原水爆禁止2002年世界大会

国際会議

アメリカ合衆国

平和な明日をめざす911日の家族の会

リタ・ラザール

親愛な友人のみなさん、

 大会にご招待いただき、感謝いたします。また、2001911日、世界貿易センターの北棟で命を失った弟エブレ−ムのために私と私の家族に弔意を表してくださったことに感謝いたします。

 多くのみなさんが弟の話をご存知のことと思います。北棟に飛行機が突っ込んだとき、弟は仲のよかった同僚で友人だった人が気懸りで、避難の列に加わりませんでした。その人は四肢麻痺で容易に動けなかったからです。エブレームは、救援が来ることを祈りながらビルに残りました。しかし助けは来ず、彼と友人は、何千もの罪もないニューヨーク市民とともに、あの二つのビルが炎の中で崩れおちたとき一緒に死んだのです。

 この出来事は、私の人生も、ニューヨーク圏の数千人の人生をも変えるものでした。それはハイジャックされ、ペンシルバニアで墜落したチャーター機の機上にいた人々の運命を変え、また、国防総省で愛する人々を失った何百もの家族の人生も変えてしまいました。多くのアメリカ国民の人生もまた、変わってしまいました。

 しかし、あの惨事に続く日々、わたしはアメリカのマスコミでしばしば、911日の恐ろしい出来事が世界を変えたと伝えるのを耳にしました。こう言えば驚かれるかもしれませんが、私はそうは思いません。911(ナイン・ワン・ワン)が世界を変えたと本気で信じているほどに、アメリカ人は自分たちが住む世界というものを実際には分かっていないのです。

 たとえば、1994年中央アフリカのルワンダでおこった恐ろしい虐殺によって世界が変わったなどとアメリカのマスコミが報じたのを私は聞いたことがありません。あの殺りくの狂気のなかで何人の人が死んだのか誰も知りません。ある本は20万人といい、別の本は100万人といっています。この人々は私の愛する弟より重要ではなかったというのでしょうか?数の上では911日よりはるかに悲惨だったルワンダの虐殺は、なぜ世界を変えたことにならないのでしょうか?

 西側諸国による旧ユーゴスラビアでの戦争、虐殺、軍事介入が世界を変えたなどという記事をアメリカの新聞で見たこともありません。あるいは1975年、インドネシアによる20万人の東チモール人殺りくは世界を変えなかったのでしょうか?専門家たちが、今後20年に6000万人の命を奪うと予告しているエイズは、世界を変えたのではないのでしょうか?

 インドとパキスタンはたがいに怒りを燃やしてにらみ合い、戦争態勢をとり、今にも核兵器を発射しそうな状況です。米国防省の研究では、もし両国が核兵器を使うなら、数日のうちに1200万の人々が死ぬであろうと予測しています。それほどの惨害の危険さえ、なお世界を変えることはないのでしょうか?

 私個人の悲しみにもかかわらず、私は次のように結論付けざるを得ないのです。つまり、これら過去も将来も含む、はるかに重大な惨禍に照らせば、911は、世界を変えたなどとはいえないのです。それがもたらしたものは、恐ろしいやり方でですが、私を含むアメリカの国民を、世界へ足を踏み入れるようにと招きみちびいたことでした。この世界は皆さんもご存知のとおり、すでにたくさんの問題を抱えた場所だったのです。問題はその招きに私たちが応じるかどうかです。

 私たちの国の大統領であるジョージ・ブッシュ氏は、あきらかにそうすることに興味を持っていません。彼は、世界は自分が支配し、窮地に追いつめておくべきものと考えています。彼はアメリカが国際刑事裁判所の設立に加わることも協力することも許しません。1919年には、アメリカは国際連盟への参加を拒んだ後も、すくなくとも外交的には協力し、集団的に行われた決定の多くを順守しました。しかし、ブッシュ氏はその程度のこともやりません。逆に彼は、平和維持部隊と引き換えに、国際刑事裁判所に対する一切の責任からアメリカを免除させようとしています。

