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被爆者援護連帯】【反核平和運動・原水爆禁止世界大会

 

ピカドン地獄追憶記
                        
一九四五年八月五日

早川耐子

 夕方、私は勤めていた広島市宇品の鉄道局から宝町の我が家(爆心地から一・五�q)に帰った。玄関を開けると香ばしい鮎を焼く匂いがした。
 「母が帰っている。」私は嬉しさのあまり込み上げて来る満面の笑みを、無理に難しい顔に切り替えた。
 「お母ちゃん、危ないから帰りんさんな言うたでしょうが。」
 「鮎が手に入ったけん。」
 飯台には母が疎開している山口県の実家でつくったこんにゃく、輪切りにして干した大根の煮しめの皿が置いてある。私はとてもこれ以上難しい顔はしていられない。
 戦時中にしては豪勢な夕食を、二十二歳の私は幸福そのもので食べた。これが最後の母との夕食になろうとは、夢にも思わずに。

八月六日

 朝、母に起こされた。母は私の枕元で肌着を持っている。「これで別れ別れになったときの汽車賃にしんさい。」と言って、三十円を入れた小袋を背中に縫い付けて私に着せた。月に一度の掃除当番で私はいつもより四十分早く家を出た。私は鉄道局の列車部、列車課に入ると同僚の土井さんと掃除を始めた。今日も暑くなるような重い空気の朝だった。電車道を隔てた広場の奥に暁部隊の木造の屋根が並んでいる。朝出かける前に鳴った空襲警報も解除になり、ぼつぼつ出勤者の姿も見え始める頃だ。室内には汽車の通勤の男子職員が二、三人いるだけだった。掃除を終えた私は開け広げた窓から身を乗り出すようにして外の空気を吸った。
 そのときだった…。視界全体が真っ白になり、暁部隊に並んだ、当時ひどくハイカラに見えた郵便局の赤いスレート瓦も色を失った。それは、太陽が目の前に落ちて炸裂し、あらゆるものの色素を奪い去った真空の白さだった。私は何が何だか分からなくて、目をやられたと思い、せわしくまばたいた。ドォーンと音がしたように思ったが、私は目の前の不思議に我を忘れていた。道路向こうのその赤いスレート瓦がはぎとられ、空中に散乱している。それはまるでスローモーション映画の一場面のように縦一列に剥がれ、一枚一枚の瓦をゆっくり地上に落として行く。それでいて私のまわりには物音一つなく立ち上った埃が辺り一面を覆った。呆然としている私に「伏せろ!」と後ろから声が飛んだ。私が窓ガラスの破片を顔に受けなかったのは、いっぱいに開けた窓から身体を乗り出すようにしていたからで、机の下に丸くなったとき、足や背中にガラスが刺さった。光ってから何秒の間だったが私には鮮やかな記憶である。窓の内側にいた同僚の土井さんは顔にもガラスが刺さった。
 「玄関から入ろうとしたらパァーッと光った。今のは何なら。」と言いながら男子職員が入ってきて、黒い詰め襟の上着を脱いだ拍子に、上着の背中がアイロンで焦がしたようにポロポロ丸く穴があいた。私たちはそれを珍しがる暇もなく、いち早く男子職員が手配してくれた車二台に乗って局を出た。広島駅の近くの鉄道病院でガラスの破片で受けた怪我の治療を受けるためである(車は局長、部長の送迎用で玄関にいた)。
 爆心地から南四�qの鉄道局を出て、広い道路の真ん中を車はスピードを上げた。この道は軍用道路として新しく造られたもので、河口沿いは軍の厚いコンクリートの倉庫が点在し、右側は郵便局と暁部隊のほかはしばらく人家もない。三�q近く走ったとき、最初の人家が見えた。傾いた屋根の一角が舗道にかぶさり、人の気配は全くない。並木はなぎ倒されたように道の行く手を塞ぎ車はもう進めなかった。かすかな不安がよぎり市内に住む土井さんと私だけ車を降りた。みんな楽観的だった。警戒警報はずっと前に解除になっていたし、第一、朝の眩しい光の中での空襲など考えられなかった。皆、車の窓から手を振りUターンした。
 二人手をつないで歩き出そうとしたときだった。何とも言いようのない地面を伝わる響きと無数の昆虫の羽音のようなうなりが聞こえてきた。瓦礫が点在し、せばめられた道路に忽然と湧き出るように異様な群れが近づいて来た。人とは思えなかった。かげろうに揺れて赤や黒の肉の塊が動いているようであった。恐ろしい予感に総毛立つ私の前に、煮えたぎる溶鉱炉の中から今這い出てきたような群れが走ってくる。これはまさしく人間だった。素裸の体は、熟れたトマトをぶつけたように赤黒く、ずるずるとむけた皮膚がたくなったりぶら下ったりしている。風船のように膨れ上がった顔、腫れあがった瞼のためみんな頭を上に向け、私の前に迫り私を押し包んだ。何十人か、数えきれぬ裸足の足が、タッタッタッと並木の散乱したコンクリートを鈍く打ち、体中から吹き出すうめきがウォーン、ウォーンと辺りの空気をふくらませている。この世の無残さではなかった。私にぶつかり、よろけてはまた走り出す人々は、恐ろしい所から一歩でも遠ざかろうとするように走る。憑かれたように走る。
 この恐ろしい一団を私は知っている。朝、私が出勤するとき、すでに比治山橋の川沿いで、建物疎開の残材を片付けていた学生たちだ。どんなに焼けただれていても、その幼い体は分かる。
 広島の七つの川沿いの家はすべて建物疎開で取り壊された。この作業は、中学校、女学校の一、二年に割り当てられた。中学校一年といえば、小学校を卒業して、まだ四ヵ月しか経っていない。三年、四年は、男子は旋盤、女子はボタン付け等に動員され、主に都心から離れ、屋根のある所で作業していた。だから、広島で最も死者の多かったのは、中学校、女学校の一、二年の生徒たちであった。
 私は突き刺すような不安に駆られた。この向こうに私の家があり、昨日の夕方帰ったばかりの母がいる。私は火膨れの赤い渦のような中をかいくぐりながら前進した。異形の群衆はいつまでも私の行く手をさえぎるように思えた。やっと私の視界が開けた。あの中に母がいたかも知れぬ。でもどうやって見分けられよう。母がいればたとえ這ってでも鉄道局に行く筈だ。私は振り返らなかった。走った。いつ土井さんの手が離れたか覚えていない。比治山橋を一気に走り抜けた。
 鷹の橋に続く十二間道路と呼ばれた広い道は、歩道も瓦礫で埋め尽くされ、細い筋のような道が簿い煙の向こうに消えているだけで、両側の破壌が街中に起きていることが分かった。
 比治山橋から二百�bも行くと私の家に入る小道がある筈であるが、その跡すらなかった。壊れて重なり合った材木や屋根瓦の間から透明な炎が見えた。入り口を探す私の目の前で炎は見る間に大きくなった。背中に炎を負うて転がり出る人々の中に、母がおりはせぬかと服の色を確かめながら、二百�bの道を私はまるで人間に吠えつく犬のように、炎に焙られては後ずさりし、また突き進んでいた。
 千田町側の炎も高くなりゴウゴウと音を立て、風を孕み渦を巻き、広島はいまや火の海となった。
 比治山橋にはぼろの塊のようになってうずくまる人々。橋の下は、これはもう血の池地獄のようだった。川の中は焼けただれた全裸の人々が生死も分からならぬまま水の中に浮いている。川辺には放心したような怪我人がびっしりと群れている。
