澤田先生の反核ゼミ

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第26回 原爆被害の隠ぺい(1)

日本軍の原爆災害調査

 アメリカ大統領トルーマンの「原爆投下声明」を傍受した日本軍と日本政府は、広島に投下されたのが原爆であることを確認するため理化学研究所の物理学者仁科芳雄博士を含む調査団を広島に派遣しました。また、陸軍と海軍は、各地の大学から物理学者や医学者など専門家調査団を派遣し、調査にあたらせました。この調査結果に基づいて、日本政府は、アメリカに対して、原爆投下は国際法に反すると抗議しました。その一方で、国民には、戦意喪失をおそれ、原爆を「新型爆弾」と称して原爆被害の深刻さを知らせない方針をとりました。

天皇制維持条件にポツダム宣言受諾

 ソ連は、アメリカの原爆投下の意図が日本を単独占領し、ソ連を脅して戦後世界政治の指導権を確保することにあると察知しました。ヤルタ協定で約束した対日参戦の時期を早め、8月8日、日本に対する宣戦布告を通知して、ソ連軍は9日未明から中国東北部(旧満州)と樺太への進攻を開始しました。ソ連を仲介者として戦争終結を模索していた日本の戦争指導者たちはポツダム宣言受諾を余儀なくされました。しかし、その通告を行う余裕もなく、2発目の原爆が長崎に投下され「この世の生き地獄」が繰り返されてしまいました。

 8月9日の御前会議で、軍部は広島に投下された爆弾を原爆とは認めず、戦争継続を主張しましたが、国体護持を条件にポツダム宣言受諾は決まりました。8月10日、日本政府は「天皇の国家統治の大権に変更を加えるいかなる要求をも包含していないという諒解の下に」ポツダム宣言受諾を申し入れました。この申し入れに対し、当初、アメリカのバーンズ国務長官は、70%の米国民が天皇を戦争犯罪人として何らかの処罰を望んでいることを理由に、承認に反対しました。けれども、バーンズは、進攻を始めたソ連が日本本土に到達し、日本の占領管理に発言権を要求するようになることは、アメリカの利益を損なうというスチムソン陸軍長官の意見を受け入れて、暗に占領下の天皇存続と将来の天皇制存続の可能性を示した回答文を作成しました。この回答文を受け取った日本では8月14日の御前会議で、天皇が「敵は国体を認めると思う」として、軍部の反対を退けてポツダム宣言受諾を決めました。

 こうした経過をたどってみると、アメリカ政府の原爆投下は戦争終結を早めるためだったという原爆投下正当化論は歴史的真実ではありません。

深刻な放射線被害の報道

 9月2日、ミズリー号艦上で日本の降伏文書調印が行われ日本占領が始まりました。外国人従軍記者団も来日し、広島を取材しました。9月3日に広島を取材したウィルフレッド・バーチェット記者の配信記事は5日のロンドン『デイリー・エクスプレス』に掲載されました。「原爆の災疫――私は、世界への警告として、これを書く――医師たちは働きながら倒れる 毒ガスの恐怖――全員マスクをかぶる」と題した記事には「最初の原爆が都市を破壊し、世界を驚かせた30日後も、広島では人々が、あのような惨禍によって怪我を受けなかった人々でも、『原爆病』としか言いようのない未知の理由によって、いまだに不可解かつ悲惨にも亡くなり続けている」と書かれていました。これは放射線被害の影響が30日後も続いており、さらに残留放射能の存在も示していました。バーチェットとともに広島を取材したウィリアムス・H・ローレンスも5日付『ニューヨーク・タイムズ』に「原爆によって4平方マイルは見る影もなく破壊しつくされていた。人々は1日に100人の割合で死んでいると報告されている」という記事を書きました。このような原爆投下の悲惨な状況が世界に伝わると大きな反響が広がり始めました。

放射線被害を全面否定したファーレル声明

  こうした報道をおそれたのは、マンハッタン管区調査団の指揮官トーマス・ファーレル准将でした。彼は、原爆製造のマンハッタン計画の中で放射線の人体影響の研究を担当しており、わずかな放射性微粒子の肺への蓄積も致命的な影響があることを承知していました。そのファーレルは、9月6日東京で記者会見を行い「広島・長崎では、死ぬべき者は死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能で苦しんでいる者は皆無だ」という声明を発表しました。バーチェット記者が、広島の現状とまったく違うと反論するとファーレルは「残留放射能の危険を取り除くために、相当の高度で爆発させたため、広島には原爆放射能が存在し得ず、もし、いま現に亡くなっている者があるとすれば、それは残留放射能によるものではなく、原爆投下時に受けた被害のため以外あり得ない」と事実を否定する回答をしました。原爆の爆発高度はもっとも効果的に都市を破壊できる高度として選択されたものでした。

放射線被害の情報収集と隠ぺい政策のはじまり

 日本がポツダム宣言の条件的受諾を申し入れた8月11日には、マンハッタン計画の責任者のグローブス将軍はファーレル准将らに原爆効果調査団の結成を命じていました。調査団の目的は(1)占領軍に放射能の危険が及ばないことの確認と(2)建造物と医療面への爆撃の効果の情報獲得でした。調査団は9月8日広島に入り、9月17日から10月6日まで長崎の調査に当たりました。 

 アメリカ軍を中心とする占領政策が本格的に始動すると、連合国最高司令官総司令部(GHQ)は、日本政府にマンハッタン管区調査団の調査に協力を指令し、占領以前に行われた原爆被害調査資料の提出を命じました。他方、GHQは原爆使用の非人道性を国際的に知られることをおそれ、1945年9月19日、原爆に関する報道・文学は検閲により厳しく制限し、被爆調査に関する発表も事前に許可をとることを要求し、事実上発表を禁止するプレスコードを引きました。このプレスコードは占領が終わる1952年まで続きました。こうして、今日の原爆症認定を求める集団訴訟にも関わる放射線被害隠ぺい、とくに残留放射能の内部被曝の問題を隠ぺいするアメリカの政策がスタートしたのです。

原水協通信2004年7月号(第725号)掲載


  
 

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