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原水協通信

毎月発行している日本原水協の機関誌です。国内外の反核平和運動についての情報が満載です。 日本原水協のウェブサイト→ http://www.antiatom.org/

「核兵器の全面禁止を!」

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マラヤ・ファブロスさんの行進日誌5日目

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平和行進五日目:相模原市から座間市へ

 

今朝は相模原駅の近くで開会式を行いました。実際にはショッピングモールの入り口に繋がっている外側の遊歩道の場所だったので、私たちは2階にいたことになります(日本では一番下の階を1階と言います)。

 

笠木さんが今日一日私のために通訳をしてくれるみっきさんを紹介してくれました。神奈川県から何人かの被爆者の方も一緒に歩いてくださいました。相模原市には約320人の被爆者の方がおられるそうです。他の団体の皆さん同様に被爆者団体の方々からも賛同のメッセージをいただきました。福島さんが私に昔東京が江戸と呼ばれていたように、神奈川県は相模原と呼ばれていたと教えてくれました。多くの韓国系のお店のある古い町並みを通ったとき、福島さんはこの辺りが昔多くの朝鮮半島からの人たちが働き、住んでいた場所だと教えてくれました。

 

大通りまで出て右へ曲がるまで私たちは行進を続けました。道の両側に街路樹が植えられており,なんだかフィリピンのアカシア並木を思い出しました。でもここの並木はすこし背が低いです。大通りの突き当たりに米軍相模原補給しょうがあります。ここは元々最大の米軍基地だった場所です。1972年当時、ベトナム戦争のさなかには、ここは配備される前の戦車が保管されている場所でした。

 

私たちは基地へ向かう入り口の角にある線路の前で、大通りの両側に陣取りました。一人の人が日本にある基地への抗議のスピーチを行いました。そして私たちは「いいね!」と「今でしょ!」コールを行いました。2日前のブログに「今でしょ!」コールの詳細は書いたので、今回は「いいね!」コールについて書きたいと思います。

「いいね!」の時にフェースブックの「いいね!」ボタンのように親指をつきあげます。

 

核兵器のない世界(いいね!) 原発のない世界(いいね!) 軍事費は被災地にまわそう(いいね!) 核保有国に核兵器廃絶の約束せまろう(いいね!) 子どもたちに青い空をてわたそう(いいね!) 子どもたちに明るい未来を(いいね!) 被爆者の心を受け継ごう(いいね!) 憲法9条まもろう(いいね!)

 

基地の問題が平和とどうつながるのか?と疑問に思う人がいるかもしれません。

今日私が感じた、その問いに対する答えはこうです。

外国軍の基地は、それが防衛モードであろうが攻撃モードであろうが、別の国の総合的な戦争のシステムの一部です。明確な大量破壊兵器(核兵器などの)の廃絶と戦争を支持する全ての制度の撤廃は本当の意味での恒久の平和には不可欠です。

 

相模原総合補給しょうに向かう大通り沿いにあった彫刻。なんだかちょっと恐かったです。

 

そこから私たちは市役所の代表の方が待っておられる相模原市役所へ向かいました。ここでも相模原市からの賛同メッセージを受け取りました。彼らが私のために通訳をサンドラわたなべさんにお願いしてくださっていたので、メッセージの内容を簡単に通訳してもらえました。そのメッセージはとても力強く、勇気づけられる内容でした。私たちが再び歩き始めたとき、私はある本を今日一緒に歩いている方からいただきました。これは日本語で書かれた2001年の平和行進者の日記が本になったものでした。ワォ!私も日本語で読み書きが出来るようになりたいとすごく思います。この本を私に下さった方の写真もこの本に載っていました。

 

その後、私たちは淵野辺駅まで行進しました。行進はここで一旦ストップして、昼食後は座間駅から行進は再開されました。今回私たちの平和行進の車は早めに座間駅に着きました。昼食には座間駅近くにあるとても人気のあるレストランに行きました。そこは和食も洋食もどちらも食べれる場所でした。皆さんが言うには、和食に比べて洋食の方が普通は安いみたいです。

 

淵野辺駅まで被爆者の方々と行進

 

