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核兵器の使用と威嚇の適法性に関する国際司法裁判所の 勧告的意見にたいするC・G・ウィーラマントリー判事の反対意見

索 引

法廷意見についての序文的所見
I 序
1.本法廷に提訴された問題の根本的重要性
2.法廷への提出文書
3.国連憲章に関するいくつかの予備的所見
4.核兵器にかかわる法
5.人道法についての序論的考察
6.人道法と戦争の現実との結びつき
7.核兵器によってつくられる極限の状況
8.保有と使用
9.合法を支持する国々の態度の違い
10.法の解明の重要性


U 自然と核兵器の影響
1.核兵器の本質
2.核戦争の現実を覆い隠す婉曲表現
3.核兵器の影響
4.核兵器の特殊性
5.現在と1945年の科学知識の相違点
6.広島と長崎は核戦争が生き残り可能であることを示しているか?
7.過去からの見通し


V 人道法
1.「人道の基本的考慮」
2.戦争に関する人道法の多文化的背景
3.人道法の概要
4.諸国家によるマルテンス条項の承認
5.「公的良心の命ずるところ」
6.国連憲章および人権が人道の考慮と公的
 良心の命令にあたえる影響
7.「付随的損害」は意図されたものではないという主張
8.違法性は特定の諸禁止規定とは独立して 存在する
9.「ロチュス号」事件の判決
10.戦争に関する人道法の特定法規
(a) 不必要な苦痛をあたえることの禁止
(b) 区別の原則
(c) 非交戦国の尊重
(d) ジェノサイドの禁止
(e) 環境に被害を与えることの禁止
(f) 人権法
11.法理学上の見解
12.1925年ジュネーブ毒ガス禁止議定書
13.ハーグ陸戦法規第23条(イ)

W 自衛
1.不必要な苦痛
2.均衡性/過ち
3.区別
4.非交戦国
5.ジェノサイド
6.環境への被害
7.人権


X いくつかの全体的考察
1.二つの哲学的見解
2.戦争の目的
3.国連憲章のもとでの「武力による威嚇」の概念
4.戦争法規の基本構造における平等
5.戦争法規における二重性の論理矛盾
6.核兵器使用の意思決定


Y 核兵器にたいする国際社会の態度
1.完全廃絶という最終目標の普遍性
2.全面廃絶を圧倒的多数が支持
3.世界の世論
4.現在の禁止措置
5.部分的禁止
6.最大の当事国はだれか?
7.地域的条約に参加している諸国は核兵器を合法とみなしているのだろうか?


Z いくつかの特殊な要因
1.核不拡散条約
2.抑止
3.復仇
4.国内の戦争 
5.必要性のドクトリン
6.限定あるいは戦術あるいは戦域核兵器


勧告的意見を出すことに反対するいくつかの議論
1.勧告的意見には実際の効力が全くない
2.核兵器は平和を維持してきた


結論
1.当法廷に課せられた任務
2.人類にとっての選択肢

付録(中立国への危険を示す図表−略)


引用注


法廷意見についての序文的所見

(a)  反対理由

 私の検討結果では、核兵器の使用ないし使用の威嚇はいかなる状況のもとでも違法である。それは国際法の根本的諸原則を侵害するとともに、人道法の構成の基礎をなす人道的重要問題の否定そのものである。それは、通常の法、とくに1925年のジュネーブ毒ガス議定書、1907年のハーグ規則を侵害する。それは、すべての法がよってたつ人間の尊厳と価値の根本法則に反するものである。

 私は、当法廷が核兵器の使用あるいは使用の威嚇を、どのような状況のもとであれ、いかなる例外もなく違法であると、直接かつ明確に主張しなかったことを遺憾とする。法廷は、力強くかつ直裁的なやり方でそう言明すべきであった。そうすれば現在においても将来においてもこの問題を永遠に解決することになっていたであろう。

 ところが法廷は、一方でこの方向を強力に示唆する先見性のある見解を示すことによって違法の方向に動きながら、他方で、あいまいかつ明らかに誤った別の判断もおこなったのである。

 したがって、私はここに述べる見解に「反対意見」という表題を付けざるをえなかった。法廷「意見」のいくつかの部分には私が同意する部分があり、それがなお、違法と結論するために重要な基礎となりうるにもかかわらず、である。それらの諸側面は、以下に論ずるとおりである。それらは、法を全面禁止への過程に大きく位置づけている。この意味で、法廷意見は重要な意義を持つ積極的見解を含んでいる。

 法廷意見第二部の6項目の実効部分のうち2項目には、私は根底から不同意である。私は、それら二つのパラグラフが法を誤って、かつ不完全に詳述していると信じるものであり、それらに反対票を投じることは余儀ないものと感じた。

 しかしながら、私は主文の第一パラグラフおよび、第二パラグラフ6項目中4項目に賛成票を投じた。

 (b)  法廷意見の積極的側面

 この「法廷意見」は、本法廷にとっても、そして実際、どの国際法廷にとっても国連憲章とのかかわりで核兵器に関する制限を明確に定式化した最初の決定である。それは、核兵器と武力紛争に関する法や国際人道法との矛盾を特定して扱った最初の決定でもある。また、核兵器の使用がさまざまな条約上の義務によって縛られ、制約を受けているという見方を表明した最初のそのような決定でもある。

 環境の分野では、広範で長期かつ深刻な環境被害を「引き起こすことが意図され、それのみならず、それが予期されている戦争行為の方法の禁止」の原則や、「報復として自然環境を攻撃することの禁止」(パラグラフ31)を、核兵器との関連で明確に示している最初の「意見」である。

 核軍縮の分野では、この法廷意見はまた、すべての国家にたいし、これらの交渉をすべての側面において完結させ、そうすることによって国際法の一貫性にたいするこの脅威の継続を終わらせる義務があることを想起させている。

 ひとたびこれらの諸命題が確立されれば、これらの諸原則を侵害しない核兵器の使用や使用脅迫の余地はどのようなものであれ存在し得ないと結論づけるためには、核兵器の使用の影響を検討するだけで十分である。この意見は、国連憲章や国際法、国際人道法などの基礎にある基本的な諸価値へのあからさまな矛盾をなす数多くの核兵器の固有の性質について一定の長さをさいて検討している。その情報に照らしてみると、核兵器が、法廷のうちだす基本原理をみたすことははっきりと不可能となっており、法廷の全員一致の見解として、核兵器を違法となすものである。

 とくに、私は、国連憲章第二条第4項に述べられた国連の「目的」の順守義務について述べておきたい。それらの諸目的には人権の尊重、人間の尊厳と価値などが含まれている。それらの目的には、また、国家間の友好関係や善隣関係(前文とともに読むべきものとして第一条「目的と原則」を参照)が含まれる。適法性の問題とこれらの諸原則の順守とが結びついていることは、いまや法的にも確立されている。百万、あるいは十億の人間(法廷に提出された推定による)を殺すことができるような兵器は、人間の尊厳や価値、あるいは善隣の原則にいささかの尊重も示すものではない。それらの兵器は本法廷の規定する諸原則により非難されるべきものである。

 私は、法廷の「意見」全体に賛成するものではないが、その「意見」の全員一致の部分からは、強い違法の意味合いが必然的にあふれてこざるをえない。本法廷が規定する諸原則にたいする核兵器の完全な非両立性についての詳細は、この「意見」の本文に表れている。

 将来は、いっそうの明確化が可能となるであろう。

 以下、本文第二部の個々のパラグラフについていくつかコメントをおこなう。最初に、私が不同意を表明した二つのパラグラフについて取り上げる。

(c)  最後のパラグラフについての具体的コメント

(i) パラグラフ2(B) ?(11対3)

 パラグラフ2(B)にかんして、核兵器の使用に関する条約により課された包括的かつ普遍的な制限が存在するというのが私の見解である。環境についての諸条約、とりわけジュネーブの毒ガス議定書およびハーグ規則の第23条a項などがそれに含まれる。これらは、私の「反対意見」の中で取り扱われている。核兵器の使用に関して通常の法が存在しないというのは正しいと思わない。

(ii) パラグラフ2(E) ?(7対7、裁判所長の決定票による賛成)

 私は、このパラグラフに含まれる両方の文にたいして根本的に不同意である。

 私は、最初の文に「一般的に(generally)」という語があることに強く反対する。この言葉は勧告的意見に使うには内容の点であまりに不確かであり、かすかな意味合いであるにせよ、核兵器の使用がどのような状況のもとであれ法に反しないとする可能性を残している命題に、私は賛成することができない。私は、本来法を正しく述べることができたはずの文に、この言葉が存在していることを遺憾とする。この「一般的に」という言葉は法廷「意見」のなかに内的矛盾の要素を持ち込むものであるようにも見える。というのは法廷「意見」のパラグラフ2(C)と2(D)では、法廷は、核兵器が国連憲章や国際法の諸原則、人道法の諸原則などに即したものでなければならず、そうした整合が不可能であれば、その兵器は違法となる、と結論づけているからである。

 この「一般的に」という言葉は、「一般的規則として、普通は」から「普遍的に、すべてあるいはほぼすべてにわたって」まで、さまざまな度合にわたり多くの意味を許容する(256)。たとえ後者の意味であれ、この言葉は、どのように狭いものであるにしても、真に法を反映するものでない許容の余地を開くものである。法的原則とは、一国がよりどころとして求める可能性をもつものであり、盲点があってはならず、かくも重要な問題にかんしてそれ自体の主張の中にはただひとつの判断が含まれるべきである。

 この「意見」の主目的は、核兵器の威嚇ないし使用が一般的にではなく常に国際法の諸規則、とりわけ人道法の諸原則と規則に反することを示すことである。パラグラフ2(E)はそうした言葉で綴られるべきだったのであり、「意見」は、それ以上に述べる必要はなかった。

 2(E)の第二パラグラフは、国際法の現状からして、法廷は、核兵器の威嚇ないし使用が、自衛の極限状態において適法であるかないか、明快に結論を下すことができないと述べている。私には、ひとたび核兵器が使われれば、戦争法 (jus in bello) がとって代わること、そしてこの「意見」でも詳述されているように、そうした兵器の使用を完全に禁止している戦争法の原則が数多く存在することは自明のことと思える。この問題では、現存する法は、あたかもそれを決定づけるだけの十分な原則がまだ存在していないかのような余地をこの死活的な問題にたいして残すことなく十分に明らかであり、法廷にたいして明確な判断を可能にしていたのである。まして、法廷がすでに述べたとおりの明確な認定をもっていたのであるから、こうした不確実さはなおさら除去されるべきであった。

(iii) パラグラフ2(A) (全員一致)

 自分の見解をいえば、私ならこの議論の余地ない命題は、主文の一部というより序分の一部とみなしたであろう。

(iv) パラグラフ2(C) (全員一致)

 このパラグラフの積極的特徴についてはすでに言及した。法廷は、このパラグラフで、核兵器の適法性にたいする国連憲章上の前提条件を全員一致で承認しているが、それらの前提条件は、核兵器使用の結果に正面から対立している。よって、私は主文のパラグラフ1(C)は、その兵器が使われる状況のいかんにかかわらず、すなわち、侵略の中でであれ自衛のためであれ、あるいは国際的にであれ国内的にであれ、あるいは一国の個別的決定であれ他の諸国家と歩調をあわせてであれ、核兵器の使用を違法としているものと理解している。本法廷の判事全員がこの原則を一致して認めたことは、核兵器使用の違法性の原則を、以前の、いかなる国際法廷による核兵器の適法性についての司法上の検討も存在しない段階から、大幅に前に進めるものである。

 核兵器の使用は法の枠内にあると論じた者たちは、国家にたいして明文的に禁止されていないことは許されているのであると強く論じた。これに基づいて、核兵器の使用は、国家の自由が制約をうけることのない問題であると主張された。私は、パラグラフ1(C)に規定された制限がこの議論を葬るものと見ている。

(v) パラグラフ2(D) ?(全員一致)

 このパラグラフも、法廷により、全員一致で支持されたものであり、武力紛争に適用されうる国際法の要件、とくに国際人道法の諸規則と具体的な条約義務との両立性にさらに制限を設けたものである。

 ここには、幾重にもわたる禁止項目がある。

 私の「意見」は、これらの規則や原則とはなにか、核兵器の本質と影響に照らして、これらを満たすことがいかに不可能であるかを示すものである。

 核兵器がこれらの諸原則と明確に矛盾するのであれば、法廷意見のこのパラグラフに即して、それは違法である。

(vi) パラグラフ2(F) ?(全員一致)

 このパラグラフは、厳密には質問された事項の範囲外である。だが、核兵器問題全体の文脈では、それは国家責任を喚起するのに役立ち、したがって私はそれに賛成票を投じたのである。

 以下の「意見」は、質問についての私の見解を法廷にたいし明らかにするものである。法廷に提起された質問は、使用と使用の威嚇にのみ関っており、この「意見」は、保有、垂直・水平拡散、製造、実験など核兵器の他の重要な側面の適法性については扱っていない。

 私は、また、法廷意見の本文にある理由付けの一部には保留意見を持っていることを付け加えなければならない。それらの保留点はこの「意見」を展開する中で表れてくる。とくに、この質問を受け付けるかどうかと、法廷の司法権限をめぐって出されたさまざまな反対意見にたいし、それらを拒絶した裁判所の理由付けには賛成であるが、世界保健機関(WHO)にたいし要請された勧告的意見を出すのを拒否することは、裁判所がその問題での司法権限を欠いているので正当化されるとした、法廷意見のパラグラフ14(23〜25行)の言明には、私は不同意を記録しておくものである。その命題にたいする私の不同意は、その問題での私の「反対意見」の主題となっている。

 報復の問題(パラグラフ46)を扱うなかでの、交戦行為での(核兵器による)報復の違法性の問題についても、私は、法廷がそれを違法とする判断を下すべきであったとの見解を持っている。また、ジェノサイドとの関連で起こったように集団に対する意図の問題でも、また核抑止の問題でも、私はその扱いに同意しない。これらの面についてはこの「意見」の中で検討する。

(vii) パラグラフ1−(13対1)

 私がこの「反対意見」の内容に入る前に、もう一つ別の事項についても述べておく必要がある。私は、本文の第一項に記録されている、法廷の最初の裁定に賛成票を投じた。それは核兵器合法論を論じた諸国が質問の受容と司法権限についておこなったさまざまな反対論にたいし本法廷がそれらを拒否したことからの、当然の裁定である。私は、これらの諸問題を根拠づける過程で本法廷が表明した見解を強く支持するものであるが、これらの反対論についてさらにいくつかの考えを持っており、同じような反対論が見られたWHOの要請にかんする私の「反対意見」のなかでそれらを述べておいた。法廷の結論からして、それらの所見をこの「意見」の中でくり返す必要はない。しかし、その「反対意見」の中でこれらの問題にかんして私が述べたことは、この「意見」の補強として読まれるべきものである。

I  序

1. 本法廷に提訴された問題の根本的重要性

 これから、この「意見」の本論に入る。

 本件は、当初から当裁判所の歴史の中でも比類ない高い関心を集めてきた。35カ国が書面で法廷に陳述を提出し、24カ国が口頭で陳述を行なった。いくつかの非政府団体(NGO)を含め、多数の団体が法廷に連絡をよせ、資料を提出した。そして、およそ25カ国のさまざまな団体・個人から200万近い署名が実際に法廷に提出された。さらに、他にも署名が送られ、その数があまりに多いため法廷として物理的に受理することができず、他のさまざまな保管者のもとに預けられた。これらも考慮に入れれば、署名の総数は、法廷の文書保管係の推定でも300万をうわまわる。法廷に預けることができなかったものも含めれば、署名の全体の数は、この数字をも大幅に超える。最大数の署名は、核攻撃の唯一の被害国である日本から提出された(258)。これらの団体・個人は、法廷にたいし正規の陳述を提出したわけではないが、それらは世界の世論の巨大なうねりの証拠であり、この「意見」の中で後ほど述べるように、法的にも無関係なわけではない。

 核兵器が本質的に違法であり、そうした違法性について知ることが非核の世界を実現する上で大きな実践的価値を持つという考え方は、新しいものではない。アルバート・シュバイツァーは、すでに1958年にパブロ・カザルスに宛てた手紙のなかで次のように言及している。

 「もっとも基本的でもっとも明白な議論、それは、制限し得ない効果を持ち、戦闘地帯の外にいる人々にも無制限の損害を与える兵器を国際法が禁止しているということである。原子兵器、核兵器がそれである。……これらの兵器が国際法に反するとする議論には、われわれがそれらの兵器について非難し得るすべてのことが含まれる。法的議論にはそれとしての利点がある。……これらの兵器が国際法を侵害することを否定できる政府は存在せず、……しかも国際法を脇に追いやることはできない!」(259)

 こうして、法的諸側面に注意を払う必要について、一般の人たちの世論は長いあいだ表明されてきたが、この問題はこれまで、国際的裁判によるいかなる権威ある司法判断の対象ともならなかった。日本の法廷では、下田訴訟で審理された(260)が、国際司法裁に勧告的意見を求める今回の二つの要請がだされるまで、この問題での国際的な法的審理は存在しなかった。本法廷にかかる責任は、したがって格段に重い性質のものであり、その判決は特別な意義をもつに違いない。

 この問題は、本法廷で、対立しあう見地から粘り強く論議された。本法廷は、国際法の分野のもっとも著名な多くの法律家の意見を聴取することができた。法廷への提出文書のなかで彼らは、国連総会の要請と、それに並行して聴取された世界保健機関の要請の歴史的性格に言及した。そのうちの一人はこれらの要請を次の言葉で述べている。

「(これらの要請は)国際司法裁判所の歴史それ自体とまではいわずとも、歴史の里程標をなすものである。これらの要請は、おそらくこれまで本裁判所に提訴されたもっとも重要な法的係争問題にかかわるものである。」(サルマン、ソロモン諸島、CR95/32, p.38.)

 別の者は、「かくも権威ある裁判所に人類生存のための弁論の機会が与えられることは、そうしばしばあることではない」(デービッド、ソロモン諸島、CR95/32, p.49)と述べている。

よって、本法廷がこの勧告的意見の中で直面している問題は、考え得るもっとも重大な問題である。それは法廷に対し、手にしうる国際法のすべての源を精査し、必要なら根本原理にさかのぼって深く掘り下げることを求めるものである。そこにこそ、言い表せないほどの強力で豊かな鉱脈があり、採掘されるのを待っているのである。これらの資源は、これまで発明されたもっとも強力な破壊兵器をも制御できるほどの、たんなる力よりもはるかに強力な原則を含んでいるのであろうか?

本裁判所の機能が、法を現在あるがままに述べることであって、将来の見通しを言うことでないことは、なんら強調する必要もない。核兵器の使用ないし使用の威嚇は、法がどうあるべきかという願望的期待のもとでではなく、現存する法的諸原則のもとで違法なのであろうか? 勧告的意見の要請に回答する上での本法廷の関心事は、現在ある法 (lex lata)によるのであって、あるべき法 (lex ferenda)によるものではない。

対立する議論が衝突しあうなかで、決定にいたるさい、本法廷にはもっとも基本的なレベルで三つの異なる可能性が存在していた。もし、実際に国際法の諸原則が、核兵器の使用は適法であると定めているならば、法廷はそう判決を下さなければならない。世界の反核勢力は巨大な影響力を持っているが、そうした状況も、もしそれが実際に法であるなら、核兵器の使用は合法であると判決する義務から法廷を逸脱させるものではない。第二の選択肢は、法はあれこれの明解な示唆を与えていないと結論することであった。もしそうであれば、その中立的な事実が宣言される必要がある。そうすれば、法の発展を新たに刺激するものが現れるかも知れない。第三に、もし法律上の規則ないし原則が、核兵器は違法であると定めているなら、法廷もまた、核兵器を適法とする側に属する巨大な勢力に制止されることなく、そう判決することになるだろう。冒頭に述べたように、この第三の選択肢が、私の検討結果を反映するものである。違法との見解に反対する側に立つ勢力は、実に強大である。しかしながら、強大な勢力との衝突も、法の支配という概念へと向かう法そのものの進路を押し止めるものではなかった。それは、法的原則がそれを求めるとき、物理的力にたいし制約を課する課題からひるむことはなかった。強大で抵抗しがたいと見える勢力にたいして決然とした立場をとることによってこそ、法の支配は勝ちとられてきたのである。ひとたび法廷が、何が法であるかを決定し、その方向に道筋を開くならば、どちらの議論の側につく強大な勢力にたいしてであれ、その顔色を見るために立ち止まるものではない。

2.法廷への提出文書

この勧告意見を要請する国連総会の権能に関して提出された文書を別としても、法廷に出席し、あるいは書面を提出した多くの国家により、両方の側から、実体法に関して多数の文書提出がおこなわれた。

これらの提出文書の一部には、必然的に重複する要素も存在するが、それらは全体として戦争法を概念的基礎にまで掘り下げて探求する膨大な材料を構成している。大量破壊兵器のなかでさえも、人類と環境にたいし今後幾世代にもわたって被害を与えるその固有の力のゆえに、核兵器が際だっている多くの点に関して、事実関係にわたる広範な資料が法廷に提出された。

他方、違法とする陳述に反対する側は、核兵器を扱う条約は多数あるにもかかわらず、どの条約にも、具体的表現で核兵器を違法と宣言している節は一節たりともない、と論じてきた。それとは反対に彼らは、とりわけ核不拡散条約(NPT)をはじめとして、国際社会によって発効された核兵器についてのさまざまな条約は、核保有国にかんする限り、現行での核兵器の合法性をはっきりと意味している、と主張する。彼らの立場は、核兵器の使用ないし使用の威嚇を違法とする原則が、その結論にむかって大幅な進歩をとげたものの、それはなお将来の問題であるというものである。彼らの陳述では、それはあるべき法であり、まだ現在ある法の状態にはないとされている。多くのことが望まれるが、なお達成されておらず、生まれることが待たれている原則である、というわけである。

この「反対意見」は、おそらく、法廷に提出された公式の陳述のすべてを公平に評することができないであろうが、それらのなかでもより高い重要性を持つものを扱おうとするものである。

3.国連憲章に関するいくつかの予備的所見

国連憲章が調印されたのは、世界が原子の時代に突入するわずか数週間前のことであった。調印国は、この文書を1945年6月26日、サンフランシスコで採択した。原爆は1945年8月6日に広島に投下された。人類の将来に極めて大きな意味を持つこの二つのできごとの間には、わずか40日しかなかった。国連憲章は、新たな希望に展望を開き、原爆は、新たな破壊に道を開いた。

従来の戦争の破壊力に慣れきっていた世界は、現在の基準から見れば小さな、この核爆弾の威力に震撼し、恐怖にとらわれた。国連憲章を起草した人々などが知っていた戦争の恐怖は、彼らがそれまで体験していたように、第二次世界大戦の比較的強度の低い恐怖のみであった。にもかかわらず、それまでの人間の歴史のなかでもっとも破壊的な紛争によって人類の良心のなかに焼きつけられたこれらの恐怖は、世界を行動に駆り立てるのに十分なものであった。というのは、それらは、国連憲章の言葉で言えば、「言語に絶する悲哀を人類に与え」るものだったからである。この、言語を絶する悲哀を人類にもたらす潜在的力は、その後数週間のうちに、原爆によって何倍にもふくれあがることになった。この戦争兵器のエスカレーションについてまったく知らないで起草された文書は、間近に迫っていた核時代に関係のあることを何事か言っているであろうか?

憲章の冒頭の言葉には、本法廷の事柄に密接に関わる6つの基調的概念が含まれている。

憲章の最初の文言は、「われら連合国の人民」であり、それによって、その後に続くすべてのことが世界諸国民の意思であることを示している。彼らの集団的意思と願望こそ、国連憲章のまさに源泉であり、その真理を後景に退けることは許されない。本法廷の問題には、世界諸国民の死活的利益がかかっており、世界の世論は公的国際法の諸原則の発展に重要な影響を持っている。この「意見」で後ほど検討されるように、適用しうる法は、許容しうる交戦行為の手段と方法に関して「人道的諸原則」と「公的良心の命ずるところ」とに強く依存している。

これに続く憲章の文言は、戦争の惨害から次の世代を救うというそれら人民の決意に言及している。彼らが知っていた唯一の戦争は、核兵器を伴わない戦争であった。その決意は、もし核戦争の破壊の度合と幾世代にもわたる影響とが知られていたならいっそう強固に固められたものとなったことが推定される。

憲章は、それら二つの中心的概念のすぐその後に、人間の尊厳と価値という第三の概念を示している。これは将来の地球社会における価値の主要単位として認められている。まさにその時、一発の核兵器によって100万の単位で人類を滅ぼす手段が姿を現わそうとしていたのであった。

憲章における第四の所見は、大小を問わず各国が同権であることであり、最初の三点のすぐあとに続いている。この理想は、核保有国の概念により著しく侵食されている。

次の所見は、条約とその他の国際法の源泉(強調は筆者)から生じる義務の維持にかかわっている。核兵器を合法とする意見に反対する議論は、基本的には条約によっているのでなく、そのような「その他の国際法の源泉」(主として人道法)に依拠しており、その諸原則は普遍的に受け入れられている。

国連憲章前文における第六の関連所見は、いっそう大きな自由のなかで社会的進歩と生活水準の向上を促進するというその目的についてである。この憲章の理念に近づくどころか、われわれが検討している兵器は、人類を、もし生き残ることができたとしても石器時代に逆戻りさせる潜在力を持ったものである。

それは実際、国連の創始者たちがあたかも並外れた先見性を持って、わずか六週間後には戦争の輪郭を永遠に変える兵器の登場によって打ち砕かれかねないことになる人間の進歩と幸福にかかわる基本的領域を識別したかのようである。その兵器こそ、その創造主の一人によって、古代東洋の古典の表現をかりて、「いくつもの世界の破壊者」(261)として描写されることになった兵器であった。

本法廷はいま、この兵器の適法性について勧告的意見を与える義務に直面している。国連憲章の冒頭に打ち出されている六つの主要な所見は、一貫して前面にかかげられる必要がある。なぜなら、そのひとつひとつが、軽々しく無視できない指針を与えるものだからである。

4.核兵器にかかわる法

オスカー・シャヒターが観察したように、核兵器にかかわる法は、「核戦略家や政治家学者たちの討論から一般に推論されるよりもはるかに包括的」(262)であり、適用しうる法の範囲も次の五つのカテゴリーで検討することができる。

1. 一般に武力紛争に適用しうる国際法 - jus in bello、ときには、「戦争の人道法」とも言われる。

2. jus ad bellum - 国家の交戦権を律する法。この法は、国連憲章と関連慣習法に表されている。

3. lex specialis - 具体的に核兵器と大量殺戮兵器にかかわる国際的な法的義務。

4. 国家の義務と権利を一般的に律する国際法の全般。それは特定の状況では核兵器政策に影響を与える可能性を持つ。

5. 国家当局による核兵器についての決定に適用されうる、憲法および制定法を含む国内法。

以下の「意見」は、これらすべてにふれるものであるが、しかし、主たる注意の焦点は、さきに述べた最初のカテゴリーに当てられることになる。

この検討はまた、国際司法裁判所規程の38条1項で述べられているように、国際法の源泉の一つひとつが、核兵器の使用はどのような状況のもとでも違法であるという結論を支持していることを示すものである。

5.人道法についての序論的考察

この問題にかんするもっとも具体的かつ関わりのある規則が見出されるのは、人道法の分野である。

人道法と慣習は極めて古い血統を持っている。それらは、数千年の昔にさかのぼる。それらは、中国、インド、ギリシャ、ローマ、日本、イスラムから現代ヨーロッパにいたるまで多くの文明のなかに現れている。これらの時代を通じて多くの宗教的哲学的考えが鋳型に注ぎ込まれ、現代の人道法が形成された。それらは、戦争の残虐性と恐るべき犠牲とを幾分でも軽くしたいという人間の良心の努力をあらわすものであった。この点での著名な宣言(1868年のセント・ピータースブルグ宣言)の言葉では、国際人道法とは「戦争の必要性を人道法と和解」させるよう企図されたものとされている。最近では、現代の兵器によって可能となった殺戮と破壊の増加とともに、良心の命ずるところも、これまで以上の包括的な定式を促すようになった。

今日、実体的な法体系となったそれは、兵器の前例のない発展に対応するのに十分な柔軟性と、諸民族の社会のすべての構成員の忠誠をあつめるのに十分な堅固さをもつ全般的な諸原則から構成されている。この一般諸原則の体系には、化学・細菌兵器など特別な問題にかんするその他数多くの協定を別としても、さらにジュネーブ諸協定とそれぞれの議定書に含まれる600以上の特別な条項が加わっている。こうして(国際人道法は)それ自体、重要な体系となっており、ある意味では、本件がそれに試験を課すものとなっている。

人道法は、常に発展し続けている。それは、それ自体、生命力を備えている。未定義の「人道に対する犯罪」やその他の罪を扱った1945年のニュルンベルク裁判に見られるように、「(戦争法は)静止したものではなく、絶え間ない適応により、変化する世界の必要を追い続ける」ものである(263)。人道法は、戦争の被害が拡大し続けるとともに、成長する。核兵器によって、それらの被害は、それを超えればあとはすべて空論的という、極限の状況に達する。人道法は、生きた規律として敏感に、適切に、かつ深い意義をもって応えなければならない。

人道法の諸問題は、その本質からして、その素材や実体である悲しむべき現実から離れ、象牙の塔のなかで追求されうる抽象的知的な探求ではない。それは、単なる論理や古典法(black letter law)の演習ではない。それらは論理的にも知的にも、その恐るべき文脈から切り放されることはありえない。これらの法的問題をとりまく残虐な諸行為を検討することが忌まわしいことであれ、それらの残虐行為に生き生きと焦点があてられてこそ、法的諸問題もはじめて正面から取り上げることができるのである。

残虐行為はしばしば、戦争とはすべてが残虐なものであるとか、核兵器はこれまで考案されたもののなかでもっとも破壊的な大量殺戮兵器である、といった一般性と陳腐な言葉のベールの背後に隠されがちである。これが意味するものは、その冷厳な事実のなかですべての面にわたり、より綿密に検討することが必要である。引き起こされた現実の人的被害やこれらの兵器によって人的条件に突き付けられたさまざまな面での威嚇についての、詳細で飾り気のない描写こそ求められるものである。そうしてこそ、人道法は適切に対応することができるのである。実際、戦場での苦痛にスポットライトを移すことによって、現代の人道法が始まったのである。したがってこの「意見」は、対応する人道法の諸原則を現在の考察に引き寄せるうえで最低限必要な範囲で、核兵器の影響についての諸事実をこまかく検討するものである。

6.人道法と戦争の現実との結びつき

19世紀は、戦争を、栄光に輝く事業として情緒的に、あるいは実際的には外交の自然な延長として見る傾向にあった。一部の哲学者によって正当化され、ほとんどすべての政治家によって敬意を払われ、多くの詩人や芸術家によって賛美され、その残虐行為は、正当性、体面、栄誉といった覆いの背後に隠されがちであった。

1859年、ソルフェリノの戦場を訪れたのちに書かれたアンリ・デュナンの「ソルフェリノの想い出」は、その時代の文明を自己満足のなかから揺り起こし、近代人道法の発展を引き起こすようなやり方で、戦争の残虐さを公衆の目前に引き出した。法がその主題からあまりに遠くにそれ、不毛なものにならないためには、そのリアリズムの精神に、たえず、繰り返し火を灯し続けなければならない。

デュナンの歴史的叙述は、法的な対応が不可欠と思われるところまで深く当時の良心の琴線にふれた。以下は、当時おこなわれていた戦争の生きた現実についての彼の描写である。

「ここに、肉薄戦の恐ろしさと醜さの全容がある。オーストリアと同盟軍は、互いに相手を踏みつけ、流血の死体の山を築いて殺しあい、ライフルの床尾で敵を打ち倒し、頭蓋骨をつぶし、サーベルと銃剣で腹を切り裂く。情けも容赦もない。文字どおりの屠殺である……

しばらく後、その状況は、騎兵の一団が近付いたことでさらに恐ろしいものとなった。騎兵隊は、死人も死にかけているものも馬の蹄で踏みつぶし、駆け抜けた。ひとりの気の毒な男は、顎をもぎ取られ、別のものは頭を砕かれ、三番目のものは、本来なら命が助かったであろうに、胸を踏みつぶされた。

騎兵隊につづき、全速力で砲兵隊がくる。大砲は地面に乱雑に散らばった死体や負傷者をつぶした。車の下で脳がはみだし、肋骨が折れて破れ、体は見分けがつかないまでにずたずたにされた。地面は文字どおり血でぬかるみとなり、人の体の残骸があたり一面に散らばっていた。」

その結果についての彼の描写も、これに劣らず強烈である。

「夜の静けさは、うなり声や、苦痛と被害のおし殺したようなうめきによって破られた。胸を引き裂くような声が助けを呼び続けていた。あの恐ろしい夜の苦痛を、いったい誰が描き出せるであろうか?

