原水爆禁止2002年世界大会 長崎

エマ・タギカギバウ

太平洋問題資料センター 非軍事化部門担当

戦争も核兵器もない平和な世界への連帯のあいさつ

 太平洋の非核・独立運動より、長崎へごあいさついたします。私は、敬虔な思いで被爆者とその家族のみなさんの前に立ち、57年前のきょう人類が自らにもたらした言葉にできないほどの恐怖と痛みを、心から分かち合いたいと思います。 私はその静けさとおだやかさからキャプテンクックが太平洋と名づけた海に浮かぶフィジーからやってきました。20世紀から21世紀の始めにかけては激動の時代でした。「我々の科学の力は、我々の精神の力を超えた。人類は今やミサイルを誘導できるまでになったが、自分自身の誘導を誤ってしまった」という、マーチン・ルーサー・キングの言葉を思い出します。

 戦時中、私たちの島、海、空は、連合軍の戦場となりました。連合軍は、私たちの大地、水、空気を、核の実験場として使用しました。フランスは植民地であるタヒチで、イギリスはクリスマス島とモルデン島、そしてオーストラリアの砂漠で核実験を行いました。アメリカは、最も大規模な核実験をビキニ環礁でおこない、冷戦時代の兵器や廃棄物をジョンストン島に捨て、ミサイルの射撃演習をクワジャレン環礁で行いました。これらの実験にモルモットとしてたずさわった太平洋諸島の住民は、被曝による病気に苦しみ、補償を切実に必要としています。現在の脅威は、私たちの海が、ヨーロッパから日本の原子炉へプルトニウムを運ぶための高速道路として使われていることです。

私の団体は25年間、核のない独立した太平洋を求めて活動してきました。私たちは、政治的干渉や、贈賄、飢餓、恐怖、そして軍事基地などをなくさない限り、非核化を実現することはできないことに気づいたのです。

最後に、私の個人的な経験をみなさんにお話したいと思います。今まで勇気が持てず、一度も公表したことのない話です。私がフィジーの議員をしていた2000519日、社会正義法案についての議論をしていた時、6人の銃を持った男たちが国会へ入ってきて、政府を人質にしました。私たちは銃を突きつけられ、死の瀬戸際に立たされました。そして10日後にようやく解放されました。私はこの事件に大変腹を立てましたが、被爆者の方が受けた試練に比べれば、取るに足らないものであることに気づきました。もう腹を立てているひまはありません。平和な未来を築くためだけに、私たちの力を集中しましょう。そして子どもたちに、よりよい世界を残しましょう。

太平洋より連帯と平和の願いをこめて

ともにがんばりましょう。