松浦宜孝日誌No.43

7時に別棟にある食堂に行くためフロントに下りていくと森さんが新聞の「原爆症訴訟全員救済」の記事を見て興奮している。昨夜のテレビのニュースを見ていなかったそうで、厚生労働省前での上訴するなの座り込みなどを経験している彼女はその喜びとここまで来るのに64年を費やした腹立たしさに複雑な涙が出ると言っていた。


外に出ると雨が降っていて、昨夜の天気予報で台風の接近を言っていたのを思い出し最終日も雨になると覚悟を決める。携帯iモード情報で確認すると10時半頃がピークで午後は日差しがきついとある。食事を終えて外に出ると雨はとりあえず上がっている。9時に宿を出る頃には青空がでていた。


日見公園の出発式では今日の責任団体、通し行進者の挨拶の後、広島原爆の犠牲者の冥福を祈って黙祷がささげられた。


10時にスタートした平和行進はほどなく今日の難関のひとつ日見峠への上り坂にかかる、まず右にカーブしながら34号線までの坂、そして交差点を左折してからも勾配はきついが見晴らしは良くなってくる。左手に美しいたちばな湾と今朝の雨で埃が落とされた島の緑が映えていた。その風景も視野から消え、太陽の日差しと約3キロの登り坂標高差200メートルのきつい坂が休憩を待ち遠しく思わせる。


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その休憩所はほぼ登りきった、すすき塚IC手前スズキ自動車の販売店横でした。多くの人が自動販売機でペットボトルのお茶類を購入していました。その後民商さんの給水車が遅れて到着、待ちわびていた人たちは何杯もおかわりしていました。兄弟に二人の脳梗塞患者を有するDNA持ちの私はコンビニで冷凍飲料を2本購入し、1本は保冷機能付きペットボトルホルダーに、他の1本は背中の首筋に入れ体温低下に使用し、解けた分だけ飲んでいました。


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休憩の後しばらく歩くと640メートルの長い日見隧道です、バイパスが別にあり通行量は少ないものの、暗くて危険なため1列縦隊ですすみました。下りも約3キロでしたが、まだかなと思う頃、市電の始発駅でもある蛍茶屋の休憩場所に着きました。この休憩所はモルモット代わりで調査はすれど治療はせずの「ABCC」の後継施設の放射線影響研究所の前でもありました。パンフレットをもらいましたのでまたレポートします。


市内を行進している途中で署名、宣伝行動を行うなどして爆心地に到着しました。終結集会では西彼半島コースの人を含め120人ぐらいになりました。まず長崎での原爆被爆者の冥福を祈って黙祷しました。原爆資料館館長も平和市長会議に市民も参加できるものがあるとのアピールも交えてあいさつ。被団協県会長の後,通し行進者もしめくくりの挨拶を行いました。

2010年2月

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このページは、Maekawaが2009年8月 6日 20:57に書いたブログ記事です。

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