25日、太陽がのぼったとき、想像を絶するもっとも恐ろしい光景が現出した。戦場は人と馬の死体でおおい尽くされていた。死体は、道、溝、谷、しげみ、野原など一面に散らばっていた。ソルフェリノに通じる道は、文字どおり死体が折り重なっていた。」

戦争の現実とはこうしたものであり、人道法とは、それにたいする当時の法的良心の回答であった。デュナンがこの有名な言葉を書き残して以後、核兵器は残忍さを一千倍にも大きいものにした。現代の良心も、したがって、世界的な抗議や国連総会の諸決議、いっさいの核兵器を廃絶するという普遍的願望などに見られるように、それに応じて回答してきた。それは、学問的に超然とした精神で構え、法的論理の洗練された実践から結論を引き出してはいないのである。

大砲と騎馬兵団による戦争の生々しい事実と密接にふれることによって近代人道法が登場したように、核戦争の生きた諸事実の検討を通して、適切な法的回答も生まれることができるのである。

時代は、騎兵隊と砲兵隊の残虐さから桁違いに大きな原子の残虐性へと移行してきたが、われわれにはいま、デュナンの時代にはなかった二重の有利な点がある。つまり確立された人道法の規則と関連する人的被害にかんする豊富な資料とである。デュナンの時代の単純な戦争の現実と比べ無限大に恐ろしいものとなった現実は、現代の法的良心を揺り動かさずにはおられない。

以下は核時代における最初の核兵器使用を目撃した証人の描写である。それは、疑いなく、同時に起こった何百ものそうした光景のひとつであり、その多くが、現代の資料に集録されている。これらの犠牲者はソルフェリノの場合のように戦闘員ではない。

「昨日は裏の川へ引きも切らさずたくさんの怪我人が逃げだしてきましたよ。顔や手が見る影もないほど焼け落ちた者や、腫れ上がった者や、皮がむけ、それがぼろつぎのようにだらっとさがってとても気持ちの悪いのや、見るにしのびぬような者ばかりで、そんなのが蟻の行列のように下の道をぞろぞろつづくのです。一夜中つづきましたよ。今朝二重堤を通ってきたのですが道の両脇に同じような怪我人がおって、ところどころ道がふさがって歩けぬところもあります。」

「耳が溶け顔の道具が焼け落ちてしまって、前後が判からぬようになった者でも,頭の髪だけはお椀の恰好に残っているんです。あれは戦闘帽をかぶっていたからでしょうね。顔の道具が溶けてしまい、白い歯だけだして『水』と一口いった兵隊がありましたが、水が一滴もないので私は掌を合わせて拝みましたよ。あれきりいわぬようになったから、あれが最後の一口だったのでしょうて。」(264) (原文、『ヒロシマ日記』、 引用は、原著p. 13とp. 15。英文訳との食い違いは、原著によった。)

これを一千倍、いや百万倍に拡大してみればよい。そうすれば、起こりうる核戦争の多くの影響のほんのひとこまがわかる。

爆発地点から何マイルにもひろがる直接のやけどや手足の切断から、人間の健康を危険に陥れるガンや白血病などの長引く後遺、人間の完全性を脅かす遺伝的変異、人間の生存環境を危険にさらす環境破壊、人間社会を掘り崩すあらゆる組織の破壊などにいたるまで、膨大な資料が、核兵器の引き起こす被害を細かく描き出している。

広島と長崎の経験は、三日の間隔でおこった二つの別々の出来事であった。それらは、今日、核戦争が起こった場合ほとんど不可避的に続けざまに起こる多数の爆発の影響については、ほとんど何も語るものではない(このあとに続く?U.6を参照)。その上、50年にわたる開発により、現在使われている核兵器は広島・長崎型原爆の70倍から700倍にものぼる爆発力をもっている。広島・長崎の破壊は、今日、たった一発の爆弾によってでも何倍も大きなものとなったであろう。ましてや、何発もの爆弾が立て続けに使われた場合は、言うまでもない。

7.核兵器によってつくられる極限の状況

人的被害を別としても、核兵器はさきに見たように、われわれを極限の状況に追い詰める。核兵器は、あらゆる文化が何千年にもわたる努力で創り出してきたすべての文明を破壊する潜在的力を持っている。「石器時代の過酷さへと投げ込まれ、病み衰えた生存者の恐ろしい物語は、まともな感覚を持ったものであれば誰であれ、喜んで選択する役どころではない」(265)というのは事実である。だが、「人類の現在の進路がもたらしかねない帰結をはっきりと正視する」(同)ことは必要である。核兵器はこの地上のすべての生命を破壊しうるのであるから、それは、人類がこれまで戦ってきたもののすべてと、人類そのものとを危険に陥れるものである。

ここで、環境にかかわる法と戦争にかかわる法との類似点をあげることができよう。

かつては、この地球の大気圏と海と地表とは、その広大さのゆえに、いかなる汚染でも吸収し、なおかつ自己回復するものと考えられていた。その結果、汚染に対する態度という点で、法はきわめてゆるやかなものであった。しかし、それがまもなく限界に達し、それを越えると環境はもはや崩壊の危険なしに汚染を吸収できないことが理解されると、法も、環境に対する態度で方向転換を余儀なくされていることが明らかになった。

戦争法においてもなんら違いはない。核戦争が登場するまで、戦争の規模がどれほど大きなものであろうと人類は生存でき、社会は再建しうると考えられていた。核兵器の出現とともに限界が現れ、次の核戦争では、人類は間違いなく生き残れず、あるいは、すべての文明が破壊されるかもしれないという厳しい見通しがあらわれた。その極限状況が、戦争法をして、態度を変え、この新しい現実に直面するよう余儀なくさせてきたのである。

8.保有と使用

附託された主題は、核兵器の使用であって保有ではないが、保有について扱い、したがって法廷に提訴されている問題と直接関連していない多くの議論が本法廷で展開された。

たとえば、核兵器はそれぞれの国家の主権の範囲内の問題であるという立場を支持して、『ニカラグア国内およびニカラグアに対する軍事、準軍事活動』の以下のくだりが、法廷で紹介された。

「国際法には、関係国国家が条約その他により受諾しているような規則を除いては、それによって主権国家の軍備水準を制限しうるいかなる規則も存在しない。」(フランス、CR 95/23, p. 79; I.C.J. Reports 1986, p. 135; 強調は筆者)

このくだりは明らかに、使用でなく保有にかかわっている。

核不拡散条約(NPT)にかんしても、核保有国に核兵器を許すものとして多くのことがいわれた。ここでもまた、この条約から推論することのできる許諾は、もしそういうものがあるとしても、保有であって使用にかかわるものではない。というのは、NPTは核兵器の使用ないし使用の威嚇についてどこでも検討したり扱ったりしていないからである。使用ないし使用の威嚇の問題については、NPTは無関係である。

9.合法を支持する国々の態度の違い

核兵器の使用の適法性を支持する諸国がとっている立場のなかにはいくつか重要な違いがある。実際、いくつかの極めて基本的な事柄にかんして、核保有諸国自体のなかに食い違ったアプローチが存在している。

たとえば、フランスの立場は次のようなものである。

「もし、そうした使用が攻撃に耐えることを意図し、かつ、そうするためのもっとも適切な手段と思えるならば、この、均衡

(proportionality)という基準はそれ自体、応答としてであれあるいは先制使用の問題としてであれ、核兵器も含めていかなる具体的兵器の使用をも原則として除外するものではない。」(フランスの陳述書、訳文15ページ、強調は筆者)

この見解によれば、ふれられている諸要素は、この場合、均衡の原則にたいしてさえ優先されうることになる。この兵器が許されるか否かを決定付ける支配的基準は、攻撃に耐えるもっとも適切な手段か否かである、というのがその主張である。アメリカの主張は以下の通りである。

「核兵器による攻撃が均衡を欠いているかどうかは、敵の脅威の性質、目標破壊の重要性、装置の性格、大きさ、生じうる影響、さらに民間人に対する危険の大きさなどを含めた状況に全面的にかかっている。」(アメリカ合衆国の陳述書、23ページ)

こうしてアメリカの立場は、装置の性格、大きさ、影響および民間人に対する危険の大きさなどの状況を注意深く考慮に入れている。

ロシア連邦の立場は、「マルテンス条項」(?V.4参照)はまったく機能しておらず、今日マルテンス条項は、公式に適用不能と考えて差し支えない、というものである(陳述書、13ページ)。

他方、イギリスは、マルテンス条項の適用性については受け入れつつも、同条項はそれ自体として核兵器の違法性を確立するものではない、と具申している(イギリスの陳述書、48ページ、パラグラフ3.58)。イギリスは、マルテンス条項の文言では、核兵器使用を違法としている慣習法の規則を示すことが必要である、と論じている。

合法性の主張の範囲や、それどころか、その主張の基礎そのものについての核保有国側自体のこうした認識の違いは、本法廷に提起された問題の背景についての注意深い検討を要求するものである。

10.法の解明の重要性

核兵器の適法性に関する法を解明することの重要性はいくら強調してもしすぎることはない。1899年6月6日、マルテンス氏(ハーグ会議第二委員会第二小委員会の議長をつとめていた)??マルテンス条項は彼の名をとって命名された??は、戦争についての法はあいまいな状態に残しておく方が望ましいとする申し立てに応えて次のような見解を述べた。

「しかし、この意見は、本当に正しいだろうか? この不確実さは弱者に有利になるであろうか? 強者の義務が定義されていないからといってそのために弱者の立場が強まるであろうか? かれらの権利が具体的に定義され、その結果、制限されるからといって強者の立場が弱まるだろうか? 私にはそうは思えない。私は、これらの権利と義務を定義することが、とくに弱者の利益になるものと全面的に確信している。……

1874年と1899年の二度にわたり、二つの重要な国際会議が、文明世界においてこの問題でもっとも有能にして著名な人々を集めておこなわれた。彼らは、戦争の法と慣習を決定することに成功しなかった。彼らはばらばらで、これらすべての問題をまったくあいまいなままに残した。……

これらの諸問題をめぐって不確かな状態にしておくことは、必然的に人道の利益に対する力の利益の勝利を許すことである。……」(266)

この明瞭さを追求するなかで、国連総会は国際司法裁判所に対し、核兵器の使用についての「意見」を下すよう求めたのである。これらの兵器を支配する諸国はこの申請に反対し、他のいくつかの国々もまた同様の態度をとった。あれこれの理由でこの50年間、具体的に取り組まれなかったこの問題を解明することは、すべての国々にとっての利益である。それは解決されないまま残され、巨大な疑問符のように人類の未来に立ちふさがり、この地球の人類の未来にかかわるほどの深刻な問題を引き起こしてきた。

国連憲章は、人類史上初めて諸民族の共同社会のコンセンサスにより戦争を違法としたが、法は、国連憲章が生み出した新しい世界の秩序のもとでの国家の権利と義務に照らして明確に述べられる必要がある。その画期的文書は、マルテンスの発言からみれば遠い将来にできたものであるが、それ以後さらに50年が過ぎた。この50年は、地球社会が直面したもっとも重要な法的問題の解明という点では、怠惰な歳月であった。

II 自然と核兵器の影響

1.核兵器の本質

本法廷に提起されている問題は、事実問題への人道法の適用であって、抽象的な知識の集合としての人道法の構築ではない。

本法廷は、核兵器の使用が、人道法の基本的諸原則と衝突するほどの非人道的性質をもつ実際上の影響を生み出すかどうかという問題を調査している。この「勧告的意見」と世界保健機関が求めた意見のどちらに関しても、核兵器の影響がかかわる人道法のさまざまな原則の適用の方法を評価するための助けとして、法廷には膨大な事実関係資料が提出された。これらの具体的事実を、たとえ概略的にであっても検討することが必要である。というのはそれらは、いかなる一般論よりも、核兵器の固有の特徴を描き出すからである。

その上、核戦争はやり方によって抑制可能であるとする主張は、核兵器の影響に特有の、回復不可能な性質を詳細に検討することを不可欠としている。

2.核戦争の現実を覆い隠す婉曲表現

世界平和と秩序を促進するための制度である国際法が、その中に、世界体制とその体制を生み出した数千年の文明、そして人類そのものの完全な破壊を引き起こすもののための場所をもっているとすれば、これは背理である。その矛盾を、人道法を寄せ付けないほど強力に覆い隠す要素とは、実態から離れた軍事作戦用語や洗練された外交用語など、婉曲的な言葉の使用である。それらは核戦争の恐ろしさを隠し、全体的破壊の状況とはほとんど縁のない自衛、報復、均衡のとれた損害といった知的概念へと注意をそらす。

民間人や中立国に対する恐るべき打撃は、それが直接意図されたものでないからということで付随的被害として描かれ、都市の焼失は、「熱による相当規模の被害」とされる。たとえそれが百万にのぼる死者であっても、「受容できるレベルの死傷者」とされる。恐怖の均衡の維持は「核準備態勢」、確実な破壊は「抑止」、環境の全面破壊は「環境への打撃」と描かれる。人間的文脈から冷たく切り離されたそうした表現は、人道法が生まれでた人間の苦しみの世界を素通りする。

この「意見」の冒頭で見たように、人道法は、それが十分に応えるためには、戦争の生きた現実と対置される必要がある。そうした表現は、このプロセスを妨害するものである(267)。

古代の哲学も現代の言語学も、中心的内容を隠すような言語を通じて重要な問題をあいまいにするという問題の存在をはっきりとつきとめていた。国家における秩序と道徳はどのように創造することができるかをたずねられて、孔子は、「呼び名を正すことによってである」と答えた。つまり、彼は、事物の一つひとつを正しい名前で呼ぶべきだと言いたかったのである(268)。

現代の意味論もまた、概念の真の意味を隠す婉曲語法の用語が引き起こす混乱について明らかにしている(269)。核戦争についての言語も婉曲語法に事欠かず、百万単位での殺戮や都市住民を焼き殺すこと、遺伝的障害、ガンの誘発、食糧連鎖の破壊、文明の危機などの現実的諸問題から目をそらさせる。大規模な人命の絶滅が、うまくつじつまを合わせることのできる元帳のごとく無関心に扱われている。もし人道法がその課題に明快に対応すべきものであれば、これらの言葉の覆いを取り去り、その真の実体とまともに取り組むことが必要である。口当たりのよい、実体から遊離した言葉が、核兵器と国際法の根本原理との基本的矛盾を隠すのを許すべきではない。

3.核兵器の影響

1945年以前は、「爆弾の最大の爆発力は、およそ20トンのTNT火薬の爆弾によって産み出され」た(270)。広島と長崎で炸裂した核兵器はそれぞれ15および12キロトンの爆発力、すなわちTNT(トリニトロトルエン)火薬にして1万5千トンと1万2千トンにあたる爆発力であった。今日存在し、また、実験段階にある多くの兵器は、これらの兵器の何倍もの爆発力を持っている。メガトン(100万トンのTNTに該当)級や数メガトンの爆弾も世界の核軍備のなかに存在しており、その一部は、20メガトン(TNT火薬にして二千万トン)さえ超えている。1メガトンの爆弾は、100万トンのTNT火薬の爆発力にあたるが、それは日本で使われた原爆の約70倍の爆発力であり、20メガトン爆弾は、その一千倍をはるかにこえる爆発力をもつ。

こうした抽象的な数字では頭が麻痺し、理解できないので、さまざまな方法で具体的に表現されてきた。そのひとつは、1メガトン爆弾一個にあたるTNT火薬の量を鉄道輸送した場合の絵を描くことである。このためには、200マイル(約320キロメートル)の長さの列車が必要であると見積もられている(271)。戦争の中で、一個の1メガトン爆弾を使うことで敵に対して死と破壊をもたらす場合、敵地で爆発させるために、そこへ向かうTNT火薬を積んだ200マイルの長さの列車を頭に浮かべれば、この現象を理解する助けとなる。これを国際法が合法的行為とするとは言い得ないことである。もし列車が200マイルの長さでなく100マイルであれ、50マイルであれ、10マイル、あるいはたったの1マイルであっても何ら違いはない。また、爆弾が5メガトンの場合で、列車が1000マイルの長さであろうと、あるいは20メガトンの場合のように4000マイルの長さであろうと、同じようになんら問題ではない。

本法廷が審議している兵器の威力とはこういうものであり、歴史的にこれまで存在したすべてのものを、たとえそれらをすべてまとめて考えたにせよ、はるかに上まわるものである。5メガトンの兵器は、第二次世界大戦で使われた爆弾すべての爆発力を上まわり、20メガトンの爆弾は、「人類史上すべての戦争で使われた爆発物の全体をも上まわる」(引用同じ)。

広島と長崎で使われた兵器は、今日の兵器と比べれば「小さな」兵器であり、すでに見たように、1メガトンの爆弾は、広島型原爆70発分、15メガトンの爆弾は、広島型原爆のおよそ一千発分にあたる。それでも、この先例のない規模の破壊力は、この爆弾独特の特徴のひとつにすぎないのである。それは、空間的にも時間的にも抑えることができない点で比類なきものである。それは、人類の未来にたいする危険の源として独特である。それは、実際に使われたはるか後でさえ、なお人間の健康を継続的に危険にさらす根源として唯一のものである。その、人道法のじゅうりんは、それが大量破壊兵器であるということを超えたもの(272)であり、人道法の核心を深く貫く理性にまで至っている。

原子兵器は、通常兵器と区別される一定の特別な特徴をもっており、それはアメリカ合衆国原子力委員会によって、次のように要約されている。

 「それは、3つの重要な点で他の爆弾と異なる。第一に、原爆が発するエネルギーの量は、もっとも強力なTNT火薬の爆弾で生じるエネルギーの一千倍ないしそれ以上に達する。第二に、爆弾の爆発には、強烈な熱と光に加えて極めて浸透力が強く有毒な不可視光線が伴う。第三に、爆発の後に残される物質は、放射性を帯びており、生命ある有機体に有害な影響を引き起こす放射線を発する」(273)。

以下のさらに詳細な分析は、この法廷に提出された資料に基づくものであり、それらには、審理の中で、核兵器の使用は違法でないと主張する国々からさえも異論がだされていないものである。それらの資料は、法的議論が依拠する基本的事実関係での基礎を成すものであり、それなしには法的議論は、たんなる学問的な議論に還元される危険を持つものである。

(a) 環境と生態系にたいする危険 (274)

他の兵器では引き起こすことのできない環境に及ぼす危険の範囲は、1987年、世界環境開発委員会によって次のように要約されている。

  「起こりうる核戦争の影響は、環境領域への他の脅威を取るに足りないもとにするほどである。核兵器は交戦行為の発展のなかに質的に新しい段階がおとずれたことを象徴している。一個の水爆は火薬の発明以来あまたの戦争で使われた爆発物の総量よりもさらに大きな爆発力をもつことができる。爆発と熱の破壊的影響を巨大なものに拡大させたことに加え、核兵器は、新たな致死性のある作用である電離放射線をもたらした。それは、空間と時間の両方をこえて、致死的影響を拡大するものである」(275)。

核兵器は、地球の生態系全体を破壊する潜在的力を持っている。すでに世界各国が保有している核兵器は、地上の生命を幾度にもわたって破壊する潜在力をもっている。

核兵器のもう一つの特徴は、審理の中でも述べられたように、針葉樹林、穀物、食物連鎖、家畜、海洋生態系などにたいして電離放射線が引き起こす被害である。

(b) 未来の世代への被害

生態系への影響は、実際的には見通しうる限りの歴史的将来にわたって広がる。核爆発の副産物の一つ、プルトニウム239の半減期は2万年をこえる。本格的な核兵器の応酬がおこなわれれば、残留放射能が最小値にいたるまでには、いくつもの「半減期」が必要となろう。半減期とは、「純粋なサンプルによる放射の割合が半分に減るまでの期間である。知られている放射性同位体の半減期は、およそ10-7秒から1016年にわたっている(276)。

次の表は、核実験から生じる基本的な放射性物質の半減期を示している。

  核種           半減期

セシウム137      30.2 年

ストロンチウム90    28.6 年

プルトニウム239    24,100 年

プルトニウム240    6,570 年

プルトニウム241   14.4 年 

アメリシウム241   432 年(277)

 理論的には、これは数万年も続くことになる。どのような目的があるとしても、次に続く世代にこのような被害を及ぼす権利は、どの世代も持っていない。どんなレベルの話であれ、こう断言しても問題はないであろう。

本法廷は、どの裁判所にもない権威をもって国際法を語り、それを適用する権限を持った国連の基本的司法機関として、その法体系の中で、将来の世代の権利にたいし当然の承認を与えなければならない。もし、法の下において彼らの利益を承認し、保護できる法廷が存在するとすれば、それは、この国際司法裁判所にほかならない。

この点で、将来の世代の諸権利は、まだ承認を求めてたたかっていたほんの萌芽的な権利であった段階をすでに過ぎ去っていることに留意しなければならない。それらの権利は、主要な条約や法理学上の見解、文明的諸国によって認められた法の一般諸原則などにより、国際法の中に織り込まれている。

条約の中では、1979年のロンドン海洋投棄条約、1973年の絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約、1972年の世界の文化・天然遺産の保護に関する協定などをあげることができよう。これらすべてが、将来の世代のために自然環境を保護する原則を明確に取り入れ、その概念を拘束力ある国家的義務のレベルにまで高めている。

法理学的見解もいまや豊富であり、世代間の平等と学問的に十分に確立された人類の共通の遺産についてを主題とし、概念とする主要な条約もいくつも表れている(278)。その上、全世界の多数の伝統的法体系が今後の世代のために環境を保護する方途についても、自覚が成長している。これらのことに、さらに、1972年の人間環境に関するストックホルム宣言をはじめ、一連の主要な国際的宣言を加えなければならない。

議論の余地ない科学的証拠が幾百もの世代にわたる規模の環境汚染について語っているとき、当法廷が、現在の法によって遠い将来を守る方途について真剣に受け止めることができなければ、法廷は信頼を失うであろう。国連憲章の諸理念は、自らを現在に限定するものではない。それらの理念は、社会進歩と促進の生活の向上を期待しており、そのビジョンは、現在のみならず、「将来の世代」にもわたっている。一見して無限の時間的範囲にわたる環境破壊はそれだけで、国際法の予防的諸原則を実施に移す十分な要因であり、それは諸原則を定める卓抜した権限を与えられた本法廷として、当然適用すべきものである。

(c) 一般市民への被害

これは、説明を要しない。なぜなら、核兵器はこの点で他のすべての大量破壊兵器を上回るものだからである。国際法の発展についての著名な研究の言葉では次のように言われている。

「大量殺戮兵器、いわゆるABC兵器(原子兵器、生物学兵器、化学兵器)の特徴は、それらの破壊力を空間的にも時間的にも軍事目標に限定することができないところにある。その結果、これらの兵器の使用は、見通しがつかずあらかじめ決定することもできない大量の一般市民の消滅を意味することになる。これはまた、それらの兵器の実使用が、たとえ明示的な条約の条項が存在しなくとも国際法に反することを意味するものであり、さらに、大量破壊兵器の問題が狭い意味での国際法の領域をこえて発展し、異なる社会体制をもつ国家間の平和共存の重要問題のひとつとなった、というのもまた事実であることを意味している。」(279)

(d) 核の冬

核兵器による交戦でおこりうる事後の影響のひとつは、核の冬である。それは、核兵器が引き起こす都市や森林、地方などの火災により、何億トンにものぼる煤煙が大気圏に溜まることで引き起こされる状態である。煙の雲や多数の爆発から生じる粉じんは太陽光をさえぎり、世界中で農作物の凶作と地球的規模の飢餓をつくりだす。「核の冬について:多数の核爆発の地球的影響」(280)と題するトゥルコ、トゥーン、アッカーマン、ポラック、セーガン(Turco, Toon, Ackerman, Pollack, Sagan。これらの著者の頭文字を取り、TTAPS研究として知られている)の報告からはじまって、核戦争がつくりだす灰塵や煙の雲の影響についての細部にいたる膨大な科学研究がおこなわれた。TTAPSの研究は、地球のひとつの半球の煙雲が数週間のうちに別の半球へと移りうることを示している。TTAPSやその他の研究は、実りの時期に核の冬によってほんの少し気温が下がるだけで、半球全体に広大な大凶作を引き起こしかねないことを示している。このような結果は、したがって、非交戦諸国にとっても不吉なものである。

  「核の冬の気候上の影響と、そこから生じる社会的生産基盤の破壊によってさらに悪化する食糧不足が、核の爆発によってただちに起こる影響以上に深刻な全般的影響を地球全体の住民に与えることは、いまや意見の一致するところとなっている。核戦争後の世界で、人類が逃げ込むことのできる環境上の余地を失うであろうことは、ますます明らかになっている」(282)。

(e) 生命の喪失

一発の爆弾の使用、限定戦争のとき、そして全面戦争の場合におけるWHOの推定した死者数は、100万から10億までの差があり、さらに、それぞれの場合で、ほぼ同数の負傷者がうまれるとしている。

戦時における、広島と長崎でのたった2発の核兵器使用で生じた死者は、日本の代表によれば、35万と24万の全人口にたいしてそれぞれ14万人と7万4千人にのぼった。もしこれらの爆弾が東京、ニューヨーク、パリ、ロンドン、モスクワなど、数百万規模の、より人口の密集した都市で爆発していたなら、死者数は、数えきれないほどさらに多くなっていたであろう。

長崎市長が法廷に与えた興味深い統計では、773の英軍機によるドレスデンの爆撃とそれに続いておこなわれた450の米軍機の投下した65万発の焼夷弾の雨が引き起こした死者数は13万5千人であった。これは、今日の基準で見れば「小さな」爆弾であった一発の広島の核爆弾とほぼ同じ結果である。

(f) 放射線の医学的影響

核兵器は、放射性降下物の存在に加えて瞬間的な放射線をつくり出す。

「核融合爆弾あるいは水素爆弾として知られる熱核兵器と同様、残留核放射線が、核分裂爆弾、あるいは原子爆弾の特徴であることは、十分に確立されている」(283)。

以上の直接的影響に加えて、人間と環境に作用する電離放射線が引き起こす、より長期の影響がある。そのようなイオン化は、細胞を傷つけ、そこで生じる変化は細胞を破壊し、あるいはその機能を衰えさせる(284)。

核攻撃のあと、被害者は熱、爆風、放射線に襲われ、放射線の影響の個々の研究は爆風と熱による負傷のため複雑なものとなる。しかしながらチェルノブイリ事故は放射線のみの影響についての研究の機会となった。それは以下のことからである。

「チェルノブイリは、爆風や火傷、あるいはその両方によって複雑化されていない、人間に対する全身被爆の影響についての有史以来の最大の経験となった」(285)

ケロイドやガンなどの長期的影響とは別に、これらの影響には短期の食欲不振、下痢、新たな血液細胞生成の停止、出血、骨髄損傷、中枢神経損傷、けいれん、血管障害、心臓血管障害などが含まれている(286)。

放射線被害のみが引き起こされたチェルノブイリは、比較的人口密度の希薄な地域であったが、強力な国家の医療資源にとって過大な負担となり、ソ連全土から医療要員と医薬品、その他の装備??5000台のトラック、800台のバス、240台の救急車、ヘリコプターと特別列車など??をつぎ込むことが必要であった。それでもチェルノブイリの爆発は、およそ半キロトンの爆発(同、p. 127)にあたるもので、比較的「小さな」広島型原爆のおよそ25分の1であり、しかも、その広島型原爆は、1メガトン爆弾の70分の1である。すでに見てきたように、今日の核兵器には何メガトンもの爆弾が含まれている。

放射線の影響はたんに人々を苦しめるものであるだけでなく、生涯にわたって続くものである。広島、長崎では、長く苦痛に満ちた人生のあと、核爆弾がこれらの都市を襲ってから数十年の後に死が訪れている。広島市長は、本法廷で被爆者たちのいつまでも続く苦痛の一部を説明したが、これらの苦痛のすべては、この問題をめぐって発展してきた膨大な文献の中に十分に収録されている。インドネシアは、アントニオ・カッセスの『現代の暴力と法』(1988年)について言及したが、それは、「人間の苦難の質は数字と統計からのみ表れてくるものではなく……、生存者の話からもまた現われるのである。これらの恐るべき苦難の記録は数多くあり、広く知られてもいる」(288)という事実に注意を喚起している。

この点で、「広島・長崎被爆50年国際シンポジウム」に収録された諸資料など、裁判所書記局が受理した多くの文書にも言及しておくべきである。これらの苦難の詳細についてはごく短く要約することは、この「意見」においても、それを試みることすら不可能である。

