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原水協通信

毎月発行している日本原水協の機関誌です。国内外の反核平和運動についての情報が満載です。 日本原水協のウェブサイト→ http://www.antiatom.org/

「核兵器の全面禁止を!」

「非核日本キャンペーン」

2024年原水爆禁止国民平和大行進

『オッペンハイマー』と核兵器についてのハリウッドからの公開状

ハリウッドの俳優たちが3月7日付のロサンゼルス・タイムズに載せた「公開状」を日本原水協の高草木博代表理事が仮訳しました。


 『オッペンハイマー』は、核兵器の起源、マンハッタン計画の歴史、その後のロバート・オッペンハイマーの軍備競争とそれまで以上に強力な兵器の開発への警告などを描いている。

 オッペンハイマーが我々に警告したのは正しかった。

 いま、1万4千発の核兵器が9つの国の手中にある。

 あるものは1945年に広島と長崎を破壊したものよりも80倍の威力を持っている。

 1961年、ケネディー大統領は国連でこう演説した:

 「いま、この地球に住む人の一人ひとりが、この星がもはや住めないようになる日のことを考えなければならない。男、女、子どもの一人ひとりが、ダモクレスの剣の下に置かれている。それは事故や誤算、あるいは狂気によって切られるかもしれないきわめて細い糸によって吊り下げられている。これらの戦争の兵器は、それが我々を廃棄する前に、廃棄しなければならない」

 芸術家や弁護士たちのように、私たちも声を上げ、オッペンハイマーは歴史だが、核兵器は歴史でなく(現実である)ことを人びとに思い起こさせなければならない。

 この大きな不確実性の時代には、たとえ1発の核兵器でも、それが地上であれ、海であれ、空中であれ、あるいは宇宙であれ、あまりに多すぎるのだ。家族、地域、そして世界を守るために、私たちは世界の指導者たちに核兵器を歴史の過去のものとするよう、そして明るい未来を創るよう要求しなければならない。

 どうか我々に加わってください ―― 私たちの運が尽きてしまう前に!

ロザンナ・アークエット(俳優) ジュリアン・ムーア(俳優) ミア・ウェンジェン(作家、ブロガー)

ジャクソン・ブラウン(ミュージシャン) ビゴ・モーテンセン(俳優) ジャネット・ザッカー(映画プロデューサー)

エレン・バースティン(俳優) グラハム・ナッシュ(ミュージシャン) ジェリー・ザッカー(映画監督)

イヴェット・ニコール・ブラウン(俳優) ビル・ナイ(科学教育者)

アラン・カミング(俳優) チャールズ・オッペンハイマー(ロバート・J・オッペンハイマーの孫)

マイケル・ダグラス(俳優) パイパー・ペラーボ(俳優)

ジェーン・フォンダ(俳優・作家) ジューン・ダイアン・ラファエル(俳優)

トニー・ゴールドウィン(俳優・映画監督) リサ・リナ(俳優) アーネスト・モニツ(元アメリカ合衆国エネルギー長官)

クラーク・グレッグ(俳優・脚本家) ピーター・セラーズ(演出家)

ハリー・ハムリン(俳優) ボビー・シュライバー(元サンタモニカ市長) サム・ナン(元アメリカ合衆国上院議員)

ポール・ジェイ(ジャーナリスト) デイビッド・スラック(脚本家)

アニー・レノックス(ミュージシャン) バーブラ・ストライサンド(歌手・俳優) ジョーン・ロールフィング(核脅威イニシアチブ社長・最高執行責任者)

ニコラス・メイヤー(映画監督・脚本家) クリステン・スチュワート(俳優)

エレン・ミロイニック(衣裳デザイナー) エマ・トンプソン(俳優・脚本家)

公開状原文・署名者の全リストはこちらから

【日本政府に核兵器禁止条約への参加・署名・批准を求める意見書決議】徳島県鳴門市議会の採択を確認して676自治体議会に

676自治体(2024年3月14日現在)

【基準】
日本政府の禁止条約への署名、批准など、条約への参加を求めているもの
※趣旨採択(31自治体)を含む。

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映画『オッペンハイマー』に見る広島と長崎

アメリカ/平和・軍縮・共通の安全保障キャンペーン議長のジョゼフ・ガーソンさんが、被災70年2024年3・1ビキニデーの後に招かれた映画『オッペンハイマー』についてのパネル討論会への寄稿を日本原水協の高草木博代表理事が日本語に翻訳しました。

***

映画『オッペンハイマー』に見る広島と長崎
ジョゼフ・ガーソン

 映画『オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン監督)の批評が表れ始めて以来、ひとつの疑問が浮かび上がっていました。なぜ広島と長崎への原爆投下が引き起こした大規模な破壊と犠牲の映像が表れてこないのでしょうか?
 アカデミー賞授賞式の数日前、その質問への答えを知る機会を得ることができました。私は、ちょうど日本から戻った直後のことです。日本では広島・長崎の被爆者と一緒に行進し、1954年3月1日のビキニ水爆実験「ブラボー」の70周年行事に参加しました。その爆弾は広島原爆の1000倍を上回る力を持っていました。それは、ビキニ環礁から125マイル(180km)離れたロンゲラップ環礁のほとんどすべての島民の命を奪い、あるいは被ばくさせました。また、日本の漁船員の命を奪い、1000隻を上回る漁船を放射能で汚染し、日本の食料供給の少なからぬ部分を汚しました。そのなかで1954年から55年にかけてつづいた核兵器の廃絶を求める署名運動は、3150万余の署名を日本の全有権者の65%に上る人たちから集め、世界で最初の、おそらくもっとも影響力の大きな、核兵器のない世界をめざす社会的運動を生み出したのです。

 友人であり私の団体(訳注:平和・軍縮・共通の安全保障キャンペーン)の委員でもあるハーバード大学のエレーヌ・スキャリー教授が、映画『オッペンハイマー』の元になった本『アメリカのプロメテウス:ロバート・J・オッペンハイマーの勝利と悲劇』の共著者カイ・バードと一緒に開催するパネル討論会に来るよう私を誘ってくれたとき、私の心には、これらの人びととその歴史とがすでに骨の髄まで固く刻まれていました。
カイと彼の共著者の故マーティン・シャーウィンは、私の長年の知己でした。カイは寛大で謙虚な人柄で、学者としても伝記作家としてもすぐれた人物です。パネル討論の前に短時間、言葉を交わし、そこで彼が日曜日にアカデミー賞、オスカーを受けることを知り、喜びました。
 カイは、自分の発言で、映画が大部分、彼の本を下敷きにし、セリフも彼とマーティンの著作からそのまま取っていたと言っていました。ハリウッド映画では大変稀なことです。撮影が始まる前に200ページにわたる映画の脚本に目を通すためにカイに与えられたのは2、3時間だったそうです。そこで彼が見つけた間違いは1か所だけで、ノーラン監督はそれを訂正したと言っていました。カイも、もうひとりのパネリストのハーバード大の科学史のピーター・ギャリスンもオッペンハイマーについて、(物理学者としても他の点でも)燦然と輝き、複雑で、情緒的にはひ弱で、もし第二次世界大戦とマンハッタン・プロジェクトが割って入ってこなかったら、1935年に始まったブラックホールについての彼の仕事の方がもっとよく知られていたような男だと描き出していました。
 質疑の時間には、私は、日本で知ったことや自分がおこなったことを簡潔に話した後、カイに、この映画の監督のノーランが、オッペンハイマーの爆弾が引き起こしたものを観客にさらけ出すことについて真剣に話し合ったか?と質問してみました。カイの答えは思慮深いもので、映画の最後の部分のもっとも気がかりないくつかの映像について解明するものでした。

