ビキニデー
【2014年3・1ビキニデー国際交流会議】
高草木博(日本原水協代表理事)
「ビキニ被災60年、2015年へ核兵器全面禁止の巨大なうねりを」
先日、146の国々が集まってメキシコで開いた「核兵器の人道的影響に関する国際会議」で、議長は、「いま、行動の時だ。広島・長崎の被爆70年は我々の目標を達成する格好の里程標だ。逆戻りはあり得ない」と結んだそうです。
次のNPT会議を14か月後にして、被災60年のこのビキニデー集会は、歴史的にも重要な集会になろうとしています。
I ビキニ事件の教訓に立って
60年前のあのビキニ事件は、私たちにいくつかの思いを残しています。ひとつは放射能の怖さです。子どもの頃、「雨にあたると頭が禿げるよ」などと言われた記憶がいまも残っています。この会議を前に少し昔の資料を繰ってみました。原水協の前身、署名運動全国協議会が出したパンフは実験から2か月半後の5月半ば、全国的に降った雨は京都で87000カウント、東京で3万カウント、鹿児島で2万3千カウントの放射能が測定されたと伝えています。いま流にいえば京都の雨は1450ベクレルあったことになります。
被災した第五福竜丸は、23名の乗組員全員が急性放射能症を発症し、その年の9月23日、久保山さんが亡くなりましたが、実際には、政府が指定した5港(のちに18港)で船体やマグロから放射能が検出された船は856隻のぼりました。アメリカの圧力の下で政府が事件の幕引きに協力したため、汚染検査はその年の暮れで打ち切られました。アメリカ政府は、200万ドルの見舞金を出しました。見舞金ですから第五福竜丸の乗組員にもその後の補償はなく、他の船の乗組員は、補償も謝罪も、見舞い金すらなく放置されました。被災船を探し、乗組員を訪ね、被災の全容をつかむ努力は、それ以後、草の根の運動によって担われることになりました。その努力に敬意を表したいと思います。
ビキニ事件にはもう一つの面があります。それは、「平和のため」「安全のため」とかいう口実で続けられた核兵器の開発、実験に対して被爆国日本の国民がみずから行動し、立ちふさがったことです。被災直後に起こった署名は、8月には449万筆、10月末には1400万筆、12月には2000万筆、翌年世界大会初日発表では3158万3121筆を数え、増え続けました。それを支えたのが各地の決議です。平和団体や労働組合はもちろん伝統的な地域の青年団や婦人会、宗教・文化、業者団体、とくに議会はものすごく全国ほとんどの市町村議会が決議を挙げたようです。
成果として、次のような点を挙げることができると思います。
◇ 日本政府は、「ビキニの実験に協力する」(岡崎外相の国会答弁)というのが当初の態度でした。しかし、4月には衆議院、ついで参議院が決議し、国民世論の広がりを前についには鳩山首相も、「原水爆禁止運動への協力」を約束しています。当時の日本の核保有の動きを断念させ、再軍備と改憲の道にブレーキをかけたのもこの国民世論の広がりでした。
◇ ビキニ被災とのたたかいが世界に伝わり、戦争の廃止と核兵器の全廃を求める世界的な運動に火をつけたこと。2005年、パグウォシュ会議が出した「ラッセル・アインシュタイン宣言の起源」は、この運動が、「ラッセル・アインシュタイン宣言」につながったことを詳しく述べています。
◇ 核兵器使用の手を抑えたこと。ベトナム独立戦争でフランス軍がディエンビエンフー歓楽に直面したときアメリカは原爆の提供を申し入れ。フランスは、ビキニ水爆実験に対する日本の反核世論の高まりと国際的反響を前に原爆使用を断念したといいます。アメリカはのちに、原爆の提供を申し出たことを否定していますが、歴史学者ピーター・カズニック氏は当時のフランス閣僚の証言を数多く上げ、反証しています。また、アメリカのジャーナリスト、ロベルト・ユンクは、フランス軍の当時の将軍に取材し、ビキニ水爆をめぐる世論の高まりで原爆を使えなくなったとの証言を紹介しています。
◇ 忘れてならない最後の点は、この国民的運動が、第一回世界大会の開催、日本原水協(1955年)の結成、翌1956年の日本被団協の結成へと、原水爆禁止運動を生み出し発展させたことです。
それ以後も、とりわけアメリカはくり返し核兵器の使用を計画してきました。それを阻んだものはまさに世界の諸国民の世論と運動の力でした。その一つ一つの事例はジョゼフ・ガーソンさんの「帝国と核兵器」(新日本出版社)やピーター・カズニックさんとオリバー・ストーン監督の「もう一つのアメリカ史」(早川書房)でも詳しく述べられています。核戦争を「抑止」したのは、核兵器ではなく、市民社会の運動であった―― それこそが、ビキニ事件をめぐっても、私たちが引き継ぐべき最大の教訓であると思います。
Ⅱ 核兵器のない世界への行動
では、我々は何をすべきでしょうか? 答は、明日の2014年3・1ビキニデー日本原水協全国集会で安井正和事務局長の基調報告を聞いてください!
