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	<title>原水協通信 on the web</title>
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		<title>マラヤ・ファブロスさんの行進日誌40日目</title>
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		<pubDate>Wed, 19 Jun 2013 06:47:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Maekawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[03　平和行進]]></category>
		<category><![CDATA[04　被爆者]]></category>
		<category><![CDATA[08 草の根交流]]></category>
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		<category><![CDATA[2013マラヤの行進日誌]]></category>
		<category><![CDATA[マラヤの行進日誌]]></category>

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		<description><![CDATA[<p></p> 平和行進四十日目：ある被爆者の方の体験 <p>平和行進40日目については後でもうちょっと書こうと思いますが、とりあえず英語に翻訳されている一人の被爆者の体験をご紹介します。</p> <p>今日岐阜県で夕食の時にご本人にお会いしました。写真の左から2人目の方です。写真右側の女性は彼の娘さんです。彼女が今日一日私の通訳をしてくれました。</p> <p></p> <p></p> 核兵器の廃絶を願う ＜2010年NPT再検討会議第3回準備委員会NGOセッション（2009年5月5日）＞ 日本原水爆被害者団体協議会（日本被団協）事務局次長 木戸季市 <p>私の名前は木戸季市です。現在日本被団協で事務局次長をしております。</p> <p>69歳（編集者注：当時）で、いまでは比較的若い被爆者です。長崎で被爆したときは5歳でした。</p> <p>1945年8月9日午前11時2分、私は母と一緒に爆心地から約2キロの旭町という場所にいました。爆音が聞こえて私が飛行機の飛んでくる方向をむいた瞬間眩しい光を目にし、強い爆風で地面に叩き付けられ、すぐに意識を失いました。母は私は腕に抱いて稲佐岳の防空壕に逃げ込みました。</p> <p>そこで母と姉のさちこ、そして私は姉のあきよと合流しました。姉は後になってこのときの様子を手紙に綴っています。その手紙であの爆弾投下後の様子を知ることができました。</p> <p>この手紙で彼女は当時防空壕の中はとても暗かったのでマッチを擦ったと書いています。マッチの光で私たち3人が床に寝ているのを見つけた時、母親の顔や胸、両腕は無惨に焼けただれて膨れていたと。姉はあふれる涙を抑えられず、想像を絶する恐怖心をなんとか抑えたと書いています。私を見たら私の顔の半分と胸も酷いやけどを負っていたそうです。最初私のやけどはそれほど酷そうに見えなかったそうです。でも次の日やけどから膿がしみ出してきたそうです。しかも私が40度の熱を出していることに姉は気付きました。</p> <p>その翌日、爆心地から500メートル程の浦上川沿いの道を通って長崎から約3.5キロの場所に避難しました。姉は長崎病院の場所から街を見渡したとき、建物が一つも残っていなかったと書いています。護国神社に到着するまで何も建ってなかったと。建物の名残すらなかったそうです。沿道ではたくさんの死体が散らばっていました。見ないようにしたけれど道のいたるところに死体があるので死体を踏み越えて行くしかなかったそうです。大橋の下も死体が積み上がっていたそうです。</p> <p>意識を取り戻して私が最初に目にしたのは私の周りに散らばっていたドラム缶でした。小さい頃私たちは原爆のことをドラム缶爆弾と呼んでいました。なぜならこれらのドラム缶が爆発したのだと思っていたのです。両親は私の間違いを訂正しませんでした。ただ静かな涙で私の無知に応えました。</p> <p>1952年になって『朝日グラフ』という写真雑誌が原爆特集を組むまで私は自分が被爆者であるという認識がありませんでした。