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原水協通信

毎月発行している日本原水協の機関誌です。国内外の反核平和運動についての情報が満載です。 日本原水協のウェブサイト→ http://www.antiatom.org/

「核兵器の全面禁止を!」

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【2014国際青年リレー行進】西田ちひろさんの日誌(6月17日)

6.17平和行進岐阜から滋賀へ引き継ぎ

6月17日(火)2日目(彦根→安土)

昨日(6月16日)、岐阜の堀さんから滋賀へバトンを引き継ぎ、今日は彦根市役所から出発しました。

▲岐阜から滋賀への引き継ぎ会場(6月16日)

天気は曇りで平和行進にはとてもいい天気でした。彦根、豊郷町(とよさと)、愛荘町(あいしょう)、八日市(ようかいち)を歩きました。

▲彦根市役所前で出発集会

私は滋賀県生まれ、滋賀県育ちですが、初めて訪れる町や無人駅の一両編成の電車に驚いたり、景色を楽しみながらの行進となりました。愛荘町では役場の方、全員で迎えて頂き、核兵器廃絶にむけた力強いメッセージを頂きとてもうれしかったです。

もう1つうれしかったことは、この平和行進を通して新しい友達ができたことです。いろいろな世代の人たち、いろいろな人生を歩んできた人たちと、同じ平和という思いを胸に今日集まり出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

【2014国際青年リレー行進】堀浩子さんの日誌(6月16日)

6.16(1)

6月16日 大垣市~関ヶ原

最終日です。今日は旧21号~中仙道を通り、関ヶ原で引き継ぎです。

旧21号はわりと大きな道で、会社が両脇にありました。車の中や沿道から出て来て手を振っての応援をもらいながら西に進みました。 休憩所から関ヶ原まで歩いた88歳の女性がいました。身体は柔らかく、足腰もしっかりして、私のほうが年寄りでした。姿勢も良くかっこいいんです。毎日4キロ歩かれているんだとか。

中仙道垂井宿沿いにある建物で昼食でした。原爆展もやっていました。そこから少し西に行ったところに今は使われていない井戸があり、江戸時代には旅人の喉を潤し、安らぎを与えたと言われています。この垂井宿に全部で7つ井戸があったそうです。

井戸を過ぎると関ヶ原まであっという間でした。小さな体育館のような場所で引き継ぎ式でした。この6日間はあっという間に過ぎ、途中「宣伝カーに乗りたい」という誘惑に負けることもなく無事に歩き切りました。この行進で県内通し行進の皆様、いろんな方に助けてもらいました。本当にありがとうございました。何らかの形で今後の活動に活かせるのではと思っています。

▲西田ちひろさんに引き継ぎました。

【2014国際青年リレー行進】堀浩子さんの日誌(6月15日)

6.15(1)

6月15日 岐阜市~大垣市

今日は朝からお腹の調子が良くなく宣伝カーに乗ることを覚悟して出かけました。ところが、30分歩いたころ、お腹が「ポン」といったかと思うと先ほどのえらさ(辛さ)は嘘のように消え、身体、疲れ、足すべて昨日よりも軽く元気になりました。

国道21号線を西に木曽川、長良川、揖斐川を渡り大垣市に入ります。あまり変化のない道ですが、毎日使う慣れ親しんだ道を楽しみました。

大垣のミキ公園で休憩でした。そこにわき水場があります。冷たくて美味しいお水です。なんと名古屋からここのお水をくみにきていました。そのお水でご飯を炊くのだそうです。そういえば、大垣は水が美味しく、水まんじゅうが有名です。

▲大人気のわき水場

大垣商店街を通り、大垣城が今日の終点です。先に来ていた別のコースと大垣の実行委員会の人にあたたかく迎えてもらいました。

▲行進後の宴会

一番盛り上がっている中、7時8分の最終バスで帰りました。

明日は最終日、しっかり滋賀の西田さんに引き継ぎたいと思います。

【2014国際青年リレー行進】堀浩子さんの日誌(6月14日)

6.14(1)

