松浦宜孝日誌No.29

9時に古賀市役所を出発、途中で買い物をして後方から追いかけた時に人数確認したところ71人での行進。

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▲古賀市役所を出発


新宮町での休憩中に日食眼鏡を借りて太陽を見ると直径比で4分の1ほど欠けています。今日は天気予報は曇りで平和行進日和ですが、日食観察はだめだとあきらめていました。


それが時々うす曇になり、人の影が映るようになり、テレビでやっていた紙に穴を開けてその穴を通した光が映し出す形を見ようとしましたが、にわか作りでボールペンであけた穴は昔のダイエーマークになり、うまくいきません。


そこで何人かが持っていた日食眼鏡を借りました。


行進途中では時々手ごろな雲が出て、雲が日食眼鏡の代わりをして肉眼でも欠けているのが確認できます。しかし、信号待ちなどでは二度三度と眼鏡を借りて観察。時計の文字盤で7時から8時の位置にあった三日月型の太陽が、さらに細くなり、10時ごろの位置になったころ急にひんやりとした風が吹き涼しくなりました。


ナフコ和白店では福岡医療団の人たちが、飲料水スイカ氷水で出迎えてくれました。ここまでの行進は78人。


香椎花園(遊園地)での休憩では、コンビニでソフトクリームを買って食べました。暑いとき体力を消耗した時はこれが一番です。


今日の終着は香椎浜男公園に13時半頃、ここでは年金者組合の人たちのお茶や饅頭での接待が待っていました。


少し休憩後の終結集会で今日の行事は終わり、昼食時にはビールがのどを潤してくれました。


今一緒に歩いている県内通し行進者は長崎で胎内被曝し、5ヵ月後の1946年1月生まれです。挨拶のとき「もっとも若い被爆者です。私より若い被爆者をもう作らないでほしい」と訴えています。


また、アメリカは第2次世界大戦でこれ以上のアメリカ人の戦争犠牲者を出さず、早く終結するために原爆を使用したのだと言っているが、日本が竹ヤリで応戦しようとしている情報も握っていたはずで、アメリカ人の犠牲者がそう増えるはずはない。ソ連に対する優位を保つため、核爆弾の実験のための使用でした。


現に、長崎では気象変化を観測するための態勢も準備しての投下だったのです。彼らは小学校1年より胎外被曝、胎内被曝、被爆していない対照児それぞれ20人ずつのグループでの放射線による影響の調査を6年生まで続けられています。


彼が3~4年生のころ出来たABCCでは治療はせず、原爆が人体にどのような影響を与えているかの調査だけを行っています。まるでモルモット扱いで、学校にジープで迎えに来てABCCに連れて行っています。


彼の元にはABCC(原爆傷害調査委員会)と厚生省国立予防衛生研究所からの感謝状が残されています。


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▲感謝状


彼と同様の調査が行われていたことは、NHKスペシャル「その時 私は母の胎内にいた ~長崎・原爆学級~」で2003年8月7日に放送されている。その内容はインターネットで見る事が出来る。

2010年2月

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このブログ記事について

このページは、Maekawaが2009年7月22日 23:48に書いたブログ記事です。

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