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原水協通信

毎月発行している日本原水協の機関誌です。国内外の反核平和運動についての情報が満載です。 日本原水協のウェブサイト→ http://www.antiatom.org/

「核兵器の全面禁止を!」

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【2014国際青年リレー行進】アーサー・タイマングロJr.さんの日誌(5月22日)

5.22(1) のコピー

今日は富士宮市から隣の富士市へのコースでした。朝、浅間神社を訪れる機会がありました。穏やかな雰囲気に満ちていて、あんなに清らかな庭は今まで見たことがありません。神社を訪れたあと、平和行進の出発場所である平和の像へ向かいました。富士宮市の核兵器廃絶平和都市宣言は以下のとおりです。

「平和の象徴である富士山を持つ富士宮市は、核軍拡競争の悪循環が核戦争の危険を増大させていることを憂い、人類の生存と恒久平和のために、すべての核保有国に対し、核兵器の廃絶と軍縮を求め、わが国の非核三原則が完全に実施されることを願い、国際社会の連帯と民主主義の原点に立って、核兵器廃絶の世論を喚起するため、ここに『核兵器廃絶平和都市』となることを宣言する」

▲富士宮市の平和の像

私たちが行進していると、富士宮市の人たちは非常に友好的に私たちを受け入れてくれました。行進の隊列と並行して、あちこちに分散して募金を呼びかける行進者たちがいます。「ボキン」という行動です。私がこの旅を始めてから、私たちはたくさんの惜しみない募金を受け取りました。 私は行進しながら、募金をしてくれた人がいるとジャンベをできる限り大きく打ち鳴らし感謝の気持ちを表しました。富士宮を回った後、短い集会をするため市役所に向かいました。今まで訪れた市と同様に、市議会の代表が平和行進への賛同と広島までの旅の幸運を願うメッセージを述べました。私もそこでスピーチし、グアムでのアメリカによる軍事化や、射撃場を使用するためにチャモロ族の人々からパガン島を奪う軍事計画について簡単に説明しました。昼食の後、富士市へ向かいました。

▲富士市であいさつする田中さん

公園に到着して、平和行進の歌を演奏する2人のミュージシャンに出迎えられました。彼らは本当に一生懸命で、たくさんの人を参加させていました。彼らにジャンベで一緒に演奏しようと誘われました。私はこういう時はいつも光栄に思いながら参加します。音楽という言語がどんなに飛びぬけて素晴らしいものか、そしてそれが長い道のりで出会う人々とのつながりを作るのをどれだけ助けてくれたか、私はいまだに驚かずにはいられません。富士市役所で簡単に私たちの紹介があった後、市内を歩きました。予想通り、たくさんの寛大な募金があり、手を振る私たちにたくさんの人たちが応えてくれました。このコースは約2時間で、近くの公園で今日の終わりの集会をしました。集会の後、宿泊するホテルのある清水市に向かい、通訳のおかだ先生に会いました。おかだ先生は70歳で歴史に精通している方です。

夕食でおかだ先生のことがよくわかったのですが、彼が語った第2次世界大戦のとき静岡であった空襲の話に驚きました。おかだ先生は当時1歳で、兄は3歳でした。空襲のとき、お母さんが背中におかだ先生をおぶって、幼い兄の手を引いて逃げました。その時お母さんは敵機に見つからないよう必死になって暗い場所を探しました。そのうちお母さんは心に大きなショックを受け、靴が脱げて足から血が流れているのにも気が付かなかったそうです。彼はさらに、道路に横たわるおびただしい数の遺体にも驚かないぐらい、お母さんの感覚が麻痺してしまった様子も語りました。その様子がありありと目の前に見えるようで、聞きながら涙がこぼれそうになったほどでした。お母さんは戦後、めったにこの話をしなかったし、何があったのか語りたがらなかった、とおかだ先生は言いました。

日々行進をしながら、私はたくさんのことを学び、同じ悲劇を繰り返さないために緊急に行動せねばならないことに気付いています。平和行進の多くの参加者は人生の後半にさしかかっていますが、彼らがこんなに長距離を歩けることだけでなく、彼らが熱い情熱を抱いていることにいつもとても驚かされます。彼ら全員ではないでしょうが、多くが戦争の影響を受け、平和を守る必要性を自らの体験を通じて理解しています。私が見たところや、彼らが歌う歌から察するところ、彼らは若者と若者の未来の安全を深く心配しています。ある参加者の女性は毎年行進の参加者数が減っていることを悲しんでいました。日本では若者が平和行進に参加するのはまれなことなのです。22歳のだいすけさんと私が、静岡の行進者では最年少です。いつの日かこの状況が変わり、若者がもっとこの素晴らしい運動に参加するようになればと思います。私は、グアムでも日本でも、戦争を経験し生き抜いた世代の方たちに感謝しなければなりません。みなさんは全員が本当にたいへんな経験をくぐり抜けてこられました。みなさんの粘り強さと力強さには本当に驚かされます。みなさんが信念をもって平和のためのたたかいに献身されていることに感謝します。

(翻訳:国吉 綾乃)

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【2014国際青年リレー行進】アーサー・タイマングロJr.さんの日誌(5月21日)

5.21(1)

今日は私の平和行進3日目。毎日長距離を行進したあとで日々ブログをなかなか更新できないことをお詫びしないといけませんね。

今朝は米海兵隊キャンプ富士と日本の陸上自衛隊基地が向かい合って位置している富士山の近郊に集合しました。いつも通り自己紹介をし、私のここでの目的を簡単に説明しました。基地の存在がもたらす脅威に御殿場の皆さんが晒されていることが残念だと述べました。私たちグアムの住民も、軍事基地が長年人々を圧迫し、米国防総省が私たち先住民の土地を取り上げようとしているという、非常に似通った状況に置かれていることを説明しました。私たちは平和行進が出発する前に、軍事演習の射爆撃の破片で汚されることのない、澄み切った青空と安全な場所を未来の世代に残す事を歌った「青い空は」を歌いました。

雨降りだったのでお天気にはあまり恵まれませんでした。今日の行進の出発地点は、キャンプ富士と向かい合う日本の自衛隊基地を隔てる道路の上を行進したため、意義深いものとなりました。急な坂を下ると、ゲートに沿って私たちの後を追ってきた日本の自衛隊員たちがいました。私たちが行進を続け、彼らの脅迫的な振る舞いにも優しく対峙し、他の人々に対するのと同じように声をかけたにもかかわらず、私たちを威嚇しようとしていたようです。キャンプ富士入口付近の丘の麓まで下った時点ですぐに御殿場市役所に向かいました。市役所前には御殿場市が核廃絶理念の支持を宣言する大きな白い看板が立っています。ここの市議会議員が激励のメッセージを読み上げ、私たちの広島までの道のりの幸運を祈ってくれました。議員の方々は竹田さんと田中さんにペナントも贈呈して下さいました。

次の到着地は沼津市役所です。市議会と沼津の方々の前で自己紹介をしました。いつも通り彼らの理念への支持を表明し、近くの湾を米軍基地が占拠していることにお悔やみを申し上げました。沼津コースは雨の中の行進でしたので、なかなか大変でした。約2時間行進した後で、近くの小学校で休憩を取りました。私の限られた日本語で数人の小学生に話しかけ、自分がグアムから来日して静岡から愛知まで歩いていくことを説明しました。私がそんなにも長距離を歩いている意味がよく掴めていない生徒達のリアクションを目にするのが楽しかったです。子どもたちの多くが「何これ?(What is this?)」と繰り返し聞いてきました。

さらに1時間ほど行進した後、LCACs(エアークッション型上陸用舟艇)がよく寄港する軍事基地に着きました。この特殊な基地は美しい砂浜を占拠しており、残念なことに沼津の方々は軍事演習がおこなわれる際は浜辺を楽しむことができません。この湾は最初、米軍によって使用され、今では自衛隊によって占拠されています。沼津原水協の事務局長が年間最低6回はおこなわれる演習の種類を簡潔に説明され、演習の様子の写真を見せてくれました。LCACsは重装備の兵器やその他の軍装備品の輸送用のホバークラフトです。沼津市民のある女性は基地から約1km離れた所に住み、軍事演習による騒音はその地域全体の住民生活を混乱させている事を話して下さいました。

この発言で、私はグアムでは女性下院議員が、リティディアンへの人々の立入りを制限して射撃演習場にする権限を軍に与えるという法案を提出した現状を思い出しました。この法案がグアムの多くの指導者たちや知事の支持によって可決されたことを知ったばかりです。私たちの指導者が人々に代わってまたしてもそのような選択をし、私たちの懸念を無視したことに心が痛みます。沈黙の意味を痛感しているチャモロ族の人々にとってはこの上なく嘆かわしいことです。グアムの州知事は女性議員の提出した法案と軍備増強支持に対して祝辞を述べました。国民の多くが軍備増強は自国の安全確保と、私たちの島に経済成長を確実にもたらすと確信しているのです。しかしこのことは多くの土地の接収という犠牲と、環境への脅威が避けられないという事実のもとに成り立っています。しかし、軍事化の問題は単に土地やお金以上に根深いと私は確信しています。私にはチャモロ族の人々のアイデンティティに重大な影響を及ぼすと思えます。わが国の指導者でさえ国民の口を封じようとする時に、いったいどうやって力をつければいいのでしょうか?国民が自国の将来に関する選択さえできない時に、その法案は私たちのアイデンティティについて何を語っているのでしょうか?自分たちが力を得たという実感もなく、自分たちが何者かについてもわからないまま、私たちが自らの可能性を本当に知ることは決してできないまま、人生を当てもなく不安定な状態で送るようになるというリスクが常につきまといます。当然ながら、人は自分のことを「他人」とか「第二級市民」と感じないでいさせてくれる権力の側につきたがる傾向にあります。この場合、先住民族の文化を守り、尊重することに関心を払わない権力のことです。軍事増強を支持する者はチャモロ族ではないと言っている訳では決してありません。私が言いたいのは、発言権を奪われることによって、人々は、自分たちは決して権力を手に入れることはできないのだと諦め、自らの土地の中で単なる将棋の駒のような存在となることを受け入れる状況に道が開かれてしまうのだということです。さらに、これは私たちの人間性を損なうことです。グアムの州知事は、基地増強は経済成長、雇用創出、未来への自信の増大につながると言います。しかし、国民の自信とはまず、私たちがここに生きているということを指導者たちが認識するところから始まるべきです。

今一度、私は、住んでいる町が軍事基地の影響を受けている日本の方々にお悔やみを申し上げます。グアムと日本の両国民の声に指導者たちが耳を傾け、尊重し、人々が軍事演習から解放されることを願っています。頑張ります!平和が一番です!