 カイの直接の返事は「ノー」でした。そのような討論はおこなわれなかったと。カイは前に、映画と原本の劇的な共通項は原子力委員会の聴聞会であり、権力の座にある者たちはそこで世界の最先端の科学者であり影響力の大きい知識人としてのオッペンハイマーの役割を破壊しようとしたのだと説明していました。エドワード・テラー、原子力委員会のルイス・ストローズ(訳注:委員長)、そしてペンタゴン内の強大な力が、オッピー(訳注:オッペンハイマーの愛称)が水爆開発に反対したことに激怒して反応しました。カイが説明したのは、映画も本も基本的にはオッペンハイマーの伝記であり、エレーヌが言ったように映画は「オッペンハイマーの心のなかで何が起こっていたかという視点から話を展開」していたのであって、それとは別のもっと広い視野から展開したのではない、ということでした。
 カイは、映画のなかで何か所か、ノーラン監督が原爆による惨害とオッペンハイマーの道義的な危惧について微妙に示唆していたことを認めていました。この映画での最初の場面はトリニティ実験の直後で、ついで原爆投下から3か月後、自分の「装置」が投下された当時、日本が降伏の瀬戸際であったことをオッペンハイマーが知った場面です。 ある個所で、オッペンハイマーがトリニティ実験の直後に、「可哀そうな人びと」とつぶやく場面が出てきます。原爆によって殺され、壊滅させられることがわかっている無辜の日本の市民たちについてのつぶやきです。同時にカイは、オッペンハイマーが軍高官と会い、いかに効果的に原爆を爆発させるか(高度など)などを説明していたことにも注目していました。
 焼けただれた体、手から皮膚が垂れ下がった人びと、顔から飛び出した眼球、溜池で溺れている人びとなどを映す代わりに、ノーランはオッペンハイマーが惨劇を伝える新聞の切り抜きを見入っているとき、その顔が自分の爆弾が生み出したものへの恐怖でゆがむ様子を映しています。彼がロスアラモスの集会場で聴衆に話すとき、我々がオッペンハイマーの想像からもっとも心穏やかでないイメージを受け取るのは、原爆の熱で少女の顔が溶けていくシーンです。実際、その顔はノーランの娘の顔です。エレーヌ・スキャリーは後ほど、「これは、日本人の顔を醜くすることによって元の危害を再現することのないようにとの、ノーランにとってまさに倫理的な決断だった」と説明しています。
 そしてノーランは、オッペンハイマーがトルーマン大統領やバーンズ国務長官と会い、彼ら全員が手を汚しているという真実を突き付けたことで、彼の罪の意識を描き出しています。
エレーヌは、この部分の討論を終える前にこう指摘しました。米国の文化では「観客が負傷した人たちへの同情を求められるような映画のシーンを見ることに抵抗がある。日本では、たとえ幼い子どもでも、原爆がもたらした人的破壊の恐ろしい写真や映像を見せる、と。さらに彼女は付け加えて、こうも説明した: 私と一緒にケンブリッジの公立図書館に額のついた広島・長崎の被爆と被爆者のポスターを展示することを企画した。私たちが展示をした翌朝、図書館に戻ると、私たちの許可もなく、知らないうちにポスターの配置がすっかり変えられていた。死者や負傷者の写真を含むポスターはすべて外されていたのだ、と。
 パネル討論会が終わった後、私と妻はもう一度その映画を観ることを決意しました。すでに映画を鑑賞し、アカデミー賞の受賞の様子も観て私と同じ問題を感じた人たちは、私たちと同じことをしたくなるかもしれません。それで何も起こらずとも、人類の生存を脅かす実存的な核の危機を除去する我々の決意がさらに固いものとなることは間違いありません。

第五福竜丸無線長の久保山愛吉さんのお墓がある静岡県焼津市の弘徳院に向けて行進するガーソンさん(左から2人目、2024年3月1日)

核兵器禁止条約第2回締約国会議 日本原水協代表団の活動

核兵器禁止条約第2回締約国会議が開かれる国連本部に向けて出発する前に、日本被団協の木戸季市事務局長と箕牧智之代表委員と一緒に記念撮影する日本原水協代表団(2023年11月27日、ニューヨーク)
会議初日、核兵器の人道上の影響に関するテーマ別討論で、土田弥生事務局次長が声明に基づき発言しました(2023年11月27日、ニューヨーク国連本部)
ニューヨーク州ピースアクションの青年を中心に開かれた青年集会には30人が集まり、日本原水協代表団からは6人の若者が参加し、楽しく交流しました(11月27日)
核兵器廃絶日本NGO連絡会の「世界中継2023冬~ニューヨーク核兵器禁止条約速報~2日目」に元参議院議員の武田良介さんが登場しました(11月27日、ニューヨーク)
イザヤの壁前で集会。冒頭、広島被爆者の金本弘さん(愛友会理事長)がスピーチしました。(11月28日、ニューヨーク)
イザヤの壁前での集会では、核兵器使うな・なくせと「原爆を許すまじ」を歌いました。(11月28日、ニューヨーク)
被爆者を先頭に、アメリカ代表部からロシア代表部まで約300人がデモ行進しました(11月28日、ニューヨーク)
日本のうたごえ全国協議会代表の佐藤俊隆さんによる動画レポート(11月28日、ニューヨーク)
核兵器廃絶日本NGO連絡会の「世界中継2023冬~ニューヨーク核兵器禁止条約速報~3日目」に日本原水協担当常任理事の嶋田侑飛さんが登場しました(11月28日、ニューヨーク)
志野光子(しのみつこ)特命全権大使 国際連合日本政府次席常駐代表と面会し、第2回締約国会議への日本原水協の声明などを安井正和事務局長が手交しました。(11月29日、ニューヨーク)

代表団からは3日目に入った第2回締約国会議の討論の感想として、多くの国が78年前の広島と長崎の原爆被害を繰り返さないためにも核兵器禁止条約が大事だとのべ、被爆者の声に耳を傾けている。日本政府は今からでもオブザーバー参加、傍聴すべきだと迫りました。愛友会理事長の金本さんは、ニューヨークに行く直前に被爆したときに幼い自分を守り、その後の78年を支えてくれた姉が亡くなったこと、本当ならば参加できなかったが、姉はきっと「行ってきんさい」と言ってくれるだろうと参加を決めたこと。被爆者にはもう時間がない。日本政府は何をしようとしているのか、行動で示してほしいと涙を浮かべて訴えました。志野大使は、金本さんの訴えに誠実に応えようとせず、「核保有国を市民社会の運動で動かしてほしい。そうすれば日本政府はオブザーバー参加できる」などと他人事のように唯一の戦争被爆国の役割を否定。情けない態度に怒りを覚えました。(安井正和)

