原水爆禁止2001年世界大会
国際会議

マサチューセッツ州ニュートン市教員組合(アメリカ)
ラッセル・Z・スプリンガー


コントロールの問題


  この美しい土地で、2001年のきょう、私たちはこんにちの現実を形づくることになった出来事を思い出しています。私たちは、過去の現実とたたかい、より良い未来の創造にむけて活動し続けるために、ここにやって来ました。かつて、ここで恐るべき戦争があり、自然が人間の欲望のためにゆがめられ、利用されたことを、私は読んで知っています。また、人々がとてつもない大きな苦しみ、痛みを体験したことを聞いています。当時、私はまだ生れておらず、ここで起きた出来事を経験したわけではありませんが、ここに来てみて、あの過去の現実の真相がついこの間のことのように感じられます。私はこの真相を持ち帰り、それを永遠にとっておこうと思います。私は、未来についていろいろと考えています。

  私は未来を担う者です。私は教員であり、教職に本気に取り組んでいます。重要だと考えているからです。私の仕事は、若い人々が自らを教育し、一人ひとりが社会で成功することができるうにすることです。このため、私は理科と歴史を教えています。しかし、私の最終的目標は、人類が将来にわたって生存し成功できるようにすることにあります。私のいう成功の定義には、平和に生き、他人を思いやる能力をもつことも含まれています。人類は、共同して問題を解決し、野蛮な紛争をやめ、することを学ばなければなりません。それができなければ、私たち人類は生き延びることがでません。地球の未来は、若い人々の教育と発達の直接の結果であると、私は考えています。

  私は理科の教師として、学生が理科を学ぶさいにも、歴史の教訓を考えに入れなければならないと考えています。科学とは、自然を理解することと同時に、自然を操ることでもあります。ところが、私たちは、自然を操つることで、自らを危険にさらしています。かつて自然は人間なしにでも存在していたことがありますし、また再びそうなるかもしれません。自然とは、私たち人間が思うままに利用できる道具として存在しているという考え方があります。それはちがいます。私たち人間は自然の一部として生きています。洪水や津波など、自然のもつ力のごく一部を見れば、自然のなかで私たちがどのような地位にあるかがわかります。

  科学とは自然を手なずける、あるいは支配して、私たちの思いどおりに捻じ曲げるのに役立つものだと、多くの人びとが考えています。もしそれが今直ぐにできるなら、私たちは天気を調節し、暑すぎることもなく、充分暖かい一日にするでしょうか。午前中に少し雨を降らせて、午後はからりと晴れた空にするでしょうか。私たちはこのように天候を支配することでどのような影響が生じるかを考慮するでしょうか。ボタンを押すだけで、地震を止められる能力なんていうのはどうでしょう。あるいは、遺伝的属性を支配して、自分の子どもの目の色を緑色にすることもできるかもしれません。人間の脳にコンピューターのチップを埋め込んでみたらどうでしょう。

  私たちはこのような科学上の決定を下さなければならなくなるかもしれません。将来はどうなるかわかりません。私たちは、無数の驚くべき科学技術的可能性に直面しています。これら将来の可能性を予測しようとする試みは、空想科学小説あるいは空想とよばれています。今年は、「2001年宇宙の旅」という、同じタイトルの小説から作られた映画を思い出す格好の年です。この小説の著者のアーサー・C・クラークは科学者で、1945年に通信衛星を発明したことで有名です。通信衛星技術は、情報を平和的に共有するのに役立ちましたが、それと同時に、遠く離れた陸上からでも、軍隊やミサイルを動かすことを可能にしたのです。

