『ワシントン・ポスト・マガジン』1997年12月7日号
記事 ジェフリー・スミス
(部分のみ)
ジョージ・リー・バトラー将軍は、米核戦略の最高司令官に昇進した人物であり、四つ星将校であった。彼は、核戦争を計画し、その演習をおこなう任務をもっていた。やがて彼は、そのなかで自らの仕事の道義上の意味に疑問をもつようになったのである。
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1988年12月4日、彼は初めてソ連を訪れたが、それ以前にその疑念はすでに芽生えていたと、彼は考えている。モスクワ郊外のシェレメチェボ空港の滑走路は、ひどくでこぼこで穴だらけだったので、ジョージ・リー・バトラー将軍は、飛行機が空き地に着陸したにちがいないと考えたほどだった。誘導路は、2日前の吹雪の雪に覆われており、彼の目には、滑走路に沿って何十もの壊れた街灯が通り過ぎていくのが見えた。中心街にむかって、でこぼこ道を、公用車の列がスピードをあげていくなかで、政府関係の巨大な建物群が、崩れかかり修理が不可欠な状態となっているのが目に留まった。そして、車の列がモスクワの中心部に近づいたとき、彼は、運転手の手の中で、ギアレバーが突然抜けてしまったのを見てあっけにとられた。
アメリカの核戦争戦略全体の起案に責任を負っている空軍の将軍として、バトラーは、モスクワを心の中で何度も思い描いてきた。彼は、クレムリンでの荘厳なメーデー・パレードを映像で見たことがあったし、何千ものソ連の爆撃機、ミサイル、戦車、その他の兵器の配備を研究してきた。結局彼は、ソ連が、世界支配を追求し、西側との紛争を準備している、恐るべき要塞国家であると考えていた。アメリカにとって唯一の合理的な態勢は、戦争が勃発したら、アメリカができるだけ多くのソ連の兵器庫を破壊できるように、何千もの核兵器をただちに使用できるようにしておくことだと、同僚に語ったものだった。
しかし、いま彼は、地上での第一印象から、その確信にぐらつきを感じていた。何千枚もの衛星写真、30年にわたるさまざまな機密報告から、彼は自分の目の前にあるものよりも、はるかに近代的で機能的な国を予想していた。しかし、実際彼が目にしたものは、「深刻な財政危機、……それ以上に、人々の目に写る敗北感だった。自分が長年、実は漫画のような現実を相手にしてきたのだという思いがどっと押し寄せてきた」。
これは、自分が考えを変えたまさにその瞬間を、1997年の今、記憶をだどって思い起こそうとしている男の回顧録である。しかしそのような転機が実際には存在しなかったことを彼自身は知っている。指をパチンと鳴らすように、あるいは電球がぱっとひらめくように起こったのではなかったのだ。そうではなく、直感に訴えるような知覚が何度かあったのだ。運転手の手の中でギアレバーがはずれたときのような。他にも……。
ロシア国防相のパヴェル・グラチョフがバトラーをたずねてオマハ近郊までやってきたのは、1993年12月であった。当時バトラーは、米戦略司令部あるいはSTRATCOMと呼ばれた米核戦略本部の司令官であった。ソ連はもはや存在せず、バトラーは引退を準備していた。グラチョフを司令センターに案内した後、バトラーは彼に、ロシアに向けてアメリカが核兵器を発射するさいには自分が座って命令を出すことになる椅子に腰掛けるように言った。バトラーの記憶では、会話は次のようなものだった。
「将軍、あなたはこの司令センターの私の椅子に腰掛けておられます。そこは、私が軍隊を指揮・司令し、我が大統領の命令にもとづいて核戦争を開始する場所です。さて、何をお聞きになりたいですか。どんな質問にもお答えしましょう」。
グラチョフは、通訳に耳をかたむけ、こう尋ねた。「本当の司令センターはどこにあるんですか?」
「ここですよ」。
「本気ですか?」
「あなたは、私の本当の司令センターにいるんです」。
「まさか。これでは、ひとたまりもない。ここはわずか地下10メートルですよ。地中深く埋められたあなたの司令センターはどこにあるんですか。このもっと下にあるんでしょう?」
「いいえ、将軍。他にどんな司令センターもありませんよ」とバトラーは言った。しかし、ソ連軍人時代に長く培われてきたグラチョフの深い疑念と不信を解くことはできなかった。二人は話をすすめ、グラチョフは、バトラーに核兵器についての意見を尋ねた。
「対決の時代は終わろうとしています」バトラーは自分が、そう口にしていることに気づいた。何千にもおよぶ核兵器は必要でなくなりつつある。「この方向がどこまで続くかはわかりません」。身振りで兵器数が減少してゆく線を示しながら、バトラーは述べた。「この末端が本当にゼロに達するのかどうかわかりませんが、私はそうなることを望んでいます」。
「バトラー将軍、私はそれには同意できない」とグラチョフ。
「なにが問題なのですか?」
「核兵器は、われわれを大国にしてくれている」。