6月14日関市~岐阜市

刀の町関市を出発して一路岐阜の美江寺公園を目指す約24キロの道のりです。

▲出発前のひととき

今日はいろいろな意味で1人ではないと感じることができる1日でした。岐阜、清流長良川沿いは緑が本当にきれいで。鮎釣りの人や河原でBBQをしている人が手を振って下さいました。本当に励みになりました。

▲長良川沿いの景色

嬉しいことも。お昼休憩のみどり病院での出来事です。病院から数メートル離れた所に病院と同じ系列の老人施設があります。そこに入居してみえる女性がリハビリを兼ねて応援に来て下さっていました。その方が「これだけしかできんけど本当にごめんね」と申し訳なさそうに募金をして下さいました。話をしていると、どうも入居してから今日の休憩場所まで初めて来ることができたそうです。思ってもいないことで1000円の重みを感じました。

もう1つ、家族同様に育った幼なじみと20年振りくらいかな?逢いました。もうびっくり!!思いもよらないことが起こります。明日も同じような距離です。

追伸、汗が乾くと塩ができることを初めて知りました。汗に塩が混ざっているのは当然知っていたのですが。

【2014国際青年リレー行進】堀浩子さんの日誌(6月13日)

6.13(1)

6月13日 美濃市~関市

今日はうだつの町、和紙で有名な美濃市から、刀の町関市まで約2時間のコースと生協主催で岐阜の町を歩きました。昨年マラヤさんとも一緒に歩いたフィリピンの女性と一緒になりました。いろんなお話ができて、行進がとても楽しいと言ってみえました。いろいろ大変なことがあると思うのですが、そんなことを感じさせない明るさにパワーをたくさんもらいました。

関市の歓迎集会は市長さんがわざわざ出てきて、今年の夏は娘さんと息子さんを連れて広島へ行き、原爆を伝えたいと挨拶してくださいました。

岐阜の折り鶴行進ではたくさんの生協の職員、会員さんからカンパの協力をしていただきました。本当にありがとうございました。明日からいよいよ本格的に長距離になります。

【2014国際青年リレー行進】堀浩子さんの日誌(6月12日)

6.12(1)

6月12日 郡上市

郡上はお盆の3日間の徹夜踊りで有名です。山と川があり、水がきれいということでも知られています。その街中、昔ながらの町並み、商店街を歩きました。

▲郡上市役所

雨が心配されましたが、本当に雨でした。出発集会の時は空も明るくなっていたので安心していました。が、歩き始めてすぐにどしゃぶりの雨。平和行進のあいだ降り続け、終わったとたんにやみました。岐阜に戻っても、突然、雷雨と前も見えないほどの大粒の雨、雨、雨・・・。

郡上商店街のみなさんは、私たち平和行進団をあたたかく迎えてくださいました。わざわざ外に出てきてくださったり、待っていてくださいました。それも1人や2人ではありませんでした。雨も気持ちよく感じるようなあたたかい気持ちでした。アナウンスをやってくださった(名前がでてきませんすいません)地元旅館の女将さんも本当にきれいな声で、テープの声と区別がつかないほどでした。副市長さん、議長さんも駐車場までですが一緒に歩いてくださいました。

たくさんの人に支えてもらって平和行進ができていることに・・・適当な言葉が見つかりませんが・・・。

一緒に県内通し行進をしている新婦人の人が、帰りがけにとてもおいしいお好み焼き屋があるというので寄りました。中華料理店の駐車場の片隅にある小さなお店でした。そこのおばちゃんが宣伝カーを見て、「あんたら看板だけかかげて走っとるだけかね。何にも言わへんのかね」と言われました。しかじかと説明したあと、「そのうち徴兵制なってまうわ 私にも孫がおるでね 言ってまわんと」と。安倍さんのやりかたに恐怖を実感しているのは私たちだけではないんですね。

【2014国際青年リレー行進】堀浩子さんの日誌(6月11日)

6.11(1)

