原水爆禁止2003年世界大会
国際会議

仏領ポリネシア・ムルロア・エ・タトゥー(核被害者組織)
ムルロア・ファンガタウファのフランス核実験場元労働者
タメマルアトア・ミッシェル・アラキノ



みなさん、

  はじめに私をムルロア・エ・タトゥーの会の代表として、アメリカによる広島と長崎の原爆の犠牲となった日本の男女を追悼する記念行事にお招きくださった日本原水協に感謝いたします。私は、この惨禍を生き延びた数百万人の方々の苦しみがどのようなものであったかを推し量ることができます。

  私は、太平洋の仏領ポリネシアのムルロアとファンガタウファという二つの環礁にあるフランスの核実験場で働いていたポリネシア人労働者からの友愛の挨拶をみなさんにお伝えします。

  私はタメマルアトア・ミッシェル・アラキノです。ムルロアに近いレアオ環礁出身で、ムルロアとファンガタウファのフランス核実験場の元労働者です。私は、環礁内の海の下でおこなわれた核実験のための潜水夫として、また放射能分析の標本準備のために17年間働きました。

ここでは次の4つの点についてお話しさせていただきます。

  1. 私がムルロア・エ・タトゥーの会に入会した経過と理由。
  2. 会における私の役割。
  3. 私の核実験の体験:実験以前、実験期間中、その後、こんにちにいたるまで。
  4. 私の国での人々の不安、特に現在の影響について認識しながらも、国の有力者から精神的、身体的、経済的な制裁を受けることを恐れて沈黙している人々の健康状態と精神状態。

  1. 私がムルロア・エ・タトゥーの会に入会した経過と理由
      私がムルロア・エ・タトゥーの会に入会したのは、ムルロア・エ・タトゥー・フォローアップ委員会が2001年7月4日に開催した、元ムルロア労働者の最初の会合に参加した後です。この会合には、スー・ロフ女史とブリュノー・バリオ氏という2名の核の専門家が招待されていました。イギリスの退役軍人がうけた放射性降下物の影響の研究についてのスー・ロフ女史の発言と説明を聞き、私はすっかり動転してしまいました。というのは、まるで自分が診断を受けているような気がしたのと、核実験による後遺症について十分な情報を与えてくれなかった雇い主に裏切られた気がしたからです。こうしてみなさんにお話ししている、いまこの時にも、私の同僚であった元労働者たちがさまざまなガンに侵され苦しんでいるのに、軍の保健責任者たちは、これらの病気の原因が核実験の放射性降下物かもしれないことを否定し続けています。私は、ムルロア・エ・タトゥーの会に入会し、元労働者と私自身の健康状態の原因究明という長く時間のかかる作業への支援を受けようと思ったのです。

      私は、実験場での仕事の関係で、いわゆる「ホット・スポット」に定期的に立ち入らなければなりませんでした。ムルロアとファンガタウファの環礁で、地上や海中において、生物学検査のための様々な標本を採集しました。その他にもポリネシア全土で、国外から入ってくる食料の検査もおこないました。また、ファンガタウファから持ち帰った汚染された土をつかった植物園作りを任されました。生物検査局が、汚染した土壌に育つ植物がどうなるかを知りたがったためです。この植物園で働いたことや海に潜って爆心の真上のプランクトンを採取したことで、私は、放射性粒子を飲み込んだり、吸い込んだりした可能性があります。

      いずれにせよ、私は自分におよぶかもしれない危険性について、当局から何も知らされていませんでした。

      ある定期検診のとき、検便で陽性の結果がでました。私は、パペーテにある軍のジャン・プランス病院に入院させられ、所定の検査を受けました。しかし、その後、1994年以降、何の音沙汰もありません。カルテも見せてもらえないし、軍の労働衛生局からは、私の受けたテストや検査の結果も知らせてきません。

      私が現在にいたるまでどんな不安を抱えてきたかお分かりいただけるでしょう。私には、なぜ自分がタヒチ島の軍の病院で検査を受けたのか、その原因すら全くわからないのです。

  2. 会での私の役割
      ムルロア・エ・タトゥーの会での私の役割は、ムルロアとファンガタウファの核実験場の生き証人として、自分の体験を語ることです。私は特に、自分の健康がどのような状態なのかを知り、原因が知られていなかったり、私が知らされていないような重大な病気にかかるのを予防したいと考えています。また、制裁や報復をおそれたり、「同じ釜の飯をくったくせに、今になってその釜につばするのか」といったような非難を受けるのをおそれて沈黙し、苦しんでいる元労働者たちの代弁者になりたいと思います。

  3. 私の体験
      私が核に関係するようになったのは1964年、私が生まれたツアモツ諸島のレアオ環礁でのことです。1964年に私の島に外人部隊が基地をつくり、気象の観測や予報のための施設を建設することになったのです。この施設には、大気圏核実験の際に発生する原子雲の動きを追跡するという目的もありました。

      1966年7月、環礁の住民全員が軍の基地に集められ、核シェルターに収容されました。その後、3日間、私たちはシェルターを一歩も出ることができませんでした。「ホット」な服装をした男や、兵士が出口を全て固めていたからです。

      3日たって外に出た私は、植物に変化がおきたことに気がつきました。ココナツの葉は黄色くなり、数日後には実が落ちてしまいました。

      こんにち、振り返って見ると、レアオの住民のなかにはかゆみなどの異常を訴えていた人がいたという記憶があります。その時も、おかしいなと思ったのですが、今でも疑いは消えていません。

  4. 私の最後の疑問
      それは次のようなものです。私は祖国に忠誠をもって仕えました。しかし私の祖国は、自らが主張する道義や人権の尊重の道を踏み外してしまったのではないか。ムルロアで働いた多くのポリネシア人は、自分たちの健康問題について語ることができません。特に、仏領の行政機関で働いている人は、職場で報復を受けるのを恐れています。年金をもらえなくなるのを恐れている人もいます。また、元実験場労働者の大半は、裕福ではなく、家族を養うのでさえ困難な人も多くいます。私たちはフランスが、ポリネシア政府にたいし、核実験停止の補償として、巨額のお金を支払うことを決定したことを知っています。しかし、このお金は、健康問題を抱える元労働者の健康診断に使われることも、ムルロアで働いていて今は死亡した労働者の遺族のために使われることもないのです。

      みなさん、私たちは、ムルロアとファンガタウファの核実験被害者のための真理と正義を求めるたたかいで、みなさんの連帯を必要としています。

      ご清聴ありがとうございました。イア・オラ・ナ。


原水爆禁止2003年世界大会へ