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【広島】県災対連のメンバーと一緒に坂町の仮設住宅にちひろカレンダーを届ける

12月8日に県災対連が行った2回目の坂町の仮設住宅訪問行動に、神部県労連議長など県災対連の5人とともに原水協から私(古田)が参加しました。

11月23日以来、2度目の訪問となるこの日は、この冬一番の冷え込みとなり、2人ずつ3組に分かれて「ちひろカレンダー」、お米、トイレットペーパー、ティシュ—ペーパーなどをセットした袋を渡しながら訪問しました。あまりに寒いため、玄関先での長話はできませんでしたが、どのお宅でも「ちひろカレンダー」は大変喜んでくださいました。小学生2人の子どものいるお母さんは、「仮設は狭いので子どもたちが—-」とおっしゃっていました。

仮設住宅訪問をすませた後、もっとも被害のひどかった小屋浦地域へ移動して訪問しました。家を修理中の方もおられましたが、大半が家の中に土砂が入ったなどで避難したままの方が多く、写真のようにほとんど手つかずの状態でした。

2時間余りの行動で、40軒を訪問できましたが、元の状態に戻るにはまだまだ時間がかかります。もうここへは戻らない、という方もいらっしゃいます。

(広島県原水協事務局長・古田文和)

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【広島】冷たい雨の中、今年最後の6・9行動 新しい「募金箱」も活用して被爆者援護・連帯募金も呼びかけ

広島県原水協は12月6日、冷たい雨の中、広島市内の金座街で今年最後の6・9行動を行いました。新しい「募金箱」も活用し、被爆者援護・連帯募金も呼びかけました。

神部・高橋両代表理事がハンドマイクで、今年最後の金座街での署名行動であることや、募金は年末の被爆者へのお見舞に使われることなどを訴えました。行動には13人が参加し、30分で28人分の「ヒバクシャ国際署名」、550円のカンパが寄せられました。いつもより人通りが少なかったのが残念です。

(広島県原水協事務局長・古田文和)

【広島】ヒバクシャ国際署名県推進連絡会が平和公園入口の元安橋で署名行動

ヒバクシャ国際署名広島県推進連絡会による「ヒバクシャ国際署名」が11月20日、12時半から13時まで、平和公園入口の元安橋で行われました。

15団体から31人が参加し、310人分の署名が寄せられました。

最初に二つの県被団協の佐久間理事長、箕牧理事長がそれぞれ挨拶し、観光客や市民に広くアピールして署名を集め、核兵器廃絶の世論を大きくしようと訴えました。

広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)の吉岡幸雄副理事長は、外国人観光客に足のケロイドを示して、原爆被害のすさまじさを強調していました。

足のケロイドを見せて原爆の被害を説明する吉岡副理事長

また、滋賀県大津市から来た修学旅行の小学生が、集団で署名してくれました。

(広島県原水協事務局長・古田文和)

【広島】元安橋で米臨界前核実験に抗議しながら「ヒバクシャ国際署名」行動 30人のイタリア人観光客団体のほとんど全員が署名

広島県原水協は10月13日、元安橋で米臨界前核実験に抗議しながら「ヒバクシャ国際署名」を行いました。

県原水協・被団協・新婦人などからおよそ30人が参加しました。

イタリアのトリノから来た30人ほどの団体にガイドさんがよく説明してくれたことで、ほとんど全員が署名してくれました。

行動の最後に、原爆ドームをバックにして「米の臨界前核実験に断固抗議!」と書いた紙を掲げアピール。外国人観光客が「何事か」と写真に収めていました。

45分間の行動で、272人分の署名が寄せられました。

(広島県原水協事務局長・古田文和)

【広島】両親とも被爆者の被爆2世が不安な胸の内を語る

広島県原水協は10月9日、市内で6・9行動を行いました。6日が台風接近のため、急遽変更して実施したものです。11人が参加して、35人分の「ヒバクシャ国際署名」が寄せられました。

両親とも被爆者という女性は、「父親が中学生のときに動員で市役所にいて被爆。袋町小学校で治療を受けている様子が写真に撮られ、資料館にその写真が展示されている」と話しました。父親は74歳でがんのため亡くなり、母親も最近がんで亡くなったということで、「被爆2世の自分には何の医療的支援もなく、とても不安だ」と語っていました。

(広島県原水協事務局長・古田文和)