(翻訳:白石亜子)

【2014国際青年リレー行進】アーサー・タイマングロJr.さんの日誌(5月20日)

5.20(1)

▲第五福竜丸の悲劇を描写した素晴らしい絵

今朝は、近くの町に集合して三島市庁舎へ向かいました。三島市は1959年に非核平和都市宣言をしました。市民にとってより安全な場所を作るために力を注いでいる多くの市長に敬意を表します。残念ながら私の母国であるグアムではこのようなことはありません。多くの市長が下院議員の提出した「リティディアン岬を射撃練習場として使用する」という法案に賛成しているからです。私の国のリーダーたちも、軍事増強がもたらすとされている経済開発を進めるのではなく、住民の人間性を認めるような意見を採択してくれたら、と願っています。

私たちは三島市の市議会にあたたかく迎えられ、市はこれからも平和行進を支援することを表明しました。私はそこで自己紹介をし、グアムの軍事増強に関する社会問題について少し話しました。その短い挨拶の後、市からお弁当をいただきました。30分後に市庁舎の前で平和行進参加者が感謝を伝え、また行進に参加する仲間への激励の言葉をかけました。今日のコースがこんなに大変だとは思ってもみませんでした。何時間か行進をしましたが、とても急な登りでした。行進の途中、粕谷さんが行進のコールによく使う言葉を教えてくれました。その一つは「かくへいき」で、核兵器の廃絶をアピールするために「かくへいきをなくそう」と繰り返し呼びかけます。また、彼女は国際紛争を解決する手段として戦争を禁止した憲法9条の大切さも教えてくれました。一方で、この条項を傷つけ、日本の人たちの安全と安全保障に悪影響を及ぼそうとする人たちやグループがあることも教えてくれました。

▲すばらしい新婦人の女性達が私の旅費のために募金を集めてくれました。お礼の言葉もありません。

急な坂道を登り、やっと長泉町に到着しました。ここで初めて富士山を眺めました。みなさんの思いやりとあたたかいおもてなしには感謝しきれません。新婦人の女性たちが私の愛知への旅のために募金を集めてくれました。このことには言葉にできないほど感謝しています。新婦人の皆さんは本当にすばらしく、大きな激励を受けました。私がジャンベを演奏していることに気がついた地元の行進参加者の方が、自分で作った笛と、曲に合わせた吹き方の説明書をプレゼントしてくれました。楽器を持ったミュージシャンの方と出会うと私はいつも嬉しくなります。音楽家同士はお互いに自然に引き寄せられるようです。そして、彼らと一緒に演奏できるチャンスがあるととても嬉しくなります。音楽は真の共通言語です。私の日本語は片言ですが、音楽が行進に参加している人たちと知り合いになるのに確実に役立っています。行進の途中で、刺激をくれる人たちにいつも出会います。鈴木さんという方は私達たちとの行進を心待ちにしていました。現在82歳の彼女は、平和行進にここ数年間参加しています。彼女が平和行進の参加を決めたのは、彼女自身が戦争の影響を受け、何人かの兄弟を失っているからです。彼女に一緒に歩いてくれたことにお礼を言い、彼女の力強さを称えました。行進参加者の多くが年配の方々です。行進は肉体的にかなり疲れるのですが、彼らの信念が私を前に進ませ、疲れていることを忘れさせてくれます。7時間近く歩いてその日の目標の場所に到着し、みんなでお互いの努力と目標への献身をねぎらいあいました。

解散した後に、わたなべ先生が私を含めて何人かを東富士射爆撃場へ連れて行ってくれました。富士山の眺めは息を呑むほどの美しさですが、その神聖さを汚す射爆撃場は例外でした。グループ写真を撮った後で、「不法侵入だからここから去るように」と自衛隊に言われました。この問題は身につまされました。というのも、グアムでも私達の土地が奪われ、軍事目的で商品化されているからです。夕飯の席で、わたなべ先生が この演習場でおこなわれている様々な訓練について私達に説明してくれました。そこでどれほど巨大な迫撃砲や戦車、大砲が使われているのかを聞き、耳を疑いました。先生が見せてくれた爆発の写真を見てぞっとしました。それは、その土地と、御殿場の人々の尊厳を真っ向から踏みにじるものでした。

▲粕谷さんと鈴木さん。粕谷さんはとても親切にしてくれました。

▲鈴木さんは82歳。美しい心の持ち主です。

▲富士山の前で

今日は本当に疲れましたが、多くのことを学ぶことができました。そして日々お互いの闘いを交流しあえるのはすばらしい経験です。いつか日本とグアムがくだらない軍事基地から開放され、当たり前の権利として自分たちの土地を享受することができる日がきてほしいと思っています。

(翻訳:大内 響)

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【2014国際青年リレー行進】アーサー・タイマングロJr.さんの日誌(5月19日)

5.22(1)

皆さんごあいさつ申し上げます。私はアーサー・タイマングロです。グアムを代表して広島への平和行進に参加しています。今日が私にとって、平和行進初日になりますが、昨日18日に成田に到着しました。梶原さんが空港に迎えに来て、湯河原まで電車で3時間かけて連れてきてくれました。梶原さんには本当に感謝しています。湯河原まで遠い旅路の後、やっと日本の「旅館」に着き、そこで原水協の皆さんから歓迎を受けました。伝統的な和食と尽きることのないアサヒビールで夕食を楽しみました。皆さんのおもてなしの心遣いは本当に素晴らしく、故郷を遠く離れているとは思えません。夕食の時に、平和行進の仲間のマギティングについに会うことができました。彼のこれまでの経験とアドバイスを聞くことができ大変助かりました。また、東京から広島まで通し行進に挑戦されている竹田さんと田中さんにもお会いすることができました。お二人とも私よりはるかにお年を召しているのに、平和のために行進をやり遂げる強い意志をお持ちで、とても元気づけられました。夕食とおしゃべりのあと、日本の熱いお風呂を楽しんで床に就きました。

湯河原町から静岡県熱海市へ

朝8時半ごろ、バス停(?) 近くに集合しました。とてもたくさんの人が集まり、多くの人がこの運動にかかわっているのを見て感動しました。マギティングと一緒に静岡に向けて行進できたのもうれしかったです。2時間ほど行進して(神奈川県)湯河原町と静岡県の県境に到着しました。そこで静岡県内の行進参加者と引き継ぎ集会が開かれました。行進が通過した市や町からのペナントが結びつけられた棒が静岡の行進者に渡されました。ペナントは、これらの市や町が核兵器廃絶宣言を支持し、原水協やその他の団体が世界平和実現のために奮闘していることへの感謝を表しているのです。

この引継ぎ式のときに、マギティングから2014年国際青年リレー行進の旗を受け取りました。この引き継ぎ集会の間、広島の被爆者の方の証言を聞いてとても心を打たれました。永きにわたる痛みと苦しみの末に、彼女の唯一の願いは、核の悲劇が決して忘れられ、繰り返されてはいけないということでした。初日のこの日だけでも、多くの被爆者の方とお会いしました。彼らと一緒に行進に参加できることを誇りに感じます。原爆投下を生き延びただけでなく、核兵器廃絶に身をささげておられることは本当に素晴らしいことです。マギティングから旗を引き継いだ後、私たちは互いに別れを告げ、別々の道に踏み出しました。

静岡県内行進の最初の目的地は熱海市、英語で言うと“hot sea(熱い海)”だそうです。行進の間、粕谷さんが通訳をしてくれて幸運でした。他の行進参加の皆さんと同様に、彼女の不屈の精神と親切さは私にも伝染してきます。

彼女から政治や平和行進の歴史、日本の習慣など、様々なことを教わりました。熱海まで約2時間、宣伝カーの後ろを行進しました。宣伝カーのアナウンサーは平和行進の目的について訴えをおこない、様々なピースコールをおこないました。これに対して私たちは「イイネ!」とか「イマデショ!」と唱和します。「イイ」は「good」を意味する日本語で、平和行進では、アナウンサーが例えば「子どもたちにとって安心できる未来」といった何か核兵器廃絶の積極面を述べた際に、「イイネ!」と応答します。「イマデショ!」は「take action now!」を意味します。

平和行進に参加することは疲れるかもしれません、しかし参加者の皆さんの魂と熱意は行進を歩ききること、そして平和行進の目的を思い出すことを助けてくれます。

私はアフリカのジャンベという小型のドラムを行進のために持ってきました。このドラムを平和行進の歌を作曲した大熊さんと並んで歩きながら演奏するのはとても楽しいです。彼は信じられないほどカリスマ性があり、みんなの元気を引き出す才能がある人です。

2時間ほどの行進の後、今晩泊まる旅館に着きました。そこでまた素晴らしい和食の夕飯をいただき、静岡県原水協の皆さんに紹介されました。ここでも粕谷さんが皆さんとコミュニケーションするのを手伝ってくれ、戦争や原爆をめぐるたくさんの問題について話をしてくれました。

今日はまだ平和行進2日目でしたが、本当に多くのことを学びました。本当にこの行進に参加できて光栄に思います。そして多くの素晴らしい人々と知り合え多くのことを学んでいます。この先、どんなことが起こるかと楽しみにしています。おもてなしの心遣いに感謝するだけでなく、原水協の皆さんの平和への変化を生み出そうとする信念の強さに敬意を表したいと思います。

マタ アシタ! ガンバリマス!

