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原水協通信

毎月発行している日本原水協の機関誌です。国内外の反核平和運動についての情報が満載です。 日本原水協のウェブサイト→ http://www.antiatom.org/

「核兵器の全面禁止を!」

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マラヤ・ファブロスさんの行進日誌40日目

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平和行進四十日目:ある被爆者の方の体験

平和行進40日目については後でもうちょっと書こうと思いますが、とりあえず英語に翻訳されている一人の被爆者の体験をご紹介します。

今日岐阜県で夕食の時にご本人にお会いしました。写真の左から2人目の方です。写真右側の女性は彼の娘さんです。彼女が今日一日私の通訳をしてくれました。

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核兵器の廃絶を願う <2010年NPT再検討会議第3回準備委員会NGOセッション(2009年5月5日)>

日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)事務局次長 木戸季市

私の名前は木戸季市です。現在日本被団協で事務局次長をしております。

69歳(編集者注:当時)で、いまでは比較的若い被爆者です。長崎で被爆したときは5歳でした。

1945年8月9日午前11時2分、私は母と一緒に爆心地から約2キロの旭町という場所にいました。爆音が聞こえて私が飛行機の飛んでくる方向をむいた瞬間眩しい光を目にし、強い爆風で地面に叩き付けられ、すぐに意識を失いました。母は私は腕に抱いて稲佐岳の防空壕に逃げ込みました。

そこで母と姉のさちこ、そして私は姉のあきよと合流しました。姉は後になってこのときの様子を手紙に綴っています。その手紙であの爆弾投下後の様子を知ることができました。

この手紙で彼女は当時防空壕の中はとても暗かったのでマッチを擦ったと書いています。マッチの光で私たち3人が床に寝ているのを見つけた時、母親の顔や胸、両腕は無惨に焼けただれて膨れていたと。姉はあふれる涙を抑えられず、想像を絶する恐怖心をなんとか抑えたと書いています。私を見たら私の顔の半分と胸も酷いやけどを負っていたそうです。最初私のやけどはそれほど酷そうに見えなかったそうです。でも次の日やけどから膿がしみ出してきたそうです。しかも私が40度の熱を出していることに姉は気付きました。

その翌日、爆心地から500メートル程の浦上川沿いの道を通って長崎から約3.5キロの場所に避難しました。姉は長崎病院の場所から街を見渡したとき、建物が一つも残っていなかったと書いています。護国神社に到着するまで何も建ってなかったと。建物の名残すらなかったそうです。沿道ではたくさんの死体が散らばっていました。見ないようにしたけれど道のいたるところに死体があるので死体を踏み越えて行くしかなかったそうです。大橋の下も死体が積み上がっていたそうです。

意識を取り戻して私が最初に目にしたのは私の周りに散らばっていたドラム缶でした。小さい頃私たちは原爆のことをドラム缶爆弾と呼んでいました。なぜならこれらのドラム缶が爆発したのだと思っていたのです。両親は私の間違いを訂正しませんでした。ただ静かな涙で私の無知に応えました。

1952年になって『朝日グラフ』という写真雑誌が原爆特集を組むまで私は自分が被爆者であるという認識がありませんでした。私はこの雑誌の記事に大変ショックを受けました。なぜならその記事には被爆者は白血病で死ぬ運命にあり、奇形児を産むだろうと書いてあったからです。自然と私は自分が被爆者であることや、原爆体験については口を閉ざすようになりました。長崎に住んでいて私たちは被爆体験については語らないのです。語らなくてもなんの問題もありませんでした。

高校生のときは結婚したり、子どもを作ったりはするべきじゃないと私は真剣に思いました。ある教師は彼自身が被爆者でしたが、私に広島と長崎以外の場所では被爆体験は語るなと言いました。彼の忠告はとても説得力があるように思えました。

大学生になったとき、私と友達は私が長崎出身だと知って、当時何があったのかと尋ねてきました。でも私はいつも話題を変えて語るのを避けてきました。一度誰かが私に、人間は核兵器に打ち勝てると言いました。その希望は私の中に残りました。後に私は自分の親しい友人に恐る恐る自分が被爆者であることを打ち明けました。彼はそうじゃないかと思っていたと言いました。それでもまだ自分の被爆体験を公の場で語ることができるようになるまでには心の準備が必要で、勇気が出ませんでした。その後長い間私は沈黙し続けたのです。

1950年代後半、核兵器廃絶の運動は勢いを増し、多くの被爆者が被爆体験を語り始めました。そして世界にこれ以上被爆者を生み出してはならないと訴えました。その当時私はまだ自分の体験は公にしなくても良いと考えていました。自分より年上の被爆者が体験を話してくれているし、熱心に活動してくれているから大丈夫だと自分を正当化しました。いつの日か年配の被爆者が亡くなられて自分が実際に原爆を経験した最後の世代になったらそのときが自分の番だと思っていました。でもそれまでは他の人と同じように生きていたかったのです。それで被爆者運動には熱心に関わりませんでした。それに私は1969年に被爆者の組織が唯一存在していない岐阜県に引っ越しをしていたのです。

1973年に私は結婚しました。当時私は被爆者は結婚して子どもをもち、人類が原爆に打ち勝てることを証明すべきだと説得されました。私の恋人は被爆者の抱える健康と社会的な問題を全て理解した上で結婚を決意してくれました。被爆者の書いた本を読んで分かった上で決断してくれたのです。でも彼女のお兄さんはこの結婚に強く反対しました。そして結婚式にも出席してくれませんでした。妻が健康な女の子を産んだとき、私はとても安堵しました。でも娘は小さいとき頻繁に鼻血を出しました。これは放射能の影響と関係があるのではないかととても心配しました。現在娘は健康ですが、私の不安は消えることはありません。この時期にもまだ私は自分の被爆体験を公にするつもりはありませんでした。

1990年に日本被団協と岐阜県は共同で被爆者問題に関する会議を開催しました。100人以上の被爆者が県内各地から集まり会場を埋めました。そのとき私は自分が被爆者として活動するのは今だと感じたのです。私は1991年に岐阜県の被爆者団体を再建する活動に参加しました。そして事務局長を務めてきました。被爆者運動に関わるようになってから私は多くの被爆者のみなさんと交流する機会ができました。当時幼かった私自身の被爆体験の記憶には限りがありますが、年配の被爆者の方からお話を伺うことでその悲惨さ、困難さを聞いてきました。皆さんのお話は語り尽くすことができないものですが、被爆者の人生について学び続けていくつもりです。

核兵器は2つの街を破壊し尽くし、たくさんの命を無差別に奪いました。人類が初めて体験した核の地獄でした。今なお原爆の被害は被爆者の心身に深い傷を残しています。原爆は人間が人間として人生を全うすることを許しません。狂気の兵器であり破壊しか生み出さないのです。存在することを許してはならない絶対的な悪の兵器なのです。

私たち被爆者は核兵器が人間にもたらす苦しみを語ってきました。なぜならこの辛い経験をもう誰にも体験してほしくないからです。「ノー・モア・ヒバクシャ」は私たちが心から、自らの人生をかけて伝えたい訴えです。一日も早い核兵器の廃絶を強く願って私のスピーチを終わらせていただきます。

ノー・モア・ヒバクシャ!

ノー・モア・ウォー!

ありがとうございました。

(日本語訳=三宅朋子)

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