「それはごもっともですが、」バトラーは答えた。「核兵器は、あなた方を恐れられるべき大国にしているのですよ。あなた方は、民主主義の国となってこそ、偉大な国になれるのです」。
重い沈黙。バトラーは、その場にいた軍幹部や外交官たちが、自分の言っていることを見当違いだと思っているのではないかと、ふと思った。しかし、そのとき彼は、グラチョフに自分の意見を言っておかなければならないと感じたのである。
バトラーは、自分自身との長い無言の対話のあと、こう述べた。
「ばかげた、とんでもないことだと思う者もいるだろう……。私は、かつてフラニー・オコナーの『私は真実を目にし、真実は私を変わり者にした』というすばらしい一文を引用したこともあるのだ」。
バトラーの引退後の四年間、米軍幹部が核戦争を計画するこの部屋の中には、ほとんど変化がなかった。ペンタゴンとオマハ近郊の丘陵でその任務を帯びている者たちは、ロナルド・レーガン大統領が署名し、後継大統領の誰も修正しようとしなかった極秘文書を、今も自分たちの全般的な指針としている。警戒センサー、通信網の結節点、兵器などの複雑なネットワークは若干縮小されてきたが、それらの維持には依然として年間330億ドルもの費用がかかっている。
1993年にバトラーとグラチョフが会談した米戦略司令部は、いまも変わらぬままである。それは小さな、薄暗い明かりに照らされた、コンクリートと鉄骨に囲まれた階段式教室のような形をした部屋である。世界中の天候、ミサイルの軌道、爆撃機のルート、予定された核爆発による予想死亡率を表示した8つの大きなディスプレーの前には、椅子とコンピューターの列が並んでいる。終末の日の装置にふさわしく、殆どの時計が、最初の核弾頭の着弾の瞬間あるいは、アメリカのミサイルが発射される瞬間に向かって、カウントダウンするようになっている。
米戦略司令部最高司令官のための椅子は2階にあり、大統領、国防長官、統合参謀本部議長、そして他の軍の高官に直接つながる電話の近くに置かれている。この椅子から、850億ドルもする200機もの重爆撃機が、大統領の核攻撃命令がありしだい、ロシアにむけて、あるいはいかなる場所にも出動できるようになっている。バトラーは、この椅子に、肩に四つ星をつけて、3年以上も座っていた。それは、長々しい下働き時代ののちに、上官たちがバトラーは核兵器の軍事的・戦略的価値について、冷静な判断としっかりした見解をもった男だと確信したすえに訪れた、彼の37年間の経歴における頂点の時期であった。
しかし今日、ジョージ・リー・バトラーは、次のように信じ、公衆にむかってはっきりと述べている――核兵器は廃絶されなければならない。それはアメリカ人にも他の誰にたいしても安全を提供するものではない。冷戦時代のアメリカの国家安全保障政策の根本原則であった『核抑止力』論は、高価であり、誤った考えであり、危険であると。
彼はこの見解を、昨年、ナショナル・プレス・クラブでの情熱的なスピーチで、はじめて公に宣言し、このスピーチは世界的な関心を集めるものとなった。「核兵器が受け入れられている世界をあたりまえの事として許容するよりも、もっとましなことが、われわれにはできる」とバトラーは述べた。核兵器の終末論的な威力を紛争の究極的な仲裁者とみることは、「人間の最も凶悪な本能を戦争の正当な根拠として認めるようなものである」。
バトラーが初めて公式におこななったアピールは、段階的な核兵器廃絶を支持する60人の米ロなどの退役将軍・将校の声明の発表と時を同じくするものとなった。来月(98年1月)、バトラーは、核兵器廃絶にむけた措置を求める、約100人の世界中の現役あるいは元国家元首や文民指導者の声明発表に関連して、再び遊説をおこなう予定である。
バトラーは、核兵器の廃絶を訴えた初の米核戦力司令官である――彼は、この大義にとって、もっとも有力な擁護者の一人となり、アメリカの主要な政治潮流によって、核兵器についての考え方を何年間も拒否されてきたリベラルな平和活動家たちにとっては、思いもよらない同盟者となったのである。バトラーの心変わりを知ったかつての同僚たちは信じられないという顔でかぶりを振る。バトラーの近しい友人であるチャールズ・F・ステビンス元米空軍准将は、ある知人が「バトラーは、十分な酸素もないまま、高く飛びすぎたのだ」と語っていたと述べている。だれもがこれほど礼儀正しいわけではない。
アメリカの軍と政治組織の高官のなかには、これほど明晰で経験ある軍の高官が核抑止力の必要性を拒否したことに、はっきりと神経質になっている者たちがいる。バトラーが昨年例の演説を準備していた際、ホワイト・ハウス報道官のマイケル・マカリーは、バトラーの先を制してメディアに次のように語った。「われわれは、将来においても核兵器がわが国の抑止戦略のかなめ石の一部だと確信している。したがって、もちろんのこと、(バトラーの考えとは)いかなる完全な一致点もない」。