愛知県から岐阜県に引き継ぎ

12時前に各務原市民プールの広場で愛知の平和行進を待ちました。その時間を利用して、国際青年リレーのカンパを集めました。なかなか声が掛けられず、ドギマギしましたが、声をかけた3人の方からこころよくカンパしていただきました。ありがとうございます。

愛知の行進がフェンスごしに見え、みるみるうちに、旗や横断幕が大きくなってくるんです。初めて引き継ぐ実感がわいてきました(初めての引き継ぎ式参加)。広島までこのようにして引き継がれていくのだと思うとあらためてこの行進の重みと、すごさを感じました。愛知からワンちゃんも一緒に歩いて来てました。あまりにもかわいいので1枚撮らせていただきました。どうも旗のひらひらが気になっていたみたいです。

引き継ぎ式が終わると、各務原市民公園に移動して、お昼を食べたのですが、せっかく作ってきたおにぎりが、ペットボトルに押されて、見るも無残な姿になっていました。明日は少し考えなくてはいけません。

▲被爆体験を話す梅岡さん

行進が始まって少しした時、各務原の自衛隊の戦闘機でしょうか、とてつもなくけたたましい音で訓練していましたが、ピースコールもその音に負けていませんでした。まるで、「戦闘機や自衛隊はいらない」と飛んでいる戦闘機にアピールしているかのようでした。

▲被団協オリジナルTシャツ

追伸ですが、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)事務局次長の木戸季市さんから被団協オリジナルTシャツをいただきました。これを着て行進したいと思います。

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【2014国際青年リレー行進】アーサー・タイマングロJr.さんの日誌(5月30日)

5.30(1)

今日はものすごく長いコースを歩きました。私たちは電車の3〜4駅分相当の長さを歩き、高塚、舞阪、弁天島、新居、そして鷲津を過ぎました。20マイルを少々超える程の距離です。今日は最長コースの一つではありましたが、エネルギーはみなぎっていて、昨日カホンを持参して合流した女性がこの日も一緒に行進しました。途中、道の両脇に松の木々が今もなお立ち並ぶ東海道の区間を通りました。8時間近く行進した後、終了式をおこなって今日の長い距離のコースに参加してくださった平和行進者の方々の前で簡単なスピーチをしました。いつも通り、合流して下さったことに感謝し、元気いっぱいにエネルギーに満ちあふれていた様子についてコメントしました。その時、静岡を間もなく離れることになるのだとしみじみ感じました。行進の一歩ごとに静岡のみなさんから多くの支えと思いやりをいただき、まるで第二の家族を得たような気がしています。

この日の行進の終了式が済んでホテルに向かい、静岡県原水協の方々と最後の夕食を共にしました。総括の夕食会は日本語で「宴会」と呼ばれています。私たちの宴会は、31日で74歳になる竹田さんの誕生日祝いも兼ねたものとなりました。夕食はとても楽しくて、静岡県原水協理事長の方には爆笑させられました。ダイスケさんが大学時代に野球部員でチームがベスト4にまで残ったことを知りました。日本では野球がこれほど大規模におこなわれているとは知りませんでした。理事長さんは、典型的な日本野球の応援団の狂乱振りを再現して下さいました。夕食の終わりに私は、この平和行進に参加できたことをどれほど感謝しているか、そしてこの一週間半でどれほどたくさんのことを学んだかを述べました。また原水協とその加盟団体の方々に、ご支援と私の日々の体調を気遣って下さったことに感謝しました。

来日して以来、私が学んだ最大の問題の一つは、日本の原子力発電産業についてです。日本は既に福島原発事故の核災害に直面しています。多くの人が浜岡原発再稼働の可能性に不安を感じています。以前述べたように、この浜岡原発の立地している地層は地震が起こりやすいところだそうです。世界中では数えきれないほどの核事故が起こってきました。なのになぜ、いまだに原発が存在するのでしょうか。原発の恩恵を大幅に上回る犠牲者が生まれているように思えます。私が見たところ、平和行進に参加する人々は、原発や核兵器が日本にどれほどの影響を及ぼしているかを非常によく理解されています。広島と長崎への原爆投下、第五福竜丸の悲劇、そして最近の福島の原発事故災害は、日本が原子力産業に関わるあらゆる側面で影響を受けてきたことを示しています。こうしたすべての事件に不幸にも共通している点は、何千もの罪のない人々の命が、人類による科学の誤用で失われてしまったということです。普通、人は過去の失敗から学ぶはずなのですが、権力を握る人々、グループ、組織の中には、これまでとまったく同様の恐ろしいやり方を繰り返してもかまわないのだと考える者たちがいまだに存在します。