 大統領は、ここ日本で成立した、地球温暖化を緩和する国際協定にも調印しません。イラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」と罵っています。しかし、これらの国々と同様、彼もまた地雷禁止国際条約への調印を拒否しているのです。私は地雷の怖さを直接知っています。今年はじめ、アフガニスタンを旅したとき、私は古いソ連製の地雷が道路沿いに散らばっているのを目撃しました。わたしは、飢えに苦しむアフガニスタン市民にたいして投下された食料の包みに似た米国製のクラスター爆弾も見ました。子どもたちがそれを区別できず、しばしば犠牲になっているとの説明も受けました。二人の息子の母として、私もクラスター爆弾の散るアフガニスタンの道路わきに立ち、涙を流しました。

 私たちの大統領は、長年続いてきた旧ソ連との弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約から脱退しました。そして彼とロシアのプーチン大統領は、それとひきかえに、予備にとっておける核兵器の数に何の制限も設けない軍備管理の取り決めを結びました。このような協定を誰がまともなものと受け取るでしょうか?あの人たちがどうしてそう思っているのかが不思議でなりません。インド・パキスタン危機が起こり、この問題で私たちが真のリーダーシップを必要としているとき、ロシアと米国の大統領は、世界に対して政治舞台での演出以外何も与えることができないのです。

 ブッシュ政権は、世界のほとんどの政府がアメリカのイラク侵攻に絶対に反対していることを知っています。けれど、米国の軍部は私たちが話している瞬間にもそれを計画し、一部の政治家は、侵攻はほとんど避けがたいことだといっています。

 この攻撃は、考えるだけでも恐ろしい結果をもたらします。それは、アフガニスタンのタリバンやアルカイダのように散在する戦力と違って、高度に中央集権化されたサダム・フセインの共和国軍とたたかう何十万人ものアメリカの地上兵力を必要とします。そしてサダム・フセインが、自暴自棄の報復攻撃として隣国にたいしてミサイルを打ち込むことはないでしょうか?私は、大統領の顧問と言われる人々が、これほど正面から世界世論の流れに逆らって、平気でその危険を冒そうとしていることを恐ろしく思っています。

 みなさんには、私がとても挫折感にかられているように聞こえると思います。実際、そのとおりです。私の人生で、アメリカが政治的にも文化的にもいまほど孤立していると感じたことはありません。

みなさんの中でもご存知の方がおられると思いますが、私はアルカイダによる米国攻撃の犠牲者遺族の団体、「平和な明日をめざす911日の家族の会」のメンバーです。私たちのグループの使命は、テロに対する効果的で非暴力的な回答を探し、同じように暴力の犠牲となった世界の人々との共通性を見つけ出すことです。正義の探求の中で平和の選択肢を探すことによって、私たちは、何の罪もない家族が、私たちが受けたような苦しみをこれ以上受けないよう活動し、戦争がつくりだす果てしない暴力の悪循環を断ち切りたいのです。

 私たちの基本目標のひとつは、米国のアフガニスタン爆撃で死んだたくさんのアフガニスタン市民の親族のために米国議会に補償基金を作らせることです。運動を始めて以来ずっと厳しいたたかいでした。私たちが会うさまざまな議員は、理屈の上ではそうした基金を支持するといいます。しかしながら実際には、それを実現する措置はなんにも取らないのです。ひとつには、この提案を支持すれば、自分たちがテロに対して軟弱だと見られることを恐れているからだと思います。また、米国の爆撃作戦のなかで亡くなった市民の数を正確に数えなければならなくなるので、犠牲者基金を創りたくないのではないかとも懸念しています。戦争にはいつも罪もない市民の犠牲が伴うと悲痛な声で言いますが、それと、実際に犠牲者の数を数え、自分たちの政策が引き起こした道義的帰結を直視することとは別のことになってしまうのです。

 しかし私たちはあきらめません。そうするにはあまりに大きな危険がかかっているからです。世界は、あきらめてすませるには、余りに危険な場所になりすぎています。

 私たちアメリカの国民は選択を迫られています。911日の出来事に基づいてこう結論付けることも出来ます。私たちは独力で行動する、われわれが世界に負うものは何もなく、世界がわれわれにすべてを負っているのだ、と。これがブッシュ大統領の「アメリカの側につくか、それとも敵対するかのどちらかだ」という立場に含まれている大前提なのです。しかしあるいは、目を開いて、地球をより安全な場所とするための豊かな非暴力の選択肢があることを知ることもできます。その選択肢とは、国際的機関や条約に頼ることであり、そしてもっとも大切なのはおそらく、北と南のあいだで富を再配分する取り決めを作ることでしょう。

