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【岡山】“頑張って”の声援受け 105回目の6・9行動

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リトアニアのスクヴェルネス首相が政府建物で開催中の「原爆と人間」パネル展でイスラエルのネタニヤフ首相を案内

リトアニア政府建物での「原爆と人間」パネル展でイスラエルのネタニヤフ首相(左)を案内するスクヴェルネス首相

リトアニア各地で原爆展の開催を働きかけているダナス・リムデイカさんから届いたニュースを紹介します。

イスラエルのベンジャミン・ネタニヤフ首相がリトアニアを訪問した際に、サウリュス・スクヴェルネリス首相が政府建物で開催されている「原爆と人間」パネル展を案内しました。

リトアニアでは2016年5月に日本原水協代表団が訪問し、長崎被爆者の田中重光さん(現日本原水爆被害者団体協議会代表委員)が国会でスピーチした後には感謝の決議をあげています。

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【「原水爆禁止2018年世界大会の記録」9/1発刊 】協同の力で核兵器禁止条約の早期発効・廃絶実現を!

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被爆73年を迎えた8月2日から9日まで広島と長崎で開催された原水爆禁止2018年世界大会には海外22か国91人をはじめ、広島大会に6000人、長崎大会に1500人の代表が参加し、核兵器禁止条約の早期発効から廃絶を実現する決意を新たにしました。

昨年7月7日に国連で採択された核兵器禁止条約は8月24日現在、調印60か国・批准14か国です。世界は超大国の力による支配から、平和でより公正な秩序を望む圧倒的多数の政府が市民社会の運動と力を合わせて未来を切り開く新しい時代へと変化する中で開かれました。

核兵器禁止条約の交渉で中心的な役割を果たしたアイルランドとオーストリアの政府代表が大会に参加され、フォーラム「核兵器禁止・廃絶へ、政府とNGOの対話」で発言された内容の全文を読むことができます。

また、ことしの大会は、南北首脳会談、米朝首脳会談と、北東アジアにおける核兵器と軍事対立の危険から、非核と平和体制の構築への大きな変化が生まれる中で韓国から被爆者の皆さんを含め、たくさんの代表が参加しました。韓国・参与連帯の代表の国際会議の発言から最新の情勢を知り、日本が果たすべき役割を考えることができるでしょう。

話題になった開会総会での戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会共同代表の福山真劫さんの連帯あいさつや、辺野古に新基地を造らせないという決意を語ったオール沖縄会議事務局長の山本隆司さんのスピーチも全文収録。「ヒバクシャ国際署名」の協同へのヒントもたっぷり詰まって秋の行動から今後1年間の原水爆禁止運動にとって必携の1冊です。学習会などで大いにご活用ください。

●原水爆禁止2018年世界大会の記録 (B5版 182ページ)
頒価 1,500円(送料込)
編集・発行 原水爆禁止世界大会実行委員会

ご注文は、あなたの街の原水協

【問合先】
原水爆禁止日本協議会(日本原水協)
〒113-8464 東京都文京区湯島2-4-4 平和と労働センター6階
Tel:03-5842-6031 Fax:03-5842-6033
E-mail : antiatom55☆hotmail.com (メール送信時、☆を@に変えてください。)

【証言】「私の被爆体験」松本秀子さん(広島被爆)

証言する松本秀子さん(2016年8月6日、広島)

私の被爆体験

松本秀子

私は昭和20年の8月6日まで(人類最初の核爆弾が投下された日)広島市材木町に10人家族で住んでいました。その材木町は今の平和記念公園の中心あたりにありました。今は材木町という町名すら残っていませんが、そこにはひと抱えほどの自然石に【材木町跡】と刻まれた石碑が説明板と並べて建てられています。

最近でも時折「原爆が落ちたのが誰も住んでいない公園でよかったね」という声を耳にします。とんでもないです。今でこそ広い静かな公園になっていますが、広島で一番にぎやかな場所で、大きな商店が軒を並べ、たくさんの人が暮らす繁華街だったのです。そこへ原爆が投下され、中島地区一帯は廃墟と化したのです。そして復興の過程でこの広い祈りの場ができたのです。

