竹田昭彦日誌No.20

< 歓迎集会で被爆体験を聞く >


福岡市東区と博多区の行進です。


12時45分、昨日の行進が終了した東区の浜男公園で、出発式が開かれました。


一昨日は豪雨にあい、昨日は皆既日食でした。今日は暑くなりそうです。


午後1時、行進に移ると、出発式のとき60人だった参加者は、さらに増え、80人を超えました。


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▲商店街を携帯スピーカーで訴え行進=東区


車道を2列縦隊で行進する指示なので、隊列が100mにも長くなりました。交差点の青信号を1回で渡り切れません。分断された後続を、待ちながらの行進が、頻繁に続きました。


お巡りさんが付かない車道の行進は、最大の注意をしました。宣伝カーや隊列が、第1車線の左端に寄り過ぎると、第1車線と第2車線の間を通り抜ける車があり、危険性が増すからです。


先頭の宣伝カーと、後尾の救護車は、第1車線の左端ではなく、真ん中を通るようにお願いしました。


6時20分、終点の「水上公園」に無事着きました。天気も、さほど暑くならず、よかったです。


水上公園では、「福岡市原爆被爆者の会」と書かれた折り鶴を図案化した旗を持つ、被爆者の方たちに出迎えられました。


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▲福岡市原爆被爆者の会の歓迎=福岡市・水上公園


そして、「国民大行進福岡県歓迎集会」が開かれました(参加者150人)。


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▲福岡県歓迎集会=福岡市・水上公園


来賓者挨拶のなかで、3人の方が被爆の話をされました。原爆が爆発した瞬間は、太陽が地球に落ちたかと思うような、火の玉と爆風だったそうです。


北九州市の門司から行進に参加し、長崎まで通し行進する体内被爆者の溝浦義則さん(63歳)は、挨拶のなかで、初めて被爆体験を具体的に話しました。


小学生のとき、ABCC(米国の原爆傷害調査委員会)から、体内被爆の人体調査を追跡されたのです。


また、小学校では、被爆した生徒20人、普通の生徒20人が、6年間に渡って知能比較検査をされた、と話しました。


つらい体験を、人の前で話すことは、本当につらいことです。私は、涙して聞きました。


今日の行進距離は、区間により参加者75~85人で16km歩きました。

2010年2月

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このページは、Maekawaが2009年7月23日 22:00に書いたブログ記事です。

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