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原水協通信

毎月発行している日本原水協の機関誌です。国内外の反核平和運動についての情報が満載です。 日本原水協のウェブサイト→ http://www.antiatom.org/

「核兵器の全面禁止を!」

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【平和行進】国際青年リレー第2歩行者アーサー・タイマングロJr.さん(グアム)からのメッセージ(英日)

アーサー・タイマングロJrさんからのメッセージ(英日)

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【2014国際青年リレー行進】マギティング・ファブロスさんの日誌(5月9日)

5.9(1)

第3日-5月9日 川崎から相模原(川崎市高津区役所→新百合ヶ丘~相模原)

川崎市高津区役所から今日の行進を開始しました。開会式には地元原水協など多くの団体代表が参加しスピーチし、私も連帯あいさつをしました。司会は神奈川県原水協の笠木さんでした。日本共産党のぬねやひろさんもあいさつされました。神奈川県の通し行進者のいとうさん、新婦人の金子さん、まさこさん、石崎さん、昨日も参加された被爆者の女性もそれぞれあいさつし、川崎市役所の方からもあいさつがありました。

とても陽射しが強い朝だったので、暑くなるかもと思い長袖のアンダーシャツと楽なTシャツ姿でしたが、その通り暑くなりました。日焼けしてきたので、毎日日焼け止めのローションを塗っています。

この地域は一車線だけの道路が多いので、警察官たちは無線で連絡をとりながら行進が交通の妨害にならないよう気をつけて誘導していきます。一車線を30-40メートルの隊列の平和行進が塞いでいるので、もう一方を両面通行にしています。

最初の休憩地の東高根森林公園では、晃さんのトランペットとギター、タンバリンの演奏が迎えてくれました。

矢部さんが楽器を渡してくれました。名前はわからないけど演奏はとても簡単で、上下に振るだけです。こどものおもちゃみたいですが、便利で簡単です。

わかやま市民生協の山東恵子さんにも会いました。

この地域の生協の人たちが新鮮な果物とお茶、水、スポーツドリンクで接待してくれました。こどもたちが多く、この公園にはたくさん人が来るようです。

歩いていくと初めて下り坂の道に出ました。

正午になって多摩区役所で休憩し、昼食です。中華料理を頼みました。写真を撮って、矢部さんに日本語でなんという名前の料理か聞きました。昼食後、血圧を測ってもらったら、少し高めでした。食べたすぐ後だったし、朝コーヒーも飲んだからかも。とても暑い日で、長い行進だったし、あまり眠れていなかったこともあります。水分をたくさんとるようにアドバイスされました。脱水気味だったのが大きな原因かもしれません。

通りを進むにつれて坂道が辛くなってきました。上り下りが多い曲がりくねった道でした。小学校の子どもたちが多く、竹林もたくさん通りました。

またコープがあるところで休憩し、果物、飲み物、甘いものをいただきました。

また上り坂にさしかかったとき、強い向かい風が吹きつけました。新百合ヶ丘駅に近づくころには風がもっと激しくなり、雨まで降ってきたので、急いで雨合羽をつけて傘をさしました。行進は進み、市役所に着く手前の駅の近くでいったん止まりました。残念ながら今日は通訳者がいなかったので正確な場所はわかりません。

そこからバンに乗って相模原へ向かいました。今日の行程は結構長かった。全員ずぶぬれで、クタクタになって眠り込んでしまいました。また明日もまだまだ続きます!

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【2014国際青年リレー行進】マギティング・ファブロスさんの日誌(5月8日)

5.8(1)

第3日-5月8日 川崎市役所から新城公園

まだ日本の気候に慣れてない事もあって、すこし疲れていますが元気に3日目を迎えました。今日はすこし涼しくていい天気でした。

たくさんの人の集まっている川崎市役所の周辺で今日の行進は始まりました。五十嵐さん(事務局注:田中薫さん)が私の写真が載っている東京新聞を見せてくれました。日本語は読めないから分かりませんが、多分東京にいた頃にやった事が取材されているのだと思います。

 

市議会の方、コープの方、そして被爆者のみなさんが挨拶してくれました。そこで女性の石像を見つけました。きっと折り鶴のように平和がモチーフになったものだと思います。

そして川崎から幸区まで移動し、休憩を取りました。ビルで日陰になっているところに集まって役所の方の挨拶を聞きました。ここの市役所ではそれほど長くは滞在せず、近くの公園に行きました。