 「ホリエ ユキはいませんか。」「誰かホリエ ユキに会いませんでしたか。」
 私は阿修羅のように川の岸辺、そして橋の上と走り回り、その度に忸怩たる心を殺しながら叫び続けた。
 「ホリエのタイちゃんか。」
 不意に極彩色の体がフラフラと近よった。頭髪も耳の形もなかった。手の甲から皮膚が雑巾のように垂れて地面を引きずっている。ズルリとむけた顔面にめくれ上がったような唇がかすかに動いている。
 「ナガヒロじゃ…………………………。儂は文理大のグランドの前を歩いとった。儂は戦闘帽もかぶっとった。儂は国民服も着とった。ゲードルも巻いとった。それじゃのにパッと光ったらこうなっとったんじゃ。皮のベルトもしとったんじゃ。」
 「儂はのう、戦闘帽もかぶっとった……………………。」
 おじさんはこの言葉を三べん言った。お上の言われる通りの服装をしていたのに突然の理不尽さに怒り、それ故にこそここまで歩いて来れたのであろう。言い終わると、おじさんのふくれた唇からタラタラと血が流れた。
 おじさんは私の家から四軒目の人で、親子二人の私の家を心配して、厳島国民学校の代用教員として厳島に下宿している私を、宇品の鉄道局に入れて下さった恩人でもある。おじさんはいまや宝町どころか、広島中が火の海となっている中で、我が家の方を少し体をずらせて見た。そして一度に気力が失せたのか、ゆらりと爛れた体を橋にもたせた。おじさんの家族は七人だったが、私もおじさんも家のことは口にしなかった。八月の太陽は更にそのおじさんの肌を焼いていた。私は黙って手の甲から橋げたにへばりついたおじさんの皮膚をそっとちぎって捨てた。そして肩におじさんの体重を受けて、日陰を探した。並木は倒れ、比治山橋から鶴見橋までの川沿いは建物疎開で、全部取り壊されている。そのとき、軍のトラックが一台来た。どこで乗せたのか、もう荷台には怪我人が四、五人いたが、ちょうど比治山のふもとにでも連れて行こうと道の真ん中にいたときだったので車を止めてもらった。一人の軍人が車から降り、おじさんの爛れた尻を押し上げ、もう一人の軍人が上からおじさんの腕を引っ張った。
 「お母さんに会えたらにおいで。」
 トラックに乗せられながらおじさんはそう言った。今思う。あんな身体で、私のことを気遣ってくれたおじさんは神様より立派だと。
 走り去るおじさんのトラックを見送り、再び橋の方に帰ろうとしたとき、足に触れたものがある。何気なく目をやって、これは一体……とわが目を疑った。それはまさしく靴底。大小さまざまな靴底が散乱し、焼けただれ、ぼろ切れのような人々が行き惑う道にどこまでも続いている。
 今にして思えば、靴の甲が熱線と爆風をまともに受けて焼け飛び、足の裏に密着した底だけが残ったのだろう。たとえ何歩何十歩歩けても、甲が焼けて抜け落ち、めくり取られては靴はその形を失う。あの学生たちもナガヒロのおじさんも、こうして裸足にされたのか。
 しばらく橋にいたが知った人には誰にも会わなかった。朝まだ新しいこの橋を渡って出勤して、二,三時間しか経っていないのに、同じこの比治山橋が黄泉の国の地獄となり、五体満足な私の方がまるで異物のように感じられた。後に続くトラックも来ず、川は腹を上にした死体で水まで赤く見えた。
 私は四�qの道を局に向かった。母が来ているかも知れぬという一縷の望みは消えた。食堂に行くと、尋ねてきた家族にも食事を出すと貼紙がしてあった。不意に切ない願い込めて、「もう一人分」と言ってしまった。長い廊下を二人分の昼食を抱え、途中、表玄関の門衛の人に「広い局内だから母が来たら特に私の課まで連れてきて。」と頼んだ。「白島に疎開していた職員は全滅だ。」とか「電車に乗っていた者は吊皮を持ったまま炭になっていた。」等とあちこち固まって話していた。室に帰ると、同じ掃除当番だった土井さんのお母さんが煤だらけでフラリと入って来られた。私はそのお母さんに黙って一人分の食事を出した。もう十二時は過ぎていた。
 陽射しの高い道をまた比治山橋まで歩いた。死んでいる者、瀕死の者、奇跡的に助かって途方にくれたような人、大人も老人も子供も取り混ぜて橋の上下に人々は群れていた。
 橋の向こうは音を立てて燃えている。喉が渇いたが水はどこにあるのか分からなかった。
 橋に腰を下ろして、途方にくれているとき、やっと二人の知人に会えた。
 一人は私の家の隣りのおばさん。破れた服、煤だらけの顔が名乗られるまで分からなかった。
 「主人が出たけん。ちょっと食器を下げて座っとったんよ。ほしたら、パッと光ってまわりの障子や襖がいっぺんにメラッと燃えたんよ。アラッと思うたら屋根が落ちてきて、必死で這い出たんよ。そいでホリエさんも一人じゃ思うて何べんも呼んだんじゃけど返事がないけん、出かけられとったと思うよ。」
 「頭を打って気絶でもせん限り、うめき声くらい聞こえる筈じゃが、コソとも音がせなんだ。」
 もう一人の人は近所の洋服屋のおじさんで、同じ宝町の私の遠緑の夫婦の消息を伝えてくれた。おじさんは比治山橋に向かって逃げる途中、瓦の上に上半身出している遠縁のおばを見て、手を貸そうとしたが、柱に足を押さえられているらしく、どうしても引き出せない。おばに「私はいいから。主人が奥にいますから、お願いします。」と言われ、辺りを見回したが、姿はおろか、声も聞こえてこない。そのうちまわりの火が高くなり、心を鬼にして去ったのだという。洋服屋のおじさんは「お気の毒でした。」と申し訳なさそうに深々と頭を下げた。
 比治山の境内にも人がいると聞いたので上がって見た。もう夕暮れが迫っていた。お堂の中はすし詰めだった。濡縁はおろか境内にもびっしりの人だった。もう四�qの道を歩いて局に帰る元気もなかったが、それより少しでも母の、そして私の家の近くにいたかった。私は狛犬の台座に腰を下ろした。体中を疲労が打ちのめしている。背中をもたせると今朝母が縫い付けてくれた三十円がかすかに紙の感触を伝えた。涙が吹きこぼれた。
 眼下に広島が真っ黒な荒野となり、低い炎が鬼火のように一面にチロチロ揺れていた。境内はまわりを立ち木に囲まれ、私たちのいる小さな空間は真の闇に包まれている。飛行機の音が一時間置きくらいに聞こえる。爆音がする度に人々は恐れ動揺した。
 お堂の中の方で怒声がした。
 「子供が死にましたので。」
 「死んでもお前の子じゃろうが、わたしの足の上に置くな。」
 立錐の余地のないこの空間で、母親は死んだ子を抱いている重みに耐え兼ねたのであろう。立って杉木立ちに子供を置きに行けば、もう闇の中の彼女の席はなくなる。これをしおに人々は足が触った、手が当たったと言っては怒った。爆音におびえ、たまたまポケットにでもあったか、煙草を吸う人がいると、「まだ生きとる者がいるいうて爆弾を落とされたらどうするんじゃ。」と怒鳴りつけた。
 一億総玉砕と言いながら、このあさましいいがみ合いを私は腹の底から憎んだ。みんなみんな、私も一緒に死ねばいいと思った。
 真っ暗な中で蚊は遠慮なく私の顔や首に群がった。

