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原水協通信

毎月発行している日本原水協の機関誌です。国内外の反核平和運動についての情報が満載です。 日本原水協のウェブサイト→ http://www.antiatom.org/

「核兵器の全面禁止を!」

私を「被爆者」と認定してください

原爆症認定近畿訴訟原告のひとり、川崎紀嘉(きよし)さん(岸和田市在住、81歳)が26日、閉塞性動脈硬化症、糖尿病、心筋梗塞などの合併症で亡くなられました。
2004年3月19日、川崎さんが大阪地裁で陳述した内容を紹介します。
見出しは、岸和田原水協・川崎隆さん。


19歳で入隊
 私は、昭和20年4月20日、広島県宇品町7丁目陸軍船舶練習部教導連隊4中隊へ19歳の時、入隊しました。
 3ヶ月の教育の後、7月初旬より広島県賀茂郡竹原町の国民学校の校舎に分遣隊として任務につきました。
8月6日、遠くの空でピカリ
 8月6日の朝、校庭での点呼中、広島市方面の空がピカリと光りました。皆、「あれは何の光だろうか」と言い、一瞬ザワザワとしました。私も目を凝らして見ましたが、遠くてわかりませんでした。結局、そのまま夕方まで作業をしました。
隊長の命で広島市へ救助に
 翌朝7日に、「朝食後すぐに広島へ戻る」と、隊長より話があり、広島市がメチャメチャになっていることを知りました。
 竹原駅まで至急向かい、汽車に乗ったのですが、広島駅の500m手前で降りることになりました。駅が崩壊されていた為でした。
焼け焦げた遺体、内臓も飛び出す
 40分ほど歩いたと思うのですが、その間、家という家は見当たらず、真っ黒に焼けていたり、吹き飛ばされているものもありました。
 ビルの残骸は無残な形で残っていましたが、窓は吹き飛び、ガラスが散乱していました。遺体もあちらこちらにありましたが、真っ黒に焼け焦げており、まだ煙がくすぶっているものも多数ありました。手足はちぎれ、首と胴体もバラバラになっていたり、内臓が飛び出しているものもあり、思わず目をそむけることも何度かありました。人の焼ける臭いもし、「大変なところに来た」と思いました。
「どこにいる?」「紙屋町だ」
 電車が停まっていましたが、真っ黒に焼けていて、中に多数の遺体があると思われました。電車通りでは、馬がひっくり返って死んでいました。そこが「一体どこなのか?」と思った私は、一緒にいた仲間に場所を尋ねました。彼は、「紙屋町だ」と、教えてくれました。
爆心地に近い紙屋町のビルで寝泊り
 昼前、ようやく宇品の部隊に到着。午後3時頃にそこを出発し、4時半頃、作業現場へ到着しました。午前中に通ってきた紙屋町でした。
 この日の晩より付近のビルの焼け跡で寝泊りすることになったのですが、焼け焦げた臭いが強烈でたまりませんでした。
触れるとズルズル皮が剥ける遺体
 8日から作業を開始したのですが、最初、遺体を運ぶのに難儀しました。
 遺体に触れると皮膚が焼け爛れているのでズルズルとして皮が剥けてすべるのです。髪の毛もズリ落ちたようになっていて、鼻や口の判別もできないくらいのものもありました。無数の、無残な遺体と焼けた家の残骸、その中を肉親を捜し求める人を何人か見ました。火傷を負った人も多数見かけましたが、赤チンを塗り、ガーゼを当てるだけの手当てでした。
 救援所には火傷の薬はなかったのです。うずくまって痛みにうめく人。「水をくれ」と言う人。様々でした。
遺体に触れた手でおむすび
 午前9時半頃、おむすびと沢庵が届き、破れた水道菅から吹き出る水で手を洗い、それらを食べました。手を洗ったとはいえ、素手で遺体に触れていましたので、そのとるのはあまり手で食事を気持ちの良いものではありませんでした。