私がお会いした平和行進者の方々は、原発産業が引き起こす被害はあまりに甚大で、この産業にかかわるどんな権力も、規制も、金銭も、決して命の価値に優先することはできないということを知っています。私は、平和行進者の方々が、潔白とか人間性の価値という概念を理解できない原発産業の犠牲者を再び生み出さないよう、ひたむきに積極的に取り組んでおられることに、本当に敬服します。 原発いらないよ!

(翻訳:三宅朋子、白石亜子)

【2014国際青年リレー行進】アーサー・タイマングロJr.さんの日誌(5月29日)

5.29(2)

この日は枝(えだ)さんという人が通訳として一日中ついて下さって幸運でした。彼女は粕谷さんと同じく英語の先生で、平和行進に参加している人々が今とりくんでいる社会問題について説明してくれました。この日私たちは浜松市内を通って浜松市役所まで歩きました。私は市役所内の大会議室でスピーチをし、市長からの支持メッセージも聞かせていただきました。広島の被爆者の方のお話を聞くことができて光栄でした。この男性は被爆の影響で胃ガンとなり胃の3/4を摘出せねばならなかったそうです。行進の途上でたくさんの被爆者とお会いしました。彼らが自身の辛い体験にもかかわらず平和を守ろうと大志を抱いて活動されているのは信じられないほどすごいことです。

今日の平和行進参加者はこれまで私が経験した中でも最もエネルギーにあふれた人々でした。カホンという箱型の打楽器を持った女性のエネルギーには驚きました。彼女は行進のあいだ中、ピースコールをリードし、みんなを元気にしてくれました。彼女が即興でいろいろなピースコールをするのに合わせてジャンベを叩くのは本当に楽しかったです。

長い一日の行進の終わりに浜松航空自衛隊基地を訪れる機会がありました。数年前、航空ショーの最中に航空機が墜落する事故があり、何人か負傷者が出たそうです。墜落で近くのホンダ工場の駐車場の車も何台か炎上しました。基地のフェンスの外で、ガイドの方が、この基地にはPAC-3というミサイル防衛システムが置かれていると説明してくれました。また、何か攻撃や不測の事態があった時に基地内の人員を守るために、地下トンネルが作られているそうです。彼は、トンネルは基地内の人間だけを守るためで、市民のためではないんですよと笑いながら言いました。基地と私たちのいる道路を隔てているのは、この金網の塀だけというのは皮肉なことです。

(翻訳:三宅朋子、白石亜子)

【2014国際青年リレー行進】アーサー・タイマングロJr.さんの日誌(5月28日)

5.28(1)

この日も通訳さんがいなかったので、具体的に自分がどこを歩いたかは定かではありません。菊川、掛川、袋井を通過してゴールは磐田だったと思います。菊川の主な産業は農業です。今日の行進はすごくきつかったです。と、いうのも農村地帯を歩いたので花粉症がつらかったからです。暑さと花粉症が相まって遅れずに歩くのが大変でした。30分の昼寝と薬のお陰でなんとかついて行くことができました。

最終地点は磐田市でした。終わりの集会で短いスピーチを求められました。つたない日本語でしたが、今日歩いた場所は景色がすばらしかったこと、みなさんのように平和行進者として自信を持って歩けるようになりたいと伝えました。体調を考えると一日歩き通せた自分はよくがんばったと思います。

(翻訳:三宅朋子、白石亜子)

【2014国際青年リレー行進】アーサー・タイマングロJr.さんの日誌(5月27日)

5.27(1)

