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2007年04月30日

読者のこえ

みんなで歩こう
和歌山県 山林恵美子
 「国民平和大行進」今年もみんなで歩きましょう。わが町は5月18日です。

『原爆と文学』終刊によせて
千葉県 夏目侑子
 私も執筆者の一人として関わってきた“原爆と文学”誌(年刊)が今年版で終刊となった。日本原水協の理事でもあった故山口勇子さんの発案で誕生した本誌の創刊は35年前の1972年7月。5号まで刊行の後、一時休刊を経て、被爆50年の1995年再刊。12年間、年一回刊行されてきた。私は「通信」読者でもあり、日本民主主義文学会広島支部の篠垤潔氏に文才を見込まれて1997年版より提稿。10年間関わった。駆け出しの頃は、執筆ページに応じて普及分担があるとはつゆ知らず。書きたいだけ書いて大量の普及を抱え、途方に暮れた時もあった。とにかく、あらゆる場に持っていっては、回らぬ舌で宣伝し、一人でも多くの読者を確保することに必死だったように思う。
 驚くほど普及が順調に進み出したのはつい最近のことだ。本誌に関わって様々な出会いがあり、学ぶことも多くあったのだが、取り分け、書き手である“私”と、読み手である普及先の方々との信頼関係の大切さ。今、様々な企業が実に些細な不手際から連日のように新聞等におわび広告を出し、社長名で陳謝しているが、信頼を失うのはあっという間でも、失われたそれの回復に、どれだけ時間を要すことか。今日まで、私の拙い作品に惜しみない励ましを下さった方々に、この紙面を借りてお礼を申し上げると共に、長く編集を手がけてきた増岡敏和、篠垤潔両氏にはこの間の労をねぎらいたいものだ。私がこの10年間で一番嬉しかったことは、今は亡き田川時彦先生に、己の文才を認めていただいたことである。

50回目すごい
新潟県 池津恵美子
 国民平和大行進、もう50回目、すごいですね。私はまだ1度も歩いたことがありません。私の両親はもう年なので歩くことはできませんが、見送りには毎年行っています。核兵器をなくし、戦争のない平和が来ますように…!!

歩いたこと思い出した
佐賀県 吉末敏文
 『原水協通信』を3年ぐらい読んでいます。今回はカラーの「平和大行進」のポスターが入っていました。昔「歩いたな」。佐賀~牛津~江北~有田~県境へ、32歳のときでしたか?今年はすこし歩いてみようと思っています。

全世界に訴える
岡山県 井戸原一行
 広島・長崎の原爆に今も被爆者は苦しんでおります。憲法九条改悪絶対反対!!全世界に訴え続けます。

思わず心の中で叫んだ
山形県 角川洋一
 3月号のパズル欄に第193回の当選者として小生の名がありました。送られてきたのが図書券ならぬ、原水爆禁止運動の歩みを図版・写真・解説・年表で満載した記録集!!思わず心の中で「おお!!」と叫んでしまいました。ありがとう!!

ただちに被爆者救済を
東京都 村野陽太郎
 国は仙台、東京両地裁の原爆症認定集団訴訟の被爆者救済をもとめる判決をふみにじり控訴をしました。まったくひどい、国の認定行政を厳しく断罪した判決を素直に認め、なぜ救済の手をさしのべようとしないのか。一審のとき以上の力を出してすぐにたたかいはじめる。

もっと歩く努力したい
東京都 北山征一
 「歩きつづけて50年原点に」が印象深く、東京だけでなくもっと歩きたいが…(でも少しでも努力したいものです)。

不安全増大会議
広島県 大越和郎
 政府がつくった「安全保障会議」なるもののなかで最初に議論し実行しているのが多額の税金を使って「ミサイル防衛」のための兵器を全国各地に配備することでした。
 北朝鮮の「核兵器開発・ミサイル発射」が「追い風」となっているとうそぶきます。「拉致問題が解決しなければ国交回復はない」と筋をとおしているようにみえますが、北朝鮮との関係が良くなることは彼らにとっては「向かい風」になるとでもいっているようです。うがった見方をすれば人道問題を軍備増強に利用しているともいえます。
 万一ミサイルがとんできてもその兵器で安全が確保される保証もないといいます。かえって、アメリカの軍事戦略にくみこまれることで日本の危険は増大することが懸念されます。
 「安全保障会議」は名を「不安全増大会議」にかえたらより事の実態と本質がわかりやすくなります。

素晴らしい選挙戦を
三重県 坂久
 いま新しい政治の創造のため、全国各地で厳しい選挙戦が繰り広げられています。みんなが、いきいきと生活することができる国をつくるために、みんなで素晴らしい選挙戦を展開しましょう。

平和の足跡刻みたい
兵庫県 前原昌和
 「2007年国民平和大行進」の記事で、ポスターのスローガンが「核兵器をなくそう、憲法9条を守ろう 非核日本宣言を実現しよう」となっていることを知り、とっても納得できた。また、「50回」目を迎えたことにも何か誇らしい気分を味わった。兵庫にはほぼ例年通りの7月7日から16日に入る。節目の年に私自身も「平和の足跡」をしっかり刻みつけたい。

核兵器の惨害から守れ
栃木県 本田新太郎
 どんな国でも核武装は一日も早く廃絶すべきであり、北朝鮮が核兵器を1、2個持つ事も勿論だが、アメリカやロシアの如く何千発も保有している如きは人間の顔を持ったアクマの顔でしかない。核兵器の一斉の廃棄こそ人類平和の象徴であらねばならぬと思う。今こそ地球を核兵器の惨害から守るべきである。

多忙化する教師たち
埼玉県 新島善弘
 教師が多忙化している。教師になって18年目だが、昔ならできていたことが時間がなくてできなくなっている。生徒たちともっともっと楽しく学校生活を送る時間があったのに…。多忙化し、平和について語り合う時間もない…。こんなんでいいのだろうか?

各国の運動知りたい
福岡県 早田明文
 核兵器廃絶運動は全世界の大きな流れになっている。各国の運動に関する情報記事が欲しい。

2007年04月28日

【声明】NPT再検討会議 核兵器全面禁止の決断を求める

2010年核不拡散条約(NPT)再検討会議に向けて、第一回準備委員会が4月30日から5月11日までオーストリアのウィーンで開かれます。この5年間の新たなサイクルを成功させるために、世界中から各国政府とNGOが集まります。

日本原水協は、東京原水協、兵庫県原水協からの代表からなる代表団を派遣し、日本の反核運動の提言を発信します。日本被団協事務局長の田中煕巳さんも代表団に同行し、被爆者を代表して核兵器廃絶への訴えを行います。

NPT再検討会議
日本原水協の声明
核兵器全面禁止の決断を求める
                          2007年4月28日

 日本原水協は、世界で唯一の被爆国の運動として、広島・長崎の被害の実相を伝え、核兵器の廃絶を実現するよう世界諸国民と政府に呼びかけてきた。あの日から62年近く経たいまも、原爆は26万の生存被爆者を苦しめ、日々、命を奪い続けている。こうした悲劇がくり返されてはならない。そのために国際政治は、具体的に行動する責任を負っている。

 21世紀の前夜、2000年5月20日、NPT再検討会議は、自国の核兵器の完全廃絶を達成する核兵器国の「明確な約束」をひとつの重要な合意事項とする最終文書を採択した。だが、それ以後7年の年月を経ようとしているいまも、「約束」は実行されていない。世界にはなお27000発にのぼる核兵器が蓄積、配備され、核攻撃を示唆する発言さえくり返されている。新型核兵器の開発や核配備継続が決定される一方で、北朝鮮の核実験に見られるように核兵器拡散の危険も現実のものとなっている。

