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原水協通信

毎月発行している日本原水協の機関誌です。国内外の反核平和運動についての情報が満載です。 日本原水協のウェブサイト→ http://www.antiatom.org/

「核兵器の全面禁止を!」

【マラヤ・ファブロスさんの行進日誌】平和行進がゴール

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今日は平和行進が広島に到着しました。ヤッタ! 先月私は平和行進を断念しましたが、広島の原水爆禁止世界大会には参加しています。

今日は世界大会2日目で午前中は国際会議がおこなわれ、その後3つの分科会に分かれて議論がおこなわれました。

午前中は世界中のベテラン平和活動家による発言がありました。核兵器の廃絶を実現するためにどのように世論を広げていくかという事が議論されました。発言者は、アメリカフレンズ奉仕委員会のジョゼフ・ガーソン氏、イギリス核軍縮キャンペーンのジャクリン・バーク氏、フランス平和運動のオーレリー・ロワヨン氏、核兵器と原子力の宇宙利用に反対するグローバル・ネットワークのナラヤナ・ラオ氏、国際平和ビューローのトマス・マグヌスン氏、日本原水協の安井正和氏。

昨日同様、とても刺激的な多くの議論がおこなわれました。皆さんの発言にはとても感銘を受けましたが、特にトマス・マグヌスン氏の発言に感動しました。彼は平和運動には草の根の運動がどれほど重要かということについて発言しました。

今朝タカさんと安井さんが私に、私が翌日の分科会用に用意した発言内容がとても良いので今日も発言してほしいと言ってくれました。私は自分が平和行進に参加する中で重要だと思った7つのポイントのうち3つにしぼって発言することにしました。発言は最初のうちは上手くやれていたと思います。でも途中から行進中のたくさんの素晴らしい思い出が私の胸に迫って来て声は震えるし、泣かないようにするために何度か発言中にゆっくり息継ぎをしてしまいました。多くの人が見ている前で感傷的になってしまってすごく恥ずかしかったですが、後で何人かの人からとても良かったと言ってもらえてホッとしました。広島に来る数日前にも締め切りをとっくに過ぎた自分の発言内容をまとめようとしてとても苦労したのです。だっていざ書こうと思うといろんな感情がわき上がって来て涙がでてしまうのです。多分今回それを読んだ時にもまだ涙が残ってたんですね。たぶん村田さんも平和行進のことを振り返った時に私と同じ気持ちだったと思います。なんどか彼が引き継ぎ式やイベントで涙目になって瞳を赤くしているところを私は見ちゃいました。もちろん彼は何も言わなかったけれど。はは!

さて、愛ちゃんと文ちゃんと一緒に午前中の後半のプログラムは抜けて平和行進を迎えるために広島の平和公園に向かいました。実際には7月26日に平和行進はすでに広島に到着していて、昨夜も広島コープや地域の団体がたくさんの食事を用意して開いてくれた集まりで皆さんには会っていました。行進中の写真を見ながら皆で大笑いして楽しいパーティーでした。

最後に平和公園に到着したのが村田さんのグループでした。広島市内の様々な場所をスタートした4〜5のグループが村田さんたちの前に到着していました。全部で400人くらいの平和行進参加者が平和記念館の前に集まって閉会式をおこないました。とても感動的なセレモニーで午前中にも緩んだ私の涙腺はここでも壊れてしまいました。でも原水協が販売しているコットンマフラー「Wakaba」で汗を拭く振りをして涙を拭えたので良かったです!ハハハ!

私が行進中に出会えた皆さんとも再会できました。皆さんは自分たちの地域で歩いた上で、さらに広島での行進にも参加され、さらに長崎でおこなわれる大規模な平和集会まで私たちと一緒に参加してくださいます。皆さんにこうやってまた再会できたことが嬉しくて、あの汗だくになって強い日差しにじりじりと焼かれた日々が懐かしくなりました。皆さんおめでとうございます!オツカレサマデシタ!

午後は違う会場で同時開催されている別の分科会に参加しました。私は午前中の全体会と同じテーマの分科会に参加しました。とても良い分科会でした。ジャクリン・バーク氏が運動方法を若い人から学ぶ重要性について話しました。この発言を受けて私を含む若い世代からの提案が続きました。ソーシャルメディアを使った運動の拡散やフラッシュモブなどの面白いことをやってみようという提案です。運動に参加する若い人たちの苦労も共有されたのが良かったと思います。今の若い人たちは以前にもまして平和運動への関心を高め、参加してきていると思います。運動面でのしんどさについても思い切って声を挙げ、幅広い参加者から知恵を借りることはとても良いと思います。私たちは福祉や教育に使われるべき国家予算が軍国主義のために吸い上げられているという許しがたい深刻な事態について議論しました。だけどこれからやること、できること、すべき多くのことを前に私はワクワクしています。2015年までみんな忙しくなりますね!

(日本語訳=三宅朋子)

【マラヤ・ファブロスさんの行進日誌】平和行進で使われる歌のご紹介

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上の写真はものすごく小さい折り鶴の写真です。村田さんが先日私にトマトとキュウリをくれた時に一緒にこれもくれました。本当に小さくて顕微鏡でしか見れないくらいです(笑)

何と比べればその小ささが分かってもらえるかと色々考えましたが、パスポートがぴったりでした。このフィリピンのパスポートと比べればどれほど小さい折り鶴か分かってもらえると思います。これまでみた中で一番小さい折り鶴です。小さいリップバームやアイライナーを入れる容器にたくさん入ります。きっとこれを作った人はピンセットを使ったか、この星には存在しないハイテクマシーンで作ってから小さくしたに違いありません。ははは!トテモスゴイ!

今週末は愛ちゃんが来てくれてとても助かりました。京都の民医連中央病院で診察を受けました。明日私を関西空港まで愛ちゃんは送ってくれます。そこからマニラ行きの早朝フライトに乗る予定です。

愛ちゃんから平和行進で使う音楽をいくつか教えてもらいました。

このブログでも一部をご紹介したいと思います。

原水協は事前に多くのアーティストに平和行進で曲を使う許可をもらおうとするそうです。良い返事をくれるアーティストはそんなに多くはありません。だからこれから紹介するアーティストがオッケーしてくれた時はビックリしたし、すごく嬉しかったそうです。

下の映像ET-KINGの「一番音頭」です。このリズムと振り付けは気に入りました!ぶんちゃんと他の平和行進者は昨年はこれを沿道で踊ったと愛ちゃんに教えてもらいました。面白い!私も踊りたいです!歌の内容は自分のふるさとを愛して誇りに思うという物だそうです。曲調はお祭りで演奏されるものに似ていて、歌っている人の服装は日本のお祭りで男性が着る衣装だそうです。

ET-KING / 一番音頭(振り付け指南)の動画

次の曲は「歩いて帰ろう」という曲で1994年にリリースされました。斉藤和義というアーティストの曲です。彼自身のオリジナルソングかどうかは私は知りませんが、一緒に歩こうという内容の曲です。とってもカッコいい!最近の私の目覚めの一曲です。

斉藤和義/歩いて帰ろうの動画

行進中は毎日、これらの曲や他の音楽が私たちを励ましてくれています。自分たちの楽曲を平和行進で使わせてくれているアーティストの皆さんに感謝です。いいね!

(日本語訳=三宅朋子)

マラヤ・ファブロスさんの行進日誌54日目

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平和行進五十四日目:平和行進をおやすみすることになりました

上の写真は私たちが平和行進で歩いてきた東京から奈良までの場所の地図です。ブランクになっている浜松と名古屋は私がビザの更新のためにフィリピンに帰っていた期間です。最終目的地の広島には8月4日に到着予定です。

今平和行進は奈良県を歩いています。これから大阪、兵庫、岡山を歩いて最後は広島に到着します。今日は54日目です。あとまだ36日歩く予定です。本当に時間がたつのは早いです!

今日は私が平和行進をおやすみして2日目です。今は奈良県のホテルに滞在しています。とっても残念なのですが、私の膝の状態を考えるとこれが一番いい選択肢なのだということになりました。

原水協の愛ちゃんが今日の午後来てくれて私と一緒に京都に行ってくれます。明日は民医連からの紹介で膝の専門医に診てもらう予定です。右膝のMRIを撮ることになりそうです。ゆきさんも私たちに同行してくれます。彼女は私よりも私の症状を分かってくれているので、お医者さんからの質問に答える時に助けてもらえると思います。

京都で以前に受診した時のお医者さんからは、右膝の外側半月板が損傷していると言われています。傷ついた組織を回復させるためには1ヶ月の完全休養が必要だと言われました。さらに詳しい検査をした方がいいのでMRIを撮るように薦められました。

皆さんが心配してくださっているので、私の今の気持ちも書いておきます。私は元気だし基本的には明るい気持ちで過ごしています。右膝に体重をかけないようにしているので少し足を引きずっていますが、ほとんど普通に歩けています。できるだけじっとしているように(これがほんとに辛いのですが)しています。膝の痛みは時々あります。車に乗り降りする時や階段を上る時、しゃがんだり、でこぼこ道を長時間歩くと痛みます。一番大事なのはこれ以上悪くしないで膝を治すことです。

もう一緒に行進することはできないのだけれど、皆さんが広島に到着するまでブログは書き続けたいと思います。これから数日間は過去の行進で書けていない部分を埋めていこうと思います。それと、できれば村田さんや他の通し行進者の皆さんの近況もお伝えしたいです。私は3つのやりかたで平和行進に参加するつもりでした。

まず自分自身が歩くこと。そして日本の平和運動を支援すること。最後に外国に向けて平和行進を紹介することでした。自分自身の行進は叶わなくなってしまったけれど残りの2つについてはまだできます!