バトラーは世界の兵器庫から核兵器を廃絶するためのいかなる努力にも反対する議論をよく心得ている。その中には、次のような議論がある。ロシアのように潜在的に不安定な国は核の脅威となり続ける。核兵器廃絶は、イスラエルや日本その他のアメリカの同盟国を不必要な危険にさらすことになる。核兵器は、化学兵器や生物兵器によるアメリカ軍への攻撃を抑止し、あるいは、それに応酬するために維持されなければならない。アメリカや他の主要核保有国がどのような動きをしようとも、インドやパキスタンは、核兵器の保有を断念しないだろう。
「このような批判はすべて、完全に予想できる」とバトラーは述べている。「数年前なら、私自身がそれらの議論を書いていたはずだ」。STRATCOM司令部からほんの2、3マイルの所にあるオマハ市の中心街にオフィスを構えるビジネスマンとして、バトラーはこれらを含め、複雑な核兵器政策の問題を、一つ一つ時間を割いて相当詳細に検討した。彼は、反タバコ運動の活動家になったもと喫煙者のような情熱を持って、彼の使命に打ち込んでいる。彼は、近年の歴史は、自分と同じ見解を持っている人々に希望を与えるもので、それは、最初は不可能だと思われたものが、専門家が予測したよりも容易に達成されるということを教えているからであると主張している。
「核兵器の廃絶は空想的であると言う人々は、何十年ものあいだ、冷戦の終結は空想的だと考えられていたことを忘れてしまっているのだ」と彼は言う。
情熱的な男でありながら厳格な軍人らしい態度で、バトラーは、自分もかつて「核に仕える聖職者の意見を信頼し、聖戦に夢中になっていた」ことを認めている。実際、彼自身、高位の聖職者だった。彼は、「新兵器の製造に立ち会い、そのために必要なものや技術について、直接指示する責任を負っていた。私は、12000ヶ所に標的を定めた戦争計画の作成を担当した。その中の多くの標的はくりかえし核攻撃をあびせられ、全く不条理としかいい様のない状態にまで陥ることも考えられていた」。話のなかにやや宗教的な言葉を織り交ぜながら、バトラーは、「冷戦の過酷な緊張から解放」された後、あらためて核兵器による安全保障の問題を自由に検討できるようになったと述べている。
その解放の前には、南部の小さな田舎町からはじまって、軍事機構内の高みに上りつめ、核の発射ボタンに手をおき、ハルマゲドンを予期して道義心に逡巡しながらも大統領の命令を忠実に待ち受ける司令官となるまでの、長い人生の歩みがあった。おそらく、核司令部の他の同僚とバトラーとの際立った違いは、彼が自分の任務について熟考し、判断し、側面からも検討し、すべての起こりうる結果を鮮やかに想像してきたことだろう。軍人としての経歴を思い返すのに、明瞭かつ厳しい口調で話すバトラーを聞いていると、彼が自分の仕事の重要な意味を強く認識し、常にそれに疑問をなげかけ、その道徳的意味の源を探ってきた男であることが感じとられる。これは、戦争を戦い、勝つことを生業とする将軍としては正常な、そして軍事的観点からは望ましい思考様式とは言えない。
しかし、これがバトラーのたどった道であり、それこそが、彼の考えを変えさせたものなのである。歴史が彼にいかなる審判を下そうと、それは、あるアメリカ人将軍の異論を唱える良心がたどった、驚くべき旅なのである。
「記憶をたどり、すべてを思い返してみると、その道筋のどの箇所でも見えるのはまったく……。 これと取り組んでいる者たちの頭脳を見てほしい。帰ったら、これまで出版されている本や、そこからほとばしり出る言葉を読み返してみればいい。これまで何千という会議が開かれてきた。教養があり、賢明で、動機に満ちた者たちが、じっとあごをひいて座り込み…… SIOP(単一統合作戦計画)について議論している。大量攻撃の選択肢は1、2、3、4番まで、選択爆撃の選択肢は1から7までだ。そして大統領の目の前にどんなふうに「決定系図」をずらりと並べるかを話し合っている」。しかし、これらのすべての向かう先には何があるのか? 終末論的な核戦争だったのである。
1957年、アナコスティアのボーリング空軍基地で、ミシシッピ州のオークランドから出てきたやせぎすの17才の少年は、給食係の軍曹に助けを求めた。もし、5日以内に5ポンド太れなければ、空軍士官学校の入学条件である最低体重117ポンドを満たせなくなってしまう。たった300人の第三期生募集定員にたいし1万人もの出願者がいる中で、候補生を選ぶボーリング基地の軍医たちは、1ポンドの体重不足であっても喜んで不合格理由としてしまうだろう。
無償の大学教育へ必死の望みを託してきたバトラーは、その一週間のあいだ、目の開いている時間はとにかく可能なかぎりを食堂で過ごし、ミルクシェイクとマッシュポテトを詰めこんだ。体力測定の最終審査に合格した後、体重計の針がまだ2ポンド足りないのを見て、彼は気も狂わんばかりになった。ところが、医務室の事務をしていた若い航空兵は、バトラーに25セント硬貨を渡して、1クォート入りのチョコレートミルクを買うように言ったのである。なぜか?「あれは重さが2ポンドあるんだ」と、その航空兵は答えた。
(以下略)