八月七日

 朝、境内で男の人が死んでいた。
 下に様子を見に行った人が石段を上がってくると、「下で炊き出しをしとる。動けん者はもろうてきたげる。言いんさい。」と声をかけた。夜中じゅう闇の中でののしり、小競り合いの絶えなかったこの場の空気が一度に和んだ。昨日の朝、突然光とともに屋根が落ちてきて命からがら、身一つでここにきた人達は、ほとんど飲まず食わずの状熊で恐怖の一昼夜をここで過ごした。火の海の街を見ていて、こんなに早く炊き出しがあるとは夢にも思っていなかったのだろう。死体をそばに置くなとか、煙草がどうとか言っていた人達が、死者の家族を助けて男の人(といっても若者は戦争に駆り出され五十過ぎばかり)は皆で死体や怪我人を抱えて石段を下りた。どうやら、今夜もここで過ごさねばならぬ人々が大方のようであった。
 境内の石段の横に半壊の家があり、一人のおじさんが「怪我人はあそこに置いてもらう。」と言って下りて行った。皆、黙って見ていた。彼は、家に入るとすぐ出てきた。
 「障子も襖もない。斜めになった床板の上にのう、火ぶくれた、真っ赤な人間が二人も寝とってのう。おばあさんが一人横に座っとった。まあ…、惨い体じゃった。」
 彼は、火傷の人を初めて見たらしく、唇を震わせていた。多分、お堂を離れるともう場所がなくなるので、咋日は、朝から動けなかった様子であった。
 咋日の朝、比治山橋南一�qばかりの所で、出会ったあの焼けただれた人々は、比治山橋から鶴見橋の川沿いの建物を打ち壌していた人々だ。建物疎開に動員されたのは市内の中学生、暁部隊、十一連隊の人々だった。もっとも軍人は学生たちの指揮をとるだけで学生二十人に一人位だった。
 境内に、焼けた人々は見かけなかった。家が壊れたとき、手足を打ったという人がかなりいる様子だった。歩ける者は皆、石段を下りた。私も比治山橋に行って見た。一日中炎に焙られて、橋まで熱くなっていた。
 咋夜はずっと石に腰を下ろしていたから、私は疲れた体をまた、鉄道局まで足を運び、二時間ほど寝させてもらった。尋ねてきた家族のため、部屋が用意され、一緒に朝食をとっている人々が羨ましかった。竹屋町、宝町辺りの怪我人は、段原小学校に収容されているという局の情報に、また出かけた。途中、比治山橋のたもとに五、六枚の立て礼が出来ていた。「宝町」と書いてある札に「ナガヒロのおじさん」のことを書いた。私が初めてだった。
 比治山を越えて段原に行った。深い木立ちの中を登って歩く山道は、日陰のない所ばかり歩いていた私には、別天地のようだった。
 小学校の校門に入った。人気のないように見えた校庭の片隅に、荒むしろを敷いて四、五人の人が爛れた体を横たえていた。もう、すでに昼を過ぎていた。置かれたときは日陰であったのだろうが、今、その焼傷の人々の体は呵責のない太陽にさらされ、首の下や股間に白い蛆が固まって動いていた。
 胸が潰れそうだった。私は、のちに放射線で死線をさまようことなど夢にも思わなかったから、なんの役にも立てぬくせに、母だけ探して歩く身勝手さが、後ろめたかった。それでも私は叫んだ。
 「ホリエ ユキはおりませんか。」
 「ホリエ ユキを知りませんか。」
 目を皿のようにして一人ひとり、注意深く見た。自分の心の疾しさを叫び声と共に振り捨てながら、叫び続けた。体に一片の布もない火膨れの同じような人々の見分けは付かなかった。
 教室にかけ上がった。机や椅子を取り払った板の床にござを敷いて、一つの教室に二十人位同じ姿勢で仰向けに寝かされていた。少しでも焼けた肌をござに当てないよう、膝を立て、ひじから上を宙に浮かせ、じっと死期を待っている同じ姿勢の人々の痛々しさは無残という以外になかった。
 「宝町のホリエ ユキはいませんか。」
 二つ目の教室で、宙に浮かせた手首がかすかに動いた。たくさんのボールのように腫れあがり、顔でない顔、体といえぬ体の間を、ときには跨いで通らねばならぬ五体満足なこの私が、この人達の目にどんなに映るか、私は罪人のように体中で小さくなりながら、動いた手のそばに行った。
 「Yじゃ。」
 私の斜め向かいに住んでいる町内会長さんである。昨日までの面影もとどめぬふくれた唇が動いた。町内会長さんは朝、原爆の落ちる二十分位前から、自分の家の前だけでなく、両隣も掃いていた故、「ホリエさんが家を出れば私の目に入らない筈はない。家の中におられた。」町内会長さんの声はかすれ、しぼり出すようであった。奥さんは台所におられたとのこと。老夫婦二人きりの暮らしだった。
 私は「今から収容所を全部回るつもりです。町内会長さんのこともここにおられることも言います。きっと誰か迎えに来ます。」と言うと、腫れあがって睫毛のない糸のように細く開いた目尻から涙が伝うた。身を切られるような思いであった。
 「水!」と言われて私は飛び上がった。私に出来ることを頼まれたのだ。見ると三ヵ所位に大薬缶があるが湯呑がない。私は注意深く人々の間を縫って廊下に出た。用務員室を探してみると、いっぱいの湯呑が籠に伏せてあった。私は全部それを持って教室に帰り、全部に水を汲み、町内会長さんのまわりの人々の側に湯呑を置いた。そして町内会長さんの首にそっと手を差して入れ、湯呑を口に待って行った。
 「水をくれえ。」誰か言った。「オーオー。」と泣く声もした。誰も身動きできる者がいないから、誰が言ったか分からなかった。私は町内会長さんの首を元に戻すと、立って教室を見渡したが、もう声を出す者は誰もいなかった。私は、今この隣りの教室で母が末期の水を求めていはしないかと心が急いだ。「早く間に合いたい。」この思いが町内会長さんのそばにいてあげたい心を振り切らせた。
 また、私は母を尋ねて叫び続け、そして走り回った。今でも段原のあの人々を思うと涙が溢れ、胸が張り裂けそうになる。もう枕元の湯呑を取る元気もない、でも腹がかすかに動いて確かにまだ生きていた人々。私は町内会長さんにしたように抱いて水をあげるべきだった。
 今考えると、母ももう骸となってあの段原にいたのでは、と思うときがある。

八月九日

 比治山をねぐらに一日収容所を走り回った。すべて徒労に終わった。炎天下、一つの収容所から次の収容所まで二�q、三�qもあり、そんな遠くに母がいる筈もないのに、ただふらふらと歩いた。
 まるで砂漠のような埃まみれの道々、腹の上だけ薪を乗せられた死体が異臭を放っている。引取り手のない死体は火膨れのまま無数のハエと蛆にたかられ、私の疲れた足はときにそんな死者の腹を踏み、腐った臓器がはみ出してももう何も感じなくなっていた。日に照らされた台におにぎりが並べてあると、両手にそれをつかんで食べた。飴のようにくねった水道管の蛇口から湯の様な水が出ていると、片手のおにぎりを口に頬張り、さっき踏んだ死体から這い上がってくる蛆をモンペからハタキ落として、その手で水を飲む。
 こうして一日中地獄の町を歩き、死体にほんの少しの布切れでも付いていれば、母ではないかとしゃがんで確かめた。

八月十日

 市内は殆んど灰になっていたが、まだ我が家の焼け跡には近づくことは出来なかった。市内の空地や運動場には死体が地面に無造作に並べられ、家族に分からなくなるほど傷むと山積みされて焼かれた。「京都にも爆弾が落ちた。」「東京はもう占領された。」等、もっともらしいデマが飛び、廃虚に残った石垣や壊れた塀には「打倒米英」と、「米」にも「英」にも左にけものへんを付けて書かれたビラがベタベタと貼ってあった。生き残って死者を焼かねばならぬ兵士たちのやり場のない憤りだったのであろう。その下にまだ片付かぬ死体が腐れていた。
 市内の建物疎開には近郊からも多く動員されていたので、死傷者は市内の住民だけに止まらず、片付ける者より片付けられる者の方が多かった。
 私にはもう母を探す場所も私自身の居場所もなかった。