 

途中、大きなマンションがたくさんありました。また新幹線の線路もありました。日本の電車の交通網には本当に驚きます。神奈川は東京の隣の県ですが、ここ でもすごい電車がたくさん走っています。確かに東京は一番すごいです。地下鉄もいくつも入り組んでいて、1つの駅で5つ以上の路線があったりします。これ ほどインフラ整備が進んでいるのはやっぱり日本が誇るべきところだと思います。これだけ電車が発達していたら車なんて必要ないでしょう。

そこから川崎平和ミュージアムまで行きました。そこでトランぺッターのあきらさん(事務局注:松平晃さん)に会いました。田辺かつよしさんが私に去年私の姉にも会ったと挨拶をしに来てくれました。そしてミュージアムを案内してくれました。

このミュージアムは1992年4月に川崎の空爆の記念日にオープンしました。日本の戦争の悲劇だけでなく、その他の国々の戦争や核兵器の犠牲者についても展示しています。さまざまな歴史的な映像も見る事ができます。田辺さんからこの地域はもともと米軍基地だったと教えてもらいました。今は日本の市民のためになる場所に変わっているのは素敵なことだと思います。元々は米軍基地だったフィリピンのスービックのような感じです。スービックも今はビーチと自然が美しい場所として観光客を集めています。「米軍施設のため立ち入りを禁ず」という鉄条網などは無くなり、誰でも自由に散策することができます。

神奈川県は本州のなかで一番米軍施設の多い都道府県です。沖縄に次ぐ基地の多さです。たくさんの米軍基地や施設が日本にはあり、まるで日本はアメリカの中継基地としての役割を担っているようにも思えます。フィリピンも以前はスービックやクラークなどアジア太平洋地域で最も大きな米軍基地を抱えていました。私たちフィリピン人は20年以上前にこれらの基地を閉鎖させた経験があります。だからこそ日本の平和運動をする皆さんは日本の米軍基地返還の闘いのモデルとしてフィリピンを参考にしているのです。

フィリピン政府とアメリカ政府は今、防衛協力を強化する内容の軍事条約を締結し、これによって新たな基地や軍の再駐留が実現しようとしています。日本の平和活動家の皆さんや諸外国の皆さんにはフィリピンでの米軍の軍事占領が継続する事に反対している私たちの闘いを支援していただきたいです。米軍基地がそこかしこにある日本のようにはなりたくありません。

ミュージアムを見学して昼食をとった後で、あきらさんの演奏で送り出してもらいました。行進には新婦人や被爆者の方もたくさん参加されていました。

私たちは元住吉駅に到着しました。近くには商店街があり、ブレーメン通りというそうです。戦後すぐにできた古い商店街です。ロバ、犬、猫、雄鶏という4種類の動物がモチーフになった面白い商店街のキャラクターがありました。この動物たちは悲惨な目にあって逃げ出し、音楽家になります。この動物たちはそれぞれが背中に乗って音楽を演奏し、時に悪者を追い払うのです。

ブレーメン通りを後にして近くのコープの店鋪に到着しました。そこで新鮮なバナナやミカン、キャンディーやスポーツドリンク、お茶やお水が振る舞われました。血圧検査まで実施してくれました。私の血圧はすこし高かったです。すこし脱水状態だったのかもしれません。

下校途中の子どもたちがたくさんいて、お母さんたちと一緒に挨拶してくれました。午後は涼しくて風もあったので気持ちよく歩くことができました。

最終地点は新城公園でした。みんな嬉しそうでした。今日は結構歩いた気持ちになりました。でもまだ行進は始まったばかりです。明日も今日みたいに風があって涼しい日だと良いのですが。

夕食は中華料理屋さんで日本のビールと中華料理を食べました。ここは矢部さんの行きつけの店だと思います。矢部さんはとっても面白い人でいつもニコニコしています。ここのお料理はすごく美味しかったです。ご夫婦でやられていて多分お子さんは中学生くらいだと思います。すごく融通を利かせてくれますし、平和行進のことや矢部さんのことをよく知っているみたいでした。

私は時々皆さんが笑った時に話が分かっている振りをして笑っています。これで皆さんが私に気を遣わずにいてくれるといいなと思います。どうせ分かってないのはバレているのですが。それにしても皆さん本当に優しくて感謝です!

