騒音にびっくりした(これでは、基地周辺の皆さんの苦しさを感じた。私は仕事で自衛隊基地にも行く事があり、また基地返還の行動に参加した事もあったが、こんなにひどいとはと思った)。


上瀬谷基地(通信基地)は、現在アメリカ軍は一人もおらず遊休地になっており住民の返還要求に対して、日本政府は、「アメリカから使用していない・返還すると言っていない」からと数年、何も手だてを取っていないとの事の報告。政府に怒り。


実行委員会発表では、神奈川県内13日間で一番長い距離の行進、のべ400名が参加、A,Bコースあるから、Bコースを含めれば200名ふえるのでは。

松本英治日記No.6

行進6日目。本日は、曇天で行進日和!


港北区役所で9時から出発集会、本日も2コースのため、挨拶ありました。「米軍が居るために、忌まわしい事故がおこります、自主独立の日本に!」パーランクを打ちながら行進、平和の歌のテープに合わせて!


コープかながわ末吉店で昼食、安く美味しいお弁当。14歳で満蒙義勇軍におられ、抑留された成田さんの紙芝居を見ました、平和の大切さ切々と!豊岡の出身でした。東京大空襲の体験談も。
神奈川では、原水協、コープかながわ、被爆者の会の3団体で平和行進懇談会を作り準備されています。


鶴見区内を行進し、コープの若いおかあさんや、医療生協の若者たちも歩きました。終着は、米軍鶴見貯油所、ジェット燃料は、通常軽油をつかうそうですが、有事に燃料を確保するため、ガソリンを半分混ぜてるそうです。厚木や、三沢までここから送られているそうです。シュプレヒコールを「米軍は日本からでていけ!」3時半終了。川崎の中学の同窓生の喫茶店で食事、なつかしか~!

5月9日(土)曇り。平和行進の休息日。洗濯をし、書き物をしていると妻から電話。「2日間だけ休み」ということで、滝川の「菜の花」、深川の「カタクリとエゾエンゴサク」、義母の住む沼田町ではゼンマイをごちそうになりました。


5月10日(日)曇りのち晴れ。夕方の留萌市での宣伝まで、妻と「カンラン石玄武岩柱状節理」の奇岩が並ぶ黄金岬へ。日本海を前に釣りをする人、小エビを追いかける家族。増毛町の日本最北の酒造元「国稀(くにまれ)」を見学しました。


日本海のそばにある「鰊船」を見て、海岸を散歩。2人で「広くて気持ちいい」。トンネルをくぐり、岩尾温泉・夕日荘へ。脱衣所にいたのは3人の男の子がいる家族でした。


鰊(にしん)のウロコを思わせるしぶきが顔まで飛ぶ「銀鱗の滝」に寄り、留萌市に戻りました。妻はそのまま札幌へ。


夕方は中心街で「核兵器のない世界を」「被爆者の病状を原爆症と認めてください」の署名を訴えます。


国民平和大行進の横断幕を手に訴えると、「戦争って聞くだけでイヤ」と年配の女性2人。「広島、長崎のこと知ってるよ」と中学生。出会う人のほとんどが署名し、「さすが非核平和都市宣言の市だ」と思いました。

矢部常次日記 第5日目

今日の行進は、アメリカ基地「相模総合補給所西門・キャンプ座間正門」の2か所を行進する。


朝から天気が良く、ニュースでは熱中症の心配を警告!!昨日まで川崎市内・7行政区を行進、約600名以上の方が歩き、例年の参加者より増えてきていると実行委員会の永沢さんの話。私も3年前、東京~神奈川県内を通しで歩いた時より、時代が変化しており、「何かを変えなければ」と感じる人が多くなったのではと肌身で思う(雨で参加者は大変だったのに)。


アメリカ基地前では怒りが込みあげ「シュプレヒコール」に力が入る。行進中は大きな声で「こんにちは、国民平和大行進です、一歩二歩でも皆さんいっしよに歩きましょう」と呼びかける。参加者の方から、まだ先が長いのであまり張り切らないでと話しかけてくれ少しホッとする。


休憩中には、飲み水よりもまず煙草を吸う(みんなと少し離れた個所で)。そうすると、昨年東京~広島を通し行進して、今年は神奈川県内を通し行進している米山さんが、「今回の平和行進中に煙草をやめると約束をしよう」と話しかける。健康を考えれば、良いことと判っていてもそれはないだろうと思い、煙草を吸わない人には、解らないと反発。