R. Jeffrey Smith covers national security issues for The Post.
Copyright 1997 The Washington Post Company
『ワシントン・ポスト』1997年12月7日号
記事 ジェフリー・スミス
(部分のみ)
複数の政府高官によると、先月クリントン大統領は、アメリカの核兵器の攻撃目標設定にかんする新しい指針を打ち出した。これは、軍部は世界を破滅させかねない長期核戦争に勝利する準備を整えなければならない、といった冷戦時代の公式見解を破棄するものである。
これら政府高官によれば、国防長官と統合参謀本部議長にむけたクリントン大統領の新指令は、従来のものに代えて、単純に壊滅的反撃の威嚇を与えることによって米軍や同盟国に対する核兵器の使用を抑止することをアメリカの核戦力の目標として課し、あらゆる長期核戦争計画をやめるよう求めている。
同筋によると、高度の機密とされるこの大統領指令は、1981年にロナルド・レーガン大統領が承認した指令に代わるもので、大規模な核兵器の応酬で勝利する国はないと公式に認めた大統領レベルの核攻撃目標設定指針としては冷戦後はじめてのものである。
しかし、この指令は、アメリカの戦争立案者に対し、ロシアの軍部と文民の指導部および核戦力にたいする核攻撃という長年の選択肢は維持するよう命じている。このような計画は、アメリカ政府がロシア政府にたいし、来年2億4200万ドルの対外援助を提案しているにもかかわらず、双方がいぜん潜在的な核の脅威をおよぼし合っているという、両国の軍当局者のあいだに広く見られる見解を反映したものである。
いくつかの情報によると、指令文の言いまわしは、ありそうもない中国との核の応酬のさいに攻撃を加えうる地点のリストを広げることを目標立案者を許している。さらにこれらの情報筋によると、指令の言いまわし、敵が化学・生物兵器を使って攻撃した後ならばアメリカ核攻撃を認める、との内容が含まれている。この考え方は、独立した軍備管理問題専門家たちのあいだで激論が交わされてきた点である。
この大統領決定は、アメリカの核兵器の標的設定にかんする大統領の政策を、この16年間ではじめて公式に調整するものであり、長期戦に備えた貯蔵核兵器の量をより減らすことで核兵器総数をさらに削減する道を開きうるもの、と数名の政府高官は述べている。
しかし、この指令は、アメリカの戦略核兵器を瞬時の通告でいつでも使用できるようにしておくという軍部の努力の点では、変化よりその継続の方を反映している、と彼らは付け加えている。この軍部の仕事には、毎年推定330億ドルの費用がかかる。
大統領特別補佐官兼国家安全保障会議国防政策上席部長のロバート・G・ベルによると、この文書により、たとえば、アメリカは自国の安全保障のかなめ石として「無期限の将来」にわたり核兵器に依存しつづけること、また、爆撃機、地上配備ミサイル、潜水艦配備ミサイルからなる核戦力の三本柱を維持することが確認されている。
アメリカの核政策の批評家たちは、政府がフランスの例にならうことを検討するよう提案をおこなってきた。フランスは、敵の攻撃に弱い地上配備戦略ミサイル戦力を放棄した。その理由は、一つには資金の節約にあるが、もう一つには、こうしたミサイルにたいする敵からの先制攻撃の誘因をなくすことがあった。フランスとイギリスはもっぱら、抑止を目的とした核兵器搭載爆撃機と潜水艦に依存している。
いくつかの情報によれば、非公式にはPDDとして知られる大統領決定指令は、ごく限られた上級の政策者グループによって作成され、その数は24人ほどにすぎず、国家安全保障会議、国防総省、統合参謀本部、中央情報局(CIA)、国務省、ゴア副大統領事務室のメンバーで構成されている、という。
これらの高官によると、この文書は、大まかな標的設定政策のみを定めたものであり、特定の標的攻撃の準備といったより具体的な軍事的必要条件は、今後10カ月をかけて書き換えがおこなわれるという。この作業は、オマハに本部を置く戦略空軍司令部(STRATCOM)軍事スタッフによっておこなわれる。
彼らによれば、この指令の起草中心者は、国際安全保障担当国防次官補代理フランクリン・ミラーである。彼は、1981年以来国防総省で核兵器問題を担当してきたはえぬきの高官である。文書を準備する過程で、立案者たちは、核兵器の設計・製造を担当するエネルギー省や、軍備管理軍縮局(ACDA)のジョン・D・ホラム局長といった軍備管理軍縮局高官らとの協議はおこなっていない。ホラム局長とは、クリントン大統領により軍備管理・国際安全保障問題担当国務次官補に指名された人物である。