八月十四日

 戦禍が少ないと予想されていた京都で結核療養中の、姉の下宿を訪ねて行く。汽車の切符は鉄道局まで行ってそこで支給してもらった。

八月十五日以後

 母の骨を拾いに広島に帰る汽車の中で、敗戦のラジオを聞いた。宝町の焼け跡はまだ温もりがあったが、母の骨はなかった。灰と白い小さな塊を持って京都の姉の下宿に帰った。疲れ果てていた。
 生きて行く一切のものを失った。
 二十日過ぎだったと思う。姉の診察日に私があまりだるそうだったので、「耐ちゃんもついでに診てもらおう。」と京大病院に行った。担架に乗せられて二階のベッドに寝かされた。腰の下に油紙が敷かれた。ふくらはぎの三角巾を取ってゾンデとかいう針金の様なものでコンコンと骨をつつきながら一人の医師が四、五人の白衣の人に説明していた。私は痛みも何も感じず、横になれてだんだん沈んで行くような安らかな気持ちだったことを覚えている。白血球が八〇〇だ、九〇〇だというのを聞きながら私は深い眠りに付いた。
 私が今生きているのは京大に被爆者が四人しかいなかったので、幾十人の学生諸氏の輸血があったからである(阪大では被爆者が廊下に溢れ医師はそれを跨いで診察する有様だった由)。

一九八五年・一九八六年

 広島の地獄から生き延びて四十年経った一九八五年十月、ジュネーヴに行った。正確には「ヨーロッパ国連及び関連機関職員軍縮平和運動」という団体に「原水爆禁止日本協議会」を通して語り部として招かれた。語り部は、今は亡き童話作家の山口勇子さんと私。受け入れ側が国連職員団体だから被爆の話も平和の訴えも国連の中で行われ、中立国のスイスに対するアピールは、会長のV氏の予定にはなかったようであっだが、「ヒロシマの小さな被爆者」が新聞に取り上げられたため、ジュネーヴでは婦人たちからお茶に招かれ、全く予期せぬ西ドイツにまで時間を割いた。
 ジュネーヴの婦人たちは一九八五年八月六日、モンブラン橋で「ヒロシマの被爆者の冥福と核兵器反対」のアピールを道行く人に蝋燭の点火という手段で訴えたそうである。私はその蝋燭の残りをもらってきた。スイスの国旗の「+」の印の付いた赤いカップに入った小さな蝋燭。

 翌一九八六年四月、チェルノブイリの事故はスイスにも西ドイツにも影響を及ぼした。
 蝋燭を下さった婦人たちも、西ドイツ・ショップハイムの教会に集まった八十人のやさしい人々も、再び「ヒロシマの小さな被爆者」の語り足りなかった怒りと悲しみを思い出して下さっただろう。
 その年八月、ジュネーヴから「国連職員平和運動」の会長のV氏が広島に見えた。別れるとき、彼は大きな体をかがめて私に言った。
 「今、世界の人口の三分の二が核兵器に反対している。タイコ、元気を出して。」
 三分の二を信じよう。

二〇〇四年八月

 一九四五年八月五日の夕方、娘に鮎を食べさせたいばかりに、疎開先から家に帰った母。一月に一度の掃除当番で、四十分も早く家を出て助かった私。人は明暗を分けたと言うが、この来し方、どちらが明でどちらが暗か、長い間私には答えが出なかった。
 私は老い、町内会長さんの名前も隣りのおばさんの名前も忘れた。しかし、一瞬に生皮をはぎとられた生命が、納得できぬまま爛れた肉体に取り憑いたように、タッタッタッと私のそばを走り抜けた地獄絵さながらの光景、屠殺場に並べられた動物のような段原小学校の人々の姿と共に、私にとっては、原爆は、昨日のことのように鮮明であり、その昨日の痛みを背負って五十九年の今日を迎えている。
 戦争の被災者は日本中である。しかし、原爆の被災者には放射能による汚染が一生、体の不調という形でつきまとい、就職、結婚にもさし障り、それは精神の不安をつのらせる。私の五十九年を思うとき、生き残った被爆者の来し方と重ならずにはいられない。
 今、世界にある核兵器は一都市、一国家の消減だけでは済まぬ。酸素のある星故に生まれた人間が、その奢り、傲慢さ故に、今、母なる地球をも破滅させようとしている。
 もう真っ平だ。
 再び海外で戦争に参加するようになった日本。そのヒロシマに、二〇〇四年八月六日、世界中の平和の代表者が集まった。
 この原水爆禁止世界大会を前にして、今年も広島に向けて核兵器廃絶の平和行進が二〇〇人、岡山の原爆被爆死没者供養塔に祈りを捧げた。迎える私も大勢の若い人達に寄り添うた。
 平和行進も若い人が多くなった。タッタッタッと私の側を走り抜けた皮膚のない学生たちを思うと涙が溢れた。青春も知らず、親にも看取られず、拙い私の絵に残っただけの中学一、二年の学生たち。あの子たちも生きていたら平和行進に参加する若者になっていたかもしれない。
 今年も世界大会に集まった若人が、この老いた被爆者の思いを共有して下さることを願ってやまない。

 核廃絶なくして神も正義もあり得ない。
 世界中の人々に訴えたい。
 もう被爆者をつくらないで!

原爆記

 

生き生きて八十年

早川耐子 (一九二三年六月二五日生)

京大病院

思えばよくもまあこんなに長く生きたものだと思う。被爆から五十九年、私が生きられたのは、ただただ医師の熱意のお陰である。

広島から宝町の家の灰を持って京都の姉の下宿に着いたのが八月二十日ぐらいだった。しばらく二人共ぐったりとしていて、姉の京大病院への通院日も遅れていた。私は自分では気が付かなかったが、あまりにも大儀そうだったので姉が心配し、「ついでにちょっと診てもらおう。」と私を連れて病院に行った。私はそのときの手続きは覚えていないが気が付いたらベッドに寝かされ、病院の寝間着の腰の下に茶色の油紙をしかれていた。そして横に向かせて私の右のふくらはぎの三角布を外した。「骨が出とる。」と一人の先生がゾンデという針金のようなものでコンコンと軽くたたいた。私には見えなかったが、「漏斗のようになっとってネ、痛うなかったんかネ。」と後で姉に言われた。私は全く痛みは感じなかった。そして体がゆっくり沈んで行くように昏々と眠った。午後になって先生が五人もベッドを取り巻いて「お願いします。」「いや、君やってくれよ。」と口々に譲りあっている。私はだんだん不安になって「私、何にもしません!」と叫んだ。

「いや、大丈夫だよ、ちょっと注射が痛いかもしれないけどすぐ済むからね。」と言いながら、私の寝間着の胸を開いたかと思うと二人が私の腰骨と膝、後の二人が私の肩とひじを全身の力で押さえた。

「すぐだからネ。」「すぐヨ。」と言いながら螺旋になった錐のようなものを私の胸の骨に突き刺し、激痛で悲鳴を上げる頭も押さえられた。

胸骨の中の骨髄液を採って調べたそうで、八〇〇の白血球は今後増える望みがないと告げられ、少しでも早く身内を呼ぶように言われたことを後になって姉から聞いた。毎日、京大中の医師が入れ替わり立ち替わり私を診察した。私は姉の苦労も心配も何も思わず、ただただ昏々と眠り続けた。

朝になると主治医がきて、まずブドウ糖のアンプルを良く振る。カットしてそっと台の上に置く。それから私の寝間着を開いてゆっくり聴診器を胸に当てる。おなかも押さえてから寝間着を直し、二の腕をゴムで締める。ブドウ糖の上ずみを吸う。一五�tたらずの液を私の静脈に入れる。天下の京大病院でも骨髄を採るときの麻酔薬も澄み切ったブドウ糖液も不足していたのだろう。主治医も二十二歳の私を哀れに思われたのか翌日には「わかもと」という消化薬の半分ほど入った茶色い瓶を「父が飲んでいたけれど、食後に五粒か六粒飲んでごらん。」と置いて行かれた。戦争の疲弊は食糧難だけではなかった。

 私は死にもせず九月を迎えた。

 ある日、多分京大でも偉い先生だろう、年も若くはなかったが「私は今から長崎の大学に行きます。長崎も原爆でやられているから、たくさんの患者がいる。きっと良い治療法があると思う。教えてもらってくるから必ず必ず生きて待っているんだよ。きっとだよ。」と言って出て行かれたが、行きだったか、帰りだったか、大きな台風がきて山口県で列車が転覆して亡くなられた。