 我々は、いかなる国によるものであれ、また、どのような状況の下であれ、核兵器の開発や保有を容認しない。ヒロシマ・ナガサキ以後の核軍備競争の歴史が示すように、それは、安全を保障するものではなく、核をめぐる危険な現状をさらに危ういものにするだけである。

 同時に、この状況を打開する第一義的責任が核兵器国にあることを強く指摘しなければならない。みずからの核は「安全の保障」と強弁して「聖域」におき、気に入った国には核保有も容認しながら、他の国には、「危険」と見なせば核脅迫・軍事脅迫を加えるような核保有国のやり方は、拡散を止めるどころか、事態を悪化させるだけである。イラクの悲劇的現状がこのことを雄弁に示している。
 核兵器をめぐる病根は、「持てるもの」と「持たざるもの」の現状を許容する二重基準にあり、その病根を取り除いて、すべての国に対して核兵器の研究、開発、実験、製造、貯蔵、使用のいっさいを禁止すべきである。
 いわゆる「平和利用」の核物質・核技術についても、真にその軍事的転用を防ごうとするなら、軍事的利用そのものをいっさい禁止する措置を第一義的に追求しなければならない。

 国連の場でもNPT再検討会議でも、人類を核の惨害から救うために多くの努力がなされてきた。我々は、いま核兵器廃絶を主唱している多数の国々の努力をさらに強め、ひとつにし、核兵器全面禁止交渉の実現へと進むようよびかける。同時に、核保有国政府にたいし、NPTの締約国であるか否かに関わらず、2000年5月の再検討会議が示したように、自国の核兵器の完全廃絶の決意をあらためて宣言し、行動に移す勇気を強く求めたい。

 我々は、次回再検討会議が05年再検討会議の失敗をくり返さず、確実に核兵器廃絶の道筋を開くものとなるよう、第一回準備委員会の成功を希望する。ことしも、8月の原爆投下の日にむかって、核兵器のない世界をめざす行動が世界で強められている。すべての国の政府とNGOが協力し、核兵器廃絶への具体的一歩を踏み出そう。

私を「被爆者」と認定してください

原爆症認定近畿訴訟原告のひとり、川崎紀嘉(きよし)さん(岸和田市在住、81歳)が26日、閉塞性動脈硬化症、糖尿病、心筋梗塞などの合併症で亡くなられました。
2004年3月19日、川崎さんが大阪地裁で陳述した内容を紹介します。
見出しは、岸和田原水協・川崎隆さん。


19歳で入隊
 私は、昭和20年4月20日、広島県宇品町7丁目陸軍船舶練習部教導連隊4中隊へ19歳の時、入隊しました。
 3ヶ月の教育の後、7月初旬より広島県賀茂郡竹原町の国民学校の校舎に分遣隊として任務につきました。

8月6日、遠くの空でピカリ
 8月6日の朝、校庭での点呼中、広島市方面の空がピカリと光りました。皆、「あれは何の光だろうか」と言い、一瞬ザワザワとしました。私も目を凝らして見ましたが、遠くてわかりませんでした。結局、そのまま夕方まで作業をしました。

隊長の命で広島市へ救助に
 翌朝7日に、「朝食後すぐに広島へ戻る」と、隊長より話があり、広島市がメチャメチャになっていることを知りました。
 竹原駅まで至急向かい、汽車に乗ったのですが、広島駅の500m手前で降りることになりました。駅が崩壊されていた為でした。

焼け焦げた遺体、内臓も飛び出す
 40分ほど歩いたと思うのですが、その間、家という家は見当たらず、真っ黒に焼けていたり、吹き飛ばされているものもありました。
 ビルの残骸は無残な形で残っていましたが、窓は吹き飛び、ガラスが散乱していました。遺体もあちらこちらにありましたが、真っ黒に焼け焦げており、まだ煙がくすぶっているものも多数ありました。手足はちぎれ、首と胴体もバラバラになっていたり、内臓が飛び出しているものもあり、思わず目をそむけることも何度かありました。人の焼ける臭いもし、「大変なところに来た」と思いました。

「どこにいる?」「紙屋町だ」
 電車が停まっていましたが、真っ黒に焼けていて、中に多数の遺体があると思われました。電車通りでは、馬がひっくり返って死んでいました。そこが「一体どこなのか?」と思った私は、一緒にいた仲間に場所を尋ねました。彼は、「紙屋町だ」と、教えてくれました。

爆心地に近い紙屋町のビルで寝泊り
 昼前、ようやく宇品の部隊に到着。午後3時頃にそこを出発し、4時半頃、作業現場へ到着しました。午前中に通ってきた紙屋町でした。
 この日の晩より付近のビルの焼け跡で寝泊りすることになったのですが、焼け焦げた臭いが強烈でたまりませんでした。

触れるとズルズル皮が剥ける遺体
 8日から作業を開始したのですが、最初、遺体を運ぶのに難儀しました。
 遺体に触れると皮膚が焼け爛れているのでズルズルとして皮が剥けてすべるのです。髪の毛もズリ落ちたようになっていて、鼻や口の判別もできないくらいのものもありました。無数の、無残な遺体と焼けた家の残骸、その中を肉親を捜し求める人を何人か見ました。火傷を負った人も多数見かけましたが、赤チンを塗り、ガーゼを当てるだけの手当てでした。
 救援所には火傷の薬はなかったのです。うずくまって痛みにうめく人。「水をくれ」と言う人。様々でした。

遺体に触れた手でおむすび
 午前9時半頃、おむすびと沢庵が届き、破れた水道菅から吹き出る水で手を洗い、それらを食べました。手を洗ったとはいえ、素手で遺体に触れていましたので、そのとるのはあまり手で食事を気持ちの良いものではありませんでした。

あちこちで遺体を焼く火
 その後、引き続き遺体を運びました。そして、35~40体を1回につきまとめて焼きました。焼け跡から材木を集めてきて、それを碁盤目に組み、3段に重ねたら遺体を乗せ、トタンをかぶせて石油をかけて焼きました。それを何度も繰り返しました。あちこちで遺体を焼く火があがっていました。

宿舎に集まる負傷した人たち
 作業を終え、昨夜のビルに帰りましたが、1階はケガをした人や火傷をした人たちが50人ちかく集まって寝ていました。痛みの為、うめいていました。私たちはやむを得ず2階へ行き、ガラス等を片付け、休めるようにしました。
 翌日、1階の人たちのうち多数が死亡しており、私たちは遺体を運び出しました。20人近くだったと思います。ビル1階での作業の後、昨日の現場付近にて再び作業をしましたが、晩になってビルに戻ると、また1階は人でいっぱいになっていました。
 傷口から臭いが強烈にしました。手当てといえば、やはり赤チンのみで、目、鼻、口以外はガーゼに覆われていましたので、男女の区別はできませんでした。髪もチリチリに焼け焦げていました。

「父の遺体も焼いて」と娘が
 8月10日頃、40歳前後の女性が我々のところに来て、「1キロほど先で父親が家の下敷きとなって亡くなったのだが、遺体を防空壕に埋めているので、皆と一緒に焼いてほしい」と言いました。仲間5人と掘り出して皆と一緒に焼くことにしました。そこへ娘さんが来て、「父の髪の毛を切ってほしい」と言うので、死体の中を歩いていき、鋏を取ってきました。切ろうと髪の毛を持ったのですが、力が入りすぎたのか、ズボリと頭皮が抜けました。娘さんに渡すと、大変喜んでくれたのを覚えています。