(翻訳:名取 学)

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【2014国際青年リレー行進】マギティング・ファブロスさんの日誌(5月19日)

5.19(1)

湯河原から静岡への引き継ぎへ

平和行進を歩くのも今日で最後! うーん、すごい!

神奈川県内の平和行進が13日間、約1000人の人々と何事もなく歩き通し、とてもいい調子なのにもうすぐ終わるのは嬉しくも複雑でした。もちろん、毎日一緒に歩いた仲間とお別れすることを思うと、ちょっと悲しいです。

昨晩、アーサー(AJ)に行進について話し、彼は神奈川県原水協といっしょに行進するみなさんに歓迎されました。今日、彼と一緒に歩くことにとてもわくわくします。というのも、今日初めて、国際青年リレー行進を引き継ぐからです。

行進は湯河原観光会館から始まります。田中さんと会うたびに、彼はいつも私の肩をぽんぽんと叩いて、私がいなくなると寂しいと言っているように首を動かします・・・。ハハハ… 私も同じ気持ちです。田中さんは私がジェスチャーで会話することが一番多かった仲間の一人だったので。いつもジェスチャーでコミュニケーションをとり、本当にお互いを理解しあってきました。彼が私と触れあうことで少しは英語を学べていたといいのですが。一緒の行進が終わる前に、お別れする時間をくれるそうです。

今日は平和行進にたくさん参加していました。もしかすると今日の引き継ぎ集会にわくわくしていたのかもしれません。彼らは神奈川県内の平和行進が成功を収めたことをとても誇りにしています。

生協のみなさんは、大きな隊列で、自分たちの平和の旗を持って行進に参加しアピールしていました。相模原水協や新婦人、日本被団協など、たくさん参加していました。

大熊さんがギターを弾いていたのも印象に残りました。

意気高く行進が始まりました。湯河原の通りを、大熊さんがギターを弾き、アーサーがジャンベを、私はタンバリンを叩きながら行進しました。歩きながら平和行進の歌も歌いました。とても素晴らしい経験で、連携は抜群でした。

湯河原町役場近くの地域の公園で休憩しました。湯河原町は神奈川県での最後の自治体です。町の職員のみなさんに歓迎され、アーサーが平和行進の感じをつかみ、歩くペースとお天気を知る機会になりました。

早めの昼食に、中華の弁当を食べました。引き継ぎ集会がすぐ始まるからとのことでした。わくわくします。

松平晃さんと大熊さんが、2人の歌手と一緒に道のそばで歌っていました。アーサーと私は大熊さんとまた即興演奏する機会がありました。町の中心部を歩いて、ついに静岡のみなさんが迎えてくれる公園に着きました。気持ちが高ぶってわくわくしました。

笠木さんと片野さんとともに、静岡県原水協や静岡の団体のみなさんにあいさつしました。大熊さんや松平さんと演奏するうたごえのグループもいました。彼らが私たちに拍手をしてくれるのを見て感動し、こみ上げるものがありました。

今日について言うと、私はローマ字で書いたスピーチを読むことはしません。というのは、私のそばに同時通訳に長けているかじやんがいたからです。事前にスピーチの中身を伝えることさえできませんでした。よくがんばったかじやん!

私はアーサーに青年リレー行進旗を無事引き継ぐことができました。彼の情熱と人をわくわくさせる力が、静岡で平和行進を歩く人々と出会い彼らを助けるだろうと感じられました。

竹田さん、田中さんと熱い抱擁を交わしました。ガンバッテクダサイ!

そして神奈川県の平和行進の責任者だった笠木さんも喜んでいるのがわかりました。日本原水協や東京原水協に感謝します。そしてもちろん、神奈川県原水協の、特に笠木さんに感謝します。彼が、平和と正義、非軍事的な社会、原子力ではないクリーンな再生可能エネルギー、良い統治、全ての人への人間らしい仕事など、多くのことを求める運動で、みんなを率いてくれたのです。

平和行進は一日に15~20キロを、6~8時間で歩くというだけのものではありません。平和行進は、広く人々を組織することであり、街頭の人々の目に触れ、声を聞いてもらうことであり、最高の形のボランティア活動でもあります。青年平和リレー行進を歩く私たちにとっては、広島に向かう行進に海外からの青年が一緒に参加し、並んで歩きたいという連帯の気持ちを表すことです。あらゆる努力、集団、才能、アイデア、旗、横断幕が合わさり、一つの大きな力となって、平和行進のもつ力を示し、平和行進がやって来たよとみんなに伝えるのです。平和は可能だということを示すのです。

平和行進です!ありがとうございます!

(翻訳:梶原 渉)

【2014国際青年リレー行進】マギティング・ファブロスさんの日誌(5月18日)

5.18(1)

鴨宮から真鶴

今日箱根はとても肌寒い日でした。山田さんのお宅で豪華な朝ごはんをいただきました。時々晴れ間も見えました。竹田さんによると、箱根は海抜およそ800メートルに位置するそうです。山を降りる際、地元地域がいかにして森や川を守っているのかということに驚きました。

私たちは早めに鴨宮駅に到着しました。今日はたくさん行進者が集まっていて、しかも日曜日です。原水協の山田さんが迎えてくれました。山田さんは西相模原水協で約23年間活動を続けておられます。山田さんのこの地での平和運動や労働運動に対する想いや献身性を感じることができました。山田さんは有能でリーダーシップのある方だと思いました。

大通りを行進する中でたくさんの人たちの温かい声援をいただきうれしかったです。ユキちゃんと、ユキちゃんの姪っ子さんと甥っ子さんに会いました。ユキちゃんはほんとうにかっこいい伯母さん!

富士山の景色を楽しみながら歩いていると、朝早くから上空を飛ぶジェット機から出た飛行機雲が目に留まりました。神奈川の人たちからも聞きましたが、日常に頻繁にもたらされる不満の種です。ジェット機が引き起こしかねない墜落事故や、騒音、排気ガスの危険性です。ここはまるで、ジェット機が基地を出て、近くにある航空母艦ジョージ・ワシントンに着艦し、また戻るという訓練のための練習場となっています。

小田原大橋の行進はとても楽しかったです。先頭で石崎さんと楽しく行進しました。石崎さんはとても陽気で情熱的で、声の大きな人です。石崎さんは毎日こんな感じです。通りすがりの子どもたちからも元気づけられました。橋の下にはサッカーや野球などのスポーツができる場所がたくさんありました。石崎さんが大きな声で彼らにあいさつをすると、彼らも気持ちよく返事をしてくれました。

それから、小田原市役所で、市の職員の方々の歓迎をうけました。日曜日にも関わらず集まってくださっていました。今日は私の行進の実質的な最終日だったので、神奈川での太陽をしっかり感じられるよう、日よけをしないで歩きました。

小田原駅でお昼を食べました。お昼を食べた後、休憩場でもある真鶴町役場へ向かいました。そこでは町長の宇賀一章氏が迎えてくださいました。宇賀町長はマイクを使わず大きな声で話され、とても温かい支援のメッセージを下さいました。

生協の女性はマスコットグッズをたくさん持っていました。いつも日本語で話しかけてくれるユガワラさんは、ピンクのハッピを身に着け、たくさん写真を撮ってもらっていました。またたくさんの風船を持ち歩きみんなにあげていました。そうすれば家に持って帰って飾ることができます。風船には原水協からの平和のメッセージが書かれています。

真鶴町の町を歩きました。上り下りの坂がとても多いのですが、道からの眺めはとても素晴らしく、みんな驚くと思います。真鶴町は海沿いの町で小さな港があります。すぐ近くに低い山々が並んでいます。

平和行進のポスターを目にしました。平和行進が始まる数日前に東京でも行進ポスターを貼るキャンペーンが行われました。真鶴町議の黒岩のり子氏が行進を先導してくださいました。

真鶴駅で今日の行進は終了しました。私にとっては最後の、午後の行進終了地点となります。短い集会を持ち、被爆者で現在はニューヨークにお住まいのシバタ・ミチコさんにお会いしました。海外在住なのにはるばる来て頂いたことに感謝しています。

今日は私が一緒に過ごす最後の夜なので、神奈川県原水協の方たちがみんな一緒に日本旅館に連れて行ってくださいました。ホテルのようなロビーがありましたが、各部屋は畳が敷かれた伝統的な部屋でした。きっと温泉もあるだろうと思いました。みんなそろって、おいしい料理をいただきました。

みんなが何を話しているのか分からなかったけど、みんなが楽しそうにしているのを見て嬉しかったです。みんなが笑うとつられて笑わずにいられません。なんとなくみんなの言っていることの要点が分かっていっしょに笑いました。梶原さん(かじやん)とグアムからのリレー行進者のアーサー・タイマングロさんを待っている間、みんなで感想を出し合いました。彼らが到着するとみんな大喜びで、私も自分のこれまでの経験をリレー行進者の仲間に話すことができるとわくわくしました。 vartojimo paskola, greitieji kreditai internetu, paskolos visiems bedarbiams, automobiliui be užstato, su vekseliu iš privačių asmenų, paskolų refinansavimas, sms kreditas: paskolos-internetu.eu

私が一人ひとりについて感じたことを話すことができて嬉しかったし、みんなが私にくれたメッセージに感謝でいっぱいになりました。本当に忘れられない夜になりました。明日は最終日です。今はみんなとのこの時間とビールを思い切り楽しもう!