放射線により長く続く死者の数は、いまなお増えつづけている。日本の代表が本法廷に提出した統計によれば、生き延びることはできたが放射線を浴びた32万を越える人々は、白血病、甲状腺ガン、乳ガン、肺ガン、胃ガンなど放射線が引き起こす各種の悪性腫瘍や白内障、そのほかさまざまな後遺に、半世紀余りが過ぎた現在でも悩まされている。現在、世界に蓄積された、それらの何倍もの爆発力をもつ核兵器をもってすれば、被害の規模は指数関数的に拡大することになる。

WHOが述べているように(CR 95/22, p. 23-24)、放射線の過剰な被曝は、体の免疫体系を抑制し、感染症や各種のガンなどに被害者をかかりやすくする。

すでに述べられた遺伝的影響や醜いケロイド腫瘍の増大を別としても、放射線障害は心理的な傷を生じさせる。このことは、広島、長崎の被爆者の間でいまも認められることである。放射線障害は、直接被爆、地上から放出される放射線、放射能に汚染された建物からのもの、そして、爆発の力で成層圏まで巻き上げられた煤煙やちりから何カ月も後になって地上に降ってくる放射性降下物などによって引き起こされる(289)。

これらの要因に加えて、核戦争の医学的影響にかんする膨大な個別資料が存在する。この医学的資料のより全面的な検討は、WHOの要請に関する私の「反対意見」でおこなわれている。その医学的資料もまた、核兵器の独特の影響についてのこの検討の一部として扱われるべきものである。

(g) 熱と爆風

核兵器は、熱、爆風、放射線の三とおりの被害を引きおこす。WHOの代表も述べたように、最初の二つのものは、通常爆弾の爆発から生じるものと量的に異なるものであるが、三番目のものは、核兵器に特有のものである。瞬間的な放射線に加えて、放射性降下物も生まれる。

核兵器の特徴は、それが生みだす熱と爆風の大きさにかんする統計にも見ることができる。日本の代表は、広島と長崎の爆発が、摂氏数百万度の熱と数十万気圧の爆風を作り出したとの推定に注意を喚起した。核爆発のこうこうたる火球のなかの温度と風圧は、実際、太陽の中心部のそれと同じであると言えよう(290)。爆発からおよそ30分後、竜巻と大火災がおこった。これらが原因で広島では70,147戸、長崎では18,400戸の家屋が破壊された。広島市長が本法廷に提出した数字によれば、最初の衝撃波による爆風は、風速一千マイルに近いものであった。

爆風は、

「人々と残骸とを吹き飛ばし、それらは静物にぶつかり、また互いに衝突しあった。複雑骨折、裂傷、頭蓋骨や手足、内臓の破壊など、生じたと見られる負傷のリストは果てしないものであった」(291)。

(h) 先天性奇形

世代間にまたがる核兵器の影響も、他の種類の兵器と核兵器とを区別するものである。ソロモン諸島の代表団が述べたように、爆弾の悪影響は、「人類の遠い将来にまでいたる事実上、永久的なものである。しかも、それはもし人類に未来があるならばということであり、核による紛争は、それさえも疑問にする」(CR 95/32, p. 36)。それぞれの世代が遠い将来まで引き継がなければならない環境に対する被害を別にしても、放射線は、遺伝的損傷を引き起こし、広島、長崎、マーシャル諸島、太平洋の他の島々もで示されたように奇形や欠陥をもつ子孫をつくりだす(広島、長崎では、爆心付近にいた被爆者と呼ばれる人々は、このために、彼らに対して長年の社会的差別があったことを訴えている)。長崎市長は次のように述べている。

「遺伝的要因については未知の部分が多く、今後、数世代にわたって観察する必要があるといわれており、被害者の子孫は、これから何代にもわたって、不安をかかえながら生きていかねばならないのであります。」(CR 95/27, p. 43)

広島の市長は、法廷に対して、「母親の胎内で放射線を浴び、その後に生まれた子どもたちのなかには、知能の遅れと身体の欠陥を伴った小頭症に代表される症状もあらわれました」(同上、p. 29)と述べ、次のように言っている。

「これらの子どもたちには、今や健常者になる道はなく、医学的にも何ら施す術は残されていません。何の罪もない当時の胎児たちの生涯に、原爆は、消え去ることのない烙印を焼き付けたのです」(同上、p. 30)。

日本での被爆者の社会問題に含まれるものは、ひどいケロイドの生成だけでなく、子供の奇形や、被爆し、子供たちに奇形の因子を伝える欠陥のある遺伝子をもっていると考えられている者などがある。これは、被爆のはるか後に現われ、何世代にもまたがる重大な人権問題である。

マーシャル諸島のリジョン・エクニラング夫人は、法廷に対し、核兵器の大気圏実験が行なわれるまではその島では一度も見られなかった遺伝的異常について語った。彼女は、島の住民が放射線で被爆したのちにあらわれた様々な出生時の異常について、法廷で心をゆさぶるような描写をおこなった。彼女によれば、マーシャルの女性は、

「私たちがそうあってほしいと思っている子どもを産むのでなく、『もの』を、それも『タコ』とか『リンゴ』とか『カメ』、あるいは私たちが知っている他の『もの』としか言い様のないものを産むのです。この種の赤ん坊たちを表すマーシャル語の言葉はありません。なぜなら、放射線がやって来る前は、このような子どもたちが生まれたことはなかったからです。

ロンゲラップ、リキエプ、アイルクやその他のマーシャル諸島の環礁に住む女性たちは、これらの『怪物のような子ども』を産みました。……リキエプの一人の婦人の産んだ子には頭が二つありました。……アイルクには幼い女の子がいますが、彼女にはひざが無く、それぞれの足に指が三つづつあり、片腕がありません。……

ロンゲラップと周辺の島々でもっとも良く見られた出生異常は、『クラゲ状の赤ん坊』でした。これらの子どもは生まれたとき、体に骨がなく、皮膚は透きとおっています。脳や心臓が鼓動しているのが見えるのです。…多くの女性が異常妊娠で死に、死ななかったものも、紫色のぶどうの房のようなものを産みます。私たちはそれをすばやく隠し、埋めます。……

こんなに遠くまで旅行し、今日、この法廷に立った私の目的は、私たちマーシャル人が体験した被害を、世界のどの社会にも繰り返させないよう、みなさんにできることをしていただきたいとお願いするためです。」(CR 95/32 p. 30-31)

奇形児の出産の経験を持つ別の国であるバヌアツからも、本件をこの法廷に照会する件で議論した世界保健機関の総会で、同様の感動的な報告がなされた。バヌアツの代表は、妊娠9カ月で、「呼吸はしているが顔も足も腕もないもの」が産まれたことについて発言した。(292)

(i) 国境を超えた被害

ひとたび核爆発が起これば、たったひとつの局地的な爆発であってもその降下物は国境の範囲にとどまらない(293)。WHOによれば、それは、何百キロも風下に広がり、降下物からのガンマ線は、国境を超え、地上に堆積する放射能や大気からの呼吸、汚染された食物の摂取、空中に浮遊する放射能の吸入などをつうじて人体に達する。この「意見」に添えられている図表(訳注??略)は、通常爆弾と核兵器のそれぞれから被害を受ける地域を比較したWHOの研究の抜粋であるが、このことを疑問の余地なく示している。中立国の住民もさらされる危険とはこういうものである。

地下実験をおこなっている国も含め、すべての国は、地下核爆発をおこなう場合、環境汚染を防ぐために極度に入念な保護措置が必要であることで一致している。戦時における核兵器使用の場合、核兵器は必然的に大気圏あるいは地表で爆発するわけであり、このような事前の注意は明らかに、まったく不可能である。大気圏での核兵器の爆発は、そうした恐るべき被害をもたらすことが認められているため、部分的核実験禁止条約によってすでに禁止されており、全面実験禁止条約に向けて大きな前進がなされている。もし、核保有国がいま、注意深く管理された実験の条件のもとでも、地下爆発が健康や環境にたいしてそれほど恐ろしいものであり、禁止すべきものであると認めるのであれば、このことは、制御し得ない条件のもとでの地上爆発を受け入れうるものとする立場とは、まったく矛盾するものである。

放射線の国境を超える影響は、核反応の副産物を封じることができなかったため広大な地域に深刻な被害をもたらしたチェルノブイリの炉心溶融事故によっても示されている。住民の健康、農作物や酪農製品、そして数千平方マイル内の人口動態が、かつてなかったようなやりかたで影響を受けた。1995年11月30日、国連の人道問題担当事務次長は、ベラルーシでは、甲状腺ガンの罹患率が事故前の285倍にのぼっており、その多くは子供たちであること、ベラルーシ、ロシア、ウクライナでは今なおおよそ37万5千人の人々が避難先におり、しばしば住む家もないこと??この数は、ルワンダで紛争によって生まれた難民の数に等しい??、そして、あれこれの形で被害を受けた人の数は、約9百万人にのぼること、などを発表した(294)。チェルノブイリ事故から10年たったいまも、悲劇はロシアだけでなく、スウェーデンなど他の国にも影響を残している。核兵器によって被害を引き起こす意図的試みではなく、たんなる事故であり、核兵器に付随する熱や爆風による負傷を伴わなくても、こういう結果をもたらしたのである。それらは、核兵器の三つの致命的分野のひとつにすぎない放射線の被害のみをあらわしている。それらは、広島、長崎の被爆に比べてもかなり規模の小さい出来事から生じたのである。

(j) すべての文明を破壊する潜在的能力

核戦争はすべての文明を破壊する潜在的能力をもっている。こうした結果は、核保有国の兵器庫にすでに存在している兵器のほんの一部の使用によってでも引き起こされる。

元国務長官のヘンリー・キッシンジャー博士は、ヨーロッパへの戦略的保証に関連してかつてこう述べた。

「ヨーロッパの同盟国は、われわれが実際には本気になれないような、あるいはもし本気であったとしても実行に移したいなどと望むべきでない戦略的保証の強化をわれわれにせがみ続けるべきではない。なぜならば、もしわれわれがそれを執行すれば、それは文明そのものを破壊する危険をおかすことだからである」(294)。

そこで、1961年から1968年までアメリカ合衆国の国防長官であったロバート・マクナマラは、次のように書いた。

「それぞれの側が何万発もの兵器をなお使える状態でもっているのに、核戦争を、何十発あるいは何百発の核兵器の爆発の範囲に抑えることができるなどと期待することは、現実的であろうか? 答えは明らかにノーである」(296)。

兵器の貯蔵は、多分減っているのだろうが、何千とかあるいは何百とかという兵器を考える必要はない。この「意見」の冒頭で概略したような破壊のすべてを引き起こすには、数十発の兵器で十分である。

核兵器の使用に伴う危険とはこういうものであり、いかなる国と言えども、その国自体への危険がどのようなものであれ、これを冒す資格は持っていない。自分の利益を守る個人の権利は、その個人の敵に対して有する権利である。その権利の行使にあたって、彼が自分の住む村をも破壊する資格を持っているとみなすことはできない。

<i> 社会の諸制度

司法、立法、警察、医療サービス、教育、輸送、通信、郵便や電話、新聞など、秩序ある社会のすべての制度は、核攻撃があれば、その直後からすべて消え去る。国の指揮機関や高いレベルの行政機関も麻痺する。「人間の歴史のなかでこれまでに例のない規模の社会的混乱」が生まれる(297)。

<ii> 経済構造

経済的には、社会は、中世を越えて人間のもっとも原始的な過去のレベルにまで後退せねばならなくなるだろう。このシナリオを検討した、もっともよく知られている研究のひとつは、その状況を以下のように要約している。

「課題は、……もとの経済を回復することではなく、もっとはるかに原始的なレベルの新しい経済を発明することである。…… 例えば中世の経済は、現代よりははるかに生産性が低いが、それでも過度に複雑であり、20世紀経済の廃墟のなかで中世の経済の仕組みを突然つくりだすことは人々の手にあまることになろう。……宇宙時代の残骸のなかに座って、彼らは、まわりを囲んでいる粉々にされた現代の経済のかけら??ここには自動車があり、あちらには洗濯機があるといった??が彼らの基本的な必要になんら見合うものでないことに気付くだろう。……彼らは、自動車産業やエレクトロニクス産業の再建を心配することにはならない。彼らが心配するのは、森の中で放射能に汚染されていない草の実をどう見つけるかであり、食用の樹皮はどの木から取れるかといったこととなろう」(298)。

<iii> 文化遺産

この点でさらに述べておくべきことは、いくつもの時代にわたる文明の進歩をあらわす文化的遺産の破壊のことである。この面での文明保護の重要性は、1954年5月14日、ハーグ条約で、武力紛争の際の文化遺産の保護として認められ、文化遺産は特別に保護されるべきことが宣言された。人々の文化的精神的遺産を構成している歴史的建造物、芸術作品、礼拝の場などは、いかなる敵対行為の目標とされてもならない。

同条約の追加議定書?Uは、人々の文化的精神的遺産を構成する文化的財産や礼拝の場を攻撃してはならない、と規定している。これらの攻撃は、条約および議定書に定められた人道法の重大な侵害である。戦時の文化保護は、国際社会によってきわめて重要であると考えられたため、国連教育科学文化機関(UNESCO)は、「戦時における文化保護特別計画」を作成した。これまで文化的建造物が破壊された時はいつも、世論の怒号と、戦時法の侵害に対する非難がおこった。

だが、核爆弾がこうした文化遺産をしんしゃくしないものであることは明らかである(299)。それは、文化的建造物であろうとなかろうと、破壊の及ぶすべての範囲であらゆるものを焼き尽くし、破壊し尽くす。

第二次世界大戦中の多くの大都市への爆撃にもかかわらず、これらの都市の多くの文化的建造物は、戦争の破壊をまぬがれた。核戦争の場合にはそうはいかない。

すべての国で、これが極めて重要な特色であることは、この問題についての統計からも見て取ることができる。ドイツ連邦共和国だけを見ても、リストにあげられた文化的建造物の数は1986年にはおよそ100万で、そのうちケルンだけでもおよそ9000の建造物が登録されている(300)。ケルンのような都市への核攻撃は、この場合はドイツから、そして国際社会全体から、文化的継承物の相当部分を奪うものである。というのは、一発の爆弾で、9000の建造物は跡形もなく、ごく簡単に破壊されるからである。これは、第二次世界大戦中の戦時爆撃のいずれもなしえなかったような結果である。

他のすべての構造物とともに、それらはすべて、核爆弾のあとに残される放射能を帯びた瓦礫の砂漠の一部となる。もし人類の文化的継承物の保存が文明にとって何らかの価値を持つものならば、それが核兵器によって犠牲とされることが不可避であることに留意することは重要である。

(k)  電磁波

核兵器に特有のもうひとつの特徴は、電磁波である。文献によれば、これは大気圏上空の空気の粒子から電子を引き離す効果を持ち、これらの電子が地球の磁場によって引き剥がされる。それらが磁力の線に沿って舞いおりてくるとき、まったく突然に、強力なエネルギー爆発、つまり電磁波を発生させ、あらゆる電子機器を破壊する。これらのシステムはめちゃくちゃに狂うため、すべての通信網はとだえ、(重要な社会サービスのうちとりわけ)保健活動はとだえ、組織的近代生活は破綻する。核攻撃に対応するためにつくられたはずの指揮・管制システムさえ狂いかねず、こうして意図せずに核兵器が発射される新しい危険さえもつくりだす。

標準的な科学辞典、「電子百科事典」は、電磁波の影響を以下のように説明している。

「電磁波、核のパルス;大気圏での核爆発によって放射される強力な電磁エネルギーのパルス。爆発の最初の数ナノ秒のあいだに放射されるガンマ線同士の衝突によって起こされる。高度およそ400キロメートルでの平均的爆発力の核爆発によってうみ出される電磁波は、アメリカ合衆国のような広い国でも半導体電子装置やそのエネルギー伝送網の大部分を瞬時に、しかも、地上で感知できる他のなんの影響も伴わず、破壊する能力を持つ。その軍事的影響がどういうものか推測することはたやすいことである(301) 」。(書記局による翻訳)

電磁波の重要な側面は、それが猛烈な速さで伝わることであり、放射能汚染によって引き起こされる通信システムの破壊が瞬時に国境を超えて広がり、中立諸国の通信網や各種の基本的サービスを妨げることである。現代社会におけるすべてのレベルでの電子通信網の役割の大きさを考えれば、このことはそれら中立諸国に対する不当な干渉である。

電磁波のもうひとつの重要な側面は、電力と核兵器からの制御システムへの打撃である。実際、電磁波は、その影響範囲内に原子力施設があった場合、炉心溶融事故にもつながりかねない(302)。

(l) 原子炉の損傷

広大な破壊範囲と放出される膨大な熱は、爆弾そのものからの放射能に加え、その範囲にあるすべての原子力発電所から危険なまでのレベルの放射能を放出させる危険をつくりだす。ヨーロッパだけでも大陸全体を通じて200以上の原子力発電所が点在しており、その一部は人口密集地帯の近くにある。さらに、150のウラン濃縮施設がある(303)。損害を受けた原子炉は、

  「150マイルも風下の被害者たちに致死量の放射線を浴びせ、600マイル以上離れたところまで重大なレベルの放射能による環境汚染をつくりだす」(304)。

どの国であれ、世界の現在の原子炉の総数450基の一部が設置されている国に核兵器が使われれば、その後には、一連のチェルノブイリが生まれることになる。

そのような放射線の影響には、食欲減退、新たな血球の製造停止、下痢、出血、骨髄の損傷、発作、血管障害、心臓血管障害などが含まれる(305)。

(m) 食糧生産への打撃

直接の影響がその兵器が引き起こす被害のもっとも破壊的な部分をなす他の兵器と違って、核兵器は、後から襲う後遺のほうが、その直接の影響に比べてはるかに重大な被害を引き起こしうる。詳細な専門的研究である「核戦争の環境におよぼす影響」は、核戦争の間接的影響についてはなお一部に不確かなことがあるとしながら、こう述べている。

「しかしながら、確かに言えることは、地球の人類は、核戦争そのものの直接的影響よりも、とりわけ食糧生産、食糧の確保などへの影響に介在される核戦争の間接的影響にたいしてのほうが、はるかに脆弱だということである」(306)。

核の冬は、もし多数の核兵器の打ち合いによって引き起こされれば、地球のすべての食糧供給を破綻させる。

1954年、太平洋でのアメリカ合衆国の実験の後、実験後8カ月もの長さにわたって太平洋各地で捕獲された魚は汚染され、人間の消費に適さなかった。日本各地では穀物が放射能を帯びた雨に影響された。これらは、原水爆禁止日本医師の会(ママ)によって任命された医療専門家国際委員会の研究結果に含まれている(307)。さらに、

「核兵器の使用は、水や食糧、さらには大地やその上で育つ植物まで汚染する。これは、直接の核の放射線にさらされた地域だけではなく、放射性降下物の影響を受ける、事前に予想のつかないはるかに広大な地域である」(308)。

(n) 自衛から生じる複数の核爆発

もし兵器が、最初の核攻撃の後に自衛のために使われたなら、すでに最初の核攻撃の影響にもちこたえた生態系は、その上さらに報復攻撃の影響も吸収しなければならず、しかもその報復攻撃は、攻撃を受けた国が著しく荒廃し、求められる正確な量の報復力の正しい計算ができないため、一発の兵器なのかそれ以上なのかもわからなくなるのである。そのような状況では、あるかぎりの報復用兵器をすべて発射するという傾向が、いかなる現実的な情勢評価にも入り込むにちがいない。そうした状況下では、生態系は、永遠に回復不能な被害を受けることが不可避であるような、多数の同時的核爆発の圧力のもとにおかれることになる。人口が密集した主要都市が目標とされることになり、文明社会の基本構造は破壊されるだろう。

過去のもっとも残酷な征服者の何人かについては、彼らが反抗的な町を征伐した後は、そこに生命の存在を示す音もきざしも、犬の遠吠えや子猫がのどを鳴らす音さえも残さないよう町を破壊し尽くした、といわれている。もし誰であれ、国際法を学ぶものが、こうした後遺が戦争法規に反するかどうかと尋ねられれば、答えはまちがいなく、「もちろんそうだ」ということになろう。こういう質問が必要とされること自体、いささか驚くほどである。この高度発展の時代においては、核兵器はさらに進化し、気味悪い静けさにつつまれた完全な荒廃以外には後に何も残さないのである。

(o)「きのこ雲の影」

オーストラリア政府の提出文書(CR 95/22, p. 49)に指摘されているように、戦後世代のすべての者は、ときとして「きのこ雲の影」と呼ばれる恐怖の雲の下におかれ、それは人間の未来についてのあらゆる思想の中に浸透している。とくに子どもたちの考え方に運命の覆いのようにかぶさってきたこの恐怖は、それ自体が悪であり、しかも核兵器が存在する限り続くものである。若い世代は希望の風土に育つことが必要なのであって、人生のある時点で、彼らが愛したものすべてとともに、自国が加わってさえいない戦争で生命が瞬時にして吹き消されたり、健康を破壊されたりするかも知れないという絶望の中で育てられるべきではない。

* * *

この情報の主要部分は、多くがすでに国際法のもとで禁止されている大量殺戮兵器のなかでも核兵器は突出したものであり、人類が何世紀にもわたって築いてきたものや、生存維持のために依存しているすべてのものを破壊する能力において比類ないものであることを示している。

私は、ロスアラモスのマンハッタン計画に加わったイギリスチームの一員であり、1983年、WHOがおこなった核戦争の健康と保健サービスへの影響調査の報告者となり、そしてノーベル賞受賞者であるジョゼフ・ロートブラットの法廷陳述を引いてこの章を結びたい。ロートブラット教授はある国の代表団のメンバーであったが、健康を害して法廷に出席することができなくなった。以下が、彼の法廷陳述のくだりである。

「私は、イギリスとアメリカが準備した陳述書を読んだ。核兵器使用を合法とする彼らの見解は次の三つの前提に基づいている。 a) それらが必ず不必要な被害を引き起こすわけではない、 b) それらが一般市民に必ず無差別に影響を及ぼすわけではない、c) それらが必ず第三者の国家の領土に影響をあたえるわけではない。すでに述べ、また言及したWHO報告でも述べたように、いかなる道理ある想定の組み合わせに基づいても、彼らの議論はその三つのすべての点において成り立たない、というのが専門家としての私の意見である」(CR 95/32, 付属文書p. 2)。

4.核兵器の特殊性

このように事実関係を検討してきたあとでは、法理的議論はほとんど余計なものとなる。というのは、いかなる法制度も、その制度が仕える社会全体と、太古の昔からそれを支えてきた自然環境との壊滅と破壊を許す原則をその内部に包含することができないことは、ほとんど議論の余地がないからである(309)。その危険が圧倒的であるため、それに対応する法的諸原則の範囲も次々と広がってくる。

この「意見」の現在の段階では、大量破壊兵器のなかでさえも核兵器が独特のものであると考える理由を概略しておけば十分である。核兵器は、

1. 死と破壊を引き起こし、

2. ガン、白血病、ケロイドやそれらにともなう苦痛を誘発させ、

3. 胃腸、心臓血管、その他の障害を起こし、

4. 核使用のあと何十年にわたって、すでに述べたような健康問題を誘発させ、

5. 将来の世代の環境上の権利を侵害し、

6. 先天的奇形、精神遅滞、遺伝的障害を引き起こし、

7. 核の冬を起こす可能性をつくりだし、

8. 食物連鎖を汚染・破壊し、

9. 生態系を危険にさらし、

10. 致死量の熱と爆風を生み出し、

11. 放射線と放射性降下物を生み出し、

12. 破壊的な電磁波を起こし、

13. 社会の崩壊を引き起こし、

14. すべての文明を危険に陥れ、

15. 人類の生存を脅かし、

16. 文化的荒廃をもたらし、

17. 影響は何千年もの期間にわたり、

18. 地球の生きとし生けるものすべてを脅かし、

19. 将来の世代の権利を回復不能なまでに破壊し、

20. 一般市民を全滅させ、

21. 隣接諸国に被害を与え、

22. 心理的ストレスと恐怖の症候群をつくり出す。

   

これらは、他のどの兵器もなし得ないことである。

これらのどの一つをとっても、引き起こされる懸念はあまりに重大であり、人道法の諸原則をとりわけ強く引き付ける、独自の範疇に核兵器を置くに足るものである。組み合わせてみれば、それらは、諸原則の適用の主張を反論しがたいものとする。このリストは、完全とは程遠いものである。にもかかわらず、最近の研究の一節をひけば、

  「20世紀の人間にとっての希望のすべては、もし核戦争が始まれば失われてしまうということがひとたび明らかになれば、核兵器の影響についてこれ以上学んでも、意味のある知識はもはやほとんど得られない」(310)のである。

国連総会が採択した「核破局の防止に関する宣言」(1981年)の言葉は、以上の事実全体をうまく要約している。

「過去の戦争と、人々にふりかかったその他の災害のすべての恐怖も、地球上の文明を破壊する力をもった、核兵器の使用に特有な恐怖に比べれば色あせるであろう」(311)。

本法廷が直面している法的問題の検討の背景は、ここにこそ存在している。この背景にある厳しくおぞましい事実から離れれば、法的問題にたいして有効に対応することはできない。人道のすべての原則にたいしてここまで破壊的なこれらの帰結に、受け入れられている国際法の諸原則を対置してみれば、その結果はほとんど疑う余地はあるまい。このあとの議論が指摘するように、人道の諸原則は核兵器の影響によって乱暴に侵害される。この討論は、これら核兵器の影響と戦争法規の人道的諸原則とが自己矛盾をはらんでいることを示すであろう。

5.現在と1945年の科学知識の相違点

1945年7月17日、スチムソン米陸軍長官は、「子どもは無事生まれた」という暗号によってイギリスのチャーチル首相に、ニューメキシコの砂漠で実験用核爆弾の爆発が成功したことを伝えた(312)。この未知の兵器の登場が暗号であったにせよ、そのように表現された運命の日から、爆弾の影響に関して知識の世界は発展を遂げた。

確かに爆弾の威力についての知識の多くは当時も入手可能であった。しかし、核兵器の影響に関して現在使うことのできる知識の量は、指数的に大きなものである。多くの軍事研究に加え、WHOや核戦争防止国際医師の会(IPPNW)、核の冬についてのTTAPSの研究、環境問題科学委員会(SCOPE)の研究、国際科学連合評議会(ICSU)、国連軍縮研究所(UNIDIR)など、文字どおり何百もの関係諸組織によって詳細な研究がなされている。その資料の多くは、WHOやこの問題で法廷に出廷したさまざまな国によって法廷に提出され、あるいは図書館に付託されている。

1995年という背景で検討された核兵器の使用における知識と道義と適法性の問題は、こうして、1945年を背景として検討されたそれらの問題とは大きく異なるものであり、この膨大な量となった情報に照らして全面的に新しいアプローチを必要としている。この付け加わった情報は、本法廷にいま提訴されている適法性の問題に深い影響をもつものである。

その行動の結果について全面的な知識を持っておこなわれる行動は、その結果について何も知らずにおこなわれる同じ行動とは、法律上では完全に異なるものである。今日核兵器を使う国家はどの国家であれ、その結果を知らなかったなどと言っても、誰も耳を貸すものではない。核兵器使用の適法性の問題は、1996年には、この膨大な知識を背景としてのみ検討することができるのである。

6.広島と長崎は、核戦争が生き残り可能なことを示しているか?