胎児が飛び出した妊婦も
 又、その際、妊婦の遺体も見ました。お腹が裂けて胎児が飛び出していましたので、二人一緒にして焼きました。

耐えがたい臭い川での遺体回収
 8月11日、早朝より大田川支流での遺体捜索の命令。
 川には遺体がプカプカ浮いていたが、皆、全くと言っていいほど衣服は身につけておらず、火傷のため水ぶくれとなり、川の水で膨れ上がって、すごいことになっていました。焼け焦げたものはゴリラのようでした。干潮になると、それらは打ち上げられました。
 ここでも遺体を運ぶのが大変でした。遺体はズルズルで、水を含んでいるため、とても重く、臭いも耐えがたいものでした。あまりに臭いがひどいので、タオルを鼻の辺りでしばって臭いを防ぎました。先のとがったトビ口で遺体を引っ掛け、かき集めるようにしてトタン板と木等で担架を作り、乗せました。遺体を運ぶ際、風下の方を担ぐと特に臭いがひどかったです。
 かなりの遺体をここでも焼きましたが、作業は干潮時しか行いませんでしたので、全部は集めることはできず、たくさんの人が結局そのまま流されたり、川底へ沈んでいったと思います。
 水場を求めて川へやってきた人たちも多数いましたが、やはり皆、ひどいケガをしていました。

「兵隊さん、お水ちょうだい」
 3時頃、大体作業を終えたので、道路に出てみると、女の人が3人かたまって寝ていました。様子を見に行くと、ほとんど息はありませんでしたが、そのうち、1人の12~13歳の女の子が「兵隊さん、お水ちょうだい」と、言いました。落ちていた茶碗のかけらで飲ませてやると、喉がゴロゴロと音を立てました。その直後、3人とも死んでしまいました。

突然、激しい下痢が続く
 その後、宇品の部隊に戻り、数日後、船で竹原町へ帰りました。
 竹原町に帰った頃から激しい下痢に見舞われ、部屋とトイレを「行きつ戻りつ」の繰り返し、次第に体力が衰えていきました。この下痢は、この後、2週間ほど続きました。

上司や仲間が原因不明で死んでゆく
 その後、終戦を迎えた8月末頃であったが、私の作業した現場で指示を出していた上司が突然髪が抜け出したかと思うと、その後、死亡しました。原因は不明でした。それ以外にも髪が抜けたり、下痢をする者が続々と増え、苦しんでいました。
 この上司以外にも原因不明で死亡する仲間が出て、私も「次は自分が死ぬのではないか」と思うことはありました。しかし、これが放射線の為だとは誰一人として知りませんでした。

終戦後も下痢、貧血症、白血球減少
 9月10日、汽車で九州の親元へ帰ったが、広島での出来事はあまりにも悲惨で、話すことはできなかった。
 九州へ帰ってからも、度々、原因不明の下痢を起こしました。
 昭和23年、原因不明の下痢がどうしても止まらない為、1ヶ月以上病院で治療しましたが、いくら調べても原因は不明でした。
 昭和30年頃、貧血症であることが判明。投薬治療をするが、改善せず。
 昭和32年、白血球減少症との診断。治療を開始。

被爆も原因の一つと考えられる
 昭和57年、糖尿病と診断される。後に耳原鳳病院の安賀院長より「被爆も原因の一つと考えられる」と聞かされました。
 昭和62年から4年ほど死の一歩手前まで行くことがありましたが、何とか助かりました。

糖尿病悪化で足切断手術も覚悟
 現在、糖尿病のほうは益々悪化し、インシュリンを日に4回投与。その合併症で閉塞性動脈硬化症があり、度々、足の血管が突然詰まり、その都度手術。年に4~5回はあります。次第に血管がボロボロになってきており、手術も困難になってきていますので、いつ足を切断することになるのかと思うと、不安です。

原爆投下以前には全くなかった
 平成11年10月、歩行困難で、障害者手帳3級に認定されました。また、以前判明した白血球減少症も依然続いている為、こちらも治療中です。下痢に関しては、やはり頻繁に起こっており、その都度検査するのですが、いまだ原因不明です。一旦、下痢を起こすと、何週間も続き、寝ている間にも知らぬ間に下痢をしていることもあります。
 このような症状は、原爆投下以前には全くありませんでした。原爆の後遺症として原因不明の下痢を起こすと、よく聞きますが、私に関してもそうではなかろうかと思っております。

直接被爆ではないが浴びた量は同程度
 私自身、直接被爆ではないですが、落ちた翌朝より広島市へ入り、投下の中心地付近で連日にわたり滞在し、作業をしたのであり、原爆投下当日、そこにいて被爆した人と比較して、負傷具合は違うにせよ、放射線を浴びた量は、同程度に等しいと思います。
 放射線をたっぷりと浴び死亡した人々の遺体も、何十体と素手で触りました。放射線の恐ろしさを知っていたのなら、何ヵ月も、何年も広島へは近づかなかったと思います。

私を被爆者として認定してください
 その様な恐ろしい経験をしてきたからこそ、原爆症認定を願うのです。
 現時点では、1次被爆、2次被曝(ママ・注1)ということで認定・非認定と判断されていますが、私の経験からいってこの判断基準で決定するのは納得できません。
 どうか、この事実を十分に理解し、ご判断をいただきたいと切に願っております。
 何とぞ、よろしくお願い申し上げます。
 平成16年3月19日
 川崎紀嘉(きよし)
大正15年2月11日生(現在78歳)
(ママ・注1)
 被爆者援護法は、第1条で次のどれかに該当し、被爆者健康手帳を受けた人を「被爆者」と定めています。
① 直接被爆者(法1条1号)
② 入市被爆者(同2号)
③ ①・②のほか死体処理・救護従事者(同3号)
④ ①・②・③に該当する人の、当時胎児であった人(同4号)
以上の分類で「1号被爆者」「2号被爆者」などと呼ばれています。

2007年04月27日

「非核日本宣言」に各界から賛同の声

「非核日本宣言のよびかけ」への共同提唱と支持・賛同を広げる全国的な運動が4月26日から始まりました。この運動は、すでに国会でも決議されている「核兵器廃絶の提唱」と「非核三原則」の二つの内容を日本政府の原則的立場としてあらためて内外で宣言し、各国政府に通告するよう求めるものです。日本原水協代表理事の沢田昭二(被爆者、名古屋大学名誉教授)と非核の政府を求める会常任世話人の中嶋篤之助(元中央大学教授)の両氏が発起人となり、原水爆禁止運動に関わってきた団体や個人によびかけられ、共同提唱の形で進められます。

 よびかけ、メッセージ、第1次分の共同提唱者と賛同者(4月27日現在)を紹介します。

非核日本宣言のよびかけ

 核兵器のない世界を実現するために、いま国内外で大きな努力が求められています。
 2010年の核不拡散条約(NPT)再検討会議に向けて、今年4月には新たな準備が開始されようとしています。
 2000年5月、核保有五カ国政府は「自国の核兵器の完全廃絶」を「明確な約束」として受け入れ、世界は核兵器廃絶の希望をもって新たな世紀を迎えました。しかし、それ以後7年を経たいまも、「約束」実行の道筋はついていません。いまなお世界には膨大な核兵器が維持・配備され、核使用を示唆する発言さえくりかえされています。新世代の核兵器開発がおこなわれる一方、北朝鮮の核実験にみられるように拡散の危険も現実のものとなっています。
 こうした状況を打開するために、日本政府にはヒロシマ・ナガサキを体験した国として、核兵器の廃絶の努力を世界によびかけ、促進する強い義務があります。
また、その努力を実らせるためには、みずからも証として「核兵器をもたず、つくらず、持ち込まさず」の非核三原則を遵守し、世界に範を示さなければなりません。
 私たちは、日本政府が、「核兵器廃絶の提唱・促進」と「非核三原則の厳守」をあらためて国連総会や日本の国会など内外で宣言し、非核日本宣言として各国政府に通知し、核兵器のない世界のための共同の努力を呼びかけるよう求めるものです。

