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被爆者との連帯【カザフスタン】

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セミパラチンスク核実験被害者同盟
クリムハン・ラヒモワ(1998年国際会議)

カザフスタン

原水爆禁止1998年世界大会
国際会議

セミパラチンスク核実験被害者同盟
クリムハン・ラヒモワ




度重なる体外・体内被曝を受けたセミパラチンスク州住民の健康状態の評価


  セミパラチンスク核実験場では、1949年から度重なる核実験がおこなわれ、その結果州内の一部住民は、高濃度の放射能汚染地域内におかれたのです。地理的に実験場にもっとも近いのはセミパラチンスク市のアバイスキー、ベスカラガイスキー、ジャナセメイスキー、アブラリンスキー地区ですが、放射能汚染はチュバルタウスキー、ボロドゥリヒンスキー地区にもおよんでいることがわかりました。セミパラチンスク実験場で実験が行われていた時期を、住民が放射能の影響を受けた程度で二つに分けることができます。第一の時期は、大気中実験や掘削目的の地下実験が行われた1949~1965年です。第二の時期は、もっぱら地下実験が行われた1965~1989年の時期です。第一の時期のうち、1949年から53年まで行われた大気中実験は、もっとも放射能の影響を多く住民に与えたと言われています。その時期に、放射能が大量に蓄積され、ひどい後遺症を残したのです。

  軍部の公式データでは、セミパラチンスク核実験場では、大気中実験と地上実験が166回、そして地下実験が約500回おこなわれたとされています。住民の健康と自然環境が受けた被害を評価するためには、この地域の汚染は次のことが原因で起こったということを考慮する必要があります。

  ・地上核実験
  ・大気中核実験
  ・1953年の水爆実験
  ・地下核実験

  セミパラチンスク州住民の被曝の特徴は、度重なる急性被曝と慢性被曝であるということです。十分な安全対策がとられなかったため、土壌や水源や食糧がひどく汚染されました。1962年までは、はっきりした目的を持った医学調査は行われませんでした。この地域に住む人たちの安全に疑問を呈した勇気ある専門家は追放されました。

  1962年から、セミパラチンスク放射線診療所によって州内のアバイスキー地区、ベスカラガイスキー地区、ジャナセメイスキー地区の14の居住区に住む1万人の健康調査がおおこなわれました。

  これらの住民の健康状態の長年にわたる観察によって、循環器系と神経系の障害という二相の特徴が明らかになりました。調査の結果、核実験のせいで、寿命が10年短くなっただけでなく、実際の年齢よりも早く老化が進むことが分かったのです。

  腫瘍の疫学調査も行われ、実験場に隣接する地域住民の間では、腫瘍の疾病率と腫瘍による死亡率が、調査開始から4?15年目にかけて、また23?27年目にかけて急激に増加していることがわかりました。被曝していない人たちと比較して、腫瘍発症率の年平均増加率は、40%も高いものでした。

  州立腫瘍学診療所のデータによれば、セミパラチンスク州住民の中では、白血病患者の数が1975年から85年にかけて、その前の10年間と比較して7倍になっています。長年にわたる周辺の自然環境の悪化によって住民の遺伝子にも悪影響が与えられ、それが先天性異常や発達異常という形で現れています。

  セミパラチンスク州住民の白血球中の染色体異常の頻度は、被曝していない人たちと比べ4.5から 5倍も高いのです。先天性異常は、1986年から88年にかけて疾病の6.4%、死亡原因の2.3 から 7.3% を占めるようになりました。子供の神経系の病気や精神病、また知的障害や身体障害を持って生まれる子供の数も増えています。

  私たちは、アバイスキー州カラウル村と、セミパラチンスク州に住む、3家族(トレウベコフ家、スイズドゥイコフ家、バイグージノフ家)の調査を行いましたが、これらの家族の7代から4代前までは、きわめて健康で長く生きたことが分かっています。3家族にとっても悲劇は、1949年から始まり、今日まで続いています。

  1985年から89年にかけての、内分泌系異常の発症率は、古来のセミパラチンスク州住民の中では26.7%を占めています。

  そのうちの一人、1978年生まれのエンリク・トレウベコワも、内分泌系の機能障害で苦しんでいます。現在エンリクは20歳になっていますが、彼女は4歳児にしか見えません。医者が下した診断は、先天性の重症の甲状腺機能減退症でした。著しい身体と知能の発達の遅れも見られます。

  1949年までは、エンリクの祖先はきわめて丈夫でしたし、長く生きています。彼らの健康と長寿の秘訣は、きれいな空気と、汚染されていない食糧と、屋外での適度な労働だったと思います。その時代はまだ工場などがなかったため、土壌も空気も水もきれいだったのです。

  当時は若い年齢での死亡原因としては、せいぜい伝染病の流行があるぐらいでした。

  地上実験と地下核実験が行われていた時期、トレウベコフ家は、もっとも放射能汚染の危険が高かった地域に暮らしており、被曝すると同時に、ストロンチウム90とセシウム137に汚染された肉や牛乳や水を摂取していたのです。そのためにエンリクの親戚や父親が亡くなり、エンリクの母親やと姪が病気になり、エンリク本人の脳下垂体の機能が破壊されたのだと思います。

  もう一人、実験によって悲劇的な運命に見舞われたベーリック・スイズドィコフのことを紹介したいと思います。

  ベーリクも、セミパラチンスク核実験場の被害者です。彼は19歳ですが、背が低く、生まれたときから目が見えず、顔が腫瘍で腫れ上がっています。彼のことはロイター通信も報道しています。彼の家族のことを調べたとき、中国から1962年にズナーメンカ村に引っ越してきたということがわかりました。1963年、セミパラチンスク核実験場で大量の放射能の放出を伴う実験がおこなわれました。そのときベリクの父親は、核実験場内で羊を放牧していました。ベーリクは、つらい運命にも関わらず、社交的で明るく、イタリアに友人がたくさんいます。彼と話をしたとき、彼は記憶力と聴覚が優れていることに気がつきました。彼は点字で書かれた本を読み、イタリア語も少し話せます。

  ベーリクに救いの手をさしのべたのは、反核運動のリーダー、オルジャス・スレイメノフで、彼のおかげでベーリクはイタリアで治療を受けています。ベーリクの家族は、ベーリクのホームステイと送り迎えを引き受けてくれたアルバネラ市のレナータ・ヨスナメルさんにとても感謝しています。

  今日、日本の友人のみなさん、そして私たちを精神的・物質的に支えてくれた小児科医の宇籐千枝子さんと家族の方に、反核運動のメンバー、ジャムポーズィフ・アイジャンとヌルジャン、サリムベートワ・アナラ、バイグジーノオワ・オルジャス、カリバーソワ・アセム、カセーノワ・シハリーとアセヤ、ラヒーモワ・アルマンとエルボル、アフメトカーリエワ・アセリとエルヌル、その他たくさんおセミパラチンスクの子どもたちから感謝の言葉を伝えたいと思います。

  終わりに、ジャーナリストであるナデージダ・ルブリョーワの言葉を紹介したいと思います。「ふるさとは女性であり、歴史も女性であり、地球も女性です。そして、地球を豊かにするためには、しっかり守らないといけないのです。」





 
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