人道法の諸規則のこれらすべての具体的諸問題のなおその上にあり、ある意味ではそれらすべてを一つの全体的な考えに融合したのが、標的となる人々、実際には人類そのものの生存可能性の問題である。生存可能性とは、一つひとつの個別の人道法の原則の基礎にある、それぞれ個々の危険の極限状況である。われわれは核戦争によってその状況に達する。核戦争は人類とすべての文明の終わりを招きかねないものであり、かくしてこれらすべての原則が合体する。

核戦争が生き残り得ないものとなる危険についての認識をあいまいにしているのは、広島と長崎の経験である。核兵器が日本で使われ、その国が回復力、復元力を発揮して戦争から立ち直った事実は、核戦争は実際、生き残り可能ではないかという誤った感覚に観察者を誘い込むかもしれない。国際法自体も、この自己満足を示してきた。なぜなら、核戦争は生き残り可能であることが証明されている、という潜在意識上の想定ともいうべきものがあるからである。

したがって、半世紀前の核攻撃の基本的なシナリオと今日の核戦争のありうべき特徴との明確な違いについて、その一部を簡潔に検討する必要がある。

以下に、相違点として留意できよう。

1. 広島と長崎で使われた爆弾は、15キロトン以上の爆発力のものではなかった。将来の核戦争に使うことのできる爆弾は、この爆発力の何倍にものぼるものである。

2. 広島と長崎は、戦争を終わらせた。その核戦争の限度は、二発の「小型の」核兵器の使用であった。次の核戦争では、もしそれが起これば、同じように制約されると想定することはできない。何発もの打ち合いが、目に見えているからである。

3. 広島と長崎では、標的となった国は核保有国ではなかった。また、その支援に駆けつけるような核保有国も存在しなかった。将来の核戦争は、もしそれが起これば、核兵器で全身武装した世界で起こることになる。それらの核兵器は陳列用ではなく、ある目的のために存在するのである。これらの兵器のごく一部であれ、実使用に移される可能性は、したがって、将来おこりうる核戦争においてはかつてなく現実的な危険であることを考えに入れるべきである。

4. 広島と長崎は、重要都市であったにせよ、日本の政治と行政の中心地ではなかった。これからの核戦争では、交戦諸国家の主要都市と首都とが目標とされる可能性が強い。

5. 複数の核兵器の打ち合いから起こる核の冬のような深刻な環境上の影響は、広島、長崎で使われた「小型」の爆弾からは生じ得なかった。

したがって、広島、長崎は核戦争の生き残りの可能性を証明するものではない。

それらは、むしろ、将来の核戦争で予期される危険を「ごく小さい規模」で示した事前警告である。核兵器の適法性の問題が、もし科学的データのみに基づき住民への影響を実際的に示すことなしに論じられたなら存在していたかもしれない疑いを、広島と長崎は一掃する。

人道法の諸規則が防止すべくつくられた一つひとつの悪は、こうして、将来の核兵器戦時使用にともなう生き残りの問題と一体のものとなるのである。

7.過去からの見通し

この「意見」の第?U章では、その実使用の周知の結果に照らし、また、今日手にし得る科学情報に照らして、核兵器の影響をきわめて概略的に調べてきた。人道法の基準と、実際、国際法の基本的諸原則にこの爆弾がなじまないことは、この「意見」の後半でさらに全面的に議論するにせよ、この証拠に照らして自明のことと思える。

次のことに留意しておくことは、この討論に将来の見通しについての視点を加えることになろう。それは、実使用の証拠が出される以前、そして、現在なら入手しうる豊かな科学的資料が存在する前でさえ、先見性ある観察者は、核爆弾の発明はまだずっと先のことであった当時でもすでに、核爆弾と、国際法をもちろん含めたあらゆる形態の社会秩序が対立することを突き止めていたということである。H・G・ウェルズは、『解放された世界』の中で、物質とエネルギーの相関関係についてのアインシュタインらの研究の結果、1913年には既に知られていた情報を基礎に、この爆弾の創造を見通した。傑出した先見性を持って彼の心を未来に馳せ、彼は1913年に次のように書いた。

「原子爆弾は、国際的な諸問題をまったくとるに足らないものと変えてしまった。……われわれは世界が破壊し尽くされる前に、これらの恐るべき爆発物の使用を止めさせる可能性を考えた。というのは、われわれにとって、これらの爆弾や、それらが先駆的に示しているより大きな破壊力が、ごく簡単に人類のあらゆる関わりと制度とを粉々にしてしまうかも知れないことは、まったく明らかなように思われたからである」(313)。

原子によって解き放たれるであろう力は、理論的には1913年には知られていた。実践での確認がなくとも、爆弾がすべての人間の関わりと制度を粉々にできることを見とおすためには、その理論的知識で十分であった。国際法は、これらの関わりと制度の中でもっともデリケートなものの一つである。

爆弾の威力は、その結果がこうして「まったく明らか」なこととみなされてから40年後に恐ろしい形で誇示され、それからさらに世界がこの問題を検討するのに50年の歳月を費やしていることを考えると、国際法のもとでの核兵器の許容性が、いまだに真剣な討論の対象となっていることは、驚くべきことのように思える。

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V 人道法

法廷に持ち出された最も主要な争点は、核兵器が人道法の基本原則に合致する点がいかなる意味においてもあるか否かということであった、といえるだろう。

人道法の原則が核兵器に適用されることについては、本審理のどの段階でも疑問が差し挟まれることはなく、法廷は満場一致でこれを承認した(パラグラフ2(D))。そればかりでなく、核兵器の使用が合法であると主張する国のほとんどが、その使用は国際人道法に従ってなされなければならないと認めているのである。

よってロシアは次のように述べている。

「もちろん、これまで述べてきたことは、核兵器の使用がまったく制限されない、ということを意味するものではない。たとえ核兵器の使用が原則として正当と認められるような場合でも??個別あるいは集団的自衛において??、その使用は、軍事行動の方法および手段に関する人道法により課せられた制約のわく内でなされなければならない。注意すべきは、核兵器に関しては、その制約は条約法における制約というよりむしろ、慣習法における制約であるということだ」(陳述文書、18ページ)

アメリカは次のように述べている。

「アメリカはこれまでずっと、武力紛争に関する国際法の種々の原則が、通常の戦争の方法および手段だけでなく、核兵器の使用にも適用されるという立場をとってきた。だがそれは決して、核兵器の使用が戦争法で除外されているという意味ではない。以下で証明するように、合法性の問題は、個々の核兵器使用に付随する特定の状況いかんによるのである」(陳述文書、21ページ)

よって、イギリスも次のように述べている。

「これはつまり、あらゆる核兵器使用の合法性を判断する基準となる、武力紛争に関する法には、慣習国際法のすべての条項(追加議定書?Tで成文化されているものを含む)が含まれるということである。また場合によっては、協定法も含まれるが、この法に新たな規則を導入した議定書?Tの諸規定は除かれる」(陳述文書46ページ、パラグラフ3.55)

このように、核兵器が人道法の諸原則に従わなければならないということは一般的に認められており、また今日では議論の余地のない国際法の原則として司法的にも確認されている。

それゆえ、人道法の主要な諸原則は依然として、すでに概観したような、核兵器がもたらすと知られている結果に対立して置かれているのである。これら諸原則と事実とを比べてみれば、両者がまったく相容れないものであることは明白であり、必然的に、核兵器と人道法は矛盾するという唯一の結論に達することになる。核兵器には疑問の余地なく人道法が適用されるのであるから、これらは議論の余地なく違法なのである。

この件に関する国際人道法の禁止規定には、過度の危害を生ぜしめる兵器、戦闘員と文民を区別しない兵器、中立国の権利を尊重しない兵器の禁止がある。

 以下で、さらに詳しく考察したい。

1.「人道の基本的考慮」

この言葉は、人道法の中心概念を言い表している。いかなる状況においても、(核兵器使用という)国家のこの行為は、人道の基本的考慮に反するのだろうか? それに答えるには、この言葉を定式化し、前述のような、核がもたらすと知られている結果を列挙するだけでよい。そこから生じる光と闇のコントラストは非常に劇的で、両者の完全な矛盾に疑いが向けられていたことに驚きを覚えるほどである。

だれでも常識的に考えれば、膨大な数の敵国住民を皆殺しにしたり、大気を汚染したり、ガンやケロイドや白血病を引き起こさせたり、これから生まれてくる多くの子どもたちに先天的障害や精神発達遅滞の要因をもたらしたり、領土を荒廃させたり、食物を人間が食べられないようなものにしたりといったようなことが、「人道の基本的考慮」とはたして合致しうるのかどうか、疑問に思うだろう。このような質問に対して確信をもって合致しうる、と答えることができないなら、核兵器が人道法に違反するか、それゆえ国際法に違反しているかどうかに関する議論はそこで終わる。

ウッドロー・ウィルソン大統領は、1917年4月2日に議会の両院合同会議での演説で次のように述べ、この概念を的確に言い表した。

「一歩一歩痛みを伴いつつ、成果はまことにわずかなものながら、……この法は築きあげられてきました。しかし少なくとも、人間の心と良心が求めるものについては、常に明確な展望をもっていました」(314)

核兵器に関しては、「人間の心と良心が求めるもの」が何であるかははっきりしている。それについて、やはりアメリカの大統領であるレーガンも述べている。「核兵器が地上のどこにも存在しなくなる日を願って、私は祈ります」(315)。本意見の別の箇所で述べるように、これは、世界中の市民に共通する感情であり、ウィルソン大統領がその成果を「まことにわずかなもの」と評したころから発展を続けてきた現代の人道法の背景となっている。

次の節では、人道法の諸原則の発展の現段階を検証したい。

2.戦争に関する人道法の多文化的背景

戦争に関する人道法の概念を大いに強める事実として、この法は最近生まれたものでもなければ、どれか一つの文化の産物でもないということに注目したい。この概念は古代に起源を持ち、少なくとも3000年に及ぶ歴史がある。また前述のように、ヒンドゥー教、仏教、中国文化、キリスト教、イスラム教、伝統的アフリカ文化など、多くの文化に根ざしている。これらどの文化においても、いかなる手段であれそれをどの程度まで敵との戦闘に使用してよいかについて、さまざまな制約が表現されてきた。現在考慮中の問題は世界全体に関わる問題であり、また、この法廷は世界的な法廷であって、国際司法裁判所規程は、裁判所の構成が、世界の主だった文化の慣習を反映したものとなるべきであると定めている(316)。法廷での考慮の際に、この重要な問題に関わる多文化の伝統を無視してはならない。そんなことをすれば、判決の説得力を高めている普遍的権威の完全性が失われてしまうだろう。この説得力は、歴史に深く根ざし、地理的に広範囲に及ぶ伝統から生じてくるのである(317)。

核兵器と特に関連するのが、大量破壊兵器の使用を禁じた、古代南アジアの伝統である。インドの二大叙事詩『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』でも、この伝統に触れている。この叙事詩は、南アジアと東南アジア全域で、この地域の生きた文化的伝統の一部として知られ、定期的に上演されているものである。この二つの叙事詩は、この原則についてきわめて具体的に言及しており、歴史的には約3000年前のある時代について述べている。

『ラーマーヤナ』(318)は、インドのアヨーディヤーの王子ラーマと、スリランカの支配者ラーヴァナとの戦いを物語った叙事詩である。この戦闘中、「武器を持たない者も含め敵の種族全体を滅ぼしてしまえる」戦争兵器が、ラーマの腹違いの兄弟、ラクシュマナの手に渡るのだが、その様子が作品の中できわめて詳細に描かれている。

ラーマはラクシュマナに、その兵器を戦争で使用してはならないと忠告する。

「なぜなら、このような大量破壊は古代の戦争法で禁じられているからだ。たとえラーヴァナが不当な目的で正義のない戦争をしているとしてもだ」(319)

 ラーマが従っているこれらの戦争法は、彼の時代においても古代のものであった。マヌ法典は、戦争が正義のものであるか否かにかかわらず、敵を欺く戦略を禁じ、また、武装していない敵や非戦闘員に対するあらゆる攻撃を禁じていた(320)。ギリシャの歴史家メガステネス(321)は、戦闘中の軍隊が、土地を耕作中の農民には、たとえ近くで激しい戦闘になったときでも危害を加えなかったという、インドの習慣に言及している。また、敵国の土地を火や伐採で荒廃させることもなかったと記している(322)。

『マハーバーラタ』は、クル族とパーンドゥ族との戦いを語った叙事詩である。この中にも、超破壊的兵器を禁じる原則に触れている箇所がある。

「アルジュナは、戦争法を遵守し、超破壊兵器『パスパサストラ』の使用を控えた。なぜなら、戦闘が通常兵器に限定されているときに、並はずれたあるいは通常でない兵器を使用することは、教義や、承認されている戦争法はもちろん、人の道にすらはずれる行為だからである」(323)

マヌ法典では、不必要な苦痛を与える兵器の使用も禁じられていた。たとえば、刺さるとなかなか抜けない、矢じりがかぎ状の矢や、矢の先を熱したり毒を塗ったりした矢などがこれにあたった(324)。

また、次にあげる申命記(旧約聖書)の一節(20章19節)には、古代ユダヤの伝統である環境に関する賢明な態度が示されている。

「長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい」(強調は筆者)

アフリカの部族間の戦争に関する最近の研究でも、武力闘争の際の人道的な伝統があり、敵に対して節度と寛容が示されていたことが明らかになっている(325)。たとえば、語り継がれている戦争の中には、特定の兵器の使用を禁じる諸規則があったものもあるし、またある地域では、開戦前・戦争中・休戦後の礼儀・協定・規則に関して高度に発展した制度があり、その中には賠償制度も含まれていた(326)。

キリスト教の慣習では、1139年の第2回ラテラノ公会議は、あまりに残酷なため戦争での使用を禁じられた兵器の、興味深い例を示している。その兵器は、いし弓と攻城兵器で、この二つは「残酷で、神が嫌悪する」(327)ものとして糾弾されたのである。(自著でこのことに言及した)ナスバウムは、「原爆の時代においては(この規定は)きっと奇妙に思えることだろう」と述べている。新しい技術が戦場にもたらす危険性が非常に早くから認識されていたことが、この例でわかる。同様に、戦争法の別の領域では、そうした兵器を何らかの形で管理下に置こうとする努力がなされていた。たとえば「神の休戦」と宣言された数日の間は、争うことは許されず、いくつかの教会区域ではその期間は水曜の日没から月曜の日の出までとされていた(328)。

12世紀に出されたグラティアヌスの教令は、キリスト教がこれらの原則を扱った最初の例の一つであり、第2回ラテラノ公会議で課された禁止は、この問題に対する関心が高まりつつあったことを示している。だが、キリスト教の哲学では、正義の戦争(jus ad bellum)の概念については、聖アウグスティヌスのような初期の著作家たちによるきわめて綿密な調査があるものの、戦争法 (jus in bello)は何世紀もの間くわしい研究の対象にならなかった。

ビトリアは騎士道時代の戦いの伝統をはじめ、この問題に関するさまざまな慣習を集めているし、アクィナスは非戦闘員の保護に関して、よく練られた原則を作り上げている。二人をはじめとする著作家たちの研究によって、この問題に関する思想の潮流は大きくなっていった。

イスラム教の伝統では、毒矢を使ったり剣や槍などの武器に毒を塗ったりすることは、戦争法で禁じられていた(329)。不必要に残酷な殺し方や身体の切断もはっきりと禁じられていた。非戦闘員、女性と子ども、僧および礼拝の場所は、明確に保護されていた。田畑や家畜は、いかに領土権を持つ者といえども、滅ぼしてはならなかった(330)。捕虜についても「アラーの神の愛のために貧者や孤児や捕虜に食べ物を与えよ」(331)というコーランの一節に従って、慈悲をもって扱うこととされていた。戦闘中の行為に関するイスラム法は非常に進んでおり、捕虜にきちんとした扱いをすることだけでなく、捕虜が収容中に遺言を残した場合、何らかの適切な経路を通じて相手側に伝えることも定めていた(332)。

仏教は完全な平和主義であることから、その伝統はイスラムのものよりさらに進んでいて、殺生をすること、苦痛を与えること、捕虜を取ること、他人の財産や領土を奪うことなどは、いかなる状況の下でも許されない。戦争は完全に違法とされているので、どんなことがあっても、破壊のための兵器は認められない。核爆弾のような兵器などは、もっとも認められざるものである。

「仏教によれば、『正義の戦争』と呼べるものなど存在しない。それは、憎しみや残酷さや暴力や虐殺を、正当化したり弁解したりするためにつくられ広められた、偽りの言葉なのだ。何が正義で何が正義でないかなど、だれに決められるだろうか。力のあるもの、勝った者が『正義』で、弱いもの、敗けた者は『不正義』とされる。自分たちの戦争は常に『正義』で、敵方の戦争は常に『不正義』だ。仏教では、このような立場を受け入れない」(333)

全人類を滅ぼせるほどの戦力の使用が許されるか否かという、人道法の問題についての勧告的意見を出すにあたり、世界の文化的伝統の主要な部分にみられる人道的な観点を無視するようなことがあれば、まったく重大な怠慢といえるだろう(334)。

もっと最近の歴史で、人道的な原則を取り入れた例は無数にある。たとえば、クリミア戦争中の1855年、セヴァストポリの包囲攻撃で硫黄の使用が提案されたが、イギリス政府はこれを許可しようとしなかった。同様に、アメリカ南北戦争中の1862年、連邦軍は砲弾に塩素を入れることを提案したが、政府はこれを退けた(335)。

まさにこのような種々の文化的背景に照らして、これらの問題は考慮されなければならないのであって、これは19世紀になってようやく生まれた気運でもなければ、普遍的な伝統への根ざし方が浅く簡単にくつがえせるものでもないのだ。

グロティウスは戦争の残虐性を懸念し、次のように嘆いている。

「ひとたび武器を手にすると、神を畏れ敬う気持ちや人間的な法は放り出される。まるで、その時点から、あらゆる犯罪を無制限におかす権限が人間に与えられたかのように」(336)

グロティウスが築いた基礎は幅広い基盤を持つもので、戦争中の行為を制限する規則には絶対的な拘束力があると強調している。グロティウスはこの基礎を確立するのに、幅広い文明・文化に蓄積された人類の経験をよりどころとしている。

グロティウスは百般にわたる文献研究から独自の原則を引き出したが、その研究にはもちろん、これらの問題に関するヒンドゥー教や仏教やイスラム教などの膨大な文献は含まれていない。つまりグロティウスは、戦争法と呼ばれる法分野の普遍性とそのきわめて古い歴史を示す、このかなりの補足資料の利は得ていないのである。

3.人道法の概要 

人道的原則は古くから、国際法全体に備わった概念の基本的蓄積の一部だった。現代の国際法は、戦争被害と積極的に関わってきた人道主義の、100年以上にわたる資産を受け継いでいる。その目指すところは、戦争中に起こりがちなことだが、人間的な思いやりを説いたあらゆる教えを破る傾向を阻止することだった。実際に成功したのはいくつかの特定の地域だが、その特定の事例すべてに生命をあたえるのは、戦争の目的の必要性をこえる人的被害を避ける、という一般原則である。

アメリカ合衆国には、ごく早い時期に率先して人道法を軍隊の手引き用の文書とした功績がある。南北戦争のさなか、リンカーン大統領はリーバー教授に命じて、グラント将軍が率いる軍への訓令を準備させた。皇帝ニコライ2世の代理として1899年の平和会議に参加したマルテンス氏は、会議でこの規則に言及し、これは合衆国の軍隊だけでなく南部連合の軍隊にも多大な恩恵をもたらしたと語った。彼はこのイニシアチブに賛辞を述べ、これが、アレクサンダー2世が召集した1874年のブリュッセル会議へと「論理的かつ自然に発展」した一つの例であると説明した。その会議が今度は1899年の平和会議につながり、さらにまた、この問題で非常に重要な意味を持つ、ハーグ条約へとつながっていったのだ(337)。

1868年のセント・ピータースブルグ宣言は、「戦争において国家が遂げんとつとむる唯一の正当なる目的は敵の兵力を弱むるに在る」と定めている。そして、この後も多くの宣言がこの原則を取り入れ、補強してきた(338)。これはまさに、多くの文明によって認められてきた古代の戦争規則を言い表したものである(339)。

マルテンス氏にちなんで名づけられたマルテンス条項は、全会一致で、陸戦の法規慣例に関する条約(1899年のハーグ第二条約および1907年のハーグ第四条約)の前文に取り入れられた。

「一層完備したる戦争法規に関する法典の制定せらるるに至る迄は、締約国は、其の採用したる条規に含まれざる場合に於ても、人民および交戦者が依然文明国の間に存立する慣習、人道の法則および公共良心の要求より生ずる国際法の原則の保護および支配の下に立つことを確認するを以て適当と認む」(強調は筆者)

マルテンス条項が考案されたのは、占領地域における抵抗運動の地位に関してハーグ平和会議参加国間に生じた意見の食い違いに対処するためだったが、今日では、この条項は人道法全般に適用されると考えられている(340)。人道法に関するいくつかの主要な条約には、この条項が何らかの形で盛り込まれている(341)。マルテンス条項は、すでに公式化されている個々の諸規則の背景には、まだ特定の規則で扱われたことのないような状況にも適用できるほどの多くの諸原則があるということを明確に示している(342)。

このことと関連して見ておきたいのが、1907年のハーグ条約第22条である。この条項は、「交戦者は、害敵手段の選択に付き、無制限の権利を有するものに非ず」と定めている。

ここでまた明らかにされているように、国際法は、人類の福利という大きな問題に対して無反応だったどころか、違反行為も含めどのような状況が起ころうとも、それに対する態度と対応を決めるうえで、人道を考慮することがとりわけ重要であると古くから認識していたのである。注目すべきは、これらの宣言が出されたのが、科学技術の影響で近代兵器の開発が急速に進められていた時代だったということである。より洗練された破壊兵器の開発に世界中の軍事関係者が取り組んでおり、当分はその状態が続くであろうことは、予測されていた。つまりこれらの原則は、当時すでに存在していた兵器だけでなく将来製造される兵器にも、すでに知られていた兵器だけでなくまだ目の前に姿を現していない兵器にも、適用されることを意図してつくられた。古い兵器だけでなく新しい兵器にも適用することを意図した一般原則なのである。

1949年のジュネーブ諸条約の締約国は、マルテンス条項が国際法の有効な一部であることをはっきり認めている。この命題を本気で否定する国際法学者はいないだろう。

マクドゥガルとフェリシアーノも次のように述べている。

「大規模な破壊を与えることによって敵国を威嚇することを合法と認めることは、暴力の行使に関するすべての法的規制を無効としてしまうに等しい」(343)

国際法は古くから、通常兵器と不必要に残虐な兵器とを区別してきた。また、この問題に対する関心を常に示し続けてきた。たとえば1980年に結ばれた特定通常兵器条約(過度に傷害を与えまたは無差別に効果を及ぼすことがあると認められる通常兵器の使用の禁止または制限に関する条約)では、三つの議定書でそれぞれ次のような兵器に対処している。人体内に入った場合に検出することができないような破片によって傷害を与える兵器(議定書?T)、地雷、ブービートラップ及び他の類似の装置(議定書?U)、焼夷弾(議定書?V)。

1899年の段階において国際法が内包する諸原則が、「ダムダム弾」あるいは炸裂性の弾丸の異常な残酷性を戦争目的を越えるものとして認識できるほど強固なものだったとするなら(344)、また、窒息性または有毒性のガスを発散する投射物をやはり異常に残酷なものとして認識できるほど強固なものだったとするなら(345)、1996年の現在、1世紀を越える歴史を持ちながら、人道法がいまだに戦争目的を越えるものとしての核兵器の残酷性への対応を立てられないほど、その原則が弱体化していることを知るに及んで、客観的に事態を見る者はいくぶん当惑せざるをえないだろう。少なくとも、一人の兵士の体内で一発の弾丸が炸裂することが、過度に残酷であるとして1899年以来国際法で許容されず、一方、10万の民間人を1秒で燃やしつくすことがそうでないというのは、非常に奇妙に思われるにちがいない。この兵器が複数回の使用で全人類と全文明を滅ぼせるということになれば、その驚きはさらに大きくなるだろう。

どの学問分野にも言えることだが、時には対象から一歩下がり、矛盾や不合理がないかを客観的に綿密に調べてみると、よい結果が得られる。はなはだしい矛盾や不合理が明らかなのに、それが不問に付されているようなら、その学問は専門的な問題にはまり込んで身動きがとれなくなっているのだと見られるおそれがある。国際法は幸いそのような状況にはないが、核兵器が違法だという結論が間違っているということになれば、話は別だ。

次の議論で明らかにするが、国際法は、こうした前例のない問題に対処できないほど、資産が不足しているわけではない。人道法は核の危険に直面した無力の塔ではない。この問題を扱うだけの十分に広範で十分に深遠で十分に強力な諸原則が、人道法には豊富にあるのである。

人道法が本法廷の判決で評価をうけてきたことはもちろんだが(たとえば、コルフ海峡事件、 I.C.J. Reports 1949, p.22; 国境地帯および国境をこえた武力行動〔ニカラグア対ホンジュラス〕、I.C.J. Reports 1988, p.114)、これまで本法廷では、深い検討をおこなう機会がなかった。この件は、そのまたとない機会である。

4.諸国家によるマルテンス条項の承認

マルテンス条項は、国際社会全体の承認を受けてきた。本意見の別の箇所で触れたように、この条項は一連の条約に取り入れられ、国際的な司法法廷で適用され、軍の教範に取り入れられ(346)、また国際法の文献の中でも、その短い表現の中に戦争法の哲学全体をまさに凝縮したものである、として広く受け入れられてきた。

クルップ裁判(1948年)では、この条項は次のように評されている。

「文明国間に確立した慣習および人道法および、公共良心の要求を法的な尺度にした総体的な条項であって、この条項を付した条約および規則の特定の規定が、戦争中あるいは戦争に付随して生じる特定の事例に該当しない場合に適用される」(347)

ライト卿によれば、この条項は数多くの戦争犯罪を特定しているハーグ条約の基調となっていて、

「今後生じてくる問題は、現在有効な戦争法の原則、さらに言えばすべての法の原則すべてを本当に短い言葉で述べたこの重要な条項の、支配的な効果にゆだねられるのである。なぜなら、あらゆる法の目的は、人間の相互関係の中で可能な限り法と正義と人道の支配を保つことだからである」(348)

こうしてマルテンス条項は、現在の慣習国際法全体に不可欠な一部として確立した。国際法は、これらの諸原則が慣習国際法に結晶したかどうかを議論するような段階を通り過ぎてから久しい。今日では、これらの諸原則のどれ一つとして拒否する国家はない。

慣習国際法規として認められているかどうかを確かめる試金石として一般に受け入れられているのは、その規則が「いかなる文明国もこれを否認することは考えられないほど広く一般に受け入れられている」かどうかということである(349)。今日ではこれらの原則のどれ一つとして否定する国家はないだろうが、議論になると思われる点は、核兵器に関する具体的な事例への適用である。どういうわけか核兵器の問題は、他の兵器には適用される規則をこえた、範囲外にあるように思われる。もし国際法が、より小規模の兵器を、これらの原則が回避しようとしている過度の損害を引き起こすおそれがあるとして規制するのであるなら、より規模の大きい兵器はなおのこと規制せねばならない。核兵器をこれらの原則の適用範囲外に置こうとするのは、人道的にばかりでなく論理的に考えても論拠が欠けている。

上記のような考察は、慣習法は核保有国の反対に優先して作成することはできない、という議論(アメリカの陳述書、p.9)(350)にも有効だ。この問題に適用される慣習法の諸原則は、核兵器が発明されるずっと以前から、核保有国からの忠誠を集めていた。この諸原則こそが、核兵器の違法性の根拠なのである。

これらの諸原則が受け入れられ、それに対して異議が唱えられていないならば、当然、核兵器に関する具体的な事例への適用にも、合理的な疑いをさしはさむ余地がないことは明白であろう。

5.「公的良心の命ずるところ」

マルテンス条項に由来するこの言葉は、人道法の核心である。マルテンス条項とその後公式化された多くの人道的原則は、人道的行動に関して公衆が強く抱いている感情を法に反映させることの必要性を認めている。

もちろん、これはかなり漠然とした表現であるから、ある特定の感情がそう公式化できるほど広く共有されているかどうかを判断するのは難しい場合もある。

だが、核兵器の使用または使用の威嚇に関しては、そのようなあいまいさは存在しない。この問題については、世界中の人々がもっとも明確な言葉で何度も発言してきたからである。それを証明しているのは、何年にもわたっておこなわれてきた国連総会の決議だけではない。ほとんどすべての国の大勢の一般市民、国際的な性格の専門組織団体(351)、その他世界中の多くの団体がくり返し、公共の良心は核兵器の不使用を求めているという彼らの確信を宣言してきた。世界中で、大統領や首相、僧侶や司教、労働者や学生、女性や子どもたちが、核兵器とその危険に対する強い反対を表明しつづけてきた。まさにこの信念が、たとえばNPTで、究極的にはすべての核兵器を廃絶しなければならないと規定されたときなどに、国際社会全体の行動の基盤となったのである。さきごろおこなわれた1995年のNPT再検討会議では、この目標が再確認されている。核実験全面禁止条約に向け現在進行中の作業でも、このことは再び確認されている。

この後の章(?Y)で、1945年に国連憲章が発布されて以来、人権法が大きく進歩してきた結果もたらされた人道的な問題に対する民衆の関心の高まりについて言及する。

この問題に関する総会決議は数多くある(352)。その中からひとつだけ引用すると、1961年の第1653号決議 (XVI) は、こう宣言している。

「核兵器・熱核兵器の使用は、国際連合の精神・文言および目的に反し、それ自体、国連憲章の直接的な違反である」

さらに具体的に国際法に言及して、同決議は、核兵器の使用は「国際法規と人道の法規に違反するものである」と断言している。さらに、国連総会は、核兵器の使用だけでなく使用の「威嚇」も禁止するとしている(353)。

核兵器は世界中の多くの地域において、条約によって禁止されてきた。海底、南極、ラテンアメリカおよびカリブ海、太平洋、アフリカ、そして言うまでもなく、宇宙空間もである。こうした全世界的な活動と参加を考えれば、核兵器が人道に関する諸原則と両立することを世界が受け入れることはまったくありえないだろう。ここで示されているのはむしろ、核兵器には現代の公共の良心をひどくかき乱す要素があることが一般的に認識されているということなのだ。

この点に関してよく言われることだが、「この急速に発展しつつある人権の時代において、とりわけ人類の文明そのものの運命にかかわる可能性のある問題を考えれば、官民を問わず社会のすべての構成員の、法に対する期待を十分考慮に入れることは、適切であるだけでなく、絶対に必要である」(354)。

わかりきったことだが、どんなに高潔な原則に関してであっても、全世界がそれについて一致した意見を持つということはない。だが、核兵器は使用すべきでないという主張ほど広く一般に受け入れられている主張を他に探すことは難しいだろう。この問題に関するさまざまな意見表明は、「核兵器および核戦争は、武力紛争に関する人道規則の裁きを免れない、という幅広い社会的合意」(355)を表現している。

あらゆる国の平均的市民に代表される、世界の公共良心に対する一連の質問の形でこれらの問題を公式化してみれば、「公的良心の命ずるところ」と核兵器の矛盾は明確になる。

これらの質問項目は多岐にわたるものになるだろうが、ここではそのうちいくつかをあげておく。

・敵国住民にガンやケロイドや白血病を大量に引き起こすことは、戦争目的からみて合法だろうか。

・敵国住民のこれから生まれてくる子どもたちに先天性異常や精神発達遅滞を引き起こすことは、戦争目的からみて合法だろうか。

・敵国住民の食糧を毒物で汚染することは、戦争目的からみて合法だろうか。

・核戦争の原因となる争いに関わりのない国々の住民に上記のような損害を与えることは、戦争目的からみて合法だろうか?