 2007年4月27日

「非核日本宣言のよびかけ」共同提唱者の一言メッセージ

2007年4月27日

■安斎育郎(立命館大学教授)
核兵器は、1940年代にアメリカ・ソ連(現・ロシア)、50年代にイギリス、60年代にフランス・中国・イスラエル、70年代にインド、90年代にパキスタン、2000年代に北朝鮮と次々に拡散し、核保有国の核兵器も、運搬手段ともども、ますます脅威に満ちたものになってきました。広島・長崎の非人道的な被災体験をもつ日本が率先して非核宣言を発し、北東アジアの非核化に弾みをつけ、ひいては世界の非核化に貢献することこそが最大の国際貢献でしょう

■井上ひさし(作家、劇作家)
非核宣言こそ、わが日本国に出来得る最高の国際貢献です

■大久保賢一(日本反核法律家協会事務局長)
核兵器廃絶のために、あらゆる可能な方法で努力しましょう

■大石又七(ビキニ水爆実験被爆者、第五福竜丸元乗組員)
核兵器は、あなたが廃棄しなければ相手国は廃棄しません

■小山内美江子(脚本家)
非核三原則は私たち日本の国是です。これを守るということは、地球上の生物のすべてを守るということです

■小林秀一(プロボクシング元日本チャンピオン)
被爆国である日本が先頭に立って核兵器全面禁止を訴えていきましょう

■中西裕人(弁護士)
これまでも、日本から世界に対して発信した核兵器廃絶の声は、世界を動かして来ました。今それを更に強めることが国際世論の力となることを確信します

■新原昭治(国際問題研究者)
国民が生み育てた『非核三原則』をつぶそうとする陰湿な動きが頭をもたげている。『非核日本宣言』を求める運動は、核兵器廃絶を迫る日本の国際的立場を限りなく鮮明にするだろう。

■増田善信(気象学者)
被爆国日本として非核日本宣言は当然です。日本がこの宣言をすれば東アジアの非核地帯結成も早くなるでしょう

■藤平 典(日本被団協代表委員)
「ふたたび被爆者をつくるな」は被爆者の人生をかけた願いです。平和憲法をもつ我が国が「非核日本宣言」を行い、核兵器廃絶を国連や世界の国々に呼びかけるのは、被爆国日本政府の責務です。

■森瀧春子(核兵器廃絶をめざすヒロシマの会・共同代表)
日本の核武装への道を許さず、核の傘から脱却しましょう

■山口仙二(日本被団協代表委員)
太平洋戦争へ逆戻りしようとしていることに強く反対します


【よびかけ賛同者】
■木津博充(日本山妙法寺僧侶)
最大の核で威し戦争テロ殺人を止めぬアメリカ。日本こそ戦争放棄の九条を崩さず『非核日本宣言』を

■武田隆雄(日本山妙法寺僧侶)
共同の輪がさらに広がることを祈念します。合掌

■湯川れい子(音楽評論家・作詞家)
核について語り、議論するのは大いに結構です。その結果が非核と廃絶につながるのなら。がんばりましょう!


第1次共同提唱者
青柳長紀(非核の会常任世話人)、安斎育郎(立命館大学教授)、池田香代子(世界平和アピール7人委員会)、井上ひさし(作家・劇作家)、梅林宏道(ピースデポ代表)、大石又七(ビキニ水爆実験被爆者、第五福竜丸元乗組員)、大久保賢一(日本反核法律家協会事務局長・弁護士)、小山内美江子(脚本家)、川崎 哲(ピースボート共同代表)、小林秀一(プロボクシング元日本チャンピオン)、沢田昭二(原水爆禁止日本協議会代表理事)、高田公子(新日本婦人の会会長)、田中煕巳(日本被団協事務局長)、田中則夫(龍谷大学教授)、津上忠(劇作家)、藤平 典(日本被団協代表委員)、中嶋篤之助(非核の政府を求める会常任世話人)、中西裕人(弁護士)、新原昭治(国際問題研究者)、肥田舜太郎(被爆医師)、増田善信(気象学者)、山口仙二(日本被団協代表委員)、吉田康彦(大阪経済法科大学教授・原子力問題情報センター理事)

よびかけ賛同者
木津博充(日本山妙法寺僧侶)、武田隆雄(日本山妙法寺僧侶)、土山秀夫(元長崎大学学長・世界平和アピール7人委員会)、湯川れい子(音楽評論家・作詞家)

2007年04月19日

死は希望を消せない―凶弾に仆れた伊藤市長を悼んで 日下新介

ぼくらは差し出す
一枚の署名用紙を

For the Swift Abolition of Nuclear Weapons
「すみやかな核兵器の廃絶のために」
世界に呼びかける
ぼくらのねがいに
あなたは賛同の顔写真を
署名用紙やポスターに焼き付けた

伊藤一長・長崎市長
07・4・17・PM7:50
二発の凶弾があなたの胸と心臓を貫いた
あなたはたおれた
あなたは死んだ

犯人がどんな理由をつけようとも
被爆地・長崎から
人類の希望を語りつづけた市長の
二人目を抹殺しようとしたのだ
獣のように

ぼくらはあなたの死を無駄にはしない
イラクのテロを憂いながら
“核兵器のない真の平和の実現”を と
若者に託した
あなたの願いを

硝煙が立ちこめ
核の恐怖の絶えない地球にあって

くさかしんすけ
札幌市羊ケ丘原水協事務局長(詩人会議会員)

【北海道】核兵器廃絶・被爆者援護の遺志を引き継ぎ6・9宣伝行動

 原水爆禁止北海道協議会は19日、核兵器廃絶と被爆者援護連帯を訴える6・9宣伝行動を札幌市内パルコ前で行いました。
 宣伝行動に先だって、伊藤一長長崎市長が銃撃で命を奪われたことに対して、深い憤りと怒りを感じるとともに、核兵器廃絶・被爆者援護の遺志を引き継ぐことを訴えました。

 北海道被爆者協会の服部十郎さん(広島で被爆)は、「被爆者は自分の病気だけでなく、こども・孫たちにも被爆の影響が出るのではと、苦しんでいます。自分の病気を原爆症と認めてほしいと被爆者が裁判をしています。原爆症の認定を勝ちとって、国の力で私たちの病気を治してほしい。核兵器をなくして、平和な世界を築きましょう」と訴えました。
 非核の政府を求める北海道の会の小野内勝義さんは、「長崎の伊藤一長市長は、国連軍縮札幌会議に参加し、核廃絶を訴えました。05年のNPT再検討会議では、国連で長崎の被爆の実相を訴え、ニューヨーク市内のパレードでは広島の秋葉市長とその先頭を歩きました。核兵器廃絶・被爆者援護と一貫して運動してきました」「原爆訴訟の裁判は、昨年5月の大阪以降、3月の東京まで被爆者が勝ちつづけていますが国は控訴を続けている現状です。それに対して200以上の国会議員が政治の場でと原爆症認定制度の改善をと、大きく一歩動き出しています」と署名への協力を呼びかけました。
 宣伝行動では、「国は控訴しないで!審査の方針を改めて!訴訟中の原告に明るい日差しを!」のビラを配りました。国民救援会・北海道平和委員会などから参加しました。
 国連に出す署名ですと呼びかけるとボールペンを手に署名する人、自分の戦争体験を語りながら大事なことをしているねと署名する人もいました。
(北海道原水協・しまだ)