 私は70歳です。私の人生も子どもとして、そして学生として始まりました。やがて妻となり母親となりました。ビジネス・ウーマンとなり、そして退職してニューヨークのローワー・イーストサイド(マンハッタン島の南端地域東側)で不自由のない暮らしをするようになりました。いま私は、ふたたび同胞のアメリカ国民を世界の人々と結びつける努力のために時を費やしています。米国民が再び世界を信頼することが出来るように。そして世界にはみなさん方のように、911よりもはるかに大きな恐怖を自ら体験したために、911の恐怖を十分理解している人々が何百万もいるということを、アメリカ国民が知ることができるように活動しています。

 たたかいは困難ですが、私は希望をもっています。みなさんにお願いがあります。できれば、アメリカの人々に語りかけて欲しいのです。インターネットを使ったり、旅行の途中で、あるいはこのような会議の場で、アメリカが現在進めている「要塞化」政策に代わる道を考えるよう勧めてください。対立的な態度を取るのでなく、歴史は911日に始まったのではないことを教えてやってください。出来うるかぎり最善の方法で、今日、集団的に起こっている数々の悲劇には集団的な解決が必要であることを提起してください。目の前に横たわる巨大な危険は、どの一国や個人の力でも解決できないことを。世界諸国民のコミュニティにアメリカが復帰するのを助けること、これが私の仕事です。みなさんがそれをみずからの課題としてくださることを願っています。みなさんがこの会議に招いてくださったことは、私の活動を前進させ、心に力を与えてくれました。そのことに感謝します。

 私の弟は911日、世界貿易センターで死にました。私は、自分の国で、「遺族」と呼ばれています。でも、私はむしろ自分のことを「目撃者=証人」であると考えています。私の弟の名で、アフガニスタンで殺された人たちの目撃者です。弟の死が、罪もない人たちの死を正当化するために使われることを知ったとき、私の悲しみはもう耐えられないものとなりました。

私は、911事件に対するアメリカの暴力的対応によって被害を受けた家族と会うためにアフガニスタンを訪れる機会を得ることが出来ました。そしてそこで私は、すでに23年も戦争のただなかにあったこの国で、なんのあやまちもないのに遺族となり、家を失い、あるいは孤児や未亡人となり、途方に暮れる人々と会うことができました。

 私は若いときから平和主義者でした。爆弾によってさらに危害を加え、破壊するのとはことなる紛争解決の手だてがあると信じてきました。

私と同じように信じ、愛するものをあらたな苦痛の原因にすることを望まない家族たちは、「平和な明日をめざす911日の家族の会」を結成しました。この名称は、1967年にマーチン・ルーサー・キング博士がカンボジアへの侵入に抗議して行った演説からとったものです。キング博士はその中で、「戦争は、平和な明日を刻むのにふさわしくない鑿(のみ)だ」といいました。私たちは、悲嘆と悲しみの中でもなお、暴力に対して暴力をふるうことには反対です、とどこででも語る勇気をもっています。

 私は、世界がこれまで犯したもっとも恐ろしい暴力の被害を受けた、みなさんの国を訪問することができ光栄です。他の国が逆の方向を進んでいるときに、日本が平和を追求することによって人類に模範を示していることは、私に勇気を与えてくれます。私は、今回の訪問によって、アメリカにも生まれながらの報復主義者でない人たち、暴力行為に対する平和的な方法を探究している人たちがいることを示したいと望んでいます。

 私たちは最近広島・長崎から来られた代表団のみなさんとお会いしました。そこには1945年の二つの市への原爆投下を生きのびた7名の被爆者が含まれていました。そのかたがたの立派な態度、内的な穏やかさと非暴力への献身を、私は生涯を通じて忘れ得ないでしょう。被爆者のみなさんは世界中の都市を訪れ、力強い平和のメッセージを届けています。もし被爆者にその力があるのなら、私もまた彼らにならって同じことをしようと思います。

 母親大会と世界大会にご招待いただいたことに感謝します。何百万の人たちが私たちと声をひとつにあわせ、いつか核兵器のない世界を実現すること。それが私の心からの願いです。