淵野辺駅でお会いしたとても素敵な被爆者の女性です。彼女は83歳だったと思います。これまで平和行進でお会いした被爆者の皆さんはとてもお元気です。もっと私たち若い世代が多くの被爆者の皆さんに会うと良いと思います。そうすれば60歳から85歳、もしかしたらそれ以上に自分たちの平均寿命も伸びると思います。

 

午後からの行進は座間駅をスタートしてトンネルを抜けて米軍座間キャンプへと向かいました。背の高いフェンスに沿って立ち入り禁止の警告の看板が取り付けられているのを見てなんとも言えない気持ちになりました。日本の人にとってはこれはどんな風に写っているのかと思います。私たちはキャンプの入り口の前に立ち止まり、ここでもまたコールを行いました。スクールバスやいくつかの車がキャンプに出入りしていました。彼らは手を振って私たちに笑いかけて来ました。私たちも笑い返しました。平和行進が何を求めているのか、彼らが分かっているのかは謎ですが、分かっていてほしいと思います。

 

キャンプ座間の入り口の横に立つ笠木さん

 

その後私たちは座間市役所まで歩きました。ここでも自治体の皆さんに温かく迎えていただきました。賛同のメッセージとペナントもいただきました。被爆者の代表の方も挨拶しました。彼は68歳の若い被爆者の方で座間市の被爆者団体の議長をされています。最後に笠木さんが神奈川県原水協の代表として挨拶しました。彼は行進の途中に出会った何人かの子どもたちが核をなくしてほしいという強い願いを寄せてくれた事を話しました。私も日本語で5行くらいの短い挨拶をさせてもらいました。初めての事です!とても良い一日でした。私たちは4時前に行進を終えました。

それでは日本語で

また明日ね。

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マラヤ・ファブロスさんの行進日誌4日目

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平和行進四日目:川崎市役所から高津区役所

 

今日のコースは今までで一番きつかったです。

川崎市役所での開会式には市役所の方が賛同のメッセージを届けてくれました。一緒に歩いている被爆者のひとりである山口さんもスピーチされました。川崎市には約700人の被爆者の方が暮らされています。被爆者の皆さん自身の地域の組織もあります。現在の皆さんの平均年齢は80−85歳。多くのみなさんが10代前半に広島や長崎で被爆されました。だから70代の被爆者の方は5歳未満で被爆したことになり、被爆者のなかでは若い方です。

皆さんはご高齢にも関わらず日本の平和運動の先頭に立っています。多くの被爆者の方々が、自らの戦争経験を語る事で平和運動に貢献されています。彼らは日本だけでなく、世界中でこの活動をされています。私は2年前に自分の言葉で被爆体験を語りたいと英語を一生懸命勉強されている被爆者の方々にお会いした事もあります。

 

今日のコースは坂が多かったです。ピースコールをしながら歩くので上り坂ではとっても大変。でもなんだか今日はいつもよりみんな声が大きかった気がします。もしかしたらこれこそ「逆境の中でこそ人は輝く」って事の一例なのかも。ヘへへ。

 

きついコースだっただけに短い休憩時間がとっても幸せに感じました。コープの皆さんが今日も色々と用意してくれました。フルーツ、クッキー、冷たいジュースにお茶、スポーツドリンクまで!平和行進者は行進を再開する前はお互いに励まし合います。もし昨日演奏してくれたトランペット奏者の晃さんがいてくれたら、今日私たちと一緒に歩いてくれた方のギターとタンバリンの方と一緒に演奏できて盛り上がったのになぁ。私たちが歌う間ギターとタンバリンが加わると身体は疲れていても、気持ちがとっても元気になります。

 

今日はまた自治体のリーダーの皆さんや、市長さんからも歓迎してもらいました。すごい!

朝の宮前区の休憩では日本共産党からたくさんの方々が行進に加わってくれました。お昼ごはんの時には市役所で市長さんにもご挨拶させてもらいました。この休憩場所でもまたおやつが出て、しかも無料の健康診断まで受けさせてもらえました。

神奈川の通し行進者の鈴木和平さんもご紹介しておきたいです。彼は物静かな若者で今日は何度も私たちに差し入れしてくれました。

私、缶コーヒー大好き!

アリガトウゴザイマス!