きっとこれから平和行進がしたくてたまらなくなるだろうと思います。村田さんと他の皆さんは今日は斑鳩市役所を訪ねているはずです。新しい人と出会えて笑い合える休憩時間がすでに懐かしくなっています。沿道の人に手を振って皆さんの笑顔が返ってくる瞬間も。自治体関係者の方々と面談もやりたいです。彼らは私が日本語で挨拶するとニコニコと笑ってくれて、でも私が真剣に、例えばXバンドレーダーをその自治体で認めないでほしいといった内容を要請するとその笑顔が驚きに変わるのです。

村田さんと歩けないのも寂しいです。彼は初日から私と常に一緒に歩いてくれました。丈夫で優しくて面白い人です。彼は私が日本語の会話を一番長くできる相手でもありました。少なくともグーグルの翻訳機能を使えば。なぜか彼は私の日本語の語彙力を分かってくれていて私の分かる日本語を話してくれるのです。

一緒に歩いていて、日にちが経つにつれ彼の挨拶はより熱を帯びてきているように思えました。彼を私の父親のようだと言いたいところですが、彼は若すぎます。お兄さんみたいと言えなくもないですが、それにしては年が行き過ぎています。村田さんは村田さんなのです。確固とした信念で皆さんを元気づける通し行進者です。

この写真たちは「どうぞ心配しないでね」のコラージュ写真だと思ってください。

左上から時計回りで

1)村田さんから一時的なさよならの贈り物です。これを今朝ホテルを出る前に私にくれました。「今でしょ」が木で作られています。昨夜自分で色を塗ってくれたそうです。この鮮やかな色彩の中には、私の名前もカタカナで盛り込まれています。広島・長崎でまた再会できると思います。世界大会では広い会場で村田さんや他の通し行進者をみなさんが迎えてくれることでしょう。村田さん、本当にありがとうございました。そして頑張ろう!

2)昨日から私が完食しようと頑張っている食べ物です。今も頑張っています。他にも一袋別に食料が用意されています。お客さんはみんな食べ物を差し入れしてくれるのです。

3)村田さんからはトマトをもらいました。

4)照り焼き味の豚の耳は佐藤ゆきさんがくれました。彼女は私の膝の軟骨にはコラーゲンがうってつけだと言っています。これが日本でも売っているのは驚きでした。

(日本語訳=三宅朋子)

マラヤ・ファブロスさんの行進日誌49日目

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平和行進四十九日目:向日市、長岡京市、八幡市

今日のコースは向日市、長岡京市,大山崎町を歩いて終点は八幡市役所でした。最初の3つの市はかつて京都に都が移る前の古い都だった場所です。約1000年も前の事です。今の日本の首都は東京です。

日曜日だったので子どもたちの参加もあって楽しかったです。朝は大雨でしたがそのお陰で気温が下がりました。平和行進中は小雨が降ったりやんだりのお天気でした。

若い方の参加もありました。はったさんとの再会もありました。彼女は私の日本語でのコミュニケーションを助けてくれました。はったさんは元高校の英語の先生です。現在は京都平和委員会で熱心に活動されています。最初にあったとき京都原水協と京都平和委員会の事務所は隣同士かと私は彼女に尋ねたら、笑ってそうだと教えてくれました。愛知でもそうだったからもしかしたらと思ったのです。

よねしでさんという京都の通し行進者の方(彼は2010年は東京-広島間を歩かれたそうです!ワォ!)が開会集会で沖縄のことについて話されました。今日は沖縄戦が集結した記念日であり、沖縄では大きな慰霊式典が行われました。

他にも自治体関係者の方が開会集会では挨拶してくれました。

私はお医者さまから長距離を歩くことを控えるように言われているので、これから1ヶ月はバンからのアナウンスが多くなりそうです。実は今は私の膝の問題を今後どうするかについての日本原水協からの指示を待っているところです。しばらくの間は平和行進に歩いて参加するのではなく、声で参加することになりそうです。本当に早く前みたいに自由に歩けるようになりたいです。だってそのために日本に来たんですから。

ところで、今私たちは関西にいます。滋賀県からが関西地方になります。日本は複数の都道府県で構成されています。東京とその近県は関東地方、愛知、岐阜そして静岡県は中部地方と呼ばれています。

関西地方は他と異なる方言があります。私が理解しているところでいえば関西弁は標準語と基本的には同じですがアクセントが違うようです。

けいこちゃんとたくや君が関西弁で「こんにちは」をどう言うのか前に教えてくれました。関西の皆さんは日本でも一番フレンドリーだそうです。私もそう思います。

そこで私たちは「いいね!」と「今でしょ」コールの京都版を考えました。関西風に読むという訳です。歌声グループの皆さんが昨夜と今朝、関西弁での言い方を教えてくれました。「いいね!」は「ええねん」と最初にアクセントを置いて読むみたい。「今でしょ」は「いまでしょ」の「ま」の所を強く言うみたいです。もしかしたら次の地方に行ったらまた違う言い方に変えた方がいいかもしれませんね。

最近私の日本語のアナウンスもすこし語彙が増えてきました。自己紹介とコールをする前に皆さんを励ます内容です。

こんな感じです。

ミナサン オハヨウ ゴザイマス

ワタシハ マラヤ ファブロス デス

フィリピン カラ キマシタ

ミナサン チカラ イッパイ ピースコール ヲ シマショウ

コールが終わったら

スバラシイ!

と言います。

それから Thank you!です。

お昼ごはんの後で少し自由時間があったので、はったさんが私に動くツルの折り方を教えてくれました。これは普通の折り鶴とは違う折り方です。しっぽを引っ張ると羽根が動くのです。平和行進の参加者の中には歩きながら子どもたちにこれを手渡している人たちもいます。

はったさんから折り紙はインドが発祥で日本で発展したと教えてもらいました。

左側が普通の折り鶴で右側が動くツルです。

また、はったさんとお天気の話もしました。今年は梅雨がかなり遅いそうです。これは平和行進の参加者にとっては朗報です。フィリピンやアラブ首長国連邦の天気についても聞かれたので、ドバイの7月と8月の日中の気温が50度を超えることを教えたらとってもビックリしていました。ははは!

でも日本では先週暑さのために心筋梗塞で亡くなった方もいるそうで驚きでした。

それから今日は古い友人のふみちゃんにも再会しました!彼女と彼女のお母さんは午後から平和行進に参加していました。約2年前の夏、彼女には2日間の京都観光に連れて行ってもらったことがあります。清水寺、三十三間堂、東寺、そして嵐山を観光しました。どこでもふみちゃんは「秋は景色がもっとすばらしい」と言っていました。絶対に秋の方が奇麗だろうと思います。京都と広島は夏は本当に暑いことで有名なのです。だからこれを読んでおられる親愛なる平和行進者の皆さん、頑張りましょうね!!

最後に北海道―東京コースを歩いている平和行進についても書いておきたいと思います。現在このコースは福島を歩いています。日本原水協のぶんちゃんも今日は福島を皆さんと一緒に行進しています。既にご存知の方が多いと思いますが、福島は2年前に東北地方を襲った津波に寄って原発事故に見舞われました。残念なことに現在の住民の皆さんの状況はあまり報道されなくなってきています。被災地の多くがまだ復興しておらず、多くの皆さんが放射能の影響に脅えています。

一番問題なのは、政府自身が福島の被害の実相を国民に伝えていないことです。実際の報道は現状とかけ離れており、現地の人々は放射線量を測定され、明らかに問題だと思われる結果も出ているのです。

福島の放射能漏れの被害者らは新たな被ばく者にされてしまっているのです。

日本の平和運動に関わっておられる多くの皆さんは、とりわけ広島と長崎の被爆者の皆さんは福島の被災者の皆さんをサポートしています。

これは平和行進の世界大会の呼びかけが以下のように変わったことでも示されています。

ノーモア ヒロシマ

ノーモア ナガサキ

ノーモア フクシマ

ノーモア […]

マラヤ・ファブロスさんの行進日誌44日目

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平和行進四十四日目:近江八幡市

今日は近江八幡市という所だけを歩くコースでした。私は井本さんから今日は1地域しか歩かないし、そんなに変化もないので時々は車に乗るようにと言われました。足に無理が出ないように彼のアドバイスに従いました。

今日は安土駅からスタートしました。近江八幡市役所にお昼には到着しました。そこから篠原駅まで歩いて電車に乗り野洲駅に向かいました。この駅で最後に署名集めをするためです。

ある方が昨日行進の後で私の足をマッサージしてくれました。これはすごく助けになりました。今日はあまり右膝が痛くありませんでした。滋賀県を歩いているうちに回復してくれると良いのだけれど。今日は歩いていても膝に痛みを感じませんでした。しゃがんだ時だけ痛みました。

昨日書いた鈴木さんを覚えていますか?彼は今日はお坊さんの格好で行進に参加していました。お坊さんだというのは本当だったのです。でもやっぱり元気で面白い方でした。私は村田さんに昨日googleの翻訳機能を使って鈴木さんが本当にお坊さんかどうか疑っていると教えていたので、村田さんが鈴木さんにその事を言ったみたいです。二人で笑っていました。私たちは信長の像の前で一緒に写真を撮りました。それがこの写真です。私、鈴木さん、村田さん,そしてブロンズ像の信長です。