参加者は、右から石川敏明(全国労働組合総連合副議長)、金本弘(愛知県原水爆被災者の会会長)、安井正和(日本原水協事務局長)、志野光子(特命全権大使 国際連合日本政府次席常駐代表)、河野絵理子(長野県原水協)、平野恵美子(新日本婦人の会副会長)、三井靖広(神奈川県原水協事務局長)の各氏。(11月29日、ニューヨーク)
オーストリア政府との共催で、サイドイベント「人類と核兵器は共存できないーヒバクシャは核兵器禁止条約を支持する」を開催しました。(11月29日、ニューヨーク)
発言者は右から日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)事務局長の木戸季市さん、オーストリア外務省のゲオルゲー ヴィルヘルム・ガルホーファーさん、韓国原爆被害者協会監査のイ・ギヨルさん、マーシャル教育イニシアチブ執行理事のベネティック・カブア・マディソンさん、先住民リーダー、安全な環境のための多文化同盟、先住民世界協会のペチューチェ・ギルバート・アコマ・プェブロさん(11月29日、ニューヨーク)
サイドイベント「大衆集会『緊急に軍縮を-核対立と戦争を防ぐ国際行動』」で、日本原水協代表団を代表して東京学生平和ゼミナール の小薬岳さんが、日本の禁止条約への参加を求めるスピーチをしました。(左下写真)(11月29日、ニューヨーク)
核兵器禁止条約第2回締約国会議4日目朝から、在ニューヨーク日本国総領事館前で、日本原水協とマンハッタンプロジェクトが共催して核兵器禁止条約への日本政府の参加を求めるアピール行動をしました。日本被団協の木戸季市事務局長も参加しました。(11月30日、ニューヨーク)
核兵器禁止条約第2回締約国会議4日目(2023.11.30)朝から、在ニューヨーク日本国総領事館前で日本原水協とマンハッタンプロジェクトが共催して核兵器禁止条約への日本政府の参加を求めるアピール行動がおこなわれ、日本被団協の木戸季市事務局長も参加しました。YouTubeのアーカイブ動画です。

核兵器廃絶日本NGO連絡会の「世界中継2023冬~ニューヨーク核兵器禁止条約速報~5日目」に日本原水協代表団の金本弘さんと河野絵理子さんが登場しました(11月30日、ニューヨーク)

代表団は核保有国のフランス代表部を訪問し、アレクサンダー・オルメド公使参事官、ニコラス・ディ・マセオ1等書記官と懇談しました。写真は右から田中信一(兵庫県平和委員会)、長澤幸子、平野恵美子(新婦人)、安井正和(日本原水協)、衣笠彩香(兵庫民青)、アレクサンダー・オルメド(公使参事官)、ニコラス・ディ・マセオ(1等書記官)、谷澤楓香(兵庫民青)、鷲尾裕(岡山県原水協)、武田良介(日本共産党長野県委員会)の各氏(11月30日、ニューヨーク)

【動画あり】141万超の「禁止条約参加署名」を日本政府に提出

11月27日から12月1日までニューヨークの国連本部で開かれる核兵器禁止条約第2回締約国会議を前に、日本原水協が事務局を務める「日本政府に核兵器禁止条約の署名・批准を求める会」は11月7日、衆議院第1議員会館で「禁止条約参加署名」共同提出(第3次)のつどいを開催し、68人が参加しました。「禁止条約参加署名」現物11万3380人分、累計141万7399人分の署名を提出しました。

日本原水協の高草木 博代表理事が主催者あいさつで、過去の侵略戦争の反省から戦争の放棄を憲法とし、唯一の戦争被爆国として核兵器の廃絶を誓った日本が、核大国の核戦略に依存し、先制攻撃能力を持つ各種兵器を配備・増強し、国際政治の場で核兵器禁止条約の決議に反対しつづけることは、国連憲章の精神にも日本国憲法にも逆行しつづけることだと指摘。日本政府が核兵器の廃絶を求める日本と世界の人びとの願いを受け入れ、核兵器禁止条約に参加するよう求めました。

署名共同よびかけ人の川崎 哲さん(ピースボート共同代表/ICAN国際運営委員)、武本匡弘さん(プロダイバー・環境活動家)が参加しあいさつ。小林 節さん(慶應大学名誉教授/弁護士)からはビデオメッセージが寄せられました。

同じ趣旨で署名を集めている田中煕巳さん(日本原水爆被害者団体協議会代表委員)が連帯あいさつ。田原ちひろさん(東京学生平和ゼミナール事務局長)からもビデオメッセージが寄せられました。

国会議員は、日本共産党から笠井 亮、宮本 徹、本村伸子各衆議院議員、伊藤 岳、井上哲士、吉良佳子各参議院議員、立憲民主党から阿部知子、桜井 周、佐藤公治、松木謙公、山崎 誠各衆議院議員、参院会派「沖縄の風」から髙良鉄美参議院議員、れいわ新選組から櫛渕万里衆議院議員が参加しました。また、立憲民主党の落合貴之衆議院議員、横沢高徳参議院議員の秘書が資料を受け取りました。日本共産党の志位和夫衆議院議員、岩渕 友、田村智子各参議院議員、れいわ新選組の櫛渕万里衆議院議員からは、連帯メッセージが寄せられました。

外務省から出席した林 美都子審議官(軍縮不拡散・科学部)への署名の手交式では、最初に核兵器禁止条約第2回締約国会議・日本原水協代表団員として、中央団体から宮澤洋子さん(全日本民主医療機関連合会常駐理事)、千坂 純さん(日本平和委員会事務局長)、轟 志保子さん(日本のうたごえ全国協議会事務局長)が、都道府県からは三井靖広さん(神奈川県原水協事務局長)、佐竹康行さん(愛知県原水協事務局長、愛知県民の会を代表して)、梶本修史さん(兵庫県原水協事務局長)、佐藤澄人さん(長崎県原水協事務局長)につづき、中央団体の田中章治さん(全日本視覚障害者協議会前副会長)、住江憲勇さん(全国保険医団体連合会会長)、都道府県から嶋田千津子さん(北海道原水協事務局長)、渡部雅子さん(秋田県県原水協事務局長)、石堂祐子さん(福島県原水協事務局長)、鬼形正弘さん(群馬県原水協事務局長)、市川順子さん(東京原水協事務局長)、伊藤 稔さん(埼玉県原水協理事長)、伏見孝文さん(日本政府に核兵器禁止条約の批准を求める山梨県民の会呼びかけ人)、大牧正孝さん(静岡県原水協事務局長)、田中茂二郎さん(三重県原水協事務局長)、斎藤治孝さん(福井県原水協事務局長)、平 信行さん(京都原水協事務局長)、橋口紀塩さん(大阪原水協事務局長)、河戸憲次郎さん(奈良県原水協事務局長)、谷口朋美さん(岡山県原水協事務局次長)、古田文和さん(広島県原水協事務局長)、本藤佳代さん(愛媛県原水協事務局次長)、猪本百合子さん(徳島県原水協事務局長)、作取 久さん(熊本県原水協事務局長)、中原志保さん(宮﨑県原水協理事長)がそれぞれ、一言とともに現物署名を手交し、林審議官は「重く受け止める」とコメントしました。

日本原水協の安井正和事務局長は閉会あいさつで、「被爆国である日本政府が禁止条約に参加するのは当たり前だ」という国民の声を誠実に受け止めてほしいと訴えました。そして、今月末の第2回締約国会議の会場で日本政府の代表がいることを強く願っていると語りました。

第36回東京国際映画祭 『雪豹』が東京グランプリ受賞!