爆心地から1㎞圏内には、南に広島県庁があり、北に広島城が高くそびえ、広島は日清戦争の頃には大本営が置かれる軍都だったのです。

昭和20年頃にはアメリカ軍の空襲を受けるようになりました。

空襲火災の延焼を防ぐため、建物強制疎開が急ピッチで行われ、その後片づけに市内中の中学生男女1、2年生全員と、近郊の人達も動員されて作業にとりかかろうとしたその時・・・。

私はいつものように朝7時頃、母の作ってくれたお弁当を持って「行ってきまーす!」と家から3㎞南の翠町にある女学校へ行きました。これが家族との今生の別れになるとも知らず校舎の2階で友達とお話をしていました。

すると、突然、本当に突然、何の前触れもなく、世の中がオレンジ色に包まれ、とっさに机の下にもぐり込みました。それから静寂の5〜6秒、今のうちにと立ち上がった瞬間、ものすごい爆風と爆圧に圧迫され、粉々になったガラスを右側面の顔、肩、腕に受け、血を流しながら校庭の防空壕まで走り込みました。

そのあと、何の動きもなく、学校からの指示もなく「市街地が大変なことになっている」との情報があり、家に帰ることにしました。お昼頃、御幸橋の上には今のものすごい閃光に身を焼かれ、火煙の中から逃れて来た人達が倒れ込み、座り込む人、髪は逆立ち、皮膚は引き裂かれて垂れ下がり、次から次へと足を引きずりながら避難して来る人、人、人。どうしてあげることもできず、声も出ません。地獄でもこれ程ではないであろう程の惨状です。

この人達はつい先程まで、セーラー服姿の可愛い少女や、ゲートル姿の凛々しい男子中学生でした。やがて軍隊のトラックで江田や、鉄輪島に収容されたようです。

その日は我が家には帰れず、大混雑の中、材木町の近所のおばさんのご実家に誘われてお世話になりました。その晩、広島が燃える真っ赤な夜空に誰も一睡もせず、翌7日早朝我が家を目指すも、まだまだ火が残っていて入れず、8日やっとあの我が家が・・・あの材木町が・・・見渡す限りの地球が私の足下に崩れ落ち、どことも知らない荒野にひとりポツンと立っている感覚、そのうち体が小刻みに震え、だんだん大きくなり、泣いていました。その声はまわりの不気味な静寂の中に吸い込まれていきました。

ようやく変わり果てた我が家に入りました。我が家の玄関と台所辺りにきれいな白骨が2体ありました。ああ、お母ちゃんだろうか?・・・お姉ちゃんだろうか?・・・見覚えのあるお茶の缶に拾いました。カラカラと鳴りました。

我が家の周りには炭のように変わり果てた、4〜5体の物体が・・・これは弟の衛君ではないか・・・妹の記子ちゃんでは?・・・と思いましたが、私はどうすることもできませんでした。

放心状態で歩いていると爆圧で両目が2〜3㎝も飛び出した遺体にもあいました。炭化したお母さんとまだへその緒でつながった赤ちゃん親子の遺体に思わず手を合わせました。南無阿弥陀仏。

空襲火災の延焼を防ぐため防火帯をつくろうと、建物疎開の後片付けに動員されたまだ12、3歳の男女中学生が、火傷の体を必死で支えながら親の迎えを待っていました。中にはすでに命尽きた人も・・・。

惨いことに土橋辺りでは、たくさんの亡くなった人を兵隊さんが1か所に積み上げて荼毘にふしておられました。

私の同級生もお父様や、可愛がっていた弟さんを自分の手で荼毘にふしましたと、同窓会の時に話しておられました(その時彼女らは15歳の子どもでした)。

9日朝早く町の要所に書き出してある救護者名簿のおかげで父と鉄輪島で会う事ができました。父は中広町辺りの知人の家で建物の下敷きになりましたが、幸い大きな外傷はなく目を痛めていました。

鉄輪島にも大けがや火傷をした男女学生さんが、バラックの兵舎に収容されて看護を受けていましたが、次々に亡くなっていき、肉親の声をひと目、ひと声聞くこともなく裏の山に葬られていきました。