「必ず生きて待っているんだよ。」と言われた先生のことを、「私が代わってあげたかった。」と思い、「わかもと」を持って来て下さった先生にお礼に行きたいと思ったのは、岡山に来て、人心地ついてからだった。

 京大病院には私を入れて四人の被爆者がいただけだが、阪大病院には被爆者が廊下に溢れ、先生方は患者を跨いでの診察だったと後になって聞いた。

 九月に入り、夏休みが終わって学生たちが学校に集まる頃、私は八〇〇か九〇〇の白血球が急に一二万〜一五万に増え、学生たちの輸血を受けることになった。姉は、死ぬ妹に大部屋は可哀想と思ったのか、私を個室に入れてくれ、毎日、大阪の千林という所の闇市で芋粥を売って、差額ベッド代と輸血代を稼いだ。それ以外の治療費はなぜか要らなかった。

 岡山に母の妹夫婦がいて、進駐軍に取り入り飛行場の仕事を請け負っていた。人夫の数がしょっちゅう変わるので配給米に余剰が生まれる。叔母は一ダースの子供を生み十一人は十八歳以下で皆家にいたが、食べることに不自由はしていなかった。姉が行けば米はいくらでもリュックに入れてくれる。姉は一日休んでは岡山に行って帰った。

 やっと姉の苦労が分かるまでに回復したのは十二月に入ってからだった。「一生子供は出来ません。コレラのような熱病に罹ると助かりません。」と言われて退院した。身長は一四八�p、体重三二�s。

守口戦災寮

 十二月の半ば、大阪の守口の戦災寮に入れてもらった。

 姉が風呂屋に連れて行った。私の着ているものを脱がしながら、なぜか慌ててむしり取るように脱衣箱に押し込んだ。風呂に入って、「耐ちゃん、虱(しらみ)がいっぱいおるけん、人に分からんように、サッと手早よう着んさいヨ。」とささやいた。

 幸い、お隣りの部屋が専売局に勤めている青年と母親の二人で、挨拶をしたとき、 「アイロンとミシンはありますから、いつでもお使い下さい。」と言って下さっていたので「ちょっと妹の服の皺をのばしてやりたいと思いますので。」と言って借りてきた。部屋に鍵をかけ、 「耐ちゃん、大きな声をしんさんなヨ、隣りに聞こえるけん。」と入り口で私を裸にし、四畳半しかない部屋の一番奥で姉の下着を着せた。

 入り口で私の下着を広げ、「これを見んさい。可愛相に、痒いかったろうねえ。折角姉ちゃんが滋養のあるものを食べさせても、この虱(しらみ)が皆吸い取りよったんじゃが。」と言いながら肌着の縫い目を開いた。縫い目にはびっしりと虱(しらみ)が詰まっていた。

 二合ほどのお米を持ってアイロンを返しに行った。

 「ついでに私の服にも当てさせていただきました。」

 虱のためにアイロンを借りたと言えないので、自然に口数が多くなっている姉に私はクスリと笑った。原爆の朝、八月六日以来、私は初めて笑った。

湯原医院

 次の医師との出会いはそれから二十年後である。

 私は岡山で一児をもうけた。被爆して十年ほど経っていたか、ある日、風邪を引いた。熱が出たので、連れ合いが近くの薬局からストレプトマイシンのアンプルを一本買って来て打ってくれた。翌日、病院に行くと、「マイシンは正解でした。喘息が出ています。看護婦さん、ネオフィリン10とツッカー。はい、次の人。」

静注が半分ぐらい入ったとき、まるで胸の中がカラッポになったように呼吸が楽になった。私は喘息という病気があることを知らなかった。病院で聞いたのが初めてだったので、すぐ街の本屋に行って喘息という病名の本を探した。結核、リュウマチなどの本はたくさんあったが、喘息というだけの本はなかった。結核の本を調べたが書いてあるわけはなかった。医学百科辞典を出して探したら喘息の項目があった。しかし、喘息はなんで起きるのか理由が書いてなかった。ただ対症療法だけ。

 私は薬屋に行って、ネオフィリンとツッカーを買った。昭和三十年の時代にはガラスの注射器しかなかった。ブドウ糖は二〇cc、ネオフィリンは一〇ccのアンプル、注射器は二〇ccしかなかったので、ブドウ糖のアンプルの一〇ccは捨てねばならなかった。新聞にアドレナリン、エフェドリンなどの広告が出ると、それを買った。一年経たぬ間に、各製薬会社の薬の効能書きがいっぱいになった。薬局でなく製薬会社の場合は、日本語で書いてない場合が多かった。副作用の所だけは辞書で調べた。夜中に胸の苦しさに耐え兼ねて家人を起こすのも悪いので足首にゴムを巻き、体をかがめてゴムの一端を口にくわえ、刺した針に血液が逆流すると、くわえたゴムを引っ張ってソロリと引く。それからゆっくり一〇ccのブドウ糖とネオフィリンを血管に入れる。まるで麻薬患者のように鬼気迫る姿であったと思う。風邪を引いて医師にかかってから、一年は経ってなかった。その間でも、ここが良いと聞けば岡山中訪ねた。一九七〇年頃、入院している病院の人が岡山市湊の湯原内科を教えてくれた。行ってすぐ入院した。四ヵ月で全快した。

 一九八〇年頃だった。夜八時頃胸の痛みで湯原内科に電話した。先生は症状を聞くとタクシーですぐ来いと言われた。医院の玄関で、先生は手のひらのニトロとアダラートをすぐ私の口の中に入れ、用意してあったストレッチャーに乗せられた。中に入ると、心電図を採り点滴を始めた。それから日赤に電話をかけた。先生の言葉だけは聞こえたが、どうも日赤が救急車を出さないようであった。すると先生はすぐ消防署に電話をした。消防署の救急車はすぐに来て、先生は点滴を持ったまま私と一緒に救急車に乗って日赤に行った。

 そのときすでに十時を回っていた。日赤の医師は患者の私に怒るわけに行かず、看護師に当たり散らした。

 「田舎の『ババア』が大袈裟に苦しみ、『田舎医者』が慌てて救急車に乗せて来た、面倒この上ない。」という気持ちと、連れて来た医師に対する侮蔑が私にありありと分かったが、一応仕方なく私をCCUに入れた。

 十二時頃だったか、看護師さんが飛んで来た。

「早川さん、良かったね。」と救急措置の成功を笑顔で告げ、「心筋梗塞でないとほかの病気には絶対に出ない酵素が出たのよ。やっぱり心筋梗塞だったよね。」と話した。

 翌日、誠に丁寧な詫状が湯原内科に届けられたことが分かり、同時に、私の待遇が驚くほど良くなった。京大病院と言い、湯原内科と言い、私は二度も助からぬ命を助けてもらった。

トイレ

 原爆直後の地獄の中、鉄道局に行った六日と十四日以外の毎日を思い返してみて、私はトイレをどうしたのだろうと時々考えることがある。日陰というもののない焼け野原で、それでも一日、二日は生きている母を収容所に尋ね、後はただ、道に転がる死体をしゃがんでつぶさに確認する。七日は比治山で夜を過ごしたのに、収容所でも比治山でも、まして鷹の橋の辺りでも、鳥肌を立ててどこで用を足そうかと走り回った記憶は全くない。それに私の非常袋にはハンカチも落とし紙もなかった。

 段原小学校に母を尋ねて比治山を越えるとき、比治山神社の参道の脇におじさんが腰を下ろしていた。炎天下ばかり歩いていた私も深い木立ちにほっとして思わず隣りに腰かけた。おじさんは「刻み煙草」を吸っていたが、膝が折れて動けないとのことで、私は非常袋にあった「萩」という煙草と乾パン一袋をあげた。これで私の非常袋は空になった。そして「誰かに会ったら迎えに来てもらうから。」と言って別れた。段原小学校でも被害者だけだった。ここでも水を飲んだのか、トイレに行ったのか覚えはない。