私はこの雑誌の記事に大変ショックを受けました。なぜならその記事には被爆者は白血病で死ぬ運命にあり、奇形児を産むだろうと書いてあったからです。自然と私は自分が被爆者であることや、原爆体験については口を閉ざすようになりました。長崎に住んでいて私たちは被爆体験については語らないのです。語らなくてもなんの問題もありませんでした。</p> <p>高校生のときは結婚したり、子どもを作ったりはするべきじゃないと私は真剣に思いました。ある教師は彼自身が被爆者でしたが、私に広島と長崎以外の場所では被爆体験は語るなと言いました。彼の忠告はとても説得力があるように思えました。</p> <p>大学生になったとき、私と友達は私が長崎出身だと知って、当時何があったのかと尋ねてきました。でも私はいつも話題を変えて語るのを避けてきました。一度誰かが私に、人間は核兵器に打ち勝てると言いました。その希望は私の中に残りました。後に私は自分の親しい友人に恐る恐る自分が被爆者であることを打ち明けました。彼はそうじゃないかと思っていたと言いました。それでもまだ自分の被爆体験を公の場で語ることができるようになるまでには心の準備が必要で、勇気が出ませんでした。その後長い間私は沈黙し続けたのです。</p> <p>1950年代後半、核兵器廃絶の運動は勢いを増し、多くの被爆者が被爆体験を語り始めました。そして世界にこれ以上被爆者を生み出してはならないと訴えました。その当時私はまだ自分の体験は公にしなくても良いと考えていました。自分より年上の被爆者が体験を話してくれているし、熱心に活動してくれているから大丈夫だと自分を正当化しました。いつの日か年配の被爆者が亡くなられて自分が実際に原爆を経験した最後の世代になったらそのときが自分の番だと思っていました。でもそれまでは他の人と同じように生きていたかったのです。それで被爆者運動には熱心に関わりませんでした。それに私は1969年に被爆者の組織が唯一存在していない岐阜県に引っ越しをしていたのです。</p> <p>1973年に私は結婚しました。当時私は被爆者は結婚して子どもをもち、人類が原爆に打ち勝てることを証明すべきだと説得されました。私の恋人は被爆者の抱える健康と社会的な問題を全て理解した上で結婚を決意してくれました。被爆者の書いた本を読んで分かった上で決断してくれたのです。でも彼女のお兄さんはこの結婚に強く反対しました。そして結婚式にも出席してくれませんでした。妻が健康な女の子を産んだとき、私はとても安堵しました。でも娘は小さいとき頻繁に鼻血を出しました。これは放射能の影響と関係があるのではないかととても心配しました。現在娘は健康ですが、私の不安は消えることはありません。この時期にもまだ私は自分の被爆体験を公にするつもりはありませんでした。</p> <p>1990年に日本被団協と岐阜県は共同で被爆者問題に関する会議を開催しました。100人以上の被爆者が県内各地から集まり会場を埋めました。そのとき私は自分が被爆者として活動するのは今だと感じたのです。私は1991年に岐阜県の被爆者団体を再建する活動に参加しました。そして事務局長を務めてきました。被爆者運動に関わるようになってから私は多くの被爆者のみなさんと交流する機会ができました。当時幼かった私自身の被爆体験の記憶には限りがありますが、年配の被爆者の方からお話を伺うことでその悲惨さ、困難さを聞いてきました。皆さんのお話は語り尽くすことができないものですが、被爆者の人生について学び続けていくつもりです。</p> <p>核兵器は2つの街を破壊し尽くし、たくさんの命を無差別に奪いました。人類が初めて体験した核の地獄でした。今なお原爆の被害は被爆者の心身に深い傷を残しています。原爆は人間が人間として人生を全うすることを許しません。狂気の兵器であり破壊しか生み出さないのです。存在することを許してはならない絶対的な悪の兵器なのです。</p> <p>私たち被爆者は核兵器が人間にもたらす苦しみを語ってきました。なぜならこの辛い経験をもう誰にも体験してほしくないからです。「ノー・モア・ヒバクシャ」は私たちが心から、自らの人生をかけて伝えたい訴えです。一日も早い核兵器の廃絶を強く願って私のスピーチを終わらせていただきます。</p> <p>ノー・モア・ヒバクシャ！</p> <p>ノー・モア・ウォー！</p> <p>ありがとうございました。