 

今日は他にも一緒に歩いてくれた若者がいました。チカさんです。彼女は私の通訳をしてくれました。15歳から3年間ニュージーランドに住んでいた彼女は笠木さんの生徒さんだったそうです。

 

今日は高津区で区長さん自らが出迎えてくれる中、行進を終えました。下の写真は高津区長さん、笠木さん、そして81歳の被爆者の方です。彼女は閉会式で挨拶もされました。

最後に今日の行進中に沿道で声援を送ってくれた皆さんの写真をご紹介しますね。

ドラえもんミュージアムの前でお母さんと子どもたちです。ドラえもんってミュージアムまであるんだ!ワォ!

弁護士さんの一団とも会いました。彼らのうちのひとりは昨日私たちと一緒に歩いてくれた方でした!

(日本語訳=三宅朋子)

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マラヤ・ファブロスさんの行進日誌3日目

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平和行進三日目 川崎市役所から幸区そして中原区の新城公園へ

 

今日は川崎市役所からのスタートでした。笠木隆さんが司会をされてもう一度平和行進者を紹介してくれました。彼はこの平和行進の神奈川県の責任者で神奈川県原水協の事務局長です。私たちはこれから13日間、彼や他の神奈川県原水協の皆さんと一緒に歩きます。下の写真は川崎市役所の方が市長からのメッセージを伝えているところです。

ところでこの開会集会が始まる前に日本原水協の梶原渉さん(かじやん)が私に充電式のワイファイルーターを手渡してくれました。とっても助かる!

 

今日のコースは大通りを通り、小さい通りも抜けて行くコースです。私たちの最初の休憩場所は幸区で、ここでも自治体職員の方に温かい歓迎を受けました。行進を再開しようとしたとき、笠木さんや他の神奈川県原水協の方から約5年程前、私の母も同じコースを歩いたと教えてもらいました!昼食前には川崎平和公園とミュージアムに到着しました。ここでまたトランペット奏者の松平晃さんに出迎えてもらいました。やっと彼に紹介してもらえました!彼は私に自分のCDをくれました。すごい!

この場所は80年前に軍需工場があった場所だそうです。その後ここにあった米軍基地を川崎市民の強い反対で返還させたそうです。1975年には川崎市は完全な米軍基地の撤退を実現し、今その場所は公園、ミュージアム、そして高校に姿を変えています。

 

いまこの公園には平和を象徴する大きな彫刻が豊かな緑の中に点在しています。公園内には小さなステージ、遊技場、様々な活動センターが設けられています。公園の一画にはかなり大きなミュージアムがあります。そこには川崎市の歴史の資料が展示されています。この街の戦争の歴史がビデオ展示してあります。当時戦争がどうやって人々の生活に入り込み、子どもでさえ戦争に巻き込まれていったのか、たとえば空襲や軍需工場での勤労奉仕、軍事演習について展示で知る事ができます。

 

展示の最後は川崎市にかつてあった米軍基地を平和利用するプランが説明されており、もう二度と戦争に巻き込まれないという川崎市の決意が表明されています。

これはとてもすばらしい基地返還後の平和利用の一例だと思います。フィリピンも国内にある全ての米軍基地を撤去させました。一番大きかった二つはクラーク基地とスービック基地です。今その場所は経済発展を進める商業/産業地域になっています。これも良いですがもっと良い平和利用方法もあるはず。

 

以下は昨年在フィリピン米軍基地撤去20周年を記念してローランド・シンブラン教授が語った内容の抜粋です:

 