村田さんは私に日本語で安土城の特徴について教えてくれました。戦国時代の三武将の一人である信長は自分のためにお城のワンフロアーを全部使っていたそうです。

午後には少し雨が降りました。短い雨が降った後は少し涼しくなるので、行進者にとっては恵みの雨です。多くのルートは田んぼの近くを歩くものでした。小さな神社の前もいくつか通りました。なんだか1ブロックに1つ神社があるみたいに思えます。田んぼの脇にとっても小さな神社の様なものもありました。

最初の休憩のあとで井本さんが車で休むように言ったので、私は彼について車に乗り込みました。彼は私に足を使いすぎない方が良いし、自分も疲れたから一緒に休もうと言って笑いました。ははは。

ウェストポーチにピースコールの内容を書いた紙を持ち歩いて良かったです。休憩後にアナウンス内容をどうするか皆さんが相談していたので、その紙をみんなでコピーしました。

お昼ごはん休憩中にもう一つ面白いことがありました。ソバを食べていると隣の席に年配のご夫婦が座りました。私たちが肩からかけたタスキに興味を示して平和行進と読んでおられました。そこでお話をしてみました。村田さんが通し行進者は東京から広島まで90日間毎日歩いて行くと伝えると男性は信じられないという顔をされました。そして「エーーー?」といって椅子から転げ落ちそうなそぶりで驚いてくれました。とっても面白かったです!私たちが席を立つときお二人は頑張ってと激励してくれました。

今日も2つの駅頭で署名集めをしました。村田さんと私は午前中それぞれ1枚ずつ署名用紙を埋めることができました。村田さんはとっても親切で、説明も丁寧にされるので皆さん署名をしてくれます。1枚の署名用紙で5筆集めることができます。

私は午後はあんまりうまく署名を集められませんでした。1筆も集められなかったのです。私たちは野洲駅の入口近くで集めていました。夕方4時頃でみなさん帰路を急いでいるようでした。それでも何人かの方が署名してくださったのは嬉しかったです。

今日の行進を仕切っておられた方の一人は元教員の大野さんでした。彼は今日の午後の司会もされていました。元気な方で午後の署名集めをとても熱心にされていました。彼が何を話されているかは分かりませんでしたが、午後に署名があまり集まらなかったことにとても落胆されているようでした。

もしかしたら署名が何のために集められ、何の役に立つのかと思われている方もいるかもしれません。

日本原水協は世界に向けて数年前に署名活動を開始し、各国のリーダーに多くの人が核兵器の無い世界を願っていることを示そうととりくんでいます。署名はもちろん集まれば集まるほど良いのです。この集められた署名は国連やNPT(核不拡散条約)の再検討会議準備委員会にも提出されます。

これは被爆者の思いをサポートし、核兵器廃絶をねがう普通の人々の強い訴えです。私の記憶が確かならば、既に約200万筆の署名が集められており、さらに呼びかけられています。

愛知県みたいに平和行進の沿道でも署名を集めるともっと集めやすいかもしれません。滋賀県では署名は時間と場所を決めて行っています。

どこにいても署名活動に参加できます。原水協のホームページから署名用紙をダウンロードして署名することが可能です。集まった署名はファックスか郵送で原水協の東京事務所に送ってくれれば良いのです。スキャンした物をメールすることも可能です。

これは皆さんができる具体的な平和運動です。多くの平和行進参加者は皆さんが署名してくれることを願っています。今でしょ!

写真は時計回りで左上から

1)安土町駅前の織田信長の銅像

2)安土城のイラストポスター。信長のために造られたワンフロアーが赤い壁で強調されています。

3)お昼休憩中に出会った男性。平和行進について伝えたら驚いています。

4)平和行進のリーダーが近江八幡市役所の前でお話しています。

(日本語訳=三宅朋子)

マラヤ・ファブロスさんの行進日誌43日目

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平和行進四十三日目:滋賀県の彦根市、豊里町、愛荘町、東近江市

村田さんと私は昨夜は違う場所に泊まって今日のコースに備えました。というのも、私たちは違うコースを歩いたからです。村田さんのコースは自衛隊基地の側を通る高島市を歩くコースで、琵琶湖の近くです。

私は他の通し行進者の皆さんと一緒に彦根市、豊里町、愛荘町そして東近江市を歩きました。20~30人くらいで行進しました。今日は「私たち」という言葉を使わずに「みなさんは」と書かないといけません。何故って膝の痛みのために私は行進の最初と最後のパートだけを歩いたからです。ほんとに早くこの痛みから解放されたい!

ところで彦根市は山のてっぺんにある彦根城で有名な場所です。この美しいお城は滋賀県で最も重要な歴史的建造物です。

私は井本さんと他の数人の皆さんと合流して一足早く今日の行進の最終地点に到着しました。山中さんという新婦人の会員さんの奇麗な女性ともお会いしました。私たちは彼女と東近江市の八日市駅で待ち合わせしました。そこで電車で到着する平和行進参加者の皆さんを待って、合流してから東近江市まで歩いたのです。

もう一人面白い人に出会いました。鈴木さんです。彼はとっても元気で楽しい人でした。午後は私と井本さんは彼の運転で移動しました。閉会集会の司会も鈴木さんがしました。ある場所で私たちはお寺に参拝しました。彼がそのお寺は自分の家だと言いました。私が彼に「お金持ちなんですね」と言うと彼は笑っていました。何度か本当にお寺に住んでいるのかと聞いたのですが、彼は笑いながらそうだよと言うのです。ちょっと信じていいのかどうか分かりませんでした。彼は私が「お金持ちなんですね」と言ったとき、鈴木自動車も自分の会社だよと冗談を言ったのです。今でもまだ本当のことかどうかは分かりません。ははは。

今夜のホテルは近江八幡市にありました。小さいホテルですが部屋が広くって居心地が良いので気に入りました。ホテルの裏側には田んぼと山並みが広がっていました。とっても良い景色!

ホテルの踊り場には大きな漫画の絵が飾ってあり,色んな妖怪が描かれていました。村田さんが、それは水木しげるという妖怪漫画ではとても有名な漫画家の絵だと教えてくれました。この妖怪はフィリピンの神話に出てくる妖怪にも似ていました。でも恐いというよりも面白い感じの絵柄でした。

夕食の時に村田さんと私はホテルの喫茶店である女性とお話ししました。彼女がホテルのオーナーかどうかは分かりませんでした。でも私の日本語の語彙は増えてきているみたいで、何となく会話の内容は掴めました。googleの翻訳機能を使って、私が文章を打ち込んで日本語にしてお二人に見せました。これで会話が出来るって訳です。いいね!

ふたりは私に琵琶湖は京都と大阪にも水を供給していると教えてくれました。琵琶湖の水は近隣の山々から来ており、岐阜県の川も水源です。村田さんは前の晩に琵琶湖で獲れた新鮮な魚の刺身を食べたと言っていました。これは琵琶マスと言うそうです。ワォ!

日本原水協の愛ちゃんと文ちゃんから電話をもらいました。熱とお腹の痛みは良くなったと伝えました。まだ脂っこい物は食べないようにしています。あとは野菜中心の食事をとるようにしています。

後は私の膝の痛みだけが問題です。微かに刺すような痛みが日中ときどきぶり返すので一日中歩くことができません。これからの予定もあるので膝の状態をみるために専門医を受診できるか聞いてみました。

平和行進を歩き始めてから私はいくつかの日本語を覚えました。

マニラで日本に来る少し前に10日間の集中日本語クラスを取りましたが、行進中に覚えた単語の方が多いと思います。その多くは生き残るために必要な単語です。

トイレハドコデスカ?

アブナイ

ジテンシャ/クルマガ アリマス

オナカ イッパイ

ワタシタチハ ナンジニ イキマスカ?

サイショ ト サイゴ

キュウケイ

アサゴハン ヒルゴハン バンゴハン

アシ イタイ

アメ

イマ

ニモツ

セカイタイカイ

イマデショウ

そして一番大好きな言葉は

カクヘイキノ ナイ セカイ です!

(日本語訳=三宅朋子)

[…]

マラヤ・ファブロスさんの行進日誌42日目

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平和行進四十二日目:岐阜県から滋賀県へ引き継ぎ集会

今日は岐阜県での行進の最後の日だったので、3時に関ヶ原市役所で引き継ぎ集会を行いました。大垣城から歩き始めて大垣市内を歩き、垂井町を過ぎて関ヶ原へと向かいました。

一人の被爆者の方が大垣での開会集会に参加してくれました。お年寄りのグル−プが大垣のレストランでとった休憩場所で私たちを迎えてくれました。彼らから広島、長崎へ届ける千羽鶴を受け取りました。今日の通訳のふみ君が私に、彼らが自分たちでこの千羽鶴を折ったと教えてくれました。ふみ君は19歳の大学生で、彼のお母さんは新婦人の会員さんです。彼のお陰でとっても助かりました。というのも、今日は体調が余り良くなかったので、彼にその事を主催者側に伝えてもらいました。私は岐阜での行進の大部分はバンにのってアナウンサーをしたりお昼休憩になるまで眠らせてもらったりしました。

垂井町長さんと市議会議長さんがお昼休みは一緒に私たちと過ごしてくれました。平和行進の参加者は創業300−400年の古い旅籠と呼ばれる日本のホテルに集まりました。確かに構造は古いものでしたが、よく手入れの行き届いた建物でした。インテリアもとてもすばらしくって皆が一同に集まれる畳の部屋がありました。冷房が効いていたかどうかは分かりませんが、強い日差しを浴びて歩いて来た行進参加者にとってはくつろげる時間でした。

私たちは歴史的に有名な場所である関ヶ原まで行進しました。景色はどんどん緑が多くなり、山並みが目立ち始めました。風も爽やかで行進参加者にとっては好都合でした。

引き継ぎ集会は関ヶ原市役所の中で行われました。多くの皆さんが参加し、その中にその市役所まで一緒に歩いてきた88歳の女性もおられました。

ある方がお話の中で滋賀県民の心配事の一つが隣の福井県に原発があることだとおっしゃっていました。この福井の原発は日本でも危険な原発の一つです。この方はなぜ日本のリーダーたちが福島での事故を経ても原発を廃炉にしないのか理解できないと言っていました。

滋賀県ではお2人の方が通し行進をされます。民医連のメンバーの葉山さんと大阪から来られた男性です。明日には彼のお名前も分かるでしょう。

引き継ぎ集会の後で私たちは車で米原に向かいました。伊吹山の近くを通りました。ガイドの方がこの道では時々シカやクマを見かけると言われていました。すごい!