相模原で200名・座間にきて150名、JMIUから午前・午後通して5名の参加、多くの人に会えて楽しく、沿道では、手を振って応援してくれる。


3年前東京~神奈川県内を歩いた時との変化は、私が「国民平和大行進の東京~広島」のリレー旗を先頭で持って歩くため、沿道の人一人ひとりと話すことが出来ずカンパも貰えず判らなかったが、平和行進への沿道からのカンパはあまり無いと思う。

松本英治日記No.5

行進5日目。新しく出来た駅、地下鉄都筑ふれあいの丘駅9時出発、今日も松平さんのトランペットの演奏で!初めてのコースだそうです。行く先々歩いて先回りでトランペツト演奏、感動しました。流石です。トムソンもお世話になりました、金属反合で太鼓と競演しました。


今後もよろしくです。後輩の闘い、未来を勝ち取るため!


青葉区で77年の米軍ジェット機墜落事故現場へ、林和江さんと2人の坊ちゃんが亡くなりました、「パパママ、バイバイ!」公園で集会、事件のことを風化させない取り組み、横須賀には、核空母(ジョージ・ワシントンが配備され、原子炉の修理を約束違反!松平さんの伴奏で石倉さんと、南部合唱団の方と私の3人で、「原爆許すまじ」1、3番を参加者全員で歌う。独自の歌集が用意されていた。


広大な住宅街を行進、パーランクでリズムを取りながら、宣伝カーのリードで、シュプレヒコールや、「青い空は」の歌のリードもしていただいた。


まだ、風邪が完治せずハンドマイクデビューはおあずけ!行進途中、1万円のカンパも寄せられました。私にまで、カンパいただきました。


3時半緑区役所到着。コープさんの接待がありがたい!これから、神奈川音楽センターで歓迎会です。

松本英治日記No.4

3日間雨でしたが、久しぶりに晴れました。


行進4日目は、2コースで、私は、高津区役所を9時半出発。出発集会で挨拶、「この雨は、オバマ発言を喜ぶ、被爆者の皆さんの涙雨でしょう。行進と、世界大会と、来年の、NPT再検討会議を大成功させ、核兵器の廃絶を実現させましょう。暑い1日になりそうですが、元気に行進しましょう」。


川崎市は全国に先がけて、1982年に非核3原則遵守の非核自治体宣言が決議、実施されており、各区長さんがご挨拶されます。


本日もうたごえリレー旗は、国鉄横浜うたう会が繋ぐ。10時半には2コースが合流し、松平さんのトランペットが3日連続で響く「原爆を許すまじ」と「世界で一番の花」。


私は風邪が完治せず歌デビューはまだ、本日太鼓(沖縄のパーランク)を打ちながら横断幕を持ち先導しました。今日も被爆者の皆さんが歩かれました。


4時半麻生区役所到着。なんと、川崎でのうたごえ交流会の時、和太鼓と民舞の祭りをやった会場でした。


本日から、新横浜の東横インに3連泊。洗濯は毎日。連泊はありがたい。体も元気です。

矢部常次日記 第4日目

今日は、朝から雷がなり雨も強く参加者は大丈夫かと心配して自宅を出た。


川崎市役所での出発集会は、雨がひどく私たち通し行進者は完全武装・しかし多くの参加者はカッパを着る人もいたが殆どが傘をさしての行進(大丈夫かなーと思う気持ち)。


川崎市長のメッセージを市民こども局男女共同参画主幹:青山正彦さんが読み上げ、原爆被害者の会:山口よしこさんが挨拶。そして川崎の平和行進実行委員長:笠木さんが行動提起を含め挨拶、それから全国通し行進者2人・県内通し行進者6人が紹介され、代表して私と16回県内行進をやっている伊藤ヒサ子さんが決意を含め挨拶、100人の行進がスタートした。


川崎区・幸区を行進して中原区の平和公園を目指した。平和公園では、鈴木菊夫平和館館長が挨拶・中原原水協の清水洋子さんが平和館の由来を「平和館ができる前は米軍基地で、謀略ビラなどを作成する印刷所でした。返還運動がおこり、返還させ、中原平和館・平和公園・住吉高校が建設され、今では平和活動の拠点になっています」と報告、昼食後は平和館を多くの人が見学した(近県の人で来館されては如何ですか)。