農家や地元住民は依然として元米軍用地を使って農業をしたいという要求を認められていないし、フィリピン少数民族のアエタ族の場合はかつて先祖から受け継いだこの土地の使用を許されていない。元基地のあった場所は政府の農地改革計画から露骨に排除されており、現地の富裕層や外国投資家らにのみ、この肥沃な土地が富をもたらしている。土地を持たないフィリピンの農業従事者らはこれらの土地で農業に従事する事を拒まれている。従って本当の意味での”兵器から鋤(すき)へ”という基地の平和利用は行われていない。 わたしはいつも日本や韓国からの学者や活動家の代表団に我々のこの経験を伝えている。最初は基地の跡地利用をどうするのかという点で地元住民に開かれていた議論が次第に一部のエリート層の決定で国の経済政策に沿ったものにされていった。従って、依然として地元の人々の基地の跡地利用方法案とエリート中心の国の政策や制度との間には衝突がある。今日、基地跡地で行われている彼らの商業目的の利用によってもたらされる成長の可能性は、新自由主義経済システムの下でのポテンシャルなのだ。軍の施設や兵器庫は工場やオフィス、レクリエーション施設、フィリピン大学の一部を含む文教施設へと姿を変えた。アテネオ大学やその他の学校もクラークやスービックの中にある。民間空港、サファリパークなどの動物園、多くのホテルやレストランなども建てられた。結局のところ私が我々の米軍基地撤去の闘いに敬意を示してくれる日本や韓国の友人たちに伝えたいのは「米軍基地がなくなっても闘いは続く」という事だ。本当にフィリピンのためになる、貧しい人々のためになる経済政策へ、そして人々の発展につながる基地の跡地利用のためには粘り強い闘いが今も必要なのだ。

 

今日もうひとつ書いておきたいのはおやつの事です。厳密に言えば何を食べて飲んだかという事ではなく、誰が休憩時間に私たちにおやつを提供してくれたかという事。正式名称は生活協同組合、コープの皆さんが準備してくれました。神奈川にはコープのお店が約100店舗あるそうです。そのうち6件が川崎市にあります。コープは会員さんたちに高品質の地元の食品を安価な価格で提供します。このシステムはまた地域の産業と製品を生産者として支えます。すごい!コープの店舗はとっても大きくて青果コーナーはとっても広かった。これもまたすごい!

またコープは多くの人々を雇用しています。その中の一人が私たちと一緒に歩いているコープ和歌山の山東恵子さんです。山東さんは東京から神奈川まで一緒に歩いています。彼女は最近コープに就職し、配達を担当しています。わたしは彼女からコープが地域の中で配達もしていると教えられました。買い手はグループでネットか注文書で注文し、商品は各家庭まで届けられます。

今日は中原区の新城公園で4時半頃に少し早めにゴールしました。現地の原水協の方が近くにあるとても家庭的な中華料理屋さんに連れて行ってくれました。ここはたぶん彼の行きつけのお店だと思います。だって彼はこのお店のご主人と顔見知りのようでした。このご主人はすべてを一人でこなします。注文をとり、料理し、配膳も彼でした。料理が一皿ずつ並べられ、まるでご主人のお家にお邪魔しているような気分で食事が出来ました。とっても良かったです。これまでの3日間ずっと夕食は中華料理です。どこでもデザートの前に〆として白ご飯が出てくるみたい。これは日中の長時間におよぶ有酸素運動の後ではとっても良いと思う。

夕食中に行進者らは明日の予定について話し合います。明日は起伏に富んだコースみたいなので頑張らないと。私と一緒に明日歩いてくれる行進者は村田さん、金子さん、伊藤さん、鈴木さん、福島さん、そして山東さんです。

 

村田さんは私同様に広島までの通し行進者です。私たちはこれから約3ヶ月一緒に歩きます。彼は最近退職したばかりですが、在職中はずっとの熱心な組合活動家でした。

 

金子さん(80歳)と伊藤さん(81歳)は親友でスキー仲間でもあるみたい。伊藤さんはこれまで20年間、神奈川の平和行進に参加しています。すごい!

 

金子さんはとっても面白い人でいっつも冗談を言っています。福島さんは彼のジョークで笑いすぎて目に涙を溜めていました。福島さんは英語のインストラクターで通訳で私を助けてくれます。彼は帰り道に私に日本語で1から10までの数え方も教えてくれました。

 

左から:山東さん、福島さん、矢部さん、村田さん、金子さん、伊藤さん

 

「私も一緒に歩くわ」という感じ

 

子どもたちも応援してくれます

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マラヤ・ファブロスさんの行進日誌2日目

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平和行進二日目 芝公園から神奈川県の川崎市へ

 