▲浜岡原子力館

数時間歩いた後で浜岡原子力館に着きました。私たちは明らかに招かれざる客といった感じでした。警備員たちが常に私たちの後ろをついてきます。たぶんかなり前から行進の音が聞こえていて、「原発反対」と訴える声が届いていたのだと思います。中に入ると撮影禁止の看板があり、一緒に歩いていた人が私の「通し行進者」のたすきを外してカバンに入れてくれました。今日は通訳さんがいなかったので私は英語の情報がないかを確認するためにすこし集団を離れました。そのとき一人の警備員が他の警備員に私に着いて行けと合図したことに気付きました。なんだかスパイ扱いされている気がしました。もしくはこの施設でなにか突飛な抗議活動でもおこなうと思われているのでしょうか?

福島の原発事故以来、浜岡原発も停止しています。この原子力館の最上階から浜岡原発を遠くに見る事ができます。海にかなり近く、いつ事故が起こってもおかしくない立地です。 そのうえ浜岡原発のある場所は地震がおこったらとても地盤の弱い場所だと聞きました。静岡の平和行進参加者や多くの市民はこの浜岡原発が御前崎の現市長の賛成で近い将来再稼働されるかもしれないと憂慮していました。

(翻訳:三宅朋子、白石亜子)

【2014国際青年リレー行進】アーサー・タイマングロJr.さんの日誌(5月26日)

5.26(1)

この日は藤枝市から出発しました。ここでえださんという別の通訳の方とお会いしました。彼女の息子さんはグアムの隣にあるテニアン島に住んでいらっしゃいます。えださんは、私の藤枝市の人たちへの朝の挨拶を通訳してくださいました。いつものように朝の自己紹介のあと、私たちは粕谷さんが住んでいる島田市へ向けて出発しました。

休憩が無かったため、島田市までの道のりはなかなか大変でした。初めて足に本格的な痛みを感じました。二時間後にやっと島田市に到着し、今まで聞いたことの無い美しい音楽で迎えられました。何人かの方が、琴という楽器を歌にあわせて演奏していたのです。琴は日本の伝統的な弦楽器で、演奏者の前に水平に置かれています。演奏者の方々の息の合った演奏に非常に驚きました。ちょっと挑戦してみましたが、弦を引っ張りながら同時に押さえて音の高低を出すのはものすごく難しかったです。お昼を食べながら、琴の演奏を聴けたことはとても光栄でした。

▲島田での琴演奏者の方々

昼食後、粕谷さんのお宅へお邪魔し、日本の人々の普段の生活を垣間見ることができました。とても素敵なお家で、なんと築100年だそうです。改修がされていましたが、もともとの柱がそのまま使われていました。ご家族の写真や、旦那様と一緒に作ったさまざまな物を拝見し、粕谷さんがこの家に誇りを持っていることが分かりました。

▲粕谷さんのお宅

▲粕谷さんのお宅の中

昼食後の次の休憩は扇町公園でした。第二次大戦中の1945年7月25日の朝8時46分、アメリカは島田市にパンプキン爆弾を落としました。33人が即死し、大勢が負傷しました。広島と長崎に原爆が投下される前のことでした。爆弾投下の時間は、人々が一日を開始するため家の外に出ている時間を計算して8時頃に決められたそうです。

その次のコースは3時間ほどで、大井川に架かる橋を渡りました。途中、こいのぼりが川を横切ってたくさん泳いでいるもう少し小さい川を通りました。こいのぼりとは、日本の鯉という魚の形をしたのぼりです。コースの最後に金谷という町の急な坂道をのぼり、神社で終わりの集会をおこないました。

日ごとに、日本への爆撃がどれだけ激しいものであったのかを学んでいます。以前のブログに書いたように、私たちに応えてくれる人々の多くが年配の方々です。それは、彼らの多くが戦争体験者で、その恐ろしさを身を持って体験しているからでしょう。日本の憲法、特に戦争を禁止した9条が脅威にさらされている今、若い世代の人たちもこの運動に加わってほしいと思っています。多くの平和行進者の方々は日本が過去に逆戻りしないように9条を守ろうと情熱を持って活動しておられます。そしてもっとも重要なことですが、彼らは未来の世代に自分たちが経験したような苦しみを味あわせたくないのです。