</p> <p>（日本語訳＝三宅朋子）</p> [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><img width="200" height="200" src="http://www.antiatom.org/Gpress/wp-content/uploads/2013/06/20130617-103706-pm-200x200.jpg" class="attachment-thumbnail" alt="20130617-103706-pm" /></p><p></p> 平和行進四十日目：ある被爆者の方の体験 <p>平和行進40日目については後でもうちょっと書こうと思いますが、とりあえず英語に翻訳されている一人の被爆者の体験をご紹介します。</p> <p>今日岐阜県で夕食の時にご本人にお会いしました。写真の左から2人目の方です。写真右側の女性は彼の娘さんです。彼女が今日一日私の通訳をしてくれました。</p> <p></p> <p></p> 核兵器の廃絶を願う ＜2010年NPT再検討会議第3回準備委員会NGOセッション（2009年5月5日）＞ 日本原水爆被害者団体協議会（日本被団協）事務局次長 木戸季市 <p>私の名前は木戸季市です。現在日本被団協で事務局次長をしております。</p> <p>69歳（編集者注：当時）で、いまでは比較的若い被爆者です。長崎で被爆したときは5歳でした。</p> <p>1945年8月9日午前11時2分、私は母と一緒に爆心地から約2キロの旭町という場所にいました。爆音が聞こえて私が飛行機の飛んでくる方向をむいた瞬間眩しい光を目にし、強い爆風で地面に叩き付けられ、すぐに意識を失いました。母は私は腕に抱いて稲佐岳の防空壕に逃げ込みました。</p> <p>そこで母と姉のさちこ、そして私は姉のあきよと合流しました。姉は後になってこのときの様子を手紙に綴っています。その手紙であの爆弾投下後の様子を知ることができました。</p> <p>この手紙で彼女は当時防空壕の中はとても暗かったのでマッチを擦ったと書いています。マッチの光で私たち3人が床に寝ているのを見つけた時、母親の顔や胸、両腕は無惨に焼けただれて膨れていたと。姉はあふれる涙を抑えられず、想像を絶する恐怖心をなんとか抑えたと書いています。私を見たら私の顔の半分と胸も酷いやけどを負っていたそうです。最初私のやけどはそれほど酷そうに見えなかったそうです。でも次の日やけどから膿がしみ出してきたそうです。しかも私が40度の熱を出していることに姉は気付きました。</p> <p>その翌日、爆心地から500メートル程の浦上川沿いの道を通って長崎から約3.5キロの場所に避難しました。姉は長崎病院の場所から街を見渡したとき、建物が一つも残っていなかったと書いています。護国神社に到着するまで何も建ってなかったと。建物の名残すらなかったそうです。沿道ではたくさんの死体が散らばっていました。見ないようにしたけれど道のいたるところに死体があるので死体を踏み越えて行くしかなかったそうです。大橋の下も死体が積み上がっていたそうです。</p> <p>意識を取り戻して私が最初に目にしたのは私の周りに散らばっていたドラム缶でした。小さい頃私たちは原爆のことをドラム缶爆弾と呼んでいました。なぜならこれらのドラム缶が爆発したのだと思っていたのです。両親は私の間違いを訂正しませんでした。ただ静かな涙で私の無知に応えました。</p> <p>1952年になって『朝日グラフ』という写真雑誌が原爆特集を組むまで私は自分が被爆者であるという認識がありませんでした。私はこの雑誌の記事に大変ショックを受けました。なぜならその記事には被爆者は白血病で死ぬ運命にあり、奇形児を産むだろうと書いてあったからです。自然と私は自分が被爆者であることや、原爆体験については口を閉ざすようになりました。長崎に住んでいて私たちは被爆体験については語らないのです。語らなくてもなんの問題もありませんでした。</p> <p>高校生のときは結婚したり、子どもを作ったりはするべきじゃないと私は真剣に思いました。ある教師は彼自身が被爆者でしたが、私に広島と長崎以外の場所では被爆体験は語るなと言いました。彼の忠告はとても説得力があるように思えました。</p> <p>大学生になったとき、私と友達は私が長崎出身だと知って、当時何があったのかと尋ねてきました。でも私はいつも話題を変えて語るのを避けてきました。一度誰かが私に、人間は核兵器に打ち勝てると言いました。その希望は私の中に残りました。後に私は自分の親しい友人に恐る恐る自分が被爆者であることを打ち明けました。彼はそうじゃないかと思っていたと言いました。それでもまだ自分の被爆体験を公の場で語ることができるようになるまでには心の準備が必要で、勇気が出ませんでした。その後長い間私は沈黙し続けたのです。