2007年04月18日

愛知県平和委員会が伊藤市長追悼宣伝

 伊藤一長元長崎市長が選挙運動中に襲撃された翌日、愛知県平和委員会は、政治的な立場は違えども、平和運動の大切さを世界に呼びかけた代え難いリーダーを悼み、その意志をしっかりと受け継ぐ誓いを込めた宣伝を行いました。

 当日は、雨が降りしきり、身に沁みる寒さの中、澤田昭二県原水協理事長をはじめ、長崎の被爆者ら15名が参加し、県平和委員会の声明文が掲載されたチラシを道行く人に配布し、伊藤市長も先頭になって呼びかけた「すみやか」署名を集めました。また、地元の報道社数社も取材に来るなど、通行人の注目を集め、大きなインパクトを与えた宣伝となりました。

 マイクを持ち訴えた澤田氏は、「伊藤市長は2005年のNPT再検討会議のとき、NYで先頭にて横断幕を持ち、全米・全世界に核兵器の廃絶を訴えた。また、原水爆禁止世界大会のときには、毎回メッセージを寄せてくれ、海外代表と交流を楽しみにされるなど、私たちの運動にはかけがえのない代表だった。このような人を亡くしたことは、とても悲しいことだ」と述べました。

 また、長崎で被爆をした愛知県原水爆被災者の会の被爆者もマイクを持ち、伊藤一長市長が生前に果たした役割の大きさを訴えられました。

 この他にも、愛知県内で反核・平和運動に取り組む労働者、青年、高校生が、それぞれの言葉で訴え、チラシ配布に取り組みながら、伊藤市長の意志を受け継ぐ決意を現しました。

 自由と民主主義を真っ向から否定する今回の狙撃は、どんな理由があっても決して許されるものではなく、また、意見の異なる人を、対話ではなく、武力で弾圧をしようとするものは、日本国憲法の「言論の自由」を真っ向から否定しており、事件後会見をした安倍首相は、この点に触れなかったことを告発。自由と民主主義を守る為にも、新憲法の成立を許さない闘いを広めていく必要性を市民に示しました。

 チラシを受け取った年配の女性は、「言葉が話せるのに、暴力を使う行為は許せない。」と怒りを表しながらチラシを受け取っていきました。

 今回の事件ではあらためて「人間と武力・暴力は共存できない」ことが明らかになったのではないでしょうか。
 
 私は、伊藤一長市長のご冥福を祈りつつ、生前の意志を最大限受け継ぎ、今後も多くの市民と共同の輪を広げながら「核兵器廃絶」「被爆者援護・連帯」「憲法を守る」運動を進めることを心に誓いました。

<愛知県平和委員会 高木秀一>

長崎市通じ遺族と市民へ弔辞送る

伊藤一長長崎市長の急逝にあたり、日本原水協は高草木博事務局長の名前で長崎市を通じて弔辞をご遺族と市民のみなさんに送りました。

                       弔辞

 伊藤一長市長の訃報に接し、ご遺族の皆様および長崎市民のみなさまに心からの哀悼の意を表明いたします。
 これまで3期12年の間、伊藤市長は、被爆地長崎の被爆者と市民の代表として、世界に核兵器の廃絶を訴え、1999年ハーグ、2005年ニューヨークをはじめ、世界のNGOと行動をともにし、先頭に立ってこられました。また、市長は、毎年8月の原水爆禁止世界大会に当たっては、訪日する海外代表との懇談を楽しみにされ、大会に対して変わることない、温かい連帯の言葉を寄せられました。
 核兵器のない世界のために果たされていた伊藤市長の役割はかけがえのないものであり、その命を奪った理不尽な暴力に心から憤りを感じます。捜査当局に対しては、徹底した原因の究明と、三度このようなテロ行為をくり返させないよう強く求めたいと思います。
 あらためて深い弔意を表明するとともに、核兵器廃絶と平和の遺志を受け継ぎ、長崎市民のみなさんとともに努力を強める決意をお伝えするものです。

                       原水爆禁止日本協議会
                       事務局長 高草木 博

大阪原水協は、伊藤市長へ「謹んで哀悼の意を表します。核兵器廃絶の先頭に立たれたことに敬意を表し、その遺志をついで活動をすすめます」と弔電をうちました。

2007年04月12日

海を渡ったピースメッセージ

英語教科書の教材に
静岡・粕谷たか子

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2005年NPT再検討会議に日本原水協代表団の一員として参加された粕谷たか子さん(静岡県高教組委員長)の活動が英語教科書の教材になりました。粕谷さんに手記を寄せていただきました。

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 私は05年NPT再検討会議への「核兵器廃絶」要請行動でワシントンとニューヨークに行く機会に恵まれました。この好機を最大限活かして、「ピースメッセージ配達人」の取り組みを行いました。英語授業を担当している高校3年生120人に書いてもらったピースメッセージ70枚を、現地で出会った人に渡して返事を書いてもらう、またインタビューをビデオに収めて持って帰るというものです。現地で集めたピースメッセージは34人分。インタビューは10余人。これらをまとめて報告冊子とDVDを作成。生徒たちはとても感動、英語と平和への関心が高まりました。

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 この実践を知った教科書編集者から「ぜひ教科書に載せたい」とお話がありました。報告冊子とDVDをお渡ししたところ、第五福竜丸事件と結びつけたストーリーに仕上げてくれました。「第五福竜丸事件についての静岡大学公開講座に参加した高校生が、核兵器に関心を持つようになり英語の先生にその話をする。先生がアメリカに行く時に生徒のピースメッセージを持って行き・・・」と展開。

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 教科書には、私の生徒やピースメッセージを手にしたパレード参加者、インタビューに答える14才の少女、路上で折り鶴を教えている長野県の先生などのカラフルな写真がいっぱい。現地の人が書いてくれたメッセージには、核廃絶と平和への願い、世界に核廃絶を訴える日本人賞賛の言葉が書かれています。編集者は、このような生のメッセージはとても貴重と評価してくれました。この教科書は4月に出版予定です。

2007年04月08日

【三重】ローマ原爆写真展開催に向け募金よびかけ

 ローマでの原爆写真展開催をめざしているイタリア在住の横田早苗さんを支援しようと、出身地の三重県で募金活動がひろがりました。半年間の取り組みで、個人や団体、それに高校同級生から寄せられた善意は、60万7260円に達しています。一部は、すでに組写真の購入などに当てられていますが、4月8日、帰国中の横田さんに、募金を呼びかけた原爆被災者の会と原水協から51万円を直接手渡すことができました。
 横田さんの報告によると、展覧会は、ローマ市第11区と消防局が主催し、本年10月25日から11月7日まで開かれることが決まりました。さらに、イタリア内務省、環境省、州都ローマ市のラツィオ州、ローマ県、ローマ市の後援となります。
 なお、この写真展にあわせ、ミラノ県主催による講演会も予定され、立命館大学国際平和ミュージアム館長・安斎育郎先生、日本被団協原爆被爆者中央相談所理事長・肥田舜太郎先生が日本側の講演者としてご出席いただける見通しも出てきました。
 この運動を通して、三重では、イタリアの反核平和運動との国際的な連帯がいっそう身近なものとなっています。
三重県原水協・落合郁夫

