原水爆禁止2001年世界大会
国際会議

日本原水爆被害者団体協議会事務局長
田中煕巳


被爆者からの報告

  世界各国からお集まりの友人のみなさん。私は被爆者のひとりとして、21世紀に入って最初のこの原水爆禁止世界大会で、報告できますことを光栄に思います。
  思い起こせば56年前のこの8月、アメリカの爆撃機が突然広島と長崎の上空に現われ、何の警告もなく、人類のいまだかつて知らなかった原子爆弾を投下しました。爆弾は上空500メートルあまりで、鋭い閃光を放ち炸裂し、爆風は人々を地面にたたきつけ、家屋をなぎ倒し、熱線は野外の人々の体を焼き、倒壊した家々に火をつけました。倒壊した家屋から脱出できなかった人々は、生きたまま劫火に焼かれ、息絶えました。目に見えない放射線はすべての人々の細胞や遺伝子を破壊しました。
  あの日を生き延びたものも、高熱や出血、下痢、脱毛などが襲い、のたうち、苦しんで死んでいきました。わずか二発の爆弾は、投下から5ヶ月の間に21万人にも及ぶ人々の命を奪いました。これほど残忍な兵器があるでしょうか。核兵器は絶滅を目的とした、悪魔の兵器というほかありません。
  私はこのとき13歳の少年でした。長崎の爆心地点から3.2キロメートル離れた山陰の自宅にいて助かりました。しかし、3日後に焦土と化した爆心地付近の野原で、大火傷を負って死んだ伯母の変わり果てた遺体を荼毘にふすことになりました。原爆は祖父をはじめ5人の身内の命を一度に私から奪ったのです。
  第2回の原水爆禁止世界大会が長崎で開かれた1956年8月、全国から集まった被爆者たちによって、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成されました。この時「生きていてよかった」と被爆者に言わせるほどに、孤立しながら苦しんできた全国の被爆者はこのときから、力を寄せ合って、励まし合って、「ふたたび同じ苦しみを誰にも味わわせてはならないと」、核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の援護と補償の実現をめざして大きな運動を展開していきました。
  しかし、被爆者が求めてきた、原爆の被害に対する国の戦争責任を認めた国家補償に対しては、日本国政府は「戦争による一般の犠牲は国民が等しく受忍すべきもの」として、一貫して拒みつづけ、今日に至っています。
  日本の被爆者は原爆被害への国家補償を求めながら、同時に、「ふたたび被爆者をつくらせないために」、核兵器の即時廃絶を求めてきました。被爆者は、多くの人々に原爆被害の実相を知ってもらうことこそが、核兵器廃絶への人々の世論となり政治を動かす力になるに違いないと、体験記や写真や絵なども活かしながら、あらゆる機会を捉えて、国内はいうまでもなく、ヨーロッパやアメリカ、アジアやアフリカの国々にも出かけて、証言者として原爆の被害、被爆者の苦しみを語り、核兵器の廃絶を訴えてきました。この数年はとくに「原爆と人間展」パネルの世界的規模での普及と展示運動につとめています。
  しかし、被爆者は高齢化し、体力的にも財政の面でも、これまでのように外国にも出かけることもままならなくなっています。東部アメリカには毎年旅費を自己負担しての被爆者遊説団を送ってきましたが、要望にこたえる人数をそろえることが困難になりはじめました。被爆者が海外に語り部として役割を果たすには、特別の工夫が必要になってきています。
  核兵器は大気中や環礁での実験によって太平洋の島々の島民に犠牲を与えただけでなく、研究、開発、実験、貯蔵のあらゆる段階で核保有国の国民の中にも多くの犠牲者を生み出しています。私たちは核実験被害者に対する援護と補償の実現のために共同の運動を積み上げてきました。昨年はこの大会に参加した世界のヒバクシャの連帯集会を開き、参加した全ヒバクシャの名において国連と核保有国に要望書を提出しました。
  日本被団協は、世界のすべてのヒバクシャが原告の一員となり、核兵器の犯罪性を裁く国際市民法廷を世界の各地で開く運動を起こし、核兵器廃絶への大きなNGOのうねりをつくれないかと模索しています。参加者みなさんのご賛同とアイデアをいただけたらありがたいと思っています。
  20世紀が生んだ人類最大の汚点というべき核兵器の開発と使用。人類との共存を認めないという核兵器廃絶の願いは、実現されないまま21世紀を迎えました。しかし、昨年のNPT再検討会議で核保有国を含め「核兵器の廃棄を達成するという明確な約束」に合意が得られました。この合意の実現に向けて、被爆者として、できる限りの運動にとりくんでいきたいと願っています。
  最後に世界各地の核兵器による被害者と平和を愛するすべての人々とのさらなる連帯を心からよびかけて、私の報告とします。


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