]]>
昨夜は、長崎市職労のお世話で「広島~長崎反核平和マラソン」歓迎夕食会が開かれ、参加しました。会場は、大浦地区の公民館で、そこのホールに雑魚寝するのが慣例です。私も泊まり、深夜まで盛り上がりました。
今朝は、長崎市役所へ行き、敷地内にある「長崎市職員原爆犠牲者」碑に黙祷を捧げました。長崎に落とされた原爆で、市職員37人が犠牲になりました。私は、元横浜市の職員だったこともあり、長崎大会に来たときはお参りしています。
今回、偶然にも、碑の前で、横浜市従労組の若い人たちと会いました。
10時半から開かれた閉会総会は、被爆者、海外代表等の報告や決意表明、そして、優れた活動をした地域や、団体の参加者集団が登壇し、絵図などでアピールし、代表者が熱弁しました。
生協労組の活動披露では、ギターの伴奏付きで、歌も出ました。青年たちの決意表明では、核兵器廃絶に向けた「3、2、1、0!」のカウントダウンが呼びかけられ、会場の人たちが一斉に、両手でゼロの輪をつくりました。
会場は、盛り上がり、海外の代表団も登壇し、手を取りあい、会場全体が歓喜のウエーブとなりました。
これまで以上に、総会の盛り上がりを感じました。
今日の参加者は、7800人と発表されました。会場が狭かったです。通路に座る人も多くありました。市職員の話しでは、施設管理者から「多く入れないよう」苦言があったとのことです。
世界大会3日間では、各地でお世話になった、多くの方々とお会いしました。
これからも、平和行進に参加し、がんばります。
今日は、世界大会‐長崎の第2日目で、分科会、フォーラム、うごく分科会などが開かれます。 私は、分科会3の「非核平和のアジアを」に参加しました。
この分科会は、最初に米国、中国、韓国、日本の各代表者から、報告と問題提起がおこなわれました。そして、質疑応答があり、参加者が総括的な意見表明をする方法で進められました。
問題提起は、アジアの中でも、北東アジア(日本、韓国、北朝鮮、中国)の「非核平和を」が中心でした。
日本と韓国が米国の核の傘に入っていること、中国が核兵器を持っていること、北朝鮮の核実験とミサイル発射問題、オバマ米大統領のプラハ宣言など、これらの現状をどのように分析・認識して、「非核平和のアジア」への運動を進めるべきか、活発な論議がされました。
皆さんの意見表明で強調されたのは、武力には武力を持って解決するのではなく、冷静な判断と話し合いによる交渉で「非核平和のアジアを」構築することでした。
そのためには、各国の国民が連帯して運動をつよめ、為政者に核兵器を破棄させることです。
なお、参加者の総計は150人で、若い人が30%位、世界大会初参加は20%位でした。
分科会終了(午後3時)後、8月6日に広島市の平和公園をスタートして長崎市へ向かって走っている「広島~長崎反核平和マラソン」(500km)に参加しました。
通し行進者の松浦さんと私で、長崎駅前から路線バスに乗り、長崎市郊外のつつじが丘(国道34号線)でマラソンの人たちと会い、私は「間の瀬峠」(県道45号線)の上りの「難所」3kmを走りました。この峠を走るのが楽しみだったので、走れてよかったです。
長崎市の中心地に入るには、「日見峠」の他に、「間の瀬峠」があります。 現在は、長崎自動車道(日見峠方面)や、長崎バイパス(間の瀬峠方面)ができ、「間の瀬峠」を通る車も、地元の人以外はないでしょう。
平和行進や、平和マラソンは、旧道を通ることが多いので、ここでも歴史を感じます。
この反核平和マラソンは、今年で27回目です。福岡市職労や北九州市職労などのランナーを中心にすすめています。「全法務労組」や「ランナーズ9の会」のランナーたちも参加し、タスキをつないでいました。
来年は、新日本スポーツ連盟で「東京~長崎」を走る「反核平和マラソン」(1500km)の計画があるようです。