こうした質問は、さらにいくつもあげられるだろう。

世界の公共良心がこの質問のどれかひとつにでもイエスと答えられるとしたら、核兵器が合法だという論拠もあるかもしれない。しかし、そうでないなら、核兵器の合法性を否定する立場は争う余地のないものと思われる。

6.国際連合憲章および人権が人道の考慮と公的良心の命令にあたえる影響(356)

1948年の世界人権宣言にはじまった戦後の人権の分野における巨大な発展は、「人道の考慮」と「公的良心」といった概念の重要性を評価するうえで、必然的に影響をおよぼしてきた。人権という概念に対する考えは過去数世紀と比べ、その定式化と、世界中で受け入れられるようになったことの両方において大きな進歩をとげている。この進歩により「人道への考慮」と「公的良心の命令」に対する世界諸国民の観念は大いに強められ、また非常に敏感になってきた。今日、国際的に受け入れられている人権の規範と基準の膨大な構造は、第二次世界大戦の前には見られなかったかたちで全世界に共通する意識の一部となっているため、人道的基準に関する問題がもちあがるつど、即座にまた自動的に人権の諸原則が引き合いに出されるようになっている。

こうした人権の進歩的発展にそって、人道と人道の基準の現代的な概念が形成される必要がある。そうすることで、基本的に期待されるその水準を、マルテンス条項が成文化された時をはるかに上回るまで高めることになる。

人権のこの変化がいかに重大であるかをはかるには、近代的人道法が、時として「クラウゼヴィッツの世紀」と評される1世紀(19世紀)のあいだに最初の進展をとげたことを想起するとよいであろう。19世紀がこう呼ばれるのは、この世紀における戦争は、紛争を解決する自然な方法であり、外交の自然な延長線上にあると広く考えられていたことによる。今日では世界の人々の意識は当時からはるかに前進している。これは、国連憲章が自衛の場合をのぞき(51条)国家によるあらゆる武力の行使を禁止(2条4項)していることからも明らかである。当法廷は勧告的意見で、広範囲におよぶ意味をもつこれらの条項の重要性を強調しており、これらの点についてはこの意見の冒頭でふれた(「法廷意見についての序文的所見」《前号収録》を参照のこと)。国連憲章2条3項には、すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和および安全ならびに正義を 危うくしないように解決しなければならない、という堅固たる強い責務が存在している。戦争の常態と正当性について完全に改められたこの姿勢が、私たちの時代の「公的良心の命令」を疑いなく高めた。

人権に関して規定した第1条、第55条、第62条、第76条などの国連憲章の条項は、1948年の世界人権宣言、1966年の市民的および政治的権利、そして経済的、社会的および文化的権利に関する二つの国際人権規約、また人権基準を定式化した拷問等禁止条約などの数多くの特定の諸条約と結合して、今日では、世界の人々の良心の一部となっている。そして、人道的基準にたいする違反を、マルテンス条項が誕生した時期と比べ、はるかに発展した明確な概念にしている。実際、今日の人権の規範と基準は世界の人々の意識のなかに非常に深く根を下ろしており、人道法のすみずみにあふれている。

これらの点にそって、今回の法廷では、国連総会が核戦争を「最も重要な人権である生きる権利の侵害である」(357)として糾弾した際に、人権と核兵器の関係に注目していた事実に注意を喚起する内容の陳述がおこなわれた(たとえばオーストラリア、CR95/22, p.25)。

人権の発展に並行して、巨大な発展をとげているもう一つの分野に環境法がある。環境法の存在も、人権に影響をおよぼす環境問題に対する人々の良心を敏感にしてきた。国際法委員会が、国家責任を考察した結果述べたように、人間環境の維持を深刻に脅かす行為は、「今日、人類の良心に深く根づき、国際法全体において特に不可欠な原則となっている」諸原則に違反する(358)。

7.「付随的損害」は意図されたものではないという主張

副次的にもたらされる結果は直接意図されたものではなく、それは核兵器による「副産物」または「付随的損害」であるという議論は的をはずれている。このような副次的結果は、核兵器の使用がもたらす必然的な結果であることが既に知られているのである。その行為の張本人は、まともないかなる法体系においてもこのような結果を引き起こした法的責任を逃れ得ない。これは、混雑した通りを時速150キロのスピードで車を暴走させた者が、その結果生じた人の死について、特定の人間を殺す意図がなかったという理由で責任を逃れ得ないことと同じである。

核兵器がもたらす結果に関して出されている膨大な数の文献は、いまや万国共通の知識の一部となっており、この知識を否定する者は信用されないであろう。

8.違法性は特定の諸禁止規定とは独立して存在する

違法性に反対する諸国の議論の多くは、ある国家にたいし明示的に禁止されていないものは容認されるという主張にもとづいている。この主張を検討するには、いくつか実際的な例をあげてみるとわかりやすいだろう。

(a) 仮に、明日、100マイル四方にいる生物すべてを、瞬時にして灰と化す光線が発明されたとしよう。その場合、これは戦争法(jus in bello)の基本原則を犯しており、よって戦争において合法的に使用することはできない、と断言するためには、この光線を特定して禁止する国際条約が締結されるまで待たなければならないであろうか。法律がこのような兵器を違法とみなすまで、国際会議の開催、条約の起草、批准への過程に伴うあれこれの手続きすべてを待たねばならないのは、ばかげたことに思われる。

(b) 明示的に禁止されていないものは容認されるというこの議論の誤りは、この意見の中で前述した例によってもさらに明らかにされている。この主張を発展させると、細菌兵器を禁止する諸条約が締結される直前まで、敵国住民のなかに致死的な伝染病を蔓延させる非常に致死性の高い細菌を充填した弾頭の使用は、合法であったと推定することになる。この結論は事の真偽を曲解するものであり、すでに存在する人道法の諸原則を完全に無視した場合にのみ成り立つ。

どの条約や宣言も核兵器を明示的に違法と宣言していないという事実をもっても、いかなる特定兵器または特定の宣言よりもはるかに深い底流を流れている国際慣習法の諸原則にもとづいて核兵器は違法であるとする核心の点を論ばくすることはできない。その残忍性や冷酷性により国際法が禁止しているすべての兵器を一つひとつ特定する必要がないことは、拷問を一般的に禁止するにあたり、拷問手段をそれぞれ特定する必要がないことと同様である。この原則こそが 国際慣習法の主題なのである。特定の兵器や拷問の手段が問題となるのは、それが明白な原則 ??どの文明国も否定しないと一度ならず評された原則??として適用されるときのみである。

兵器技術者が、時として新しい技術を応用し、今までになかったような兵器を発明することは常にありうることである。しかし、この兵器を使用することは国際法の原則に反すると断言するためには、この新兵器を特定して非難する条約ができるまで待つ必要はない。

争う余地なく事実であるが、マルテンス条項が普遍的に認められた国際法の原則を意味するのであれば、それは、明示的な禁止規定の領域がおよばないところには人道法の一般原則の領域が存在することを意味している。つまり、「戦争のある一行為が慣習法による国際的な合意によって明確に禁止されていない場合、このことは必ずしも、この行為が実際に許容されることを意味しない」(359)のである。

どんな法体系も、特定の禁止条項の文字どおりの 言葉に依存していては、法を施行し発展させることはできない。発達した法体系というものはどれでも、特定の命令と禁止事項に加えて、いままで明示的には判決の対象となっていない行為や特定の事件に、時に応じて適用される一般原則を多数もっている。このように、一般原則は特定の状況に適用され、ここからさらにより具体的な規則が生まれるのである。

明示的に禁止されていないものは容認されるという理論にもとづいた法体系は、実に原始的な体系となろうし、国際法はこのような段階からははるかに進歩している。国内法の体系がこうした理論に基づいて機能することは可能であるとしても??実際にはそれは全く疑わしいが??、何世代にもおよぶ哲学的思考から生み出された国際法はそうはいかない。数多くの裁判所の管轄区域内で、近代法哲学は国内法体系においてこのような見解が支持され得ないことを明らかにしてきたし、国際法に関してはなおさらである。広く知られている法理学の教科書には、次のように述べられている。

「すべての法秩序の法則は、地球が空気で覆われているように、これを全体的に包む原則と理論をもっている。これらは法則の施行に影響を与えるだけでなく、時として法則の存在そのものにとって絶対に必要である」(360)

核兵器の違法性 を述べた条約があるかという問題よりも重要なことは、核兵器の合法性 を規定した条約や宣言が一つでもあるかどうかという問題である。核兵器のさまざまな側面を扱った国際的文書があまたあるなかで、核兵器の使用または使用による威嚇 が合法であると、ほんの一言でも示した文書はひとつもない。これとは対照的に、核兵器の合法性や使用への反対をはっきりと表明した国際宣言は数多い。これらの宣言はこの反対意見の随所で言及されている。

法の一般原則は、“法が発展するための養分”と“社会の道徳観のよりどころ”という2つの側面を提供している。これらの一般原則が、論争されているようなやり方で放棄されるのなら、国際法はその概念の精神的なよりどころからはずれて漂流してしまうであろう。「文明諸国により認められた法の一般原則」は法であり続ける。それは、核兵器による 無差別大量虐殺、核兵器により 将来の世代が受ける取り返しのつかない被害、核兵器による 環境破壊、核兵器により 中立国が被る回復不可能な損害が、国際条約により明示的に禁止されていなくともである。上の文章から斜体部分が削除されたなら、上に挙げたこれらの行為が国際法によって禁止されていることはだれも否定できないだろう。兵器が特定されていないことにより禁止の原則が無効になると主張することは、見かけ倒しの意味のない議論である。

主権国は、いかなる法規によっても明文的に禁止されていないことは何をするのも自由とする説は、はるか以前に論破された理論である。法の原則におけるこのような極端な実証主義は、人類を何度か最悪の残虐行為へと導いてきた。力とは、原則に拘束されない限り乱用されるものであることを歴史は証明している。古典法の公式化はそれとして有用性をもつ。しかし、それらが法の全体を意味しないことは、想像するまでもなく理解できるであろう。

とくに戦争法規に関していえば、このような理論はまた、次のように明確に述べているマルテンス条項を無視することになる。「一層完備したる戦争法規に関する法典の制定せらるるに至る迄は、締約国は、……其の採用したる条規に含まれざる場合においても、……人道の原則が適用されることを認む」。(強調は筆者)

したがって、明確な合意により、もしそれが本当に必要な場合は、条約による特定条項がつくられていないこの問題については、慣習国際法に含まれる広範な人道法の原則が適用されるであろう。

9.「ロチュス号」事件の判決

特定しての違法性の規定が欠如しているという点にもとづく議論は、「ロチュス号」事件の判決をよりどころとしている。このケースで常設国際司法裁判所は次の点について審理をおこなった。

「当法廷に示された状況において、トルコによるドモン中尉の刑事訴追を禁ずることになったであろう原則が、国際法のもとでは存在するか否か」(P.C.I.J.,Series A, No. 10, p.21)

そして、このような原則あるいは明確に同意が得られている特定の法が欠如しているもとでは、国家の権能を制限することはできないと判決した。

しかし実際には、「ロチュス号」事件のような条件のもとでもこれらの原則を適用することは可能である。なぜなら、戦時法規との関連においては、戦時法規の人道的原則が適用されるべきであることを核保有国が明確に受け入れているからである。核保有国以外に、当法廷において違法性の事実認定に反対した国(または今回の要請に関して、明確な立場をとらなかった国)、たとえば、ドイツ、オランダ、イタリア、日本も、ハーグ陸戦慣例条約の締約国である。

「ロチュス号」事件の判決は、平和時にフランス旗国船ロチュス号とトルコ旗国船が公海で衝突した事故に対して下されたものである。この事故で、トルコ人船員と船客8人が死亡し、責任者であったフランス人将校が、殺人のかどでトルコの法廷において審理されることになった。この事故の状況は、戦時における人道法が適用されるような状況とは大きく違っていた。戦時人道法は「ロチュス号」事件の判決が下された時代にはすでに十分に確立された概念ではあったが、この事件には関連がなかったのである。現在のような全く違う状況のもとで、「ロチュス号」事件に下された法的見解が、その時代までにうちたてられてきた戦時における人道法のすべてを否定する試みに使われようとは、この事件に判決を下した裁判官は思いもしなかったであろう。なぜなら今、「ロチュス号」事件にあたえられようとしている解釈は、人道的原則は「其の採用したる条規に含まれざる場合においても」適用されることを明確に規定したマルテンス条項のような、確立した原則を蹂躙するものにほかならないからである。

さらに、当時の国際法は一般的に、平時の法と戦争法を別々の範ちゅうにして扱っていた。これは、当時の法律書の体系において明確に受け入れられていた区別である。「ロチュス号」判決が述べた原則は、完全に平和法の文脈の上で定式化されたものである。

他国の主権を尊重すべきことは、「ロチュス号」判決に必然的に含まれていた点である。核兵器の特徴のひとつは、自国の基本的主権への侵害という、核兵器使用が潜在的に有する点に、まったく合意していない諸国の主権を侵害することである。「ロチュス号」判決を、国家は自国の行動を制限する条約で拘束されない限り何をやってもよいという趣旨の、平時でも戦時でも同じように適用される理論を定式化したものであると解釈するなら、それは完全に事の文脈を外している。「ロチュス号」事件をこのように解釈すれば、国際法の進歩的発展に有害な束縛をかけることになろう。

また、常設裁判所は「ロチュス号」事件の4年前、チュニジアおよびモロッコの国籍法問題(勧告的意見、P.C.I.J., Series B, No.4、1923年)で国家主権の問題を扱った際、国際法の発展に比例して国家の主権は減少かつ制限されると述べたことにも注目しておこう。(pp.121-125, p.127, p.130) ならば、「ロチュス号」事件から半世紀たった今日、国際法??そして戦時における人道的行為にかんする法??が相当な発展をとげ、「ロチュス号」事件当時よりも国家主権にさらなる制限が課せられていることは全く明らかである。当法廷が自ら扱ったコルフ海峡事件 の判決は、国際慣習法は国の行為により他国を侵害しない義務をすべての国家に課しており、この義務は、訴訟国の権利を侵した特定の行為を明文的に禁止する規定がなくとも課せられるべきものとしている。1996年のいま、本裁判所は、「ロチュス号」事件について、マルテンス条項の時代以前にまで逆戻りさせるような狭い解釈をすることはできない。

10.戦争に関する人道法の特定法規

国際人道法の骨組みは、いくつかの組み合わさった原則により構成されている。核兵器の使用または使用による威嚇に違法性を言い渡すうえで、人道法の法規は不十分どころか、明らかに個別的にも集合的にも豊富な規則を示している。

戦争に関する人道法の原則は、明確に強制法規 (jus cogens?訳注:法の中において、必ずそれに従わなければならず、それに反した場合は、その行為は無効となり、また、法的責任を生ずる法規のこと)の地位を獲得している。なぜなら、これらは人道的性質をもつ基本的規則であって、この規則を破ることは、必然的に人道法の規則が保護を目的としている人道への基本的考慮を否定することになるからである。ロベルト・アゴーの言葉を借りれば、この強制法規には次の基本原則が含まれる。

「平和の保護に関する基本原則、特に、武力または武力による威嚇にうったえることを禁ずる原則;人道的性質の基本原則(ジェノサイド、奴隷、人種差別の禁止、平時および戦時における人間にとって欠くことのできない権利の保護);国家の独立および主権平等のいかなる侵害をも禁ずる原則;すべての国際社会の構成員に対しある一定の共通資源(公海、宇宙など)の享受を保障する原則」(361)

現在考慮されている問題は、核兵器を明確に名指しし、決定的な用語を使って禁止する規定が存在するか否かにあるのではなく、核兵器によって侵害される強制法規の性格をもつ基本原則が存在するか、ということである。このような強制法規の性格をもつ原則が存在するなら、核兵器そのものが強制法規の概念のもとに禁止されることになるだろう。

第?V章のはじめで述べたように、核兵器の使用は合法であるという見解を支持した国のほとんどは、国際人道法が核兵器の使用に適用されることを認めており、また核兵器の使用は国際法の原則に従ったものでなければならないことも認めている。この点に関連する重要度の高い国際法の原則として、次のものがあげられる。

(a) 不必要な苦痛をあたえることの禁止

(b) 均衡性の原則

(c) 戦闘員と非戦闘員を区別する原則

(d) 非交戦国の領土主権を尊重する義務

(e) ジェノサイドおよび人道にたいする犯罪の禁止

(f) 環境に永続的かつ深刻な被害を与えることの禁止

(g) 人権法

(a) 不必要な苦痛をあたえることの禁止

マルテンス条項についてはすでに述べたが、これは、「人道法および公的良心の命ずるところ」とあいいれない兵器が許されないものであることを明確に述べたことにより、近代法における上記の禁止原則に古典的な定式をあたえた。

残虐および不必要な苦痛をあたえる害敵手段の禁止は、長い間、人道法の一般原則の一部を形成しており、法の、堅固で実体的な主要部分を構成するものとして、膨大な数の法典、宣言、条約に組み込まれてきた。そして、それぞれの文書において、特定の状況あるいは複数の状況に対しこの一般原則が適用されている(362)。これらの文書は、取り扱われている特定の状況をこえて適用される一般原則が存在していることを表している。

 

さらに、不必要な苦痛をあたえることを禁ずる原則は、軍の行動規範にも組み込まれている。1916年にイギリスの陸軍省が発行し、第一次世界大戦で使用された「軍事法規手引」は次のような規定をおこなっている。

「?W 戦争遂行手段」

39. 戦争の第一原則は、敵の抵抗能力を弱め、破壊することである。しかし、敵に傷害をあたえるために使用されることが許される手段は無制限ではない(注釈で、ハーグ陸戦条約22条、「交戦者ハ、害敵手段ノ選択ニ付、無制限ノ権利ヲ有スルモノニ非ス」を引用している)。この手段は実際に、国際協定および宣言、また戦争行為における慣習法により明確に制限されている。さらに、道徳、文明、騎士道的精神の求めるところが存在し、これに従って行動せねばならない。……

42. 不必要な苦痛を与えることが意図された兵器、投射物あるいは物質の使用は、明確に禁止されている(ハーグ陸戦条約23条[ホ])。当条項は、先を有刺状にした槍、変形させた弾丸、ガラスの破片またはその類似物を詰めた投射物などを含む。また弾丸の表面に刻みを入れたり、先端をやすりで削ったり、炎症または負傷をおわせる可能性のある物質をそれらの表面に塗布することも含む。しかし、当禁止条項は、地雷、航空魚雷または手榴弾の中に含まれる爆発物の使用に適用されるものではない。(pp.242-243)

イギリス軍が使用したこの手引きは、戦闘行為における人道的原則が現在のように十分に定着するはるか以前の第一次世界大戦で使われたものである(363)。

すでに1862年の時点で、フランツ・リーバーは、軍事的必要性でさえ法および戦争の慣習に従ったものでなければならないという立場を認め、これを軍の訓令に組み入れている(364)。「近代米国陸軍省実戦手引」はハーグ陸戦法規に厳格に準拠しており、軍事的必要性を、明確に「戦時における慣習法および条約法」に従属するとしている(365)。

この意見の第?U章で述べた事実は、核兵器が戦争の目的をはるかにこえる不必要な苦痛をもたらすことを十二分に立証している。

この「不必要な苦痛」禁止の原則に関する議論として出されたのは、1907年のハーグ陸戦法規第23条(ホ)で、「不必要の苦痛を与ふべき (訳注:条約英文はcalculated:「〜が意図された」という意味)兵器、投射物その他の物質を使用すること」(強調は筆者)が禁止されているという点である。しかし、核兵器は、苦痛をもたらすことを意図して おらず、苦痛はむしろ、核兵器の爆発に「付随しておこる副作用」の一部であるという議論がある。この主張は、広く知られる法律上の原則に抵触する。つまり、ある行為をおこなう者は、その行為がもたらす必然かつ予測可能な結果を意図していた はずであると理解されねばならないという原則である(第?V章の7参照)。さらに、この議論は、この条項の精神と基礎をなしている原理を考慮に入れない文字どおりの解釈であり、とりわけ、人道に関する法律文書を構成するには不適当な解釈方法である。また、核兵器の配備は事実、「放射線および降下物の破壊的影響を利用することも一部目的として」いることもつけ加えてよいであろう(366)。

(b) 区別の原則

目標を区別するという原則の起源は、戦争兵器は、軍事目標と文民を一様に扱って無差別に使用されてはならないという考えにある。非戦闘員は、戦時法により保護される必要があったのである。しかし、核兵器という兵器は、その固有の性質の中に無差別性が組み込まれている。都市をまるごと壊滅させ、一発で、何千発もの爆弾と同様の破壊を生じさせる兵器とは、目標を区別できる兵器ではない。広大な範囲に放たれる放射線は、戦闘員・非戦闘員を区別せず、また交戦国と中立国も区別しない。

戦争犠牲者保護に関する1949年のジュネーブ諸条約に対する、1977年の追加議定書の第48条は「基本原則」として、広く受け入れられている人道法の「基本原則」をくり返している。

「紛争当事国は、文民たる住民および民用物に対する尊重および保護のため、常に、文民たる住民と戦闘員とを、また、民用物と軍事目標とを識別することができるようにする。紛争当事国の軍事行動は、軍事目標のみを対象とする」(強調は筆者)

文民と軍人を区別する原則は、戦争法のその他の原則と同じく古典的原則であり、多くの文化により共有されてきた。古代インドの慣習は前に述べた通りである。これは、インドの農民たちは、戦争は戦闘員の問題であるとする伝統が自分たちを保護することを確信していたため、侵略軍が近くを通っても農作業を続けた、というものである(367)。この筋書きは牧歌的で、戦争の残虐性とはかけはなれているように見えるかもしれないが、区別の原則という人道の基本原則が、いままで存在していなかった新しい基準を目標としたものではないことを想起するうえで有用である。

武力紛争における文民の保護は、長きにわたって十分に確立された国際人道法の規則である。ジュネーブ条約(1949年)への追加議定書?Tは、第51条5(b)により、次の攻撃を無差別とみなすとしている。

「予期される具体的かつ直接的な軍事的利益との比較において、過度に、巻き添えによる文民の死亡、文民の傷害、民用物の損傷又はこれらの複合した事態を引き起こすことが予測される攻撃」

同様に、第57条2(b)は、次の場合の攻撃を禁じている。

「具体的かつ直接的な軍事的利益との比較において、過度に、巻き添えによる文民の死亡、文民の傷害、民用物の損傷又はこれらの複合した事態を引き起こすことが予測される」とき。

国際法学会が1969年にエジンバラ会議で採択した決議は、この規定の多くの側面を、その当時存在していた法 により禁止されているものとして言及している(368)。存在する法 により禁止される行為として次のようなものがあげられている。

・「軍隊と文民、または軍事目標と非軍事目標を区別しえないまま、いかなる動機や手段によるものであれ、ある集団や地域や市街地の中心を全滅させるようなすべての攻撃」(369)

・「文民を脅迫することを計画したあらゆる行為」(パラグラフ6)

・「その本質として、軍事目標と非軍事目標の両方、または軍隊と文民を区別することなく影響を及ぼすあらゆる武器の使用。とりわけ、その膨大な破壊的効果から、目標を軍事目標に制限することができない、あるいは統制が不可能な兵器……また『見境のない』兵器の使用を禁止している」(パラグラフ7)

(c) 非交戦国の尊重

核兵器が使用されれば、第三者の紛争当事国でない国々が回復不能な損害を被るのが必然的および予測可能な結果であることは、核兵器が許されるかどうかを決定する際に考慮しなければならない点である。取り返しのつかない損害をうける可能性をもつのは一国の非交戦国だけではなく、地球上のすべての国々なのである。放射線は封じ込めることができず、地球規模で広がる。もっとも強力な通常兵器と比較して核兵器が破壊する広大な地域は、この意見に付録としてつけたWHOの研究より引用した図表に示されている(訳注?略)。風の流れが放射線の影響を拡散すると、TTAPSその他の研究によっても明らかなように、片方の半球における核兵器の爆発は、その有害な影響をもう一方の半球にまで広げるのである。地球のどの地域も、つまりどの国もこの影響から逃れることはできない。

「意図の欠如」を主張する見解は、この文脈においても出されている。この見解によれば、ある一敵国に向けた行為は、第三国への損害を意図しておらず、また実際そうなった場合は無過失行為となる、というのである。この見解に関しては、この反対意見の中で前述した際に、そのような主張は支持しえないものであることを指摘した(第?V章の7参照)。核兵器の発射は計画的な行為である。中立国にあたえる損害は、当然かつ予測可能かつ不可避的にもたらされる結果である。国際法は、普遍的法理の基本原則にこれほどまで対立するような責任の免除規定(non-responsibility)を包含することはできない。

(d) ジェノサイドの禁止(370)

私の見解では、当裁判所がおこなった、核兵器のジェノサイドとの関連づけは不適当である(勧告的意見パラグラフ26)。

核攻撃への反撃、とりわけ、全面的な核兵器による反撃の際に使用される核兵器は、第?W章以降で描くように、全面的な核兵器の応酬を誘発し、ジェノサイドを引き起こす可能性が高い。日本に使用されたような「小型」核兵器一発といえども、その兵器がもたらした既知の死者数から判断すれば、ジェノサイドの武器となりうる。標的が都市であれば、一発の爆弾の死者は100万を越える可能性がある。反撃する報復兵器の数がもっと多ければ、WHOによる核戦争の影響の推定によると、攻撃国とその他の国々において10億もの人間が死亡する可能性がある。これは明白にジェノサイドであり、いかなる状況のもとでも合法行為ではない。

核兵器を使う時、使う側は、それが全人口を消し去るほどの規模で死者を出す効果を有することを認識しているはずである。ジェノサイドとは、ジェノサイド条約(第2条)に定義されているように、国民的、民族的、人種的または宗教的な集団をそれ自体として全体あるいは一部を破壊する意図をもっておこなわれる行為のことである。この定義に含まれる行為には、その集団の構成員を殺すこと、集団の構成員に重大な肉体的または精神的な危害を加えること、集団全部または一部に身体的破壊をもたらすよう意図された生活条件を、故意にその集団に課すことなどがある。

ジェノサイド条約のジェノサイドの定義に関する議論では、条約文の「as such(それ自体として)」という用語がことさら強調されている。この議論で出されている論点は、ジェノサイドには特定の国民的、民族的、人種的または宗教的集団をそのような集団(qua such group)として標的にする意図が存在していなければならず、何か他の行為に付随した行為はそれに当たらないという点である。数十万から数百万におよぶ人口をまとめて消し去る核兵器の能力を考えれば、核兵器は、その兵器が向けられた国の国民集団の全体あるいは一部を標的としていることは疑う余地がない。

ニュルンベルク裁判は、一般市民の全部または一部を皆殺しにすることは、人道に対する犯罪であるとの判決を下している。核兵器が成し遂げることはまさにそれである。 

(e) 環境に被害を与えることの禁止

環境は、すべての国連加盟国の共通の生息の場であり、ある一国または数カ国の加盟国がこれを破壊し、他のすべての加盟国に不利益を与えることがあってはならない。環境保護の諸原則は「人類の良心に非常に深く根づいているがため、この原則は一般国際法においてとりわけ重要な規則となっている」ことについては、公的良心との関係においてすでに言及した(第3部6前半)(371)。 実際、国際法委員会は、大規模な大気または海洋の汚染を国際的犯罪として扱っている(372)。これらの点についてはすでに言及した通りである。

環境法に包まれる諸原則の中には、核兵器により侵害されるものが多くある。世代間の衡平の原則および共通の遺産の原則については前述した。その他の諸原則としては、予防措置の原則、地球資源信託の原則、安全措置をとる責任は行為を告訴された側に帰する原則、環境に損害をあたえた者に被害者に対する適切な賠償支払い責任を課す「汚染者負担の原則」がある(373)。今回の勧告意見要請により本法廷は、これらの諸原則を認識し、結論を出す上で利用することができる。最近では「生態学的安全保障の原則」と呼ばれるものを成文化する法的試みがなされている。これは、自滅の脅威から人類の文明を保護する必要性が強調されて生じてきた、環境法の規範づくりおよび法典化の過程のことである。

ある著者(374)によると、このような原則は11ある。そのひとつは「生態系の侵害の禁止」の原則であり、その根拠として特に、1978年10月5日発効の1977年環境改変技術敵対的使用禁止条約(1108UNTS, p.151)、および、国連総会決議の「現在および将来世代のための自然保護に対する国家の歴史的責任」(国連総会決議35/8、1980年10月30日 )を挙げている。

さらにこの著者は、「ソビエト(現在はロシア)の法律上の原則では、意図的および環境の敵対的な改変、すなわちエコサイド(訳注?環境汚染などによる生態系破壊)は違法であり、国際的犯罪とみなされる」と述べている(375)。

また別の著者は、地球規模の環境危機に各国が調整をとりながら集団的対応をとる必要性とその実現の難しさについて述べ、こう論じている。

「しかし、状況はまさにこのような対応を余儀なくしている。地球の保護を組織作りの新たな原則にできなければ、私たちの文明の生存そのものが不確かなものとなる」(376)

これこそ、今日の環境法の背景にある推進力である、つまり、これからは、新たな組織を作る際には、地球を守るということを原則にしなければ、われわれの文明が脅かされるのである。

調整された集団的対応を実現するためにすでにある手段の一つが国際法であり、文明、さらには人類の生存を確実にするためのこれらの基本原則がすでに国際法の中で不可分の一部となっていることを疑問視するべきではない。

前出したもう一つの傑出した研究においても、この件は別の見地から論じられている。

「人類という種の自滅など、誰が見ても正気な行為でも賢明な行為でもない。しかし、それはわれわれが自覚せぬまま、ある一定の状況のもとに計画している行為でなのある。狂気にかられていれば別だが、種の自滅を完全に意図した行為はあり得ない。国家防衛とか、自由を守るためとか、社会主義を守るためとか、その人がたまたま信じるに至ったなにかを守るためといった、われわれが意図してとった行為による意図せざる『副作用』の結果としてしか種の自滅は起こり得ない。しかし、不注意で自滅するかもしれない危険の重大さも意味もわれわれは認識しえていないということは、不注意で自滅してしまうための一つの必要条件を満たしているということなのである。自分のやっていることがわかっていないからこそ、自滅行為がとれるのである。われわれがこの危険の全容を認識し、核兵器を一発でも使えば全人類の生命の存続が危険にさらされるホロコーストを誘発しかねないことを、明確かつ無条件に認めた時、絶滅は『考えられない』だけでなく、為し得ないこととなる」(377)

したがって、環境法のこれらの原則は、条約条項にかかわらず効力を有する。これらの原則は国際慣習法の一部であり、人間の生存にとって必要条件の一部なのである。

国際舞台において、これらの環境法の原則が国際慣習法の不可分の要素であることを事実上認めているケースを見つけるのは難しいことではない。例をあげれば、安全保障理事会の1991年の第687号決議は、クウェートへの不法な侵攻の結果生じた「環境破壊に対するイラクの責任」に言及している。イラクは1977年の環境改変技術禁止条約、その1977年の付随議定書、さらには環境改変技術に関して明示的に取り扱った他のいかなる具体的条約にも加盟していないのであるから、イラクの責任は条約のもとで生じたものではない。安保理がかくも明瞭なことばで言及したイラクの責任は、明らかに国際慣習法より生じた責任であった(378)。

また、これらの原則は平時または戦時のどちらかに限って適用されるものではなく、一般的義務から発したものであるゆえに、平時、戦時を問わずどちらの状況においても適用される(379)。

この点に関する基本的原則は、1977年ジュネーブ諸条約追加議定書?T第35条(3)にこう明確に述べられている。

「自然環境に対して広範な、長期的かつ深刻な損害を与えることを目的とするまたは与えることが予想される戦闘の方法および手段を用いること」

第55条は、以下を禁止している。

「自然環境に対してそのような損害を与え、住民の健康もしくは生存を害することを目的とするまたは害することが予想される戦闘の方法または手段の使用」

問題は、これらの規定が核兵器への適用を意図していたものであったかということではない。これらの規定を議論の余地のない慣習国際法の原則を述べているものとして読めば十分である。これら一般的原則は、核兵器を包むには十分明示的ではないとか、核兵器はあえて言及されないようにしてあるのであるから範囲に含まれていないとか、これらの条項は核兵器を包む意図をもってつくられたものではないという明確な理解が存在した、とさえする意見がある。しかしこうした意見により、環境破壊力のより小さい兵器を禁止する一方で、条約が本来予防しようとする破壊をひき起こすはるかに強力な兵器に手をつけない不条理さが浮き彫りになる。

慣習国際法の下で一般的義務が存在するならば、様々な環境保護協定が、核兵器がもたらす被害に具体的に言及していなくても問題とならないことは明らかである。同様の原則は、溶鉱炉からのガスや煙の噴出や、原子炉からの漏出、爆発性兵器といった問題を扱う際にもあてはまる。環境条約が石炭を燃やす炉や原子炉に特に言及していないというだけで、こうした炉は明白かつ十分に確立された条約の規準や原則の対象外になるという結論を導き出すことはできない。

本法廷が審理したこの件に環境法を適用するにあたってのもう一つのアプローチは、国連憲章のなかに陰に陽に書き込まれている善隣主義の原則にある。この原則は、近代国際法の基礎の一つであり、この原則の下、主権国家は栄光の孤立の中で自国の利益を追求しうるという原則が消滅したのである。各主権国家が同じ地球環境に依存する世界秩序は、協同と善隣主義がなければ機能しえない相互依存関係を生み出す。

国連憲章は、この原則を「世界の他の地域の利益および福祉に妥当な考慮を払った上で、社会的、経済的および商業的事項に関して善隣主義の一般原則に基かせなければならない」(第74条)と明快に述べている。地球環境を破壊しかねない行為が進行すれば、環境を破壊するだけではなく、環境ぬきには存在しえない社会的、経済的、商業的利益も打撃をうける。憲章がこのような善隣主義の一般的義務を明確に認識しているということは、この義務は国際法の必須の一要素になっているということである。

本法廷は創設以来、各国家は「他国の権利を侵害する行為に、知りながらにして自国領土の使用を許可」しない義務があると明快に述べ、この原則を支持している。(コルフ海峡事件、I.C.J.Reports 1949,p.22.)