三重県原水協事務所でカンパ贈呈式トリミング.JPG

2007年04月07日

「にんげんをかえせ」のたたかいは全世界・全世代のもの

3月22日の東京地裁判決にも大阪から駆けつけた大阪学生平和サークル「ヘイクル」の岸田拓郎さんが4月2日、原爆症認定制度の抜本的解決を求めて厚生労働省前で取り組まれた72時間座り込み行動に参加した報告を寄せてくれました。以下紹介します(写真撮影=前川史郎)。

原爆症認定集団訴訟 東京行動に参加して
報告:岸田拓郎

1:参加した行動
2:参加を通じての感想
3:大阪での行動について

1:参加した行動
① 厚生労働省包囲デモ
 原告や遺影を抱いた遺族を先頭にデモ行進。先導車から通行人への呼びかけ、厚労省に向けてのシュプレヒコールをしながらの行進。しかし、この行進にはそういったものが必要ないのではないかと思えるぐらいのエネルギーがあった。原告・被爆者の悲しみや怒りがヒシヒシ伝わる。それはデモに参加した主観的な感覚によるものかもしれないが、少なくともこのデモを目にした通行人には何か伝わったはずである。昼休憩に出る多くの省庁職員も見ており、「憲法の最大尊重者」であるべき彼らが、この日本国憲法の理念を無視した被爆者行政をどう見ているのかが気になった。厚労省勤務の職員の多くは、被爆者行政だけでなく、昨今の社会保障切り捨てに胸を痛めているはずである。彼らも「国民の福祉」の為に入省した、と信じたい。彼らが「何ができるか」については直接期待できないにしても、彼らが被爆者の気持ちを目の当たりにして「どう感じるのか」が問題なのである。職員一人一人の思いが重なり合えば、思考停止状態の厚労省にも何か変化が起こるはずである。そういった意味を考えてもこの「被爆者の思い」の詰まった行進は非常に意味があるものだった。

②座り込み開始~オープニングセレモニー~

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 原告・弁護団がこの座り込みにかける思い、厚労省の控訴に対する怒りを宣言し座り込みは開始された。マスコミも多数つめかけ、仙台・東京判決以降、関心の高さが続いている事を感じた。自民/民主/公明/共産/社民の議員が駆けつけ、「政治決着」を超党派で取り組むことを約束。自民党・寺田議員(広島選出)をはじめ、各議員の熱意が伝わったスピーチだった。与党議員にしても、もはやただのアピールには感じられなかった。

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社民党

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民主党

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自民党

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共産党

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公明党

 それにしても、ここまでの超党派的行動がなされる事は稀ではないだろうか。逆に言えば、司法・立法(国会)・世論(マスコミ含め)から、いかに厚労省が孤立しているかがわかる状況とも言える。
 その後も全国から駆けつけた被爆者・弁護団・支援者のスピーチが続く。とにかくはまず「怒り」、「悲しみ」である。それは、そこに集まった全員の共有していた気持ちではないだろうか。その気持ちを皆行動に移しているのである。とりわけ被爆者の「声」には胸を締め付けられる思いがした。

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 名古屋の原告である中村昭子さんが叫んだ。「厚労省は何を考えているのか!被爆者を援助して下さい。もう、本当に時間がないのです!今までご苦労様と言って謝ってもらい、仲良く暮らしていきたいだけなんです」。なぜ、今まで苦しんでこられた被爆者の方が、苦痛を伴う訴訟を起こし、さらにそれを踏みにじられるという苦しみを味あわなければならないのか。スピーチを聴きながらこみ上げる怒りと流れる涙を抑える事ができなかった。

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 このオープニングセレモニーには「民族歌舞団 荒馬座」も参加。豪快で気持ちのこもった太鼓を叩き気持ちを高ぶらせ、

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獅子舞を踊り参加者・原告の頭を噛み、皆の気持ちを和ませてくれた。やはり目立つので多くの通行人が覗き込んでおり、かなりのアピールになっていたのではないかと思う。「ドーン!ドーン!」と霞ヶ関の省庁街に響く太鼓の音が心地よかった。

 オープニングセレモニーも終盤に差し掛かると、C型肝炎訴訟の原告・弁護団も駆けつけ応援メッセージをよせた。C型肝炎訴訟は政府・与党が具体的な救済に動きそうで、一歩前進した感がある。厚労省は思考停止しているのでそういった政治への直接的な働きかけがこれからも重要、共に頑張りましょう、という趣旨だったように思う。C型肝炎もそうだが残留孤児補償問題、トンネル塵肺など厚労省の罪が次々と告発・追求がなされており、いかにこの国の福祉行政が異常であるかが浮き彫りになっている。この異常な状況を変える為にも我々一人一人の行動(すなわち世論の能動化)が重要であることが再認識できる。その行動を広く強いものにする為にもC型肝炎被害者を初めとする対厚労省の動きとの連帯は引き続き重要であるように感じた。

 以降も全国からの被爆者や弁護団に加えて民医連の医師や各労働組合の組合員も駆けつけ、スピーチは続いた。そしてオープニングセレモニーの最後を飾ったのは、弁護団の仕事で走り回り、ようやくセレモニーに合流できた近畿弁護団の有馬弁護士だった。「柳沢さーん!聞こえてますか!!被爆者の声を聞きなさい!!」と叫ぶ。疲れが見え始めていた参加者も「そうだ!聞きにこい!」と叫ぶ。そうなのだ。厚労省は被爆者の声を聞かず、向き合っていないのだ。そこが最大の問題であり、厚労省に被爆者に向き合わせる事が、この闘いの本質なのである。被爆者の声を聞き、彼らの想像を絶する苦しみと核兵器の恐ろしさに向き合うことが、絶対に必要なのだ。有馬弁護士の叫びにはその本質が集約されていた。

③キャンドル集会

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 弁護団からの現状報告、様々なアーティストによるミニライブ、各地の青年達の報告等からなるキャンドル集会が、支援ネットワークの青年達の企画進行で行われた。

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「ゆうた、ともを、かしう」による演奏で幕が上がる。彼らのリードで「上を向いて歩こう」の替え歌を皆で歌う、ああ気持ちいい。その後もアフガニスタンの子供達を支援している彼ら独特の優しさと力強さのこもった演奏が続いた。

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長崎出身のアーティスト・生田卍(まんじ)さんの熱いソロライブも最高だった。「長崎の民」として原爆だけでなく、諫早干拓という暴挙にも怒り、この国の政治への疑問を歌い上げる。彼の熱い歌声に、「厚労省聞こえてるのかー!」って皆思っていたはずだ。

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次は被爆者である上田さんのオカリナと東京のうたごえ協議会の大熊さんのアコーディオンによる演奏。すっかり日も暮れた霞ヶ関に心地よい音色が響き、癒される。

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最後はジャズシンガーの形岡七恵さんによる美しいリードで、「原爆を許すまじ」を全員が熱唱。この歌には、本当に原爆の悲惨さと唯一の被爆国としての日本人としての誓が歌われている。この歌を歌い、私達が被爆者の思いを受け継ぎ、さらに次の世代に伝えていく事を誓う。

④「原告を囲んでじっくり話を聞くつどい」

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 東京の青年が、キャンドル集会に続いてセッティングしたのが、この「原告を囲んでじっくり話を聞くつどい」だ。キャンドル集会で皆の思いを共有した後で、もう一度しっかり原告の話を聞く事は、活動が一人歩きしない為にも非常に重要であり、この企画は本当に価値があった。また、苦しみを思い出す事になりにも拘らず、僕たちに話してくれたことを原告の方に本当に感謝したい。

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 話をしてくれたのは、岡山でたった一人原告になられた川中優子さんと東京の原告である小西さん。被爆者の方は、僕たちの世代や、その次の世代の事を思ってくれている。だからこそ思い出したくないはずの体験を語ってくれているのだと思う。これを語り継いでいく事は僕たちの使命なのだ。

⑤映画上映

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 「つどい」に続いて「星空NO NUKESシネマ」と題された映画上映会が日比谷公園内で開かれた。私は弁護団の方の話を聞いており、一作しか見ることができなかった。「父と暮らせば」である。何度も見ている作品だが、何度見ても名作だ。たった三人の役者(実質は二人)しか出演していないのに、舞台は一つの家だけなのに、役者の演技によって見ている側の想像も膨らみ、作り手が何を伝えたいのかを感じる事ができる。被爆者の身体的な苦しみだけでなく、精神的な苦しみ(特に、生き残ってしまったという罪悪感)が、伝わってくる。私達に想像ができるはずのない苦しみだが、その苦しみを想像しようとする事が大事なのだと思わせてくれる映画だと思う。屋外でこういった映画を「仲間と見る」、というアイデアは素晴らしい。

⑥青年達で夜通し歌う!