2009年世界大会‐長崎の開会総会オープニングは、平和行進の通し行進者がリレー横断幕を持って、会場の後方から、座席中央の縦通路を通って登壇する演出でした。
47都道府県を、1歩、1歩、歩いてきた平和行進が、世界大会へつながった表現です。私は、平和行進の歴史をかみしめながら、興奮気味に手を振って壇上へ進みました。
行進団に続き、海外代表団も登壇し、紹介されました。各人が紹介されますと、誇らしげに手をあげたり、お辞儀をされたり、連帯感に満ちていました。
国連代表で発言したセルジオさんは、各国から参加した若い人たちに、核兵器廃絶運動で力を出すよう呼びかけました。とても、印象に残りました。
国内の活動報告では、徳島県の署名活動に注目しました。県人口80万人の10%(8万人)の署名を目標にしており、8月4日現在、1万7千人分を集計しています。
この中で、勝浦町は目標を突破し、18%を超えました。50%をめざすそうです。
署名活動の原動力は、県下のあらゆる団体、1000団体を訪問し、署名の取り組みの要請をしていることです(8月4日、訪問目標を1500団体に引き上げた)。
団体訪問・要請のヒントになったのは、昨年の平和行進です。出発式を鳴門市の四国霊場八十八ヶ所第1番霊山寺境内で行い、その後、行進とあわせて八十八ヶ寺を訪問し、住職さんから署名をいただく、四国らしい発想でした。
分け隔てなく、あらゆる団体を訪問・要請する発想と、実行力がカギです。
長崎市の行進です。
7月4日に広島市の平和公園から出発し、今日で34日目、最後の行進です。
9時40分、出発式をした日見公園では、広島に落とされた原爆で亡くなった方々の冥福を祈り黙祷を捧げました。
長崎市の中心街に入るには、日見峠(標高200m)を越えなければなりません。行進出発直後から、約3km上った所が日見峠です。昔は、「西の箱根」と呼ばれた難所です。今回は、1926年(大正15年)に造った日見トンネル(640m)を通りました。
炎天下の上りで、吹き出した汗がとまりません。
トンネルを抜け、4kmほど下り、中心街に入りました。
昼食休憩は、世界大会の会場になる長崎市民会館の所でした。
午後の行進では、繁華街の名所「鉄橋」で、20分ほどとまって、街宣、署名、行進パンフの配布などをしました。ほとんどの通行人に、パンフを受け取ってもらいました。関心が高かったです。
午後4時20分、最終目的地の原爆「爆心地」に到着しました。
5時から集結式が開かれ(参加者120人)、来賓の長崎原爆資料館長さんと、長崎県の被爆者代表の方から歓迎の言葉をいただきました。
通し行進者各人が、無事、着いたことに感謝し、行進中の感激を披露、核兵器の廃絶に向けて更に頑張ることを誓いました。
式には、佐賀県内を通し行進した秋山哲朗さんが見え、唐津名物の松露饅頭と唐津原爆被害者の会の記録集をいただきました。
終了後、森さん、松浦さん、長崎県内の通し行進者の宮島茂吉さん等と会食し、労をねぎらいました。
宮島さんは、労山(日本勤労者山岳連盟)のメンバー、県内通し行進14回目のベテランです。
私は、加齢とともに身体の不安もありましたが、無事、目的が達成でき嬉しかったです。ただし、堅い物を食べたことから、弱っていた前歯2本が欠けました。
お世話になった皆さま、ありがとうございます。
今日の行進距離は、参加者60人前後で14km歩きました。
長崎県の行進距離総計は、82.5kmです。
広島市の平和公園から、長崎市の爆心地までの行進距離合計は、494.5kmです。
外に出ると雨が降っていて、昨夜の天気予報で台風の接近を言っていたのを思い出し最終日も雨になると覚悟を決める。携帯iモード情報で確認すると10時半頃がピークで午後は日差しがきついとある。食事を終えて外に出ると雨はとりあえず上がっている。9時に宿を出る頃には青空がでていた。