【広島】県内各地で核兵器廃絶国際デーに呼応して「ヒバクシャ国際署名」行動

広島県原水協は9月26日、八丁堀交差点で核兵器廃絶デーに呼応した「ヒバクシャ国際署名」宣伝行動を行い13人が参加、30分で署名39人分、カンパ400円が寄せられました。

神部泰、高橋信雄両県原水協代表理事がハンドマイクで、今日が核兵器廃絶国際デ—であることや、核兵器禁止条約の署名国・批准国が徐々に増えていることを説明し、一日も早い発効へ世論を盛り上げようと訴えました。

60代の女性は、以前呉市で労働組合の活動をしており、その頃のことを思い出す、と署名し、カンパもしてくださいました。市民の反応がいまいちだったのは、広島カープが優勝目前で足踏みしているせいでしょうか?(笑)

また、福山市原水協は22日(土)、福山駅前で原爆パネルを並べて「ヒバクシャ国際署名」をよびかけ、9人が参加して、1時間で72人分の署名が寄せられました。写真を並べたことで、ビラをゆっくり読む人や「ヤバい」と声を上げる高校生など、これまでに反応がありました。

さらに、呉市原水協は19日、呉駅前で5人が参加して「ヒバクシャ国際署名」を行い、40分間で39人分が寄せられました。

(広島県原水協事務局長・古田文和)

【広島】県原水協・被団協が原爆ドーム前と元安橋で核兵器禁止条約調印・批准開始1周年の記念集会と「ヒバクシャ国際署名」行動

広島県原水協と同県被団協は9月15日10時から、核兵器禁止条約調印・批准開始1周年の記念集会と「ヒバクシャ国際署名」行動を原爆ドーム前と元安橋で行いました。

断続的に降り続いていた雨が、開始30分ほど前から止み、開始後は薄陽も照るようになりました。

集会では、広島県被団協の佐久間理事長、新日本婦人の会県本部の森会長、民主青年同盟広島県委員会の弘中県委員長が、それぞれ「ヒバクシャ国際署名」の目標達成へ向けて決意表明。拍手で「アピール」を採択しました。集会の最後に、原爆ドームをバックに「核兵器禁止条約の早期発効を!」と書いた紙を参加者全員で掲げるパフォーマンスを行いました。 その後、元安橋へ移動し、約30分間「ヒバクシャ国際署名」を集めました。

集会には70人、署名行動には36人が参加、「ヒバクシャ国際署名」は106人分が寄せられました。被爆者の吉岡幸雄さんは、2人連れの外国人に足のケロイドを示しながら、原爆による熱線の影響などを懸命に説明しつつ、署名への協力を訴えていました。

マスコミは、NHK、広島ホームテレビ、「朝日新聞」、「産経新聞」が取材しました。

(広島県原水協事務局長・古田文和)

【「原水爆禁止2018年世界大会の記録」9/1発刊 】協同の力で核兵器禁止条約の早期発効・廃絶実現を!

クリックすると申込書(PDF)がダウンロードできます

被爆73年を迎えた8月2日から9日まで広島と長崎で開催された原水爆禁止2018年世界大会には海外22か国91人をはじめ、広島大会に6000人、長崎大会に1500人の代表が参加し、核兵器禁止条約の早期発効から廃絶を実現する決意を新たにしました。

昨年7月7日に国連で採択された核兵器禁止条約は8月24日現在、調印60か国・批准14か国です。世界は超大国の力による支配から、平和でより公正な秩序を望む圧倒的多数の政府が市民社会の運動と力を合わせて未来を切り開く新しい時代へと変化する中で開かれました。

核兵器禁止条約の交渉で中心的な役割を果たしたアイルランドとオーストリアの政府代表が大会に参加され、フォーラム「核兵器禁止・廃絶へ、政府とNGOの対話」で発言された内容の全文を読むことができます。

また、ことしの大会は、南北首脳会談、米朝首脳会談と、北東アジアにおける核兵器と軍事対立の危険から、非核と平和体制の構築への大きな変化が生まれる中で韓国から被爆者の皆さんを含め、たくさんの代表が参加しました。韓国・参与連帯の代表の国際会議の発言から最新の情勢を知り、日本が果たすべき役割を考えることができるでしょう。

話題になった開会総会での戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会共同代表の福山真劫さんの連帯あいさつや、辺野古に新基地を造らせないという決意を語ったオール沖縄会議事務局長の山本隆司さんのスピーチも全文収録。「ヒバクシャ国際署名」の協同へのヒントもたっぷり詰まって秋の行動から今後1年間の原水爆禁止運動にとって必携の1冊です。学習会などで大いにご活用ください。

