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反核ゼミ

1.ミクロの世界への誘い(1)
2.ミクロの世界への誘い(2)
3.ミクロの世界への誘い(3)
4.ミクロの世界への誘い(4)
5.アインシュタインの手紙 
6.英国生まれの原爆原理 
7.原爆1発分の濃縮ウラン 
8.プルトニウム原爆の可能性
9.危険なプルトニウムの製造
10.爆縮式プルトニウム原爆
11.米国の戦略に未来はない
12.原爆を手にした警察官
13.核帝国主義のルーツ
14.原爆と科学者
15.最初の原爆の投下目標

16.核政策のルーツを探る(1)
17.核政策のルーツを探る(2)
18.核政策のルーツを探る(3)
19.核政策のルーツを探る(4)
20.
原爆投下(その1)
21.
原爆投下(その2)
22. 原爆投下(その3)
23.
原爆投下(その4)
24.
原爆投下(その5)
25.原爆投下(その6)
26.原爆被害の隠ぺい(1)
27.原爆被害の隠ぺい(2)
28.原爆被害の隠ぺい(3)

 

核兵器をなくす
『反核ゼミ』14
原爆と科学者

 前回紹介した1944年9月に行われた米英首脳会談の覚書「ハイドパーク協定」は原爆を日本に投下することを記した最初の文書です。しかし、この年の前半までにルーズベルトとチャーチルは、ソ連に対する外交政策として原爆を利用することを決めていました。この方針を、大統領はマンハッタン計画を推進したレスリー・グローブス将軍に伝えていました。

ロートブラットの体験

 中性子を発見してノーベル賞を受賞したイギリスの物理学者ジェームズ・チャドウイックは、原子力問題に関するイギリス政府主席科学顧問として1943年の暮からマンハッタン計画に参加し、ロスアラモスに来ていました。チャドウイックとともにマンハッタン計画に参加していたイギリスの物理学者ジョセフ・ロートブラットは、1944年の3月に不愉快な衝撃を体験したと、次のように述べています。

「その頃、私はチャドウイックの家に住んでいた。グローブス将軍はロス・アラモスに来たとき、しばしば夕食とくつろいだおしゃべりをしに、チャドウイックのところにやってきた。その頃の会話の中で、グローブスは、『原爆を作る本当の目的はソ連を抑えることである』と言った。スターリンの体制に私はなんらの幻想も持ってはいなかったが、同盟国を裏切ることになるという思いを強くした。同盟軍にヨーロッパ大陸上陸の準備時間を与えるために、ドイツ軍を東側の最前線に釘付けにしながら、毎日何千人というロシア人が死んでいた時だった。その時まで私は、私たちの仕事はナチが勝利するのを妨げるためであると考えていたが、今は、私たちが用意している兵器は、まさにその目的のために非常な犠牲を払っている人々に対して用いられようとしていることがわかった。」

科学者の良心

 こうしたロートブラットの懸念は、彼の部屋にイギリスのBBCニュースを聞くためにやってきたボーアの影響でした。ボーアは核エネルギー発見の社会的、政治的意味について、そして彼の予測する戦後東西間の核軍拡競争の恐ろしい結果について語っていました。

 ロートブラットは、ドイツが先に原爆を作る心配がなくなった1944年のクリスマスイブにロスアラモスを離れました。彼はイギリスにもどって原爆開発から足を洗い、原子核物理学を医学に応用する研究を始めました。また、英国原子科学者協会の設立にかかわって核エネルギー利用のプラス面とマイナス面を知ってもらう啓蒙活動をしました。その過程で哲学者であり数学者でもあるバートランド・ラッセルと知り合い、1955年、核兵器廃絶を訴えた「ラッセル・アインシュタイン宣言」の署名者となりました。ロートブラットは、この宣言の呼びかけに応えて始まった「科学と世界の問題に関するパグウォッシュ会議」で中心的な役割を果たし、その功績で1995年ノーベル平和賞を受賞しました。今年の夏で95歳を迎えるロートブラットは、核兵器廃絶のため元気に世界中を飛び回っています。

原爆開発に踏み切らせたエリート科学行政官

 アメリカの歴史学者バートン・バーンスタインは、アインシュタインやレオ・シラードらが原爆の製造を大統領に進言したことを強調することは歴史を読み違えることになると言います。

 当初ルーズベルト大統領はこうした亡命科学者たちの進言を見下して形だけの資金しかあてがいませんでした。原爆の製造が原理的に可能になったという英国からの非公式情報を入手し、本格的な原爆開発に踏み切ることにルーズベルト大統領を説き伏せたのは2人のエリート科学行政官でした。一人はヴァネヴァ・ブッシュで、彼は電気技師として潜水艦探知機などの兵器開発にたずさわり、マサチューセッツ工科大学(MIT)の副学長になった人です。彼は戦争が始まることを予想してMITを離れ、研究開発事業に財政援助を与えるカーネギー研究所の会長になって、兵器開発に科学者を動員する大統領直属の国防研究委員会(ΝDRC)の設立を提唱しました。彼はその委員長になり、ついで大統領命令で発足した科学研究開発局の長官になりました。もう一人は、やはり大統領顧問となった著名な化学者でハーバード大学総長のジェームス・コナントです。彼はブッシュの後を継いでΝDRCの委員長になり、ブッシュとともに大統領も含む最高政策グループのメンバーになりました。コナントは、第一次世界大戦中に毒ガスの研究をし、「爆弾ではらわたを引き裂く方が、毒ガスで肺や皮膚を攻撃して不具者にするよりも好ましいとどうして言えるのか」と研究に参加したことを自叙伝の中で正当化しています。

原爆使用は戦争全廃に必要

    大統領顧問のブッシュとコナントは、元副学長や現職の総長という科学者として、また教育者としての重要な地位にありながら、ドイツが原爆を作っていないことがわかってからも、また原爆を投下する目標を日本に変更するにさいしても、いささかのためらいも苦悶も感じませんでした。ルーズベルトはイギリスの首相チャーチルと何度も確認したように、原爆をソ連に対する威嚇の兵器として位置付ける方針、すなわち「原爆外交」の方針を最後まで変えませんでしたが、ブッシュやコナントはこれに異を唱えることもしませんでした。それどころか、コナント総長は「原爆使用が戦争全廃の必要性に世界を目覚めさせる唯一の方法である。どんなデモンストレーションをやって見せても、恐ろしい結果を伴う実際の戦争で原爆を使用することの代替にはならない」とスチムソン陸軍長官に原爆使用を進言しました。

 さらに、このハーバード大学総長は、戦後になって、原爆投下に対する批判を抑えるために「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ人の生命が救われた」「原爆投下に代わる案を検討するよう大統領に求めたものは誰もいなかった」という「原爆神話」をつくり出す役割を担いました。

 原爆に関する見方が、同じ科学者の間で、ボーアやロートブラットのような考え方とブッシュやコナントのような考え方にどうして別れるのでしょうか。自然現象に対しても社会現象にしても、その現象を貫く真実や法則を見抜くことにエネルギーを注いでいるか、それとも研究業績を利用して自分の社会的地位の向上の方に関心が集中しているかが分かれ道になるのではないでしょうか。  

「原水協通信」2003年5月号(第711号)掲載


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