日見公園の出発式では今日の責任団体、通し行進者の挨拶の後、広島原爆の犠牲者の冥福を祈って黙祷がささげられた。
10時にスタートした平和行進はほどなく今日の難関のひとつ日見峠への上り坂にかかる、まず右にカーブしながら34号線までの坂、そして交差点を左折してからも勾配はきついが見晴らしは良くなってくる。左手に美しいたちばな湾と今朝の雨で埃が落とされた島の緑が映えていた。その風景も視野から消え、太陽の日差しと約3キロの登り坂標高差200メートルのきつい坂が休憩を待ち遠しく思わせる。
その休憩所はほぼ登りきった、すすき塚IC手前スズキ自動車の販売店横でした。多くの人が自動販売機でペットボトルのお茶類を購入していました。その後民商さんの給水車が遅れて到着、待ちわびていた人たちは何杯もおかわりしていました。兄弟に二人の脳梗塞患者を有するDNA持ちの私はコンビニで冷凍飲料を2本購入し、1本は保冷機能付きペットボトルホルダーに、他の1本は背中の首筋に入れ体温低下に使用し、解けた分だけ飲んでいました。
休憩の後しばらく歩くと640メートルの長い日見隧道です、バイパスが別にあり通行量は少ないものの、暗くて危険なため1列縦隊ですすみました。下りも約3キロでしたが、まだかなと思う頃、市電の始発駅でもある蛍茶屋の休憩場所に着きました。この休憩所はモルモット代わりで調査はすれど治療はせずの「ABCC」の後継施設の放射線影響研究所の前でもありました。パンフレットをもらいましたのでまたレポートします。
市内を行進している途中で署名、宣伝行動を行うなどして爆心地に到着しました。終結集会では西彼半島コースの人を含め120人ぐらいになりました。まず長崎での原爆被爆者の冥福を祈って黙祷しました。原爆資料館館長も平和市長会議に市民も参加できるものがあるとのアピールも交えてあいさつ。被団協県会長の後,通し行進者もしめくくりの挨拶を行いました。
今日はこのグループのOBで大学生になったいまも活動している学生たちの活動を紹介しています。小学校3年生の平和活動に出前授業で出かけています。また年々高齢化が進んでいる被爆者の声を聞きDVDに残して被爆体験の風化を防ぐ活動を行っています。すでに国内外で150件のDVD貸し出しがおこなわれています。彼らのモットーは「我々は微力ではあるが無力ではない」で、地道な活動を続けています。
別のニュースでは、いま被爆者に2種類以上のガンが発生し、3種類の人が34例あるなどと報じられています。
夏にはこれらの報道は多くなりますが、地元はさらに多いようです。
今日の日程
西諫早駅前 集合9:30 出発9:50
多良見支所 着 11:05 発12:30 歓迎式 昼食
バイパス高架下 着13:20 発13:40
ネットカフェ前 着14:40 発14:50
日見公園 着15:50
多良見支所まで休憩無しで一気に進むが朝はまだ元気、休憩は3階の部屋をお借りすることができた。ここも合併で諫早市になっており、昨日高城公園に石碑として刻まれた平和都市諫早宣言の同文が支所でも掲示されていて、町時代の石柱も残っている。
昨日長崎も昨年より29日遅い梅雨明け宣言が出され、この2日間は日差しもきつく距離もあってハードでした。昨日は足を引きずりながら歩き、最後は気分も悪くなり途中でリタイアした若い女性もいたそうです。
諫早市、長崎市の行進です。
昨日、九州地方の梅雨明け宣言があり、やっと本格的な夏がやってきました。
朝9時半、行進出発式の前に、500mlの水を飲みました。これは、「汗が吹き出してから水を飲む」繰り返しと違い、「汗がじわじわと出る」快適さでした。早めの水分補給が、良かったようです。汗が吹き出てからの水分補給は、水分の体内吸収が悪くなり、すぐに、汗となって吹き出すようです。