</p> <p>1950年代後半、核兵器廃絶の運動は勢いを増し、多くの被爆者が被爆体験を語り始めました。そして世界にこれ以上被爆者を生み出してはならないと訴えました。その当時私はまだ自分の体験は公にしなくても良いと考えていました。自分より年上の被爆者が体験を話してくれているし、熱心に活動してくれているから大丈夫だと自分を正当化しました。いつの日か年配の被爆者が亡くなられて自分が実際に原爆を経験した最後の世代になったらそのときが自分の番だと思っていました。でもそれまでは他の人と同じように生きていたかったのです。それで被爆者運動には熱心に関わりませんでした。それに私は1969年に被爆者の組織が唯一存在していない岐阜県に引っ越しをしていたのです。</p> <p>1973年に私は結婚しました。当時私は被爆者は結婚して子どもをもち、人類が原爆に打ち勝てることを証明すべきだと説得されました。私の恋人は被爆者の抱える健康と社会的な問題を全て理解した上で結婚を決意してくれました。被爆者の書いた本を読んで分かった上で決断してくれたのです。でも彼女のお兄さんはこの結婚に強く反対しました。そして結婚式にも出席してくれませんでした。妻が健康な女の子を産んだとき、私はとても安堵しました。でも娘は小さいとき頻繁に鼻血を出しました。これは放射能の影響と関係があるのではないかととても心配しました。現在娘は健康ですが、私の不安は消えることはありません。この時期にもまだ私は自分の被爆体験を公にするつもりはありませんでした。</p> <p>1990年に日本被団協と岐阜県は共同で被爆者問題に関する会議を開催しました。100人以上の被爆者が県内各地から集まり会場を埋めました。そのとき私は自分が被爆者として活動するのは今だと感じたのです。私は1991年に岐阜県の被爆者団体を再建する活動に参加しました。そして事務局長を務めてきました。被爆者運動に関わるようになってから私は多くの被爆者のみなさんと交流する機会ができました。当時幼かった私自身の被爆体験の記憶には限りがありますが、年配の被爆者の方からお話を伺うことでその悲惨さ、困難さを聞いてきました。皆さんのお話は語り尽くすことができないものですが、被爆者の人生について学び続けていくつもりです。</p> <p>核兵器は2つの街を破壊し尽くし、たくさんの命を無差別に奪いました。人類が初めて体験した核の地獄でした。今なお原爆の被害は被爆者の心身に深い傷を残しています。原爆は人間が人間として人生を全うすることを許しません。狂気の兵器であり破壊しか生み出さないのです。存在することを許してはならない絶対的な悪の兵器なのです。</p> <p>私たち被爆者は核兵器が人間にもたらす苦しみを語ってきました。なぜならこの辛い経験をもう誰にも体験してほしくないからです。「ノー・モア・ヒバクシャ」は私たちが心から、自らの人生をかけて伝えたい訴えです。一日も早い核兵器の廃絶を強く願って私のスピーチを終わらせていただきます。</p> <p>ノー・モア・ヒバクシャ！</p> <p>ノー・モア・ウォー！</p> <p>ありがとうございました。</p> <p>（日本語訳＝三宅朋子）</p> [...]]]></content:encoded>
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		<title>【国民平和大行進】沖縄−長崎コースが名護市辺野古から出発</title>
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		<pubDate>Tue, 18 Jun 2013 02:18:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Maekawa</dc:creator>
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		<description><![CDATA[<p></p> <p>2013年原水爆禁止国民平和大行進・沖縄−長崎コースは6月16日、名護市辺野古海岸を出発しました。五十嵐成臣さんが通し行進者として歩いています。沖縄県原水協の佐事安夫事務局長のリポートを紹介します。</p> <p></p> <p>出発集会には150人が参加しました。梅雨明けでカンカン照りを心配しましたが、曇り空のすばらしい天気でした。</p> <p>昼休みの到着前から雨が降りだし 昼食中は土砂降り。出発5分前にはピタリと止んでとても歩きやすい状態になりました。</p> <p>到着地点で署名行動。募金が8千円余り集まりました。