2023年10月23日から11月1日まで、第36回東京国際映画祭が開催されました。

上映動員数/上映作品数は「7万4841人/219本(10日間)」(第35回:「5万9541人/169本[10日間])」、上映作品における女性監督の比率(男女共同監督作品を含む)は「22.4%(219本中38本)」(第35回「14.8%(169本中25本)」)となりました。

今年のコンペティション部門には、114の国と地域から1942本(第35回:107の国と地域から1695本)の応募があり、15作品が正式出品。最高賞にあたる東京グランプリ/東京都知事賞は、中国の『雪豹』が受賞しました。審査委員長を務めたヴィム・ヴェンダース監督は「満場一致でした」とコメント。圧倒的な評価だったことを明かしました。

全受賞結果は下記の通りです。

コンペティション部門
▼東京グランプリ/東京都知事賞:『雪豹』(ペマ・ツェテン監督)
▼審査員特別賞:『タタミ』(ザル・アミール/ガイ・ナッティヴ監督)
▼最優秀監督賞:岸善幸監督『正欲』
▼最優秀女優賞:ザル・アミール『タタミ』
▼最優秀男優賞:ヤスナ・ミルターマスブ『ロクサナ』
▼最優秀芸術貢献賞:『ロングショット』(ガオ・ポン監督)
▼観客賞:『正欲』(岸善幸監督)

アジアの未来部門作品賞
『マリア』(メヘディ・アスガリ・アズガディ監督)

Amazon Prime Video
▼テイクワン賞:『Gone with the wind』ヤン・リーピン監督
▼特別審査員賞:『ビー・プリペアード』安村栄美監督

署名を集めてNYへ!〜核兵器禁止条約 第2回締約国会議参加者の決意〜

 核兵器禁止条約第2回締約国会議が、11月27日~12月1日、ニューヨークの国連本部で開かれます。締約国は、第2回会議に向けて、この条約を機能させるために準備と議論を進め、政治宣言も出される予定です。この条約の普遍化を促進するために、市民社会には各国で自国政府を禁止条約に参加させるための運動が求められています。
 日本原水協は、核兵器廃絶を促進するために、第2回締約国会議に代表団を派遣します。それに向け、日本政府に核兵器禁止条約への参加を迫る署名・行動を飛躍させ、現地ではアメリカや海外の運動とともに、国際共同行動をおこないます。
 代表団に参加する皆さんから、決意を寄せてもらいました。

名古屋青年合唱団から核兵器禁止条約第2回締約国会議に愛知のうたごえ代表として参加する佐藤俊隆さんが作詞作曲した曲「ニューヨークに行ってきます」

【レジュメ・資料】2023年国連軍縮週間特別企画/パネル討論「危機の中で国連と日本の役割を考える 核兵器禁止条約による安全保障こそ人類を救う道」

【核兵器禁止条約】新たにバハマが署名して93か国、スリランカが加入して69か国に

2023年9月19日、核兵器禁止条約に新たにバハマ🇧🇸が署名して93か国となりました。また、同日スリランカ🇱🇰が加入して批准国は69か国となりました。

2017年7月7日に採択され、同年9月20日に調印(署名)・批准・参加の受付が始まった核兵器禁止条約。2020年10月24日にホンジュラスが批准書を国連事務総長に寄託して50か国となったことで2021年1月22日に発効しました。

核兵器禁止条約に署名・批准・参加した国一覧(2023年9月19日現在、93か国。★は批准した国)

アルジェリア、アンゴラ、★アンティグア・バーブーダ、★オーストリア、バハマ、★バングラデシュ、バルバドス、★ベリーズ、★ベナン、★ボリビア、★ボツワナ、ブラジル、ブルネイ、ブルキナファソ、★カーボベルデ、★カンボジア、中央アフリカ共和国、★チリ、コロンビア、★コモロ、★コンゴ共和国、★クック諸島、★コスタリカ、★コートジボワール、★キューバ、ジブチ、★コンゴ民主共和国、★ドミニカ、★ドミニカ共和国、★エクアドル、★エルサルバドル、赤道ギニア、★フィジー、★ガンビア、ガーナ、★グレナダ、★グアテマラ、★ギニアビサウ、★ガイアナ、ハイチ、★バチカン市国、★ホンジュラス、インドネシア、★アイルランド、★ジャマイカ、★カザフスタン、★キリバス、★ラオス、★レソト、リビア、リヒテンシュタイン、マダガスカル、★マラウイ、★マレーシア、★モルディブ、★マルタ、★メキシコ、★モンゴル、モザンビーク、ミャンマー、★ナミビア、★ナウル、ネパール、★ニュージーランド、★ニカラグア、★ナイジェリア、ニジェール、★ニウエ、★パラオ、★パレスチナ、★パナマ、★パラグアイ、★ペルー、★フィリピン、★セントクリストファー・ネイビス、★セントルシア、★セントビンセント及びグレナディーン諸島、★サモア、★サンマリノ、サントメ・プリンシペ、★セーシェル、シエラレオネ、★スリランカ、★南アフリカ、スーダン、タンザニア、★タイ、★東ティモール、トーゴ、★トリニダード・トバゴ、★ツバル、★ウルグアイ、★ヴァヌアツ、★ベネズエラ、★ベトナム、ザンビア、ジンバブエ

※クック諸島、ニウエ、モンゴル、スリランカは、同条約に調印せずに加入書を国連に寄託しました。加入は批准と同じ法的効力を持ちます。

出典:核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のウェブサイトで条約の調印・批准状況が分かります。随時更新される予定。

【原発をなくす全国連絡会】ALPS処理水の海洋放出決定に抗議する声明および行動提起

原水爆禁止2023年世界大会「国際会議宣言」

沈黙の閃光  / セツコ・サーロー

セツコ・サーローさん

いまから40年前の1945年8月6日、アメリカは広島に原爆を投下しました。当時、私は広島女学院に通う13歳の生徒でした。この一発の爆弾でおよそ14万の人々が命を失いました。私は生き残った者のひとりです。その後の人生の大半を、あのとき目の当たりにした恐怖と被害を二度とくり返させないために生きてきました。廃墟から這い出てきた私たちは、いま世界を脅かしている核の破局を垣間見ました。私のことをお話しするのは同情を得るためではありません。警告なのです。