ベル氏は、金曜日(訳注:1997年12月5日)のインタビューで、この指令文の長さ、署名の日付、公式タイトルにかんする具体的コメントを拒否した。また、アメリカの核兵器の標的として名指しされた国にかんする応答もさけた。彼は、指令が最高度の国家機密にかかわるものであることから秘密審議は正当なものでありで、政府による指令の公表も、外国政府との協議も計画されていない、と述べた。彼は、ホワイトハウスがコメントに同意した理由は、もっぱらワシントン・ポスト紙がこの指令にかんする記事を準備していたからにすぎない、と言っている。
ベル氏は、「大統領指令は、米国核兵器がはたす目的を一般的な形でのべたものであり、わが国の核戦力のために実際の作戦計画と標的設定計画を作成する軍部立案者にむけた大まかな指針を提供するものである」と語った。「[なぜなら]われわれは冷戦の終りにあり」、過去7年間にロシアをはじめとする地域で多くの変化が起きたため、「いまや核兵器は、核時代のどの時期とくらべても、われわれの核安全保障戦略においてはたす役割が軽くなっていることを認めたものである」とベル氏は述べた。
同氏は、メモを読みながら、「もっとも注目にあたいする点は、このPDDが、核戦争を成功裏に遂行することができるとか、核戦争で勝利するといった以前の言及をすべて大統領の指針から取り除いたことである。…したがって、このPDDにおいては、すべての段階において核戦争あるいは核兵器使用を抑止すること、核兵器で戦わないことに重点がおかれている」と述べた。
同時にベル氏は、「核兵器はもはや価値がないとか、現政権における重要問題ではないするのは、間違いであろう」と付け加えた。核兵器は、「確実で、圧倒的で、壊滅的」な対応という威嚇を通じて「侵略と脅迫」を抑止するために、いまも必要とされている。同氏は、この指令によりアメリカは、攻撃警報を受けた後、ただし、飛来する弾頭が爆発するまえに、〔核〕兵器の発射をおこなうこと、および紛争のなかでは核兵器を先に使用することをひきつづき認められている、と指摘した。
(以下略)
By R. Jeffrey Smith
Copyright 1997 The Washington Post Company
『核実験の影響、女性の視点』会議の報告
(1995年4月24日、ニューヨーク)より
マーシャル諸島での核実験と異常出産
グレン・アルカレー
(部分のみ)
1946年から1958年にかけて、マーシャル諸島のビキニ環礁とエニウェトク環礁で67回の原子爆弾と水素爆弾の爆発がおこなわれ、水爆実験により、風下にある島々の多くの住民が致死量まで達しないレベルの放射性降下物にさらされた。電離性放射線被爆による急性および潜伏性の影響に加え、環礁の多くの地域社会(ビキニ、ロンゲラップ、エニウェトク)は、放射線学研究が、生まれ育った島へ将来帰還が可能であると結論づけることを待ちわびながらも、いまだ本来の社会的生活を混乱させられた状態にある。
私は、1970年代半ばに平和部隊ボランティアとして放射線に汚染されたマーシャル諸島のウトリック環礁で働く中で、ウトリックとロンゲラップの女性から、いわゆる「ジェリーフィッシュ・ベイビー(クラゲのような赤ん坊)」の話や、1940年代、50年代にビキニとエニウェトクでおこなわれた核実験と関係があると考えられている生殖に関連する問題について、数多くの報告を耳にするようになった。マーシャル諸島の女性が受けた放射線に起因する健康への影響の可能性について私が問い合わせると、米国エネルギー省とブルックヘブン研究所の研究者たちは、根拠が文書で証明されている甲状腺異常と二、三の放射性ガンを除き、核実験による女性と生殖機能への影響はない、という返事を繰り返すのであった。
1975年から1991年までに、私は1200名以上のマーシャル人女性にインタビューしたが、次に紹介する1981年におこなった、ウトリック環礁のベラ・コンポジへのインタビューは、マーシャル諸島の多くの女性が感じている問題を例証するものである。