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【2014国際青年リレー行進】マギティング・ファブロスさんの日誌(5月7日)

第2日-5月7日

待ちに待った平和行進の洗礼を受け、心配事はみんな忘れてぐっすり眠りました。暑い国から来た自分が冷たい風に耐えられるかと心配していたし、フィリピンだと山岳地帯に行かないとこんなお天気はないので。陽が射していなくてもメガネがいつも黒くなるのは、紫外線がかなり強いせいかな。

通し行進者は二人いて、大阪原水協の五十嵐重臣さん〔62歳〕と、横浜の竹田昭彦さん〔72歳〕。お父さんが軍人だったという竹田さんは、平和行進のベテランで、これまで何度も通し行進をしています。

和歌山市民生協の瀬藤遙さん〔22歳〕も、わかやま市民生協を代表して参加しています。これまで平和行進に参加した同僚たちから引き継いだ、バッジでいっぱいのたすきを誇らしげに行進しています。 この日は港区の芝公園を出発。公園からは東京タワーが見え、そばにはお寺があります。

まだ冷たい風が吹いていますが、日照りで暑いよりはましです。港区役所から二人職員の方が出てこられ、区長の連帯メッセージと、区の名前を入れた平和行進のペナントをいただきましたと。港区は1985年に「非核宣言」をしたことを誇りにしています。平和首長会議のメンバーでもあり、平和宣言と9条を全面的に支持しているそうです。9条というのは、日本国憲法の中で、国際紛争解決手段としての戦争を禁止した条項で、戦力としての軍隊も保持しないとしています。日本は平和維持のための自衛隊だけを保持しています。

東京原水協事務局長の石村さんが行進を先導しました。都内を行進する間、先頭の車から(うたごえの)大熊さんが掛け声をかけて行進全体をとても活気づけてくれています。大熊さんの声は道行く人みんなの注意を引くので、みんな店や家の中から出てきて手を振ってくれます。おかげで行進するぼくたちの「ありがとうございます」「平和行進です」という声もみんなに届きます。 歩きながらビラやうちわを通行人に配る行進者もいます。フィリピンナショナル銀行に入って訴えたとき、初めはぎょっとしたような眼を向けられたのでちょっと緊張しました。でも銀行員たちは熱心に聞いてくれました。平和行進について、どんなルートを通るのか、今年は青年リレー行進があることなど説明しました。みんなフィリピン人だったようです。典型的な旅行者や労働者ではないフィリピン人を見てびっくりしていたようです。

かじやん、てぃろーさん、ふみさん、ぶんさんが東京→神奈川コース参加を助けてくれました。かじやんはとても物静かな人ですが、平和行進となると活気あふれる声でコールをしていました。彼の声はエネルギッシュで大きいので遠くを歩いている人にも聞こえます。てぃろーも人々に話しかけるのがとても上手で、人々に耳を傾けさせる魔法のような魅力を持っています。きっと原水協で、自信をもってクリエイティブにデモをする訓練を受けているんでしょう。

違った文化から来た自分は、日本人は法律に従う国民で、言葉や感情をあまり外に表さないように思えます。フィリピン人はもっとアグレッシブではっきりとものを言い、時にはとっぴな行動に出るかもしれません。 大森町駅近くの公園で休憩し、昼食にお弁当を食べました。弁当というのは、肉と野菜類のおかずがだいたい4-6種類、少量ずつ盛り付けられていて、色合いと配置が重要です。シェフがクッキングショーでお皿に盛り付けているようです。日本人がこんな風に食べ物にもアートを取り入れています。調理の途中でも食べるときでも、味覚、嗅覚、視覚を使うことが大事なのです。

休憩時間に大熊さんのギターと歌も聞かせてもらいました。

生協労連の大井さんと柳さんに嬉しい再会をしました。以前彼女たちがフィリピンに来てルソン島の史跡をめぐった時に会っていました。

全労連の国吉綾乃さんにも会いました。日本に初めて来て原水爆禁止世界大会に参加したとき、彼女は海外代表の世話をしてくれました。その時の彼女は休むことを知らないワンダーウーマンのようで、いつでも元気いっぱいで微笑んでいました。

この後、大田区に入り、女性グループと4人の被爆者が隊列に加わりました。写真にあるように東京と神奈川を繋ぐ大きな橋が架かっています。神奈川はどんなところだろう?知っている人が誰もいないので、わくわく感と不安の両方を感じます。 橋の入り口でトランペットを吹く(松平)晃さんに会いました。彼がいつも突然いろんなところに現れるのにびっくり。でも今回はきっと行進の引継ぎ式だから来てくれたのでしょう。