闇屋

 守口の戦災寮に落ち着いてしばらく経った十二月末、母の実家の山口県に行き、母の死亡を報告した。その帰りに岡山の叔母の家に寄った。子供の頃、岩国にいた叔母の家に夏休みになると遊びに行った。私の家のように父が箸を取らないと「頂きます。」と言えないのと違ってひどく開放的だった。あの頃はいとこは五、六人だったが、何でも早い者勝ちで、マゴマゴしているとおいしいおかずはすぐになくなった。 「こまい子が泣きよるが、にぎりめしでもしちゃりんさい。」という具合で、叔父が「お前らももうここにおりゃあええが。」とこともなげに言ってくれたが、両親のいない今、姉と目を合わせ二日泊まって米をもらって汽車に乗った。

 戦災寮の共同炊事場で、何度か会っているうちに大工さんの一家のおかみさんと仲良くなった。腕の良い棟梁だが、まだ大阪は復興の段取りが出来ていなかったので、米のかつぎ屋をしているとのことで、おばさんは私たちを連れて行くように棟梁に話してくれた。リュックが二つと一升桝等どうして調えたか覚えていない。私には記憶にないが、姉と私はとにかく朝四時か五時か始発の電車で大工のおじさんに連れられて京都まで行き、そのときの言葉で汽車に乗換え、名古屋駅の二つ手前で降りた。列車の中はそういういわゆる闇屋でいっぱいであった。駅からみんな四方に散った。最初はおじさんに連れられて百姓家に行って頼んだが、慣れてくると姉と二人で米を売ってくれる所を開拓した。姉が10kg、病後の私が5kfのリュックサック。

 米が買えないときがあるとさつま芋を買った。リュックに芋を詰めて背負うとゴロゴロして背中が痛む。そのため、誰もが背中に当てる小さい座布団を持っていた。

 薄暗くなって、駅に歩いていると暗い道のかげから「今行くな。巡査が見張っている。」と声をかけてくれる。誰とも分からないが「もう良いぞ、走れ。」という声も闇の中。汽車が止まっても入り口はすでにいっぱいでウロウロしていると「こっち来い。」と窓から誰かが声をかけてくれる。窓の下までくると締まりかけて動かない汽車の窓を「離れてろ。」と言って足で蹴ってガラスを割り、カケラを外に出して、私の両腕を取り窓に引き上げてくれる。私が二十二歳、姉が二十六歳。若いということは自分で気付かないまま、得していることがある。

 夜中に帰り、共同炊事場で取り敢えず食べる分だけの米を洗う。棟梁のおかみさんが起きてきて七輪に火を起こし、お釜をかけてくれる。米が炊けると、私たちの部屋でまずおかみさんのお茶碗に山盛りの御飯をついであげる。何かおかずがあったと思うが思い出せない。何分銀シャリだけでも最高だったのだから。塩をかけたか、梅干しでもあったか思い出せない。

 おかみさんの家は子供が四人で、棟梁が仕入れてきた米は半分近く家で食べる。米を売るとき、一升桝に一合桝で十杯入れると損をすると習ったのも、そのおかみさんである。米は一気にサッと桝の中に入れると米が縦に入る。それをサッと相手の入れ物に入れる。一合づつ入れていると一升桝に十杯以上、山盛りになるから損だそうである。

 二、三日後、同じ様に私たちとおかみさんの三人で遅い夕食にありついていたときのこと。おかみさんは山盛りの炊きたて御飯をゆっくりかんで食べていたが、四つ位の子供が入って来るのを見ると半分くらい食べていた御飯をパッパッと放り込んで、子供がその茶碗を取ろうとしたときには全部口の中に入っていた。
 子供は泣く。泣く子を抱えておかみさんは部屋を出る。

 その日から、いくらおかみさんがこっそり入って来ても、子供は一人から二人と増えて私のドアを開けるので、おかみさんは鍵をかけ、子供が部屋のドアをたたくとアッという間に口に頬張る。飢えとはかくも母親の心をも奪うものか。

 息を呑みながら見守り、おかみさんは自分の食べ分を朝になって子供たちに与えるのだろうと、自分に言い聞かせていた。初め、見かねて一口二口分けてやっていたが、子供四人みんな来るようになっては私の家が持たない。

夜の浮浪児

 ある夜、臨検のため帰りが遅れて京都からの電車がなくなり、同じく乗り遅れた四、五人の闇屋のおじさんらと廃屋になった郵便局跡で一番の京阪電車を待つことにした。小学校の四、五年の少年が、土間やカウンターで寝ていた。私は少年の隣りに腰を下ろし、二つのリュックをはさんで姉も腰を下ろした。こういうときに小さい座布団はお尻の下に敷く。朝の電車までにまだ三、四時間ある。リュックにもたれてウトウトしかけると、右にいた男の子がソロリと私のセーターの下に手を入れた。手が冷たいのかと思って黙っていた。手がソロソロとのびて肌着の上からとはいえ私の胸に届いた。

 私は代用教員として五年前はこのぐらいの子供を教えていた。

「両親共亡くなったのだろうか。」と思ったとき、「ネエちゃん、気持ちええか。」とささやいた。私は思わずリュックを押さえていた手で男の子の顔を張った。男の子は黙ってカウンターに上がった。しばらくしてドスンと音がして男の子がカウンターから落ちた。「オカアチャン……。」小さなすすり泣きがしばらく聞こえた。

 「行くどオ。」と闇屋のおじさんの一人が皆を起こした。リュック組が皆立ち上がった。

逼迫(ひっぱく)

 棟梁のおかみさんは一階の住人のことなら何でも知っていて、いろいろうわさ話もしてくれた。

 おかみさんの奥隣りは沖縄の人で、大阪の空襲で夫に死に別れ、十八歳と十六歳の娘と小学生の男の子二人の子供を抱えていた。沖縄の訛りが強く、会話が不自由な女手一つではもう限界、食べさせられない。どうしょうもなくてある秋雨の日、その夜をしのぐために十八歳の長女を「売り」に出かけた。それを棟梁のおかみさんは、玄関に近い私の部屋に来てドアを少し開けて見ていた。

 千林の闇市で、せめて日本人に「買って」もらいたいと思ったそうで、汚れた軍服を着た青年を連れてもどってきた。姉と私が風呂屋から帰ると、長女と沖縄の青年を部屋に残した沖縄の親子四人がそぼ降る雨の中、玄関の外で一本の傘に寄り添って立っていた。

 見るに耐えなかった。

 二十日ぐらい経ったと思う。棟梁のおかみさんが、「あの軍服の若者が沖縄の娘と一緒になる。」と報告してくれた。みんな、自分の食べることに精一杯で、昔から「田を減らすより口減らせ」という諺があると棟梁のおかみさんが教えてくれたが、何かしてあげたくても出来なかった一階の住人は本当に安堵し、「良かった、良かった。」と二人の結婚を心から喜び合った。

 何ヵ月かして私の隣りの専売局の青年が戦災寮を出て、若い二人はそこに住んだ(この寮は大阪府の管轄だから、外国人は入れない。身元証明も必要だった)。隣人として初めて挨拶を受け、お祝いに米を三合あげた。

隠岐の島

 姉が微熱を出した。今度は私が働く番だ。私は戦災寮の管理人をしているおじさんと隠岐の島で着物を売ることにした。管理人は大阪の空襲で妻子を全部失い、軍隊から帰ってくると行く所がなくて戦災寮に入れてもらったそうで、寮の仕事は何もしない四十歳過ぎの「なんでも屋」だった。

 焼け残ったものを売り食いする人達、安く買いたたく私たちのような人間の間にたって天満町の闇市は活気を呈している。

 自分の持てるだけを買って汽車で境港に行き、船で西郷という所に着く。隠岐の島では宿屋はそこだけだ。

 そこで一泊して、次の村で、泊めてもらう民家で品物を広げる。隠岐の島は戦災とはまるで無関係のような、平和に見える島であった。次の村はどこそこの家に行くようにと教えてくれる。

