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【2014国際青年リレー行進】ソフィア・ウォルマンさんの日誌(7月24日-25日)

7月24日-25日

今朝、私たちはヤスコさんのあいさつを受けて平和行進を始めました。彼女のお母さんは1958年に最初の平和行進に参加し、そして、もう一度、2007年、94歳の時に歩いたということです。この行進と、行進参加者が平和行進の歴史と遺産にどれほど鼓舞激励され、しっかりとつながっていることかと感じます。そして過去と現在の間で状況も大きく変わったに違いないということも。

今日のハイライトはベンさんの家を見ることでした。ベンさんは私たちの通訳のイギリス人で、今は奥さんのアキコさん、10か月のお子さんナム君と一緒にアキコさんの実家の倉敷に住んでいます。築約200年の家です。ご夫妻と赤ちゃんのナム君もその家では電気を使いませんが、それでも、その建築様式のおかげで内部はとても涼しく、私たちは帰る前にひんやりした水を飲ませていただきました。

ベンさんは日本での生活について多くのことを教えてくれました。歴史教科書から第2次世界大戦中の日本の戦争犯罪についての記述が削除されたことや、夫妻がたくさんの人を広島に連れて行ったこと、沖縄の残忍な歴史、戦争と核兵器の残虐性を学ぶために学校の子どもたちがみんなどうやって広島、長崎、東京に修学旅行に行くかなどを教えてくれました。

ある意味では平和はアメリカと日本の例を通して教えられるように思えます。これほどの暴力と悲惨な歴史をもつこの二つの国、これが、この好戦性を“素通りして”ここまで進んできました。しかし、私たちは、この活動をするなかで、平和とは単に戦争や暴力のない状態ではないということを知っています。

沖縄の人々はどうでしょう?かつては独立国で、その後残忍な日本の征服、支配、占領、そして文化破壊にさらされ、第2次世界大戦後はアメリカに占領され、二つの占領者のうち日本の「お好み」として「返還」され、現在は20%以上の土地を軍事基地に取られています。

これは、もちろん、平和とは言えません。アメリカ政府、日本政府はその犯罪において同盟を組んでいます(私はあえて、共犯者たちと呼びます)。

7.23-24(1)昼食の時間

7.23-24(2)マニシャと私、通訳の松本さんと

7.23-24(3)他の行進参加者と写真に(何日も歩いたけい子さんを真ん中に)

私たちは内海さん経営の旅館「エン」に泊まりました。ここでマニシャと私は広い畳の部屋をいっしょに使い、とても伝統的な宿舎のゆったり空間と贅沢を味わいました。

旅館の外で竹田さん、私、内海さん(家主)、マニシャ、田中さん、五十嵐さん。

朝(25日金曜日)、私たちはもう一日の行進に出発しました。昼食休憩をして、そこで平和のメッセージを紙に書きました。

午後、私たちは笠岡市役所で平和行進を終えました。ここで私たちは昼食時間に書いた平和メッセージをつけて何百もの風船を空に飛ばしました。私たちはちらっと土屋先生に会いました。彼は広島で原爆を経験した被爆者です。夕食で一緒になります。

私たちは、その後、英語の先生のみち子さんの家に行きました。彼女はおいしい日本の料理とバーベキューでもてなしてくれました。何とすばらしい、お祭りのような時間!戸外でバーベキューとは、二つの文化に共通です!私はバーベキューは、憲法記念日の休日にもよくするということがわかり、アメリカで、独立記念日(7月4日)でもこんな感じの食事と集まりがある伝統と似ていることがわかりました。

7.23-24(4)焼肉!!

食事が終わるにしたがって、私たちは土屋さんのまわりに集まりました。彼は私たちに原爆の時の広島での体験を語ってくれました。原爆が落とされたとき彼は配達をしていました。彼は語りながら、絵を見せてくれました。それは彼があの日とその後の数週間に体験した恐怖を語って彼が描いたものです。

これらのイメージが彼の心にいかに深く焼き付いていることか!もっとも恐ろしい光景を目撃した人々であふれる街。土屋さんは、がれきの下敷きとなって、女の人が助けを求めて叫ぶのが聞こえたと語りました。

死んだ巨大な馬が、腐敗していく、そのために兵士たちが穴を掘って埋めた。校庭に横たわる二人の人間。その死体のあとに20本の線が続いていた。10本の指で土を引っ掻いてきた跡だった。土屋さんが引きずって運び、焼くのを手伝った何十体もの遺体。青色の炎。彼は細かいところまで念を入れて説明しました。

そして、今でも国民は政治や指導者たちの冷酷な本質の犠牲になっている。政治の指導者たちは、人間の要求、希望、権利に対立があることに付け込み(ときには法律を作って合法化し)、大企業、独裁者、偽の民主主義によって約束された権力や富を求めてその機会に賭ける。

7.23-24(5)土屋先生と

裕福なアメリカ白人として、私は国外での爆弾や銃の音を聞いたことがありません。私はきれいな水がなかったがために黒い雨を飲んだり、浴びたりしたこともありません。私は戦争犯罪者と環境破壊者たちが彼らの快適な退職生活を楽しんでいる間、牢獄にいて命が奪われた多くの学友を持ったこともありません。私の両親は、アメリカが獲得の過程で大量虐殺をした土地に生まれ、実直な市民として生計を立ててのちに、監獄に入れられたこともなければ、アメリカから追い出されたこともありません。私は空爆で5人、10人、15人と家族を失ったこともありませんし、私の家が目の前で破壊されるのを見たこともありません。

しかし、私はそれらを経験したことのある人々からの愛とやさしさを感じたことはあります。そして私は、私の税金がどこに行くのかということを知っています。その多すぎる部分が、戦争、投獄、警察の残虐さ、国外追放などの非人間的な搾取を追い求める方向で使われているということも知っています。

この思いはすべて、私たちの現代史において人道に反する恐ろしい罪のひとつである、日本へのアメリカの原爆投下について個人的なお話をきいたことから湧きあがってきます。私たちはどこにいるのか?進歩したのだろうか?残念ながら、多くの点で私たちは世界平和をまだ達成できていません。

しかし、私はとても希望を持っています。一緒に平和行進をした仲間たちの目の中にそのための献身と確信が見えます。それは勇気の源泉であり、癒しと希望を与えてくれるものです。さあ、もう一日歩きましょう。平和へ。

(翻訳:松浦 哲朗)

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