  真実への献身を保証するこの世界大会のような機会に、空想小説や娯楽作品の話をすることをお許しください。米国人は、娯楽を過剰に評価しているのでしょう。娯楽は、アメリカの文化にとって、そしてアメリカの将来にとっても、とても重要なものになっています。アメリカの若者のなかには、歴史的を娯楽作品によって最初に理解する人もいるほどです。私自身も、この「2001年宇宙の旅」を初めて見たときのことを良く覚えています。この映画は、まだ猿のような姿をした初期の人類のある種族が、貴重な資源である水の湧き出す泉の管理権をめぐって、別の種族と争うところから始まります。まだやっと直立できるようになった初期の人類は、恐るべき発明をします。それは大きな骨で、それを人間は初めて棍棒のように使って、対立する別の種族を殺すのです。つまり、彼は自然の一部を自分自身の野蛮な目的のために利用したのです。勝ち誇った彼は、その新しい道具を空中に放り投げますが、するとそれは宇宙船、つまり現代の新技術のシンボルに変化するのです。

  この映画のエンディングでは、一つの種としての人類が、いかにしてより高い意識の状態に飛躍できるかが示されています。映画は、このより高い意識の象徴である一人の赤ん坊―スター・チャイルド(星の子)―が宇宙空間に漂っている場面で終わります。おそらく作者は、人類は単純な殺りくあるいは複雑な技術を用いた殺りくを乗り越えて前進し、より高い生存状態に達することが出来るという希望をもっていたのでしょう。

  私は、これこそが私たち人類が直面している挑戦であると考えています。私たちは、どのようにしたらこの高いレベルの意識状態に到達できるのでしょうか。映画のなかでは、人類の進化は、外からの力である宇宙人(エイリアン)によってもたらされました。これは、空想作品であるため、どちらかといえば安易な解決でした。しかし、現実には、私たちを平和的で非暴力的な種に変えてくれるような善意をもった宇宙人などいません。私たちは、自分たちでそれを実現しなければなりません。

  歴史は流血や暴力に満ちています。暴力は大海のごとく、人類に起きた出来事の記録に押し寄せ、引いては、また寄せてきます。かつてはローマ帝国の軍隊や第一次世界大戦、そして今はボスニアや中東です。暴力は人間の本質の一部であるように思えます。

  しかし、知識と創造への欲望もまた、人間の本質の一部です。科学は、私たちの権利であり、より良い世界をつくる道です。それは、私たちの思想や考察として、私たちの内側から生じるものです。しかし、科学は私たちをより良い人間にするでしょうか。私たちを、より進化したという意味で、より人間的にするでしょうか。私たちを再び飲み込もうとする流血の波を食い止めることに役立つでしょうか。私たちは、自然界で起こる高波や津波や洪水を防ぐためにダムや堤防を築きます。私たちはこれらの自然災害を予測し、制御しようとしています。これと同様に、私たちは人間の活動の方向を操り、予測しようとしています。私たちはそれに成功しているでしょうか。成功するでしょうか。

  私たち人間の本質は、その内部に、暴力的な衝動の要求をもっているのかもしれません。社会科学は、このような人間の本質そのものを理解し、コントロールしようと努力しています。私たちは文明、社会行動、道義性、規則、宗教などを道具として使用して、自分たちの、時として表面化する衝動や欲求を操作しています。このことは重要な問題を提起しています。それは自然界に手を加えることが危険であるのなら、人間の本質を操作するのも同じくらい危険ではないかという問題です。私は、この懸念に最も悩まされています。しかし、だからといって、私は生徒たちに暴力ではなく外交で、揉め事を解決するようにすすめるのを止めるものではありません。

  人類の将来は、私たちが人類の次の発達段階に進めるかどうかにかかっています。この発達のために科学は一定の役割を果たすでしょう。私たちは科学を、私たちのあいだの平和的な協力を発展させることに利用しなければなりません。さもなければ私たちは自らを滅しています。私たち人間は自分をコントロールできるでしょうか。そしてどのようにコントロールするのでしょうか。教室でも、教室の外の世界でも、私たちの日常の根底にはこれらの問題が横たわっています。私たちは、まだこれにたいする満足のいく答えを見つけていません。


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