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被爆者との連帯【ポリネシア】

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パラオ再訪:たたかいは終わっていない
『パシフィック・ニュース・ブレティン』(太平洋問題資料センター)

1998年3・1ビキニデー関連資料より

『パシフィック・ニュース・ブレティン』(太平洋問題資料センター)

1997年1月号
 (部分のみ)

 11月(1996年)に、イサベラ・スマングとシータ・モレイは、暴力、虐待、女性の市民権を考える国際会議に参加し、その後イギリスのイングランドとウェールズ地方を遊説し、パラオ国民のたたかいについて語った。以下は、ゾール・デ・イシュター記者の報告である。

 「自由連合協定」は、アメリカが、パラオを植民地化し、核・軍事基地とするために結ばれたものです。(1996年 イサベラ・スマング談) 
 
 1979年、パラオ(ベラウ)国民は、世界に先駆けて非核憲法を創った。しかし、これは米国の描く軍事的計画と矛盾するものとなり、1994年、15年におよぶたたかいの末に、アメリカは自由連合協定のパラオ国民への押しつけに成功した。自由連合協定は、パラオを永続的な軍事的植民地のまま残しておくことを保証しつつ、パラオ国民に名ばかりの「独立」を与えた。

長期の暴力の歴史をもつ協定

 私たちが「ノー」と10回言っても、彼らは「ノー」を回答としては受け入れません。ところが、1回「イエス」と言ったとたん、彼らはそれを答えとして受け入れます。国民は投票で「イエス」の答えを、少なくとも10回出すべきではないでしょうか。これは公平ではありません。これは、民主主義ではありません。(1996年 イサベラ・スマング談) 

 1946年、世界の国々は、パラオ(その他のミクロネシア諸国とともに)を戦略信託統治国としてアメリカの施政下においた。アメリカは、その国民と領土、水域を防衛し、独立に導くという義務を負っていた。しかし、彼らはミクロネシアを永久に前哨基地としてその支配下におこうとした。1994年に自由連合協定が施行されるまで、パラオは強まる経済的政治的圧力に抗して持ちこたえてきた。「独立」のしるしとして宣伝された協定は、主権国家に固有のいくつかの基本的な権利をパラオ人から奪うものであった。
 協定には長い歴史がある。イサベラ・スマングによると、アメリカは、独立への恐れをかきたてるため、経済の依存と政治的強制の政策をおこなった。

 1960年代、ケネディ米大統領は、ミクロネシア諸島の支配を維持する方法を見出すため、同地域にチームを派遣しました。ソロモン報告は、「先住民」が「依然としてかなり自立的で充足感を持っていることを発見した。これを破壊するために、彼らに決して十分ではない額の金を与えるべきだ」と述べています。私たちの自立を破壊できるだけの金を与えておけば、自由連合協定を結ぶ時、私たちは不安で独立できないだろうというわけです。

 南太平洋の非植民地化がすすむ時代になると、アメリカはさまざまな政治的選択肢をミクロネシア諸国に提示しはじめた。パラオ国民は、これを約束された独立への一歩だとみなしたが、アメリカは違うことを計画していた。戦略的に重要なこれらの島々をより安全に支配下におこうとしていた。アメリカの意図に気付かぬパラオ国民は、非核条項を盛りこんだ憲法を起草した。イサベラ・スマングによると、それは、まさに「悪夢」の始まりであった。

 アメリカはパラオに、そんなことはお前たちはできない、アメリカの計画と矛盾するという内容のテレックスを送ってきました。しかし、国民はやはり非核を望んだので、1981年、憲法は発効しました。そして、1983年に(核兵器と軍事基地を容認する)協定がはじめて導入されました。私たちは、それに反対の投票をしました。反対の投票を10回もおこないました。しかし、最後の11回目の投票で、協定は承認されたのです。

