原水爆禁止2001年世界大会
国際会議

援護法在外者適用裁判 原告(韓国)
郭 貴勲(クワック・クイフン)


  1945年8月6日と9日広島と長崎に投下された原子爆弾の為、死亡又は負傷した人々の約一割以上が韓国人だと言われておりますが、私たち韓国人被害者は独立前後の混乱期とその後に起きた動乱の為、全く無援護のまま放置され、大部分の被爆者は病苦と貧困と飢餓の為に路傍にさ迷いながら死んでいきました。

  日本では、原爆二法ができて被爆者の援護が始められた時も、私たちは無援護のままだったし、韓日基本条約の時にも除外されたので、私達は1967年に被爆者協会をつくり、加害者である日本に向かって補償と援護を要求してきましたが、日本政府はその度“韓日基本条約で精算済み”だと相手にもしてくれませんでした。74年の孫振斗裁判で日本政府が負けた後、やっと私達に被爆者手帳を出すようになったのが、被爆してからちょうど30年目でした。

  ところがその年の7月22日、韓国人被爆者が手帳を申請したら、その日に厚生省は局長の“この手帳は国外に出ると無効になる”という通達で判決に対抗し、以後最高裁の判決まで無視しながら、27年間も海外在住の被爆者を被爆者として認めませんでした。局長の通達が最高裁の判断よりも優先するのが、法治国家日本なのです。その間、韓国人被爆者は90%が死んで、今10%の2200名がやっと生き残りました。

  私は、98年5月大阪の病院に入院し、手帳と5年間健康管理手当を支給するというので、帰国しながら帰国後も継続して私の口座に手当を振り込んでくれと頼んでおきましたが、大阪府は出国で失権したから金は払えないとの通知でしたので、同年10月1日訴訟して、去る6月1日全面勝利となったのあります。

  裁判で国と大阪府は、援護法は日本人向けの社会保障法であるから、税金も納めていない外国人には該当しないとか、立法過程で外国人排除の了解のもとで成立した法であるとかの、色々な理屈をならべましたが、裁判長は“援護法は被爆者を援護するためにつくられた法律だから、人道的な立場で内外人区別なく援護すべきであるし、国を出た人と出ない人を区別するのは憲法14条に違反する恐れがある”とまで明確に判決を下しました。

  私は判決後すぐ東京に行き、各政党の党首や法務大臣、厚生労働大臣に会って、20日前のハンセン病の時のように控訴を断念するように強く訴えましたが、6月15日“ハンセン病とは違うんだ”との曖昧な理由で控訴したので、これからも長い長い裁判闘争になりますが、在外被爆者の年を考えるととてもやるせない気持ちで胸が詰まり、涙が出て仕方がありません。

  私の国の男の平均寿命は70歳ですし、被爆者の主流をなす微用工の年齢は78歳です。ですから、平均寿命の7、8歳上なのです。これから最高裁まで5年かかるとしたら、裁判が終わった時はたして何人生き残れるでしょうか。ここが日本政府の狙いです。今生き残っている在外被爆者は南北あわせて約3200名、アメリカにいる1000名とブラジルにいる190名あわせて4500名足らずですが、高齢化しているのは皆同じです。

  ですから私達には時間がありません。早急に援護に取り組まねばなりません。それこそまさに、人道の道なのです。日本政府は、遅くはなりましたが今からでも戦争責任を痛感し、反省の意味も含めて、被爆者援護に取り組むべきです。

  控訴してから国内外の非難世論が高まると、40億円の上積みの金を出すとか、援護法の改定の検討会を作るとか、治療に来る人に旅費を出すとか色々なうわさでお茶を濁そうとしています。私ははっきり申し上げます。皆彼らの人を騙すための策略でありますから、騙されないようにして下さいと。

  在外被曝者を思うなら、判決に承服すればそれで足りるのです。又は通達402号を止めればいいのです。なにも回りくどい道を選ぶ必要などありませんでしょう。お金などくれと言った覚えはありません。

  日本政府は私達韓国の人々を徹底的に差別し、特に被爆者に対しては虐待し続ける政策を貫いてきていますが、そういう態度は早く改めねばならないと思います。具体的な例を挙げるまでもなく、韓国人被爆者の数が被爆者全体の10%であったのが、今は1%にもならないその数がその間の歴史を雄弁に物語っております。21世紀は、差別と偏見の時代ではなく、協力の時代なのです。 

  私はこれからも、高裁、最高裁と闘い続け、命の終わる限り在外被爆者達の人権を勝ち取ろうと思っておりますから、皆様も今までと変わらない熱烈な愛情でご支援下さるようお願いいたします。


原水爆禁止2001年世界大会へ