開会集会をした後で米原周辺を歩きました。この街は古そうですが、とても素敵でした。山並みを常に望めました。20~30分歩いて市役所に戻りました。そこからまた車にのって長浜市に向かいました。長浜市は美しいガラス製品で有名な街です。多くの観光客がこの工芸品目当てにこの街を訪れます。市役所に戻るまで約30−40分この街を歩きました。

今日の御前中は膝が痛くて行進には参加できませんでしたが、嬉しいことに午後は滋賀県を歩く事ができました。まだすこし膝が痛みますが、何とかなりそうです。

今日の午後の通訳はちひろさんでした。彼女の名前は画家のいわさきちひろさんにちなんでいるそうです。彼女のお母さんがいわさきちひろの絵と生き方が好きだからだそうです。夜ホテルに戻るとき、彼女は私に今日歩いた街のことについて教えてくれました。琵琶湖の事も聞きました。この湖は日本一大きい湖です。海みたいに大きいです。日が沈む光景はすごく美しくって行進しながら見れてすごく嬉しかったです。

最後に私はふみ君が大垣での開会集会の時にの様子を教えてくれたので、内容を書いておきたいと思います。

大垣での式典ではある被爆者の方がお話をされました。彼は原爆が落ちたとき岡山県にいました。原爆投下後に広島に入ったのです。そしてそこで被爆しました。彼の話では一つの建物もなく、一本の木もはえてなかったそうです。だから遥か向こうにある山がはっきりと見通せたそうです。彼は人類に同じ過ちを繰り返してほしくないと言っておられたそうです。そして私が行進に参加してくれて嬉しいと。またこの運動が大きく発展して行くことを望むと言っておられたそうです。

岐阜県の垂井町でのお昼休憩の時には町長さんと議長さんが毎年平和行進を歓迎していると言ってくれたそうです。通常この地域を歩く時は梅雨の時期と重なりますが、今年は雨ではありませんでした。お2人は、平和行進を通じて核兵器と原発に反対したいと言っておられたそうです。また、広島まで無事に歩いてくださいと言ってくれていたそうです。現在被爆者は高齢化し、数も減って来ているからこそ彼らの体験を聞くことはとても大事だとも言われていたそうです。

(日本語訳=三宅朋子)

マラヤ・ファブロスさんの行進日誌41日目

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平和行進四十一日目:岐阜県大野町、揖斐川町、池田町、神戸町そして大垣市

今日も岐阜を楽しく歩きました。土曜日でしたが町長さんたちが直接挨拶してくださったのも嬉しかったです。今日は曇り時々雨のお天気でした。それほど暑くないので行進するには嬉しい天気です。

今日の平和行進は岐阜県のさまざまな街でいくつかのコースを歩きます。岐阜には長良川、木曽川、揖斐川と3つの川があります。私は揖斐川の近くのコースを歩きました。他の通し行進者の皆さんもそれぞれのコースを歩きました。

揖斐川のグループは大野町、揖斐川町を歩きお昼休憩を池田町でとり、そこから神戸町と大垣市を歩きました。途中山を越える必要がある場合は車で移動しました。私は余り歩きすぎないように何度かバンに乗るように助言されました。

今日花村まことさんが私の通訳をしてくれました。私たちが歩いた街にある小さな法律事務所で事務員さんをされているそうです。彼女と一緒だったので今日はとっても楽しかったです。

各地域での式典で詩の朗読があったのも今日の特徴でした。2つの詩が毎回1つづつ交互に朗読されました。どちらの詩も広島と長崎の被爆体験が題材の詩です。

今日嬉しかったのはお天気の悪い週末だったのに多くの町長さんや議員さんが挨拶をしてくれたことです。

ちょっと道に迷ったのも面白かったです。田んぼに沿って歩きながら私はこんなところを歩いて聞いてくれている人はいるのかな?と思っていました。数分後誰かが道を間違ったと言いました。皆で大笑いして正しい道に戻りました。ははは。

大垣城で別のコースのみなさんと合流して閉会集会を行いました。ここは明日私たちが行進を開始する場所でもあります。

今日の平和行進は戦争の教訓と平和への願いを地域で広げるために大切だという話をいろんな方から伺いました。歩く道が地域の細い道であればあるほど私たちの訴えを伝えるチャンスがあると思います。

今日「やった!」と思った事:

その1) 新しい経験をたくさんしました。バンの中からアナウンサーにも挑戦しました。 今朝ピースコールの紙を印刷していたことを思い出しました。数週間前に愛ちゃんがローマ字で私のために翻訳してくれた物です。バンの中で私が何か言うことになった時、私はその紙を取り出してピースコールをやってみても良いかと聞きました。通訳のはな(花村まことさん)はそのローマ字で「いいね!」とか「今でしょ」と書かれた紙を読んですごく笑いました。このピースコールは岐阜でやるコールとは違っていました。 私はいくつかのコールは暗記して発音も覚えていました。なのでローマ字で読んでコールするのは簡単でした。メインのコールを私が読んで、はなが「いいね!」と「今でしょ!」の応え方を皆さんに伝えてくれました。平和行進に参加されている皆さんはこのコールを楽しまれていました。このコールを大声でするのは楽しかったみたいで別の街でもコールしてほしいと頼まれました。日本語アナウンサーとして、私はキャリアアップしたという訳です。ははは! バンのなかはとても暑かったので、私が森さんからもらった団扇をとりだしたら、はなに大笑いされました。この団扇には「今でしょ!」と書かれていたからです。 その2) お寺で初めて平和への鐘をつきました。今日だけで3つのお寺を訪問し大きな音で鐘をつかせてもらいましたが、うるさくはありませんでした。 その3) 最後の休憩は神戸町のバラ園でした。新婦人の女性たちが私たちにおまんじゅうと抹茶を振る舞ってくれました。抹茶を飲んだのは初めてだと思います。これはクリーミーな緑茶のようなものですがミルクは入っていません。木製のブラシのようなもので特別なやり方でかき混ぜてクリーミーにするのです。泡立ててお茶の中に気泡を入れていました。これを小さなボールのような物に入れてもらい両手で頂きます。一人の方が抹茶を飲む作法についても教えてくれました!

(日本語訳=三宅朋子)

マラヤ・ファブロスさんの行進日誌40日目

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平和行進四十日目:ある被爆者の方の体験

平和行進40日目については後でもうちょっと書こうと思いますが、とりあえず英語に翻訳されている一人の被爆者の体験をご紹介します。

今日岐阜県で夕食の時にご本人にお会いしました。写真の左から2人目の方です。写真右側の女性は彼の娘さんです。彼女が今日一日私の通訳をしてくれました。

核兵器の廃絶を願う <2010年NPT再検討会議第3回準備委員会NGOセッション(2009年5月5日)> 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)事務局次長 木戸季市

私の名前は木戸季市です。現在日本被団協で事務局次長をしております。

69歳(編集者注:当時)で、いまでは比較的若い被爆者です。長崎で被爆したときは5歳でした。

1945年8月9日午前11時2分、私は母と一緒に爆心地から約2キロの旭町という場所にいました。爆音が聞こえて私が飛行機の飛んでくる方向をむいた瞬間眩しい光を目にし、強い爆風で地面に叩き付けられ、すぐに意識を失いました。母は私は腕に抱いて稲佐岳の防空壕に逃げ込みました。

そこで母と姉のさちこ、そして私は姉のあきよと合流しました。姉は後になってこのときの様子を手紙に綴っています。その手紙であの爆弾投下後の様子を知ることができました。

この手紙で彼女は当時防空壕の中はとても暗かったのでマッチを擦ったと書いています。マッチの光で私たち3人が床に寝ているのを見つけた時、母親の顔や胸、両腕は無惨に焼けただれて膨れていたと。姉はあふれる涙を抑えられず、想像を絶する恐怖心をなんとか抑えたと書いています。私を見たら私の顔の半分と胸も酷いやけどを負っていたそうです。最初私のやけどはそれほど酷そうに見えなかったそうです。でも次の日やけどから膿がしみ出してきたそうです。しかも私が40度の熱を出していることに姉は気付きました。

その翌日、爆心地から500メートル程の浦上川沿いの道を通って長崎から約3.5キロの場所に避難しました。姉は長崎病院の場所から街を見渡したとき、建物が一つも残っていなかったと書いています。護国神社に到着するまで何も建ってなかったと。建物の名残すらなかったそうです。沿道ではたくさんの死体が散らばっていました。見ないようにしたけれど道のいたるところに死体があるので死体を踏み越えて行くしかなかったそうです。大橋の下も死体が積み上がっていたそうです。