(翻訳:大内 響)

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【2014国際青年リレー行進】アーサー・タイマングロJr.さんの日誌(5月25日)

5.24(1) のコピー

▲久保山さんのお墓

今日は静岡市内の短いコースを歩きました。最初の休憩を取った後、安倍川に架かる近くの橋を訪れました。今日の天気は多少どんよりしていました。1時間半くらい歩いた後、焼津市に行き、市内のお寺で昼食を取りました。そこで、素晴らしい通訳として私を支えてくださっている粕谷さんと合流しました。昼食の間、地元の先生のお一人が、マグロ漁船「Lucky Dragon #5」の悲劇について簡単に説明してくださいました。日本語では第五福竜丸というそうです。粕谷さんが通訳してくれたおかげでこのお話を聞くことができました。

第五福竜丸は、1954年3月1日にビキニ環礁でおこなわれた核実験による放射能で被爆しました。乗組員たちは、米国が指定した危険区域の外で操業していました。しかし報道によれば、ビキニに落とされた核兵器は、広島と長崎に落とされた核兵器の千倍もの威力を持つものでした。この核実験の数時間後、彼らは高い放射能を含んだ「死の灰」を浴びました。忘れてはならないのは、彼らは何が起きているのかまったく分からなかったということです。放射能の灰に汚染された食物を食べた彼らはまた、内部被曝もしていました。悲しいことに、彼らが捕獲したマグロもまた汚染されました。帰港直後、乗組員たちには急性放射線障害の症状が表れました。目立った症状は、脱毛、皮膚のやけど、歯茎の出血などでした。久保山愛吉さんは、ビキニ水爆実験の最初の日本人犠牲者とされています。彼は1954年9月23日に亡くなりました。その後、多くの乗組員が放射能の影響による癌で亡くなりました。この悲劇を忘れないために、毎年3月1日に焼津市で平和行進が行われます。今年の行進には2000人が参加したとのことでした。久保山さんのお墓を訪れることができ、とても光栄に思いました。お辞儀をして、彼に対する尊敬と、もちろん哀悼の気持ちも伝えました。広島と長崎への原爆投下に加えて起こったビキニの悲劇は日本に大きな衝撃を与え、その後反核運動は大きく盛り上がりました。

昼食を取り第五福竜丸について学んだ後、第五福竜丸の母港だった焼津港まで行進しました。その後市役所で式典をおこないました。どの町でも暖かい歓迎が私を迎えてくれます。焼津の新婦人の皆さんにプレゼントとカンパをいただきました。こんなふうに支援してもらって本当に嬉しいです。皆さんの支援こそが私の原動力となり、長い距離を歩き、時折訪れる痛みにも耐えることができます。

今日はとても長い距離を歩きました。最後の行進地は大井川町でした。ここには自衛隊の基地があります。被ばくした第五福竜丸の乗組員たちは、この基地から米軍のヘリで東京へ運ばれ、治療を受けました。容体を調査するため米軍に日本から連れ去られるのではないかと、乗組員の家族は当時おそれていたそうです。大井川での行進は2時間ほど続きました。いつものように一日の終了式をおこない、私は参加者の皆さんに、この国と国民に起きたことに対する心からの哀悼の気持ちを伝えました。

ビキニ環礁で起きたことは大変恐ろしいものです。太平洋に住む数え切れないほど多くの罪のない人々がその影響を受け、しかもこの悲劇に対する正義はもたらされていません。不幸なことにビキニの人々は住む場所を奪われ、彼らの土地で幸せに暮らせることはおそらく二度とありません。土地と深く結びついているミクロネシアの島民たちにとって、これはとても悲しいことです。マーシャルの人々は、正当な補償を勝ち取るために現在もたたかっています。ビキニでの核実験による「死の灰」は、グアムなどマーシャルの近隣の島にも影響を与えたはずです。なぜなら、ミクロネシアとアメリカ本土との癌の発症率の格差は開く一方だからです。