今朝は風が強かったです。平和行進は東京港区の芝公園から始まりました。開会式には自治体から二人の方がお話をされました。港区は2010年に平和市長会議に加盟しています。彼らは核兵器廃絶を支持する市長からのメッセージを読み上げ、港区がこの行進を応援している事を示すリポン(注:ペナントのこと)を手渡してくれました。私たちはこのリボンをこれから訪問する自治体ではいくつももらう事になるでしょう。またこの自治体の方のうちひとりは、かなり長い間私たちと一緒に歩いてくれました。

 

東京の沿道を歩きながら原水協の何人かの人たちは道で出会うほとんどの通行人にビラを手渡して行きます。愛ちゃんと私は文ちゃん(大越文さん)に励まされて他の行進者と交流しようとしました。行進者の中には印刷会社の方、裁判所の公務員の方、生活協同組合の職員の方などがおられてビックリしました。

 

ビラを配る他には文ちゃんとてぃろーくんはすこし立ち止まってくれた人たちに平和行進の説明をします。私たち行進者に手を振って励ましてほしいという内容を歩いている人たちに伝えてくれているみたい。今のところ、周りの人からの反応は三つあるように思います。

 

1)関わりたくないという態度。彼らは首を降って、足早に通り過ぎます。

 

2)そうなんですかという態度。彼らはビラを読んだり横断幕を見たり説明を聞いて関心を示し、ヘーッと驚いた表情をします。そしてすぐににっこり笑ってうなずきながら手を振ってくれます。

 

3)同じ気持ちですよという態度。彼らはきっと行進がここを通る事を前から知っている人たちだと思います。すぐに立ち止まってうなずき手を振ってくれます。そして行進の最後の人が通り過ぎるまで手を降り続けてくれます。

 

公園でお昼ごはんを食べた後は大田区の区役所(注:大田区産業プラザ)に行きました。ここでは自治体職員の方に暖かく迎えてもらいました。ちょっとしたおやつまでいただきました。ここで私は愛ちゃんのお母さんにも再会して、彼女から可愛いチーズケーキの小さな袋ももらいました。自治体の別の女性も可愛いおもちを下さいました。吉良さんにも再会しました。彼女と初めて会ったのはメーデーでしたが、彼女は参議院選挙に出馬しています。彼女も同僚の人たちと、午後からの行進はずっと一緒に歩いてくれました。

 

他に面白かったのは東京から神奈川県に橋を歩いて渡った事です。この橋はとっても長くって、渡る前に多くの人が横断幕を持って私たちの行進に参加するために待ってくれていました。彼らの姿を見た時に私はとっても元気になりました。この橋の下にはゴルフの練習場もありました。誰かが「こんにちは!平和行進です!」と言いながら平和行進の目的やどれくらい歩くのかという事を伝えたら、何人かのゴルファーがにっこり笑ってくれました。

 

また橋の下から有名なトランペット奏者の松平晃さんが演奏してくれました。曲はWhen the saints go marching in「聖者が街にやってくる」だったと思います。これはすごかった!彼は毎年平和行進のために演奏してくれていると愛ちゃんが言っていました。これって本当に素敵です!彼は私たちが川崎市役所に着くまでの間にいろんな場所に現れて演奏をしてくれました。市役所に到着したらそこで昨日から私たちと一緒に歩いて来た方のコーラスと即興で演奏してくれました。

 

行進の最後には引き継ぎ式を行いました。横断幕などが東京から神奈川の行進者に手渡されます。こうして平和行進が広島と長崎に到着するまでさまざまな団体が全ての都道府県で行進を繋いでいきます。ここで神奈川を通し行進する方々を紹介されました。2人の女性と3人の男性です。これから13日間は彼らと一緒に歩いて行きます。

 

今日も疲れたけど楽しい一日でした。私の新しい万歩計によれば(愛ちゃんの携帯についてるやつだけど)私たちは朝の9時から5時まで25キロ歩いたみたい。私は3万8600歩も歩いて96.2グラムの脂肪を燃焼したんだって。1477キロカロリー分の運動です。でもこの携帯じゃ私が今日何を食べたかはわからないってわけ。

 

ブログを更新するためのIPadじゃなくてカメラで写真を撮ったので、今日は写真がなくてすいません。写真はまた後で!