</p> <p>明日は、金武町キャンプハンセン第2ゲート前から出発です。</p> <p>平和行進実行委員会に名護市長からメッセージをいただきました。</p> <p>市長メッセージ</p> <p>この度は、核兵器廃絶国民平和行進の開催にあたり、貴実行委員会をはじめ、ご参集されました多くの平和を愛する皆様に、ご挨拶を申し上げます。</p> <p>一昨年の東日本大震災以後、「核」を利用することに伴う「核」の危険性に対する国民の声は、ますます強く厳しいものとなっております。その中でも核を軍事目的として利用する核兵器は、あってはならないものであります。その思いから、本市では、一昨年、広島市と長崎市が主宰している平和市長会議へ加盟いたしました。平和市長会議は、2020 年までに核兵器の廃絶を目標とし、「2020 ビジョン（核兵器廃絶のための緊急行動）」の展開や被爆の実相を伝える活動などに取り組んでおり、本市も核兵器の廃絶を目指し、北東アジア非核兵器地帯を求める国際署名へ賛同したところであります。</p> <p>本日の核兵器廃絶国民平和行進も今年で56回目を迎えると伺っておりますが、今年の平和行進も、核兵器のない平和な世界への思いを胸に一歩一歩 歩、頑張っていただきたいと思います。</p> <p>私は、普天間飛行場移設問題に関しまして、「辺野古の海にも陸にも新たな基地は造らせない」との信念を貫く決意であり、平和行進が辺野古から出発することについて、意義深く感じております。</p> <p>結びに、参加者の皆様におかれましては、体調には十分注意され、核兵器の廃絶を訴えて平和行進を無事終えられることを祈念するとともに、皆様方のご活躍とご健勝を祈念申し上げ、私のメッセージとさせていただきます。</p> <p>平成25年6月16日</p> <p>名護市長 稲嶺 進</p> ]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><img width="200" height="200" src="http://www.antiatom.org/Gpress/wp-content/uploads/2013/06/辺野古出発-200x200.jpg" class="attachment-thumbnail" alt="辺野古出発" /></p><p></p> <p>2013年原水爆禁止国民平和大行進・沖縄−長崎コースは6月16日、名護市辺野古海岸を出発しました。五十嵐成臣さんが通し行進者として歩いています。沖縄県原水協の佐事安夫事務局長のリポートを紹介します。</p> <p></p> <p>出発集会には150人が参加しました。梅雨明けでカンカン照りを心配しましたが、曇り空のすばらしい天気でした。</p> <p>昼休みの到着前から雨が降りだし 昼食中は土砂降り。出発5分前にはピタリと止んでとても歩きやすい状態になりました。</p> <p>到着地点で署名行動。募金が8千円余り集まりました。</p> <p>明日は、金武町キャンプハンセン第2ゲート前から出発です。</p> <p>平和行進実行委員会に名護市長からメッセージをいただきました。</p> <p>市長メッセージ</p> <p>この度は、核兵器廃絶国民平和行進の開催にあたり、貴実行委員会をはじめ、ご参集されました多くの平和を愛する皆様に、ご挨拶を申し上げます。</p> <p>一昨年の東日本大震災以後、「核」を利用することに伴う「核」の危険性に対する国民の声は、ますます強く厳しいものとなっております。その中でも核を軍事目的として利用する核兵器は、あってはならないものであります。その思いから、本市では、一昨年、広島市と長崎市が主宰している平和市長会議へ加盟いたしました。平和市長会議は、2020 年までに核兵器の廃絶を目標とし、「2020 ビジョン（核兵器廃絶のための緊急行動）」の展開や被爆の実相を伝える活動などに取り組んでおり、本市も核兵器の廃絶を目指し、北東アジア非核兵器地帯を求める国際署名へ賛同したところであります。</p> <p>本日の核兵器廃絶国民平和行進も今年で56回目を迎えると伺っておりますが、今年の平和行進も、核兵器のない平和な世界への思いを胸に一歩一歩 歩、頑張っていただきたいと思います。</p> <p>私は、普天間飛行場移設問題に関しまして、「辺野古の海にも陸にも新たな基地は造らせない」との信念を貫く決意であり、平和行進が辺野古から出発することについて、意義深く感じております。</p> <p>結びに、参加者の皆様におかれましては、体調には十分注意され、核兵器の廃絶を訴えて平和行進を無事終えられることを祈念するとともに、皆様方のご活躍とご健勝を祈念申し上げ、私のメッセージとさせていただきます。</p> <p>平成25年6月16日</p> <p>名護市長 稲嶺 進</p> ]]></content:encoded>