あちこちで遺体を焼く火
 その後、引き続き遺体を運びました。そして、35~40体を1回につきまとめて焼きました。焼け跡から材木を集めてきて、それを碁盤目に組み、3段に重ねたら遺体を乗せ、トタンをかぶせて石油をかけて焼きました。それを何度も繰り返しました。あちこちで遺体を焼く火があがっていました。
宿舎に集まる負傷した人たち
 作業を終え、昨夜のビルに帰りましたが、1階はケガをした人や火傷をした人たちが50人ちかく集まって寝ていました。痛みの為、うめいていました。私たちはやむを得ず2階へ行き、ガラス等を片付け、休めるようにしました。
 翌日、1階の人たちのうち多数が死亡しており、私たちは遺体を運び出しました。20人近くだったと思います。ビル1階での作業の後、昨日の現場付近にて再び作業をしましたが、晩になってビルに戻ると、また1階は人でいっぱいになっていました。
 傷口から臭いが強烈にしました。手当てといえば、やはり赤チンのみで、目、鼻、口以外はガーゼに覆われていましたので、男女の区別はできませんでした。髪もチリチリに焼け焦げていました。
「父の遺体も焼いて」と娘が
 8月10日頃、40歳前後の女性が我々のところに来て、「1キロほど先で父親が家の下敷きとなって亡くなったのだが、遺体を防空壕に埋めているので、皆と一緒に焼いてほしい」と言いました。仲間5人と掘り出して皆と一緒に焼くことにしました。そこへ娘さんが来て、「父の髪の毛を切ってほしい」と言うので、死体の中を歩いていき、鋏を取ってきました。切ろうと髪の毛を持ったのですが、力が入りすぎたのか、ズボリと頭皮が抜けました。娘さんに渡すと、大変喜んでくれたのを覚えています。
胎児が飛び出した妊婦も
 又、その際、妊婦の遺体も見ました。お腹が裂けて胎児が飛び出していましたので、二人一緒にして焼きました。
耐えがたい臭い川での遺体回収
 8月11日、早朝より大田川支流での遺体捜索の命令。
 川には遺体がプカプカ浮いていたが、皆、全くと言っていいほど衣服は身につけておらず、火傷のため水ぶくれとなり、川の水で膨れ上がって、すごいことになっていました。焼け焦げたものはゴリラのようでした。干潮になると、それらは打ち上げられました。
 ここでも遺体を運ぶのが大変でした。遺体はズルズルで、水を含んでいるため、とても重く、臭いも耐えがたいものでした。あまりに臭いがひどいので、タオルを鼻の辺りでしばって臭いを防ぎました。先のとがったトビ口で遺体を引っ掛け、かき集めるようにしてトタン板と木等で担架を作り、乗せました。遺体を運ぶ際、風下の方を担ぐと特に臭いがひどかったです。
 かなりの遺体をここでも焼きましたが、作業は干潮時しか行いませんでしたので、全部は集めることはできず、たくさんの人が結局そのまま流されたり、川底へ沈んでいったと思います。
 水場を求めて川へやってきた人たちも多数いましたが、やはり皆、ひどいケガをしていました。
「兵隊さん、お水ちょうだい」
 3時頃、大体作業を終えたので、道路に出てみると、女の人が3人かたまって寝ていました。様子を見に行くと、ほとんど息はありませんでしたが、そのうち、1人の12~13歳の女の子が「兵隊さん、お水ちょうだい」と、言いました。落ちていた茶碗のかけらで飲ませてやると、喉がゴロゴロと音を立てました。その直後、3人とも死んでしまいました。
突然、激しい下痢が続く
 その後、宇品の部隊に戻り、数日後、船で竹原町へ帰りました。
 竹原町に帰った頃から激しい下痢に見舞われ、部屋とトイレを「行きつ戻りつ」の繰り返し、次第に体力が衰えていきました。この下痢は、この後、2週間ほど続きました。
上司や仲間が原因不明で死んでゆく