その間にも、空襲警報のサイレンに身を潜めながらの生活です。鉄輪島で二晩お世話になり、音戸へ行くべく市内を歩いていましたら、天満川のほとりで妹の喜久ちゃんの服の切れ端が私の目に留まりました。母の着物を仕立て直して私とお揃いを作ったのです。

あの日の朝、13歳の妹は土橋へ疎開の後片付けに行くと言っていました。閃光を浴びてくすぶる服を脱ぎ捨てながら天満川に入って行ったのでしょうか。7日の日に私はあのそばを通ったのに、見つけてあげることができませんでした。胸が痛みます。一生忘れることはできません。

17歳の姉は当時流川に在った「中国新聞」本社に勤めていましたが、消息もわかりません。母はあの時、家の下敷きになりながらも、とっさに私達子どもを両手に抱きかかえてくれたのだと思います。今も平和公園の下には、たくさんのお骨や暮らしていた街が埋まっています。2〜3年前、若い女性が「この辺りはそっと歩いてほしい」と静かな祈るような口調でインタビューに答えておられました。

慰霊碑の北西に直径10m位の丸い土まんじゅう形の原爆犠牲者供養塔があります。ここには国籍、宗教を問わず、約7万人のお骨と慈母観音像が納められています。私の家族、当時40歳の母、17歳の姉、13歳の妹、小学1年生になったばかりの元気な弟勉君6歳、4歳の妹記子ちゃん、2歳の弟衛君もこの供養塔に納められています。私にとって大切なお墓です。材木町に来たら必ずお参りに来ます。父と私は音戸に行き、疎開していた弟妹達も音戸で親戚のご好意で生きてきました。

父は、妻と子どもの6人と生活の基盤一切を一度に奪われ、その上、ひどい原爆症に痛めつけられ、髪の毛は抜け落ち、体中パンパンに腫れ上がり、口中の肉は溶け、歯は勿論のこと上顎の骨まで溶け落ちてしまいました。それを見てみんなで放射能の恐ろしさに震え上りました。42歳の壮年の父がいっぺんに100歳のおじいさんに変貌してしまいました。原爆症に痛めつけられ、その上がんを併発して父は58歳の若さで亡くなりました。

この戦争は何のための戦争だったのか?あの恐ろしい原爆は何をするための爆弾だったのか?犠牲になった人達に、お父さんに、お姉ちゃんに、妹達に何と報告すればいいですか。もうすぐみんなに逢いますけど・・・。

私は広島に行くのがイヤでした。当分行けませんでした。我が家を土足で踏みにじられているような気がして、今でも数字の8と6が並んでいるのを見ると体が緊張します。でも今は年齢も重ね、歌の好きな私は素晴らしい先生のご指導のもと、お仲間と一緒にコーラスを楽しんでいます。これも平和な世であればこそです。

戦争のない、核兵器のない世の中を願って世界中からこの広島に大勢の人が集います。この願いがあの人と、この人とハイタッチでつなげられたら素晴らしいと思います。つなげましょう。

「ピカドンが落ちたら 昼が夜になり 人がお化けになる」

被爆間もない頃、「中国新聞」に掲載されていた児童の句です。

原爆資料館の東側記念館に原爆投下直後の様子を被爆者が描いた絵が展示されています。シリーズごとに入れ替え展示されます。是非ご覧ください。

【広島】困難の中で市民が後押し原爆展、平和行進、原水爆禁止2018年世界大会へ

東広島市ホームページより

7月19日、日本原水協の安井正和事務局長と広島県原水協の古田文和事務局長は、県下で大きな被害を受けた東広島市を訪ね、東広島原水協を見舞いました。


防災放送からFMラジオに避難指示届かず

連日35度を超える猛暑の中、東広島原水協事務局の綿岡夫妻、理事の岩城夫妻に会うことができました。世界大会実行委員会の「アピール」を渡して、豪雨被害の実情を聞きました。