第五福竜丸の悲劇が示すように、核実験の影響を封じ込めてコントロールできるなどと考えるのはばかげています。このような核実験がなぜ必要なのかまったく理解できません。原爆投下がもたらすものは、破壊と痛みという遺産だということは、広島と長崎の悲劇が示しています。私たちの住む地域を考えると、米軍の戦争遂行という観点からすると、彼らがミクロネシアの人々をどのように見なしているかが理解できます。米軍がビキニの人々を真に尊重し、彼らを対等に扱っていたならば、そもそも核実験などおこなっていなかったはずです。

(翻訳:中村みずき)

【2014国際青年リレー行進】アーサー・タイマングロJr.さんの日誌(5月24日)

5.24(1)

今朝は清水市からスタートしました。何曲かみんなで元気を出すために歌を歌ってからいつものように自己紹介をしました。私はグアムから来たこと、静岡から愛知まで歩くことなど、基本的なことを伝えながらも日本語で自己紹介するように頑張っています。でも出会った人と会話する時の方が一生懸命日本語を使おうとしている気がします。自己紹介を終えて今日の行進がスタートです。

今日は本当にビックリすることがありました。92歳の女性が行進に参加されていたのです。彼女に敬意を表して清水市での行進は彼女を先頭に歩きました。彼女と一緒に歩けたことをとても誇りに思います。彼女の元気さと歩く速度にはすごく驚かされました。最初の休憩で私は彼女に話しかけ、彼女の健康さに驚いていること、一緒に歩いてくれて感謝していることを伝えました。

▲先頭の真ん中の女性が92歳の参加者です

本当に日本のみなさんが健康でエネルギーにあふれていることにはいまだに驚かされます。きっと日々の食事がその源なのだと思います。他の行進参加者と一緒に食べる食事はいつもヘルシーで魚や野菜中心です。日本では、健康的な食事をするのにそれほどお金がかからないことにも気がつきました。どこのコンビニでも野菜や果物を買うことができます。グアムと比べると日本でオーガニックの食べ物を食べようと思ったらかなりお金がかかります。でもたぶん、何でも新鮮なものを食べれば何とかまかなえるのだと思います。日本の皆さんは食事の量についてもとても気を使っていると思います。食事が小さいお皿で小分けにして出てくることも関係していると思います。

1時間ほど歩いた後、公民館で昼食のための休憩を取りました。おにぎりと色んな野菜のおもてなしを受けました。ここで私はニュースのリポーターから取材を受けました。どこから来たのか、なぜ平和行進に参加しようと思ったのかなどを聞かれました。昼食後はさらに1時間ほど歩いて、清水公園というきれいな公園で休憩になりました。これまでの公園もきれいでリラックスできる場所でしたが、ここは、さらに滝もありました。30分くらい休憩時間があったので、公園の高台の場所まで行って素晴らしい眺めを楽しみました。

今日のコースの最後は静岡市を歩きました。商業地域で、買い物途中の人がたくさんいました。若い人が多かったように思います。あまり行進に応えてくれる人は多くなく、困惑したような反応もありました。でもこちらはくじけずに出来るだけ明るく賑やかに行進しました。人通りの多い繁華街で太鼓を叩きながら歩くのは楽しいし、音もよく響いていました。沿道の人の反応を見るのも楽しいです。無関心な人もいる一方で興味を持ってくれる人もいます。賑やかな繁華街を通った後は大きな噴水のある一画で終結式を持ちました。

ここでも新婦人の皆さんがカンパとプレゼントを下さいました。本当に驚異的な女性グループです。平和行進の参加者の皆さんはいつもすごく親切です。私は皆さんと出会って核兵器廃絶、そして平和な日本を求める皆さんの活動について知ることができてとても嬉しいです。

皆さん、また明日!

(翻訳:三宅 朋子)

▲田中さんです!!