カンパイ!

(翻訳:西田ちひろ)

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【2014国際青年リレー行進】マギティング・ファブロスさんの日誌(5月17日)

5.17(1)

平塚から二宮

今日は空が晴れ渡っています。

予定より早く平塚市役所に着いたので、走ったりストレッチをして準備運動をしました。市役所の隣の公園に行ってみるとたくさんの彫刻がありました。それに青少年会館も。すごい!

今日は神奈川原水協の片野さんが先頭でした。たくさんの被爆者の方が参加していて、被団協の中村雄子さんも来ています。被団協は被爆者の団体です。

様々な団体が参加していて、写真を撮るときはまるで同窓会のように気分が高まっていました。今日は特に女性団体からたくさん参加しています。

出発する前に、警察官が竹田さんにまた、「広島まで歩くのか?」と聞いてきました。昨日、この行進が本当に広島まで行くと聞いて驚いていた同じ警官でした。

参加者がたくさんいるのは、おそらく土曜日だからということと、大きな街ではなく電車での交通の便がいいからでしょう。

市立美術館のそばを通りました。この街は芸術家にとって住み心地がいいのかもしれません。市自体が才能のある人たちを大事にしていて、公園や標識に彼らの作品を採用しているのはいいことだと思います。

ベルマーレ商店街を通りがかりました。まだ少し朝早い時間帯だったので、歩行者は少ししかいませんでしたが、メインの通りまで行くと、家から手を振ってくれる人がたくさんいました。この地域の人たちは行進者たちにとても感謝していました。

空にはジェット機の行き来を示すひこうき雲の線が見えました。

メインの通りの近くの公園で休憩しました。たいていは1時間半から2時間おきに休憩を取ります。休憩は通し行進者に励ましの言葉をかけたり、参加者にあいさつする機会でもあります。

ゲートボールの試合をしているのを見かけました。とても楽しそうで自分にもできたらいいなと思いました。

長い緩やかな上り坂を歩いた後、大磯町に到着しました。大磯は漁師の街です。東京から電車ですぐなので休日を過ごすのに人気です。たくさんの丘を通り過ぎて、少し暑く、風もありました。

私たちは古い幹線道路である国道1号線を歩いています。ちょうどフィリピンのマッカーサーハイウェーのようで、何十年も前は通行量が少なかったので道路の幅は広くありません。平和行進は1958年から続いているので、とても古いルートなのでしょう。

自転車のギアをめいっぱいにして走る人がたくさんいました。私たちは彼らが通り過ぎるたびに、レースの最終周回で鳴らすベルのように、タンバリンをできる限り激しく打ち鳴らしました。

町役場について、職員から歓迎を受け、海岸線が見える会議室でお弁当を食べました。波の音がとてもリラックスさせてくれました。 最近はずっと市街地や山道を歩いてきたので、他の通し行進者たちもこの眺めを楽しんでいたと思います。

役場には電気自動車の充電施設があり、歩いていると他でも見かけました。町が、特に自動車のクリーンエネルギー普及に尽力していることがわかってよかったです。

二宮に向かって歩いていると古い松並木を通り過ぎました。引き続き1号線を歩いていているのですが、竹田さんがこの松並木は300年前の江戸時代にまでさかのぼると教えてくれました。城山公園にさしかかったとき、そこに行く時間があったらなと思いました。ははっ!願望だね…

こゆるぎハイツで休憩しました。みんなとても疲れているようです。少し高度がある道路を通ったのと、暑い日差しが何かしら影響していたのだと思います。

「静岡まで107km」という標識を見つけて、静岡に着くのが楽しみになりました。でもあと数日でフィリピンに帰ることを考えると悲しくなります。

二宮駅に着くと少し疲れました。私にとっては一番大変だった日のひとつかもしれません。

二宮駅前には、水晶かガラスでできたうさぎを持った少女・たかぎ・としこさんの像があります。としこさんが12歳のときに父親は空襲で亡くなりました。としこさんの家が営んでいたガラス工場も被害をうけ、父親がつくったガラスのうさぎとともに取り残されました。この話は良く知られていて、二宮町が平和のシンボルとして彼女の像を建てたのです。

二宮町でも戦争で多くの人々が亡くなりました。駅の中で亡くなった方もいます。二宮の話を教えてくれた医療ソーシャルワーカーのゆみさんに感謝です。

疲れ切った1日を二宮町役場で終わりました。副町長が出迎えてくれて、一緒に堂々と歌を歌ってくれました。ナイス!素晴らしい!

今日は地域原水協の事務局長のやまだ・ただしさんがホストファミリーでラッキーでした。かなのまちでいわたさんとゆたかさんに連れられて豪華な車で移動しました。

箱根の山のなかに行くと、奥さんと友人のゆきさんが歓迎してくれました。ゆきさんは小柄でとても可愛らしく、若く見えます。

やまださんも英語の教師です。こぞの・まいさんと一緒に、日本語の会話を理解するのを手伝ってくれ、あるいは少し長い英語で感動を伝えるときの手助けをしてくれました。

やまださんの家に予定より少し遅れて着いたので、すぐ夕食にしてくれました。“箱根スタイル”で、新鮮な野菜と大きなお皿に13種類のお魚やエビのお刺身が載っていました。本当にどれを最初に食べようか選ぶのがむずかしい宴会のような雰囲気でした。僕が好きな野菜天ぷらもありましたし、もちろん日本の最高のビールも飲みました。

家の造りには驚かされました。大きなくぎやねじは使われていません。およそ140年前の古民家を埼玉から移築したもので、梁や柱はそのまま使われています。階段の近くにはサムライ祭壇やおもちゃなど古いものがたくさあります。まいちゃんが通訳してくれて、興味深い話をたくさん聞けました。特にゆたかさんはフィリピンの政治にとても精通している方でした。まいちゃんは勇敢に私たちの会話を通訳してくれました。夜遅くなったのも気づかないほど、とてもおいしくて楽しい夕食でした。それから良く休んで明日に備えようということになりました。

(翻訳:国吉綾乃)

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【2014国際青年リレー行進】マギティング・ファブロスさんの日誌(5月16日)

5.16(1)

藤沢から平塚

この日は快晴の朝で始まりました。風はあまりないのにまだひんやりしています。平和行進者たちは藤沢駅近くの市役所に集合し、そこで日本共産党(JCP)に勤務しているわたなべ・あきこさんと落ち合いました。彼女は私の日本語も助けてくださいました。以前カナダにいらしたので英語が非常に堪能です。

私たちは藤沢市役所からスタートしました。出発式が始まる前に、急いで後をついてくるようにと矢部さんに言われ、着いた先には平和の火のモニュメントがありました。これは広島の平和の火からとったものです。

最初の休憩地点では、近隣の保育園の園児たちが合流しました。ここの園児たちは毎年参加していて、まるで園児たちの歩行練習のようでした。園児たちは自分たちで描いたお絵描きの工作を服の前後に貼り付けてもいました。ある子の背中には憲法9条も貼られていて、これも楽しい出来事のひとつとなりました。子ども達は横断幕の後ろで勇敢なポーズをとってくれました。この保育園の先生のご主人も日本共産党の方です。

歩き続けていると多くの工場の前を通り過ぎました。ホテルでは「湘南ライフスタイル」と描かれた宣伝広告を目にしました。湘南とは相模海岸に広がる地域です。ここでの「ライフスタイル」とはサーフィンやサイクリング等をする浜辺近くの生活を意味するのでしょう。

行き交う車に乗っている多くの方々が、行進に園児たちが一緒に歩いているのを見て微笑みかけてくれました。園児の母親たちも沿道から声援を送っていました。

私たちはかつて大工場があった広い跡地にある公園で休憩しました。地方自治体がこの跡地を商業ビルや市立病院へと転換したのです。 休憩中の私たちのところに、友人とスケートボードを抱えたとてもかっこいい青年が合流しました。彼はNo Nukesのシンボル入りTシャツを着ていました。園児たちもまるでピクニックでもしているようにスナック菓子を食べて楽しいひとときを過ごしていました。一緒にいた園児の母親達はわが子が平和行進に参加したことをとても誇りにしていました。

古着を売ることもできるリサイクルショップが多く建ち並ぶ茅ヶ崎市に到着しました。この市はビーチやサーフィンで非常に有名です。茅ヶ崎駅そばのスポーツセンターで昼食をとりました。市の職員の方々や日本共産党員の女性に温かく迎え入れていただきました。彼女は非常にカラフルな服を着ていました。

平塚市に向かう途中、相模川に架かる馬入橋を渡りました。この川は相模湾に流れています。平塚市にはかつて日本帝国軍の弾薬庫と軍用機工場がありました。重要な戦略的拠点であり幅広い海岸を有していました。それが第二次世界大戦でこの地がひどく破壊された理由です。

あきこさんがこの市の道幅が近隣の市より広いのは戦後復興の際に道幅の広い道路を作るか否かの選択肢を与えられたからだと教えてくれました。現在改修工事中の平塚市役所を過ぎました。この日の行進は平塚図書館で終了です。

私たちの行進の指揮者に指名された山崎さんは、この数日間、行進の隊列の先頭で平和行進のワゴン車を運転して下さいました。山崎さんの奥さんは、米軍基地の外で泥酔した米兵に殴打され、亡くなったそうです。その兵士は彼女から15000円を奪おうとしたのですが彼女が抵抗したのです。泥酔し、殺しの訓練を受けた米兵が命の値段をつけるなんて、想像を絶するし、無分別極まりないことです。山崎さんが平和行進に指揮者として参加し、生涯をかけて米軍基地と戦う誓いを立てたのはそのためです。