東広島市では市内を流れる黒瀬川の氾濫により、死者12人、行方不明1人、全壊・半壊家屋60棟、床上浸水111家屋、土砂災害か所39件(7月19日現在、広島県ホームページ)という大きな被害が出ています。

綿岡さん夫妻は、「あと1時間降り続けたら、自宅も被災していた」と語り、被害拡大の要因の一つに、広域合併により防災放送が廃止され、防災ラジオ(FM放送)で避難勧告を聞く以外ないこと。防災ラジオは外に持ち出して聞くことができず、しかも半数以下の家庭(世帯総数8万)にしか設置されていないことなど、危機管理上の大きな問題があったことが指摘されました。被害地(者)への支援も市内のボランティアに託されており、今後の支援を強めてほしいとの要望が出されました。

原爆展に多くの市民が来場 世界大会にはワゴン車で

世界大会にむけた活動では、豪雨災害という困難な中でも市民の後押しを受けて奮闘しています。

東広島原水協は7月はじめから、市内5か所での「原爆展」を計画。最初の開催日である7月6日は集中豪雨と重なり、中止しようとしましたが、会場(黒瀬生涯学習センター)に市民が集まってきたこともあり、大雨洪水特別警報が出された7日午前中は中止したものの、8日の17時まで「原爆展」を開催しました。2日半でのべ155人が来場し、「ヒバクシャ国際署名」28筆、カンパ9,318円が寄せられました。スーパーの閉店や品切れの中、手作りおむすびの差し入れもありました。

続けて、9日から12日まで、東広島市役所で「原爆展」を計画通り開催しました。り災証明手続きもあり、1階ロビーから10階に会場を移動しましたが、5日間でのべ208人が来場し、アンケート42人、署名59筆、カンパ2,063円が寄せられました。

ことしの「原爆展」では、「原爆と人間」展パネルとともにセツコ・サーローさんのノーベル平和賞受賞スピーチを大きな紙に毛筆で書いて展示しました。

この「原爆展」を力にして、7月末の平和行進を成功させること、世界大会には、在来線が一部不通となっていることもあり、2台のワゴン車で参加する計画です。

岩城さんは、「豪雨災害にあった人たちへの支援と連帯の大会になってほしい」と期待を述べました。

【広島】こういう時だからこそ、連帯つよめて大会の成功を 広島県被団協・佐久間邦彦理事長

佐久間理事長にお見舞い金を手渡す日本原水協の安井事務局長(右から2人目)と広島県原水協の古田事務局長(右端)=7月19日、広島市内

西日本の豪雨被害から10日余。被災地への全国的支援が強められる中、日本原水協の安井正和事務局長と広島県原水協の古田文和事務局長は、7月19日、広島市内の被爆者団体にお見舞い金を届け、県団体には原水爆禁止世界大会実行委員会の「アピール」を持参して、災害へのお見舞いと世界大会への協力を要請しました。

広島県被団協の佐久間邦彦理事長は、お見舞への感謝とともに豪雨被害について、「今回の西日本一帯を襲った豪雨被害で、幸いにも県被団協の関係者での被害は会計監査の人が床上浸水の被害に遭っただけでしたが、県内に5万人以上いる被爆者が被害にあっていないか心配しています。土砂災害の危険性がありながら対策が打てなかったところもあり、行政の問題も避けられません」と述べました。

安井事務局長から、目前に迫った原水爆禁止2018年世界大会への政府代表の参加や、大会プログラムの説明を受けた佐久間理事長は、「こういう時だからこそ、日本全国、世界が連帯を築く重要な大会となると思います。世界大会を成功させるために、ひろくよびかけていくし、そのために協力していきたいと思います」と世界大会への期待と決意を語りました。

前田事務局長(左)にお見舞い金を手渡す日本原水協の安井事務局長=7月19日、広島市内

呉の被爆者が心配

もう一つの県被団協(坪井直理事長)では、前田耕一郎事務局長にお見舞い金を渡しました。前田事務局長は、会員の被爆者の被害について、「三原に住む農家の会員は、収穫したばかりのお米の倉庫が水に漬かりました。約300人の会員のいる呉市が心配です」と、被災の現状を述べました。広島県労連を中心にした災対連(災害被災者支援と災害対策改善を求める広島県連絡会)も活動を再開して、ボランティア活動を行っていることも紹介し、支援の気持ちを伝えました。