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		<title>【国民平和大行進】奈良県大和高田市網の目コースにのべ100名参加　広陵町では町長から「核兵器反対に党派は関係ない」と感動的な言葉</title>
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		<pubDate>Tue, 18 Jun 2013 01:57:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Maekawa</dc:creator>
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		<category><![CDATA[奈良県]]></category>

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		<description><![CDATA[<p></p> <p>6月17日、奈良県大和高田市に国民平和大行進網の目コースがやってきました。</p> <p>市役所前受入式には50名が参加、市長代理から歓迎のあいさつを受け元気よく行進出発。「核兵器廃絶、原発再稼働反対、オスプレイは八尾に来るな」とアピールしました。</p> <p></p> <p></p> <p></p> <p>横断幕、風船、プラカードにのぼりとにぎやかに。0歳児から85歳まで幅広い年齢層が参加しました。</p> <p></p> <p></p> <p>土庫病院玄関前歓迎集会には80名が参加、ゴールの広陵町では町長や教育長など町幹部10数名と30分懇談。平岡仁町長からは核兵器廃絶へ日本非核宣言自治体協議会にも昨年加盟したこと、「核兵器反対に党派は関係ない」と感動的な懇談になりました。</p> <p></p> <p></p> <p>（大和高田市原水協事務局長・高崎大史）</p> [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><img width="200" height="200" src="http://www.antiatom.org/Gpress/wp-content/uploads/2013/06/高田平和行進セレクト¥IMG_3230　土庫病院前歓迎集会㈭-200x200.jpg" class="attachment-thumbnail" alt="高田平和行進セレクト¥IMG_3230　土庫病院前歓迎集会㈭" /></p><p></p> <p>6月17日、奈良県大和高田市に国民平和大行進網の目コースがやってきました。</p> <p>市役所前受入式には50名が参加、市長代理から歓迎のあいさつを受け元気よく行進出発。「核兵器廃絶、原発再稼働反対、オスプレイは八尾に来るな」とアピールしました。</p> <p></p> <p></p> <p></p> <p>横断幕、風船、プラカードにのぼりとにぎやかに。0歳児から85歳まで幅広い年齢層が参加しました。</p> <p></p> <p></p> <p>土庫病院玄関前歓迎集会には80名が参加、ゴールの広陵町では町長や教育長など町幹部10数名と30分懇談。平岡仁町長からは核兵器廃絶へ日本非核宣言自治体協議会にも昨年加盟したこと、「核兵器反対に党派は関係ない」と感動的な懇談になりました。</p> <p></p> <p></p> <p>（大和高田市原水協事務局長・高崎大史）</p> [...]]]></content:encoded>
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		<title>【国民平和大行進】被災地連帯　陸前高田で震災後3年ぶりの平和行進</title>
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		<pubDate>Mon, 17 Jun 2013 06:51:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Maekawa</dc:creator>
