
いまから40年前の1945年8月6日、アメリカは広島に原爆を投下しました。当時、私は広島女学院に通う13歳の生徒でした。この一発の爆弾でおよそ14万の人々が命を失いました。私は生き残った者のひとりです。その後の人生の大半を、あのとき目の当たりにした恐怖と被害を二度とくり返させないために生きてきました。廃墟から這い出てきた私たちは、いま世界を脅かしている核の破局を垣間見ました。私のことをお話しするのは同情を得るためではありません。警告なのです。
被爆以前の私の生活は、日本の若い女の子としては例外的なものでした。家族は武士階級の家系でした。侍といっても、封建的な特権はずっと以前になくなっていたのですが、それでも武士の家系にははっきりとした社会的な格式が残っていました。私たちの住む広島の大きな家の門には、武士の家系であることを示す家紋が刻まれていました。
西洋の知識という点でも私たちは例外でした。戦前、私の父はドイツ人のパートナーと「西部フルーツ会社」を起こし、カリフォルニアで果実の商売を営んでいました。6人の兄弟姉妹のうち何人かはそこで生まれました。家族は、ゴルフとかスキーとか、西洋の中流の人たちが楽しむ娯楽にも親しんでいました。ほとんどの日本人にとって、習いたいとは思っていたかも知れませんが、何の知識ももっていないような活動でした。
私は、1932年1月3日、中村節子として広島に生まれました。兄弟姉妹のほとんどはすでに成人年齢に達していました。だから私は大人の世界で一人っ子のようにおませで、甘やかされて育ったわけです。たくさんの楽しい時間がありました。けれど戦争はいつも影を落としていました。ラジオで日米開戦の報道を聞いたことも覚えています。9歳のときでした。勇ましい軍歌に続いて、陸や海戦での勝利が伝えられました。しかし太平洋戦争のなかで年とともに音楽は暗いものへと変わっていきました。大敗の報道が続くようになり、天皇陛下への忠誠が強調されました。状況は悪化の一途をたどりました。なにもかも配給に変わりました。着るものも、とりわけ食べるものも。ごはんに押し麦や、さらには食べられるものなら何でも混ぜるようになりました。砂糖はほとんど手に入らなくなりました。
終戦間際のある日のことです。二階に行くと父がテーブルの前に座って、なにか外国の本を読んでいました。「それなに?」と聴くと、「英語の文法の本だよ」とのこと。驚きました。父は、「やがてこれが必要となる」と言いました。当時は、まだそれがどういうことなのかよくわかりませんでした。いまから思えば、父は日本の敗戦が近づいていたことを知っていたのです。米国に住んだことがあり、アメリカのすごい力をよく知っていたのですから。
その年の春から夏にかけて、米軍はサイパン、テニアン、硫黄島の空港を相次いで落とし、日本の都市を攻撃できるようになりました。広島を爆撃する前、米軍は東京はじめ、大きな都市を次々と爆撃しました。広島が攻撃されるのも時間の問題でした。37万人の人口と優れた港をもち、そこから軍人を船で太平洋の戦場に送り出していた広島は、主要な攻撃目標だったのです。
私たちも、備えを固めようとしました。市全体が班に分けられ、それぞれが民間防衛体制の責任者である班長の下に置かれました。女性のスカートやハイヒールは禁止です。実際、非常時に自由に動けるように、もんぺとよばれる機能的なだぶだぶのズボンをはいたわけです。外出するときは救急セットが入った布のバッグと炒った豆の袋とを持ち歩きました。もし取り残されても飢えることがないようにです。夜は敵機が家を標的にするのを防ぐため、窓という窓に覆いをつけました。毎晩、空襲警報で眠りを中断されました。いつでも防空壕に逃げ込めるよう、寝るときも服は着たままでした。
ふだんの授業は停止され、生徒たちには動員がかかりました。原爆が爆発したとき、7年生、8年生の生徒のほとんどにあたる6000人以上の生徒が市の中心付近で、建物疎開にあたっていました。爆撃の後、火災が広がるのを防ぐため防火帯をつくる作業です。そのためには家々を引き倒さなければなりません。志願していた大人に助けられながら、生徒たちは木材や瓦の片付けにあたったわけです。