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 テントから飛び出し、鍋を囲み、皆で語らい、ギターに合わせて皆で気持ちよく歌う。3時、4時になっても電気のついている厚労省に向かって「ヒロシマのある国で戦争はもういやだ」と歌う。歌は最も連帯を感じさせてくれる。

2:参加を通じての感想
 1の「参加した行動」でも個別的に感想を交えたが、この座り込み行動全体への感想を報告する。まず当初から感じていた事は、「被爆者の座り込み」への不安である。厚労省に対しての抗議として、もっとも強い意思表示の手段である事は理解していた。しかし原告には、この訴訟を起こしていることだけでも相当の肉体的・精神的負担があり、加えて今回の厚労省の控訴という対応によって相当の精神的な苦痛があったのではないだろうか。その中で原告自ら座り込みをされる事への不安がどうしても拭えなかった。弁護団・支援者もそのことを一番心配していたのではないだろうか。このような状況にまで追いつめた厚労省は、どうしても許す事ができない。今回の座り込みで、彼らに被爆者の悲しみ・怒りが伝わっていることを願う。その「怒り・悲しみ」が政治には届いたのだろう。いよいよ動き出しそうな気配である。マスコミも注目した今回の座り込みは、遂に政治も動かした。与党としてのプロジェクトチームの設置は今までにない前進であり、これは今回の座り込みの大きな成果だと思う。しかし、まだ何も変わっておらず闘いは続くのだ。今後、被爆者を再び「座り込み」にまで追いつめる状況を絶対につくり出してはならない。

 次にこの座り込みで感じた事は、全国規模でのエネルギーである。全国から多くの被爆者や支援者が駆けつけ、この座り込みを応援した。皆、本当に怒っていた。その怒りが全国に広がり、座り込みに参加できない多くの人達の思いもメッセージという形でよせられた(海外からもメッセージがよせられていた)。この座り込みは、世代や土地を超えたかなりのダイナミックなうねりを生み出した。そのうねりをもたらしたものは、被爆者の切実な思いである。その思いが、状況を前進させたのだ。

  被爆者の方の話を聞く機会も多くあり、各地(特に東京)の支援者とも接する事ができた。その中で、私自身の反省点が見つかった。この訴訟の原告の苦しみを十分に理解していなかったのではないか、という点である。今回、原告や弁護団の話を聞くうちに、私自身多くの事を自分に問いかけた。この訴訟を起こすことだけでも原告に想像を絶する精神的苦痛があることを、私はどこまで考えていただろうか。私は、原告が「あなた達のためにも、核兵器のない世界に」という言葉にただ甘えていただけではなかっただろうか。核兵器廃絶という私自身の願い(目的)のために、今回の訴訟に関する一連の行動を手段にしてはいなかっただろうか。このことは常に自問しながらやってきたつもりだし、以前弁護団の方から「体験を話す事も辛いことなのだ」ということも聞いていた。しかし、私にはその認識が大きく欠けていたということを今回実感した。この闘い自体、本来苦痛である事を、常に考えないと活動は一人歩きしてしまう。東京で出会った青年達は、そのことをしっかり理解していたように思う。皆、被爆者の苦しみをまず考え、そこから活動が出発していた。私の場合その認識が曖昧だったのではないか、と思う。今回の参加は、活動している自分を、もう一度見直す意味でも、私自身にとって大きな収穫だった。

 この闘いは「にんげんをかえせ」というものである。全世界・全世代の闘いでもある。
 
3:大阪での行動について
 今回の東京行動の参加を、大阪での青年の行動に活かしていこうと思う。東京の青年は、企画力もさることながら、訴訟支援ネットワークの強い繋がりを持っていた。仕事などで忙しくても仕事の後や合間を縫って参加している青年が多くいた。座り込みには参加できなくても、メッセージを寄せたりと自分のできる範囲でも関わろうという思いを皆が持っていた。これからも大阪で6・9行動を続けていくが、青年が参加しやすい日曜日の昼等に別途署名宣伝をする企画も具体化していこうと思う。各自、自分の繋がりに声をかけ、さらに繋がりを拡げていくことで、ネットワークを構築していけるのではないかと思う。まずは、焦らずに自分たちのペースで活動していき徐々にネットワークを拡げていく。

 大阪で活動していく中で、被爆者の思いと離れない為にも定期的に話を聞かせてもらったり、裁判の傍聴と報告をしていこうとも思う。その中で、語ってもらう事への感謝を忘れる事はあってはならない。その語ってもらった思いを、より多くの人に知らせ、支援を呼びかけていく運動にしていきたい。

最後になったが、交通費をほぼ全額援助してくれた大阪原水協に感謝する。

岸田拓郎さんたちは、4月6日、北区原水協の6・9行動に参加しています。

僕たちが参加して、今回で3ヵ月目。毎回新しい青年が参加したりと、大阪の青年の中でにわかに盛り上がっています。7年以上続けておられる北区の方々から色々学びながらの活動です。なんとしても認定行政を変えさせたい!皆そう思っています。若者独自のポップでわかりやすいビラを撒き始め、多くの通行人がもらってくれます!また、今まで被爆者の話を聞いて感じた事をマイクで思い切ってアピールしたりして、何とか市民に伝えようとしています!多くの人に訴訟の事を知ってもらったり、核廃絶を支持してもらうために、これからも元気良くやっていきます!

2007年04月04日

徳島県原水協が原爆症認定制度の抜本的改善を求める要請書を発表

徳島県原水協は4月4日、首相と厚生労働大臣に対し、原爆症認定制度の抜本的改善を求める要請書を発表しました。以下、全文を紹介します。

原爆症認定制度の抜本的改善を求める要請書
                           2007年4月4日
内閣総理大臣 安倍晋三 殿
厚生労働大臣 柳沢伯夫 殿
                     原水爆禁止徳島県協議会常任理事会
                      代表理事 中内輝彦 服部敏彦
                             山本正美 吉田純子
                         徳島市佐古7番町8-13

 原爆症としての認定を求めた申請を国が却下したことにたいし、被爆者が却下の取り消しを求めて各地で裁判所に提訴されていますが、昨年5月に下された大阪地裁の判決以後、8月広島、本年1月名古屋、3月仙台および東京の各地裁において判決が下り、国は全ての裁判で敗訴しました。

 各地裁の判決で共通するのは

1.国が現在とっている被曝線量の算定方式であるDS86およびDS02は原爆が爆発した瞬間に生じる初期放射線による被曝線量の推定値であり、残留放射能、黒い雨や死の灰など放射性降下物や2次的に生じた誘導放射能による被曝は皆無とみなし一切考慮されていないこと。

