原水爆禁止2001年世界大会
国際会議

ロシア
アイグル(チェリャビンスク核実験被害者組織)副会長
ミーリャ・カビロワ


私たちは軍事用核生産の犠牲者


  世界大会の参加者のみなさんにあいさつを述べるとともに、参加の機会を与えてくださった主催者のみなさまに感謝を申し上げます。

  私はロシアのチェリャビンスクから来ました。広島と長崎、チェリャビンスクは何千キロも離れていますが、ひとつの痛み、苦しみで結ばれています。私たちはみな、原水爆の生産と医学的実験の犠牲者です。

  チェリャビンスク地方には、プルトニウムを生産する「マヤーク」工場があります。そこは、ソ連で最初の原爆と水爆が製造されたところです。1948年に「マヤーク」がつくられて以来、液体放射性廃棄物がテチャ川に排出されてきました。さらに、三度にわたり大きな核事故が起こり、広大な地域が汚染されました。地域の人々は、これがどれだけ危険かを知りませんでした。メトリノ村の住民の67パーセントが白血病にかかっていることがわかってはじめて、別の村に移住することを決めたのでした。それでも、4つの村が残りました。過疎地帯である境界線地域で、テチャ川に近い場所にムスルモヴォ村があります。この村は、核廃棄物の投棄場所にあります。ムスルモヴォの住民の生活はテチャ川と結びついています。川床は放射性廃棄物に覆われており、その堤防は、固形放射性廃棄物と公式に銘打たれているのです。

  私はこの村で生まれました。母親と私たち子どもたちは、「核」担当役人の誤りの犠牲になりました。いや、誤りということではなかったかも知れません。核兵器製造を決定した人々は、どのような運命が待ち受けているのか、人々の健康や生命がどうなるのか、考慮していなかったのかもしれません。

  テチャ川の土手に、大変幸福な一家が住んでいました。1948年以来、核生産廃棄物が川に流されるようになり、1950年には柵をつくり、民兵に見張りをさせ、住民が川で泳がないよう、水を汲まないようにしました。私の父もその民兵でした。それからわずか2年後の1952年、父は第一級の放射線病と診断されました。その7年後に父は亡くなりました。わずか44歳でした。私は7人きょうだいの一番下で、当時たったの3歳でした。私たち7人のきょうだいは、母親とともに残されましたが、その母親もやはり病気でした。

  母は、私たちを養わなければならいので、仕事をもらいました。それは難しい仕事ではなく、テチャ川の水量計の操作をすることでした。母は、水と土のサンプルを川から採取しなければなりませんでした。私たち子どもたちも、もちろん、母を手伝いました。しかしその仕事がどんな危険をともなうのか、だれも説明してくれませんでした。そして採取した水と土は私たちのベッドの下に保管されました。その結果、きょうだいのうち5人が「放射線病」と診断されました。2人の兄は、腫瘍の病気で死にました。

  こうしたことにもかかわらず、私たちの家族は国から何の援助も受けませんでした。わが家の運命は例外的なものではありません。むしろ典型です。

  住民の疾病率は非常に高くなっています。独立しておこなわれたある遺伝学研究では、子どもの4人に1人が染色体の突然変異を起こしていたことが分かっています。ガン発生率、不妊率、奇形児の出生率も非常に高くなっています。

  1999年に生まれた子ども45人のうち43人に発達上の異常がありました。就学前の子どもたちおよび小学生の70パーセントに、脳の機能障害による精神異常が見られました。これは子どもと家族にとって悲劇です。住民の破局が迫っています。遺伝学者はそのことを私たちに警告しています。研究によれば、子どもにおける遺伝子破壊の率は、親の代よりも高いといいます。

  ロシア政府は、使用済み核燃料を輸入することを決定しました。これまでの核生産などから生じた汚染物質の除去をしないまま、かってに私たちを新たな危険にさらしているのです。住民の90パーセントはこの暴挙に反対しています。

  放射線の状況をめぐる秘密のカーテンは、私たちの地方では長年にわたって下ろされたままでした。チェルノブイリ事故が、わずかに人々の反応を引き起こしただけでした。国家は私たちの健康を害したことにたいし責任をとろうとしていません。私たち犠牲者は、団結して生きる権利、健康的な環境を享受する権利を求めてたたかう決意です。

  1989年、「核の安全を求める運動」が発足し、NGO「アイグル」を組織することができました。私はその議長をしています。私たちは、放射線障害にかかったり、放射線を浴びたために病気になった子どもをかかえる女性たちを団結させています。「アイグル」というのは、ユウガオという意味です。なぜこの名前を選んだかといいますと、響きが美しく、女性らしさが出ているからです。しかし同時に、この花は、太陽の光のもとではなく、月の光のもとで、核の冬のように、亡霊のように育つという、不気味さも持ち合わせています。

  私たちは、被爆した住民の調査をすることを決めました。その結果は科学者たちを驚かせるものでした。1997年に生まれた子どもたちの血液中に放射線を浴びたときにしか見られない形跡ーがあったのです。結論は、住民は50年たったいまなお放射線を浴びつづけている、ということでした。

  第2次世界大戦では、ジェノサイド(集団殺害)がおこなわれました。冷戦はエコサイド(生態系の破壊)がおこなわれました。私たち軍事核生産の犠牲者は、放射線の危険について、そしてそれをどうやって最小限に食い止めるかをすべての人々に知ってもらいたいのです。私たちは、自分たちの権利を求めて法廷でたたかってきましたが、これは何度でもやっていこうと思います。これは困難でうんざりする仕事ですが、そうしなければ私たちは生存することができないのです。

  壊れやすく、やさしい女性たちが、子どもたちにとってもっとも貴重なものが危険にさらされているとき何ができるでしょうか。私たちは、もう後に引くことができません。私たちの後ろには子どもたちがいるからです。


原水爆禁止2001年世界大会へ
「被ばく者と連帯しよう」