「(1954年3月のブラボー実験後の3カ月にわたる避難生活の後で)わたしたちがウトリックに戻った後、ネリックはウミガメの卵のようなものを生み、フローラはクラゲのようにとてもぬるぬるしたカメの腸のようなものを生みました。そのあと間もなく、たくさんの女性が5カ月ぐらい身ごもったあと、いつの間にか結局妊娠していないということになりました。私自身も、妊娠したと思ったのに、3カ月後にそうではないことが分かりました。このようなことは、ここの女たちにはまったく初めてのことで、『あの爆弾』の前には一度もなかったことです。」
もう一人のウトリックの女性、ニーネ・レトボもまた、自身の核時代との遭遇、特に「ブラボー」の死の灰がマーシャルの女性に与えた影響について語っている。
「何人かの女性は、ネコやネズミやカメの内臓――腸のようなもの――に似た生き物を生みました。ほとんどの女性が「ジブン(流産)」を経験し、私も人間ではないようなものを生みました。何人かの女性はぶどうや他の果物のようなものを生み、何人かの女性は、私も含めて子どもを生めなくなりました。今はもう前とは違い、みんな「あの爆弾」の前ほど元気で健康ではなくなりました。」
まったくもっともであるが、米国エネルギー省とブルックヘイブン研究所の科学調査団がおこなった放射線に起因する潜伏性の障害にかんする評価とマーシャルの人びとの認識・話しとの間には、大きな隔たりがある。生殖と受精能力をめぐる懸念がマーシャル諸島に大きくのしかかってきたのは、ここ40年間のことであるが、これは、1952年に開始されたマーシャル諸島での水爆実験、とくにマーシャル諸島全域に放射性降下物をまき散らした1954年の「ブラボー」事件をはじめとするメガトン級の水爆実験がおこなわれた後にはじまった事である。
(以下、「マーシャル人女性と生殖に関する独自調査」、「方法論」、「健康調査の予備的結果」、「結論」略)
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著者紹介
グレン・アルカレイは、シティカレッジで教鞭をとる医学人類学者である。彼は、全国原爆復員兵士協会の科学顧問を務め、アジア太平洋問題の顧問、講師、執筆者、ラジオ・ジャーナリストとして活動している。マーシャル諸島の核実験被害補償法廷(NCT)の顧問でもある。また、世界安全保障法律家同盟ニューヨーク支部の理事長を務めている。
生涯つづく「クリスマスプレゼント」
──論議を呼ぶ1958年のイギリス水爆実験──
英オブザーバー紙(『ジャパンタイムズ』 1997年12月25日付)
(部分のみ)
(ロンドン発)
40年近く前、イギリスが太平洋でおこなった水爆実験の長期的被害について、衝撃的な新しい証拠が、クリスマス島の援助職員によって暴露された。
イギリス人がやって来る以前のクリスマス島は熱帯の楽園であったが、現在は、発ガン性物質のゴミ捨て場となっている。クリスマス島を領土の一部とするキリバスのティトー・テブルロ大統領は、先月エジンバラで開かれたイギリス連邦首脳会議のさい、個人的にイギリスのロビン・クック外相に問題を提起し、この小国の首都タラワのイギリス大使館には陳情がおこなわれた。
1958年、イギリスはクリスマス島沖合いで核実験をおこない、1964年、何トンにものぼる装備をあとに残して去っていった。島民たちは、これが放射能を帯びていたのではないかと疑っている。オーストラリアの援助職員らは、キリバス政府のために報告を作成し、「過失犯」としてイギリスを告発している。かれらは、毒物および発ガン性の毒物が給水施設に浸透していることを発見した。報告を作成した水道技師のネール・カービィは次のように述べた。「イギリスはあたかも敵から撤退していったかのようだった。かれらにはこの窮状を解決する道義的責任がある。」
クリスマス島の人口は3,000人だが、50歳を越える人はほとんどいない。平均余命は55歳である。医療記録は存在しないが、一人しかいない医師は、年のいった住民が、実験のあと「奇妙な病気」を訴えたと言っている。イギリスが補償を払ったことはない。
先月、ヨーロッパ人権裁判所において、イギリス政府を相手取り、実験期間中クリスマス島で役務についていた部隊から訴訟が起こされた。ほとんどが徴集兵からなるおよそ12,000人の軍人が実験を目撃し、そのおよそ60パーセントが放射線にかかわる疾病にかかった。10月末、スコットランドのダンディー大学の研究者たちが発表した研究は、「若年死の率が加速」していることを明らかにしている。兵士の多くは50歳代で死亡しており、その死因にはしばしば白血病や多発性骨髄腫が見受けられる。