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		<description><![CDATA[<p>&#160;</p> ▲クリック！ ]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><img width="200" height="200" src="http://www.antiatom.org/Gpress/wp-content/uploads/2013/06/130617_平和行進交流ニュースNo.9-200x200.jpg" class="attachment-thumbnail" alt="130617_平和行進交流ニュースNo.9" /></p><p>&#160;</p> ▲クリック！ ]]></content:encoded>
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		</item>
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		<title>マラヤ・ファブロスさんの行進日誌36日目</title>
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		<pubDate>Mon, 17 Jun 2013 04:48:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Maekawa</dc:creator>
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		<category><![CDATA[マラヤの行進日誌]]></category>

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		<description><![CDATA[<p></p> 平和行進三十六日目：名古屋北部の名古屋市役所と清洲市役所 <p>今日は愛知県で行進する最後の日でした。今日のコースは名古屋市役所からスタートし、清洲市役所が最終地点でした。残念ながら私は皆さんと一緒に行進する事ができませんでした。でも愛知平和行進のホームページから素敵な写真だけでもご紹介します。</p> <p>今日の常滑コースは15キロあり、286人が参加されました。カンパも3万5103円集まり、署名は237筆集まりました。他にも愛知県では同時に中村区から中川区を歩く行進も行われています。こちらは230人の参加でした。常滑コースの皆さんの写真が今日のブログの最初の写真と下の写真です。</p> <p></p> <p>気持ちはとっても元気なのですが、身体が弱ってしまっています。</p> <p>お医者さんからは今日は行進せずに安静にするように言われてしまいました。何日お休みすればいいかお医者さんに聞きましたが、自分で完全に回復したと分かってから行進は再開するように言われました。これはとても難しいなと思います。何故って今でも自分の体調についてうまく判断ができてこなかったと感じているからです。毎日歩き続ける大変さは私の限界を麻痺させてしまっていて自分では（大丈夫）と思ってもそれが本当に大丈夫なのかが分からなくなってしまっています。</p> <p>お腹はもう痛くありませんが、まだ本調子ではありません。早く元気になりたいです。スーパーヒーローのウルヴァリンみたいに生身の人間もあっという間に元気になれたら良いのに！</p> <p>新婦人のメンバーの岩田さんが昨夜の夕食と今朝の朝食を用意してくれました。とっても親切な方です。昨夜も私のために白ご飯，うなぎ、そしてたくさんの新鮮なお野菜の和食を作ってくれました。とってもありがたかったです。</p> <p>今日はサンドイッチとトマト、そして大きなチーズケーキに美味しい鮭、サラダ、そして「はっこう」などを買ってきてくれました。全部食べるのは結構大変です。</p> <p>「はっこう」は発酵させたお米です。これは熱いお湯に混ぜて飲むのですが、ほのかに甘みがあります。岩田さんはこれが身体に良いと言っていました。もしかしたら「はっこう」はフィリピンのアムを発酵させたみたいなものかもしれません。アムは炊いたお米から出たとぎ汁です。Pinoy(フィリピン人を短く言う言い方です）の子どもたちはこれをよく食べさせられました。今の子も食べているかどうかは分かりませんが。</p> <p>矢野さんと私は名古屋の北病院に午後にもう一度行って右膝も見てもらいました。右膝の痛みがこのところ取れなかったからです。ラッキーな事にここのお医者さんは英語が話せたのでレントゲンを撮った後で骨は問題ないと言われました。