各団体をお見舞い訪問

被爆者団体とともに、各団体を訪問。午前中に広島市内の労働者学習協議会、建交労広島県本部、うたごえ協議会などにお見舞いの訪問し、世界大会成功への協力を要請しました。

「今年の世界大会はどうなるのかと思っていた。訪問を受けて、平和行進やとうろう流しも担当しているので大会成功に力を尽くしたい」(建交労)など、世界大会成功への決意が語られました。

【第12回被爆者の声をうけつぐ映画祭2018】吉永小百合さんから「ヒバクシャ国際署名」を集める人にエール

提供 被爆者の声をうけつぐ映画祭(撮影:小宮広嗣)

第12回被爆者の声をうけつぐ映画祭2018が7月14、15両日、武蔵大学江古田キャンパスで開催されました。初日の14日には、「愛と死の記録」(1966年、蔵原惟繕監督)の上映前に同作で主演を務めた吉永小百合さんと映画監督の宮崎信恵さんによるトークショーがおこなわれました。

宮崎監督は、「2003年に、ハンセン病に苦しむ人のドキュメンタリーを作りました。14歳で親から引き離された少女の詩を吉永さんが朗読してくれたご縁で、今回のトークショーが実現しました」と話しました。

提供 被爆者の声をうけつぐ映画祭(撮影:小宮広嗣)

「この素敵な名前の映画祭を知りませんでした。1966年の映画を上映してくださるというので、ごあいさつに伺いました」と切り出した吉永さんは、「この映画は、大江健三郎さんの『ヒロシマ・ノート』をもとにして作られました。原爆ドームや原爆病院での撮影をよく許可してくれたものと思います」と、撮影当時を振り返って話しました。

提供 被爆者の声をうけつぐ映画祭(撮影:小宮広嗣)

「『夢千代日記』は、テレビで3シリーズ放映された後、ファイナルは映画ということになり、夢千代は亡くなるのですが、被爆者の方たちからは『夢千代が頑張って生きていたから励まされてきたのにショックだった』と言われました。作り手の思いと受ける側にズレがあったのです。その時から日本原水爆被害者団体協議会との交流が始まり、原爆詩の朗読に繋がっています。被爆者の方たちの思いを、多くの方に知ってほしいと思ったからです。その後、2011年の東日本大震災による福島第一原発事故が起き、中学校の教師で詩人でもある方が書いた詩を紹介されました。その、素晴らしい詩の朗読もするようになりました」と被爆者との出会いから今も続くライフワークについて語りました。

高校1年の1学期以降は仕事が忙しすぎて通えなくなったという吉永さんは、原爆のことについて詳しく教わったことがなかったといいます。それでも、「愛と死の記録」などの映画現場で原爆の被害や恐ろしさについてしっかりと学び、「映画が私の学校です」と語ります。

提供 被爆者の声をうけつぐ映画祭(撮影:小宮広嗣)

吉永さんは「昨年、核兵器禁止条約が採択され、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)がノーベル平和賞を受賞するということがあり、本当に嬉しかったですが、日本が禁止条約に参加しないことで、どれほどの被爆者の方たちが辛い思いをされていることか。私も皆さんと一緒に行動していければと思います。他人のことではなく、自分の問題なんです」と話されました。

提供 被爆者の声をうけつぐ映画祭(撮影:小宮広嗣)

ヒロシマ・ナガサキの被爆者が訴える核兵器廃絶国際署名(ヒバクシャ国際署名)の賛同人に名を連ねている吉永さんは「私たち個人個人はみんな核兵器をなくしてほしいと思っているけれど、国が、例えば核兵器禁止条約を批准するのには核兵器を持っている国からの圧力があるということをこの前新聞で読みました。一人ひとりが声を出していけばぜったいに世界を動かすことができます。諦めないでやっていきましょう」と署名を集める人にエールを送ってくれました。