意識を取り戻して私が最初に目にしたのは私の周りに散らばっていたドラム缶でした。小さい頃私たちは原爆のことをドラム缶爆弾と呼んでいました。なぜならこれらのドラム缶が爆発したのだと思っていたのです。両親は私の間違いを訂正しませんでした。ただ静かな涙で私の無知に応えました。

1952年になって『朝日グラフ』という写真雑誌が原爆特集を組むまで私は自分が被爆者であるという認識がありませんでした。私はこの雑誌の記事に大変ショックを受けました。なぜならその記事には被爆者は白血病で死ぬ運命にあり、奇形児を産むだろうと書いてあったからです。自然と私は自分が被爆者であることや、原爆体験については口を閉ざすようになりました。長崎に住んでいて私たちは被爆体験については語らないのです。語らなくてもなんの問題もありませんでした。

高校生のときは結婚したり、子どもを作ったりはするべきじゃないと私は真剣に思いました。ある教師は彼自身が被爆者でしたが、私に広島と長崎以外の場所では被爆体験は語るなと言いました。彼の忠告はとても説得力があるように思えました。

大学生になったとき、私と友達は私が長崎出身だと知って、当時何があったのかと尋ねてきました。でも私はいつも話題を変えて語るのを避けてきました。一度誰かが私に、人間は核兵器に打ち勝てると言いました。その希望は私の中に残りました。後に私は自分の親しい友人に恐る恐る自分が被爆者であることを打ち明けました。彼はそうじゃないかと思っていたと言いました。それでもまだ自分の被爆体験を公の場で語ることができるようになるまでには心の準備が必要で、勇気が出ませんでした。その後長い間私は沈黙し続けたのです。

1950年代後半、核兵器廃絶の運動は勢いを増し、多くの被爆者が被爆体験を語り始めました。そして世界にこれ以上被爆者を生み出してはならないと訴えました。その当時私はまだ自分の体験は公にしなくても良いと考えていました。自分より年上の被爆者が体験を話してくれているし、熱心に活動してくれているから大丈夫だと自分を正当化しました。いつの日か年配の被爆者が亡くなられて自分が実際に原爆を経験した最後の世代になったらそのときが自分の番だと思っていました。でもそれまでは他の人と同じように生きていたかったのです。それで被爆者運動には熱心に関わりませんでした。それに私は1969年に被爆者の組織が唯一存在していない岐阜県に引っ越しをしていたのです。

1973年に私は結婚しました。当時私は被爆者は結婚して子どもをもち、人類が原爆に打ち勝てることを証明すべきだと説得されました。私の恋人は被爆者の抱える健康と社会的な問題を全て理解した上で結婚を決意してくれました。被爆者の書いた本を読んで分かった上で決断してくれたのです。でも彼女のお兄さんはこの結婚に強く反対しました。そして結婚式にも出席してくれませんでした。妻が健康な女の子を産んだとき、私はとても安堵しました。でも娘は小さいとき頻繁に鼻血を出しました。これは放射能の影響と関係があるのではないかととても心配しました。現在娘は健康ですが、私の不安は消えることはありません。この時期にもまだ私は自分の被爆体験を公にするつもりはありませんでした。

1990年に日本被団協と岐阜県は共同で被爆者問題に関する会議を開催しました。100人以上の被爆者が県内各地から集まり会場を埋めました。そのとき私は自分が被爆者として活動するのは今だと感じたのです。私は1991年に岐阜県の被爆者団体を再建する活動に参加しました。そして事務局長を務めてきました。被爆者運動に関わるようになってから私は多くの被爆者のみなさんと交流する機会ができました。当時幼かった私自身の被爆体験の記憶には限りがありますが、年配の被爆者の方からお話を伺うことでその悲惨さ、困難さを聞いてきました。皆さんのお話は語り尽くすことができないものですが、被爆者の人生について学び続けていくつもりです。

核兵器は2つの街を破壊し尽くし、たくさんの命を無差別に奪いました。人類が初めて体験した核の地獄でした。今なお原爆の被害は被爆者の心身に深い傷を残しています。原爆は人間が人間として人生を全うすることを許しません。狂気の兵器であり破壊しか生み出さないのです。存在することを許してはならない絶対的な悪の兵器なのです。

私たち被爆者は核兵器が人間にもたらす苦しみを語ってきました。なぜならこの辛い経験をもう誰にも体験してほしくないからです。「ノー・モア・ヒバクシャ」は私たちが心から、自らの人生をかけて伝えたい訴えです。一日も早い核兵器の廃絶を強く願って私のスピーチを終わらせていただきます。

ノー・モア・ヒバクシャ!

ノー・モア・ウォー!

ありがとうございました。

(日本語訳=三宅朋子)

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マラヤ・ファブロスさんの行進日誌36日目

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平和行進三十六日目:名古屋北部の名古屋市役所と清洲市役所

今日は愛知県で行進する最後の日でした。今日のコースは名古屋市役所からスタートし、清洲市役所が最終地点でした。残念ながら私は皆さんと一緒に行進する事ができませんでした。でも愛知平和行進のホームページから素敵な写真だけでもご紹介します。

今日の常滑コースは15キロあり、286人が参加されました。カンパも3万5103円集まり、署名は237筆集まりました。他にも愛知県では同時に中村区から中川区を歩く行進も行われています。こちらは230人の参加でした。常滑コースの皆さんの写真が今日のブログの最初の写真と下の写真です。

気持ちはとっても元気なのですが、身体が弱ってしまっています。

お医者さんからは今日は行進せずに安静にするように言われてしまいました。何日お休みすればいいかお医者さんに聞きましたが、自分で完全に回復したと分かってから行進は再開するように言われました。これはとても難しいなと思います。何故って今でも自分の体調についてうまく判断ができてこなかったと感じているからです。毎日歩き続ける大変さは私の限界を麻痺させてしまっていて自分では(大丈夫)と思ってもそれが本当に大丈夫なのかが分からなくなってしまっています。

お腹はもう痛くありませんが、まだ本調子ではありません。早く元気になりたいです。スーパーヒーローのウルヴァリンみたいに生身の人間もあっという間に元気になれたら良いのに!

新婦人のメンバーの岩田さんが昨夜の夕食と今朝の朝食を用意してくれました。とっても親切な方です。昨夜も私のために白ご飯,うなぎ、そしてたくさんの新鮮なお野菜の和食を作ってくれました。とってもありがたかったです。

今日はサンドイッチとトマト、そして大きなチーズケーキに美味しい鮭、サラダ、そして「はっこう」などを買ってきてくれました。全部食べるのは結構大変です。

「はっこう」は発酵させたお米です。これは熱いお湯に混ぜて飲むのですが、ほのかに甘みがあります。岩田さんはこれが身体に良いと言っていました。もしかしたら「はっこう」はフィリピンのアムを発酵させたみたいなものかもしれません。アムは炊いたお米から出たとぎ汁です。Pinoy(フィリピン人を短く言う言い方です)の子どもたちはこれをよく食べさせられました。今の子も食べているかどうかは分かりませんが。

矢野さんと私は名古屋の北病院に午後にもう一度行って右膝も見てもらいました。右膝の痛みがこのところ取れなかったからです。ラッキーな事にここのお医者さんは英語が話せたのでレントゲンを撮った後で骨は問題ないと言われました。筋肉痛のようなものなので右足も休める必要があるみたいです。

車に戻る時に駐車場まで一人の看護婦さんが介助してくれました。私がフィリピン人だと知って彼女は自分のお孫さんもフィリピン人だと教えてくれました。嬉しい出会いでした!平和行進を続けていると、もっとたくさんの日本で暮らすフィリピン人との出会いがありそうです。

身体のいろんなところに疲れが蓄積してきているみたいです。早く良くなって元気に平和行進に復帰したいと思います。

(日本語訳=三宅朋子)

マラヤ・ファブロスさんの行進日誌35日目

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平和行進三十五日目:名古屋での賑やかな平和行進とピースアクション2013

今日は今まで私が参加した愛知県の平和行進の中でも一番賑やかな一日でした。

今日の開会式は中村公園で行われました。ここはとても緑が豊かな広い公園でお寺もあって、その裏には広い池もありました。公園の中には豊臣秀吉生誕の碑もありました。豊臣秀吉は日本で人気のある戦国時代の三武将のひとりです。公園のさまざまな場所に彼の肖像画やモニュメントがありました。村田さんと私が公園を散策していた時には太極拳をされているお年寄りが沢山いらっしゃいました!

