映画『オッペンハイマー』に見る広島と長崎

アメリカ/平和・軍縮・共通の安全保障キャンペーン議長のジョゼフ・ガーソンさんが、被災70年2024年3・1ビキニデーの後に招かれた映画『オッペンハイマー』についてのパネル討論会への寄稿を日本原水協の高草木博代表理事が日本語に翻訳しました。

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映画『オッペンハイマー』に見る広島と長崎
ジョゼフ・ガーソン

 映画『オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン監督)の批評が表れ始めて以来、ひとつの疑問が浮かび上がっていました。なぜ広島と長崎への原爆投下が引き起こした大規模な破壊と犠牲の映像が表れてこないのでしょうか?
 アカデミー賞授賞式の数日前、その質問への答えを知る機会を得ることができました。私は、ちょうど日本から戻った直後のことです。日本では広島・長崎の被爆者と一緒に行進し、1954年3月1日のビキニ水爆実験「ブラボー」の70周年行事に参加しました。その爆弾は広島原爆の1000倍を上回る力を持っていました。それは、ビキニ環礁から125マイル(180km)離れたロンゲラップ環礁のほとんどすべての島民の命を奪い、あるいは被ばくさせました。また、日本の漁船員の命を奪い、1000隻を上回る漁船を放射能で汚染し、日本の食料供給の少なからぬ部分を汚しました。そのなかで1954年から55年にかけてつづいた核兵器の廃絶を求める署名運動は、3150万余の署名を日本の全有権者の65%に上る人たちから集め、世界で最初の、おそらくもっとも影響力の大きな、核兵器のない世界をめざす社会的運動を生み出したのです。

 友人であり私の団体(訳注:平和・軍縮・共通の安全保障キャンペーン)の委員でもあるハーバード大学のエレーヌ・スキャリー教授が、映画『オッペンハイマー』の元になった本『アメリカのプロメテウス:ロバート・J・オッペンハイマーの勝利と悲劇』の共著者カイ・バードと一緒に開催するパネル討論会に来るよう私を誘ってくれたとき、私の心には、これらの人びととその歴史とがすでに骨の髄まで固く刻まれていました。
カイと彼の共著者の故マーティン・シャーウィンは、私の長年の知己でした。カイは寛大で謙虚な人柄で、学者としても伝記作家としてもすぐれた人物です。パネル討論の前に短時間、言葉を交わし、そこで彼が日曜日にアカデミー賞、オスカーを受けることを知り、喜びました。
 カイは、自分の発言で、映画が大部分、彼の本を下敷きにし、セリフも彼とマーティンの著作からそのまま取っていたと言っていました。ハリウッド映画では大変稀なことです。撮影が始まる前に200ページにわたる映画の脚本に目を通すためにカイに与えられたのは2、3時間だったそうです。そこで彼が見つけた間違いは1か所だけで、ノーラン監督はそれを訂正したと言っていました。カイも、もうひとりのパネリストのハーバード大の科学史のピーター・ギャリスンもオッペンハイマーについて、(物理学者としても他の点でも)燦然と輝き、複雑で、情緒的にはひ弱で、もし第二次世界大戦とマンハッタン・プロジェクトが割って入ってこなかったら、1935年に始まったブラックホールについての彼の仕事の方がもっとよく知られていたような男だと描き出していました。
 質疑の時間には、私は、日本で知ったことや自分がおこなったことを簡潔に話した後、カイに、この映画の監督のノーランが、オッペンハイマーの爆弾が引き起こしたものを観客にさらけ出すことについて真剣に話し合ったか?と質問してみました。カイの答えは思慮深いもので、映画の最後の部分のもっとも気がかりないくつかの映像について解明するものでした。

 カイの直接の返事は「ノー」でした。そのような討論はおこなわれなかったと。カイは前に、映画と原本の劇的な共通項は原子力委員会の聴聞会であり、権力の座にある者たちはそこで世界の最先端の科学者であり影響力の大きい知識人としてのオッペンハイマーの役割を破壊しようとしたのだと説明していました。エドワード・テラー、原子力委員会のルイス・ストローズ(訳注:委員長)、そしてペンタゴン内の強大な力が、オッピー(訳注:オッペンハイマーの愛称)が水爆開発に反対したことに激怒して反応しました。カイが説明したのは、映画も本も基本的にはオッペンハイマーの伝記であり、エレーヌが言ったように映画は「オッペンハイマーの心のなかで何が起こっていたかという視点から話を展開」していたのであって、それとは別のもっと広い視野から展開したのではない、ということでした。
 カイは、映画のなかで何か所か、ノーラン監督が原爆による惨害とオッペンハイマーの道義的な危惧について微妙に示唆していたことを認めていました。この映画での最初の場面はトリニティ実験の直後で、ついで原爆投下から3か月後、自分の「装置」が投下された当時、日本が降伏の瀬戸際であったことをオッペンハイマーが知った場面です。 ある個所で、オッペンハイマーがトリニティ実験の直後に、「可哀そうな人びと」とつぶやく場面が出てきます。原爆によって殺され、壊滅させられることがわかっている無辜の日本の市民たちについてのつぶやきです。同時にカイは、オッペンハイマーが軍高官と会い、いかに効果的に原爆を爆発させるか(高度など)などを説明していたことにも注目していました。
 焼けただれた体、手から皮膚が垂れ下がった人びと、顔から飛び出した眼球、溜池で溺れている人びとなどを映す代わりに、ノーランはオッペンハイマーが惨劇を伝える新聞の切り抜きを見入っているとき、その顔が自分の爆弾が生み出したものへの恐怖でゆがむ様子を映しています。彼がロスアラモスの集会場で聴衆に話すとき、我々がオッペンハイマーの想像からもっとも心穏やかでないイメージを受け取るのは、原爆の熱で少女の顔が溶けていくシーンです。実際、その顔はノーランの娘の顔です。エレーヌ・スキャリーは後ほど、「これは、日本人の顔を醜くすることによって元の危害を再現することのないようにとの、ノーランにとってまさに倫理的な決断だった」と説明しています。
 そしてノーランは、オッペンハイマーがトルーマン大統領やバーンズ国務長官と会い、彼ら全員が手を汚しているという真実を突き付けたことで、彼の罪の意識を描き出しています。
エレーヌは、この部分の討論を終える前にこう指摘しました。米国の文化では「観客が負傷した人たちへの同情を求められるような映画のシーンを見ることに抵抗がある。日本では、たとえ幼い子どもでも、原爆がもたらした人的破壊の恐ろしい写真や映像を見せる、と。さらに彼女は付け加えて、こうも説明した: 私と一緒にケンブリッジの公立図書館に額のついた広島・長崎の被爆と被爆者のポスターを展示することを企画した。私たちが展示をした翌朝、図書館に戻ると、私たちの許可もなく、知らないうちにポスターの配置がすっかり変えられていた。死者や負傷者の写真を含むポスターはすべて外されていたのだ、と。
 パネル討論会が終わった後、私と妻はもう一度その映画を観ることを決意しました。すでに映画を鑑賞し、アカデミー賞の受賞の様子も観て私と同じ問題を感じた人たちは、私たちと同じことをしたくなるかもしれません。それで何も起こらずとも、人類の生存を脅かす実存的な核の危機を除去する我々の決意がさらに固いものとなることは間違いありません。

第五福竜丸無線長の久保山愛吉さんのお墓がある静岡県焼津市の弘徳院に向けて行進するガーソンさん(左から2人目、2024年3月1日)

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