沖縄県議会が核兵器禁止条約への署名、批准を求める意見書を全会一致で採択

沖縄県議会は76日、最終本会議において、日本共産党、社民・社大・結、会派おきなわの与党提出の「非核三原則の堅持と核兵器持ち込み疑惑の解明に関する意見書」が、野党である、自民党、公明党、維新の会を含め全会一致で可決されました。

日本政府に核兵器禁止条約への調印・批准を求める意見書は76日現在、37都道府県の290自治体議会で採択されており、県議会レベルでは、岩手、長野、三重が賛成多数で採択。4番目の沖縄は、初の全会一致となりました。

2018年原水爆禁止国民平和大行進 「原爆の残り火」分灯式 福島から栃木へ

【兵庫】県被団協が県知事はじめ23市長11町長の顔写真入り「ヒバクシャ国際署名」意見広告ポスターを作製

記者会見後の岡邉理事長(右)と鹿島孝治副理事長

兵庫県被団協の岡邉好子理事長らは7月2日、県庁記者クラブで記者会見をおこない、「ヒバクシャ国際署名」賛同首長の顔写真入り意見広告ポスターを作製したこと、兵庫県知事はじめ23市長11町長が賛同し、県知事、神戸市、川西市、三田市、宝塚市、伊丹市、尼崎市、西宮市、芦屋市、篠山市、丹波市、淡路市、神河町、市川町、福崎町の市長町長が顔写真を掲載して「ヒバクシャ国際署名」の賛同を広く県民に呼びかけていることなどを紹介しました。

県被団協役員は会見後、県原水協の手配した車で県内諸団体へ報告、要請に訪れました。これを力に署名の推進をはかります。

意見広告ポスター

非核・平和外交への抜本的転換を! 日本政府への申し入れで厳しく追及

日本原水協は6月27日、日本政府に対して「核兵器のない世界、日本の平和と安全のために 日本国憲法を守り、非核・平和外交への抜本的転換を求める」申し入れをおこないました(申し入れ全文)。

日本原水協から、安井正和事務局長、高草木博代表理事、土田弥生事務局次長、梶原渉担当常任理事、非核の政府を求める会の野口邦和常任世話人、全国労働組合総連合の長尾ゆり副議長、新日本婦人の会中央本部の油原通江中央常任委員、日本自治体労働組合総連合の小泉治中央執行委員、日本平和委員会の千坂純事務局長の9人が参加しました。外務省軍備管理軍縮課の今西靖治課長が応対しました。

冒頭、安井日本原水協事務局長が申し入れ書を読み上げて、今西課長に手交しました。その後の質疑応答と意見交換では、核使用を前提とするアメリカの「核の傘」に固執し続ける日本政府の外交・安全保障政策について、参加者は「国民の平和と安全は核兵器の力では守れない」「ヒロシマとナガサキの体験をした被爆国は憲法どおりに紛争の平和的・外交的解決の立場に立つべき」と被爆国の草の根の声をつきつけました。申し入れの意義が改めて浮き彫りになったやりとりでした。

【富山】2018年原水爆禁止国民平和大行進が石川に引き継ぐ

石川県への引き継ぎ集会で挨拶する米山幸子さん

富山県実行委員会の小池勝彦さんが6月16日、石川県実行委員会との引き継ぎ集会で報告した内容は次の通りです。

石川県の「国民平和大行進」のみなさん、こんにちは!

「国民平和大行進」富山県実行委員会から、2018年原水爆禁止国民平和大行進「富山→広島コース」の「県内行進」のあらましを報告致します。

富山県内行進は、6月7日の朝、富山県の東の町、朝日町役場前を出発しまして、入善町、黒部市、魚津市、滑川市、富山市、射水市、高岡市、小矢部市の九市町を経て、先ほど、県境の倶利伽羅に到着しました。これが「幹線コース」です。

そして、9日から12日にかけての5つの「支線コース」で、立山町、上市町、舟橋村南砺市、砺波市、氷見市の6市町村を「幹線コース」と結び、いわゆる「網の目平和行進」をしてきました。