 被爆以前の私の生活は、日本の若い女の子としては例外的なものでした。家族は武士階級の家系でした。侍といっても、封建的な特権はずっと以前になくなっていたのですが、それでも武士の家系にははっきりとした社会的な格式が残っていました。私たちの住む広島の大きな家の門には、武士の家系であることを示す家紋が刻まれていました。

 西洋の知識という点でも私たちは例外でした。戦前、私の父はドイツ人のパートナーと「西部フルーツ会社」を起こし、カリフォルニアで果実の商売を営んでいました。6人の兄弟姉妹のうち何人かはそこで生まれました。家族は、ゴルフとかスキーとか、西洋の中流の人たちが楽しむ娯楽にも親しんでいました。ほとんどの日本人にとって、習いたいとは思っていたかも知れませんが、何の知識ももっていないような活動でした。

 私は、1932年1月3日、中村節子として広島に生まれました。兄弟姉妹のほとんどはすでに成人年齢に達していました。だから私は大人の世界で一人っ子のようにおませで、甘やかされて育ったわけです。たくさんの楽しい時間がありました。けれど戦争はいつも影を落としていました。ラジオで日米開戦の報道を聞いたことも覚えています。9歳のときでした。勇ましい軍歌に続いて、陸や海戦での勝利が伝えられました。しかし太平洋戦争のなかで年とともに音楽は暗いものへと変わっていきました。大敗の報道が続くようになり、天皇陛下への忠誠が強調されました。状況は悪化の一途をたどりました。なにもかも配給に変わりました。着るものも、とりわけ食べるものも。ごはんに押し麦や、さらには食べられるものなら何でも混ぜるようになりました。砂糖はほとんど手に入らなくなりました。

 終戦間際のある日のことです。二階に行くと父がテーブルの前に座って、なにか外国の本を読んでいました。「それなに?」と聴くと、「英語の文法の本だよ」とのこと。驚きました。父は、「やがてこれが必要となる」と言いました。当時は、まだそれがどういうことなのかよくわかりませんでした。いまから思えば、父は日本の敗戦が近づいていたことを知っていたのです。米国に住んだことがあり、アメリカのすごい力をよく知っていたのですから。

 その年の春から夏にかけて、米軍はサイパン、テニアン、硫黄島の空港を相次いで落とし、日本の都市を攻撃できるようになりました。広島を爆撃する前、米軍は東京はじめ、大きな都市を次々と爆撃しました。広島が攻撃されるのも時間の問題でした。37万人の人口と優れた港をもち、そこから軍人を船で太平洋の戦場に送り出していた広島は、主要な攻撃目標だったのです。

 私たちも、備えを固めようとしました。市全体が班に分けられ、それぞれが民間防衛体制の責任者である班長の下に置かれました。女性のスカートやハイヒールは禁止です。実際、非常時に自由に動けるように、もんぺとよばれる機能的なだぶだぶのズボンをはいたわけです。外出するときは救急セットが入った布のバッグと炒った豆の袋とを持ち歩きました。もし取り残されても飢えることがないようにです。夜は敵機が家を標的にするのを防ぐため、窓という窓に覆いをつけました。毎晩、空襲警報で眠りを中断されました。いつでも防空壕に逃げ込めるよう、寝るときも服は着たままでした。

 ふだんの授業は停止され、生徒たちには動員がかかりました。原爆が爆発したとき、7年生、8年生の生徒のほとんどにあたる6000人以上の生徒が市の中心付近で、建物疎開にあたっていました。爆撃の後、火災が広がるのを防ぐため防火帯をつくる作業です。そのためには家々を引き倒さなければなりません。志願していた大人に助けられながら、生徒たちは木材や瓦の片付けにあたったわけです。

 私自身は、建物疎開の作業はしませんでした。同じ学校から行った30人くらいの女子生徒と、前線から届いたメッセージの暗号を解読する特別の訓練を受けていたのです。すばやく足し算、引き算をし、暗号表と照らし合わせなければならない複雑な作業です。成績が上位の生徒だけがこの仕事に撰びだされました。そんな重大な情報に13歳の女子生徒をあたらせるくらいですから、日本がどれほど絶望的な状態にあったかがよくわかります。アメリカはずっと前から日本の暗号を解読していたのですが、私たちはもちろんそんなことは知りませんでした。 

 夏が盛りになっても、懸念された広島の空襲はありませんでした。人々は次第にいらだって、アメリカは何か特別な計画をもっているのではないかと疑いはじめていました。

 私の、正規の暗号解読助手としての第一日は、1945年8月6日月曜日、朝8時にはじまろうとしていました。市の上空で原爆が破裂した時間の正確に15分前です。前の晩、31歳の姉綾子と姉の4歳の子ども英治が田舎から広島に出てきました。医者に行ってものもらいを見てもらい、ついでに美容院でパーマをかけてもらおうと、出かけてきたのです。綾子の夫は戦地に出ており、彼女は、子どもを空襲から守るため広島を出て、田舎に疎開していました。

 その晩はいつものように空襲警報が鳴り、よく眠れませんでした。しかし翌朝は警報解除が鳴り、人々はいつもの仕事を始めようとしていました。美しい夏の日で、青空がいっぱいに広がっていました。6時30分に布団から出て朝食をとりました。綾子と英治は医者と美容院へと出かけました。7時45分頃、私も家を出て、生徒たちのグループといっしょになるために駅へと歩きました。私が班長でした。隊列を組み、「速足進め!」の私の号令で、市の中心から1.8キロメートルのところにある第二総軍司令部へとむかいました。揃って入り口の歩哨に敬礼した隊員たちを、暗号作戦の責任者であった柳井少佐が待っていました。少佐は、二階の大きな部屋に集まった私たちを前に演説し、元気で、天皇陛下のために一生懸命に働くよう話しました。ちょうど、私らが「わかりました。最善を尽くします」と言ったときでした。窓全体が青白い閃光でいっぱいになったのです。

 爆発音は聞きませんでした。市から何キロもはなれたところでは、落雷のような轟音がはっきりと聞こえました。しかし私は、爆心近くにいたほかのすべての被爆者と同じように何も耳にしなかったのです。静かな閃光だけがあったのです。それを見た瞬間、机の下に潜り込もうとしました。けれどなにか浮かび上がるような感じがしました。建物とともに、私の身体は落ちていったのです。

 気がつくと、辺りは静かで真っ暗でした。瓦礫の下敷きになっていました。爆弾が頭上に落ちたのだと思いました。市民の誰もがそういう感じを持ったようです。

 瓦礫の中に横になり、動くこともできず、このまま死ぬんだなと思いました。不思議なことに怯えはありませんでした。しばらくして、級友の声が聞こえてきました。弱々しい声で神様を呼んでいました。「神様、たすけて!」「おかあさん、たすけて!」 そのとき、だれかの手が私の左の肩に触れました。私の近くに埋まっているだれかでした。それから、その手が私の周りの木片を緩め始めました。真っ暗な中で男性の声がしました。「いいか、あきらめるな。進むんだ。動き続けるんだ。いま助けるから。かすかな陽の光が見えるだろう」。左側に光がぼんやりと差し込んでいました。その人は、「動くんだ。隙間から這い出るんだ!」と言います。私には彼が見えませんでしたが、こうして二人で闇の中から這い出したのです。そのとき、火はすでにその瓦礫となった建物にもまわりはじめていました。