●原水爆禁止2018年世界大会の記録 (B5版 182ページ) 頒価 1,500円(送料込) 編集・発行 原水爆禁止世界大会実行委員会

ご注文は、あなたの街の原水協へ

【問合先】 原水爆禁止日本協議会(日本原水協) 〒113-8464 東京都文京区湯島2-4-4 平和と労働センター6階 Tel:03-5842-6031 Fax:03-5842-6033 E-mail : antiatom55☆hotmail.com (メール送信時、☆を@に変えてください。)

【証言】「私の被爆体験」松本秀子さん(広島被爆)

証言する松本秀子さん(2016年8月6日、広島)

私の被爆体験 松本秀子

私は昭和20年の8月6日まで(人類最初の核爆弾が投下された日)広島市材木町に10人家族で住んでいました。その材木町は今の平和記念公園の中心あたりにありました。今は材木町という町名すら残っていませんが、そこにはひと抱えほどの自然石に【材木町跡】と刻まれた石碑が説明板と並べて建てられています。

最近でも時折「原爆が落ちたのが誰も住んでいない公園でよかったね」という声を耳にします。とんでもないです。今でこそ広い静かな公園になっていますが、広島で一番にぎやかな場所で、大きな商店が軒を並べ、たくさんの人が暮らす繁華街だったのです。そこへ原爆が投下され、中島地区一帯は廃墟と化したのです。そして復興の過程でこの広い祈りの場ができたのです。

爆心地から1㎞圏内には、南に広島県庁があり、北に広島城が高くそびえ、広島は日清戦争の頃には大本営が置かれる軍都だったのです。

昭和20年頃にはアメリカ軍の空襲を受けるようになりました。

空襲火災の延焼を防ぐため、建物強制疎開が急ピッチで行われ、その後片づけに市内中の中学生男女1、2年生全員と、近郊の人達も動員されて作業にとりかかろうとしたその時・・・。

私はいつものように朝7時頃、母の作ってくれたお弁当を持って「行ってきまーす!」と家から3㎞南の翠町にある女学校へ行きました。これが家族との今生の別れになるとも知らず、校舎の2階で友達とお話をしていました。

すると、突然、本当に突然、何の前触れもなく、世の中がオレンジ色に包まれ、とっさに机の下にもぐり込みました。それから静寂の5〜6秒、今のうちにと立ち上がった瞬間、ものすごい爆風と爆圧に圧迫され、粉々になったガラスを右側面の顔、肩、腕に受け、血を流しながら校庭の防空壕まで走り込みました。

そのあと、何の動きもなく、学校からの指示もなく「市街地が大変なことになっている」との情報があり、家に帰ることにしました。お昼頃、御幸橋の上には今のものすごい閃光に身を焼かれ、火煙の中から逃れて来た人達が倒れ込み、座り込む人、髪は逆立ち、皮膚は引き裂かれて垂れ下がり、次から次へと足を引きずりながら避難して来る人、人、人。どうしてあげることもできず、声も出ません。地獄でもこれ程ではないであろう程の惨状です。

この人達はつい先程まで、セーラー服姿の可愛い少女や、ゲートル姿の凛々しい男子中学生でした。やがて軍隊のトラックで江田島や、鉄輪島に収容されたようです。

その日は我が家には帰れず、大混雑の中、材木町の近所のおばさんのご実家に誘われてお世話になりました。その晩、広島が燃える真っ赤な夜空に誰も一睡もせず、翌7日早朝我が家を目指すも、まだまだ火が残っていて入れず、8日やっとあの我が家が・・・あの材木町が・・・見渡す限りの地球が私の足下に崩れ落ち、どことも知らない荒野にひとりポツンと立っている感覚、そのうち体が小刻みに震え、だんだん大きくなり、泣いていました。その声はまわりの不気味な静寂の中に吸い込まれていきました。

ようやく変わり果てた我が家に入りました。我が家の玄関と台所辺りにきれいな白骨が2体ありました。「ああ、お母ちゃんだろうか?」・・・「お姉ちゃんだろうか?」・・・見覚えのあるお茶の缶に拾いました。カラカラと鳴りました。

我が家の周りには炭のように変わり果てた、4〜5体の物体が・・・「これは弟の衛君ではないか」・・・「妹の記子ちゃんでは?」・・・と思いましたが、私はどうすることもできませんでした。