私自身は、建物疎開の作業はしませんでした。同じ学校から行った30人くらいの女子生徒と、前線から届いたメッセージの暗号を解読する特別の訓練を受けていたのです。すばやく足し算、引き算をし、暗号表と照らし合わせなければならない複雑な作業です。成績が上位の生徒だけがこの仕事に撰びだされました。そんな重大な情報に13歳の女子生徒をあたらせるくらいですから、日本がどれほど絶望的な状態にあったかがよくわかります。アメリカはずっと前から日本の暗号を解読していたのですが、私たちはもちろんそんなことは知りませんでした。
夏が盛りになっても、懸念された広島の空襲はありませんでした。人々は次第にいらだって、アメリカは何か特別な計画をもっているのではないかと疑いはじめていました。
私の、正規の暗号解読助手としての第一日は、1945年8月6日月曜日、朝8時にはじまろうとしていました。市の上空で原爆が破裂した時間の正確に15分前です。前の晩、31歳の姉綾子と姉の4歳の子ども英治が田舎から広島に出てきました。医者に行ってものもらいを見てもらい、ついでに美容院でパーマをかけてもらおうと、出かけてきたのです。綾子の夫は戦地に出ており、彼女は、子どもを空襲から守るため広島を出て、田舎に疎開していました。
その晩はいつものように空襲警報が鳴り、よく眠れませんでした。しかし翌朝は警報解除が鳴り、人々はいつもの仕事を始めようとしていました。美しい夏の日で、青空がいっぱいに広がっていました。6時30分に布団から出て朝食をとりました。綾子と英治は医者と美容院へと出かけました。7時45分頃、私も家を出て、生徒たちのグループといっしょになるために駅へと歩きました。私が班長でした。隊列を組み、「速足進め!」の私の号令で、市の中心から1.8キロメートルのところにある第二総軍司令部へとむかいました。揃って入り口の歩哨に敬礼した隊員たちを、暗号作戦の責任者であった柳井少佐が待っていました。少佐は、二階の大きな部屋に集まった私たちを前に演説し、元気で、天皇陛下のために一生懸命に働くよう話しました。ちょうど、私らが「わかりました。最善を尽くします」と言ったときでした。窓全体が青白い閃光でいっぱいになったのです。
爆発音は聞きませんでした。市から何キロもはなれたところでは、落雷のような轟音がはっきりと聞こえました。しかし私は、爆心近くにいたほかのすべての被爆者と同じように何も耳にしなかったのです。静かな閃光だけがあったのです。それを見た瞬間、机の下に潜り込もうとしました。けれどなにか浮かび上がるような感じがしました。建物とともに、私の身体は落ちていったのです。
気がつくと、辺りは静かで真っ暗でした。瓦礫の下敷きになっていました。爆弾が頭上に落ちたのだと思いました。市民の誰もがそういう感じを持ったようです。
瓦礫の中に横になり、動くこともできず、このまま死ぬんだなと思いました。不思議なことに怯えはありませんでした。しばらくして、級友の声が聞こえてきました。弱々しい声で神様を呼んでいました。「神様、たすけて!」「おかあさん、たすけて!」 そのとき、だれかの手が私の左の肩に触れました。私の近くに埋まっているだれかでした。それから、その手が私の周りの木片を緩め始めました。真っ暗な中で男性の声がしました。「いいか、あきらめるな。進むんだ。動き続けるんだ。いま助けるから。かすかな陽の光が見えるだろう」。左側に光がぼんやりと差し込んでいました。その人は、「動くんだ。隙間から這い出るんだ!」と言います。私には彼が見えませんでしたが、こうして二人で闇の中から這い出したのです。そのとき、火はすでにその瓦礫となった建物にもまわりはじめていました。
私が着ていた服はぼろぼろになり、血に染まっていました。体中、切り傷やひっかき傷だらけでしたが、手足を失うことはありませんでした。辺りを見ると朝だったのに空は暗く、まるで夕暮れのようでした。そのとき、市の中心の方から、人々が足を引きずりながら歩いてくるのが見えました。体の一部を失った人、目が溶け出してしまった人、黒ずんだ皮膚、骨からはがれ、リボンのように垂れ下がった肉片、あたりを満たすひどい臭い、焼けた人の身体の悪臭。それは説明しようのない臭いでした。あえて言えば、魚を焼いたような臭いです。
一番不思議だったのは、あのときの静けさです。それは、私が感じたもっとも忘れることのできない記憶のひとつです。みなさんは、人々がパニックに襲われ、走り、叫びまわると思うかもしれません。ですが広島では、そうではなかったのです。無声映画の絵姿のようにゆっくりと動き、埃と煙の中を足を引き摺りながら歩いていたのです。何千人もの人が、「水、水をください」といってあえいでいました。多くの人がそうして崩れ落ち、死んでいったのです。