 私が着ていた服はぼろぼろになり、血に染まっていました。体中、切り傷やひっかき傷だらけでしたが、手足を失うことはありませんでした。辺りを見ると朝だったのに空は暗く、まるで夕暮れのようでした。そのとき、市の中心の方から、人々が足を引きずりながら歩いてくるのが見えました。体の一部を失った人、目が溶け出してしまった人、黒ずんだ皮膚、骨からはがれ、リボンのように垂れ下がった肉片、あたりを満たすひどい臭い、焼けた人の身体の悪臭。それは説明しようのない臭いでした。あえて言えば、魚を焼いたような臭いです。

 一番不思議だったのは、あのときの静けさです。それは、私が感じたもっとも忘れることのできない記憶のひとつです。みなさんは、人々がパニックに襲われ、走り、叫びまわると思うかもしれません。ですが広島では、そうではなかったのです。無声映画の絵姿のようにゆっくりと動き、埃と煙の中を足を引き摺りながら歩いていたのです。何千人もの人が、「水、水をください」といってあえいでいました。多くの人がそうして崩れ落ち、死んでいったのです。

 這い出すことができた2、3人の級友と一緒に、幽霊のような人の列に加わりました。1マイル(約1.6キロメートル)くらい歩いたでしょうか。非常の場合はそこへ逃げろといわれていた丘の斜面の方向です。丘の上で広島を見渡しました。何もかもが炎に包まれ、黒い煙と埃が空を覆い、ますます暗くなっていました。

 丘のふもとには練兵場がありました。地面はすべて死体と瀕死の人々でいっぱいでした。何万もの人が呻き、水を求めていました。歩ける人は近づいて助けようとしました。だれもが水を欲しがっていました。熱と脱水症状による最悪の苦しみにあえいでいたのです。けれど、コップもなければ水を運ぶ水筒もありません。近くの小川に行き、ブラウスを脱いで水につけました。そうして急いで戻り、ぬれた布を死んでいく人たちの口にあてがったのです。人々は必死になって湿り気を吸いました。それが、私たちができた精一杯のことでした。

 一日中、その仕事に追われました。夜が来て、私たちは丘に腰を下ろし、火が市全体をなめ尽くしているのを茫然と眺めていました。朝には、広島はまったいらになっていました。ふつうならずっと遠くに見えていたはずの市の背後の山が、すぐ近くに見えていました。私たちを襲ったものが通常爆弾以外のなにかであったことはあきらかでした。まるで突然、青空から地獄が降ってきたようでした。

 被爆者が「原爆」という言葉を聞いたのはずっと後になってのことです。けれど、私はその言葉を、その日のうちに、丘の中腹に腰を下ろし市が焼けるのを見ているときに耳にしたのです。暗号解読本部で私たちのボスであった柳井少佐が傍らに立っていました。眼下に広がる破壊の跡を見下ろしながら彼は、「これは、アメリカが開発してきた新型爆弾に違いない。原子爆弾だ」といったのです。暗号解読の専門家として、彼は秘密情報を知っていました。彼の言葉は、もちろん、当時の私には何のことかわかりませんでした。10日ほどして、「広島は新型爆弾によって壊滅した」と書かれたポスターが電柱に張り出されはじめました。それには、初歩的な科学の解説が書かれていました。使われていた日本語は「高度曳光性新型爆弾」という言葉でした。

 原爆が落ちたとき、父は瀬戸内海で、好きだった釣りをしていました。広島から10キロメートルほどのところで、ボートの上からきのこ雲が市の上空に立ち上がるのを見たといいます。すぐに岸にとって返し,急いで市内に歩いて戻りました。母は、爆発のとき、朝食の食器を片付けていました。つぶれた家の下敷きになりましたが、火がまわる前にのがれることができました。

 家族の間では、もし何か起こったら、親戚が住む広島郊外の府中に逃げることになっていました。母はただちにそこに向かいましたが、父は別の郊外にある親戚の別荘に行きました。綾子と英治が生き延びたと聞き、そこへ行ったのです。両親がどうやってふたたび落ち合ったのか判りません。たぶん翌朝、別荘で落ち合ったのでしょう。同じ朝、父は私を探しに出ました。私が働いていた陸軍本部の人たちが丘に逃げたと聞いていたのです。兵隊さんが、「中村節子!」と、私の名前をよぶので、「はい、ここです」と答えました。そこに父が居たのです。父はひとこと「よかった!」といいました。「ありがたい、おまえは生きていた!」という意味です。その後しばらく、言うべき言葉もありませんでした。

 父と私は、母、綾子、英治と別荘で一緒になりました。姉と英治は生きてはいましたがひどい状態でした。

 爆発のとき、ふたりは医師のところへ行こうと橋をわたっていました。爆心では摂氏6000度にものぼった、焼き尽くすような熱線を遮蔽するものは何もありませんでした。多くの人々がただただ、蒸発したといいます。姉と子どもは爆心地よりは離れていましたが、ひどいやけどを負いました。綾子はどうにか、息子を背負って、崩れ落ちた私たちの家までたどり着きました。隣の人は、姉が廃墟を掘り起こしているのを見たといいます。そこから彼女は食用油を掘り出していました。やけどに塗って和らげようとしたのでしょう。姉は隣の人に、親戚の別荘へ連れて行ってくれるよう、助けを求めました。隣の人は、瀕死の英治を運び、姉は腕に食用油を抱え、這うようにして来たのです。翌朝会ったとき、二人の身体は二倍もの大きさに腫れ上がっていました。皮膚は溶け、火ぶくれからの体液に覆われていました。

 10日ほどその家にいる間、姉と彼女の子どもは薬もないまま、じわじわと死にむかって苦しみがつづいていました。なにも食べられず、小さな子どもが「おばーちゃん、英治にブーブーをちょうだい」というのです。「ブーブー」というのは水のことです。でも、私たちは二人に水をあげることができませんでした。兵隊さんから「水をやると、死を早める」と言われていたからです。

 敵機はなお、広島上空を飛び、破壊の様子を調べていました。飛行機が来るたびに防空壕に逃げ込まなければなりませんでした。私は容易に駆け込めたのですが、綾子と英治には、何をしてやることができたでしょう。二人はもはや歩くこともできず、触るだけで肉が剥げ落ちるのです。父は部屋で寝ている姉を残して防空壕に行くことができず、彼女も運ぼうとしました。姉は痛みで悲鳴をあげました。恐ろしい声でしたが、それでも父の心は姉をそこに残すことを許さなかったのです。