私には、もう一つの出会いがあった。それは、昔中原区選出の県会議員だった坂本正弘さんの奥さんにお会いしたことだ。奥さんは私を見るなり元気ですかと声をかけてくれ、こんな小さい頃から(今でも小さいが奥さんの言う赤ん坊ではなかったと思うが)、議員だった主人やトランペッターの松平さんらと米軍基地返還で頑張ったんだよね。周りの人に話す、そして広島まで無理しないで健康で歩いてくださいとカンパを渡して下さった。


また、それを聞いた人でこの間いろいろな取り組をやってきた長坂さんからも事前に封筒に入れたカンパを渡してくれた(有り難く頂きお返しは、歩き続けて行進成功をさせ核兵器を廃絶させ、地球から戦争をなくす運動の一翼になる事とプレッシャーなしで思った)。


中原公園での昼食は医療生協・新婦人・原水協の皆さんが、おにぎり200個を用意していただき、参加者全員美味しく頂いた。


中原区での参加者は雨の中とは言え、120人が行進した。

松本英治日記No.3

本日も雨の中の行進となりました。


セレモニーで市長の挨拶を受け、川崎市役所を9時半出発、被爆者の皆さんも先導されました。


米軍基地跡に創られた川崎平和館で昼食休憩、手作りのおにぎりを参加者全員がいただく、毎年の事だそうです。立派な平和館でした、展示も、施設も。姫路平和資料館のポスターが張ってあり、感激!不十分ながら、皆で創り上げた、資料館です。


毎年平和コンサートが開かれ、労働者トランペッターだった松平さんが実行委員長です。うたごえ祭典なみと言われていたトランペットと神奈川のうたごえの演奏を聞き出発、繁華街を行進、休憩にコープの皆さんの接待、血圧測定(120-76)で正常。


通し行進者矢部さんの地元新城公園に3時半着。行進もゆっくり、距離も短く、時間も、楽な一日でした。

日本海コース初日の7日、晴れ。"北緯45度の風が吹く町"幌延町を散歩です。まもなく「名林公園」。一面にエゾエンゴサクよりうすい青色のホソバエンゴサクの花畑が広がり、背丈10センチほどの花を踏まないよう注意して散策しました。


日本共産党の鷲見悟幌延町議と木村秀雄遠別町議と幌延農協へ。木村誠組合長は「核兵器のない世界を」署名とペナント、募金に協力してくれました。


原発から出る核廃棄物の埋め立てを引き受けた幌延町。「核廃棄物と核兵器廃絶は関係ない」という宮本明町長は「安全なエネルギー政策が必要です。人間を一瞬のうちに殺す核兵器はなくすべきです」と話しました。


天塩町では、浅田弘隆町長が「『てしお』って読めないんです」とペナントにルビを振って記載しました。


遠別町は志子田一郎副町長が応対。「以前(一昨年)にも来ましたね」と私のことを覚えてくれていました。


木村町議は、廃校になった小学校を「取り壊すにも町には金がない」と語りました。

矢部常次日記 第2日目

今日も雨模様で参加者は大変(話題は、雨男・雨女は誰との会話)。


しかし、スタートの港区役所にいろいろな団体市民が集まってきた。港区と言えば東京タワーがあり、行進が通過すると、観光客の3名の中国の人が手を振る。また観光バスの外国人が窓から身をのり出してカメラで、パレードを撮る。泉岳寺前・品川・大井町駅そして大森駅前を通過する。


各地域でのパレードに対する関心はいろいろ、店の前で手を振る人、無視をして歩くサラリーマンなどさまざまだが、行進者はピースコール・「原爆を許すまじ」など平和を訴える歌・そして52回の原水爆禁止国民平和大行進であることを知らせる宣伝カーからの訴え。


お母さんと歩く女子高生、少し恥ずかしそうに手を振りはにかみながら母の顔を見る姿もあつた。


六郷橋を渡り、東京から神奈川に入る。神奈川側では約200名以上の人が出迎えてくれ、私は2回目だが感動した。トランペットの松平晃さんと握手して、また神奈川の平和行進実行委員長(神奈川労連の議長)水谷さん、JMIU神奈川地本委員長・鵜養さんなど多くの人に迎えられ川崎市内を行進・銀流会アーケードを出迎えの神奈川の人、それに東京からの行進者総勢300名が行進(東京からの行進者で疲れた人は、引継ぎ式の川崎市役所で待つ)。


今日の行進は、雨のなかであっても東京では入れ替わりでトータル500名。ここでも感動したことは被爆者の方々だ、年齢もだいぶいっているのに東京から川崎市内を最後まで歩き川崎市役所に到着する姿である。(若者よ負けていられんぞ!!)