11時過ぎ、諫早市の多良見支所に着くと、支所長さんから激励の挨拶をいただきました。そして、急遽、冷房の効いた会議室を、昼食休憩場所に提供してもらいました。午前の行進を、75分休憩なしで歩いたので、会議室を使えて良かったです。
12時30分、多良見支所を出発し、50分ほど歩いた場所に、長崎バイパス自動車道の高架下の日陰がありました。参加者から「休もう」、との声が出て、20分ほど休みました。
休憩予定場所の手前、300mでした。予定の場所まで、ガマンできなかったのです。
行進を再開し、間もなくしてあったコンビニで、20人位が水を買いました。私も買いました。レジも混み、行進団から100m以上遅れてしまい、走って追いつきました。20人位遅れていることを説明し、ペースを落としてもらいました。
今日は、行進団の後部に救護車もなく、実行委員会で用意した水もなく、不安を感じたので、その後、私は隊列の最後尾を歩きました。
高齢のご婦人が、遅れだし、隊列からどんどん離れました。タクシーを拾って帰ると言いますので、宣伝カーに乗ってもらいました。
つぎに、朝から歩いていた幼稚園児とお父さんが遅れました。追いつくのが難しいようです。宣伝カーに乗ることをすすめますと、園児は、歩くと言います。
午後4時10分前、無事、終点の長崎市の日見公園に着きました。
終了式では、明日もガンバロウのかけ声が出て、予定外に、全員で「明日の平和行進ガンバロウ」を三唱しました。暑い中を歩き通した、皆さんの気持ちです。
後方を歩いていたとき、森悦子さんが信号待ち時間を利用し、右足のストレッチをしていました。足の痛みは、相当につらいようです。
行進は、長崎市に入りました。あと1日で終わります。
今日の行進距離は、区間により参加者50~70人で15km歩きました。
8月9日に生まれた私は、子供の頃から長崎の原爆記念日を意識していました。20歳でうたごえ運動を知り、「うたごえは平和の力」を実践してきました。
西播を通る平和行進にも、参加したりしなかったりでしたが、82年のSSDⅡ(第2回国連軍縮総会)のうたごえ代表団に加わり、ニューヨークを揺るがした100人のデモの先頭を太鼓と叩き歌を歌いながら勤めました。この時多くの皆さんの代表として参加したくて、姫路の駅頭に40日間毎日立ち、署名と募金を訴えました。3千人近い署名と、90万円の募金をいただきました。
以来、お返しに、駅頭での6・9行動27年、職場(日本トムソン姫路工場)の門前での6・9活動を22年続けてきました。定年退職したら平和行進の通し行進が夢でした。
長いようで短い3ヶ月でした、平和行進52回、半世紀にわたる、「核兵器廃絶、被爆者援護連帯、平和を守れ」の草の根運動の歴史の重みと、先人たちの努力、運動の蓄積と広がりを感じる行進でした。
64年前の広島・長崎での悲劇を体を張って訴え続けてこられた被爆者の皆さんの思いが、オバマ米国大統領のプラハでの演説につながり、核兵器廃絶の追い風を受けての行進でした。
沿線の東京、神奈川、静岡、愛知、岐阜、滋賀、京都、奈良、大阪、兵庫、岡山、広島とうたごえの仲間の力強い応援、激励を受け、また、被爆者の皆さんの「たのみます」と手を握られた思いを胸に歩き通す事が出来ました。行進団を励ますうたごえの力は偉大です、歌うことで力がわき元気に行進できます、息を切らし上る峠道、歌があったから楽しく越えられたと!
日本山妙法寺にまねて、沖縄のパーランク(小さく持ち運びやすく、いい音がする)を叩きながら歩きました、歩くリズムが取れ、好評でした。歌のリズムも刻みました。私はSSDⅡの時教わった、庄原の田楽のリズムを打ちながら歩きました。
平和行進は、被爆国日本の民衆運動が生み出した素晴らしいパフォーマンスです、歩くという誰にでもできる、示威行為です。暑くても雨が降っても毎年歩き通す行進の素晴らしさ!継続は力なり!