 11回目の投票は、恐怖が支配するなかで1987年におこなわれた。イサベラ・スマングは回想する。

 協定が承認されるには、下院で3分の2、上院で3分の2の得票が必要でした。それは一度も実現しませんでした。しかし、パラオの大統領は協定を批准し、それはレーガン大統領に送られ批准されました。その後、米国議会に送られました。パラオの女性は、大統領が憲法に違反して協定を批准したということに対し、大統領を相手どって訴訟を起こしました。
 これに対し、政府は公務員を解雇し、水道と電気を止め、「協定賛成の票を投じなければ、こういうことが起こるんだ」と脅かしました。公務員数人は、(訴訟を起こした)女性の家に来て、訴訟を取り下げなければ殺すと脅迫しました。彼らのほとんどが酒に酔い、顔に(塗料を)塗っていました。彼らは銃を手にし、行く先々で発砲しました。「9月8日、安らかに眠れ」と書かれた看板を掲げたりもしました。彼女らの中のある女性の父親は撃たれ、殺されました。家々が放火され、家に爆弾が投げられたこともありました。灯りは消され、すべてが一度に起こりました。警察も女性たちの家に行き、訴訟をやめるようたのみました。
 ついに、2人の女性が裁判所におもむき、女性たちは訴訟を取り下げると告げました。アメリカ人の裁判官が裁判所の外に出てみると、銃を手にした男達がまわりを取り囲んでいました。それで、裁判官は、この訴訟は取り下げられたが、女性達はいつでもその訴訟を再提出できますよと言いました。一年後、私たちは再度訴訟を起こし、協定は無効だと宣言されました。
 私たちは、とても喜びましたが、その勝利は短命に終わりました。というのも、私たちはくりかえし投票を強制されたからです。アメリカは、協定を変更したから、憲法で定められた75%ではなく単純過半数の51%だけで可決できるはずだと主張しました。これまで、私たちは、75%に代わって、51%が適用されることなど考えたことは一度もありませんでした。その頃、法廷には違う裁判官が座っており、彼らは私たちに非常に敵対的でした。

 1994年、女性たちは、島を守るために最後の試みをおこなった。イサベラに、政府を相手取った別の訴訟を起こすよう指示したのだった。

 その試みがどうして失敗したか、イサベラは語る。
 1994年、私たちはもっとたくさんの訴訟を起こしましたが、私たちが雇った弁護士がとても悪かったのです。私たちにはお金がなかったのでパラオで引き受ける人はいませんでした。私たちを弁護することには非常に消極的でした。それは安全が脅かされる危険があったからです。ですから、私たちは、アメリカの弁護士にたのみました。彼は、一度も私たちと相談することなく、私たちが知らないあいだに提訴しました。訴訟の前日、私が彼に会いにいくと、彼は泳いでいました。彼が協定についてあまり知らず、準備もできていないのは分かっていました。私は「何の仕事もせずに、私たちをどうやって弁護するつもりなのですか?なぜ準備ができてないのですか?」と聞きました。すると、彼は、「明日はおもしろいショーを見せてあげますよ」と答えました。
 けれども、私たちが望んだのは、「おもしろいショー」ではなく、裁判に勝つことでした。私たちは、勝つことはできず、負けてしまいました。彼は裏で、何か取引をしていました。彼は、今回の結果は問題ではない、ホノルルでは勝つだろうと言いました。でも、ホノルルの裁判に向けても彼は仕事をしませんでした。それで私たちは、彼を首にし、これまで訴訟をハワイに持ちこむために私たちに随分協力してくれた別の弁護士を雇いました。けれども、残された日数は少なく、彼女は訴訟を引き継ぐことはできませんでした。「何もありません。なんの準備もされていません。これではお手伝いできません。」と言われました。私たちは、訴訟を取り下げるほかなく、協定は成立しました。まったく、ひどいと思いました。私たちが、ベストを尽くし、法廷に敵視された結果ならまだ分かります。でも、私たちは、彼がやるべき仕事をしなかったがために負けたのです。

 そして、1994年10月、協定は施行された。

私たちの土地をアメリカは核のため、軍のため、取り上げることができる
 今、アメリカはこう言っています。――お前たちが食物のために耕したこの土地を、いつでも好きなときに取り上げることができるのだ。――いつでも好きなときに、好きなだけの広さを、軍事であれ、核であれ、好きな目的のために(1996年 イサベラ・スマング談) 

