原水爆禁止2001年世界大会
長崎・閉会総会(8月9日)

長崎原子爆弾被爆者援護強化対策協議会委員
山本誠一


  原水爆禁止世界大会に参加されたみなさんに心から歓迎を申し上げます。私は長崎市の被爆者援護対策協議会の山本誠一です。長崎の被爆地域拡大について発言します。

  56年前のこの日、米軍が投下した一発の原子爆弾は、7万4千人を焼き殺し、7万5千人を傷つかせ、いまも多くの人々を原爆による後障害で苦しめています。そして長崎市と周辺6町には、原爆の被害を受けながら、今も被爆者として認められていない人たちがいます。

  長崎の被爆地域は、原爆投下時の行政区域で線引きされているため爆心地から南北に12キロ、東西に7キロとゆがんだ形になっています。半径12キロの同心円状を被爆地域とするよう再三要請しました。しかし、国は「科学的根拠がない」と拒否。長崎市と県が科学的根拠として提出した「残留放射能プルトニウム調査報告書」も「健康影響は認められない」と切り捨てました。

  被爆から半世紀が過ぎ、拡大対象地域の住民も約6万7千人から8,700人に減っています。「死に絶えるのを待つのか」との怒りが高まり、一昨年から長崎市が中心となつて「被爆証言調査」を取り組みました。長崎大学医学部で分析した結果、心的外傷後ストレス障害(PTSD)で24.7%と高い数値が出ました。健康状態も良くないと訴える人が6割を超え、一人平均3.4の病気を抱えています。「聞いてください。私たちの心の痛み」という証言集が完成し、政府への大規模な要請行動をおこないました。昨年8月9日森前首相は「国として十分考えるへき」とのへ、厚生大臣と未指定地域の住民との直接対話もはじめておこなわれました。

  10歳のとき爆心地から7.5キロで被爆した東長崎の川浪則男さんは、「くらむような光と爆風を受け、家の中はメチャクチャとなった。土砂降りの雨が降り、焼けかすみたいな灰が飛んできた。当時1才だった妹は、髪の毛が赤くなり脱毛し、2年後に亡くなった。母は翌年に弟を出産したが死産で真っ黒だった。近所でも幼い子どもたちが次々に7人も亡くなった」と訴え、「だれもが納得できる被爆地域を」と大臣に迫りました。

  厚生労働省が設置した検討会は、含月1日「最終報告」で「被爆体験によつて、今日なお、精神的、身体的な悪化につながっている可能性が高い」と結論づけました。しかし、その原因は「放射線の影響ではない」と否定しました。本日、長崎にきた小泉首相は、どんな考えを示すのか、市民は注目しています。

  私たちは、被爆地域拡大に全力を尽くすとともに長崎を最後の被爆地とするために被爆国の日本がアメリカの核の傘から脱却し、核兵器全面禁止のために先導的役割を果たすよう強く求めていきます。ともにがんばりましよう。


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