2年前、欧州委員会(EC)はイギリスに、クリスマス島で兵役についていた兵士たちの家族に補償金を支払うよう命じた。保守党政権は、労働党の抗議にもかかわらずこれを拒否した。労働党政権はいま、保守党のとった立場を採用している。
訴えを起こした当時の兵士の一人、ケン・マクギンリーは、イギリスが島民に対しておこなったことを「恥ずかしく思う」と述べた。イギリス海外開発省スポークスマンは、キリバスに対する「環境援助」計画は存在しないと述べている。
キリバスについて聞いたことのある人はほとんどなく、これをどう発音するか知っている人はさらに少ない。ジェス・マンが、「クリスマス島」だとずっと思っていたこの島が、1979年にイギリスから独立を付与された、中部太平洋に点在する島々からなる「キリバス」という国の中で最大の島であることを知ったのは、わずか2日前のことであった。1777年のクリスマス・イブにキャプテン・クックに「発見」されたこの島は、北緯2度、カリフォルニアから4800キロメートル、オーストラリアから6400キロメートルのところにある。クックは、この島が人間の居住に適さないと考えたが、彼は間違っており、大英帝国から最も離れた辺境植民地となった。そこは、夜でも気温が24度以下に下がることはめったになく、日中は49度まで上がることもある恐るべき場所であった。
イギリスはキリバスにキリスト教を持ち込み、そしてそれから1世紀後、もう一つのプレゼントを届けた。それは一連の水爆実験であり、一度も戦争にいったことがなく、今日まで軍隊さえ持ったことのないこの国の国民に、恐るべき結末をもたらしたのであった。
ジェス・マンは、宣教師ではないが、巡礼の旅の途中にある。スコットランド教会の長老である彼女は、2年前白血病で死んだ夫のかつての足取りをたどるため、10月半ばに当地に到着した。夫のフィル・マンは1958年に兵士として、巨大なきのこ曇を目撃した。実際彼は、上官たちによってそれを直視するよう命じられたのであった。
それは、フィル・マン一人ではなかった。ほとんどが徴集兵からなる1万2千名の兵士全員が、クリスマス島の実験で放射性降下物を浴びたのである。その結果、これら部隊の兵士の60パーセントにのぼる人たちが、病気にかかった。多くが死んだが、そのうちの一部は、もっとも悲惨な死にかたをした。今なお、かれらの息子や娘たちは先天的異常をおこしやすい。フィル・マンと彼の仲間は、爆弾が爆発したとき、海岸を行進させられた。部隊は、シャツ、半ズボンなど熱帯用の標準的な軍服のみで、ゴーグルや防護服は着用していなかった。事後、被爆の検査さえもおこなわれなかった。
部隊がそこにいたのは偶然ではない。実際、フィル・マンは、イギリス政府に殺されたと言っても言い過ぎではない。ロンドンの公文書館で発掘された秘密文書は、一連の実験の目的の一つが、兵士の被曝の影響を確かめることにあったことを明らかにしている。彼の未亡人はいまなお、これについて語りたがらない。「死んだころの彼は、不機嫌で怒りっぽかった」、こう語りながら、彼女は頭を振った。いったいどうしてこのような実験をおこなうことが許されたのか、いまだに理解できないのだ。
フィルは、妻に実験のことについては語ろうとはしなかったが、島民についてはしばしば口にした。ジェス・マンは、胸にしっかりと子どもを抱いたネミという名の女性の写真を携えてキリバスにやってきた。その写真はフィルが1950年代に撮ったもので、彼女は、写っている人を見つけられると確信し、その写真を手にこの小さな空港に降り立ったのである。
そういうわけで、グラスゴーに近い東部キルブライド出身の64歳の彼女は、何千キロも離れ、自分の生きた時代からさらに百年もさかのぼったような椰子の小屋で腰を下ろしているわけである。
クリスマス島には、テレビも新聞もラジオもない。しかし、ニュースは急速に広がり、ネミの行方はまもなく明らかになった。彼女もいまは歳をとり、彼女の夫は更に歳をとっていた。2人は、見慣れぬヨーロッパの服装をした白人女性の訪問に困惑し、緊張して床に座っていた。ネミの写真を示され、彼らは少しずつ事情をのみこんでいった。近所の人が、ジェス・マンの説明を通訳し、やがて、小屋の中のだれしもが涙ぐんだ。
通訳を通して語ることは簡単ではない、だが、ジェス・マンは、全力を尽くした。夫の死について語るとき、彼女は、声を詰まらせ、話しつづけることさえ危ぶまれた。見ているのはつらく、気持ちが高ぶり、胸が痛むほどであった。ネミを見つけることは、死を受け入れるまでのプロセスの一部だったのである。個人の問題としてとどまるべきことが公になった。