 協定は、パラオ政府の権限を限定している。アメリカには外交政策上の拒否権を与え、排他的経済水域をベラウ周辺の12マイルに設定し(そのため群島は分割された)、米軍にパラオ領土の軍事的選択権を与えている。イサベラ・スマングによると:

 アメリカは、60日前の通告をもって、どの土地でも収容する権限を持っています。アメリカは与えられた土地を変更し、軍事基地を置き、核搭載可能艦船を寄港させることができます。アメリカは、十分注意を払い、パラオとアメリカの環境政策や規制に従うと約束しました。けれども、肝心のところになると、アメリカの大統領は何事も棚上げすることができるのです。アメリカが土地を使い終わったときには、その土地を元の状態に戻す義務もありません。その見返りに、アメリカはパラオに、向こう50年間、4億5千万ドルの経済援助をおこないます。この協定は、パラオのみの希望で打ちきることはできません。破棄するには相互の合意が必要です。つまり、永久的な協定になりうるということです。もし、アメリカが終らせたくなければ、協定は永久に有効なのです。
 

すべてのパラオ国民に影響を与えた協定

 国民の土地をとらないでください。地球上から一民族を消さないでください。パラオ人はパラオ人でいさせてください。他の土地では、私たちは決してパラオ人になれないのです。(1996年 シータ・モレイ談)
 
 協定が施行されて以来、それは、パラオの経済、社会、文化、政治に影響を与え始めた。イサベラ・スマングによると:

 私たちの島は、急速に変化しています。というのも、「独立」とは大企業を守るということを意味するからです。日本人、中国人、韓国人がやってきて、大きなホテルや工場、会社をつくりました。パラオ人はそういった仕事になれていないので、彼らは自分たちで労働者を連れてきます。外国人労働者が流入し、多くの問題を引き起こしています。協定が実施されていらい、たくさんの人がやってきて、たくさんのビルが建ちました。コロールでは、私たちが熱帯の小さな宝石の上に住んでいるなんて、とても信じられない状況です。

 外国人労働者の移民のせいで、パラオ国民に対する社会的な圧力は強まったとシータ・モレイは語っている。

 国民は困っています。外国人雇用者は外国人労働者を雇いたがるため、外国人の労働者や建設労働者の雇用は増え続けています。彼らは雇用されますが、パラオの青年は雇用されません。これが多くの問題を引き起こしています。私たちは、パラオ人を雇うよう雇用者にかけあっていますが、ごくわずかな人しか聞き入れてくれません。

 増え続ける失業と、急増する人口からのパラオの限られた経済基盤と天然資源に対する需要は、パラオの生活水準に影響を与え始めた。この状態は、連邦諸制度の打ち切りでアメリカからの基金が減ったことで、さらに悪化した。シータ・モレイは、多くのパラオ国民は「何百万ドル」の約束に惑わされていたと語る。
 協定は、私たちに4億5千万ドル与えていますが、これは、パラオがアメリカ領だった頃に得ていた額にくらべて極めて少ないものです。「何百万ドル」と聞けば、大金だと思うでしょうが、50年分としてみれば、何もないに等しい額です。おまけに、アメリカは、連邦諸制度を打ちきりました。老人福祉は打ち切られ、アルコール中毒への対策資金は75%減らされました。高校への援助も打ち切られました。連邦非常事態管理局(FEMA)の援助も打ち切られました。この制度の下で、地域の団体に、食べ物を買って人々に分けるための援助金が与えられていました。最近、ある非常事態が発生したのですが、FEMAの援助が打ち切られているため、アメリカは米軍に援助するよう要請しました。これは米軍にとってはよい宣伝となりました。脱塩機(海水から淡水を作る機械)を持ってきて、「米軍の水」と大きく表示しました。これで軍のイメージはよくなりますが、国民は苦しむのです。

イサベラによると、協定を後押ししたパラオの国会議員でさえ、その基金の少なさに不満を抱いているとのことだ。

 パラオ政府は、金欲しさにアメリカのかいらい政権になりましたが、協定はその正反対のものでした。以前は、私たちは貸付や基金や援助を受けることができました。協定が発効したとたん、財政援助は途絶えはじめました。今では、国会議員たちが「協定の金は充分な額ではない」と言っています。

 彼らは気がつくのが遅かったのだ。

(以下略)



 
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