筋肉痛のようなものなので右足も休める必要があるみたいです。</p> <p>車に戻る時に駐車場まで一人の看護婦さんが介助してくれました。私がフィリピン人だと知って彼女は自分のお孫さんもフィリピン人だと教えてくれました。嬉しい出会いでした！平和行進を続けていると、もっとたくさんの日本で暮らすフィリピン人との出会いがありそうです。</p> <p>身体のいろんなところに疲れが蓄積してきているみたいです。早く良くなって元気に平和行進に復帰したいと思います。</p> <p>（日本語訳＝三宅朋子）</p> ]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><img width="200" height="200" src="http://www.antiatom.org/Gpress/wp-content/uploads/2013/06/20130612-111314-am-200x200.jpg" class="attachment-thumbnail" alt="20130612-111314-am" /></p><p></p> 平和行進三十六日目：名古屋北部の名古屋市役所と清洲市役所 <p>今日は愛知県で行進する最後の日でした。今日のコースは名古屋市役所からスタートし、清洲市役所が最終地点でした。残念ながら私は皆さんと一緒に行進する事ができませんでした。でも愛知平和行進のホームページから素敵な写真だけでもご紹介します。</p> <p>今日の常滑コースは15キロあり、286人が参加されました。カンパも3万5103円集まり、署名は237筆集まりました。他にも愛知県では同時に中村区から中川区を歩く行進も行われています。こちらは230人の参加でした。常滑コースの皆さんの写真が今日のブログの最初の写真と下の写真です。</p> <p></p> <p>気持ちはとっても元気なのですが、身体が弱ってしまっています。</p> <p>お医者さんからは今日は行進せずに安静にするように言われてしまいました。何日お休みすればいいかお医者さんに聞きましたが、自分で完全に回復したと分かってから行進は再開するように言われました。これはとても難しいなと思います。何故って今でも自分の体調についてうまく判断ができてこなかったと感じているからです。毎日歩き続ける大変さは私の限界を麻痺させてしまっていて自分では（大丈夫）と思ってもそれが本当に大丈夫なのかが分からなくなってしまっています。</p> <p>お腹はもう痛くありませんが、まだ本調子ではありません。早く元気になりたいです。スーパーヒーローのウルヴァリンみたいに生身の人間もあっという間に元気になれたら良いのに！</p> <p>新婦人のメンバーの岩田さんが昨夜の夕食と今朝の朝食を用意してくれました。とっても親切な方です。昨夜も私のために白ご飯，うなぎ、そしてたくさんの新鮮なお野菜の和食を作ってくれました。とってもありがたかったです。</p> <p>今日はサンドイッチとトマト、そして大きなチーズケーキに美味しい鮭、サラダ、そして「はっこう」などを買ってきてくれました。全部食べるのは結構大変です。</p> <p>「はっこう」は発酵させたお米です。これは熱いお湯に混ぜて飲むのですが、ほのかに甘みがあります。岩田さんはこれが身体に良いと言っていました。もしかしたら「はっこう」はフィリピンのアムを発酵させたみたいなものかもしれません。アムは炊いたお米から出たとぎ汁です。Pinoy(フィリピン人を短く言う言い方です）の子どもたちはこれをよく食べさせられました。今の子も食べているかどうかは分かりませんが。</p> <p>矢野さんと私は名古屋の北病院に午後にもう一度行って右膝も見てもらいました。右膝の痛みがこのところ取れなかったからです。ラッキーな事にここのお医者さんは英語が話せたのでレントゲンを撮った後で骨は問題ないと言われました。筋肉痛のようなものなので右足も休める必要があるみたいです。</p> <p>車に戻る時に駐車場まで一人の看護婦さんが介助してくれました。私がフィリピン人だと知って彼女は自分のお孫さんもフィリピン人だと教えてくれました。嬉しい出会いでした！平和行進を続けていると、もっとたくさんの日本で暮らすフィリピン人との出会いがありそうです。</p> <p>身体のいろんなところに疲れが蓄積してきているみたいです。早く良くなって元気に平和行進に復帰したいと思います。</p> <p>（日本語訳＝三宅朋子）</p> ]]></content:encoded>
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