マラヤ・ファブロスさんの行進日誌1日目パート2

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平和行進一日目 夢の島公園から芝公園へパート2

 

平和行進が東京の夢の島公園でスタートしました。開会式の前に多くのみなさんが私に贈り物をくれました。多くはピンバッチでした。ある一人の年輩の女性が私にくれたピンバッチは彼女が1967年頃から平和行進で使ってきたものでした!ワオ!

 

 

開会式は11時半から始まりました。被爆者や平和運動をする若者の代表、そしてNPT再検討会議のためにジュネーブに行っていた原水協の代表,そして第五福竜丸展示館の代表理事からのスピーチがありました。

 

 

ここで私は私と一緒に通し行進する村田さんに会いました。他のコースを歩く行進者にも会いました。彼らの多くがもうすでに5年以上平和行進をされていると知って驚きました。彼らの大部分はかなり年配の方々で若い女性は私を含めて2人だけでした。一番若いのは山東(さんどう)さんでした。彼女は和歌山のコープに勤めており、これから13日間、私と一緒に歩きます。

 

 

私たちはお昼の1時に出発し、東京の有名な繁華街を行進しました。ここは東京の中心部だそうです。この日は約900人が行進に参加しました。被爆者みずからも一緒に歩きました。安井さんが私を被爆者の隣に連れて行ってくれました。私はなんとか彼と会話しようとやってみました。握手もしました。私たちは行進の半分近くを手を繋いで歩きました。私の下手な日本語では彼のお年を聞く事しか出来ませんでした。彼は85歳でしたがとてもしっかり歩かれていました。お別れする前に,彼は私に気をつけてと言ってくれました。

 

 

行進の列の最後にはDJのトラックが続いていました。ここはメーデーで会った男性が仕切っていました。これはとっても格好良くて日本語の歌詞のレゲエ音楽が流されていました。こういう方法は沿道の若者にもアピールできるし、行進する私たちも元気になります。

 

 

港区の芝公園が1日目の最終地でした。到着する頃に雨が降り出したので閉会式は短めに行われました。平和行進の通し行進者は感想を一言ずつ求められました。

 

芝公園での式典の一番の注目は広島と長崎からの原爆の火でした。これは長崎と広島で昔大切な運動の一環として灯されました。それ以来、火は消される事なく様々な地域に分火されています。遠くはニューヨークまでこの火は分けられています。もう一度この消える事のない火についてはタカさんに教えてもらわなくては。

 

行進は長かったので足は疲れました。でもなんだか大勢の人と一緒に歩いて気持ちは元気です。前に毎日平均10キロは行進すると教えられました。初日からそれ以上歩いたと思います!愛ちゃんの携帯には万歩計が付いてるのだけれど、それでは20キロになっていました。でもそれは彼女の歩幅で計算されているけど、私の歩幅はもっと小さい。もしかしたら12キロぐらいと言っておいた方が良いのかな?

 

 

一日の終わりに地域の方が中華料理屋さんに連れて行ってくれました。辛い料理を食べました!ドバイで辛い料理に慣れてるので私は辛いのは平気です。日本の友人たちの多くが辛い料理が好きなのは面白いです。この夜は知っている人がたくさんいました。メーデーで会った人たちがほとんどでした。スゴイ!

 

[…]

マラヤ・ファブロスさんの行進日誌1日目

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平和行進一日目 夢の島公園から芝公園へ

 

今日はみんなが待ちに待った日。これから始まる平和行進への期待で私もかなりドキドキしている。出来る限り多くの事をブログでも綴っていきたいと思う。

 

木村さんと私は平和行進の開会式のために9時24分に夢の島公園に向かった。昨日までの3日間、木村さんは私を彼女の広いお家に泊めてくれた。和室で寝かせてくれて,美味しい朝ご飯(サケおにぎりとか!)を食べさせてくれた。彼女は夢の島公園にある第五福竜丸展示館のボランティアガイドをしている。

 

私たちが到着した時には日本原水協と東京原水協のみなさんがすでに忙しく準備をしていた。私は第五福竜丸展示館に案内され、蓮沼佑助さんが展示を説明してくれた。彼はこの春大学を卒業したばかりで第五福竜丸展示館でガイドをしている。これからガイドか学芸員になるための資格試験を受けようと思っているらしい。

ゆうすけさん、ガンバッテクダサイ!