放心状態で歩いていると爆圧で両目が2〜3㎝も飛び出した遺体にもあいました。炭化したお母さんとまだへその緒でつながった赤ちゃん親子の遺体に思わず手を合わせました。南無阿弥陀仏。

空襲火災の延焼を防ぐため防火帯をつくろうと、建物疎開の後片付けに動員されたまだ12、3歳の男女中学生が、火傷の体を必死で支えながら親の迎えを待っていました。中にはすでに命尽きた人も・・・。

惨いことに土橋辺りでは、たくさんの亡くなった人を兵隊さんが1か所に積み上げて荼毘にふしておられました。

私の同級生もお父様や、可愛がっていた弟さんを自分の手で荼毘にふしましたと、同窓会の時に話しておられました(その時彼女らは15歳の子どもでした)。

9日朝早く町の要所に書き出してある救護者名簿のおかげで父と鉄輪島で会う事ができました。父は中広町辺りの知人の家で建物の下敷きになりましたが、幸い大きな外傷はなく目を痛めていました。

鉄輪島にも大けがや火傷をした男女学生さんが、バラックの兵舎に収容されて看護を受けていましたが、次々に亡くなっていき、肉親の声をひと目、ひと声聞くこともなく裏の山に葬られていきました。

その間にも、空襲警報のサイレンに身を潜めながらの生活です。鉄輪島で二晩お世話になり、音戸へ行くべく市内を歩いていましたら、天満川のほとりで妹の喜久ちゃんの服の切れ端が私の目に留まりました。母の着物を仕立て直して私とお揃いを作ったのです。

あの日の朝、13歳の妹は土橋へ疎開の後片付けに行くと言っていました。閃光を浴びてくすぶる服を脱ぎ捨てながら天満川に入って行ったのでしょうか。7日の日に私はあのそばを通ったのに、見つけてあげることができませんでした。胸が痛みます。一生忘れることはできません。

17歳の姉は当時流川に在った「中国新聞」本社に勤めていましたが、消息もわかりません。母はあの時、家の下敷きになりながらも、とっさに私達子どもを両手に抱きかかえてくれたのだと思います。今も平和公園の下には、たくさんのお骨や暮らしていた街が埋まっています。2〜3年前、若い女性が「この辺りはそっと歩いてほしい」と静かな祈るような口調でインタビューに答えておられました。

慰霊碑の北西に直径10m位の丸い土まんじゅう形の原爆犠牲者供養塔があります。ここには国籍、宗教を問わず、約7万人のお骨と慈母観音像が納められています。私の家族、当時40歳の母、17歳の姉、13歳の妹、小学1年生になったばかりの元気な弟勉君6歳、4歳の妹記子ちゃん、2歳の弟衛君もこの供養塔に納められています。私にとって大切なお墓です。材木町に来たら必ずお参りに来ます。父と私は音戸に行き、疎開していた弟妹達も音戸で親戚のご好意で生きてきました。

父は、妻と子どもの6人と生活の基盤一切を一度に奪われ、その上、ひどい原爆症に痛めつけられ、髪の毛は抜け落ち、体中パンパンに腫れ上がり、口中の肉は溶け、歯は勿論のこと上顎の骨まで溶け落ちてしまいました。それを見てみんなで放射能の恐ろしさに震え上りました。42歳の壮年の父がいっぺんに100歳のおじいさんに変貌してしまいました。原爆症に痛めつけられ、その上がんを併発して父は58歳の若さで亡くなりました。

この戦争は何のための戦争だったのか?あの恐ろしい原爆は何をするための爆弾だったのか?犠牲になった人達に、お父さんに、お姉ちゃんに、妹達に何と報告すればいいですか。もうすぐみんなに逢いますけど・・・。

私は広島に行くのがイヤでした。当分行けませんでした。我が家を土足で踏みにじられているような気がして、今でも数字の8と6が並んでいるのを見ると体が緊張します。でも今は年齢も重ね、歌の好きな私は素晴らしい先生のご指導のもと、お仲間と一緒にコーラスを楽しんでいます。これも平和な世であればこそです。

戦争のない、核兵器のない世の中を願って世界中からこの広島に大勢の人が集います。この願いがあの人と、この人とハイタッチでつなげられたら素晴らしいと思います。つなげましょう。