今日は日曜日だったので中村公園に向かう沿道では朝市が開かれていました。朝市は中村公園から数ブロック先の巨大な鳥居の場所までが会場でした。開会集会を待っている間に村田さんと私は売られている新鮮な農産物を見て歩きました。こんな物が売られていました。

 

また一人フィリピン人の女性との出会いがありました。市川ジョセフィーヌさんという方です。彼女が今日は通訳をしてくれました。彼女は地元の派出所 で英語とタガログ語の通訳として働いているそうです。日本にはもう20年以上住んでいるそうです。彼女から多くのフィリピン人が名古屋には暮らしていると 教えてもらいました。その多くは日本人男性と結婚しているそうです。

9時過ぎに行進をスタートしました。朝市の中を大きい鳥居の所まで歩く のは楽しかったです。たくさんのお年寄りが手を振ったり「核兵器全面禁止のアピール」署名にサインしてくれました。週末だったし皆さんリラックスされてい たのか、平日に交通量の多い道を歩くよりも関心を集めていたと思います。

最初の休憩を公園で取りました。暑い日は疲れるのが早いみたいです。私はフィリピンからチョコレートを一袋持って来ていたのでこの休憩で皆さんと分けあって食べました。

それから大通りに戻って、かつては川だったという通りを歩きました。ジョセフィーヌさんがこの道にいたという特別な生き物について話してくれたのを通訳してくれました。それはカッパと呼ばれるおとぎ話に出てくる男性人魚に似た生き物だそうです。川に住んでいて頭の上に水の入ったお皿を乗せているそうです。もしお皿の水がこぼれたらカッパは死んでしまうんだそうです。フィリピンにもSiokoyと呼ばれる男性の人魚の伝説がありますが、カッパのほうがもっと痩せていてSiokoyほど恐い見た目ではないみたい。

お昼ごはんの休憩場所に近づいた時に、とても大きい戦車のような車の側を通りました。その車は迷彩柄で日本の国旗が掲げられており、とても大きな音で音楽を鳴らしていました。ほんっとに大きな音です。そして私たち平和行進のすぐ横に停車しました。ジョセフィーヌさんが彼らは天皇陛下を崇拝している団体で憲法9条に反対し日本の再軍国化を求めていると教えてくれました。私たちとは正反対の立場にある人たちだという訳です。興味があったのでジョセフィーヌさんに毎年平和行進は同じグループに遭遇するのかと聴いてみました。彼女はそれは分からないけど、このグループはが毎週末同じ場所で大音量で音楽を鳴らしているのは確かだと教えてくれました。その後、私たちが通った時に嫌な顔をして親指を下に向け、不快感を表した男性がいました。これはショックでした。でもそこから数メーター進んだ場所で人々が賛同して手を振ってくれたのでホッとしました。すごく嬉しかった!

現実には平和行進にみんなが好意的な訳ではありません。大多数は連帯を示して手を振ってくれます。特に私たちが長距離を歩いている事を知って驚愕してくれたり、楽しんで(「良いね」とか「今でしょ」と叫んでいるので)くれたりします。礼儀正しくうなずいてくれる人もいます。でも無関心な人や、時々はムッとした人にも出会います。これは多分行進のせいで交通が遮断されたりする事もあるからなのと、違う意見を持っている人たちだと思います。

お昼は名鉄の地下街でラーメンを食べました。お昼を食べ終えた辺りからお腹の調子が悪くなってきました。食べた直後にトイレに行きましたが、歩き始める直前にまたお腹が痛くなってきました。どんなにバナナを食べてもこれは治らないなと思いました。幸いにも原水協の皆さんはとっても頼りになりました。ジョセフィーヌさんが私に付き添ってバンに乗り込み私たちは行進の後をついて行きました。

こんな時に調子が悪くなって残念でした。と、いうのもこれからが今日の一番の見所だったからです。名古屋市の中央公園に向かう大通りを歩いている時、少し元気になったので若宮公園まで私も行進に戻りました。そこではピースアクションが行われていました。700人以上の皆さんが参加していました。

今日の行進はピースアクションで最高潮に盛り上がりました。10以上のいろんなグループが名古屋の様々な場所から行進をスタートさせ、全員が被爆者の皆さんとの交流とエール交換のために若宮公園に結集します。ピースマラソンをされているグループもおられました!これは平和コンサートみたいな雰囲気で皆さんは新しいグループが到着する度に拍手で迎えます。嬉しいのは若い人の参加も多いことです。コスプレ衣装を来ている若者すら何人かいました。ある若い代表が音楽の流れる中で手紙を読み上げました。私は母から愛知の平和行進はとっても活気があると聞いていましたが、多分本当だと思います。ピースアクションはとてもすばらしかったです。

今日のブログの最初の写真は平和行進中の参加者の皆さんの笑顔です。

ひらき座という韓国の打楽器を使った演奏集団が行進の先頭を歩いてくれて、賑やかに行進を盛り上げてくれました。行進中に楽しい音楽が流れていると注目も集めるし、週末の賑やかな雰囲気にぴったりです。ひらき座の力強いビートはイフガオの音楽にも似ていました。イフガオというのはフィリピン北部の原住民です。歩きながらイフガオの踊るイメージを思い出しました。ジョセフィーヌさんと私は歩きながら簡単なイフガオの踊りのステップをやってみたりもしました!

平和行進の後で愛知県原水協の事務所に向かい、若い皆さんと被爆者の人の集会に参加しました。自らも被爆者であり、名古屋大学の名誉教授でもある沢田昭二先生がいらっしゃっていました。午後の行進で出会った若い皆さんに再び出会えてとても嬉しかったです。というのも私は、行進を途中で抜けて病院に行く必要があったからです。

病院ではお医者さんから強い薬を使っても、熱が出ていて平和行進を歩くのは当面難しいと言われました。抗生物質が私の胃に負担になっていてお腹が痛くなるのだそうです。残念ですが身体が完全に回復するまでしっかり休むようにお医者さんに言われてしまいました。

気持ちはとっても元気なのですが、お医者さんと原水協の皆さんのアドバイスに従う他なさそうです。

でも、嬉しかった事もあります!

そう、今日はピースアクションを見れてハッピーでした!

(日本語訳=三宅朋子)

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マラヤ・ファブロスさんの行進日誌34日目

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平和行進三十四日目:愛知県小牧市と春日井市

今日の予定は週末にふさわしい内容でした。今日訪問した自治体は比較的お金持ちそうな印象を持ちました。というのも市庁舎などの公共施設の建物が近代的でオープンスペースもよく手入れされていたからです。

小牧市役所をスタートし、春日井市役所で行進を終えました。週末は自治体の職員の方の参加は少ない場合が多いです。でも学校や仕事がないので一般の参加者の方やパフォーマンスをしてくださる方がたくさんいました。そのうえ今日は各自治体からも多くの代表のみなさんが賛同を表明してくれました。にこやかに市長からのメッセージを届けてくださいました。ご本人たちも楽しんでくださっているみたいでした。多分これは週末だったからだと思います。もしかしたら太鼓があったからかな?いやいやきっと行進に参加すること自体を楽しんでくれたのでしょう!

開会集会は小牧市役所で素晴らしい太鼓の演奏とともに始まりました。太鼓は伝統的な日本のドラムです。太鼓は通常黒い衣装を着た人たちがグループで演奏します。ハリウッド映画で忍者が着ているような黒い足袋を履いている人たちもいました。

次の太鼓の演奏は春日井市の街の一画で行われました。どこだったか名前は忘れてしまいましたが、この場所の事はよく覚えています。とてもうまく空間のデザインがされていて2階部分が歩道橋でいくつかのビルに繋がっていました(日本やフィリピンでは1階は地上階の事です)。アラブ首長国連邦では地上1階はゼロ階と数えられ、日本でいう2階が1階になります。

私が日本のビザを取るためにフィリピンに帰っていた時、私は常に愛知県の平和行進のfacebookページをチェックしていました。太鼓演奏の写真を見ながら、その場で聞きたかったと悔しい思いをしていました。10日間のブランクでたくさんの事を見逃している気がしていました。でも今日は2組の太鼓演奏を聴く事ができました。やった!ついにです!

英語の表現に「When it rains, it pours!(振れば土砂降り)」というのがありますが、まさにそんな感じです。午前中に太鼓の演奏と南京玉すだれを見て、午後にまた別の太鼓の演奏が聴けました。

昼食を取る前に、通し行進者と何人かの行進参加団体の代表で自衛隊基地を訪問し、メッセージを届けました。今日の通訳さんの一人である小林さんが私に航空自衛隊に航空ショーを辞めてほしいという強い要望を伝えていると教えてくれました。航空ショーはすごい騒音であることと、事故が起こる可能性もあるからです。数名の自衛隊員の方が私たちを航空自衛隊基地の脇にある入口から中に入れてくれ、代表者の方の所まで連れて行ってくれました。その代表者の方は短い会談中一度も笑わなかったので、なんだか気詰まりな雰囲気でした。軍事関係者の人と普段接する機会がないので私も慣れていないのです。

春日井市の西コミュニティーセンターで昼食を取りました。すっごく暑い日だったので、お昼ごはんやおやつはとってもホッとしました。村田さんは彼の長い横断幕を取り出してお昼休憩中にみんなにサインしてもらっていました。すでにこの素敵な横断幕は皆さんのサインで一杯になって来ています。今日は初めてこれを全部広げて写真も撮りました。これを全部広げるにはたくさんの人に持ってもらう必要があります。やっと楽しい一枚を撮影する事ができました。

地元の原水協の皆さんがいろんな場所に給水所を設けてくれていたので、歩きながら冷たい飲み物を取る事ができました。冷たいお茶がたっぷり入ったカップを歩きながら取って飲み、数メートル歩いた場所で容器を捨てさせてもらうのです。地元の原水協の皆さんの細やかな心遣いに感謝です。その上、冷たいおしぼりまで用意してくださっていました。立ち止まることなしにリフレッシュして元気が出るのでとっても助かりました!

今日は子どもたちも私たちの行進に参加してくれました!やった!