その事を生み出し半世紀以上続けられた事に参加でき、定年後の夢が実現できました。
うたごえ運動60年の歴史の中で初めての全国通し行進者としての重責と期待を浴びて歩き通す事ができました。
同じJMIUの矢部さんといういい相棒にも恵まれました。次代を担う行進者のために、改革の旅でもありました。全国の経験を伝え、少しでも良くしたいと、苦言も呈しました。
40日目の岐阜から飛び込んできた愛知の若者(22歳・21歳)の2人に勇気と希望と元気をいただきました。平和行進の広がりを実感しました。若者たちの参加を促しました。
毎日歩き、毎日宴会で、メタボ解消どころか?早寝早起きで、太ったかな?
日誌のメールは早朝です。
毎年行進を継続し、支えてこられました。多くの皆さんにお礼を言いたいと思います。
核兵器がなくなり、歩かなくてもいい日が一日でも早く、被爆者の皆さんが生きていらっしゃる間に実現させましょう。
署名を集め世論を喚起し、来年5月のNPT(核不拡散)条約再検討会議に積み上げましょう。
ニューヨークに行きましょう。ご声援ありがとうございました。
矢部さんの一言「だんご4兄弟で歩いてきました。長崎の世界大会、NPT再検討会議まで、一緒に行きたいね!」
大村市、諫早市の行進です。
朝から暑く、「暑くても、暑くても、平和行進」の空模様になってました。
汗が、腕や頭から吹き出し、とまらず、休憩時間の水分補給だけでは足りません。行進中に、自販機で水分補給をしました。
連日の暑さで、宣伝カーのカセットテープが、伸びた(?) とのことで、一昨日の午後から「音声が間延びし」、調子が悪くなりました。
昨日は、私が持参した新しいカセットテープと、携帯用カセットテープレコーダーを使い、抵抗入りケーブルなどもつなぎ、マッチングを取りましたが、調子はよくなりません。
結論は、宣伝カーの拡声器システムの異常だと判断しました。今日は、宣伝カーを取り替え、順調でした。平和行進には、色いろな出来事があるものです。
行進コースの道路沿いに、公園や、神社などがない所では、高架道路下の日陰を利用し、休憩や、雨宿りをすることがあります。
今日の午後は、立体交差道路の橋の下で、休憩がありました。昔の旅人も、橋の下で休んだり、野宿をしたりしたので、橋の下は、今も昔も便利だと思いました。
行進の途中で、飴の差し入れがありました。路肩にテーブルを置き、「差し入れです!」と書いた紙が貼られ、飴をのせてありました。行進を止めず、歩きながら取っていただく方法です。暑さを忘れ、気が口の中の甘さに集中しました。うまい!
今日の行進距離は、参加者40~50人で17km歩きました。
いよいよ最終日です。8時に宿を出、府中町原爆慰霊碑集合、近くの府中町役場で日本山妙法寺の平和行進団が出発集会。
8時45分集会、半日の行進で平和公園です。通し行進者の挨拶は、私「平和行進の歴史を踏まえ、世論を喚起し、世界大会を成功させオバマ発言を実行させましょう」と中平君「人の温かさ優しさに触れる行進でした、いただいたお礼に元気に歩きます」コールと歌でお返し!
東区民センター目指して出発、元気に楽しく、後から太鼓の音響かせて、妙法寺の皆さんが行進!
中平君に最後だから思いっきりやれと発破、ミッキーマウスマーチ最高!シュプレヒコールも気合が入ってます!疲れネタ切れになったら、私にマイクが!行進版の追っかけ歌特集!盛り上がります!
東区役所で野上千津江区長の挨拶を受け名刺交換、多くの職員が仕事の手を止めてお出迎え!ありがたい!
広島市内を元気に行進、駅前大橋で休憩、広島合唱団が出迎え、平和公園目指して、最後の踏ん張り!
途中、Bコース(宇品~)の矢部さんと鶴田君が出迎え、イサムノグチ設計の平和大橋を渡り、小沢日本のうたごえ事務局長出迎え、がっちり握手、平和公園へ広島合唱団の「君の道を」私のために作っていただいた曲の演奏の中、ゴール!万歳!万歳!感慨無量!
昨年の通し行進者米山さん(神奈川県内通し)も出迎え、握手を!