 10日後、綾子と英治は息を引き取りました。二人の焼けて膨れた体が溝の中で無造作に焼かれるのを見つめました。兵隊さんが二人にガソリンをかけ、マッチで火をつけ、焼いていきました。よく焼けるように、竹の棒で遺体をひっくり返さなければなりませんでした。彼らは作業しながら、「腹はまだ半分しか焼けてないぞ」とか「脳みそがよく焼けてないぞ」などといっていました。泣くこともできませんでした。この記憶はその後もずっと、私を苦しめ続けました。同じような経験は他の被爆者のみなさんからも報告されています。級友のひとりは、家があったところに戻ったら、家族すべての焼かれた死体があった。あまりのことに泣くこともできなかったといっていました。

 ずっとあとになって、原爆の心理学的影響について研究をはじめ、私たちが感じた感情の麻痺についてわかるようになりました。アメリカの精神科医ロバート・ジェイ・リフトンが書いた広島の被爆者についての本「生のなかの死」(Death in Life 岩波の訳は「広島を生き抜く」)によって、私は、彼のいう「精神の閉鎖」について学びました。過度におぞましい刺激が意識に入り込むのを防ぐための心の麻痺についてです。私のなじんだ家庭、友だち、学校、町そのものなど、すべてが一瞬にして消え去った悪夢の世界でなお、私が行動することを可能にしたもの、それがこの心の麻痺であったと信じています。

 8月15日、被爆から9日後、兵隊さんたちが、正午にラジオで重大放送があるとメガフォンで伝えてまわりました。私たちは、特別放送があるから近くの丘の中腹まで来るようにいわれました。父と私が行きました。木の枝にかけられた拡声器から天皇の声が流れてきました。音質はひどく聞き取りにくく、おまけに私たちは天皇の公式の宮廷用語に慣れていませんでした。けれど彼が、降伏を決定したことについて伝えていることは判りました。彼は、広島と長崎(広島から3日後に爆撃された)の破壊についても述べました。これら二つの都市の運命が降伏の決定に関わっていると言っているようでした。天皇は、臣下が「耐えがたきを耐え」るよう言って、演説を終えました。数人の兵隊が泣き出しましたが、ほとんどの人はただ、呆然として立ち尽くしていました。

 敗戦の翌日、私たちは郊外にある伯父の家に移りました。伯父の妻と二人の娘は広島から戻りませんでした。幸いなことに伯父のところには私たちの分の食糧や衣類があり、彼が所有し、する小作人のための家に住まわせてくれたのです。生き残ることだけが問題でした。

 当時の私たちがおこなった一番の仕事のひとつは、義理の姉を探すことでした。彼女は被爆のとき市の中心に居ました。数日間、私たちは瓦礫を調べ、焼けた死体を裏返し、彼女の持ち物はないかと懸命に探しました。家があったところにも行きましたが、灰と砕けた瓦以外、何もありませんでした。湯のみとご飯茶碗が溶けて、ひとつにくっついていましたが、鋳物の鉄枠がついた飾り時計を拾い出すことができました。(それは今でも私がもっています)。9月もずっと探しましたが、彼女を見つけることはついにできませんでした。

 去年の夏、彼女の息子と話をしました。彼は、被爆のとき市の外にある家に居ました。いまは広島工業大学で電子工学の教授をしています。母親が帰らなかったことについてどう感じているか尋ねたのにたいして彼は、そのことと向かい合えるまで本当に長いときがかかったといっていました。被爆当時、彼はちょうど5歳でした。母親は亡くなったといわれていたのですが、それでも毎日駅に行き、母親が広島での仕事を終えて帰ってくるのを待っていた、何カ月もそうしていたとのことでした。

 9月の半ば、原爆が落ちてから5週間後、台風が広島を直撃しました。家に帰りながら雨に降られ、ごみや汚物が流れている中をひざまで水に浸かって歩かなければなりませんでした。原爆にあって以後はじめて、張りつめていた心の糸が切れ、泣きじゃくりました。びしょぬれになり、疲れ果てて家に着いたとき、父に惨めな気持ちをぶつけました。父は、「お互いに命があり、ひとつ屋根の下に暮らせているのに、お前はなんの権利があって不満を言うのか!」と、私を叱り付けました。

 はじめは、父の言葉に打ちのめされました。しかし、結局、父の言ったことはそのとおりでした。生活の現実と折り合いを付けていかざるを得なかったのです。私の両親は典型的な模範でした。一度も不満を漏らしたことはありませんでした。すべてを失いながら、なお打ちひしがれませんでした。たぶん、それが侍の息子や娘の矜持だったのでしょう。私にはわかりませんが、父のその言葉が私にふたたび生活をはじめ、立ち直る力を与えたのは確かです。その日は、私の感情的な麻痺に終わりを告げる日となりました。ひどい窮乏と惨めさという事実に向かい合って生き続ける決意を固めたのです。

 10月頃、学校が再開しました。市内の元の校舎は灰燼となりましたが、市外の山に土地をもっていて、仮の施設をつくったのです。波型のブリキの屋根を載せた粗末な小屋でした。雨が降るたびに、先生の声が聞こえなくなるほどひどい音がしました。窓もなく、風が直接入ってくるので凍えるような寒さでした。でも、気になりませんでした。級友と一緒になれ、生活もある程度正常に復したようでうれしかったのです。

 生き残ったことを喜びあったのですが、長くは続きませんでした。被爆に続いて、生き残った人たちに不思議な症状が表れてきました。他の多くの人たちと同じように、私も内出血や下痢、歯茎の出血に襲われました。脱毛もありました。私の場合はそれほどでもなかったのですが、なかには全部抜け落ちてしまった女の子もいました。そういう生徒たちは帽子をかぶって登校していました。それが、なんの外傷もない人たちまで、静かに死んでいくようになったのです。最初は、身体に細かい紫斑が表れ、生徒たちが次第に学校に来なくなりました。先生が、“今日はだれさんはお休みです”というようになり、まもなく、その子が亡くなったと知らされます。それが紫斑と関わっていることは判っていました。毎朝、紫斑が出ているか調べました。もしあれば、死が待っていたのです。

 私が大好きだったおじとおばもそうして亡くなりました。二人とも爆心から離れた、市のはずれにいたのに症状が表れました。私の両親は、二人が亡くなるまで世話をしました。母の話だと、二人の内臓や組織は、腐り、溶け、黒い水のような液体になって流れ出ていくようだったとのことでした。ふたりともオムツをつけなければなりませんでした。母はあるものなら何でも使いました。しばらくの間は、古い着物を使っていましたが、それがなくなると新聞紙を使いました。結局、おばもおじも、他のたくさんの人たちと同じように亡くなりました。原爆症について知ったのは、後々のことでした。ゆっくりとした、不可解な放射線による死、それは広島に引き起こされたたくさんのおぞましい出来事のひとつでした。核兵器を認める人たちは、生きた人間に対するこの恐ろしい、野蛮な影響を考えようとしません。彼らが考えるのは戦略と統計だけです。

 その後2、3カ月の間、人々は次第に市内に戻り始めました。他の人たちと同様、戦地から帰った兄も焼け跡をきれいにし、小屋を建て、妻と娘と一緒に住むようになりました。私と両親はその後も市外に住み続けました。学校は数年後、丘の上の仮設から市の中心に近い立派な建物に移りました。私は広島の高校、そして大学で勉強をつづけました。