この「県内行進」に、富山県被爆者協議会から「激励メッセージ」をいただき、身を引き締めて平和行進を進めてきました。そのメッセージには、「被爆者会員の高齢化等により、今年4月から被爆2世、3世に、会の運営が委ねられることになり、貴団体をはじめとした諸団体との連携を密にして、被爆者援護と被爆2世等による語り継ぎ運動の推進に努めて参りたい」と述べられていたからです。 

さて、富山の「幹線コース」、朝日町から小矢部市のコースの行進参加者数や沿道での署名、募金の集まり状況ですが、

行進参加者は、合計約500人

「ヒバクシャ国際署名」数は、550筆

沿道で集めた募金額は、約8万5千円

でした。

また、自治体からの激励金(17万2千円)やペナントの寄託状況等は、例年並みでした。なお、「支線コース」の集約が未完なのでそれについては控えさせてもらいます。

平和行進をしながら、嬉しく思ったことなどを幾つか述べます。

沿道での署名・募金行動で、初日、朝日町のお寺さんで「ヒバクシャ国際署名」に添えて、何と1万円をお寄せいただきました。

また、宣伝カーの訴えに、富山市のある喫茶店店主が、通し行進者に2千円の募金をお寄せ下さいました。毎年のことですが。

黒部市郊外を行進している時に、小学1年生でしょうか、女の子と男の子が丁寧にお辞儀をして、行進団を見送ってくれました。

さらに、朝日町からの第1日目の行進に、石川県白山市の年配の女性が(「悪魔の飽食」の合唱団員とのことでしたが)朝から夕方まで「飛び入り参加」をしてくれました。

これらは、私の見聞したことだけですので、もっと他にもドラマチックなことがあったと思います。

富山市の真国寺境内にある「ふりそでの少女」の1人、大島史子ちゃんの墓碑へ、通し行進者の米山幸子さんにお参りいただいたことも良かったと思います。米山さん、いろいろと有難うございました。どうぞお身体に気を付けて広島へと歩を進めて下さい。

石川県の皆さん、今後宜しくお願いします。

【2018年原水爆禁止国民平和大行進】北海道→東京コース(太平洋)通し行進者:山内金久日誌 5/4-6/15

5月4日、札幌の夜明けは早く4時前に東の空は明るい!昨日の国民平和大行進北海道通し行進者打ち合わせ会では今年の平和行進の意義や道内の情勢、各自治体の対応の状況、そして各自の自己紹介等の後、恒例の揃っての記念撮影。道被爆者協会会長はじめコープ札幌会長、前札幌市長、元北大総長、JA道中央会長、高遠菜穂子さん等北海道民の会の呼びかけ人のポスターも撮影。

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【2018年原水爆禁止国民平和大行進】北海道→東京コース(内陸)通し行進者:栖原秀夫日誌 5/3-6/11

5月3日、嵐のような天候に飛行機が飛ぶか不安を感じつつ出発。羽田に着いたら、空には明るい白い雲が流れていた。少し飛行機が遅れ、飛び立つ時と千歳に降りる時に揺れたが、無事に北海道に着いた。余談だが、札幌までの電車や札幌の地下鉄でSuicaが使えるのに感激した。

北海道原水協は北区のどろんこクラブの2階にあった。嶋田千津子事務局長と日本海コース通し行進者の山口逸郎さんと県内通し行進の小川さんがすでに来ていた。後から太平洋コース通し行進者の山内金久さんが来た。山内さんとは初対面だった。事務所で県内通し行進の平岡さんと北海道実行委員会の石岡委員長と打ち合わせをした。

終了後、恒例とのことだが、どろんこクラブの入口前で集合写真を撮った。打ち合わせの緊張で、私は笑顔で写ることに精一杯で、私の携帯で写真撮るのを忘れていた。

その後、サッポロビールの赤レンガ倉庫跡で会食。山口さん、山内さん、小川さん、平岡さん、皆さんの輝かしい活動の話を聞き、恥ずかしくなった。4日は山口さんと釧路に移動する。山口さんのお話が聞けるのが楽しみ。早く寝る。

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