引継ぎ式終り、神奈川原水協のもてなしで全国通し行進者・県内通し行進者など総勢20名で健康に留意して13日間神奈川県内を安全に行進し、成功させることを誓う交流会となった。

松本英治日記No.2

09国民平和大行進 2日目は、9時に東京港区役所出発、神奈川県川崎市役所までの19.4キロです。


昨日に続き、そぼふる雨の中を出発。トムソン本社の泉岳寺を通り品川では、旧道の繁華街を行進。


昼食休憩時、大熊君(東京のうたごえ協議会事務局長)がアコーディオンで歌う会を開き、歌集も買っていただく。


先導者のアナウンスもうたごえの若者、ギターで歌いながら行進。六郷橋を渡り神奈川へ、引継ぎ集会で神奈川にバトンタッチ。東京の皆さんお疲れ様。神奈川13日間のスタートです。よろしくお願いします。


石倉さんほかの皆さんと握手、東京500名、神奈川250名の行進でした。川崎太鼓仲間「響」の練習を覗き、行進の訴えと、募金をいただき、交流しました。

五十嵐成臣日記 5月6日

朝8時、礼文町役場前で、2009年原水爆禁止国民平和大行進の出発式が、地元、宗谷教職員組合、全気象労組、堀内礼文町議(無所属)と、全労連副議長の小松民子さん、通し行進者・五十嵐成臣、小川基弘さん(道内コース)、北海道原水協の嶋田千津子さんなど、6団体15人が参加。


全労連の小松副議長は、「核兵器のない世界を」の署名を「組合員1人5筆、500万筆」を目標に運動を強めていく。私は「1日も早く核兵器を廃絶するために、国民の世論を広げていくため、草の根の運動である平和行進を、礼文に集まったみなさんとその一歩を進めていきたい」と挨拶しました。

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▲礼文島、出発式を終えて行進

 

集会後、香深港まで行進を行い、フェリーで稚内へ向かいました。


稚内には11時に着き、すぐに稚内総合文化センターで平和行進出発集会。連休最後の日にもかかわらず9団体から43人が集まり、通し行進者を激励。集会後、南稚内駅まで行進をして終わりました。

 

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▲稚内集会で挨拶する五十嵐成臣さん

矢部常次日記 第1日目

私は、平和大行進1日目の為か自宅を早く出発して9時30分に第五福竜丸展示館に到着した。早すぎて誰も来ておらず、ヨットハーバーでカンコーヒーを飲みながら平和行進90日間の思いを新たにしました。天候は、曇り(今日1にち曇りであって欲しいと願った。)


出発集会・行進スタートから少しずつ雨となり、港区役所前まで大変であった。


参加者は、集会時は900名以上だったのに行進スタート後から増えて1200名くらいになり、まさしく大行進となった。


JMIUの参加者も70名以上、いま元気な労働組合の平和にたいする取り組みと「通し行進者からの声」・私は気を良くしました。被爆者の方々そして参加者みなさんご苦労様でした。行進後の交流会も楽しく元気でました、90日間頑張ります。

松本英治日記No.1

歴史的私の平和行進初日は、雨でした。


1時過ぎ出発セレモニーの後、東京夢の島第五福竜丸(ビキニで米の水爆j実験で被曝)展示館前出発、5時半港区役所着。


同日出発の礼文島(北海道~東京コース)五十嵐(JMIU)さん以外の今年と、去年、全国11コースを走破された、豊田一子さんなど、1200名参加のまさしく国民平和大行進となりました。青い襷をかけられた、広島、長崎の被爆者の皆さんも横断幕を持ち先導されました。命を掛けたたたかい、被爆者認訴訟に立ち上がっておられます。


原水爆の被害者は私たちを最後にして欲しい、との思いがむねをうちます。


プラハでのオバマ米大統領の「核使用の道義的責任を認め、廃絶の努力をする」に力をえて、土砂降りの雨の中でしたが、うたごえが響きわたりました。


風邪が完治しないままの、初日でしたが、何とか歩き通しました。


明日も、新たな出会いが楽しみです。

全国通し行進者紹介

2010年NPT再検討会議へ向け、草の根から核兵器廃絶のうねりを広島・長崎へ歩いてつなぐ8人の通し行進者を紹介します。

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