橋の下の小さな公園に入ると、平和行進者と神奈川原水協の代表者が迎えてくれました。東京原水協の石村さんと神奈川原水協の笠木さんが握手して、みんなで東京と神奈川を繋ぐ橋に向かいました。東京からの行進者と神奈川の行進者が合流して大勢の行進団となりました。橋の下にはゴルフの練習場がありました。ここから次の地点までは、川崎市警察が誘導に当たってくれます。 川崎市内の商店街をずっと進んでいきます。たくさんの人々の目に触れるのでいいコースです。2010年に来日した時は、何もかも物珍しく、いつも新しいところをめぐってみたいと思ったものでした。広島でデモ行進を見たときもこんな感じだったので、当時見たのは平和行進だったかもしれません。フィリピンに戻ったら2010年に撮った写真を見て平和行進だったのかどうか確かめてみます。そうだったらいいな。

歓楽街を通るとフィリピンパブがありました。このあたりはフィリピンのテレビでも特集されたことがあるので、見覚えのある風景です。

この日の終結地点は川崎市役所でした。石村さんと笠木さんが引き継ぎ式をとりおこないました。とてもたくさんののぼりや旗が東京の行進者から神奈川の行進者へと引き継がれました。こんなイベントを目にするのは初めてでした。行進者たちにとっても互いに顔を合わせて挨拶を交わす時です。平和運動、労働運動そのたたくさんのグループの力強さと連帯関係を示す光景です。連帯は常に彼らの心を占めています。彼らはお互いを尊敬し、思いやり、愛し合っています。そしてこれはお金では買えない貴重なものです。

その日の夜は、神奈川原水協のご招待で刺身をごちそうになり、神奈川の通し行進者たちと一緒に過ごしました。いとうさん、新婦人の金子さん、まさこさん、鎌倉のいしざきさん、いさがやさん、日本被団協の中村ゆうこさんです。JMIUのやべさんと、もちろん神奈川原水協の笠木たかしさん、片野けんじさんも一緒でした。刺身、おいしいです!

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【2014国際青年リレー行進】マギティング・ファブロスさんの日誌(5月6日)

第1日-5月6日 江東区夢の島から港区芝公園

今日が平和行進の初日。風の強さと肌寒さが相まって気温はとても低い。

国立オリンピック記念青少年総合センターから電車で夢の島公園に向かいました。

これから先どうなるかまだ分からずにいたので、この平和行進都内コース(東京→広島コース)と開会式のために多くのグループや参加者が集まっているのを見て非常に驚きました。文ちゃんや愛ちゃんが国際青年リレー行進の横断幕を用意し、僕らの隊列の先頭や最後尾に付けられるようにしてくれました。

「ドリームアイランド」の意味で訳されている夢の島にある夢の島公園へ向かいました。そこはかつてのごみ処理場で、この地域は都内の廃棄物から出来ています。ゴミ処理場を閉鎖して公園、競技場、博物館からなる複合施設に転換したのは1967年でした。この施設の一つが第五福竜丸、あるいはLucky Dragon No.5とも言われる、太平洋を遠洋漁業したマグロ漁船の展示館です。

その漁船がマーシャル諸島近海から日本に帰国途中の1954年、アメリカがマーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験をおこないました。汚染されたその環礁やマーシャル諸島の人だけではなく、実験現場周辺に居合わせたもの(例えば第五福竜丸)もまた「死の灰」の被害を受けました。衝撃で分解し、計り知れない爆発で押し上げられ、放射能を帯びた実験の破片や微細物質が雨のように降り注いだのでした。

ですから漁船は日本に帰国を果たしても全船員が水揚げした魚ともども放射線障害を受けてしまいました。こうした悲劇が日本での反核運動拡大の道筋を開いたのです。その展示館は第五福竜丸そのものと、犠牲者の歴史、そしてアメリカの核爆弾がとりわけ太平洋という海洋に及ぼした影響の資料を保存しています。

平和行進開会のために展示館の外に集合しましたが、とても寒くて風の強い朝だったので、みな上着を羽織ったり首周りを覆ったりしていました。日本原水協からのチームが開会の挨拶をして下さり、その中に安井さん、章史さん、佐竹さんその他大勢の人々の姿が見られました。朝日新聞社やジャパンプレスの記者の方々と対話の機会を持つ記者会見を開きました。参加者が紹介され、東京からの数多くの平和行進者を目の当たりにして正に圧巻でした。