環境に関する国家の責任の問題は、WHOによる要請に対する私の個別の反対意見でより具体的に扱われている。これは、この個別的意見における環境への考察にたいする議論を補足するものとみなされなければならない。その中で指摘したように、核兵器による環境破壊は国家義務の不履行であり、これは、核兵器の使用または使用の威嚇の違法性にもう一つの側面を付け加えるものである。

(f) 人権法(380)

この意見の第?V章では戦後の人権の発展が「人道の考慮」と「公的良心」にいかに影響をあたえてきたかを扱っている。

世界人権宣言において述べられている権利にもっと具体的に焦点をしぼってみると、尊厳の権利(前文および第1条)、生命の権利、身体の安全に関する権利(第3条)、医療を受ける権利(第25条1)、婚姻し、家族をつくる権利(第16条1)、母および子が保護を受ける権利(第25条2)、文化的生活の権利(第27条1)を、核兵器により危機にさらされる基本的人権と特定することができる。

ある一定の権利はいかなる状況においても損なわれてはないことは、確立された人権法の原則の一部である。生命に対する権利はそのひとつであり、制限することのできない、人権の中枢をなす権利の一つである。

世界人権宣言はその前文において、人類社会すべての構成員の固有の尊厳を承認することは、世界における自由、正義および平和の基礎を構成すると述べている。第1条はこれに付け加え、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利において平等である」と具体的に言明している。第6条は、すべての者が、いかなる場所においても、法の前に人として認められる権利を有することを述べている。市民的および政治的権利に関する国際人権規約は、この権利をより明示的にうちだし、この権利を法により積極的に保護する義務を国家に課している。第6条1項は、「すべての人間は、生命に対する固有の権利を有する。この権利は、法律によって保護される」と述べている。本規約の加盟国は、文字どおりに規約の条項を実行する責任を負っている。

人権および基本的自由の保護のための条約(欧州人権保護条約)/(1950年、第2条)と米州人権条約(1969年、第4条)も同様に、生命に対する権利を認めている。これは、損なうことのできない権利のひとつであり、制限することのできない人権の中核の中の不可分の要素である。

生命に対する権利は絶対的権利ではなく、武力紛争において生命を奪うことは、この原則の必然的な例外であるという主張がある。しかし、WHOが本法廷に対して述べたように、ひとつの兵器が100万から10億人もの人を殺す能力を有する場合、人間の生命は、どのような文化的基準に照らしても尊厳の完全な否定だといえるほど、無価値なものにまでおとしめられるのである。国家によるこのような故意的行為は、いかなる状況においても基本的な人間の尊厳を尊重することと矛盾する。尊厳の尊重は世界平和の基礎であり、国連加盟国はこの権利を尊重する責務を負っている。

これは単に世界人権宣言をはじめとする人権に関する法律文書の規定に限られた権利ではない。国連憲章の前文そのものに正式に記されている根本的な憲章法(Charter law)なのである。なぜなら、国連の目的のひとつは、「基本的人権と人間の尊厳および価値 を、あらためて確認」することだからである(強調は筆者)。人間の人間に対する長い非人道的歴史において発明された兵器のなかで、核兵器ほど人間の尊厳と価値を否定する兵器はない。

国連人権委員会の、「生命に対する権利と核兵器」(381)と題した一般的見解にも言及する必要があろう。この見解は、生命に対する権利はとりわけ核兵器と直接の関連をもつ、とした総会の意見を支持している(382)。核兵器は、生命および生きる権利にたいする最大の脅威のひとつであるとし、核兵器と国際法の葛藤についての見解の中で、核兵器の使用は人道に対する犯罪とみなすべきであると主張している。

これらすべての人権はひとつの中心的権利、すなわちルネ・カシンが「人間の存在する権利」(CR 95/32, p.64, および注20参照)と述べた権利から生まれている。これは、世界が戦後に労をおしまずつくりあげた、精緻な人権体系の基盤である。

どんな状況のもとであれ、100万の命を一瞬にして奪い去る兵器の使用が合法であるなどという主張を支持することになれば、法学における今世紀最大の成果のひとつであるこの精緻な体系を根底からくずすことになろう。国際法が核兵器使用の権利を国家にあたえるなら、法において知られる概念のなかで最も高潔で最も本質的な概念のうえに建てられているこの体系を理論的に維持することは不可能となる。この体系は消滅するであろう。

11.法理学上の見解

法理学上の見解の多くが、核兵器は現存する人道法の原則を侵害する、という見解をとっているといえる。法理学上の見解は国際法の重要な法源であり、この個別意見の中ですべての典拠を引用することは、紙面の都合上できない。当面の目的を十分にはたすにあたってこの意見の前半でふれた決議に言及しておく。この決議とは、核兵器に関する法理学上の著作が現在のように活発には出されておらず、むしろかなり少なかった時期に、国際法学会が1969年にエジンバラ会議で採択したものである。

前述したとおり(第?V章10(b)前半)、学会の見解は、現存する国際法は、とりわけ「その膨大な破壊的効果から、目標を軍事目標に制限することができない、あるいは統制が不可能な兵器……また『見境のない』兵器の使用を禁止」するとしている(383)。賛成60票、反対1、棄権2であった。この見解に賛成票を投じた者を何人か挙げてみると、シャルル・ドゥ・ヴィシェ、マックネーア卿、ロベルト・アゴー、 スザンヌ・バスティード、エリック・カストレン、ジェラルド・フィッツモーリス、ウィルフレッド・ジェンクス、ロバート・ジェニングス、シャルル・ルソー、グリゴリー・トゥンキン、ハンフリー・ウォルドック、ホセ・マリア・ルーダ、オスカール・シャヒター、田中耕太郎など、当時のそうそうたる国際法専門家がそろっている。

12.1925年ジュネーブ毒ガス禁止議定書

これまで引き合いにだしてきたさまざまな一般的原則とはまったく別に、核兵器の違法性を主張する根拠となってきた条約が存在する。この理由により私は、核兵器による威嚇または使用を違法とする包括的もしくは普遍的禁止条項は、協定上の国際法において存在しない、という見解をとった勧告的意見主文のパラグラフ2(B)に反対票を投じた。ここでは、特に1925年6月17日に署名された、窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書(毒ガス等の禁止に関する議定書として知られる)について言及する。この議定書はその禁止する内容が非常に包括的であり、私の見解では、明らかに核兵器を禁止範囲に含んでおり、したがって、核兵器は条約によって禁止されている。私と同じ意見をもつ学者は相当な数にのぼる(384)。さらに、放射線が毒物であるとすれば、核兵器はハーグ陸戦法規第23条(イ)にも違反する。事実、有毒兵器を禁ずるこの規定は、「戦争の兵器および手段の問題において、もっとも伝統的な特別禁止規定である」と説明されている(385)。これは、歴史をもっともさかのぼった時代から、広範な文化において認識されてきた規則である。

毒ガス等の禁止に関するジュネーブ議定書は非常に幅の広い表現で起草されている。議定書は、「窒息性ガス、毒性 ガスまたはこれらに類するガスおよびこれらと類似のすべての液体、物質または考案 を戦争に使用すること」を禁止している(強調は筆者)。

この議定書が核兵器に適用されるとすれば、

(1)放射線は有毒 であり、また

(2)人体と物質 の接触を伴うことが示されねばならない。

両方の条件が満たされるなら、放射線による人体への被害は、この議定書の規定の範囲内にあることとなる。

(i) 放射線は有毒か?

毒物は一般に、身体との接触または身体による吸収によりその毒物のもつ力によって健康に打撃をあたえる物質、と定義される(386)。第?U章3(e)の放射線の影響に関する議論により、放射線が生命を破壊もしくは器官および組織の機能に損害をあたえることは疑いのないものとなった。

シュヴァルツェンベルガーは、十分な線量の放射線が体内に取りいれられた場合、中毒と区別のつかない症状を起こすことを指摘している(387)。

放射線(radioactive radiation)が毒物であることが一度確立されれば、放射線は、前述したハーグ陸戦法規慣例条約にもりこまれている有毒兵器禁止の範ちゅうに含まれることとなる。放射線は、何世代にもわたる遺伝子の異常をも引き起こすため、その毒性は有毒ガスよりも狡猾なものである。

NATO諸国は、北大西洋条約にドイツ連邦共和国を受け入れた際の、1954年10月23日のパリ条約の軍備管理に関する付属議定書?Uにより、有毒性は核兵器がもつ効果であることを、核兵器を以下のように定義することによって自ら認めている。

(核兵器は)「爆発またはその他の制御不可能な核の変質、変化により、大量な破壊、大量の損傷、または大規模な汚染・害毒 を引き起こす能力を有する核燃料または放射性同位体を包含もしくは利用するために設計された(兵器である)」(強調は筆者)

(ii) 放射線は、身体と「物質」の接触を伴うか?

毒物は「物質」ということばで定義されている。毒ガス等の禁止に関する議定書は、有毒な「物質」について扱っている。よって、放射線は「物質」("substance" or "material")なのか、それとも、物体に衝突したとき必ずしも身体と物質との接触がない、単なる光線のようなものなのかを知る必要がある。もし、放射線が前者であるとすれば、ジュネーブ毒ガス禁止議定書の条件は満たされることになる。

The Shorter Oxford Dictionaryは、「放射能」をこう定義している。「(ラジウムのように)高速度で動く物質的粒子 が構成する放射線を自然に放出する能力を有すること」(388)。

科学的には、電波、マイクロ波、赤外線、可視光線、紫外線、エックス線、ガンマ線といった(理論的には)静止状態において質量ゼロの電磁波放射線の周波数域と、質量をもつ粒子である電子、陽子、中性子などの粒子を含んだ放射線の種類をわけて考える(389)。後者のような粒子からなる物質が高速度で運動する際に、これらは放射線とみなされる。

核兵器がもたらす電離放射線は後者に属する。とりわけ、この種の放射線を構成する粒子の流れが人体と接触すると、組織が破壊される(390)。つまり、これは、人体に損傷をおよぼす有形の物質であり、ジュネーブ毒ガス禁止議定書による有毒兵器の禁止条項の適用からのがれることはできない。

したがって、放射線が「物質」であるかどうかという問題に疑問の余地はない。シュヴァルツェンベルガーはこう述べている。

「『類似のすべての液体、物質または考案』という言葉は、この議定書が署名された当時において知られていたか、使用されていたかにかかわらず、類似の性質をもついかなる兵器をも網羅する包括的な文言である。もし、核兵器による放射線と降下物による影響を毒物になぞらえることができるなら、当然ながら、毒ガスにもなぞらえることができる」(391)

問題の議定書条項が、物質を、ガスに「類似の」ものとして扱っているため、放出された物質はガス状であるべきかという点を議論する文献がある。ここで、この条項の文言上そもそも毒物をガスの範ちゅうにとどめていないことに注目すべきである。なぜなら条項は、類似の液体、物質、またさらに考案も指示しているからである。しかし、ガスという用語にしても、軍事用語における「ガス」においては、固体、液体、気体の違いが厳格に適用されたことはないのである。シンとマッキニーが指摘しているように、厳格な科学言語において、マスタードガスは実際には液体であり、塩素は気体である。しかし、軍事用語において両者はガスと分類される(392)。

 したがって、核兵器がジュネーブ毒ガス禁止議定書の範ちゅう内にあるという事実を反ばくすることはできないと思われる。さらには、放射線が実際に毒物である場合、それが禁止されれば、あらゆる場合に適用される普遍的慣習法の禁止条項が宣言されることを意味する。それはある国家が1925年ジュネーブ毒ガス禁止議定書の加盟国であるないにかかわらず適用される(393)。

ジュネーブ毒ガス禁止議定書に関して利用できるもう一つの点は、放射線が「類似の物質」という叙述にあてはまるかどうかをぬきにしても、「考案」という用語におそらく核爆弾が含まれるということである。

この議定書が採択された当時、この世に知られていなかった核兵器をさらに具体的に記述することは不可能であった。しかし、核兵器は、議定書の記述とハーグ陸戦法規慣例条約の意図するところに含まれているのである。

アメリカ合衆国は次のような陳述をおこなっている。

「この禁止条項は、その他の手段による殺人または損傷を目的として設計された兵器にたいして適用することを意図したものではなかったし、いままで適用されたこともない。 兵器が窒息または有害な副産物をもたらす可能性があるとしてもである」(陳述書 p.25)

実際に、放射線が核兵器の主要な副産物であるなら??事実そうであるが??いったいどんな法体系の原則が、核兵器の使用による必然的かつ予測可能な影響を罷免するのであろうか。このような「副産物」は、ときとして副次的損害と言われる。しかし、副次的であろうがなかろうが、これが、核兵器がもたらす主要な帰結であり、このような副産物についてはよく知られているにもかかわらず、意図していなかったとすることは法においては不可能である。

加えて、このような主張には、法律上容認できない論点が含まれている。これは仮に一つの行為が合法と違法の両方の結果を含んでいる場合、前者が後者を正当化するという議論である。

13.ハーグ陸戦法規慣例条約第23条(イ)

これまでの議論により、放射線は毒物であることが立証された。これと同様の論法により、毒物をあいまいさのない表現で禁止したハーグ陸戦法規慣例条約第23条(イ)に対する明確な違反が存在する(394)。この点において更なる議論は必要ではなく、この条項にある毒物使用の明白な禁止が、戦争法として最も古く、最も広く認められている禁止規定であることは広く受け入れられている。「普遍的に受け入れられている文明国の慣習からすると毒物は禁止されているとみなされる」のであるから、第23条(イ)の禁止条項は、この条約条項の加盟国でない国家にたいしても強制力をもつものとみなされている。

「よって、純粋な条約法に加えて、法の一般原則に基づく慣習的立場からも、戦争における毒性物質の使用は、野蛮、非人道的、非文明的であるだけでなく、背信であるとして禁止されるのである」(395)

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W 自衛

この場合、自衛ということがおそらく最も重大な問題を提起している。法廷意見主文のパラグラフ2(E)は、国際法の現状および当法廷が把握できる事実の諸要素に照らし、国家の存亡そのものがかかっているような自衛の極限状況での核兵器による威嚇や使用が合法か違法かについて明確な結論を下すことはできない、と述べている。私はこの条項に反対した。核兵器による威嚇や使用は、戦争法(jus in bello)の基本的な原則に反するものとして、いかなる状況においても合法ではないというのが私の見解である。この結論は明快であり、国際法の確固たる原則から見て動かしがたいものである。

国家が攻撃を受ければ、国連憲章に基づき、その国は明確に自衛権を持つ。ひとたび国家が戦争法の支配下にはいれば、人道法の原則は、それが自衛以外の軍事行動の要素を持つ行為にも適用されるのと同様、自衛の行為にも適用される。それゆえ、戦争法のどのような原則が自衛のための核兵器の使用に適用されるのかが検討されなければならない。

注目するべき第一の点は、(明快な権利である)自衛のための武力 の行使と、自衛のための核兵器 の使用は、別個の問題だということである。前者にたいして国際法が与えている許容は、他の支配的な諸原則の適用対象にもなる後者を包括するものではない。

この個別意見で論じられた人道法の7つの原則すべてが、戦争のあらゆる局面における核兵器の使用に適用されるのと同様に、自衛のための核兵器の使用にも適用される。公然たる侵略行為の場合と同様、自衛においても、不必要な苦痛、均衡性、区別、非交戦国、ジェノサイド、環境被害と人権に関するすべての原則に違反することになるだろう。戦争法は、武力に訴える理由がなんであれ、あらゆる武力の行使について規定している。その原則に根本的に違反することなしには例外はありえない。

第一攻撃をこうむった国家は、同じやり方で報復すると予想される。第一撃による破壊の後、もしそれが核攻撃であるなら、使用可能なあらゆる核兵器で報復するという傾向があらわれるだろう。

ロバート・マクナマラは、最初の攻撃への対応について、次のように語っている。

「しかし、そのような状況下にあれば、両国の指導者たちは、こうむった損失の仕返しをし、攻撃にさらされている利益を守るという想像を絶するような圧力のもとにおかれるだろう。そしておのおのが、敵が今にも大規模な攻撃を仕かけるかもしれないと恐れるだろう。さらに、双方は(通信施設に対する攻撃がありうることは言うまでもなく)戦場の混乱によってもたらされる通信の途絶により、部分的な情報のみで動くことになるだろう。そのような状況のもとでは、おのおのが、自らが降伏するよりも、この攻撃が敵を降伏させ戦争を終わらせることになると信じて、より大規模な攻撃を行う可能性が非常に高い」(396)

そのような対応は、相手からの報復を招き、それは実際には自動的に誘発され、地球の壊滅を早めることにつながるだろう。

ここで、攻撃を受けた国家が、侵略者を撃退するために利用できるすべての兵器を使用するという権利を確かにもっていることをくり返す必要がある。しかし、この原則は使用される兵器がこれらの規定に具体化された戦争の基本的規則に違反しない限りにおいてのみ 有効である。これらの制約の枠内で、敵を撃退するという目的のために、攻撃された国家は侵略者にたいして全軍事力を使って攻撃を浴びせることができるのである。このことが議論の余地がないとは言え、たとえば化学あるいは生物兵器で攻撃された国は、自衛のために化学、生物兵器を使ったり、侵略国の国民を絶滅する権利を有するという意見や主張は、いまだにいかなる会議においても耳にしないし、いかなる学術書でも目にしない。あらゆる大量破壊兵器のうち最も破壊的な兵器が、人道法の基本的な原則から導かれるこの最も明白な結論にたいする唯一の例外であると考えられているのは、不思議なことである。

以上をふまえたうえで、自衛ということで侵害されるであろう人道法のさまざまな原則を、手短かに検討してみたい。

1.不必要な苦痛

この意見で前述したように、核兵器によってもたらされる痛ましい苦痛とは、核兵器を攻撃的に使用した場合にのみ生じるとは限らない。放射能による長期にわたる苦痛は、たんに核兵器が自衛のために使われたというだけでは、その苦痛の強さを失わない。

2.均衡性/過ち

均衡の原則は、一見すると、核攻撃に対しては、核の報復ということで問題がないかのようにみえるかもしれない。しかしながら、より注意深く見れば、この原則はあらゆる形で侵害されている。フランスが主張するように、

「ある攻撃にたいする報復が必要で均衡がとれているかどうかの評価は、攻撃の性格、その範囲、それがもたらす危険と、望まれる防衛目的に対して、報復手段を調整することによって判断される」(CR95/23, pp. 82-83)

まさにこれらの理由によって、核攻撃をうけた国が、適切で均衡のとれた報復の性格を厳密に見定めることは不可能となる(397) 。もし、核攻撃には核の報復をという点から言えば、その核の報復とは、すでに言及されているように、全面的な核戦争に関する文献で鮮明に描かれた世界的ハルマゲドンのシナリオの幕開けとなるような、全面的な核の報復になるであろう。

さらに、ここには測定の問題がある。すなわち、攻撃の激しさの度合いの測定と、報復がつりあいがとれているかの測定である。しかし、人は測定可能なものしか測ることができないのである。核戦争においては、測定可能という性質は失われる。壊滅的な状況においては、測定をする尺度が全くなくなる。均衡の原則が無意味なものになる状況にわれわれは置かれるのである。

また、核兵器においては、人的ミスが生じうるという点を見失わないことも大事な点である。いかに注意深く計画されていても、混乱している時には、攻撃の兵器の破壊力を綿密に評価し、同じ程度の反撃ができるほどに核攻撃にたいする核の報復に細かく段階をもうけることは不可能である。かなり平穏でゆったりとした平時のときでも、核攻撃を意図せずに開始してしまうほどの誤りというものは起こりうる。この問題は偶発核戦争の研究から明らかになった(398)。 核攻撃のストレスのもとでの報復は、さらにずっと事故を招きやすくなるだろう。

『ブレティン・オブ・アトミック・サイエンティスツ』誌によると、

「最高決定者とその部下の情報供給者は、コンピューターやその他の機器に依存しており、ますます複雑化しているこれらの機器は、故障を起こしやすくなっている。機械の故障、人間の失敗、あるいはその二つが組み合わさると、それが数分のうちに発見されていなかったら、多くの報告された事例において、偶発核戦争が生じていただろう」(399)

その結果は全面的な核戦争になるだろう。

ここで再び、全面核戦争はその結果として生じる可能性があるということを裏づけるような外交、軍事政策に精通している政治家の言葉を引用しよう。ロバート・マクナマラは次のように語っている。

「この問題を研究したことのある人びとなら同じだと思うが、『限定』核戦争が限定されたままであるとは私には考えられない。核兵器を使用するといういかなる決定も、全面的な核の応酬がもたらすような破壊的な結果を生じる可能性が高いだろう」(400)

もと国務長官のキッシンジャー博士も、同じ主旨のことを記述している。

「限定戦争は、単にそれに見合った軍事力と軍事ドクトリンだけの問題ではない。そのためには政治的指導部の規律と巧みさ、彼らにたいする社会の信頼などが大きく要求される。というのは、限定戦争とは、全面戦争よりも心理的にずっと複雑だからである。……全面戦争は??もしそのような決定についてものを言うことができるとすればだが??、その決定はおそらく非常に迅速に行われ、そのもたらす被害の大きさから、政策の微妙な違いをめぐる論争などは問題にならなくなるだろう」(401)

彼は続けてこう述べている。

「この理由づけからして、限定核戦争とは不可能であるばかりでなく望ましくない。ひとつには、熱核戦争による破壊に近い激しい破壊状況を戦闘地帯にもたらすだろう。その結果、守ろうとしているまさにその人々を、殺すことになるだろう」(402)

このように、自衛のための核兵器の使用は壊滅的な核戦争になるということは、非現実的な憶測ではない。これは、人道法が絶対に認めることのありえない危険である。それはいかなる法制度も是認することができない危険である。

3.区別

この意見ですでに述べられたように、核兵器は、軍隊と民間人を区別するべきであるという原則に反する。もちろん、その他の兵器もこの原則に反するが、放射線はいうまでもなく、激しい熱線、爆風という要因によって、核兵器は他の兵器とは違う種類として扱われる。数百万とまではいかなくとも、数十万の犠牲者を生み出す兵器のことを論ずるとき、区別の原則は、法的に意味のないものになる。

4.非交戦国

自衛のための核兵器の使用にたいする主要な異論の一つを、この項でとりあげる。

自衛とは、非交戦国の権利を侵害していないことが明瞭な場合にのみ、純粋に国内問題として扱うことができる。自衛戦略が、交戦していない第三国に被害を及ぼすと考えられた瞬間から、自衛は純粋な国内問題ではなくなる。自衛行為とは、偶然にまた無意識に、第三国に被害を生じさせるものかもしれない。そのような状況は理解できるし、実際にときどき生じているが、ここでは当てはまらない。

5.ジェノサイド

ジェノサイドの問題はすでに取り扱った(403)。自衛は、均衡性に関する議論で明らかなように、全面核戦争になる公算が大きく、それは最初の攻撃を開始することよりもジェノサイドを引き起こす可能性がより大きい。百万から十億に及ぶ人々を殺すということがジェノサイドの定義に当てはまらないとするなら、ジェノサイドとはいったい何なのか、と疑問に思わざるをえない。

いかなる国も、自国の利益のために、あえて文明の破壊を冒す権利を持つとはみなされない。

6.環境への被害

ここでもジェノサイドに関する場合と同様の考察ができる。広範な環境の汚染が、核の冬をもたらし、生態系を破壊する可能性がある。侵略目的か自衛のためかを問わず、核兵器が使用されれば、このような結果が生じるだろう。核兵器に関連した環境に関する国際法については、世界保健機関(WHO)の要請に対する私の個別意見の中で、詳しく取り上げている。その意見の中での議論は上述の議論を補足するものである。

7.人権

この意見の中ですでに詳細に言及されたように、核兵器の使用が侵略のためであろうと自衛のためであろうと、あらゆる種類の人権侵害が、同様に生じるであろう。

* * *

これまでに考察してきた人道の諸原則は、単なる原理的願望の段階をすでに通り越し、今や生きた法律であり、抑えのきかない戦争という蛮行に制約を課すという困難な課題にたいして、法律の分野での最大限の成果である。これらの人道の諸原則は、軍事行動の基本原則となっており、二つの世界大戦と多くの小規模な戦争でおびただしい数の人々が甚大な被害を受けてきたことが背景となって、国際社会が作り上げてきたものである。

あらゆる法的な原則と同様に、この諸原則は、大小にかかわらずすべての国を律するものである。

信頼できる法体系の基礎にあるべき一貫性に当然の考慮を払えば、苦痛を払ってつくりあげられたこれらの諸原則が、本来の道からそれ、核兵器を不問に付し、この未曾有の破壊手段を規制せず、本来防止するはずの巨大な悪を生じるがままにさせておいてよいとは考えられない。

* * *

自衛に関連して、法廷での主張の中で、さらに3つの点について簡単に触れておかなければならない。

イギリスは、国家の責任に関する第8報告にたいする補足の中で、アゴ判事が表明した見解をもとに、自説を展開している(陳述書、パラグラフ3.40)。 見解要旨は以下の通り。

「攻撃を阻止し撃退するための行動は、当然、こうむった攻撃の規模や程度に不つり合いなものにならざるをえないであろう。この点で問題となるのは、『防御/防衛』行動自体の形態、中味、威力ではなく、『防御』行動によってもたらされた結果である」(404)

アゴ判事はここで、防衛活動は、攻撃をやめさせ撃退するという目的からそれてはいけないということを強調している。彼は同じパラグラフで次のように述べている。

「自衛のためにとられる行動において均衡 の原則が要求するものは、行為とその目的、すなわち、攻撃をやめさせ撃退するという目的との関連性にある」(強調は筆者)

その目的とは、攻撃をやめさせ撃退することであって、侵略国を絶滅させその国民を皆殺しにすることではない。ここでアゴ判事は、行動の形態、中味、威力をこの戦争目的の範囲内で明示的に定めたのであり、中立国への被害、不必要な苦痛、区別の原則などに関する要件をすべて無視してよいと言っているのではない。戦争法(jus in bello)の一番重要な中核的要件が、これだけの著名な判事のこの見解で効力を失ったと理解してはならない。この要件は、国際法研究所から強い支持を受けたものであり、アゴ判事は,とくにこのすぐれた見解を認められて、後に同研究所長に就任している。1969年のエディンバラ会議は、軍事施設と非軍事施設、軍隊と民間人を区別せずに破壊する兵器、そして民間人を威嚇するための兵器を禁止する決議(405)を、賛成60、反対1、棄権2で採択した。アゴ判事自身は、この賛成派の一人であった。

注目すべき第二の見解は、イギリスの陳述書のパラグラフ3.42と付属文書Dの中に見られるものである。すなわち、安全保障理事会の決議984号(1995年)は、武力攻撃に対する対応として核兵器を使用することは必ずしも違法とみなすべきではないという見方を、ある意味で認めているのだ、というものである。

決議を注意深く読めば、それが、安全保障理事会と核保有国は、非保有国が核侵略の犠牲者となったときには即座に行動するということを非保有国に約束したものであることがわかる。決議は、犠牲となった国を守るためにとられるべき措置については、一切言及していない。そのような措置について言及することがこの決議の意図であったならば、そして、そのような措置としての核兵器使用が合法であったならば、安保理にとっては、そうであると表明するこの上ない機会であっただろう。

徹底させるために指摘しておくならば、もし安全保障理事会が明確に核兵器の使用を認めたとしても、合法性の問題について最終的な権限を有するのは本法廷であるし、仮にそのような見解が示されたとしても、法廷がこの問題について独自の意見を出すことの障害とはならない。

言及しなければならない第3の要因は、違法性に反対する人々の主張の多くが、国家の交戦権を律する法(jus ad bellum)と戦争法(jus in bello)の区別をあいまいにしているようであるという点だ。武力の使用(jus ad bellumの領域)に訴えることの長所と短所がなんであれ、武力という領域に一度ふみこめば、その領域を統括する法律は、戦争法になる。戦争人道法は、戦争に関わるすべての人々、すなわち、加害者と犠牲者を同様に支配する。法廷では、自衛目的の武力行使となると、戦争法が適用されないかのような主張が展開された。この推測は法律上誤りであり、論理的にも支持できない。もちろん、現実には、国家の交戦権を律する法は自衛のための、あるいは安全保障理事会による武力行使に至る道を開いているだけだが、その道を行くものは、誰であれ、戦争法に従わなければならない。武力の使用の合法性によって人道法違反は正当化されるとする意見は、したがって、全く合理性のない結論である。

* * *

それゆえ、以上にかんがみて、自衛のため、というだけの理由では、核兵器使用の違法性に例外を設けることはできない。

他国が攻撃にさらされた場合の集団的自衛についても、上述と同様の議論が生じている。

見越し自衛、すなわち、敵が実際に攻撃する前の先制攻撃は、法的には核攻撃によるものであってはならない。なぜなら、核兵器による第一攻撃は、自明なことであるが、すでに言及した基本的な原則によって禁止されるからである。核兵器以外の兵器に関して言えば、既に開発されている高度な現代技術と正確な的中システムを、この目的のために用いることができるであろう。

X いくつかの全体的考察

1.二つの哲学的見解

この意見のなかでは、いかなる目的のためであれ核兵器の使用は、人類そのものの滅亡ではないにしても、人類社会を破壊する危険を伴うという結論を導くために、多くの論拠が述べられてきた。この意見はまた、核兵器の使用を認める規則はどのようなものであっても、国際法自体と矛盾するということも指摘した。