這い出すことができた2、3人の級友と一緒に、幽霊のような人の列に加わりました。1マイル(約1.6キロメートル)くらい歩いたでしょうか。非常の場合はそこへ逃げろといわれていた丘の斜面の方向です。丘の上で広島を見渡しました。何もかもが炎に包まれ、黒い煙と埃が空を覆い、ますます暗くなっていました。
丘のふもとには練兵場がありました。地面はすべて死体と瀕死の人々でいっぱいでした。何万もの人が呻き、水を求めていました。歩ける人は近づいて助けようとしました。だれもが水を欲しがっていました。熱と脱水症状による最悪の苦しみにあえいでいたのです。けれど、コップもなければ水を運ぶ水筒もありません。近くの小川に行き、ブラウスを脱いで水につけました。そうして急いで戻り、ぬれた布を死んでいく人たちの口にあてがったのです。人々は必死になって湿り気を吸いました。それが、私たちができた精一杯のことでした。
一日中、その仕事に追われました。夜が来て、私たちは丘に腰を下ろし、火が市全体をなめ尽くしているのを茫然と眺めていました。朝には、広島はまったいらになっていました。ふつうならずっと遠くに見えていたはずの市の背後の山が、すぐ近くに見えていました。私たちを襲ったものが通常爆弾以外のなにかであったことはあきらかでした。まるで突然、青空から地獄が降ってきたようでした。
被爆者が「原爆」という言葉を聞いたのはずっと後になってのことです。けれど、私はその言葉を、その日のうちに、丘の中腹に腰を下ろし市が焼けるのを見ているときに耳にしたのです。暗号解読本部で私たちのボスであった柳井少佐が傍らに立っていました。眼下に広がる破壊の跡を見下ろしながら彼は、「これは、アメリカが開発してきた新型爆弾に違いない。原子爆弾だ」といったのです。暗号解読の専門家として、彼は秘密情報を知っていました。彼の言葉は、もちろん、当時の私には何のことかわかりませんでした。10日ほどして、「広島は新型爆弾によって壊滅した」と書かれたポスターが電柱に張り出されはじめました。それには、初歩的な科学の解説が書かれていました。使われていた日本語は「高度曳光性新型爆弾」という言葉でした。
原爆が落ちたとき、父は瀬戸内海で、好きだった釣りをしていました。広島から10キロメートルほどのところで、ボートの上からきのこ雲が市の上空に立ち上がるのを見たといいます。すぐに岸にとって返し,急いで市内に歩いて戻りました。母は、爆発のとき、朝食の食器を片付けていました。つぶれた家の下敷きになりましたが、火がまわる前にのがれることができました。
家族の間では、もし何か起こったら、親戚が住む広島郊外の府中に逃げることになっていました。母はただちにそこに向かいましたが、父は別の郊外にある親戚の別荘に行きました。綾子と英治が生き延びたと聞き、そこへ行ったのです。両親がどうやってふたたび落ち合ったのか判りません。たぶん翌朝、別荘で落ち合ったのでしょう。同じ朝、父は私を探しに出ました。私が働いていた陸軍本部の人たちが丘に逃げたと聞いていたのです。兵隊さんが、「中村節子!」と、私の名前をよぶので、「はい、ここです」と答えました。そこに父が居たのです。父はひとこと「よかった!」といいました。「ありがたい、おまえは生きていた!」という意味です。その後しばらく、言うべき言葉もありませんでした。
父と私は、母、綾子、英治と別荘で一緒になりました。姉と英治は生きてはいましたがひどい状態でした。
爆発のとき、ふたりは医師のところへ行こうと橋をわたっていました。爆心では摂氏6000度にものぼった、焼き尽くすような熱線を遮蔽するものは何もありませんでした。多くの人々がただただ、蒸発したといいます。姉と子どもは爆心地よりは離れていましたが、ひどいやけどを負いました。綾子はどうにか、息子を背負って、崩れ落ちた私たちの家までたどり着きました。隣の人は、姉が廃墟を掘り起こしているのを見たといいます。そこから彼女は食用油を掘り出していました。やけどに塗って和らげようとしたのでしょう。姉は隣の人に、親戚の別荘へ連れて行ってくれるよう、助けを求めました。隣の人は、瀕死の英治を運び、姉は腕に食用油を抱え、這うようにして来たのです。翌朝会ったとき、二人の身体は二倍もの大きさに腫れ上がっていました。皮膚は溶け、火ぶくれからの体液に覆われていました。
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