 

さて、第五福竜丸展示館とビキニ事件とは?

ここは第五福竜丸を展示してある場所だ。第五福竜丸は1940年代後半に元々マグロ漁船として作られた大きな木の船だ。太い丸太で作られており、この種の船としては大きな方だった。第二次世界大戦後のまだ日本に食料が少ない時代、第五福竜丸の乗組員はより多くのマグロを穫るために太平洋に乗り出していった。

 

1954年3月、第五福竜丸の乗組員らはビキニ環礁でおかしな時間に日が昇るのを目撃した。地平線から強烈な光が射し、激しい揺れを彼らは感じた。数分後,爆発した珊瑚からの灰の雨に見舞われる。以前に広島の原爆で同じような揺れを経験していた船長は何となく危険を察知した。彼らは他の船乗りたちに知られる事を恐れてすぐにはこの事を関係当局には伝えないことにした。これは冷戦時代の出来事だ。

 

彼らは数週間後に焼津にもどってからこの事を報告した。彼らは船に付着していた灰のサンプルと身体の様々な部分の細胞を近くにあった大学に検査のために送り,そこでわかったのは全てが放射能汚染されているという事だった。さらに彼らは自分たちが見たものが、米国がビキニ環礁で行った核実験だった事を知る。当時そんな実験のことは誰も知らなかった。

 

このニュースはすぐに日本全国に広まり、全国からたくさんの抗議が巻き起こった。広島と長崎の原爆から10年足らずでこんな事が起こったのだ。また当時は捕まるかもしれないという恐怖心から原爆投下への批判はそれほど公にはされていなかった時代だ。

 

第五福竜丸以外にも核実験は魚介類への放射能汚染,とりわけマーシャル諸島の環境を汚染した。

 

日本の多くのマグロは放射能に汚染され「原爆マグロ」と呼ばれた。展示館の地図は太平洋のさまざまな場所で原爆マグロが獲れたことを示している。フィリピンでもこのようなマグロは10数回以上見つかっていたという事を知って私は驚いた。是非写真を参照してほしい。

 

この事件は、さらに多くの人々が毎年行われる原水爆禁止世界大会に参加し始める契機となった。

 

次の質問は平和行進とは?というところだろうか?

 

1958年、広島の一人の僧侶が広島から東京まで世界大会に参加するために歩く事を決めた。当時世界大会は東京で開催されていた。彼は一人で歩き始めたが、立ち寄る様々な町、市、県で多くの人々がこの行進に参加し始めた。東京に到着する頃にはこの一団は驚く程の大人数になっていた。それ以来平和行進は毎年続けられた。一年たりとも欠かすことなく続けられている。

 

1958年から変わった事もいくつかある。毎年の世界大会は広島と長崎で開催されることになった。現在は平和行進にもいくつかのコースがある。一番知られているコースは東京ー広島コースだ。他には沖縄から長崎に向かうコースもある。他にもいくつかのより短いコースがあると思う。またこれから詳しい事は紹介していくつもりだ。

 

また当時、初めての行進は6月中旬頃に始められ、8月6日に東京に到着していた。今は5月6日に東京の夢の島公園を出発し,8月6日に広島の原水爆禁止世界大会の会場がゴールになっている。だからこれから私たちは約3ヶ月間かけて広島まで歩くことになる。

 

予定と行進コースに沿って、平和行進は毎日、日本中の様々な街や沿道で核兵器の廃絶と世界平和を求めて進んで行く。主に2つの効果がこの行進にはあると思う。

 

1)日本全国津々浦々で人々と繋がり,核兵器廃絶を訴え,支持してもらったり,参加してもらうための強力な宣伝効果。

 

2)平和運動に関わっている全ての人にとって核兵器のない地球をという共通の願いを表現する重要な運動としての効果。

 

今日までに私が見て来たところでは、平和行進は日本人の過去に行われた誤りを自国にも世界中どこにも繰り返させないという強い決意と絶え間ない努力の象徴だと思う。これはとても力強く,クリエイティブなシンボルなのだ。

 

これが、平和行進です!

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