春日井市のある一画で午後の休憩を取りました。冷たいミカンとお茶が用意されていました。ここで今日2度目の太鼓演奏を聴く事が出来ました。

春日井市役所での閉会集会で今日の行進を終えました。市の代表の方が春日井市議会の4名の議員さんと一緒に式典に参加してくれました。通訳の土屋ひろしさんが市議会の50名の議員を式典に招待したけれども数名しかきてくれてないと教えてくれました。そのうちの3名は行進にも参加されていました。

通し行進者はその後コープと市役所労働組合のリーダーとのパーティーに招待されていました。とっても美味しいお料理と楽しい歌、そして平和行進の交流を行いました。すごく楽しいパーティーでした。一曲歌ってと言われましたが、とんでもない!ちょっとだけ“歩いてゆこう”のコーラスを歌いました。

水野さんと河合さんも来られていました。おふたりは4月28日に名古屋空港に私が到着した時に迎えに来てくださった方です。翌日東京に向かう予定だったのでその夜は河合さんのお宅に泊めてもらいました。水野さんは被爆者で平和行進の前に私が初めて書いたブログで彼女の体験を紹介しています。過去にとても辛い体験をされたにも関わらず、彼女は今とても元気に愛知県の平和運動をされています。現在90歳ですがとっても若く見えます。すごい女性だなと思います。

バーティーがお開きになる前に水野さんが想いを語られました。被爆者が必死でたたかった成果で政府からの補償を受ける事ができると言われていました。現在被爆者の皆さんの数は減って来ていますが,無料で医療を受ける事ができています。90代の被爆者の方も沢山いらっしゃいます。

水野さんはまた福島第一原発の放射能漏れ事故の被害者に心を寄せておられました。彼らも被ばく者なのに政府はまだ正式な被ばく者として認めておらず、無料の医療支援が受けられていないと言われていました。現在福島の被害者の方が声を挙げにくい状況を彼女はとても心配しておられ、なんとかサポートしたいと言われていました。福島の問題は現在日本の平和運動が支援している問題の一つです。ちなみに正式な被爆者とは被爆者手帳が発行されている被爆者のことです。その手帳があれば無料の医療サービスを受ける事ができるのです。

そうそう、今日私の通訳をしてくださったお二人、小林くによしさんと土屋ひろしさんが春日井市について教えてくれたことについても書いておきたいと思います。ちなみにおふたりとも高校の先生です。

第二次世界大戦中に試験爆撃で甚大な被害を受けた町が愛知県には2つあります。その2つの町が春日井市と豊川市です。

春日井市は1943年に爆撃を受けました。戦争中この街では多くの武器が造られており、軍需産業でにぎわっていました。でもその軍事施設のためにアメリカ軍の爆撃を受けたのです。春日井市の2つの大きな軍需工場は今でも建っています。1つは大学になっており、もう1つは製紙工場です。

また春日井市は書道とサボテンの生産でも有名な町です。この地域のサボテンは日本一だそうです。人口約30万人の町で愛知県では6番目に大きい都市です。

最後に今日の署名活動の写真と沿道で手を振ってくださる皆さんの写真です。また、休憩中にメッセージを寄せてくださる女性のグループもおられました。

(日本語訳=三宅朋子)

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マラヤ・ファブロスさんの行進日誌33日目

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平和行進三十三日目:愛知県の岩倉市、一宮市そして江南市

今日は暑さと雨の両方を経験しましたが、おやつにはプチトマトが用意され、各市の市長さんたちからは興味深いスピーチが聞けました。それに2人のフィリピン人女性とも出会う事ができました。

今日は岩倉市役所の中での面談からスタートしました。副市長の赤堀俊之さんと地域の平和活動に熱心な政治家であるいとうさんが出迎えてくれました。親切にも通訳さんも用意してくださっていました。通訳のデレク・クリングトンさんはカナダ人で現在は岩倉市に住んで市役所で福祉サービス課の通訳としてお仕事をされているそうです。

副市長さんは岩倉市で行われている平和活動を紹介してくれました。平和パネルを市役所の2カ所で展示しているそうです。このパネルはいつも8月の上旬から中旬にかけて展示されるそうです。また小学生や中学生を1年毎に交代で世界大会に派遣しているそうです。その子どもたちがカンパと市長からの賛同のメッセージを私たちに手渡してくれました。また岩倉市は市長による平和のための国際会議にも取り組んでいるそうです。

岩倉市の核兵器廃絶都市宣言は1985年に採択されました。そしてそれ以来常に核の持ち込みを許さない自治体であり続けてきました。また原発に替わる環境にやさしい新しいエネルギーへの取り組みも行っているそうです。市役所は現在太陽光発電、電力のリサイクル、そして節水にも取り組んでいるそうです。

副市長さんはいつも平和行進には感銘を受けていると言われていました。自分自身も平和への思いが強いので、いつも平和行進の参加者を自分が市役所に迎え入れていると言われていました。

地元の平和運動をされている政治家のいとうさんは岩倉市は平和行進を歓迎していると言われました。彼自身も平和運動に貢献したいと思っているし、平和行進によって地域社会で平和への意識が高まるのは嬉しいと語ってくださいました。村田さんも東京の初日の様子を話してとても良い会談になりました。副市長さんは誰も行進中に倒れてほしくないので、くれぐれも身体に気をつけてくださいと言ってくれました。

メッセージのコピーとカンパを受け取り、外に出て他の行進者のみなさんに合流しました。副市長さんといとうさんもみなさんに挨拶されました。暑い一日をスタートさせるのにとても良い式典だったと思います。

それから私たちは岩倉の街を歩きました。このあたりにはたくさんのお寺があってとっても面白かったです。1ブロックにひとつお寺があるように思えました。ここは横江さんの地元で彼は巨大なランタンを水に浮かべるお祭りがあると言っていました。彼も参加しているそうです。3階建てくらいの高さのランタンのための部屋のあるお寺も通りました。この道は電線もとても高くに設置してあって、ランタンの邪魔をしないためだそうです。実際のランタンはその電線よりも高いので、運び出した後でてっぺんのパーツを付け足す事もあるそうです。ワォ!

私たちはちあき病院まで歩きました。そこではたくさんの高齢者の皆さん、お医者さん、看護士さん、病院のスタッフの皆さんが私たちを出迎えてくれました。これまで拍手で行進を迎えてくれた人たちの中で今回が一番多かったのではないかと思います。とっても温かいお出迎えでした。

今日の行進にはたくさんの若い方も参加していました。その多くは医療現場で働いておられる若いお医者さんや看護士さんでした。彼らは署名とカンパ集めの担当をしていました。

一宮市役所に着く前に浅野公園でもう一度休憩を取りました。この休憩で出されたプチトマトが嬉しかった!おやつとしてプチトマトを食べたのは初めてでした。今日みたいな日は特にこんなおやつがホッとしました。

お昼には一宮市役所に到着しました。この市役所は一部がショッピングストリートと連結していました。とっても良いロケーションです。

私たちはそこで2人の被爆者の方に会いました。86歳の女性と88歳の男性です。おふたりが行進に参加してくださってとっても嬉しいです。被爆者の皆さんの行進への参加はいつもとても励みになります。山口さんはここでも広島に届ける折り鶴を2束受け取りました。

お昼の後は私はおさじさんと一緒に署名とカンパ集めをしました。彼が日本語で話しかけ,私が署名用紙を出しながら「コンニチハ、ショメイ、クダサイ」と言います。2回目の休憩までに10筆以上の署名が集まりました。

またカンパも頂きました。ある親切な男性がカンパの封筒を手渡してくれました。そして少なくてごめんねと言ってくれました。すごく親切!

おさじさんは一宮の労働組合で専従をされているそうです。この労働組合はいつも平和行進に参加しており、彼はこの3年間はずっと参加しているそうです。

午後は2回休憩を取りました。1回目は広場のような場所で、2回目はお寺でした。ある平和行進参加者が私に彼女のフィリピン人のお友達を紹介してくれました。彼女の名前はアッラ・サントスさんです。彼女は私と同じケソン市出身でお互いにとてもご近所さんだという事が分かりました。

再び歩き始めようとした時に雨が降り始めました。2回目の休憩はとてもタイミングが良かったです。私たちは合羽を着る時間がありました。行進をスタートさせた途端、雨が土砂降りになりました。雨の日の行進の辛いところは歩くのがいつもよりしんどく思える事です。その上私は雨に強い靴を履いていなかったので足がぐしょぐしょになりました。でも良い点は暑く長い一日の大変さを紛らわせてくれる事です。もしウエストポーチに電子機器や大事な文書を持っていなかったら合羽を脱いで雨に当たりたかったくらいです。

歩き始めて数分で江南市の端っこに到着しました。私と村田さんは他の何人かの行進参加者の皆さんと車に乗り込み、江南市役所に向かいました。そこで教育課の課長さんや国際関係課の課長さん、その他教育課のメンバーの皆さんと会談する事ができました。

そこでまたフィリピンの人との出会いがありました。彼女はロイエ・アオヤマさんで、私のために通訳をしてくれました。メッセージの英訳も用意してくれていました。彼女は行政に関係した仕事をしており、フィリピンからのお客さんがあった時は時々こうやって通訳などのお手伝いをしているそうです。

短い面談でしたが、皆さんに他の平和行進参加者が集まっている場所で挨拶してほしいと頼みました。教育課と国際関係課の課長さんたちがみなさんに挨拶してくれ、私たちは閉会式を行いました。

全ての行事を終えた後雨は小降りになりました。車に乗って名古屋のホテルに帰る前に近くで大きな稲光をみました。落雷の音は光とほとんど同時に聞こえました。多分とても近かったに違いありません。恐い!

今日は長くて楽しい一日でした。ハァー!

