原水爆禁止2000年世界大会
国際会議

アメリカ合衆国
放射線被害者支援教育の会/ユタ州ネバダ核実験場風下地域もと住民
デニス・ネルソン
 

 私は子どものとき、広島のことを聞いたことはありませんでした。長崎のことも聞かされたことはありませんでした。4千万以上の生命を奪った世界大戦についてもあまり聞かされたことはありません。よく聞かされたのは、誇り高く愛国的なアメリカ市民に生まれてどれほど幸運かということでした。まだ幼い私には、戦争が実際にはどのようなものかなど知るよしもありませんでした。戦争がどれほどひどい痛みや苦しみをもたらすかものかも知らず、戦争の英雄のほとんどが、実は戦死した兵士だということにも気づきませんでした。私はアメリカの戦争を美化した多くのハリウッド映画に影響され、戦争に憧れを抱いていたのです。50年以上たった今日でさえ、本や映画のなかでは、アメリカ兵の勇敢な姿や犠牲や苦悩が理想化されて描かれています。成長するにつれ、私は、戦争が決して華やかなものではないことに気づきました。戦争は金持ちの支配層が彼ら自身の利益のためにおこなおうものであり、その犠牲となるのはほとんどが一般の人々だということも知りました。さらに私が気づいたのは、実際に戦闘がおこなわれていなくとも、戦争を想定して常に戦闘準備をすることによって、国民が、道徳的、社会的、心理的に大きな被害をこうむり、さらには身体的な被害も受けるということです。

 戦闘自体は何世紀も激しくおこなわれてきました。しかし、第二次世界大戦終結後から続いているこの戦闘ほど、人々の目から隠され、見えにくく、破壊的で、野蛮なものはありません。この戦闘は、アメリカ西部に広がる風光明媚なトリニティという地域で始まり、いまだに終わっていません。そこにあるのは華麗な軍服でもトランペットでも剣の音でもありません。対決しているのは、強大な権力を握る人々と世界の子どもたちです。この戦闘に勝たなければ、未来も、私たちの住める世界も、安全な場所もなくなってしまうでしょう。

 1945年7月16日ニューメキシコの美しい砂漠地帯で始められ、現在も進行中の核戦争は、私の母と父と末の妹の命を奪いました。この戦争は今もなお日々、犠牲者を生みつづけています。アメリカ先住民の部族のなかには、ウラン鉱山で働く人々がいて、肺から血を流しています。カザフスタンでは、家族を失って悲嘆に暮れる女たちがいます。イラクでは奇形児が生まれ、キエフでは被曝して髪がすっかり抜けてしまった子どもたちがいます。世界で最高水準の病院でさも、放射線被曝が原因の癌を治療しようとしても、すでに死にかけた患者たちにいっそうの痛みと苦しみを与えることしかできないのです。

 私の父は、62歳のときに肺ガンと骨肉腫で死にました。母は、47歳のときに脳腫瘍で亡くなりました。妹は、40歳で直腸ガンで死にました。弟は19歳のときにリンパ腫を患い、ほかにも家族のなかには、膀胱ガン、皮膚ガン、甲状腺の病気にかかった者がいます。父は、私たちの家から120マイル(200キロ弱)のところで原子爆弾が爆発していることを知っていました。しかし、12年間でネバダで1000発近くが爆発し、その死の灰が私たちの屋根や果樹園や野菜畑や外に干した洗濯物に降りかかることになるとは思っていませんでした。死の灰は、家のなかや車のなかや、食べ物にまで入りこんできました。私たちが使う水や、牛が食む牧草や、私たちの飲むしぼりたてのミルクにも入りこみました。父は、それによって自分自身や妻や末娘が死ぬことになるとは知りませんでした。残された家族がその後ずっと、手術や治療や薬物療法を受け続けることになるとは知りませんでした。それは、戦争を煽る秘密でした。この秘密によって、「冷戦」の火は燃えつづけたのです。これによって、世界大戦終結た後も、軍需品製造で莫大な利益をあげ、富める者は、さらに裕福になったのです。「冷戦」は、実際にはきわめて熱い戦争だったのです。

 私の住んでいた町はそれほど大きくなく、約5000人の女性、男性、子どもが住んでいました。無防備で、シェルターに囲まれていたわけでもなく、しのびよる破壊的な攻撃に関する警告もされませんでした。私たちは、道を誤った科学の犠牲者でした。大量殺戮兵器を製造することで生命を救い「安全」を強化できると思い込んでいる狂人たちの犠牲者でした。現代の核の戦場によって被害を受けたり、汚染された犠牲者を追悼する記念碑は一つもありません。何千人もの女性が乳房を失い、何千人もの男性が自律呼吸機能を失い、何百万人もの子どもたちが屈託のない幸せな子ども時代を奪われたのです。私の子どもたちの生まれる前に、祖父母は亡くなってしまいました。子どもたちは、自分たちの愛する人や知人が不治の病気にかかったという知らせに慣れてしまいました。子どもたちは生き残った犠牲者でもあります。私たちは彼らのことを認め、尊重し、援助する必要があります。彼らに、過去何が起きたのかをよく教えなければなりません。過ぎ去った日々の美しい記憶を分かち合うだけでなく、全人類に大きな影響を及ぼした不幸な歴史的事実も教える必要があるのです。そうしなければ、必ずまた同じことが繰り返されるでしょう。

 広島と長崎で起きた恐るべき破壊は、核兵器によって世界の安全が強化されることなどないこと、いかなる国家も核の保有によって安全を保障されることなどないことを、私たちに示し続けています。広島と長崎の生存者、そして核兵器施設や核実験上の風下地域に住む人々が被っている、生涯つきまとう病と早過ぎる死は、私たち人間がどれほど脆い存在であるかを冷厳に示しているのです。

1945年7月16日にニューメキシコの砂漠で始められた核戦争は、今も人々を殺しつづけています。つい数週間前にネバダでおこなわれた未臨界実験は、戦争がまだ終わっていないことを証明しています。私の家の近所で、あるいは他のどの場所でも、1000発近くの核兵器を爆発させる正当な理由はありません。ここから分かるのはただひとつ、この重大な決定を極秘で下した特定の人々には、他の人々に対する敬意が完全に欠如していたということです。私たちは、多数の幸福のための捨石にされたのです。私たちは、意味もなく殺されかねないのです。

 日本人だろうとアメリカ人だろうと関係ありません。これは、国境のない戦争です。放射線と死の灰は、いったん放出されたらとどめることはできません。1957年のセラフィールド、1976年のスリーマイル島、1986年のチェルノブイリ、1999年の東海村の事故は、原子力の平和利用でさえ、多くの問題と危険を抱えていることを示しました。

 55年間にわたる放射能の攻撃によって、数百万の人々が命を奪われ、健康を損なわれました。ヒロシマは、日本の人々だけでなく、全世界に対する攻撃でした。そうでなければ、今日、私がここに立っているはずがありません。日本、カザフスタン、オーストラリア、マーシャル諸島、そして全世界の兄弟姉妹と同じく、私もまたヒバクシャです。苦しみと恐怖によって結び付けられた私たちが、核兵器のない新しい千年紀への道を照らす光となることこそ、平和を愛する私たちの共通の願いなのです。


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