ビキニ事件当時と今とでは、情勢に、共通点とともに大きな違いもあります。
違いの方は、核兵器廃絶の世論の圧倒的な高まりであり、それを反映した国際政治の力関係の変化です。まだ、記憶にも新しいことですが、今世紀初頭、ブッシュ米政権が世界の秩序をアメリカの力の上に据え直そうとし、イラク攻撃へと動いた時、世界の人びとはみずから街頭に出て、平和のために立ち上がりました。その動きを圧倒的多数の国の政府が支持し、ついには国連もその流れに加わり、当時、ニューヨークタイムズはこの流れを「第二のスーパーパワー」と呼びました。
2010年、NPT再検討会議が、「核兵器のない世界に平和と独立の達成」を「原則」、「目的」と宣言したことも、この力関係の上で起こったことです。残念なことに、あの会議でも一部の核保有国は最後まで抵抗し、核兵器全面禁止条約への具体的な筋道と目標期限はもう一歩のところで合意に達しませんでした。
しかし、それでことが終わったわけではありません。次のNPTの再検討プロセスが始まると同時に、非同盟運動は、核兵器廃絶で国連ハイレベル会合を開くことを提案し、12月、国連総会は加盟国総数の7割に達する137カ国の賛成で、核兵器全面禁止条約の交渉開始を提唱しました。核兵器の問題を、国家安全保障の問題から人類の安全保障の問題として捉え返し、核兵器の廃絶を求める「核兵器の人道的影響」キャンペーンも、さきのメキシコ・ナヤリット会議では、核兵器廃絶のプロセスが具体的に時間枠と話し合いの場所と明確な枠組からなる外交的プロセスを始める時が来ている、と足並みをそろえました。
2015年へ、そして、被爆70年へ、国際政治ははっきりと焦点を合わせ、急速に動いていると思います。
他方で、2010年のNPT再検討会議では核大国のリーダーも「核兵器のない世界の平和と安全を達成する」ことに合意しました。これは大事なことです。
しかし、一方で、こうした目標に合意しても、現実の政策で、核兵器を「抑止力」とか「安全保障手段」とみなし、その使用についてさえ「極限の状況に限定する」など行って、実際上、正当化している状況の下で、核兵器をなくすことができないことも明らかです。この点では、紛争問題の解決を軍事同盟の力に頼り、「核の傘」と称して核兵器の使用さえ肯定する安倍内閣の態度は最悪です。
この状況を変える力、核兵器廃絶と平和への世界の流れを確信とするとともに、とりわけ核保有国や日本のような同盟国で、核兵器全面禁止への圧倒的な世論を創りだすことです。
それは、可能なことです。日本でもいま国民のなかには大きな変化が進んでいます。脱原発でも消費税増税でも、憲法九条でも秘密保護法でも、平和と暮らしと民主主義の側が多数です。先の名護の選挙でも、東京都知事選挙でも、変化は確実に続いています。核兵器の全面禁止は、そのすべての流れを汲みつくし、国民の最大限の共同と結集を創りだすべき運動であり、まさに、2015年4月、NPT再検討会議に向けて私たちが挑戦すべき課題です。
やるべきことは明快です。このビキニデー後の行動として、すべての市区町村であの北海道七飯のように、埼玉の本庄のように署名や原爆展で自治体・首長とも協力し、住民ぐるみの署名を創りだすために奮闘することです。核兵器のない世界へ、歴史のページを開くために、あのビキニ事件のたたかいのように行動を広げようではありませんか。