 その後、終戦を迎えた8月末頃であったが、私の作業した現場で指示を出していた上司が突然髪が抜け出したかと思うと、その後、死亡しました。原因は不明でした。それ以外にも髪が抜けたり、下痢をする者が続々と増え、苦しんでいました。
 この上司以外にも原因不明で死亡する仲間が出て、私も「次は自分が死ぬのではないか」と思うことはありました。しかし、これが放射線の為だとは誰一人として知りませんでした。
終戦後も下痢、貧血症、白血球減少
 9月10日、汽車で九州の親元へ帰ったが、広島での出来事はあまりにも悲惨で、話すことはできなかった。
 九州へ帰ってからも、度々、原因不明の下痢を起こしました。
 昭和23年、原因不明の下痢がどうしても止まらない為、1ヶ月以上病院で治療しましたが、いくら調べても原因は不明でした。
 昭和30年頃、貧血症であることが判明。投薬治療をするが、改善せず。
 昭和32年、白血球減少症との診断。治療を開始。
被爆も原因の一つと考えられる
 昭和57年、糖尿病と診断される。後に耳原鳳病院の安賀院長より「被爆も原因の一つと考えられる」と聞かされました。
 昭和62年から4年ほど死の一歩手前まで行くことがありましたが、何とか助かりました。
糖尿病悪化で足切断手術も覚悟
 現在、糖尿病のほうは益々悪化し、インシュリンを日に4回投与。その合併症で閉塞性動脈硬化症があり、度々、足の血管が突然詰まり、その都度手術。年に4~5回はあります。次第に血管がボロボロになってきており、手術も困難になってきていますので、いつ足を切断することになるのかと思うと、不安です。
原爆投下以前には全くなかった
 平成11年10月、歩行困難で、障害者手帳3級に認定されました。また、以前判明した白血球減少症も依然続いている為、こちらも治療中です。下痢に関しては、やはり頻繁に起こっており、その都度検査するのですが、いまだ原因不明です。一旦、下痢を起こすと、何週間も続き、寝ている間にも知らぬ間に下痢をしていることもあります。
 このような症状は、原爆投下以前には全くありませんでした。原爆の後遺症として原因不明の下痢を起こすと、よく聞きますが、私に関してもそうではなかろうかと思っております。
直接被爆ではないが浴びた量は同程度
 私自身、直接被爆ではないですが、落ちた翌朝より広島市へ入り、投下の中心地付近で連日にわたり滞在し、作業をしたのであり、原爆投下当日、そこにいて被爆した人と比較して、負傷具合は違うにせよ、放射線を浴びた量は、同程度に等しいと思います。
 放射線をたっぷりと浴び死亡した人々の遺体も、何十体と素手で触りました。放射線の恐ろしさを知っていたのなら、何ヵ月も、何年も広島へは近づかなかったと思います。
私を被爆者として認定してください
 その様な恐ろしい経験をしてきたからこそ、原爆症認定を願うのです。
 現時点では、1次被爆、2次被曝(ママ・注1)ということで認定・非認定と判断されていますが、私の経験からいってこの判断基準で決定するのは納得できません。
 どうか、この事実を十分に理解し、ご判断をいただきたいと切に願っております。
 何とぞ、よろしくお願い申し上げます。
 平成16年3月19日
 川崎紀嘉(きよし)
大正15年2月11日生(現在78歳)
(ママ・注1)
 被爆者援護法は、第1条で次のどれかに該当し、被爆者健康手帳を受けた人を「被爆者」と定めています。
① 直接被爆者(法1条1号)
② 入市被爆者(同2号)
③ ①・②のほか死体処理・救護従事者(同3号)
④ ①・②・③に該当する人の、当時胎児であった人(同4号)
以上の分類で「1号被爆者」「2号被爆者」などと呼ばれています。

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