「ピカドンが落ちたら 昼が夜になり 人がお化けになる」

被爆間もない頃、「中国新聞」に掲載されていた児童の句です。

原爆資料館の東側記念館に原爆投下直後の様子を被爆者が描いた絵が展示されています。シリーズごとに入れ替え展示されます。是非ご覧ください。

【広島】困難の中で市民が後押し原爆展、平和行進、原水爆禁止2018年世界大会へ

東広島市ホームページより

7月19日、日本原水協の安井正和事務局長と広島県原水協の古田文和事務局長は、県下で大きな被害を受けた東広島市を訪ね、東広島原水協を見舞いました。

防災放送からFMラジオに避難指示届かず

連日35度を超える猛暑の中、東広島原水協事務局の綿岡夫妻、理事の岩城夫妻に会うことができました。世界大会実行委員会の「アピール」を渡して、豪雨被害の実情を聞きました。

東広島市では市内を流れる黒瀬川の氾濫により、死者12人、行方不明1人、全壊・半壊家屋60棟、床上浸水111家屋、土砂災害か所39件(7月19日現在、広島県ホームページ)という大きな被害が出ています。

綿岡さん夫妻は、「あと1時間降り続けたら、自宅も被災していた」と語り、被害拡大の要因の一つに、広域合併により防災放送が廃止され、防災ラジオ(FM放送)で避難勧告を聞く以外ないこと。防災ラジオは外に持ち出して聞くことができず、しかも半数以下の家庭(世帯総数8万)にしか設置されていないことなど、危機管理上の大きな問題があったことが指摘されました。被害地(者)への支援も市内のボランティアに託されており、今後の支援を強めてほしいとの要望が出されました。

原爆展に多くの市民が来場 世界大会にはワゴン車で

世界大会にむけた活動では、豪雨災害という困難な中でも市民の後押しを受けて奮闘しています。

東広島原水協は7月はじめから、市内5か所での「原爆展」を計画。最初の開催日である7月6日は集中豪雨と重なり、中止しようとしましたが、会場(黒瀬生涯学習センター)に市民が集まってきたこともあり、大雨洪水特別警報が出された7日午前中は中止したものの、8日の17時まで「原爆展」を開催しました。2日半でのべ155人が来場し、「ヒバクシャ国際署名」28筆、カンパ9,318円が寄せられました。スーパーの閉店や品切れの中、手作りおむすびの差し入れもありました。

続けて、9日から12日まで、東広島市役所で「原爆展」を計画通り開催しました。り災証明手続きもあり、1階ロビーから10階に会場を移動しましたが、5日間でのべ208人が来場し、アンケート42人、署名59筆、カンパ2,063円が寄せられました。

ことしの「原爆展」では、「原爆と人間」展パネルとともにセツコ・サーローさんのノーベル平和賞受賞スピーチを大きな紙に毛筆で書いて展示しました。

この「原爆展」を力にして、7月末の平和行進を成功させること、世界大会には、在来線が一部不通となっていることもあり、2台のワゴン車で参加する計画です。

岩城さんは、「豪雨災害にあった人たちへの支援と連帯の大会になってほしい」と期待を述べました。

【広島】こういう時だからこそ、連帯つよめて大会の成功を 広島県被団協・佐久間邦彦理事長

佐久間理事長にお見舞い金を手渡す日本原水協の安井事務局長(右から2人目)と広島県原水協の古田事務局長(右端)=7月19日、広島市内

西日本の豪雨被害から10日余。被災地への全国的支援が強められる中、日本原水協の安井正和事務局長と広島県原水協の古田文和事務局長は、7月19日、広島市内の被爆者団体にお見舞い金を届け、県団体には原水爆禁止世界大会実行委員会の「アピール」を持参して、災害へのお見舞いと世界大会への協力を要請しました。

広島県被団協の佐久間邦彦理事長は、お見舞への感謝とともに豪雨被害について、「今回の西日本一帯を襲った豪雨被害で、幸いにも県被団協の関係者での被害は会計監査の人が床上浸水の被害に遭っただけでしたが、県内に5万人以上いる被爆者が被害にあっていないか心配しています。土砂災害の危険性がありながら対策が打てなかったところもあり、行政の問題も避けられません」と述べました。

安井事務局長から、目前に迫った原水爆禁止2018年世界大会への政府代表の参加や、大会プログラムの説明を受けた佐久間理事長は、「こういう時だからこそ、日本全国、世界が連帯を築く重要な大会となると思います。世界大会を成功させるために、ひろくよびかけていくし、そのために協力していきたいと思います」と世界大会への期待と決意を語りました。