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【2014国際青年リレー行進】アーサー・タイマングロJr.さんの日誌(5月23日)

5.23(1)

今日の行進は新蒲原駅から始まりました。通り過ぎた町は海に近いので漁業で有名なのではないかと思っています。岡田先生が、50年以上も前に建てられた家屋の構造を指し示してくれました。町は古風な趣があって、ほとんどの場所はとても静かでした。歩くペースが変わるのを本当に楽しみました。早足で歩くのに自分の体が慣れ始めたように思います。行進していると膝が痛くなり始め、この時点では、気力で乗り切れと自分に言い聞かせていました。竹田さんと田中さんのおかげで、私は気力を奮い立たせて歩くことができました。田中さんは63歳で、竹田さんは今月末には74歳になるそうです。2人とも広島まで平和行進の全行程を歩きます。体が痛くなるときはいつでも、2人が歩けるなら、自分にもできると言い聞かせます。東海道沿いにある本陣寺で休憩をとりました。岡田先生が言うには、東海道は東京と京都を結んでいた、江戸時代において主要な五街道のひとつだったそうです。

約1時間半歩いた後、清水区へ向かい、昼食をとりました。岡田先生のことをもっとよく知るようになって、実に興味深いお話を聞きました。駅で昼食をとっている時に聞いたこの話は驚くべき内容で、他の人に共有してもいいと言ってくれたものです。昨年、先生の友人の一人が自殺されたそうです。岡田先生は、何日も食べることも寝ることもできず、深いうつ状態に陥りました。しかし先生はこの暗い時期から抜け出すためには何かをやらねばならないと心に決めて、日本のある山に登ることにしました。私が聞き間違えていなければ、先生は2回挑戦して、ようやく登頂に成功したそうです。言葉では、この話がどれほど私を励ましてくれるものだったか、説明しきれません。私が出会ってきた平和行進を歩く多くの人々のように、岡田先生はとても賢明で、楽天的な人です。彼がそのような悲劇を味わったとは信じがたいです。昼食後、清水へのコースを進みましたが、午前中歩いた町よりもずっと人通りの多いところでした。ここでも私たちは、清水の地元ではよく顔を知られた人々のおかげもあって、惜しみなくたくさんの募金をいただきました。

▲尊敬すべき岡田先生

2時間ほど行進してから、この日の終点である鉄舟寺に着き、終結集会を開きました。新婦人清水支部のみなさんはいつもとても優しく、愛知への行進を支えるために私に募金をくださいました。鉄舟寺では、広島と長崎への原爆投下についての短編ドキュメンタリーも見ました。映像はとても現実とは思えないほどで、見ているものを信じられないほどでした。それはまさしく目を見開かせるもので、私は、原爆投下という惨事によってどれほど日本が深い影響を受けてきたのか、認識させられました。

太平洋ではたくさんの血が流され、多くの罪のない人々が命を落としました。広島と長崎への原爆投下は、いまだに私がなかなか理解しがたいものです。私は戦術についてはなにも知りませんし、どうやって一瞬のうちに無実の多くの人々の命を奪おうなどとできるのか、理解できません。さらに、この世界の誰かがそのような力を持っているというのは恐るべきことです。戦争に関わる多くの世界的な問題の意味を理解することは難しいです。もしかすると、私たちは幻想にとらわれやすく、自分たちがみな同じであることに気がついていないのかもしれません。毎日歩き、日本に原爆が投下された歴史について学びながら、死の本質について考えずにはいられません。死が全てに終わりをもたらすということが、死を恐ろしいものにしているのかもしれません。私が観察してきたことからすると、死は、服従か死かと迫って人々を支配する手段として使われてきたように思います。不幸なのは、歴史を通じて、ある主張を通すために私たちが外交をおこなうのではなく、かわりに殺人や死に訴えてきたことです。毎日私が出会う平和行進を歩く人々は、平和を維持する必要性を完全に理解していることは明確です。彼らはみな戦争の悲劇からくる痛みのすべてを、とてもよく理解していると思います。やはり、私はこの人々を支える平和行進に参加することができて本当に光栄です。

(翻訳:梶原 渉)

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