2.放射能を持つ空気や飲食物を通して体内で被曝する内部被曝についてはアルファ線などが深く影響し、外部被曝に比べ近距離での被曝となり、人体に内部から大きく影響を与えるにもかかわらず、この影響を皆無としていること。

3.国が算定の基準とするもう一つの「原因確率」なるものは、初期放射線に対応してつくられたものにすぎず、残留放射線による外部被曝・内部被曝等の影響は全く考慮されていない。したがって原因確率なるものを機械的に適用することは放射線起因を判断する上で誤りへと導くことになる。

4.放射線起因性の判断手法については、個々の被爆者の個別事情を踏まえて判断することは誤りを 生ずる恐れがある。これらによる判断の手法を厳密かつ機械的に適用することは被爆者の救済を目的とする法の趣旨に沿わない。

と判断しています。

 国はこれまでの判決を全て不服として控訴しました。しかし、国の原爆症認定行政の誤りはこれまで最高裁、大阪高裁、東京高裁はじめ全国12の裁判所で厳しく指摘されてきました。したがって国はこれらの判決を真摯に受け止め、DS86や原因確率による機械的な適用によって結果的には非科学的となるこれまでの認定方式を抜本的に改め、これまでの控訴を全て撤回するとともに、全ての被爆者の救済に全力を傾けることを要求いたします。
                                                   以上

2007年04月03日

ジョゼフ・ガーソンさんからのメッセージ

4月2日から4日まで原爆症認定集団訴訟の原告らが厚生労働省前で行っている座り込みにたいし、アメリカフレンズ奉仕委員会、ジョゼフ・ガーソンさんから届いたメッセージを紹介します。

親愛なみなさん、

日本や世界中の皆さんと同じように、私も東京地裁の勝利には元気をもらいました。原水爆禁止世界大会やみなさんのアメリカ訪問をつうじて、わたしたちは、すべての被爆者の要求と権利と尊厳とを承認せよ、問題を解決せよとのみなさんの声が、正当で勇気ある主張であることを学んできました。

真実というものは、それが粘り強い勇気と非暴力の行動に支えられたとき、すべての嘘と日本とアメリカの政府の瞞着を、時を失することなく打ち破るものです。米国は、いまだ広島・長崎への原爆投下という究極の悪になお向かい合おうとせず、核による皆殺しの準備や脅迫を対外政策と軍事政策の土台としつづけているのです。

みなさんとご一緒に、座り込みに加わりたい! その行動は、日本と世界の人々の良心を呼び起こすものです。マハトマ・ガンジーやローザ・パークス、ネルソン・マンデラやロメロ大僧正などの非暴力行動のように、みなさんの座り込み行動は、いまなお軍国主義的な価値観や盲目から抜けきれない政府の冷酷さをかならずや打ち破るでしょう。

あなた方が勝利するように! すべての被爆者が原爆症を認定され、医療や、ずっと前からかなえられているべきその他の援護措置を受けられるように! 地裁判決が守られるように!

連帯と友情をこめて、
アメリカフレンズ奉仕委員会 ジョゼフ・ガーソン(博士)

ローザ・パークス: アフリカ系アメリカ人の女性。1950年代、彼女がバスでの人種差別に抗議し、制度に従わなかったことが引き金になり、1960年代の市民権運動となり、人種差別が撤廃された。

ロメロ大僧正: オスカル・アルヌルフォ・ロメロ。1980年3月24、説教のさなかに銃により暗殺された。

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原文
Dear Taka,
Thank you for alerting me to the Tokyo District Court's Decision and to this small way in which I might be helpful.
If the following message arrives in time, please do share it with the Hibakusha who are sitting in. I do wish that I could be there to join them.
With appreciation,
Joe

Dearest Friends,
Like many people across Japan and around the world, I was encouraged to learn of your victory in the Tokyo District Court. As we have learned at the World Conference against Atomic and Hydrogen Bombs and through your visits to the United States, you have rightfully and courageously insisted that the needs, rights and dignity of all Hibakusha must be recognized and addressed.

Truth, reinforced by courageous persistence and nonviolent action, in time overcomes all lies, and mendacities of governments like that of Japan and the United States which has yet to face the ultimate evils of the A-bombings of Hiroshima and Nagasaki and its foreign and military policies whose "cornerstone" continues to be preparations for and threats of nuclear annihilation..
I wish that I could be with you to join your sit-in. It arouses the consciences of people across Japan and the world. Hopefully, like the nonviolent actions of people from Mahatma Gandhi and Rosa Parks to Nelson Mandela and Archbishop Romero, your sit-in will finally overcome the callousness of the government, which remains rooted in militarist values and blindness.
My you prevail! May all Hibakusha receive the medical care and other support which is so long overdue.! May the courts' decisions finally be honored.
With solidarity and friendship,

Dr. Joseph Gerson
American Friends Service Committee

コラソン・ファブロスさん(非核フィリピン連合事務局長)からのメッセージ

非核フィリピン連合事務局長のコラソン・ファブロスさんから座り込み行動へのメッセージを紹介します。

 平和と正義のたたかいで大変重要な足取りをすすめている被爆者のみなさんに連帯と深い尊敬と賞賛の気持ちをお伝えします。
 日本の政府が、すでに長きに渡って間違っていることが証明済みの立場にしがみついて、国際社会の前に恥をさらしていることは不幸なことです。広島と長崎の経験は、私たちすべてを動かし続け、核廃絶の活動を粘り強く励ましている悲劇的な真実なのです。私たちの意識の中にある被爆者の存在は、今日の平和運動の命の源泉です。広島・長崎の悲劇を想い起こすことはつねに苦痛ですが、同時に、そこには勇気と自由と思いやりの気持ちがあり、それこそ、一人一人の被爆者が生命と愛と勇気と気丈なたたかいの、尽きることのない物語を通じて私たちを励まし続けているものなのです。
 私も、皆さんとともに連帯の座り込みをしたい気持ちでいっぱいです。心はともにあります。私たちもまたフィリピンで努力を続け、核廃絶の運動の一部として被爆者のお話を、とりわけ若い世代の人々に知らせ続けます。
 なお長く続くたたかいで、みなさん全員が健康と情熱、楽しさ、献身を保ち続けてください。正義は必ず、みなさんの一人ひとりに訪れるのですから。
 心からの敬意とみなさんの成功を願って、
 ハスタ・ラ・ビクトリア・シエンプレ!(勝利の日までがんばろう)
コラソン・ファブロス

原文
Dear Taka-san:

I also need to say Wow!!! on the news of extreme importance that you just sent.
With that I wish to send my "SALUDOS" and deep respect and admiration to our Hibakusha friends who have taken a very important step in their struggle for peace and justice.
It is unfortunate that the Japanese government should shame itself before the international community by taking a stand that has long been proven wrong. The experience of Hiroshima and Nagasaki is a tragic truth that will continue to move us all and inspire us to persevere in our work for nuclear abolition. The Hibakusha presence in our consciousness is the lifeblood of the peace movement today. There is always pain in remembering the tragedy of Hiroshima and Nagasaki but there is as well courage, freedom and compassion that every Hibakusha continues to inspire in all of us for their unending stories of life, love, courage and fortitude in their struggles.
I wish to join you in solidarity on the occasion of your "sit-in", I wish to be with you in spirit and convey our continuing efforts here in the Philippines so that stories of the Hibakusha will continue to be known especially among the younger generation as part of campaign for nuclear abolition.
I wish for all of you continuing good health, passion for your work, joy in spirit and dedication for our long and protracted struggle so that justice will eventually be attained for every Hibakusha.
With my warmest regards and best wishes for your success,
"Hasta la victoria siempre!"