原水爆禁止2001年世界大会
国際会議

太平洋問題資料センター(PCRC)
教育資料開発担当者
ハンナ・ハバロウ


連帯の挨拶

  25年以上にわたり、太平洋問題資料センター/非核独立太平洋運動は、世界の協力団体および姉妹運動のみなさんとともに、非核の太平洋をめざしたたかってきました。この運動はフランスの核実験への反発から生まれたものですが、反対運動の発端は、それより30年前の残忍なヒロシマ・ナガサキへの原爆投下でした。

  太平洋海域は、長いあいだ核保有国が意のままに核兵器の実験や廃棄ができる広大な空き地のように見られてきました。一隻の原子力潜水艦が行方不明となり、あるいは恐怖におそわれ、ほんの一個の核弾頭が爆撃機から私たちの海に投棄されるだけで、私たちの生活は数世紀にわたって脅かされています。

  外国の軍事基地や危険な廃棄物貯蔵施設を設置すれば雇用を生みだすかもしれませんが、その代償は、太平洋住民の慣習や生活習慣の破壊、透明な太平洋の海水の汚染、そして放射能汚染による不幸が常に続いていく脅威です。

  日本の多くの人々にとってそうであるように、太平洋の住民は、この地域で核実験が行われなくなったからといって安心したわけではありません。テ・アオ・マオヒ(フランス領ポリネシア)の人々は、いまだにフランスがムルロア環礁とファンガタウファ環礁で30年間おこなった核実験による放射能の遺産とたたかっており、フランスの実験に関する文書を公開するよう求めています。

  イギリスの核開発の過程で被ばくしたフィジーの核実験退役兵士達にたいする補償のたたかいが続いています。1957〜8年に約300人のフィジー人兵士と船員が、イギリスとニュージーランドの軍隊とともに、イギリスが中部太平洋のクリスマス島とモールデン島でおこなった9回の大気圏核実験に参加しました。

  40年にわたって多くの兵士たちがこの実験での被ばくによる健康問題を抱えており、いまだに彼らの実験参加に対する報奨を求めています。イギリス政府は軍隊を放射線学のモルモットとして使用したことを一貫して否定していますが、現在、公正な最終的解決をもたらすだけの公式記録による情報がようやくそろう見込みです。

  1940年代にマーシャル島民は、一連のアメリカの核実験のため、ふるさとのビキニ環礁とエニウェトク環礁から立ち退かされました。島民は、「人類のため、またすべての世界大戦争に終止符を打つため」に移転を求められ、アメリカは原水爆の実験を行ないました。

  けれども、アメリカのための「安全保障」は、マーシャル人の大きな犠牲をともないました。今日、マーシャル島民は1946年から1958年にアメリカがおこなった67回の大気圏実験の影響―放射線被ばくによる病気と死、退去、自給自足生活の破壊(アメリカがいかなる生活維持のための対策をもとらなかった)をかかえて暮らしています。

  クワジェリンやビキニのように人口密度の低い環礁にいた住民は、イバイやエニブールのような、コレラと栄養失調が珍しくない、ひどく密集した島に移住させられました。イバイ島は、一時は「太平洋のスラム」と言われた島で、現在100エーカーに満たない土地に1万2千人が居住しています。約千人が、サッカー場ほどの広さしかない電気も水道も商店もないエニブール島に移住させられました。

  そして、太平洋での核実験は、1996年のフランスのムルロア環礁における最後の実験で終了したにもかかわらず、太平洋のいわゆる戦略地域は、いまだに核兵器の実験場として利用されています。もう何十年間も、マーシャル諸島のクワジェリン環礁にある米陸軍基地は、アメリカのミサイル開発計画とミサイル防衛計画の中心に位置づけられてきました。

  7月15日のアメリカのミサイル防衛実験は、アメリカが宣伝しているような成功ではなく、平和と環境、また公正で平等な世界をめざすたたかいにとっての悲劇です。ミサイル防衛は、挑発的で、危険で、高くつくものであり、積極的にこれを推進することは、核軍縮をもって国際安全保障を強めようとするあらゆる努力に矛盾します。

  ブッシュ政権は、世界中の人々に影響を与える核軍縮、人権、および地球温暖化に関する国際協定を無視する姿勢を露骨に表しています。

  ジョージ・W・ブッシュ大統領は、30年来のロシアとの対弾道弾ミサイル条約(ABM条約)から一方的に撤退する用意を宣言しましたが、これは核不拡散体制全体を崩す動きであり、事実上核の脅威を増大させるものです。

  アメリカが、核軍縮にむけた重要な一歩である包括的核実験禁止条約(CTBT)を拒否したことも、米政府が新型核兵器による軍備強化を優先し、より少量どころか、より大量の核兵器の保有をめざしていることを明確に示しています。アメリカだけではありません。CTBTの調印が開始されて5年を経ても、12ヶ国がまだ調印や批准をしていません。

  1980年代のアメリカとソ連の核軍拡競争をきっかけに、1985年8月6日の広島デーに、南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)の調印が開始されました。

  この条約は、それ自体が目的なのではなく、見なおしの必要もありませんが、非核の世界に一歩近づくことができました。他の地域にたいするシンボルや実際的な先例となっただけでなく、結成されつつある、核保有国に地球規模で政治や外交上の圧力をかけるための非核地帯参加国の連合体に、南太平洋地域が参加する役割もはたしました。

  日本国民と太平洋の住民は、何千年でなくても何世紀も続くであろう負の遺産をもたらす外国軍の駐留や核実験によって、半世紀以上ひどい損害を受けてきました。核兵器のない太平洋、そして世界のためのたたかいは、まだまだ終わりではありません。力を合わせてこそ、私たちは、核兵器の全面廃絶を実現することができるのです。ヒロシマ・ナガサキをくりかえすな!


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