 広島は見かけ上、再建されていきましたが、犠牲者の心の傷が癒えていくにはなお、多くのときが必要でした。米占領下の7年間、アメリカは原爆投下についてのいっさいの情報について報道を禁止しました。占領軍は、反米感情の噴出を抑えるためだといいましたが、多くの日本人は、世界に核戦争の恐ろしさを知らせないようにするためだと思っていました。ほぼ10年余り、日本政府も被爆者に医療援助や金銭上の支援をしませんでした。最後に、被爆者団体の運動で、そうせざるを得なくなりました。被爆者は自分の国の政府にも見捨てられたと感じながら、孤独と悲哀の中で暮していました。1952年に占領が終わり、私たちはようやく人前で自分たちが経験したことを話せるようになりました。広島と長崎について、たくさんの情報が手に入るようになりました。次第に人々は感情の麻痺から抜け出すようになり、回想や論文を書くようになりました。記憶にあるものを描写し、絵にするようになりました。人前で話をし、政治の活動にも加わるようになりました。そうすることで被爆者はみずからが心理的に立ち直っていっただけでなく、核兵器の危険について世界中に警告し始めたのです。

 私は、1974年に広島で開かれたある原水爆禁止の会議に参加して、この使命に積極的に加わるようになりました。そこで私は、自分自身に起こった個人的な悲劇を超えて平和のために身をささげている勇気ある被爆者のみなさんと出会ったのです。それ以前も平和と軍縮は私にとって重要な問題でしたが、いまやそれが人生の中心的な問題になったことがはっきりと判りました。みずからの優先目標の意思表示は心を解放し力を与えてくれました。それは、多くの点で宗教上の改宗にも似ています。

 1974年以前も、私は核兵器の問題について完全に沈黙していたわけではありません。1954年に広島の大学を卒業してから、アメリカで勉強するために奨学金を受けるようになりました。バージニアのリンチバーグ大学で1年間社会学を学びました。アメリカに着いたとき、新聞記者の人たちから広島のことや1950年代の水爆実験についてどう感じるかなどインタビューを受けました。たまたま私が日本を離れアメリカに行く5カ月ほど前に、ビキニ環礁でのアメリカの核実験による降下物が日本の漁船員ひとりの命を奪い、他の乗組員を病気にし、大切な漁業水域を汚染したのです。日本中で怒りが沸騰しました。私が何を感じているかを尋ねられ、広島と長崎は、核実験の始まりではなく、終わりであるべきだったのです、と答えました。このインタビューが掲載されると、「日本へ帰れ!」「真珠湾を忘れるな!」などと書かれた手紙が届きました。殺すぞという脅迫状もありました。ひどく驚いて、一時は一体この先も話すべきなのだろうかとも思いました。ですが、この事件は、結局は私の決意を強めただけでした。

 バージニアでの1年を経て、日本を出る前に知り合ったカナダ人と結婚しました(夫は当時、大阪の近くでカナダ合同教会に属する英語の教師として働いていました)。1955年に彼が日本から戻り、ワシントンDCで結婚しました。(バージニアには異人種間の結婚を禁じた法律があり、カナダには近しい家族や親戚を除いてアジア人の移民を禁じた法律がありました)。私たちはトロントに移り、私自身はトロント大学に入って、そこで社会福祉事業の修士号を取りました。

 カナダでもマスコミから核戦争について見解を聞きたいとの話がありました。カナダ人の中ではそれほど敵意は感じませんでしたが、むしろ無関心や知識のなさが問題でした。たくさんのカナダ人、中でもマスコミ関係者は私の広島での体験を格好の、興味本位の話という以上に深く見ようとしませんでした。彼らは核兵器を自分たちの問題として捉えたり、普遍的な問題として捉えたりしたがりませんでした。アメリカが原爆をつくるのにカナダのウランを使ったことや、マッケンジー・キング首相が「原爆がヨーロッパの白人でなく、日本人の上に落とされてよかった」と言ったことをすっかり忘れ、原爆を日本の問題だとかアメリカの問題だと見ることは簡単です。演説やインタビューを頼まれたときはいつも、カナダ人に伝えるためにできる限りのことをしてきました。けれど、平和運動で積極的役割を果たすようになったのは1974年の広島での会議に出てのことです。受身に待つのでなく、積極的に機会を探そうと決意しました。

 トロントに戻り、さまざまな仕事についている信頼できる友人に集まってもらいました。牧師さん、科学者、法律家、社会学者、作家、広島出身の他の被爆者などです。みんなで一緒に、広島市や長崎市から贈ってもらった被爆写真パネルの展示など、世論を喚起するための計画をつくり、実行しました。それ以来、アメリカでも日本でもイギリスでも広く話をしてきました。

 何度か、マサチューセッツのローエルで平和活動家を弁護するために証言するよう頼まれましたが、判事は許可しませんでした。広島のことはずっと以前に起こったことで、無関係だ、というのです。そのとき、私の心には、姉と甥、おじとおば、義姉、いとこ、学友たち、そして広島で被爆し、死んでいった何千何万という人々の姿が浮かび上がってきました。私ができるただひとつの道義的な反応は、判事に対して怒りを込めて、「ですが、人々はいまも命を奪われているのです」と叫ぶことでした。法廷から退去させられ、法廷侮辱罪で告発されることを覚悟しました。ところが次に起こったことは、元海兵隊大尉で、検事の経歴も持つ被告の一人が私に腕をまわし、「ウィ・シャル・ノット・ビ・ムーブド(我々は、立ち退かないぞ)」と歌いだしたのです。他の被告も加わりました。判事は法廷を収拾できなくなり、休廷を宣言せざるを得ませんでした。

 私は、広島の出来事から完全に立ち直ったのでしょうか? それとも、いまなお苛まれているのでしょうか? いまは充実し、精神的にも豊かな生活を送っています。それに感謝しています。自分では一人前のカナダ市民だと感じています。社会福祉活動もしています。二人の息子も立派に育て上げました。社会的に役立っていると思いますし、それは私にとっていつも大切なことでした。しかし、私は、ある程度まで、二重の生活を送ることは必要なことだと思います。私のような被爆者だけでなく、世界のだれもがです。私たちは、明日があるという仮定にたってこれからの計画を立てます。同時に、私たちや私たちにつながるほかの人が、今日のうちにも灰にされてしまいかねない危険もあります。

 広島の平和公園には慰霊碑があり、そこには「安らかに眠って下さい、過ちは繰返しませぬから」と書かれています。これが被爆者の誓いになりました。そうしてこそ愛する人たちの正視に堪えない死も無駄ではなかったことになるのです。そうあってこそはじめて、私たちが生き残ってきたことも意義を持つのです。

原文:

A Silent Flash of Light

Your Voice and Mine 2 (Holt, Rinehart and Winston of Canada, Limited 刊) に所収

1987 Holt, Rinehart and Winston of Canada Limited

For use in high schools

訳:たかくさき・ひろし、校閲:セツコ・サーロー

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