ネミの夫は片足を失っており、彼の手は関節炎で動かず、訪問者が握手しようとすると、彼はあとずさる。ジェス・マンが夫妻にためらいがちに話をしているあいだ、巨大なカニが這いずり回り、獰猛そうなトンボが何百匹も舞っている。耐え難いほどの暑さで、蚊が容赦なく襲ってくる。村人たちは、周りに集まり、じっと見詰めつづける。
途中で、中年の婦人が人々の中から前に進み出た。彼女が、写真の子どもであった。彼女の父親が話し始め、彼女に何か合図をした。彼女はいったん出て行き、大事なお客のために、土地の小石でつくられたネックレスを手にして、ふたたび戻ってきた。ジェス・マンは、大粒の涙をこぼした。
彼女が平静を取り戻すには、しばらく時間が必要であった。「私が感じていることをどう言ったらよいのか分かりませんが、ネミは、涙を流して、私が彼女に会いに来たことに感謝しました。彼らは、本当に貧しい暮らしをしていました。貧しいことは予期していましたが、あれほどだとは思いませんでした。自分が恥ずかしいほどでした。私たちが買い物をするとき、店に入って『あれをちょうだい』と軽々しく言うでしょう。もう、そんなことは決して言うまいと思いました」。ジェスには、もう一人スコットランド人が同行していた。ケン・マクギンリーは59歳で、1973年以来働けなくなっていた。彼は、核の降下物によって病気にされたと信じている。彼は実験を目撃し、数日後噴き出した水疱の跡が顔に残っている。他の多くの実験に加わった「退役軍人」同様、彼にも子どもができない。
彼は、ジェス・マンを、彼やフィルが行進を強いられた場所へと連れていった。「あれは、1958年4月28日、記念すべき日だったよ。海岸に腰を下ろすように言われてね。すると、『3、2、1、ゼロ、目を覆え!』とスピーカーから流れてきた。俺は、こぶしを両目に押し付け、爆弾が破裂する方向に背を向けた。閃光が走り、両手が透けて見えたよ。血管も血も、ひどいことに手の肉までね。焼き尽くすような痛みが走り、悲鳴をあげたよ。すると、『爆弾に注目せよ』と命令する副官の声が聞こえた。」
3日後、顔、手、首などに水疱が現われはじめ、足がしびれるようになった。軍医は、心配無い、と告げた。マクギンリーの同僚、ジンジャー・レッドマンも、おそらくおなじことを言われたはずである。爆発から数日後、レッドマンは死亡した。死因は「不明」とされた。
ジェス・マンがクリスマス島に来た一つの理由は、島民も部隊と同様の被害を受けたかどうかを知るためであった。彼女とケンが訪ねてまわったところ、島には老人がほとんどいないことが明らかになった。同地の医師はこのことを確認した。彼が言うには、キリバスで52、3歳以上生きる人は、ほとんどいないとのことであった。
エリテーン・カマティーは、キリバスの主席医療担当官である。かれは、今、唯一の医師として3000人の島民すべてを担当している。それは、気の遠くなるような仕事である。島の「病院」を歩いてみて、ジェス・マンは仰天した。「うちの洗面所の棚の方が、よっぽどたくさん薬がある」。朝9時、カマティーは、赤ん坊を取り上げたばかりであった。マットの上には母親と子どもが並んで横たわっていた。彼女らは、まもなく自分の村に帰ってゆく。クリスマス島ではほんの2、3人しかいない高齢者の一人であるこの医師は、疲れてはいたものの、喜びの表情であった。「この程度の資材だが、できるだけのことはやっているよ」。なんらかの資材があったとしても、いったいなんの資材があるのかははっきりしなかった。病院には、ばんそうこうさえもなかったのである。
彼は、白血病のため十代で亡くなった患者について話してくれた。彼女の両親は、実験当時クリスマス島に住んでいた。彼はもちろん、原因は明らかだとにらんでいるが、肩をすくめただけであった。キリバスには、必要な検査をおこなう技術がないのである。「もし患者がガンであれば、…まぁ、終りだね」、と彼は説明する。
この国には、記録が残されていない。人が死んでも、検死は行われず、死亡証明もない。カマティーがもっている、爆弾の影響についてのすべての証拠は逸話の類である。「年配の人たちが、話を聞かせてくれるよ。放射性降下物には発ガン性がある。ここに住む人たちは、みな、恐ろしがっているが、それにはそれだけの理由があるのさ」。
(以下略)
記事 バリー・ヒューギル記者
(「ジャパンタイムズ」、1997年12月25日付掲載)