ここでは、二つの哲学的洞察について述べる。ひとつは合理性、もう一つは公正さに基づくものである。

最初の問題に関して言えば、法律とは、本来、法律が奉仕する社会の存続という前提に貢献し、かつ、この前提の範囲内で機能するものである。社会の存続という前提がなければ、いかなる法の支配も法制度も、その基礎にある法的論拠がいくら魅力的なものであっても、効力をもちえない。ある法律が効力をもたないと、その法律だけでなく、その法の支配を内に含んでいる法制度自体が、根本的に崩壊する。なぜなら法制度は、社会がひき続き存続するということを前提としているからである。法制度は社会の一部分であるから、社会という、より大きな枠組みが崩壊すれば法制度もそれとともに崩壊せざるをえない。法律という概念の最も核心に位置するこの前提は、核をめぐる議論の中ではしばしば見落とされている。

法律の性格について哲学的な議論をさらに深めなくても、ここでは、二人の卓越した思想家、H.L.A.ハートとジョン・ロールズが提起した、現代の正義についての二つの試験について簡単に言及すればそれで十分だろう。

実証主義派を代表する法学者の一人であるハートは、自然法の最小限の内容について述べた有名な解説の中で、この原則を以下のように簡潔に定式化した。

「私たちは、正義は議論上の用語によって仮定されたものであると考える(訳注:互いに正義を掲げて論争するのだから、いずれかに正義があると仮定するしかない)。というのも、私たちにとっての関心事は、自殺クラブの制度でなく、ひき続き存在するための社会制度であるからだ」(406)

彼のこう主張する理由は以下のとおりである。

「いかなる社会組織も生存しようとするならば持たねばならない一定の行動規範というものがある。そのような規範とは、あらゆる社会において、法と因襲道徳の共通項を成しており、他とは異なる社会管理形態として認識されるに至っている」(407)

国際法はまさに、このような社会管理形態の一つとして、国際社会の構成メンバーである民族国家によって考え出され、受け入れられているものである。

ハートは続けて述べている。

「人類、人間の自然環境、そして人間の目的についての基本的な真実を基盤としたこのような普遍的行動原則は、自然法の内容としては最小限の ものだと考えられるかもしれない。自然法というと、もっと壮大で容易には理解しがたい法体系だと思われがちだ」(408)

これが、他学派とは違って字義どおりの解釈とは距離を置く、実証主義的法理によって受け入れられ、広く認められている、自然法の最小限の内容である。これはすなわち、あらゆる法制度が従わなければならない共通項にほかならない。

別の観点から問題にアプローチするために、国際社会の構成員は、過去3世紀の間、社会の行為に関する一連の規則と原則、すなわち国際法と呼ばれる規則と原則を定めるべく取組んできた。そうする過程で、その一連の規則の中に、いかなる理由であれ、その社会の構成員を、あるいは、まさに社会全体そのものを抹殺することが合法になるような規則を許す余地があるのかが、自問されなければならない。そのような規則に律せられている国際社会は、実証哲学、自然法など、アプローチのしかたはどうであれ、そのような規則に賛同してきたと言えるのだろうか。国家社会は、ハートの言葉を借りるならば「自殺クラブ」なのだろうか。

この点は、非核保有国の洞察力ある法学者によっても強調されてきた。彼らは、他国間同士の紛争の際に、自分たちの国にふりかかってくる可能性を敏感に感じとっている。すなわち、自分たちは紛争の当事国ではなくても、自分たちがその結果生じる核の破壊による被害を受けるという可能性である。国際社会全体のための法制度とされている国際法は、その社会の破壊をもたらすような原則を含めることができるだろうか。

「法制度は、それ自身を危機に陥らせ、それが規制しようとする社会そのものを絶滅させる権利を、いかなる構成員にも与えることはできない。言い換えれば、核兵器の脅威と使用を許すような法規則はないということである。要するに、核兵器は、伝統的な国際法の自己認識の再考を促すこれまでにない事例である。再考すれば、これが、既存の戦争法規のひとつの解釈が核兵器の威嚇や使用を禁止しており、別の解釈はそれを許しているという問題ではないことが、明らかになるだろう。むしろ、問題は、このような解釈をめぐる議論が法律の世界でそもそも可能なのか、ということである。法は、法の本質を否定する解釈を容認することはできないのであるから、これは法律で対応できる問題ではないのである。法律の目的は、人類の生存を核心とする物事の合理的な秩序である。ところが核兵器の存在はそれを実現するあらゆる希望を摘みとるものである。このように、核兵器は明確に違法である」(409)

ハートが強調する、人類の活動のしかるべき目的は生存であるという点は、この法廷のもと首席判事であったナジェンドラ・シンの言葉にも反映されている。彼は核兵器に関する先駆的な研究の中で次のように語った。

「いかなる国であっても、一国が人類を束縛から救うために、人類自体を破壊することが必要であると主張することはまさに傲慢であろう。いかなる国にも、その行動において、不具になり苦しむ人類??核戦争になれば避けがたいことだが??の方が、尊厳の喪失??核戦争の結果、尊厳の喪失どころですむかどうかはわからないが??よりもましだ、などというむなしい期待のもとに、同類(他国)やその土地、住民を大規模に破壊する権利はない」(410)

 同じ著書の中で、ナジェンドラ・シンは「そのような兵器に訴えることは、戦争法規と矛盾するばかりか、国際法自体とも相いれない」という見解を明らかにしている。(P17)

この問題に対するもうひとつの哲学的アプローチは、ジョン・ロールズの「無知のベール」という仮定のなかにみられる。これは、正義を公平さという観点から研究した、著名な論文のなかで提起されているものである(411)。

もし人が、そのもとで生きるための法制度を作ろうとする場合、ロールズによると、その法制度内の各構成員の将来の位置づけやありかたに関する決定が無知のベールの背後で行なわれなければならないとしても、構成員がその法制度をすすんで受け入れるだろうかという、その法制度の公正さが、試されるのである。

そのような国際法制度に従おうと考えている国が、自国が核保有国のグループに属するのかどうかわからないとき、もし他国の核兵器使用による自国の滅亡が合法化されているような法制度を受け入れるだろうとは、とても考えられない。もしその核兵器を所有する権利さえもはじめから否定されるなら、そんな国際法制度は、ますます受け入れられないであろうし、更に、自国が当事者でもないのに、核兵器で滅亡させられたり回復不能な損害を被る可能性があるとわかったら、そんな国際法制度はますますもって受け入れられないであろう。

核保有国のメンバーになることが、その国の運命であったなら、その国は都合のいい地位にいることになるだろう。しかし、もし非核保有国の一員になってしまうかもしれないとしたら、自らの地位に関して無知のベールの背後に置かれたままで、このような法制度を受け入れるだろうか。もし核保有国が、極限の緊急事態にしか核兵器を使わないという言質を与えたとしたら、事態は変わるだろうか。そのような約束をしても、誰も監視しようがない。この問いに対する答えは、明らかだ。このような法制度は、公平さと正当性を試されれば、間違いなく失格であろう。

以上のような哲学的洞察は、核兵器の使用の違法性が合理性あるいは公平さに基づく国際法制度の最小限の構成部分であるかどうかの問題を決定する上で、最も重要である。現代法理において、法が合理的か、公正かを問うことは広く受け入れられており、このいずれの点からみても、核兵器に適用される国際法の規則は、核兵器の使用は認められないというものになるだろう。

核兵器の合法性に関する議論において、このような基本的な考察は見過ごされがちである。国際法制度全体の有効性にかかわる本質的な問題であるから、上述のような基本的考察を放置しておくことはできない。

2.戦争の目的

戦争は、それ自体決して目的ではない。それは目的のための手段にすぎない。(人道法の?V.3で)すでに言及したが、このことは1868年のセント・ピータースブルグ宣言の中で認められている。そこでは、敵の軍事力を弱めることが戦争の唯一の正当な目的であると規定している。この原則に沿って、人道法は、既に言及した規則、すなわち、「交戦国が敵に危害を加える手段をとる権利は、無制限ではない」という規則を作り上げた。(1907年ハーグ規則22条)

戦争法規の研究はすべて、戦争の目的とあわせて考えなければ意味がない。なぜなら、そうしてこそ、正しく背景を理解しながら、戦争にたいする制限について検討することができるからである。そこで戦争の目的という哲学について多少触れざるをえない。この問題に関する文献は、2千年以上も前からある。

並はずれた破壊力を持つ兵器について述べた中で、インドの2大叙事詩、ラーマーヤナとマハーバーラタに描かれているインドの古典的伝統については先に言及した。禁止を求める理由は、その兵器が戦争の目的を越えているというものだった。

これはまさに、アリストテレスが著書「政治学」の第七巻で、「戦争は平和に至るための手段に過ぎない、と考えねばならない」(412)と説いていることにほかならない。アリストテレスは、単に必要あるいは有用な行動と、それ自体善である行動を区別していたことが思い起される。平和はそれ自体善であるが、戦争は平和という目的への手段にすぎないのであると、アリストテレスは言った。求められている目的、すなわち平和がなくては、戦争は無意味で無駄なものになるだろう。これを核のシナリオにあてはめると、相手を破壊する戦争には、意味も効用もまったくない。従って、正当化の余地がまったくない。アリストテレスの戦争観によると、戦争とは正常な状態の一時的な中断であり、戦争が必然的に終われば、そこから新しい均衡が生じる。

1713年のユトレヒト条約以降、ヨーロッパの外交を支配した勢力均衡の原理は、敵を抹殺することではなく、敗戦国にも独自の地位を与え、実行可能な力のバランスを達成することを前提条件とした。クラウゼビッツが主張した、戦争とは外交の延長であるという極端な原理でさえ、敗戦国もひとつの独立した単位として存続することを前提としている。

国連憲章自体は、武力の使用は(自衛という厳格に制限された例外をのぞいて)禁止されるということ、また、憲章の目的は戦禍から人類を解放することであるという基本原則のうえに成り立っている。憲章が念頭に置いているのは、紛争当事国が和を結ぶことであって、当事国の全面破壊ではない。

核兵器は、上述の原理を無意味なものにしてしまう。将来、核による交戦がもし生じるなら、それは核兵器の独占がない世界で生じることになるだろう。核戦争は、日本の場合に生じたように、一国が核兵器を使用すれば終わるということにはならないだろう。特に、核攻撃を受けたならば即、自動的に核兵器による報復の引き金が引かれる世界では、必然的に核兵器による応酬が生じるだろう。

そのような戦争になれば、私たちが理解しているような国家が独自に生き残ることはできない。核の荒れ地をさまよう霊は、もしそんなものがいればだが、勝者と敗者双方にとりついて離れない、絶望の霊だろう。これは戦争の目的を越える戦争の方法論の一例である。

3.国連憲章のもとでの「武力による威嚇」の概念

国連総会によって付託された問題は武力の行使と威嚇に関連している。理論的には、最も原始的な兵器であっても、その使用による武力の行使は、国連憲章からみて違法である。それゆえ、核兵器による武力の行使が国際法に反するかどうかを検討しても無駄である。一丁のライフル銃の使用も禁止されているもとでは、核兵器が禁止されているかどうかを問うのはほとんど意味がない。

憲章の枠内での武力による威嚇の問題にはある程度の注意を要する。この問題について判断するには、憲章における武力による威嚇の概念を検討することが必要になる。

国連憲章の第2条4項は、国家の領土保全又は政治的独立に対する威嚇を禁止している。1970年の友好関係についての国際法の原則に関する宣言は以下のように再確認しているように:

「このような武力による威嚇又は武力の行使は、国際法および国際連合憲章に違反するものであり、国際問題を解決する手段として決して使用されてはならない。(総会決議2625XXV)」 

威嚇は国際法の範疇にははいらないとの国際社会の理解を確認するその文書としては、1965年の「内政干渉の不容認および国家の独立と主権保護に関する宣言(総会決議2131(XX))」や、1987年の「武力の不行使の原則の拡大に関する宣言(総会決議42/22, パラグラフ2)」などがある。

国連憲章は武力の行使と威嚇の区別をしていないことに気づくべきである。両者は等しく法規にもとづく行為の範疇には入らない。

多くの国際的な文書が無条件で武力の行使の禁止を確認している。その中には、1949年の「平和のための不可欠な要素に関する宣言(総会決議290(IV))」、1970年の「国際安全保障の強化に関する宣言(総会決議2734(XXV))」、1988年の「国際平和と安全保障を脅かす恐れのある紛争や状況の阻止と解消およびこの分野での国連の役割に関する宣言(総会決議43/51))」がある。1975年のヘルシンキ最終文書は、加盟国に武力の威嚇と行使をしないことを求めている。ボゴタ協定(平和的解決に関する米州条約)は、調印国に「武力による威嚇と武力の行使をせず、対立の解決のためにいかなる強制的手段もとらない」ことをよりはっきりと求めている。

武力による威嚇をしないという原則は、このように、武力を行使しないという原則と同様にしっかりとした基盤を持ち、多くの文書によって、表現は異なってもいかなる例外も認められていない。それゆえ、抑止が威嚇のひとつの形態であるなら、それは威嚇の行使の禁止に該当されなければならない。

詳しい議論は抑止の概念に関する?Zの2に続く。

4.戦争法規の基本構造における平等

現在の国際法体系には構造的な不平等がいくつか組み込まれているが、国際法の実質、すなわち規範と原則は万人に平等に適用される。ある法体系が、完全で正当性を持ったものであるためには、万人の法のもとにおける平等が、その法体系の中心になければならない。したがって、万人の平等は国際法の総体を構成している諸原則と一体のものである。一方に強者のための法があり、もう一方にその他のための別の法がある、ということはありえない。そのような原理はいかなる国内制度でも容認されないし、平等の概念を前提としているいかなる国際制度でも容認されない。

アメリカのジョン・マーシャル最高裁長官の1825年の有名な言葉がある。「一般法の原則の中でも、もっとも普遍的に認められているのは諸国間の平等性である。ロシアとジュネーブは同等の権利を持っている」(413)。国際法体系のすべての部門で、この平等性が欠かせないのと同じく、戦争法の基本的構造にも、平等性が織り込まれているのである。

もう一つ矛盾がある。慣習国際法のもとで、核兵器の使用が合法であるとして、しかしその一方で国連加盟185カ国中180カ国が核兵器を所有する権利さえ否定されているのである。慣習国際法にはそのような不平等な運用はありえない。とりわけ、仮に、核保有国が主張するように、核兵器の使用が自衛に不可欠であるとするならば、なおさらである。自衛は国家のもっとも大切な権利であり、国連憲章第51条は、国連加盟国の固有の権利であると認めている。したがって、国連という家族の構成員ごとにその権利の度合いが異なるなどという意見は断じて受け入れることはできない。

事実上の不平等はつねに存在するし、国土、力、富、影響力などに差がある主権国家が国連を構成している限り、存在しつづけるであろう。しかし、事実上の不平等を法律で定めた不平等と解することには、論理の大きな飛躍がある。たとえば、ジュネーブ条約の議定書が核兵器の使用禁止をうたわなかったことで、核保有国による核兵器使用の合法性が暗に認められたのだ、という主張など、まさにこの論理の飛躍にあたる。核兵器の禁止を明示的に宣言しないことの意味するところは、この問題を扱わないという合意であって、核の使用は合法であると同意したわけではないのである。アメリカやイギリスは、1949年のジュネーブ4条約への1977年追加議定書によって確立あるいは導入された規定は核兵器の使用を規制も禁止もしていないという「理解」にたっている。しかし、これらの条約よりも前から存在し、これらの条約によって明確に表明されることになった基本的諸原則は、このような英・米の「理解」によって揺るぐものではない。これらの条約の根底にある概念的、法的論拠は、こうした諸原則を侵害しない。これらの条約に[核兵器の使用にかんして]なにも規定がないということをもって、これらの諸原則をくつがえすものであるとかこれら諸原則に優越するなどと考えることは不可能である。

同様の考え方は、核兵器の部分的禁止を課している条約は、暗黙のうちに核兵器の合法性を現在のところは受容していると解釈すべきだ、という議論にもあてはまる。

この議論には十分な根拠がない。なんともし難い不可避な状況の中では、実際的な取り決めをしたからといって、そのような状況を承認したわけでもないし、その状況の合法性を認めたわけでもない。そのような状況では、その状況の有効性を認めることはできない。マレーシアはこれを、麻薬使用者のあいだでの病気の蔓延を減少させるための注射針交換計画にたとえている。このような計画は、麻薬乱用の合法性を認めるものと解釈することできない(陳述書p.14)。重要なことは、核兵器に関する数多くの決議や宣言があるが、それらのなかに、いかなる目的であっても、核兵器の使用を認めたものはただの一つもないことである。

いくつかの国だけに化学兵器や生物兵器を自衛のために使用する権利があり、その他の国々にはない、などという法規などはまったく考えられない。いくつかの国が自衛のために核兵器を使用しうるという主張についても、この原則は同様である。

この関連で考えるべきもう一つの重要な点は、国連は定義からいえば任意的な共同体だということである。いかなる構成国も他の構成国を上から束縛することはできない。そのような構造は、平等を基本的前提にしない場合をのぞき、まったく不可能である。でなければ、「法がもっとも強い者の意志の表現になってしまう危険がきわめて現実的になる」(414)

国際法の総体が、国際社会において多岐にわたる有益な機能を発揮するのに必要な権威を保持しようとするならば、あらゆる構成要素の平等という試練に耐えられなければならない。構造的不平等が国際法体系にいくつか組み込まれているのは確かだが、しかしそのことと、すべての国が一様に支配される実定法に不平等を持ち込むこととはまったく違う。

上述の議論は、いかなる国家によるものであれ、いかなる状況のもとでにせよ、核兵器の使用は完全に違法であるという文脈の中での陳述であることは、いうまでもない。まさにこのような意味においてのみ、国際法の根底にある平等の原則が、核兵器という重要な国際問題にも適用されうるのである。

5.戦争法規における二重性の論理矛盾

人道法が核兵器に適用されないとすると、二種類の兵器が同時に使用されうるのに、戦争に関する法がある種の兵器には適用され、その他の兵器には適用されないという論理矛盾に直面する。核兵器にはある一連の諸原則が適用され、その他の兵器には別の一連の諸原則が適用されることになってしまう。両方の種類の兵器が同じ戦争で使用されれば、武力紛争に関する法は混乱してしまうであろう。

日本は、両方の兵器が使われた国であり、この側面に最初に注目したのが日本の学者であったことは当然である。藤田教授はわれわれが参照した論文のなかで、以下のように述べている。

「通常戦争に関する規則と核戦争に関する規制を区別すると、容易には想像しにくい奇妙な結果をもたらすであろう。なぜなら、通常兵器と核兵器は結局は、将来の武力紛争で同時に、そして同じ状況で使われることになるだろうからである」(415)

このような二重性はいかなる法の原則ともあいいれない。また、すべての兵器に適用される法体制からなぜ核兵器を除外すべきなのか、本質的な理由が提示されたことはなかった。唯一示された理由は政治的な理由、あるいは一時しのぎの方便であり、いかなる裁判所も、法理学に一貫した姿勢を貫く者も、そのような二分法を受け入れることはできない。

これとの関連で、核兵器の違法性を否定する国ですらその軍隊にたいして、軍事教範のなかで、武力紛争において他の兵器に適用されるのと同じ基準にしたがって核兵器を判断するように指示している、ということは注記に値する(416)。

6.核兵器使用の意志決定

地球規模の破壊という巨大な可能性を考慮すると、核兵器使用が適法か否かを決定する上で考慮すべき要素の一つは、核兵器使用に関する意志決定過程である。

核兵器使用の決定は、行われるとするならば、精密な法律的評価をする余裕などない状況のもとで行われるであろう。それはおそらく、感情が高まり、時間的余裕はなく、事態は不明瞭といった状況であろう。すべての関連情勢を細部にわたって冷静に評価し、熟慮の上慎重に下された決定とはならず、異常なプレッシャーとストレスのもとの決定となろう。慎重な評価を必要とする法的事項は、本法廷が数カ月にわたって取り組んできたほどの複雑さだが、数分のうちに、おそらくは法律の教育を受けた要員ではなく、軍人によって決定されねばならないかもしれない。人類の運命がそのような決定に左右されるようなことがあってはならない。

核の意志決定過程についての研究が実際に行われてきた。それらによれば、核の危機には4つの特徴がある(417)。その特徴とは以下の通りである:

1.非常に重大な決定をするに際しての時間の不足。これはすべての危機の基本的側面である。

2.大きな利害が関係している。とりわけ国益の重大な損失が予想される。

3.はっきりした情報、たとえば何が進行しつつあるのか、敵のねらいは何かなどについて、十分な情報がないことから生ずるこのうえない不確実さ。

4.指導者はしばしば政治的考えに拘束され、選択の余地を狭めてしまう。

指導者がこのような雰囲気のなかで行動することを余儀なくされ、判断の指針がないまま合法かどうかという難しい問題を考えざるをえないとしたら、核兵器使用は違法となる可能性が大きい。

この兵器はあらゆる場合において違法であると、明確に宣言されるべきであると私は考える。もし、一定の状況には核兵器が合法であるとするならば、たとえ合法と判断される可能性が小さくとも、そのような状況は特定されなければならない(でなければ、混乱した状況はいっそう混乱する)。

Y 核兵器にたいする国際社会の態度

この点も、人類の良心や、文明諸国に承認されている法の一般原理等の重要な考慮事項に加えて、無視できない。なぜなら国際連合の法は、国連諸国人民の意思に由来するからである。国連発足いらいこのかた、この加盟諸国がこれほど一貫した広範な関心を寄せた問題はなかった。アパルトヘイトはごく最近まで関心が集中した、重大な国際問題の一つではあったが、核兵器にたいする一貫した関心のほうがおそらくより深い流れであったし、核兵器のもたらしかねない結果への嫌悪は普遍的なものであった。世界中からの核兵器否定の声は、押し寄せこそすれ、引くことはなかったし、この兵器が世界の兵器庫に存続するかぎり反対の声は今後も弱まることはないに違いない。

1. 完全廃絶という最終目標の普遍性

国際社会の核兵器に対する態度は、「核兵器は文明を脅かすものであり、廃絶されなければならない」、と明快である。国連総会でも、核兵器の完全廃絶の必要性をテーマとする明確な決議が何度か採択されており、それはこの意見のなかでもいたるところで言及されている。

この問題に関する一番新しい国際社会の宣言は1995年の核不拡散条約(NPT)再検討会議のときのものであり、「核不拡散と軍縮の原則と目標」という宣言のなかで、「核兵器の完全廃絶という究極的目標と全面完全軍縮に関する条約」を強調している。これは国際社会の一致した気運の表明であり、この兵器の完全廃絶達成のために各国はそれぞれ可能なあらゆる努力をするという明快な誓約である。

NPTは核兵器保有を合法化するどころか、核兵器を清算し、やがて廃絶するための条約であった。その前文は既存の貯蔵兵器の清算と各国の兵器庫からの一掃をはっきりとうたっていた。現在みられるような保有の継続は絶対的なものではなく、核軍拡競争の早期停止のための効果的措置に関する交渉を誠実に追求することが最優先の条件として付けられていた。この条件と条約全体の本質は、核兵器を許容することではなく、糾弾し拒絶することであった。1970年3月5日にNPTが発効したときも、1995年にNPT再検討・延長会議がひらかれたときもそうであった(418)。

1995年のNPT再検討会議は、それが体現した普遍性においても、表明した誓約(コミットメント)の度合いにおいても、目新しいことはなく、まさに1945年の国連の第1号決議に表明された観点を強調したにすぎない。国連結成から今日まで、核兵器廃絶という普遍的な誓約が存在してきたといってもよい。それはこの兵器にたいする普遍的憎悪、この兵器がもたらす破滅的結果からすれば当然の誓約である。

2.全面廃絶を圧倒的多数が支持

この観点(完全廃絶支持)を何よりも明快に表現しているのが、幾多の国連総会決議である。完全廃絶に対して強い支持があるということを背景にして、適応性に必要な考察を行いたい。

圧倒的多数の国々は核兵器に反対であり、その完全廃棄を求めていることは論議をまたない。

1946年1月24日の国連総会の第17回本会議で採択された第1号決議に基づき、ある委員会が任命されたがその権限は、ほかでもない、「原子兵器およびその他すべての大量破壊兵器を各国の兵器庫から一掃する」ための特別提案の作成であった。

1961年、ベオグラードで開かれた非同盟諸国首脳会議はあらゆる核実験を全世界で禁止する必要性を明確に宣言した。非同盟運動はアジア、アフリカ、ラテンアメリカ、ヨーロッパの113カ国からなり、その領土内には世界人口の多数を抱えるだけではなく、地球上の天然資源や多様な生物の相当量を有している。核兵器の廃絶をその目標に掲げ、一貫して国連総会その他国際会議でのこの目的のための一連の決議(419)を支持してきた。圧倒的多数の国が核兵器の不使用を訴えていることからして、この点において国際社会が全体的にどのような感情を持っているかについては疑問の余地はない。

本法廷に出廷した諸国は、国連の圧倒的多数の加盟国の核兵器に対する態度が示されている国連総会の決議や宣言を法廷に提出した。それらの決議のなかには核兵器の使用は国際法違反であると述べているのみならず、人道にたいする犯罪であると主張しているものもある。

後者の決議(人道にたいする犯罪と述べているもの)としては、核兵器の不使用と核戦争防止決議がある。1978、79、80、81の各年に、賛成がそれぞれ103、112、113、121、反対が18、16、19、19、棄権がそれぞれ18、14、14、6で採択された。これはまさしく圧倒的多数の賛成といっていい。(マレーシア提出の書面の付録4参照)

核兵器廃絶を目標とした決議は多数ある。ある国(マレーシア)は提出書面のなかで、そのような決議を49も挙げている。そのいくつかは同じような圧倒的多数の賛成で、あるいは反対ゼロ、棄権が3ないし4で採択されたものもある。たとえば、核兵器非保有国にたいして核兵器による威嚇あるいは使用を行わないことを保証する効果的な国際的取りきめの締結にかんする決議は1986年と87年に、賛成がそれぞれ149と151、反対ゼロ、棄権がそれぞれ4と3で採択された。核兵器の完全な廃絶を目標に掲げた決議は、核兵器は国際社会の全体的利益にとって有害であると世界中が思っていることを示すものである。

国際社会を代表する機関である国連総会の宣言は、それ自体は法にはならないが、これまでのように、何度も繰り返して明確な内容の決議が採択されれば、慣習国際法のもとでは、核兵器による威嚇または核兵器使用は許されない、という見解への重要な補強となる。核兵器の使用、威嚇に反対する意思表明が、ほかにも国際的な場でなされていることと合わせて考えると、慣習国際法における核兵器使用、威嚇の違法性が更に確実になる。国連決議のいくつかがそれ自体「立法」決議であるかどうかについては、真剣な検討を要するが、国連決議には立法性があるとする説には、学会でも相当の支持がある(420)。

これらの決議を推進したのは主要には非同盟グループであるが、このグループ以外の国々からも違法性を支持する意見が表明された。そのなかには本法廷で核兵器の違法性を主張したスウェーデン、サン・マリノ、オーストラリア、ニュージーランドなどがある。さらに、核兵器の違法性を主張しない国のなかでも、意見は大きくわかれている。たとえば、本法廷で言及されたとおり、イタリア上院は1995年7月13日に、本法廷が核兵器の使用を断罪する判決をだすことをイタリア政府が支持するよう勧告した決議を採択した。

また、国連加盟の185カ国のなかで核兵器を保有し、核を背景にした政策を宣言しているのはわずか5カ国であることも想起すべきである。国際慣習の確立という観点からみると、この5カ国の世界的影響力がいかに大きくとも、185カ国中の5カ国の慣行と政策だけでは国際慣習が作られるもととしては不十分と思われる。マレーシアはつぎのように述べている。

「人道法と公的良心が命ずるところがそのような兵器の禁止を要求するなら、核保有5カ国がいかに強大であろうと、それに抗することはできない」(CR 95/27, p.56)

このような圧倒的多数の国の意見を前にして、核兵器の使用あるいは使用の威嚇に反対する法的見解はないとは言いがたい。そのような使用あるいは威嚇の合法性を支持する法律見解があると主張することは間違いなく困難である。

3.世界の世論

以上のような公的意見に加え、圧倒的に広範な世論が全世界に広がっている。核兵器にたいする強力な抗議が学界、専門家グループ、宗教各派、女性団体、政党、学生連合、労働組合、NGOなど、世論を代表するあらゆるグループからわきあがっている。その数は世界で数百にのぼる。以下にそのような広範な団体のほんの一部を示す。核戦争防止国際医師の会(IPPNW)、核兵器反対医学者運動、核兵器反対科学者の会、核軍縮をめざす人々の会、反核国際法律家協会(IALANA)、芸能・芸術家核軍縮インタナショナル、核戦争に反対する社会学者の会、非核の未来をめざす会、欧州反核兵器連盟、核時代平和基金、核軍縮運動(CND)、核軍縮のための子供の運動。これらの組織はあらゆる国々の、あらゆる階層を網羅し、地球全体に広がっている。

本法廷に寄せられた何百万もの署名については、この意見の冒頭で言及されている。

4.現在の禁止措置

地球表面の大部分、その上の全空間、海洋の水面下の区域は核兵器のプレゼンスそのものが法的に禁止される領域となった。これをもたらした条約は、1959年の南極条約、ラテン・アメリカとカリブ海地域に関する1967年のトラテロルコ条約、南太平洋に関する1985年のラロトンガ条約、そしてアフリカに関しての1996年のカイロ条約がある。さらに、大気圏と宇宙空間における核兵器を禁止する条約と、1971年の海底およびその下の地中への核兵器その他の大量破壊兵器の配備を禁止する条約(CR 95/22 p.50)がある。この惑星が人類の活動に割り当てた全領域のうちの大部分はこのように非核地帯として宣言されている。それは核兵器の危険が制御不可能であり、完全な廃棄が必要であるとの共通の合意がなければ達成されなかった成果である。

5.部分的禁止

同様に、そのような世界的に共通の感情がなければ、核兵器の部分的禁止と削減の概念も今日の成果を達成できなかったであろう。この措置で重要なものとしては、大気圏での核実験を禁止した1963年の部分的核実験停止条約と1968年の核不拡散条約がある。これらの条約は一定の状況での核実験を禁止しただけではなく、核兵器の水平拡散を防止するために、核保有国、非核保有国双方に一定の法的義務を課した。現在交渉中の包括的核実験禁止条約はすべての実験の廃止をめざしている。START(戦略兵器削減交渉)協定(START?TとSTART?U)は、アメリカとロシアの核兵器をそれぞれ毎年2千ずつ減らしていくことで、かなりの削減をすることをめざしたものである。

6.最大の当事国はだれか?