神奈川の道路に明るい東さんと山崎さんは非常に頼もしく、私たちを助けてくれました。

いつも私たちの前を歩いて一緒にいて下さり、いつ終わるとも知れない私とのおしゃべりにずっと付き合って下さったあきこさんもありがたかったです。私の平和行進の仲間たちは、私がやっと一日中話ができる人と出会えたことを喜んでくれました。勉強して少しでも日本語を話せるようになる必要がありますね。

(翻訳:白石亜子)

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【2014国際青年リレー行進】マギティング・ファブロスさんの日誌(5月15日)

5.15(1)

葉山から鎌倉

今朝もまた雨が降ってひんやりした朝でした。私たちは葉山町役場には早めに着いたので準備する余裕がありました。田中さんは常に何枚かの絵はがきを持っています。観光地でその場所の写真の載った絵葉書を購入して大切な人に送る、昔からの方法があります。毎日田中さんは郵便ポストを探しては絵はがきを投函しています。多分切手もたくさん持ち歩いているのだと思います。絵はがきを投函して彼はいつもにっこり笑います。田中さんが平和行進の期間中、日々の経験をどれほど大事にしているかがわかる瞬間です。

私はちょっと電話ボックスでも遊んでみました。というのも、扉がジムのトレーニング機械のようになっていたからです。ハンドルを引っ張るとウエイトが上がって、ハンドルを離すとウエイトが下りてくる仕組みでした。シンプルですがとても効率的な仕組みだと思います。

葉山町は相模湾に近く、天候も温暖です。特産品は葉山牛と椎茸だそうです。

朝の式では92歳の被爆者が紹介されました。山梨崇仁(やまなし・たかひと)さんという若い町長さんが歓迎してくれました。お話しする機会があり、彼は英語が話せました。以前にフィリピンに行ったことがあると言われていました。ウィンドサーフィンをしにセブ島に行ったそうです。セブは美しい街だと彼は言ってくれました。

雨脚が強くなって来たので時間通りに歩き終えるためにもすぐに歩き始めました。これは日本のみなさんの時間に対する考え方をよく表していると思います。以前私はアメリカ人の上司の下で働いていたことがあります。彼はいつも「時間は金だ」と言っていました。日本で私は「時間は他者への敬意の表れだ」と教わっています。できるだけ時間を守ることは、同じく時間を守ろうとする別の人の努力に敬意を表することなのです。

フィリピンには「フィリピンタイム」があります。みんな遅れるから結局全体の時間がずれ込むことをからかった言い方です。もしかしたら「なんでもあり」でリラックスしたライフスタイルのせいかもしれません。日本で会議に参加すると常に決まった時間に始まって、決まった時間に終わります。私は毎朝ホテルのロビーに集合時間に遅れずに行くように気をつけています。だって時々1−2分遅れただけでも竹田さんはホテルのフロントに部屋に電話してくれるように頼んでいるからです。

今日はトンネルを抜けて山の方へ向かいました。日本を旅していると、本当にたくさんのトンネルがあります。すごいのはこのトンネルが山ひとつ全てを貫通していることです。200メートルのトンネルもあり、雨の日にはこのトンネルが救いになります。車は少しスピードを落として通って行きます。なぜなら車用に一車線と歩行者用の狭い道があるだけだからです。

トンネルの出口に近づくと逗子市の標識が見えて来ました。トンネルを出る頃には空は曇っていましたが雨はやんでいました。アリガトウゴザイマス!

逗子の市長さんも暖かく出迎えてくれました。また逗子市在住の被爆者の方も待っていてくれました。逗子も葉山同様に人気のある海岸リゾート地です。そして東京や神奈川に通勤する人々が多く住んでいるベッドタウンでもあります。

今日の行程をあまり知らなかったので日本とアメリカの旗が両方たなびいている光景を見て驚きました。私たちは池子ハイツ米軍住宅に近づいて行きました。池子は元々日本軍の弾薬庫だった場所で、現在は横須賀基地の一部として使用されています。この基地は主に兵隊とその家族のための住宅になっています。驚いたことにここではフェンスに囲まれた中に鉄道の線路まで引かれていました。その線路はトンネルの向こう側まで続いていました。

今日は通行人と会うことの少ない行程でした。もしかしたら雨のせいもあるかもしれません。ひょっとして人々は日中は街の外に働きに行っていることもあるのかもしれません。池子の前で午前中の行進を終え、小さく集会を持ちました。笠木さんが基地の前で演説をしました。

お昼を食べた後で鎌倉まで歩きました。そこで私は福島よしてるさんに会いました。彼はマラヤともここで一緒に歩いたそうです。彼は英語が話せるので何度か助けてもらいました。9人の被爆者の方々が私たちと一緒に歩いてくれました。彼らが歩く姿はとても感動的です。高齢にも関わらず、私たちと一緒に歩こうとしてくれるその姿に励まされました。

鎌倉の被爆者団体の議長が短いスピーチをされました。彼は4歳の時に多くの犠牲者を目の当たりにしたそうです。その多くが水を求めていたと語っていました。これはやけどを負った人の典型的な症状です。水を飲む、もしくは身体にかけたがるのです。

鶴岡八幡宮の入口には大きな鳥居がありました。多くの人が写真を撮っていたので私たちも注目を集めました。このあたりはとてもリラックスできます。緑や自然が多いからかもしれません。ユネスコの文化遺産にも登録されています。

私たちは鎌倉駅に到着しました。この駅は独特のデザインで駅には見えません。近くの商店街まで歩いて行くと通行人の皆さんが手を振ってくれました。そこから鎌倉神社のところまで上り坂を歩きました。

それから巨大な白い像には本当に驚きました。大船観音というそうです。1920年代に建立が開始され、1960年代に完成したそうです。仏像の一部には広島と長崎の瓦礫の一部が原爆犠牲者の追悼の意味で使われているそうです。この大仏は全て手作りでコンクリートポンプ車などは使っていません。

折り鶴をお供えする台座と広島の火を灯したモニュメント、広島・長崎の建物からの瓦礫もありました。

福島さんが「今日は神社が行程に入っている特別な日」だと言いました。わたしは広島の平和のモニュメントやサダコ像を見た時と同じ気持ちになりました。こういう場所に立つと被爆者の苦悩が胸に迫ります。

ここでも集会を持ちました。4人の女性が被爆者の証言の朗読をおこないました。内容はよく分からなかったけど、彼女たちの読み方は心に響きました。これまで読んで来たもの、原爆資料館で見て来た映像や写真などが思い出され、原爆や水爆が爆発した後の人々の苦しみが繰り返しよみがえってきました。

松平晃さんがトランペットの演奏をしてくれました。彼はどこでも登場して、すごく格好良いです!

多くの団体も参加していました。コープの皆さんもです。佐藤良生さんという被爆者の方も来られていてニコニコされていました。

今日はコープの皆さんの招待を受けました。たかしさんとなかやまさんというパルコープシステムの方々です。ネットなどで注文するとドアの前まで商品を届けてくれる配送システムだそうです。

コープのあさみさん、笠木さん、片野さん、そして矢部さんと私たち3人の通し行進者は一緒に夕食を囲みました。焼き鳥とビールをごちそうになりました。竹田さんは電気技師だということが分かりました。矢部さんもエンジニアだそうです。どういうエンジニアかまでは分かりませんでした。フィリピンでも空港内で仕事をされていて、飛行機の整備などもされていたそうです。

その夜はホテルまで電車で帰って来ました。

(翻訳:三宅朋子)

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【2014国際青年リレー行進】マギティング・ファブロスさんの日誌(5月14日)

5.14(1)

三浦から横須賀へ

今朝は自然の空気と海辺の波音のなかで気持ち良く起きました。布団と、米粒のようなものを詰めた枕の感触、そして足に伝わる畳の感じ…。

朝食をここの旅館で食べましたが、これまた美味しかったです。串焼きにして干した魚と、卵、野菜などいろいろいただきました。加えて、有名な納豆もありました。納豆は、大豆を発酵させたものです。味は濃く、卵と混ぜるとさらに濃厚になります。私は以前、広島で納豆を食べたことがあります。納豆はふつう、朝食に出されます。培養菌の少し強い臭いがしますが、食べるのにはまったく問題はありません。納豆の風味は私にはちょっと強すぎるので、今日は食べる気になりませんでした。茶碗一杯分も食べきれないと思い、納豆は残すことにしました。

朝、出発の準備をしているとき、行進の仲間たちが、竹田さんが前回の平和行進の際に撮った写真を見ようと、パソコンの周りに集まってきました。竹田さんは、自分のホームページも開設しています。(takeda-a.net/)

私たちは、出発式に出るため、三浦市役所に向かいました。

公園で、鶴の碑を見ました。折鶴は、幸運、長寿、復興への願いの象徴です。折鶴は、第2次世界大戦時、広島で2歳の時に被爆した佐々木禎子さんが、病床で折り続けたことで広く知られるようになりました。

彼女は、12歳で白血病を発症し、回復を願って紙の鶴を折り始めました。彼女の目標は1000羽折ることでした。体調が悪くなり、644羽を折ったところで亡くなりました。級友たちは、禎子さんに、彼女の目標を引き継ぐと約束しました。