終結集会は宣伝カーの上で通し行進者紹介と挨拶、東京~広島の私がトップで「行進52年の歴史の重みと力強さを感じ、オバマ発言の追い風に乗り楽しく元気に歩けました。被爆者の皆さんの悲願を成就させましょう」矢部さん、四国~広島コースの浅田さん、富山~広島コースの栖原さん、飛び入り参加の中平君は「推薦はありません、あえて言うなら国民の推薦で歩き通せました」と名言です!鶴田君「何にも知らず先輩について参加しました、ここに居て良いのか葛藤しましたが、広島まで来れました。カンパや民宿ありがとうございました」2人の変化が大変うれしい、僕たちです。いい若者を育ててくれたと!平和行進事務局の安井さん!
昼食を安井さんと通し行進者6人で慰労会、世界大会の打ち合わせも!ビールが美味い!
夜、広島音楽センターで広島のうたごえの慰労会に、日うた祭典で何度か行ったのに解らず、薄暮の平和行進に!
手作り料理と、うたごえ「君の道を」も歌い交わしました。勝利の美酒に酔いしれました。ありがと~う。
日誌を読んで応援していただいた全国の皆さんありがとうございました。
2009年国民平和大行進は無事終了しましたが、引き続き世界大会の成功と、来年のNPT再検討会議成功に向け奮闘いたします。
核兵器がなくなるまで、歩み続けることを止めないでしょう!がんばりましょう!硬い握手!
9時30分、平和公園に向けて出発。10時15分、天満川に架かる新横川橋の北詰に着き、15分間休憩。高齢女性から「お元気ですね」と声を掛けられる。私の大声にびっくりしたのかな?再出発し、平和公園に近づいてくると、何だか感情が高ぶってきて、声が出にくくなる。
11時5分平和公園噴水前に到着。のどが渇き、資料館の水飲み機の所に行く。東京コースも到着し、終着集会を行う。米山さんや鳥取県の事務局長が約束通りに来てくれる。本当に有り難い。関わってくれた皆さんのお陰で歩ききりました。有難うございます。
また、横断幕をもって先頭で共に歩きながら、先年亡くなった、救援列車の運転手の話として「原爆投下当日、長崎に向かっていたが、たまたま出発が遅れていて直撃をまぬがれた、避難者、被爆者を川棚町に運んだ」と教えていただいた。
道幅があり、並んで歩けるときは平和行進ならではの学習の場になります。
今日の行程
大村市役所 (集合9:00 出発9:20)
岩松駅前 着9:50 発10:05
鈴田峠 着10:50 発11:45 昼食
バイパス高架下 着12:20 発12:30
諫早駅西口 着13:20 発13:30
高城公園 着14:00 発14:15 (副議長あいさつ)
バイパス交差点 着15:00 発15:10
西諫早駅 着15:35
だんだん1キロが長く感じられています。しかし残りは2日間になりました。爆心地の行進が楽しみです。
]]>
東彼杵町、大村市の行進です。
今日は、炎天下の蒸し暑い行進になりました。
行進コースも、長崎街道(国道34号線)に戻り、幹線道路になったので、脇道の旧道以外は、日陰も少なく、汗が噴き出しました。雨天続きから、急に暑い日になると、体温調整機能がついて行けず、ボウッとしました。
皆さんも暑かったようで、休憩の度に、軽トラックに積んだプラスチック桶の冷水麦茶が、飛ぶように「売れ」ました。ペットボトルに補給する人も、多くありました。
私は、冷水用の氷をもらい、帽子の中に入れ、頭の前部を冷やし、熱中症の予防をしました。
長崎の行進では、自治体の首長さんや議長さんからいただいたペナントを、旗棒に掲げて行進しています。リレー横断幕に結んで下げるのと違った、感じがあると思いました。
昼休みに、時間の余裕がある場合は、持参のパソコンを開き、行進日記などを書くようにしています。短時間ですが、夜の眠い時より計が進みます。
今日の行進距離は、参加者50人前後で19.5km歩きました。
沿道募金は、80056円いただきました。
1日で8万円の募金は、これまでの最高です。募金活動のベテランが、例年いただいている家を訪問し、多くなったそうです。