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被爆者との連帯【ポリネシア】

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ガブリエル・テティアラヒ/ヒティ・タウ(NGO)(1995年ハーグ平和のためのアピール)

ガブリエル・テティアラヒ/ヒティ・タウ(NGO)
於:ハーグ平和のためのアピール、世界の被ばく者セッション
1999年5月 オランダ、ハーグ

(祈りの儀式)
  通訳の方には申し訳ないのですが、これからの発言は、提出していた文書にもとづくものではありません。

  いま祈りの儀式をしました。これまでわたしはこの儀式を、ネバダ核実験場や、イギリスが核実験をおこなったオーストラリアのマラリンガでもおこないました。これを、フランスが200回にわたる核実験をおこなった、私の国マオヒのツアモツ諸島にある、モルロア環礁とファンガタウファ環礁でもおこなおうと試みました。わたしたちの子どもたちの前でわたしたちの文化であるこの儀式をおこなえる日が来ることを願っていますが、植民地支配下にあるわたしたちに、それはできません。

  わたしが核実験を経験したのはまだ若いときでした。当時わたしは(ツアモツ諸島の)ハオという環礁に住んでいました。ある日、学校にフランス軍がやってきました。彼らは、全校生徒を集め、「水の城」とわたしたちが呼んでいた場所に連れて行きました。そこでわたしたちは、モルロアとファンガタウファ環礁の方向を見るように命令されたのです。これは1972年、フランスが大気圏でおこなった最後の核実験でした。わたしたちは16歳ぐらいでした。40人ほどいた軍人たちは、もちろんのこと防護服を身につけていました。わたしたちマオヒの子どもたちは、核実験から生じたきのこ雲を見るように命令されたのです。そう遠い距離ではありませんでした。あの日を忘れることはできません。

  何年かして、わたしはフランスへ留学しました。1975年から1984年までのあいだ、フランスは、フランソワ・ミッテラン大統領の命令のもと、100以上の核実験をおこないました。当時わたしはボルドー市に住んでいました。タヒチ島はとても美しいところで、いまでは観光地として知られいますが、当時は、モルロアやファンガタウファ環礁でおこなわれていた核実験、また、ひとりの太平洋島民にたいする周囲の関心はとても薄いものでした。わたしは一人街頭で実験に抗議し、ボルドーの大学から市庁舎まで歩きました。歩きながら、わたしは祖母の言葉を思い起こしていました。「このパレオ(ポリネシアの伝統的な模様を染めた布)をもっていきなさい。そして大学に入って、フランス人といっしょに核実験に反対しておくれ。」しかし、フランスにいた10年間、ひとりとしてわたしといっしょに抗議行動をしてくれるフランス人はいませんでした。まるで無関心という大海の孤島にいるような日々でした。1985年、わたしはタヒチ島へ戻りました。小さい島ですから博士号をもってかえってもできることといえば、政府の役人になることぐらいしかありません。母にも、「政府の仕事に就きなさい」と言われました。しかし、時として子どもが親を教育する必要があります。わたしは母に、好核政府のために働くことなどできない、と告げました。

  わたしは核実験反対の運動を組織し始めました。なかには、核実験をやめさせるなど至難の業と考えている人もいました。そのときわたしは、いつかきっと、たくさんのタヒチの人たち、フランスの人たちが核実験に反対する日がやってくる、と言いました。その日はやってきたのです。1995年6月19日、ジャック・シラク仏大統領が、核実験の再開を決定したとき、通りに出て抗議をしたのはわたしひとりではありませんでした。タヒチ島の人口の1割にあたる1万5千の島民たちが植民地支配に抗議し、街を行進しました。

  しかし、この後タヒチにもどったら、わたしはフランス警察から「国の外で何をしてきた」との質問を受けるはずです。わたしは「核実験の被害者である島の大部分の人たちが、あなたたちの正義と平和の制度の下におかれるようにしているだけだ」と応えます。平和と正義の制度のなかで、植民地支配下におかれた人びとを牢獄につなぐことはできないのです。

  いまわたしは、単にマオヒ人というひとりの被害者ではありません。わたしは、NATOが殺人をおこなっているセルビアの一市民であり、ミロシェビッチが殺人をおこなっているコソボの人間です。わたしは世界中の戦争の犠牲者です。



 
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