もう一つの説は、佐々木さんは1000羽の目標を達成したが、病気が治らなかったので、もうあと1000羽折ったというものです。この話は、多くの人びとの心を動かしました。そういうわけで、私たちが行く先々で、たくさんのご家族が折り鶴を寄せてくれますし、私たちは、託された折鶴を広島まで運び、彼らの代わりにお供えするのです。広島にある禎子の像に行けば、たくさんの折鶴を見ることができるでしょう。折鶴は、日本中から寄せられてきます。私もいつか、1000羽の鶴を折って、お供えしたいと思います。そのためのプランを練るつもりです。

平和行進の東京-広島コースは、800キロメートルです。1000キロ近い距離です。2都県を通過しただけで、1000人を超える方が行進に参加してくれたことを誇りに思います。私たちはまだ出発したばかりです。この平和行進は、日本の多くの人びとにとって、本当に記念碑的な事業だと思います。この行進に参加するすべての人が、誇りをもっています。

三浦市役所の職員たちから、歓送のメッセージをいただいて出発しました。商店街を通過しましたが、小さな通りで、店はまだ全て閉まっていました。通りは、魚を加工する店が連なっていました。魚は、日干しにした後、パックされて配送に回ります。

三浦市に三崎という地域があります。ここには、マグロを加工する港があります。

道沿いの丘の上には、広大な土地がビニールで覆われているのが見えます。植物を育てるためのビニールハウスは、日本ではありふれた農業技術です。極度に強い日光から植物を保護し、夜のうちに湿気を吸収して水に変え、植物に与えます。何千というビニールハウスの列が見えます。そのなかには、大根やキャベツのような野菜もあることでしょう。道端に、私の頭ほどもあるキャベツをたった100円で売っているスタンドがありました。大根は、私の腕くらいありました。とても安く、かつ新鮮です。

水に浮かぶ睡蓮のように、キャベツでいっぱいの畑がありました。葉が大きいため、まるでそこで泳げそうなくらいのキャベツの海に見えます。

急な上り坂を登りました。4車線の道路だったので、あまり渋滞にならずに済みました。駅の側で休憩し、昼食をとりました。

私たちは、駅のトイレを使いました。日本では、人や物を探しているときは、特別に駅の中に入ることができます。トイレは、チケットを買わずに使うことができます。駅員たちは、私たちのことを疑わず、無賃乗車するつもりはないものと信用してくれるのです。日本人は正直で信頼できる人たちなのです。

根岸の近くの公園に着くと、たくさんの横須賀の団体のメンバーから歓迎を受けました。私は、9条の会(日本国憲法9条を守るために運動している団体)のおの・ちづるさんに会いました。

多くの集合住宅が密集する地域を通過しました。まるでフィリピンの集合住宅プロジェクトのようです。 今、マニラ首都圏で問題になっていることの一つに、大量の不法移住者(スラム居住者)への住宅提供問題があります。彼らを別の場所に再定住させることは解決策の一つですが、職場へのアクセスや交通手段の利便性などの理由で、移住させても結局都心に戻ってきます。再定住地域は、上下水道や電気、医療サービスがなく、子どもへの義務教育も保証されないため、生活環境は劣悪なのです。

横須賀基地のフェンスに沿って歩きながら、私たちは、小泉元首相が住んでいる地域を通りました。おのさんは、この地域には、小泉氏を支持する右翼的な人や、保守的な人が多いと言っていました。小泉氏は、安倍首相と同じ政党に所属しています。小泉氏の事務所の前も通りましたが、国会議員である息子を支持する旗が掲げられていました。

おのさんは、小泉氏が原発の再稼働に反対していながら安倍首相の党に所属しているので、一体何を考えているのかわからない、と言いました。安倍政権は、早期に原発を再稼働したい考えです。

私たちは、米が浜通りを通りました。駅の近くに、たくさんの会社や商店が並んでいます。多くの米兵や市民が、歩きながら私たちに手を振ってくれます。横須賀市役所に到着し、職員から歓迎のあいさつを受けました。おのさんの助けを借りて、私は日本語で少しスピーチしました。

私は、笠木さんから、横須賀基地の前でスピーチするように頼まれました。基地の入口に向かって歩きながら、私は少し緊張しました。というのは、基地に反対する大衆行動で発言するのは、これが初めてだったからです。しかも、米軍基地の真ん前です。何人かの兵士がメモを取っています。「いいね」「今でしょ」の声をあげるチャンスです。私は、英語で短いスピーチをしました。「原水協のみなさん、神奈川の多くの基地を見る機会を与えてくださってありがとうございます。福島の被災者たちがいまだに仮設住宅で暮らしているというのに、ここの基地はきれいで大きくて、いったいどれだけの税金が使われているのでしょうか。私は、米軍が、ここから出て行き、この土地を日本国民に返すことを希望します。そして、ここから出て行って自国のお金を使ってください。米軍はアメリカに帰れ!」 私が覚えているのはこれくらいです。

その後、私たちは写真を撮ってもらいました。日本の自衛隊の軍艦や潜水艦も見ました。アメリカの軍艦は、山の向こう側にあるということで、見えませんでした。日本帝国海軍の軍港として開港してから150年になろうとしている横須賀基地は、第2次世界大戦後に アメリカの海軍基地になりました。多くの国がこの地域を欲しがりましたが、それはフィリピンのスービック基地のように、水深が深く、大型艦船が直接港に横付けできるからです。

行進の終着地点はヴェルニー公園でした。ここでは、多くのアメリカ人観光客が散策していました。

私は、しらい・ひさおさんに会いました。彼はいつもカメラを持ち歩いていますが、元はNHKのジャーナリストで、いまはフリーランスの記者をしています。私は「幻の声 (A Phantom Voice)」という、彼が作製したドキュメンタリーのサンプルをもらい、うれしく思いました。それは、広島で被爆した人たちの話です。そのうち、そのサンプルをスキャンして、このブログで紹介したいと考えています。

しらいさんは、横須賀基地と、日本の自衛隊の潜水艦や監視船が停泊しているドックの地図を見せてくれました。ここからは見えませんが、反対側にはアメリカ海軍の大きなドックがあり、空母ジョージ・ワシントンが停泊しています。

車に向かう途中で、私たちは、空母の点検修理にまつわる冗談を言いました。ジョージ・ワシントンは、来年、修理のためにアメリカに戻り、空母ロナルド・レーガンと交替する予定です。なので、抗議集会の名称は、「ワシントン」から「レーガン」に変えることになります。でももうこういったことは勘弁してほしいものです。

横須賀市をはじめ、周辺自治体に住む人たちは、彼らの頭上を飛ぶ軍用機について不満を言っています。はるか高く飛んでいても大きな音が聞こえるのですから、低空ならなおさらです。米軍は、訓練の一環として、低空飛行をおこなっています。ジェット戦闘機が、基地から空母へと飛んでいきます。米軍は、神奈川県の上空を飛行訓練空域にしているのです。こうした訓練活動は、空域の下に住む人びとをないがしろにしているだけでなく、住民を騒音と墜落事故の危険にさらすものです。日本政府は、基地周辺の住民の声に耳を傾けてほしいと思います。

私たちは、今日もまた和風旅館に宿泊しました。昨日と同じく、美味しいコース料理をいただきました。ほんとに豪華。オイシイデス!

(翻訳:佐伯一郎)

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【2014国際青年リレー行進】マギティング・ファブロスさんの日誌(5月13日)

5.13(1)

今朝5時に目が覚めたら、部屋の中で物音がしました。窓のところに鳥がいるのかなと思いながらまた寝たのですが、6時半に起きたとき、やっぱり音が続いています。なんと雨が降っていました。やっと雨具の出番がきたぞ。

寒くて風が強く、雨もけっこう本降りです。今日は市議会議員の方のあいさつを受けて出発しました。彼女が先頭でタンバリンをたたきながら歩いてくれて嬉しかったです。とても元気な人で、通りには彼女の選挙ポスターが貼られていました。彼女のような人が参加してくれて心が温まる気がしました。政治家になった今も彼女は平和運動に積極的に参加しています。

今日はBルートを歩いている竹田さんとは別々です。なので通し行進者は私と田中さんだけです。

雨の中の行進は2回目です。一回目は3日前ぐらいでした。短時間でしたが大雨の中でした。今日は初めから雨だったので、みんなきちんと雨具をつけて歩くことができて良かったです。1週間ぐらい前に買ったレインコートを着て、10キロぐらいの行進に耐えられるかどうか試すためシューズカバーも着けました。安かったけど丈夫そうです。

夕食はだいたい、大きなスーパーで野菜を買うことにしています。いろんな種類があるので。最近は米飯を減らしてパンを食べています。3日分として1斤のパンを買いました。野菜を多く食べて肉を減らすというダイエットをしています。でも平和行進を歩いている間は、結局ふだんよりたくさん食べることになってしまいます。へへへ。食べ物の話はこのへんで。

杉田に向かう道は上ったり下ったりでした。対面通行の狭い道を通ると家の窓から顔を出した人たちが、こちらに気がついて手を振ってくれました。

杉田の商店街は狭くて中華街みたいでした。食堂が多く、商店街のアーチのデザインは日本語には見えませんでした。昼食は商店街の中の食堂で、カレーと西洋風の料理をいただきました。メニューのサンプルはとても量が多そうに見えましたが、実際多かったです。日本は芸術的な食文化で有名です。アクリル製のメニューのサンプルも有名です。蠟とアルギン酸塩、シリコンを使った製造過程を見たことがあります。

休憩の間、みんながはいている全地形型・全天候型の靴の話になりました。私のランニングシューズは大雨が降ると濡れてしまいますが、フィリピンでは使う機会がないので、全天候型の靴は持って来なかったのです。

毎日、子どもの遊び場や公園で休憩があります。それぞれのコミュニティに専用の公園があるようです。そしてそれぞれ特徴があります。一番大事なのは、公園が清潔で、トイレが備えてあることです。