最後に署名集めの写真と沿道で手を振ってくださる皆さんの写真です。

(日本語訳=三宅朋子)

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マラヤ・ファブロスさんの行進日誌32日目

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平和行進三十二日目:津島市役所、愛西市役所、稲沢市役所

戻って来れて嬉しいです!今朝早くにホテルを出発し、きみちゃんが私たちを津島市役所に車で連れて行ってくれました。平和行進の参加者の皆さんが市庁舎の正面に集まっておられました。そこで私は他の愛知県の通し行進者の皆さんに紹介されました。また恵子ちゃん、横江さん、佐竹さんとも会いました。彼らは会場の設営に忙しそうでした。

数分後に何人かの通し行進者が市役所の中に招き入れられました。私が次に何が始まるのか興味津々でいると、村田さんが私に日本語で静岡で病院に行くと思っていたら市役所に行くことになった時と同じ感じだねと言いました。彼の日本語が何故分かったかといえば「病院」や「同じ」などのキーワードが聞き取れたからです。経験は最良の師,ですね(笑)

中に入ると大きな会議室で副市長が待たれていました。また市長と市議会の代理の方もいらっしゃいました。彼らから賛同のメッセージをもらって、私たちはそれぞれ自己紹介をしました。それから印刷されたメッセージとペナント、そしてカンパをもらいました。比較的短い会談でその後入口の集会に戻りました。他の皆さんはすでに歌を歌っていました。とっても素敵でした。親切な副市長さんが外まで出て来てくれました。市議会の議員さんもお一人出て来てくれました。彼らは私たちが市庁舎の敷地を出るまで送ってくれました。今日はとても大勢の方が平和行進に参加していました。多分明日愛知平和行進のサイトをみれば何人が参加していたか分かるでしょう。

私たちは10時半には愛西市役所に到着して休憩を取りました。ここでも副市長さんと市議会議員さんが歓迎してくれました。彼らも私たちが市役所を後にするまで一緒に過ごしてくれました!今日は10日のブランクがあったのでこの時間で既に疲れを感じ始めていました。今日は私にとっては足慣らしの一日になるでしょう。多分これから3日間くらいはまた筋肉痛になります。東京と神奈川を歩いた最初の3日間も筋肉痛になりました。

お昼休憩のために稲沢市庁舎に向かいました。大勢の参加者は市庁舎の中にある大きなホールに案内されました。そこでお昼ごはんです。おにぎりに、甘辛いお魚、おでん、ほうれん草,コーンとポテトのパテ、ポテトサラダなどどれも美味しかったです。

そこから平和という名前の街を歩きました。平和というのはPEACEという意味です。平和病院もありました。一緒に歩いている方が平和行進が平和町の平和病院の前を歩いているねと嬉しそうに教えてくれました。すごい!

街の名前がほどこされたマンホールのフタもあるみたいです。これはそれぞれの街でデザインが異なっています。このマンホールは街のいたるところにあります。マンホールの下がどうなっているのか私にはちょっとわからないのですが。。。

2時頃に広場に到着しました。広場の端っこに平和のモニュメントがありました。愛知県の平和行進を組織している皆さんが私たちのためにおやつを用意して待っていてくれました。彼らは私たちが休憩のために止まる場所に先回りして準備してくれているみたいです。だから彼らの姿が見えると休憩時間だと分かります。愛知県原水協の皆さんいつもありがとうございます。

行進を再開する前に福祉関係の労働組合の方から私たちはたくさんの折り鶴を託されました。1000羽以上ありそうな折り鶴が一つにまとめられていました。かなりの重さです。すごい!

行進を再開してから愛知の平和行進の提灯を持って歩いてほしいと頼まれました。この提灯はつねに行進の先頭の人が持っており、これまではよしさんが持って歩いていました。よしさんからは提灯は熱いから気をつけてと言われました。提灯を持って歩くのは楽しかったですが、腕が疲れて何度かよしさんに替わってもらいました。

3時20分に稲沢市役所に到着し、式典の前に休憩を取りました。稲沢市は私のために通訳さんを用意してくださっていました。市長さん、市議会議長さんも式典に参加してくださったのはとても嬉しかった!メッセージ、ペナント、カンパを寄せてくれました。

市長さんはご本人が広島長崎の原爆投下と同じ1945年生まれだと話されました。稲沢市は核兵器廃絶都市宣言を行っており、核兵器の持ち込みを禁止している自治体です。平和のパネル展示も市役所のロビーで毎年8月15日の終戦記念日まで実施しています。今日の行進を締めくくるのにふさわしい力強いメッセージを寄せてくださいました。

市議会の議長も稲沢市は1985年には平和都市宣言を行ったと言われていました。彼は何度も世界唯一の被爆国として核兵器の恐ろしさを世界に伝える責任があるというような事を言われていました。また過去の過ちを繰り返さないために若い世代に被爆体験や平和への思いを継承していく事の大切さにも言及されていました。

今日の行進は稲沢市のJRの駅で終了になりました。この時を私は待ちわびていました。なぜって横江さんが昨日、今日の最後にはスイカが食べれると教えてくれていたからです。本当にスイカが食べられました!冷たいおしぼりも用意されていました。通し行進者のみなさんぞれぞれの短い挨拶を聞きながらのとても素敵な閉会式でした。

山口さんと私はきみちゃんと他の新婦人のお二人(なんと二人ともお名前は佐藤さん)と車に乗って名古屋に戻りました。というのも、名古屋で新婦人の皆さんがパーティを企画してくれていたからです。でも山口さんは頭痛が酷かったので先に休むことになりました。ゆっくり休めていると良いのだけれど。

そうそう山口さんは和歌山出身で平和行進をリレーしています。山東恵子ちゃんが東京と神奈川を歩き、たくや君が静岡を、山口さんが愛知県を歩いています。彼女はとっても可愛らしい若者です。彼女は愛知の平和行進のミューズです!明日も一緒に歩けるのが楽しみです。

私は新婦人の皆さんと楽しい時間を過ごしました。歌があり、美味しい食事があり、私への短い質問タイムもありました。通訳は佐藤るみこさんと高木としさんでした。お二人がいてとても心強かったです。としさんは誰かの通訳をするのはこれが初めてだけど楽しいと言っていました。良かった!

最後にパーティで歌っておられた方とギタリストの方が2年前にフィリピンに行った事があると教えてくれました。地元の平和団体が主催したピースフェスティバルで演奏したそうです。私は、母がとっても嬉しそうにその事を話してくれたのを覚えています。いろんな国々からたくさんのアーティストが集まったのです。なかでも日本からの参加者が一番多かったそうです!

(日本語訳=三宅朋子)

マラヤ・ファブロスさんの行進日誌31日目

20130605-090935-pm

平和行進三十一日目:ただいま!ニッポン!!

こんにちは名古屋!

こんにちは平和行進!

ただいま帰って来ました!

日本は1枚のビザで旅行者に最大90日しか滞在を認めていないので私は新しいビザをとるために1週間以上平和行進を中断しなければなりませんでした。平和行進、世界大会、そしてこれに関連した活動をしようと思えば90日以上必要です。そこで私は一旦日本を「出国」して、新しいビザで戻ってこなければなりませんでした。平和行進を歩けない10日間は寂しかった!愛知県の平和行進の様子はフェイスブックや愛知平和行進のウェブサイト(訳者注/マラヤはリンクを貼っています)で見る事ができます。

5月26日の閉会集会を終えて私は一旦平和行進を離れ、新幹線で愛知に向かいました。小田前恵子ちゃんの楽しいご家族と夕食後ご一緒し、翌日は名古屋城と名古屋能楽堂を観光しました。恵子ちゃんは愛知県原水協で働いていて今年ジュネーブで行われたNPT(核不拡散条約)事前会議の日本代表団の一員でもあります。その夜は大笑いして楽しく過ごしました。彼女のお父さんの笑い声はみんなに伝染する力があります。

名古屋能楽堂はこの種のシアターの中でも最大のものです。翌日の午前中は観光三昧の時間を過ごしました。たくさんの生け花、昔の日本のリーダーたち(豊臣秀吉とか)のお芝居、本丸御殿の建築現場などを見ました。本丸御殿は名古屋城の一部でしたが、何年も前に焼け落ちてしまっていました。現在伝統的な建築方法で再建が進められています。ここは特に建築やデザインに携わる人には必見の場所です。本丸御殿の玄関と表書院は今年の5月29日に公開されました。

ところで私はこの街で2回のうなぎを食べました。恵子ちゃんと彼女のお父さんが名古屋ではうなぎを三通りのやり方で食べると教えてくれました。彼らの説明に従って私も自分のうなぎセットを食べてみました。まず三分の一を普通に食べます。それからわさびと新タマネギを次の三分の二に混ぜて食べます。そして最後の三分の一はお出汁かお茶をかけて食べます。どの食べ方も全部美味しかったです!

それから愛知県原水協の事務所でミーティングに参加しました。そこで愛知の通し行進者の皆さんにも紹介してもらいました。そのあとでいくつかの議題が簡潔に議論されました。NPT事前協議についての報告もありました。ジュネーブでの会議についても議論されました。それから、佐竹さんと私は名古屋空港に向かいました。ここでまた搭乗前にうなぎセットを夕食に食べました。お腹いっぱいで幸せでした!!!

5月27日の深夜にマニラに到着し、翌朝には新しい観光ビザを申請しました。ビザを手配してくれている人が次の日の午後には連絡をくれたので良かったです!彼は私に新しいビザは用意できているのでいつでも取りに来てくれていいと言ってくれました。これはすごく早い発行です!もしかしたらマニラ大使館も平和行進をサポートしてくれているのかも(笑)

私はこのブログを名古屋にある愛知県原水協の事務所で書きはじめました。今は愛知の通し行進者の村田さんとよしさんと一緒に夕食を食べた後でホテルの部屋に戻っています。明日からまた平和行進を歩けると思うと嬉しいです!

以下がこれまでの愛知県原水協の平和行進の写真です。私が歩けなかった行進の分です。私はフィリピンでこの写真を見ながら羨ましい気持ちになりました。

(日本語訳=三宅朋子)

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