 着物は良く売れた。結婚が決まったとか、どこそこの長男と見合いをさせるとか、村の半分位のお母さんや娘さんが来て、商売は活気づく。その夜はなにがしがのお金をはらって泊まる。次の村はこう行って、だれだれさんの家にはこう行くと丁寧に教えてくれる。次の村まで行くのに吹雪にあって方向が分からなくなり、三十分も一つ所にしゃがんで吹雪の止むのを待っていたときもあった。どこの家で泊まっても朝はイカの足の煮付け、昼はイカの子の煮付け、夜はスルメイカの刺身。どこの部落でも家人と一緒の食卓だが刺身は管理人と私だけで、母親も子供も刺身やスルメを食べているのは見かけなかった。一家の主はイカ舟に乗っていて見たことはない。一晩泊まって朝食後そこをたつ。風呂と便所は外にあった。夜中、トイレに行くのにそっと起きて外に出ると、イカのはらわたを捨てるので村中青い燐が燃えている。広島と母のことを思う。

 天満町で買い出しをして島に行って帰るのには六日かかる。帰りに持てるだけのスルメを買って、これを卸店に持って行く。四月過ぎると一通り島は済んだ。島のお母さんは雪がなくなると農作業で行商人などかまっていられない。一月とちょっとの経験であった。その間イカ付けにはなったが、今でも闇に浮かぶ青い燐がまとわりつき、イカはあまり好きではない。

同じ頃、広島の鉄道局から、今後、局に帰るかどうか問い合わせの手紙が届いた。

 帰れば私と姉の住む寮か何かを手配してもらえることは分かっていたが、欲がなかったのか、哀れな私たちを見られたくなかったのか、とにかく「退職願」を書いて送った。
 隣りの専売局の青年とお母さんが、引っ越しの挨拶に見えた。宿舎が出来たのか、戦災寮脱出第一号。別れるとき、青年は私に一冊の本を手渡した。標題は「走れメロス」。とにかく活字だ。嬉しかった。

(戦前、悪いザラ紙で「雨ニモマケズ」を読んだ。一九四〇年よりちょっと前だったと思う。そのときは「一日四合ノ玄米ヲタベ」だったのが、厳島国民学校で、そこの先生の買った本は「一日三合」になっていた。国家なんていい加減なもんだ。)

靴磨き

街に出て見た。大阪の街は初めてだった。バラックではない店が出ている。アメリカの白人や黒人を初めて見た。小さな子供が靴磨きをしている。 「そうだ。私も靴磨きをしよう。」と思った。帰って靴墨を買って台を用意して梅田の駅の横に腰を下ろした。すぐに五、六人の子供たちに囲まれた。 「ネエちゃん、ここで靴磨きすんか。」小学校の二、三年から五、六年位の子が険しい顔で私を見下ろしている。「うん、そうョ。」一番年嵩の子が精一杯凄んだ声で「ネエちゃん、ワイらの仕事取るんか。ワイらはほかに仕事ないねん。ネエちゃんはパンパンでも何でも出来るやろ。」と言った。

 「そうだネ。じゃあこの道具、誰か使ってネ。悪かったネ。気が付かなくて。」私はそう言って立ち上がるとさっさと歩き出した。「ネエちゃん、ガンバリや。」と後ろから声がした。私は歩きながら右手を大きく振った。振り返ったら涙を見られる。私には何も出来ない。

疎開の荷物

 寮に帰ると、鉄道局から荷物が届いていた。局から疎開に出してもらっていた荷物で、母が荷造りをして私に持たせたものだ。姉の女学校卒業祝いに、父が京都でつくらせた手描きの友禅の着物と金欄の刺繍の帯、ほかに「小千谷(おぢや)縮(ちぢみ)」の着物など衣服ばかり。

 疎開の荷物が帰ってきたのは局だけだった。ナガヒロのおじさんに一緒に疎開してもらったとは母に聞いたが、どこか知らない。児玉のおじさんからは、どこか島に一緒に預けたとは聞いていたが、夫婦とも亡くなって荷物はこれだけ。手描きも金欄も四畳半では置き場もない。私が売りに行った。大丸だったか、三越だったか、店員が喜んで買った。

 それからしばらくして、局からお金が届いた。びっくりするほどの大金だった。原爆証明も入っていた。ずっと後になって国鉄にいた人にその話をすると、「退職届までの給料、退職金、国民学校にいたときの退職金、それに多分官補6級を一階級上げた退職金だろう。」と説明され、「あんたはキャリアだから定年までいたら部長どころではないよ。」と退職したことを残念がられた。しかし、もし鉄道局に帰っていたら、残留放射能の濃い広島で二五〇〇から三〇〇〇の白血球で生きていけたか、と思う。今でも白血球が五〇〇〇を超えると、即、入院となる。

幻の原爆記

 広告を見て 「アド」という小さな広告新聞社に勤めることにした。新聞といえば聞こえがいいが、タブロイド版で日劇ダンシング劇場のチラシを配ったりの毎日だった。主任は元築地小劇場にいたとかいう四十歳代の男性で、次が元アメリカの駐留軍の通訳をしていたという三十歳代のY氏。もう一人五十代の男性、それに二十一歳のかわいいM子ちゃん。M子ちゃんは生粋の大阪っ子。日劇は出入り御免だったから、だれだれのダンスが見所だとか、いい加減な原稿を書いて結構楽しかった。

 一月位経ったときだったか、Y氏が「原爆記を書いて新聞に載せよう。」と提案し、元築地の主任が「一応全部書いてもらって三回か五回に分けて載せてみよう。」と決断した。私は一週間かけて十七、八枚の原稿を書いた。ところがY氏は私の原稿を持って出たきり帰って来なかった。彼は米軍につてがあるので印刷代は只だと言い、「任せて下さい。」と紙を持って出ては刷ってきていたが、どこが印刷場所か言わなかったそうだ。多分Y氏は築地小劇場にいた主任の動静を探るためにアドにいて 「もう毒にも薬にならぬ只のオッサン」だったので、行きがけの駄賃か米軍へのみやげに私の「原爆記」を持って出たのだろう。

 「アド」はそれっきり。

 何年か後、築地小劇場にいた美しい女性と岡山で知り合い、特高の拷問にあった生々しい話を聞いて「やっぱり本命は主任だった。」という思いを強くした。

広告取り 

 M子ちゃんの世話で私は「吉本興業」の経営する映画館の「広告取り」になった。当時、映画の幕間に行われていた「うどん」とか「コーヒー」などの宣伝はスライドだった。私たちが広告主から受け取った「店名はカタカナで。バックは椰子の木で。」とか色の指定まで書いたメモを吉本の事業所の隣りの小部屋に持って行く。職人さんが薄暗い部屋ではがきの半分ぐらいのガラスに丁寧にさまざまな色を塗って行く。

 真ん中が事務所でその奥は映画館の外の看板の絵を描く所。

 M子ちゃんは法善寺横丁の「蜜豆」がおいしいの、ブラジルという店のコーヒーが安くておいしいとか言って、広告取りの合間に良く連れて行ってくれた。広告取りは順調だった。誰かに聞いたので本当のことかどうか分からないが、「朝鮮人は一人で事業を起こそうとする。中国人(華僑)は百円の金を出し合って事業を起こす。」そうだが、心斎橋の繁華街は大方中国人だった。

岡山へ

 秋が来て寒くなった頃、岡山の叔父が姉に再婚の話を持って来た。娘を嫁がせようとしたが全部ソッポを向かれたので、夫に死なれた姉に、病身だから大事にしてくれる新しい夫を持てと口説いた。相手は五十歳の妻に死なれた役人。土建業の叔父にとっては娘が駄目なら姪にと、絶対に役人にコネを付けたくて口説きに口説いた。「こんな狭い所にいないで、取り敢えず儂の家に来い。」という叔父の強いすすめもあり、姉もこのままではいけないと思ったのか、私と一緒に叔父の家に引っ越すことになった。戦災寮脱出第二号。

 岡山という土地はあまり好きになれなかったが、早川と結婚し、岡山労農党を立ち上げた三人のひとり片山政男氏の小さな店、「片山タイプ」の校正や、早川の知人だった桂又三郎先生の原稿の校正、出版の手伝いなどをするようになった。二、三就職の応募をして原爆故に断られたのが幸いだったのかと思われるほど、貧しいながら心豊かな日々だった。