子どもたちがたくさん遊んでいるのを見て気が付いたのですが、親たちや付き添いの大人がいません。7歳より上の子どもたちで、自転車やスクーター、スケートボードに乗ってきたようです。ひとりで自転車で公園にやって来て友達と遊んでいるのです。

こんなことがフィリピンでもできたらいいのに。最近は、事故や誘拐、迷子になるのを恐れて、子どもが外で遊ぶことさえ禁止する大人が多くなりました。そのために、子どもたちは外で体を動かして友だちと一緒にクリエイティブな活動をするチャンスを制限されています。若者がなんの導きも受けずにソーシャルメディアにさらされると、暴力的なポルノ情報の影響を受けやすくなると言えるかもしれません。テレビの見過ぎや大音量の音楽のせいで視覚・聴覚に障害をきたす若者もいます。最近は、自信がなく、注意力が続かず、疲れやすく、物事に集中しにくく、不健康な子どもたちが増えているようです。

今日の行進を終えて、宿に向かいました。終結地点の金沢からは少し離れたところにある旅館です。旅館は伝統的な日本のゲストハウスで、畳を敷いた大きな部屋がたくさんあり、ふすまで仕切られています。

夕食を口にしたとたん、そのおいしさに嬉しくて飛び上がりそうになりました。シェフだったら絶対、ここの料理を食べてみるべきです。ホタテ、海藻類、はまぐり、マグロの頭、刺身、豚のあご肉、豚の心臓、大きな巻貝が出ました。そしてもちろんビール。魚や貝は新鮮で、本当に最高に美味しかったです。こんな素晴らしい料理を味わったのは初めてでした。完璧な組み合わせで、丁寧に料理されていました。おいしいです!

マギティング・ファブロス 記

【2014国際青年リレー行進】マギティング・ファブロスさんの日誌(5月12日)

5.12(1)

横浜Aコース

今日は晴れ。たくさんの人が行き交う駅に近い公園に集合しました。今日は参加者が多い。田中さん(東京-広島コースの通し行進者)は私たちとは別にBコースを歩きます。生協の方たちが手話を使った歌とダンスを披露してくれました。

横浜市水道局に勤めるいわみとしかつさんと横断幕を一緒にもって歩きました。いわみさんは通し行進者の竹田さんの親しい友人で、建築士でもあります。歩きながら、古い建物や建築中の建物の説明をしてくれました。また、彼が若く独身だったころ、仕事帰りによく飲みに行っていた地域も見せてくれました。いわみさんの職場はそこからすぐ近くで、今も飲食店が小さい通りに並んでいます。

一般的なアルコール飲料はビール、日本酒、焼酎で、ビールは色々な味があります。居酒屋や旅館で飲むと、たいてい瓶ビールが出されますが、コンビニには缶ビールを置いているのがほとんどです。ビールを飲むのは日本の習慣のひとつで、夕食を食べながら飲んでいます。フィリピンでは夕食を食べて一息ついた後、たまにビールを飲む程度です。

一緒に飲んでいる人にお酒を注いだり、注がれたりするのも日本の習慣です。ご飯を食べる前にグラスをかかげて「乾杯!」をするのも習慣です。

歩道の修理と排水溝を新たに設置する工事現場のそばを通りました。ここの通路は厳密で、指定された通路しか通れず、妨害してはいけません。よく見ると歩道は歩行者と自転車用でした。歩道の縁はなだらかになるようセメントブロックを並べてセメントを少しぬって仕上げられていました。

アスファルトの話になり、日本の道路で使われている素材は高品質で高価だそうです。ここのアスファルトは滑らかでなく、粒が大きめだからへこんだりひびが入ったりしにくいのです。

ショッピングモールで休憩をとりました。

生協の横断幕とプラカードがあって、手持ちの部分は古いバドミントンのラケットでつくられていました。なんて独創的なんだろう。 横浜市役所に着くころには、天気が良すぎてちょっと疲れを感じました。

市役所で晃さんに再会して、横浜の被爆者の方が手を振って大歓迎してくれました。Bコースのグループを待っている間、横浜市役所で働いていたいわみさんが市役所のなかを案内してくれました。古い建物で、なかには芸術作品が並ぶ大きな壁があります。

Bグループと合流すると、神奈川県庁へと向かいました。県庁はクラシックスタイルの建物で、アールデコ風だと思います。ヨーロッパの影響を受けて1920年代にたてられ、横浜にある三大名塔のひとつです。神奈川県庁は「キング」、横浜税関は「クイーン」、横浜市開港記念会館は「ジャック」と呼ばれています。

10人の被爆者の紹介が短時間あった後、近くで日本の大衆食カレーを食べました。

県庁の外に、県知事の歓迎の言葉を様々な言語で記した看板がありました。

フィリピンでは車はほとんどヨコハマタイヤ社のタイヤなので横浜という名前は良く知られています。だから、横浜といえばタイヤ、川崎といえばバイク、北海道、箱根、博多といえばいわしなんです。

この地域では三輪車が走っていることに気づきました。

私たちは再度県庁に集合して、晃さんがトランペットで演奏してくれました。また歩き出し、伊勢崎商店街に入りました。

私たちのあいさつに市民、特に学生は手をふったりして応えてくれます。なかにはとても恥ずかしがっている学生もいますが、目が合うと手を振ってくれたり日本式のお辞儀をしてくれました。

それから短い休憩をとった蒔田公園で新婦人の方たちと会いました。「love, peace」 「article 9」「no nukes」とプリントされたTシャツを着ているのですぐわかります。

上大岡駅で今日は終わりました。今日はとてもたくさん歩いた気がします。

横浜は古い港町。第二次世界大戦では神奈川県の多くの地域が空襲やじゅうたん爆撃で被害を受けました。それなのに今日では、横浜は東京の次に発展していて見どころがたくさんあります。

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【2014国際青年リレー行進】マギティング・ファブロスさんの日誌(5月11日)

5.11(1)

今日はとても陽射しが強くなりました。まだ8時半なのに、すでに暑さを感じます。私たちは海老名市役所の外に集合し、出発の集いを行いました。市役所の方々に歓迎を受けました。歓迎と激励のメッセージに耳を傾けました。

今日は日曜日なのに、私たちに会うためにわざわざ市役所に出てきてくれたようです。原爆被害者を追悼して建てた記念碑と、市役所の前に植樹した若木を誇らしげに見せてくれました。この木は広島の木から採って育てた苗だそうです。まるで被爆二世のようです。ここからは神奈川の磯ケ谷さんが平和行進に加わりました。

トンネルを通ると中の空気はひんやりとしていて、ちょっとホッとしました。3人組の子どもたちが通りかかり、そのうち中東出身らしい子が勇敢にも、「これは反乱(rebellion) のデモなの?」と聞いてきたので、「違うよ。これは平和行進なんだ」と答えました。

まだ幼い少年がこういう質問をするのもうなずけます。たぶん「反乱」という言葉の本当の意味を知らないのでしょう。あるいはこういう行動を反乱と描くようなテレビ番組をたくさん見ているのかもしれません。

日曜日なので家族連れや子どもがたくさん外で遊んでいます。たくさん家庭菜園も見かけました。野菜を育てている小規模菜園で、見ていて楽しいものです。農薬の匂いもしないので、自然栽培なのでしょう。収穫物を売る臨時の直売所もありました。見かけはみすぼらしいけど、お客さんが来ていました。

値段を確かめる余裕はありませんでしたが、輸送、袋詰め、品質管理とラベル付けなどのコストがかからないはずだから、他より安いんじゃないかな。

綾瀬市に入り、コープの人々の歓迎を受け、お茶やスポーツドリンクの接待を受けました。また光栄にも市長さんに会うことができました。彼女はスピーチをされ、その英語訳を私に渡して下さいました。日曜日だというのにわざわざ来てくださって本当にありがたかったです。これからご家族のもとに戻られるのだと思います。

チカさんに会ってびっくりしました。チカ・セルデンさんはニュージーランドに留学した人で、去年姉のマラヤに会っています。彼女は通訳をしてくれ、スピーチも助けてくれました。息子さんと娘さんを連れて来ていました。歩くだけだと飽きるだろうから、行進が続くあいだ、持っていた楽器とタンバリンをこどもたちに渡しました。

子どもが2人いると行進はまた違った楽しいものになります。平和行進には中年の人が多いので、彼らにとっては孫のようなものです。それに子どものエネルギーというのは伝染性があって、筋肉痛を忘れさせてくれるのです。毎日が日曜日なら、子どもたちがたくさん参加できていいのにな。

昼食前に厚木基地につきました。ここは太平洋地域最大の米海軍基地で、綾瀬市と大和市に位置しており、実は厚木市にはありません。基地の面積は1200ヘクタールあり、米軍と日本の自衛隊の共同使用基地です。第二次世界大戦の前は日本の海軍基地でした。朝鮮戦争とベトナム戦争の時にも利用されました。いつものようにフェンスに注意書きがあります。通信用の塔とレーダーの設備が見えます。

コープのお店で昼食をいただいた後、厚木基地の見学を終えて、空港がある基地の大和市側を通り、大和駅近くの公園へ向かいました。ショッピングモールやレストランがありました。日曜日で家族づれが多く、たくさんの通行人に手を振りました。

公園で短い式典があり、被爆者の方々が平和行進にメッセージを寄せてくれました。2度目の千羽鶴の束を受け取りました。これらの千羽鶴は通し行進者の手でずっと広島まで運ばれ、平和公園のサダコの像に捧げられます。

そろそろチカさんと子どもたちが帰宅する時間になり、近くの駅に向かいました。今日歩いた距離は長かったし、暑かったし、子どもたちには少し大変だったことでしょう。今晩はよく眠れるといいですね。