前田事務局長(左)にお見舞い金を手渡す日本原水協の安井事務局長=7月19日、広島市内

呉の被爆者が心配

もう一つの県被団協(坪井直理事長)では、前田耕一郎事務局長にお見舞い金を渡しました。前田事務局長は、会員の被爆者の被害について、「三原に住む農家の会員は、収穫したばかりのお米の倉庫が水に漬かりました。約300人の会員のいる呉市が心配です」と、被災の現状を述べました。広島県労連を中心にした災対連(災害被災者支援と災害対策改善を求める広島県連絡会)も活動を再開して、ボランティア活動を行っていることも紹介し、支援の気持ちを伝えました。

各団体をお見舞い訪問

被爆者団体とともに、各団体を訪問。午前中に広島市内の労働者学習協議会、建交労広島県本部、うたごえ協議会などにお見舞いの訪問し、世界大会成功への協力を要請しました。

「今年の世界大会はどうなるのかと思っていた。訪問を受けて、平和行進やとうろう流しも担当しているので大会成功に力を尽くしたい」(建交労)など、世界大会成功への決意が語られました。

【広島】県原水協が6・9行動 「こういう運動は私たち自身のためになるのだから、市民が無関心ではいけませんね」と話しながら女性が署名

広島県原水協は6月6日、市内で6・9行動をおこないました。小雨が降り、梅雨入りが発表されましたが、加盟団体から22人が参加して、「ヒバクシャ国際署名」への協力を呼びかけました。

高橋・神部両代表理事、大平前衆議院議員がマイクで、南北会談での「板門店宣言」の歴史的意義や、12日予定の米朝会談が朝鮮半島と北東アジアの平和と安定へ向かう契機となることなどを訴えました。

40代の女性は「こういう運動は私たち自身のためになるのだから、市民が無関心ではいけませんね」と話し、今回の署名の経緯や、これまでも多くの署名を国連などに提出してきたことが、核兵器禁止条約成立の力になったなどと話すと、よくわかりました、と言って署名してくださいました。

約30分の行動で、57人分が寄せられました。

(広島県原水協事務局長・古田文和)

【広島 / 長崎】原水爆禁止2018年世界大会チラシ

両面チラシはこちら

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【広島】ニュージーランドから来た観光客が被爆者と記念撮影

広島県原水協と同被団協は4月6日、広島市内で6・9行動をおこないました。あいにくの雨模様でしたが意外に人通りが多くて反応も良く、外国人観光客(ニュージーランド、チリ、台湾など)がよく署名してくれました。

ニュージーランドから来た女性は、被団協の吉岡副理事長が被爆者であることがわかると、一緒に写真を撮らせてほしいと記念撮影におさまっていました。

また、70歳前後の女性は、「岡山から結婚して広島へ来た。夫が生後4か月で被爆してており、二世である子どもの健康が心配だ。夫の親やその兄弟も被爆者で、みんな病気で苦しんで死んだので、原爆は許せない。中日ファンの『原爆落ちろ』とのインターネットでの言動は、まだ苦しみがわかっていないのかと腹が立つし、悲しくなる」と語っていました。

今日の行動には、20人が参加、「ヒバクシャ国際署名」91人分とカンパ500円が寄せられました。また、前衆議院議員の大平喜信さんも参加して、マイクで訴えました。

(広島県原水協事務局長・古田文和)

 

【広島】「原爆は絶対にいけないと思う」と女子中学生が署名

広島県原水協は3月6日、広島市内で6・9行動をおこないました。

昨日までと打って変わって冷たい風が商店街を吹き抜ける日で、行動開始からしばらくは反応がなかったのですが、後半になると市民の皆さんの反応が良くなってきました。

杖をついた高齢の女性は、「街(中心部)に出てくるのは滅多にないことだから」と言いながら署名してくれました。「今から家までバスで30分はかかるよ」とおっしゃっていました。

女子中学生の2人連れも署名してくれました。うち1人は「曾祖母が被爆者で、病気で苦しみながら亡くなり、原爆は絶対にいけないと思う」と署名してくれました。

30分間で15人が参加し、「ヒバクシャ国際署名」59人分、600円のカンパが寄せられました。

市民の反応が冷たいのは、北朝鮮核問題があるのかな、と思います。

(広島県原水協事務局長・古田文和)