 姉の最初の夫は一九四〇年頃、東京の大学から広島に帰省中、学生服のまま作業服の青年と文理大のグランドで会っていたところを検挙され、半年間も未決に拘禁された。あの当時の思想犯に対する過酷な扱いに、女学生の私や新婚の姉を巻き込むまいと、義兄は思想的なことは一切口にしなかった。学生時代から彼は経済の翻訳家の下請けをしていたが、自分の名で翻訳したのは一冊だけで、英語の使えない戦時下、結核のため不遇な一生を三十三歳で閉じた。臨終のとき、「今に日本中の地図は赤くなる。」と言った言葉が忘れられない。

 私は初めのうち、義兄にも連れ合いにもあまり影響されなかったが、スメドレーの「中国の赤い星」を読んで、義兄や連れ合いの言葉の底の意味を理解した。

長い間に、被爆者の仲間からそれぞれの体験を数多く聞いてきた。難波龍巳氏もその一人だ。岡山市被爆者会では会計を受け持ち、あまり多くを話されない実直な方だが、一度だけお話を伺ったことがある。毎年の平和行進が通る岡山市原爆被爆死没者供養塔の前で、いつだったか十人ぐらいのコープの関係者に被爆者が五分ずつ話したとき、彼は次のような話をした。

 八月六日の夕暮れ、福屋の中に入りきれない被爆者が道路に溢れていた。軍人として見回っていると「兵隊さん。」と女の子の声がした。「どうした?」とその子の側にしゃがんで聞くと、「私ねえ、目がきれいだとみんなに言われていたんヨ。友達にも先生にも『あんたの目はきれいネ。』と言われとったんヨ。」と話しかけてきた。

 皮膚が丸ごと焼かれてなくなり、スイカのように膨れ上がって目も塞がれてしまった顔を見ながら、「そうか、そうか。じきにトラックが来て、お医者に診てもらえるから辛抱しような。」と慰めると、「水を下さい。」と言うので、「水は体に良くないヨ。すぐお医者さんが来るからネ。」と励ましてその場から離れた。

水は、「すぐ死ぬから、飲ませてはいけない。」と軍の命令があったそうで、私はたった三分のこの話に涙が溢れた。

せめて自分の美しかったことを誰かに言わずにおれなかった女学校一年か二年の学生。彼女はどんな将来の夢を見ていたのだろう。数学の好きな中学生も歌の上手な女学生も、それぞれの夢があっただろうに、福屋の前の道路に横たわって、皮膚がズルリとむけた膝を立て、赤むけのひじから上を宙に浮かせて並べられた学生たち。両親が来たとしてもわが子の見分けが付かないほど変わり果ててしまった姿。私はそうした学生たちをたくさん見てきた。その無残さに今も心のふるえが止まらない。

原爆の絵

 二〇〇〇年、広島に出来た国立の平和祈念館から、被爆者会会長を通して原爆の絵を出品するよう依頼があった。岡山からは吉村貞人氏が一枚、私が二枚、『ナガヒロのおじさん』と『死にながら走る学生たち』を出品した。ベニヤ板に丁寧に貼り付けて宅配便に託したのは、七月だったと思う。

 二〇〇一年七月、吉村氏から「祈念館から絵を展示すると言ってきたよ。」と聞かされたが、私には一年経っても受領証も何も来ないので、多分、NHKで失ったのだろうと思い、絵は日本中から集まるので、まあ、私のが迷子になっても仕方がないかと半分あきらめていた。

 二〇〇二年五月、祈念館に行って、いつものくせでホリエユキを検索したがやはり無い。ナガヒロのおじさんはあった。あったが被爆地は不明になっていた。私は隅に腰かけている女性の職員に「おじさんは千田町の文理大のグランド前でした。」と言ったが、「グランド前は平野町です。」と相手にしてもらえなかった。おじさんの最後の姿を描いて届けたのに、二年間なんの音沙汰もない。鬱積した気持ちに火が付き、岡山に帰ってすぐ、祈念館に「原爆の絵の係御中」で手紙を出した。一週間ほどして、祈念館副館長の二階堂氏から「その絵は二枚とも覚えています。決して失ったりしてはいません。」と丁寧な電話がかかった。

 間を置かず「ナガヒロのおじさん」の遺族から電話があり、五月二十二日に祈念館で再会した。五十七年ぶりのことだった。そのとき、祈念館のはからいで、おじさんの娘さんの里枝さんと私は、二年前に描いた絵と対面することが出来た。しかし、里枝さんはどうしてもお父さんの現実を受け入れることが出来ず、絵を見ようとはされかった。里枝さんがやっと納得されて絵のお父さんを御覧になったのは、しばらく後のことになる。

 その年の秋、「ナガヒロのおじさん」の絵が縁で、NHKの取材を受けることになり、ディレクターの横井氏が自宅に見えた。横井氏は姉が遺した家族写真の中の母を見て、「長広さんに五十八年目の奇跡が起きたのです。あなたにも起きるかも知れません。」と語りかけ、近くの写真屋さんに頼んで、若い母の顔を写し取って下さった。

 母の顔写真は、横井氏に手続き一切をお任せし、祈念館に納めていただいた。

 母は初めて「私を見た方はいませんか。」と自分で話しかけることが出来るようになった。

 二〇〇三年八月、原水爆禁止世界大会に参加し、祈念館に入り、真っ先にホリエユキを検索した。あった。母が出てきた。

 「お母ちゃん……。」

 辺りを忘れ、声を上げて泣いていた。

 「お母ちゃん。ナガヒロのおじさんは私が見つけたヨ。お母ちゃんもきっと見つけてもらえるよネ。」

 母の前で私は、あの日の二十二歳に帰ってしまっていた。

 

重ねきし よわいおもたき 被爆者も
如月(きさらぎ)の風に 向かい立つなり (一九八七年二月)

生きて修羅 死者の無念や 原爆忌 (一九九一年八月)

核廃絶 ききて逝きたし 幾万の
死者の 無念 背負う被爆者 (二〇〇二年三月)

武器持ちて 外国(とつくに)ふみし 日本は
百年たたぬに また出で行くか (二〇〇四年二月)

うたてき世に 永らうほどに なお悲し
せめてのみやげは 九条の会 (二〇〇四年六月)

あとがき

 私が被爆者会を知ったのは、広島に行って同級生に聞いたからである。岡山で会員になり、役員になってからでも四十年近くなる。その間、会長は五人交替された。八十歳で役を降りたが、今でも役員や会員との交流があるのはありがたいことである。

四十七歳のとき大学病院に献体の手続きをしてからでも随分生きた。

ここ四、五年「いつでもいいね。」と言い合っているこの頃であるが、核廃絶どころか、劣化ウランで地球も病むかと心を痛めながら逝かねばならぬとは …………。

 この手記をぼつぼつワープロで打っているとき、井久保伊登子先生とお近づきになり、「書けたらぜひ送って下さい。」と丁寧なお言葉をかけられ、自作の本を二冊送っていただいた。

 一九八五年、岡山県原水協の中尾元重氏に連れられてスイスに行って、私の精神に心棒が入った。以来、私の先生は中尾氏であった。その上、齢八十になって井久保先生の知己を得るとは、自分は生きてよかった、大して役に立たなくても、でも、生きてよかったと今、声に出して言える私である。

 拙いワープロをパソコンに打ち変えて下さったデイサービスセンター「くわのみどりの家」の三杉先生、福田さん、旭川荘の学生諸氏に厚く感謝申し上げます。

二〇〇四年八月六日

 

〒703-8277 岡山市御(お)成(なり)町八|二

電話〇八六-二七二-五三六四

早川(はやかわ) 耐(たい)子(こ)(一九二三年六月二五日生)

印刷発行 原水爆禁止岡山県協議会 岡山市春日町四ー二六
Tel&Fax〇八六ー二二四ー三七八七

 

 

 

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