歩いている間、靴脱たかしさんがタンバリンをたたいてくれました。平和行進ではいつも音楽が流れ、彼は歌も歌ってくれます。ときどき語りが入るのですが、日本語なので歌詞はわかりません。でも彼が弾き語りをすると前を歩いている人々はいつも笑っています。彼はときどき「いいね!」コールを「オイ!」と言ったり、「今でしょ」を「今やろうー」と言ったりします。

瀬谷公園の近くまで来ると、かわいい子どもたちが二人加わりました。うり二つなので双子でしょう。お母さんはコープの組合員です。チカさんの子どもたちと同じように、彼らは平和行進のムードを明るく、元気づけてくれます。

今日の行進は瀬谷公園で終了しました。

今日は「子どもたちの日」でした。彼らは私たちのたたかいを引き継いでくれる、日本の将来を担う世代です。彼らもきっと成長したら私たちのように、平和行進などの平和運動の価値のわかる大人になってくれるでしょう。

一日の終わりに、平和委員会に招かれ、神奈川県通し行進者の磯ケ谷さんたち大学生とのディスカッションに参加しました。リラン・バクレーさんという、何十年も前にアメリカから日本に移り住んで、今在日米軍基地についての映画を撮っている人も参加しました。思いやり予算についてや、日本社会をアメリカ人の視点で見たものを撮っているようです。面白いものにするため、映画の中にはユーモアも含まれているようです。

彼の友人のやべたかこさんがミーティングの通訳をしてくれました。彼女はとても英語の達者な人で、日本で起こっていることもよく知っています。

話し合いの中で、学生たちに米軍基地をどう思うか聞きました。一人は、青年のほとんどは米軍基地の存在すら気にかけていない、と言いました。また、基地周辺に住む人々に何の利益にもなっていないと思う、という学生もいました。労働者らしいもう一人の参加者は、日本の税金が米軍基地支援に使われていることについて話しました。彼自身も税金を払っているので、米軍施設の維持に使ってほしくないと。

やべさんとはいろいろな問題について話しました。基地問題だけでなく、青年の失業、長時間労働、人口の多くが50-60代、あるいは退職者世代で、政府の歳入が不足していることなど、日本には本当にたくさんの問題があるんですね。だから政府は国債を発行して人々の貯金から借金をし、日本を観光客や外国人労働者に開放しようとしており、安倍首相は日本の武器輸出を推進しているそうです。

日本から外国に働きに出ている人は多くないので、送金収入は少ないでしょう。青年人口が少ないことが問題です。安倍首相はまた、医療制度をアメリカと同じようにしようとしています。

特に問題だと思ったのは、日本政府が米軍基地の維持の費用を払っていることです(思いやり予算)。グアムへの移転ですら日本の納税者が負担するのです。基地内の住宅は日本の平均的な住宅の3倍の広さで、夏は最大限に冷房を使っています。また米軍基地には絶対停電を起こさないと保証されているそうです。電力に問題が起こったとき、基地外の地域では停電があっても、基地内では停電は起こりません。

思いやり予算に公然と反対する日本の人々がいます。福島や津波の被害を受けた地域の人々はいまだに仮設住宅に住んでいます。思いやり予算はそういう人たちのために使うべきです。

フィリピンでは、フィリピン上院が「米国との拡大防衛協力合意」に疑問を呈するべきです。フィリピン人が収める税金が、自国領土内の外国軍隊のために使われるようになってしまうかもしれないからです。

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【2014国際青年リレー行進】マギティング・ファブロスさんの日誌(5月10日)

5.10(1)

今日はちょっといい天気。お日様はすでに顔をだして、日差しも少し強く感じられます。

私たちは、スカイブリッジのような大きな陸橋に出ました。走り回れるくらい本当に広いです。

私は、神奈川県平和委員会の菅沼みきおさんと、相模原平和委員会の市川ひろかずさんに会いました。みきおさんは、私に、少し通訳をしてくれました。手にタンバリンをもった、生協の靴脱たかしさんもいました。

4人の被爆者の方を紹介されました。村山さんがスピーチしました。4人のうちの一人は、97歳であることがわかりました。日本人は、本当に寿命が長いですね。高齢ながら、まだまだ元気でご活躍の方がたくさんおられます。ここ数日は、生協からの支援者が多いように感じました。女性団体の方が大きな横断幕を掲げていましたが、新婦人のみなさんでした。そしてもちろん、矢部さんのグループはJMIUです。

今日は、2つのコースに分かれました。私のグループはAコース、そして竹田さんのグループはBコースです。

東京-神奈川の通し行進者の一人が離脱しました。瀬戸遥さんは、健康上の理由で、歩きとおすことができませんでした。彼女は、たぶん、ストレスがたまっており、行進への準備期間も短かったのだろうと思います。もしかしたら、この行進が、それほど負担の大きいものとは考えていなかったのかもしれません。でも彼女が行進から離脱するという辛い決断をしたことは、よかったと思います。なぜなら、自分の身体のことは、自分しかわからないからです。そんなわけで、私たち行進者は、何か変調をきたしていないか、お互いに気を付けあうようにしています。次のときには、彼女はまた戻ってくるでしょう。とはいえ、彼女がいなくて少し寂しくなりました。

良いニュースは、瀬戸さんにかわって、同じく生協からきた和歌山の山東さんが参加したことです。彼女は、ときどき、アイフォンを使いながら、私に通訳してくれます。

私たちは、米軍相模総合補給廠に着きました。この施設の主な機能は、基地の維持管理、健康増進、研究、兵站支援と貯蔵です。

第2次世界大戦前、ここは日本軍の戦車製造や研究、石油貯蔵のための基地でした。ここはまた、朝鮮戦争やベトナム戦争でも大いに利用されました。この基地の敷地は500ヘクタールで、400近い建物があります。

基地の中の建物は、通常の日本の家の約3倍の広さもあるというのに、なぜ日本の家屋はせまいのだろうと思いました。

そのあと、私たちは、相模原市役所に到着し、市長その他、代表のみなさんから歓迎を受けました。平和行進に連帯の意を示すペナントやカンパをいただきました。飲み物やキャンディなどの差し入れもありました。2人の女性が、フルートとピアノで、とても素敵な曲を演奏してくれました。行進の途中で、岡本太郎という日本の芸術家の傑作を目にしました。それは、指を立てた赤い手のようでした。

「矢部」という名の地域を通過したとき、私たちは、ここは矢部さんの所有地じゃないかと冗談と言いました。JR淵野辺駅で短い休憩を取ったあと、座間駅に到着。西洋風レストランで昼食をとりました。

牛肉を食べたのは、初めてのことでした。私はチキンが好きで、いつも野菜と一緒に食べます。ここ数日、私は睡眠不足のため、日中は疲労と眠気を感じていました。血圧も少し高めです。私は当初、脱水症状ではないかと思いました。毎日大量の水と、ペットボトルのお茶、そしてときどきスポーツドリンクも飲んでいますが、それでも気分はあまり良くなりません。

そこで、経口補水塩を探しました。今日それを口にして、いくらか楽になりました。これで、今後も良くなればいいなと思います。もしかすると、冷たい風と、体内の水分を奪う熱のせいかもしれません。今日は経口補水塩を1リットル飲みました。

昼食後、駅の合流地点に向かいました。日が照りつけるなか、二手に分かれて険しい道を上りました。

ダルマを売っている店を通り過ぎたとき、山東さんは、ダルマの目が重要だと言いました。試験を受ける前、ダルマの目を白く塗ります。試験が終わり、合格したら、それに黒い目玉をつけます。彼女は、銀杏の木の葉が緑や黄色に変わることも教えてくれました。

トンネルの中を通ったとき、私は、このトンネルが、キャンプ座間という米軍基地に通じていることに驚きました。針金でぐるぐる巻きになったフェンスの中に、「立入禁止区域」という表示が見えます。それは、日本ではまず見かけない表示です。この基地は、座間市と相模原市にまたがっています。

基地の中には、住宅や学校もあります。まるで、フィリピンで、身分証明の必要な私有地に入るときのようです。日本のような社会でなぜいまだに身分を証明するようなことをしなければならないのでしょうか。米軍は、日本人を恐れているのでしょうか、それとも自分たち自身を恐れているのでしょうか。

私たちは、キャンプ座間の前で、平和行進のシュプレヒコールをしました。白人や有色、若者から年をとった人まで、多くのアメリカ人が基地の中に入っていきました。

基地の入り口の隣では、開発工事が行われていました。そこも基地の一部ということでしたが、どうやら宅地のようでした。

そして、座間市役所に着きました。土曜日にもかかわらず、職員や市長が私たちのために出てきてくれて、連帯のペナントやカンパをいただきました。私は、日本語で短いスピーチをしました。

今日のところは通訳がいないので、彼らが何を言っているのかわかりませんでした。「がんばろう!」

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【平和行進】国際青年リレー岐阜県内行進者が決定!

2014国際青年(岐阜)堀(木戸)浩子さん

▲マラヤさんと堀さん

2014年原水爆禁止国民平和大行進<東京−広島コース>国際青年リレー行進で岐阜県内(6月11日〜16日)を堀浩子さんが歩くことになりました。メッセージを紹介します。

昨年から岐阜県原水協の事務局の手伝いをさせていただいて、以前より平和運動への関心が強まりました。県内の平和大行進にも準備段階から参加させていただき、地域の人や、市町村の人、いろんな人が関わって実現していることを知りました。たくさんの人の平和への気持ちも一緒に歩いてつないでいることが分かりました。 青年リレー行進は、昨年に続いてマラヤさん、他に6人も海外から思いを伝えるためにみえます。「その気持ちを岐阜県で途切れさせてはいけん つながなくてはいけん」そう思い歩くことにしました。