開会式は非常に重要だったので、他県から多くの人々が参加していました。他県からのこうした労働組合の組合員や幹部の方々が再び顔合わせをするのがこの時です。前回の世界大会でお目にかかった懐かしい面々にたくさん再会しました。

冷たい風で身体が身震いしていましたが、緊張からではありません。僕の元のメッセージはかなり長めだったのですが、梶原さんが常に傍らで翻訳の手助けをしてくれたお陰で、その朝は短めのスピーチができました。

大熊さんと彼のグループが琉球太鼓を用いて舞踊を披露しました。彼はプログラムやショーの司会者を務めた文ちゃんや新婦人の方をも活気づけてくれました。通し行進者達が開会のスピーチをおこないましたが、福島から参加している少年もスピーチしました。昨年からの通し行進者である村田さんの姿もお見受けしました。第五福竜丸展示館の館長も開会スピーチを行いました。

プログラムの終わりは行進スタートの合図です。それでは、さあ出発!スピーカーを屋根に乗せた先導車の後について行進。そこで大熊さんのリードで平和行進の訴えをコールします。僕らもスピーカーから流れる歌に合わせて歌いました。

写真を撮ったり、僕らに挨拶するために道路沿いに大勢の人が集まりました。僕にとっても、全労連、全日本金属情報機器労働組合(JMIU)、新日本婦人の会、日本共産党(JCP)、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)、日本国民救援会、日本平和委員会、生活協同組合、農民運動全国連合会、法律家協会、日本国家公務員労働組合連合会(国公労連)その他多くの原水協の加盟組織やそれ以外のグループの方々とともに行進するチャンスでもあります。

そしてもちろん、被爆者(原爆犠牲者)の方々とともに行動するチャンスです。彼らは今や高齢化し、既に他界された方もおられるために人数が減りつつあります。核兵器に反対するため、たとえ短い距離でも彼らは歩ける限り歩きます。

最初の到着先の東陽町公園でジュースや飴の補給で休息をとりました。去る4月30日、この通りをずっとポスター貼りの宣伝行動をしました。お店を一軒一軒訪ね歩き、平和行進のチラシをお渡しして、店先に僕たちのポスターを貼らせていただけないかと申し出ました。今回情報を伝えておいたので、6日前にお会いした方々を見かけました。

歩道で平和行進の歌を演奏しているミュージシャンたちがいました。そのうちのお一人がトランペットを完璧に演奏する松平晃さんです。

巨大なJR東京駅と高級なお店が数多く建ち並ぶ商業地域の銀座を通り過ぎました。この地域に住んでいる人はたいていお金持ちだそうです。ここでは何でも高くて、特に分譲マンションの賃料が高いです。ですから、ここで働く多くの人はオフィス街から外れた地域に暮らしています。中には東京圏外に暮らす方々もいますが、その方がとてもやりくり上手で倹約できるのです。その上、日本では効率的に移動できて、いつも時間通り発着する電車がたくさん走っていますからね。

適度な歩幅や歩調を保っているかどうか、まだ自分の身体では測りかねています。それというのも歩調が特に交差点を横断する際に変わるからです。道を塞がないように少しスピードアップしないといけなかったり、また大勢の異なるグループと行進しているので、時には他のグループと合流するために早歩きもします。

開会の行進に参加したおそらく1千人程が参加しているので、とても大規模な行進になっています。通常、僕らはほとんどの道路の車線で左側を使用しています。交差点を横断する際は、警察が常に僕らをまとめて誘導してくれています。さすがですね!

人々に対して、特に歩道にいる通行人に向けて手を振るように呼びかけがありました。「平和行進です!」「ありがとうございます!」「こんにちは!」等と呼びかけ、行進の先導者が何か言うと、みんなでコールを返します。「いいね!」(フェイスブックの「いいね」に相当する表現)、とか「今でしょ!」(「今がその時」という意味で若者の間で人気の表現)のいずれかで応答するのです。

その晩は日本原水協と東京原水協に中華料理店に招待され、「すごい」「美味しい」ディナーをごちそうになりました。

行進の初日はこのように終わり、素晴らしい一日を過ごしました。少し身体が痛みますが、ストレッチをしてベッドに入り1分もしたらそんな痛みはすっかりなくなっていました。

明日が楽しみです!