核保有国がもっとも影響を受ける国であるなら、たとえ数の上では国連加盟国185カ国の少数(2.7パーセント)であるとしても、それらの国々の反対意見は考慮すべき重要な要素である。

もっとも影響を受ける国は自分たちであるという点は、核保有国によって強調されてきた。

しかし、核兵器に関して核保有国がかならず最大の当事国であるという前提に即座にとびつくべきではない。核保有国は核兵器を保有しているが、しかし、いったん核兵器が使用されたときに影響をうける国々を考慮の対象から除外してしまうのは非現実的である。この国々も、核保有国に劣らず、核兵器が使用されたなら、その領土と国民が核兵器の被害を受ける危険にさらされるのであるから、やはり最大の当事国となるであろう。この点はエジプトが提出文書で述べている。(CR 95/23, p.40)

核保有国が特に最大の当事国であるという主張の有効性を検討するために、核実験の場合を取り上げることは有意義であろう。大国が遠隔地の植民地で核実験を行い、管理が不十分で放射性物質があきらかに漏れたと仮定してみよう。そのような実験の違法性にもとづき影響を被った国が抗議するとして、もしその大国が核兵器の所有者であるがゆえにもっとも影響を被った国であるとの主張をするならばそれはまったく奇妙なことになるであろう。疑問の余地なく、被害を受ける側にある国がもっとも影響を受けるのである。実際の戦争でも同じ事がいえる。空中で炸裂した核兵器からの放射能は目標とされた国だけに封じ込めることはできない。近隣諸国が、核爆弾の所有国よりむしろ自分たちこそもっとも影響を受ける国であると主張するのはまったく正当である。

この論点は、その領土上で核爆弾が実際に爆発する国の抗議とはまったく無関係に、有効である。この後者の論点の妥当性は、1945年以来のいくつもの戦争のうち核保有国のうちのどこかで戦われたのは一つとしてないことをみればあきらかである。これは、最大の当事国という問題を吟味するさいに考慮さるべき状況である。

核保有国であれ非核保有国であれ、いかなるグループも、自分たちの利益がもっとも影響を受けるとはいえない、というのがこの問題でのバランスのとれた見方である。世界のすべての国は核兵器の影響を受けるのであり、なぜなら生存という問題にかかわるとき、それは世界的関心事であるからである。

7.地域的条約に参加している諸国は核兵器を合法とみなしているのだろうか?

アメリカ、イギリス、フランスはそれぞれの書面で、ラテンアメリカとカリブ海地域での核兵器の使用を禁止するトラテロルコ条約などの地域的条約に調印するということにより、調印した国々は核兵器使用は一般的には禁止されていないと暗に示しているのだ、とする立場を取っている。

そのような条約への加盟国はその地域において核不拡散体制を確立し、強化しようとしている。なぜなら、それらの国々自身が核兵器の一般的な違法性を認めていないからではなく、好核諸国の側が認めていないからである。

数多くの国連総会決議の採択時にとった立場を見れば、こうした地域諸国の見解が明確にわかる。たとえばコスタリカなどの国々は、核兵器の使用は人道に対する犯罪であり国連憲章違反と国際法違反の双方あるいはいずれかにあたるという立場から投票した。

まさに、条約そのものの文言に、署名国の核兵器にたいする態度が明確に示されている……すなわち核兵器は「人間という種の完全性にたいする攻撃」であるとのべ、それは「究極的には地球全体を居住不可能とさえしかねない」と明言している。

Z いくつかの特殊な要因

1.核不拡散条約

核不拡散条約(NPT)は暗に核兵器の合法性を認めている、なぜならすべての加盟国が反対なしに核大国の核兵器保有を受容しているからだ、という説がある。この論は無数の疑問を生じさせている。そのなかには以下のものがある。

(i) すでに述べられているように、NPTは核兵器の「使用あるいは使用の威嚇」には何の関係もない。核兵器の使用の権限も、あるいは使用の威嚇を行う権限も、どこにも見出されない。

(ii) 同条約は、「引き下げ状況(訳注:当面の削減策の実施が求められている状況)」のなかで作られたものである。当時世界は膨大な数の核兵器が存在し、それらが拡散するかもしれないという状況に直面していた。国際社会の当面の目標はこの兵器の蓄積量を引き下げることであった。

いくつかの国々が法廷への陳述書のなかで強調したように、この条約は、国際社会が承認しようがしまいが、少数の核保有国と大多数の非核保有国が存在するという現実を背景に作成されたものである。現実に、核保有国は自国の兵器を放棄しようとせず、拡散が重大な危険となっており、核兵器の廃絶という共通の最終目的を認識する一方で、拡散を防ぐためには可能なあらゆる手段がとられねばならなかった。

(iii) すでに見たように、ある状況が不可避であると認めることはその状況を承諾することではない。というのは、無力なゆえに望まぬ状況を回避できず、受け入れたとしても、それは、その状況に対して同意するということとはまったく異なるからである。

(iv) この、当面、できる限りにおいて核兵器を減らしていこうという状況においては、保有する権利が、使用あるいは使用の威嚇をおこなう権利を意味するという暗示があろうはずがない。保有の権利があったとしてもそれは、兵器の蓄積が引き下げられるまでの一時的で限定された権利だったのである。

(v) 同条約の前文は、この条約の目的を以下のように明確に述べている。

「核兵器の製造を停止し、貯蔵されたすべての核兵器を廃棄し、ならびに諸国の軍備から核兵器及びその運搬手段を除去する・・・・・・」。

この前文は、それが核保有国・非核保有国を問わずすべての加盟国の一致した見解を表していることに留意すべきであるが、核兵器の戦時における使用を「全人類に惨害をもたらす」と表現している。

これらは、以下のことを明確に示している。すなわちこの核不拡散条約は、核兵器の正当性を認めるものであるどころか、実際には、核兵器の完全廃絶を目的とし、すでに存在する核保有を削減するための、国際社会による集中した努力だったのである。ある兵器の廃絶に向けたこのような一致した認識と協調した行動がとられたことは、核大国の兵器庫に引き続き存在する兵器を正当だと国際社会が認めたとする考えとは、まったく相反する。

(vi) この条約によって保有が正当化されたとしても、その正当性は一時的なものであり、保有をこえるものではない。条約の範囲と文言は、それが全く一時的な保有の状態であり、それ以上ではないことを明白に示しており、それに対して締約国は自らの同意を与えたのである。その同意は、すべての 調印国があるまじきものであり廃絶されねばならぬとみなしたこれらの兵器を廃絶するために、核保有国が最大限の努力をおこなうという約束と引き替えに与えられたものである。ここにおいては、権利 の承認は存在せず、事実 があるのみであった。その事実の合法性は容認されなかった、というのは、保有が合法ならばその代償??すべての核保有国が核兵器廃絶のために全力を尽くすという誠実な努力??を要求する必要はなかったからである。核兵器があるまじきものであるということは、この条約全体の大前提となっている。

2.抑止

抑止については、すでにこの意見の中でNPTとの関係において触れた。しかし、抑止は法廷の意見が求められた事項の一つである使用の威嚇にも関係しているため、他の諸要因にも注意を払うべきであろう。

(i) 抑止の意味

抑止とは、本質的に、抑止にうったえる側が世界の他の国々にたいして威嚇を行なっていることを意味し、これはつまり、自国が攻撃された場合には、どの国に対しても核の力を使うつもりであるということである。この概念はさらに検討を要する。

(ii) 抑止??何にたいする?

核兵器に関して言われている抑止とは、戦争 という行為に対する抑止であり、ある国が反対している行動 に対する抑止ではない(421)。

抑止を目的とした核兵器保有の危険の一つは、この二つの区別をあいまいにしてしまうことであり、他国による歓迎されざる行動を抑止する目的のために核兵器が発揮する力を使うことである。この議論はもちろんあらゆる種類の軍備にあてはまるし、核兵器の場合はなおさらのことそうである。ポラニー(注421の筆者)が述べているように、抑止力の要因のなかでもっとも恐れられているのは、戦争を抑止するという限られた目標をこえて、歓迎されざる行動を抑止するまでに、その力を拡大して使おうという誘惑である(同)。

たとえば、抑止力は、ある国の「死活的利益」を守るために使うことができる、という意見がある。死活的利益とは何なのか、誰がそれを定義するのか? それはたんに商業的利益なのか? 他国内に、あるいは世界の他の地域に存在する商業上の利益でもよいのか?

これに関して言われるもう一つの文句は「戦略的利益」である。いくつかの陳述書が、一国の死活的利益が脅かされた時に、爆発力の低い「警戒的爆発」を使用することでもたらされるいわゆる「副次的戦略的抑止」について触れている(たとえばCR 95/27, p.53のマレーシアの陳述書を参照のこと)。この個別意見では、このような類の抑止力ではなく、戦争行為にたいする自衛という意味での抑止力について扱う。

(iii) 抑止の諸段階

抑止には、最大限抑止から最小限あるいは最小限に近い抑止戦略とよばれるものまでさまざまな段階がありうる(422)。最小限抑止は、次のように表現されている。

「ある国(あるいは複数の国々)が、核攻撃を被った後でも、敵に対して受容しがたいほどの損害を与えることのできる最小限の数の核兵器を維持するという核戦略」(423)

抑止力原則は、ブラウンリー教授が述べているように、大量 報復の威嚇に依拠している。

「実行に移されれば、この原則は、実際の威嚇とは不釣り合いなほどの反応を引き起こすだろう。このような不相応な反応は、国連憲章第51条で許された自衛を構成するものとはならない」(424)

同教授はまた次のように述べている。「抑止力としての核兵器の主要な目的は、無情で不快な報復である??それは戦争の兵器というよりはテロの道具である」(425)

 呈されている問題は、核兵器の使用がいかなる 状況の下においても適法であるかどうか、であるので、最小限抑止について検討しなければならない。

(iv) 最小限抑止

抑止にまつわる問題のうちの一つは、ごくささいな種類のものであれ、一方の側は防衛的とみなす行動でも、他方にとっては簡単に威嚇と受けとられがちだということである。このような状況が、関連する兵器の種類を問わず、従来の軍拡競争の典型的な背景となってきた。核兵器の場合には、核軍拡競争のきっかけとなり、多様な法律上の懸念を生じさせる。最小限抑止でさえ、このように対抗抑止に、さらに、核兵器実験や緊張の悪循環の一途へとつながるのである。ゆえに、もし抑止に対して法的反対意見があるとすれば、それらの反対意見は、その抑止が最小限であるということで片づけられるものではない。

 (v) 信頼性の問題

抑止は、攻撃された場合にはこちらには核兵器を使う意志が実際にあるという確信を、相手側に対して与えることを必要とする。たんなるはったりではこの意図は伝わらない、なぜなら、一方の側が真にその意図を持っていない限り、相手側にそれを納得させることは難しいからである。よって抑止とは、そのような兵器を使用するという実際の意図(426)のうちに存在する。もし抑止が作用するなら、それは想像上の世界を離れ、真剣な意図に基づいた軍事脅迫の場となる。

よって、抑止は、核兵器の使用脅迫が合法かというだけでなく、使用 が合法かどうかについても疑問を生じさせることになる。抑止に必要なのは敵方の確証的破壊であるため、抑止はかくして、戦争目的をこえた領域のなかに現れる。さらに、武力攻撃にたいする瞬時の反撃においては、適切な戦略核ミサイルを綿密に等級付けして使ったり、最小限の損害をおよぼすような「クリーン」な兵器の使用などは、実際ありそうなこととは思われない。

(vi) 保有と区別される抑止

抑止の概念は、たんなる保有より一歩すすんでいる。抑止は、たんに倉庫に兵器を蓄積する以上のものであり、実際の使用に備えた状態での兵器の保持を意味する。つまり、即座に発射できる兵器を、即時の行動に適応した指揮管制システムと結合することを意味している。兵器は運搬手段に積載されており、指令を受け次第直ちに実戦に使えるよう、要員が昼夜準備態勢に入っていることを意味している。倉庫に貯蔵されている兵器と、即時行動に準備された兵器との間には明確に、非常に大きな違いがある。たんなる保有と抑止とは、かくして明確に区別されうる、違った概念である。

 (vii) 意思の法的問題

すでに概説した種々の理由から、抑止は恐怖を与えることを意図した兵器の貯蔵ではなく、使用を意図した蓄積であることがわかる。ある者が兵器を使用する意思をもっているとすれば、国内法、国際法のいかんを問わず、法律的に意図 に付随するすべての結果が発生することになる。その者は、結果としてもたらされる損害あるいは破壊を起こそうという意図をもっているのである。敵の全面的破壊をもたらしたり、実際に完全に抹殺してしまうような損害を起こそうとの意図は、明らかに戦争の目的をこえている(427)。そのような意図があるということは、威嚇という概念にどのような精神的要素が内在しているかを示している。

 しかし、不法あるいは犯罪的な行為を犯そうとの意思が秘密裏に抱かれている時は、その意志が相応する行為に至らない限りあるいは至るまでは、法的な結果はもたらさない。よってそのような秘密裏に抱かれた意思は法律違反とはならないかも知れない。しかし、もしその意思が直接あるいは間接的に表明されたとしたらそれは、問題とされている違法行為を犯すと脅迫することになり、犯罪行為となる。

抑止は、その定義からして、秘密裏に抱かれた核兵器使用の意図とはまったく相反するものである。抑止は、ことばであるいは暗に、核兵器を使用する 真剣な意図があることが伝達されなければ、抑止にならない。それゆえ、これは使用の威嚇 に近い。ある行為が不法であれば、それを犯すと脅迫することと、さらに言えば公けに発表された脅迫もまた、不法であることは間違いない。

(viii) 抑止のために維持されている核兵器の使用の誘惑

抑止のもうひとつの側面は、この目的で維持されている核兵器の使用への誘惑である。当裁判所へは核兵器が使用されかねなかった無数の例が寄せられたが、そのうちもっともよく知られているのはキューバミサイル危機であろう。寄せられたうちの米国防総省文書に基づく研究は、1946年から1980年にかけて核兵器使用の可能性のあったそのような無数の例を列挙している(428)。

 (ix) 抑止と主権の平等

これについてはすでに扱った。もし自衛の権利において平等の原則を認めるのであれば、すべての国々が何らかの特定の兵器を使って自衛する権利を持つのか、あるいは、どの国もその権利を持たないのかのどちらかである。第一の選択肢は明らかにとてもありえない。とすれば第二の選択肢が、必然的に唯一の有効な選択肢とならねばならない。

すでにおこなった化学兵器、細菌兵器との比較は、(核兵器についての)この例外的状況を際立たせている。なぜなら、国際法の原則とは、国際社会の全範囲にわたって一律に効力を及ぼすものであるはずだからである。核兵器がなぜそれとは異なる制度に属するのかについては、これまで何の説明もなされていない。

(x) セント・ピータースブルグ原則との矛盾

すでに見たように、セント・ピータースブルグ宣言は、その後それにならったあるいはこれを支持した無数の文書(?V.3参照)のもととなったが、国家が戦争において達成につとめる唯一の正当な目的は敵の兵力を弱めることにあると宣言している(この点については、?X.2を参照)。抑止力論は、これをはるかにしのぐものを目的としている??これは、主要な都市部と人口集中地域の破壊、そして「相互確証破壊」をまでも目的としている。特に冷戦のあいだは、この理論のもとでミサイルが準備態勢に置かれ、ライバル国の主要都市の多くを標的としていた。このような政策は、セント・ピータースブルグにおいて厳粛に承認され、国際社会によって繰り返し支持された諸原則からまったく逸脱している。

3.復仇(=報復)

当裁判所は勧告的意見のなかで、近代国際法の集成において復仇の原則が受容されているかどうかについて意見を表明していない。私は、法廷がこの機会を利用して、今日の国際法のもとでは戦時であれ平時であれ、復仇が認められていないことを確認しなかったことを残念に思う。

ここで私は、復仇の権利の合法性を現代の国際法が政策として認めているという意見を、自分が受容していないことを、明確にしておきたい。

攻撃に対する反応としての行動であっても、他のすべての軍事行動と同様に戦争法規を遵守せねばならないという原則にたいして、復仇という概念は例外を設けうるものであろうか?

「国家間の友好的関係と協力の原則に関する宣言(1970年国連決議2625号)」は、「諸国は、武力行使を伴う復仇行動を差し控える義務をもつ」と明確に断言している。

ボーウェット教授は、次の文章の中で強くこの主張を押し出している。

「国連憲章のもとでは復仇として武力を行使することは違法であるという提議ほど、国際法についての定説のなかでも多く支持されているものは、他にはほとんどない。じっさい、<復仇>や<報復>という文言は憲章の中には出てこないが、この提議は一般的に、国連憲章第2条4項に定められた武力行使の禁止、第2条3項が命じている紛争の平和的解決、そして国家が自衛のために許される武力には制限があることの、論理的かつ必然的な帰結であると文筆家や安保理事会によってみなされていた」(429) 

これは非のうちどころのない見解であるが、さらに、核兵器は、それが必ずもたらす破壊の甚大さゆえに特別の問題を生じさせる、ということを念頭に置くべきである。いずれにせよ、全く異なる戦争行為の筋書きのために展開された理論は、一定の再検討をおこなうことなしには、核兵器にはほとんど適用不可能である。

ブラウンリー教授は、この点について、次のような言い方で述べている。

「まず最初に、核兵器を戦略的及び抑止的目的で使用する交戦は、全面戦争行為に匹敵するものとなり、撃ち合いそのものが戦争の目的となる。通常兵器戦争の戦域の詳細に関する理論を、このような打ち合いにまで拡大することはまったく正当ではない」(430)

これらの復仇権の存在に対する強力な法的反対意見は、ほかの2つの要因によっても支持されている??復仇にたずさわる側の行為、そして復仇の対象となっている側の行為である。

復仇にたずさわる側の行動は、その唯一の正当な目的が上記のとおりであることから、適度なものでなければならない。どんな特別の意図があったとしても、怒りや復讐心にまかせてあらん限りの核兵器を使うなどということは絶対に阻止されねばならない。これに関して、オッペンハイムの所見について言及することは有益である。彼は、さまざまな歴史的事例を検討した後、次のように結論づけている。

「復仇は、正当な戦争行為を確実にする方法ではなく、戦争法の根幹を成している事柄全体を冷笑的に侵害するための有力な道具となるかもしれない」(431)

引用されている歴史的事例は、とりわけ、仏独戦争、ブール戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦において、報復の原則にもとづいて正当化がねらわれた非常な残虐行為に関連したものである(432)。これらはすべて、武力行使においては戦争法規が防止するべき対象である残忍性、冷笑性、自制の欠如が伴うことを証明している。戦争法規の発展過程を生き延びたかもしれないこのような報復の権利の断片はすべて、この個別意見のなかで論じられたように、核兵器のもつ本質によって根絶された。

歴史を何らかの導きの糸とすれば、復仇にたずさわる側は実際にそのような「復仇の権利」??本当にそのような権利があるとすればだが??を行使するだろう。それも、報復の目的や限度、つまり戦争法規を遵守するという限定された目的を全く無視して。

つぎに、この権利を行使される相手となる側??つまりすでに戦争法規を無視した側??の行動についてだが、上述のような報復を受ければ、それが刺激となって手持ちの核兵器をすべて使用することになろうう??もちろんそれらが全滅させられていなければの話だが。

このような状況のもとでは、核攻撃にたいする復仇の手段としての核使用の合法性を認めよ、と当裁判所に求めることは、自制もない、恣意的な核兵器使用を許す原則を尊重せよ、と求めるのに等しい。

復仇のドクトリンの、たとえあるとしても唯一の正当化論は、それが適法な戦争行為をおこなうための手段であるというものである。しかし、核兵器を使用すれば戦争の適法性確保など不可能であることは明白であるから、主張されている例外にとってのこの唯一の理由も消滅してしまう。立法の根拠が消滅すれば、法そのものも成立しない。

4.国内の戦争 

当裁判所に問われた質問は、いかなる 状況においてもの核兵器使用に関するものであった。当裁判所の勧告的意見は、内戦について触れていない。核兵器使用はすべての状況において禁止されているというのが私の見解である。

対外戦争における核兵器使用を禁止している人道の法律原則は、国境を越えた時点で初めて効力を持つわけではない。それは国内でも同様に適用されねばならない。

4つのジュネーブ条約に共通している第3条は、同条約に加盟している列強のうち一国の領土内で起こる、国際的な性格を持たないすべての武力紛争に適用される。内戦に関する1977年の第2議定書は、マルテンス条項と似かよった言葉で述べられており、「人道の諸原則及び公共良心の要求」に言及している。

このように国際法は、国内と外部の住民とを、原則として区別していない。

さらに、ある国によって核兵器が国内で使用されたとすると、これまでに述べたような核兵器の効果についての分析から明らかなように、そのような国内的な使用が及ぼす影響は国内だけにとどまらない。チェルノブイリ事故が証明したように、広範囲にわたって外国へも影響を及ぼすであろう。

5.必要性のドクトリン

必要性のドクトリンは、違法な戦争行為への報復としての核兵器使用を許すような原則を提供しているであろうか。

昔の学者のなかにはこの必要性説の支持者がおり、特にドイツ学派の何人かは(433)、ドイツのことわざ "Kriegraeson geht vor Kriegsmanier"(「戦争における必要性が戦争のやり方に優越する」)を使ってこのドクトリンを説明している。しかしこの見解を支持しないドイツ人学者もおり、一般的にイギリス、フランス、イタリア、アメリカの国際法学者にも支持されてはいない(434)。

このドクトリンによると、戦争法規を侵す以外に不法な行為が引き起こした極限的な危険を回避する方法がないような時には、戦争法規はその拘束力を失うとされている。

しかし、お粗末なものながらもこのドクトリンの源流は、戦争に関する法規 ではなく、戦争の慣例 しか存在しない時代にさかのぼるものであり、このドクトリンはまだ国際社会によって拘束力あると認められる法規として固まったものになってはいなかった。

1864年のジュネーブ条約以来、これらの原則を拘束力ある法律と認めるなかで成し遂げられた前進によって、これらを意のままに、あるいは一方の当事者のただ一方的な判断で無視することができるといった見解は、擁護できなくなっている。第一次世界大戦のかなり前でも、ウェストレイクのような権威ある学者は、そのようなドクトリンを熱心に否定していたし(435)、新型で大規模な破壊手段??とくに海中、空中用の??が第一次世界大戦のなかで発明されたことで、このドクトリンはますます危険で不適当なものとなってきた。第二次世界大戦中の大量破壊兵器の発明によって、このドクトリンが無効なものとなったことは、いっそうはっきりした。

あの時代の戦争犯罪法廷の判決は、それまで実際存在していたとしても、このドクトリンが崩壊したことを証明している。イギリスの軍事法廷で裁かれた潜水艦戦に関するペレウス事件(戦犯報告 i <1946>, pp. 1-16)、アメリカによってニュレンベルク法廷で裁かれたミルチ事件(戦犯法廷 7<1948>, pp. 44, 65)、そしてクルップ事件(戦犯法廷10 <1949> p.138)は、法廷が重大な経済的必要性という問題を取り扱ったケースであるが、このドクトリンはすべての件で明確なことばで法的に却下されている(436)。

 この必要性のドクトリンは、復讐、大量破壊、そして核兵器の場合には、ジェノサイドにまで道を開くものである。戦争法規の原則を蹂躪するまでに至っては、このドクトリンが近代の国際法のなかに存在する場所はない。

以下はあるアメリカの学者の言葉である。

「都市住民をまるごと焼き尽くし、隣国や離れた中立国の領土を侵害し、将来の世代に残すべき自然環境を荒廃させるような軍事的必要性はどこにあるのか……?…そうだとすれば、われわれはニュレンベルク原則の崩壊、Kreigraison(戦争における必要性)の勝利、武力紛争に関する人道上の規則の放棄を目の当たりにすることになる……。均衡性の意味そのものが失われ、われわれは危険なことに、ジェノサイド犯罪、つまり戦闘あるいは紛争に勝利するというよりも、敵を殲滅することを目的とした軍事行動を、看過することに近づいてゆくのである」(437)

6.限定あるい戦術あるいは戦域核兵器

「小型の」、「クリーンな」、あるいは「爆発力の低い」、または「戦術的」核兵器を使うことで、核兵器に固有の危険は最小限に抑えることができるという、核兵器使用合法論者の主張については、すでに言及がされている。この要因は、この法廷に出された法的疑問にとって重要な意味を持っており、それゆえ、核兵器を限定的に使えば、その破壊力を根拠とした核兵器への反対意見をしりぞけられるというこの主張が受け入れられるものかどうかについて、少し詳細に検討する必要がある。

この問題を検討するにあたっては、以下の諸要因を考慮するべきであろう。

(i) 当法廷には、放射能を発せず、環境に有害な影響を及ぼさず、現在及び未来の世代に対して有害な健康への影響を及ぼさない核兵器が存在するということを証明するような資料はこれまで提出されていない。この個別意見のなかで列挙したような特異な性質のいずれをも有しない核兵器が実際に存在するとするならば、そのような兵器が使用される目的を達成するためには、ではなぜ通常兵器では十分ではないのかという点についての説明は、これまでなされていない。われわれは今知っているものとしてしか、核兵器について考えることはできないのである。

(ii) 小型の核兵器の実用性については、軍の高官(438)や権威ある科学者(439)によって、異議が唱えられている。

(iii) 自衛の情況において、反撃を限定的あるいは最小限の反撃と言われる範囲内にとどめることの政治的困難さについて、アメリカのロバート・マクナマラ元国防長官やキッシンジャー元国務長官のことばについて、すでに言及した(?W参照)。核攻撃の状況下では、戦争規模のエスカレーションを制御できるという仮定は非現実的と思われる。

(iv) 「小型」であれ、「戦術的」あるいは「戦場用」核兵器であれ、これらを使用することは、核のしきいを超えることになる。このような核による反撃をうけた側の国には、その反撃が小型の兵器を使った限定的なものか戦術的なものかはわからないであろうし、こうして核攻撃を受けた国が同種のやり方、つまりわざわざ小型核兵器でこれに再反撃するとの仮定はあてにならない。扉は開かれ、全面核戦争への境界線が越えられることになるだろう。

ここで検討されているシナリオは、核攻撃にたいする限定的核反撃である。上記で述べたように、

(a) 「制御された反撃」は非現実的であり、

(b) 核大国の第一撃にたいして行われたこの「制御された反撃」に対する、核大国の側からの最初の攻撃が「制御された反撃」となることは、なおいっそう非現実的である。

すなわち、われわれが検討しているのは全面核戦争のシナリオであり、したがってこの制御された兵器の使用は違法となる。

攻撃を受けた側が核兵器の全面的使用を自主的に「抑制する」との仮定は、この個別意見の中でもすでに見てきたように、きわめて空想的な想像の産物である。このような空想な思わくは、その上に人類の未来を築く前提とするにはあまりにも不確かであろう。

(v) 当法廷で陳述を行なった国々の代表のひとりは、以下のように指摘している。

「特別な状況のもとでの核兵器一発の使用ならば、人道の諸原則に違反しないこともありうる、と証明するために、どのような分析をしても、空疎で非現実的なものとなろう。もし核兵器が使用されれば、核戦争を誘発する可能性は極めて高くなるであろう」(オーストラリア、ギャレス・エバンス、95/22, pp. 49-50)

(vi)  核兵器による攻撃を準備している大国がある時には、先制攻撃が自衛のために必要だという議論が出るかもしれない。しかし、もしそのような先制攻撃が、定義によると通常兵器に比べて大規模な爆風も、熱線も放射線も出さないことになっている「小型の」核兵器でなされたとすれば、またしても、通常兵器で同じ目的が達せられるのであれば、なぜ核兵器を使わねばならないのかという疑問が起こってくるであろう。

(vii) 事故の要素は常に考慮せねばならない。核兵器は戦場では使用されたためしがない。被害を限定することが可能なのかどうかは試されておらず、いまだに被害限定を理論的に保証するものでしかない。高度な科学的操作における人為ミスの可能性を考えると??乗組員全員が搭乗したままで宇宙ロケットが爆発する事故の可能性にいたるまで??、いわゆる「限定された」能力しか持っていないものであれ、建設途上で何らかの誤操作や事故が発生しないとは決して言い切れない。実際、使用される兵器の大きさについては細かく等級付けがされているが、緊急の状況下で核兵器がまさに使用されようという事態は、事故の可能性に満ちている。(440) この国連軍縮研究所の研究(p. 11)は、「いったん衝突が起こった場合は戦争拡大の危険が非常に高い」と強調している。

(viii) 戦術核兵器の「小ささ」についてはいくぶん疑いがある。しかもこの兵器の詳細の正確な点についてはどの核大国も当法廷に何も提出していない。一方マレーシアは、当法廷への陳述で「爆発力の低い核兵器の…製造につながるような研究開発を禁止」するとしたアメリカ国内法を引用した(陳述書 p. 20)。これは5キロトン未満の爆発力をもつものと定義されている(広島と長崎へ投下された原爆はそれぞれ15キロトンと12キロトンとされている)(441)。これほどの火力を持つ兵器は、それを覆すような証拠がないもとでは、この個別意見の中で概説してきたような、核兵器に伴うすべての危険を備えていると推定される。

(ix) 特定の標的を正確にねらうことのできる兵器ならば使用することができるとの主張がなされている。しかし、先ごろの湾岸戦争の経験は、もっとも高性能あるいは「小型」の兵器であっても、正確にその意図された標的を撃つとは限らないことを示した。核兵器の場合にこのような誤爆がおこったら、非常に重大な結果がもたらされるであろう。

(x) もっとも小型の核兵器の使用によってもたやすく誘発される核戦争の場合に、WHOが百万人から十億人の死者がでると推定していることを考えると、このような規模の死傷者についてエジプトがおこなった陳述の中で示した、次のような考えに賛同するよりほかはない。

 「小型化の粋を極めたとしても、このように危険の範囲を投機的に見積もることは、人道法の一般原則に真っ向から反する」(CR 95/23, p. 43)

(xi) 化学・細菌兵器から類推して、このような兵器を少量使用すれば被害の規模も比較的小さい、よって、制御可能な量を使う事ができるから、化学・細菌兵器は違法ではない、と論じるものは誰もいないであろう。同様に、もし核兵器が一般的には違法だというのであれば、「小型兵器」にも例外はありえないはずである。

核兵器が本質的に非合法的だというのであれば、少量の使用や、小型版だからといって、それが合法となる事はありえない。同様に、もしある国が化学兵器あるいは細菌兵器で攻撃されたとしても、その国が同じ兵器を少量使って反撃する権利があると主張することは、ばかげている。これらすべての兵器がたとえ自衛のためにでも許されていないことの根本的な論拠は、それらの効果がすべて戦争における必要性を越えて及ぶことになるという、単純な理由によるのである。

(xii) もしも??当法廷ではどの国もそのような意見は提出してはいないが??放射線の発生を完全に 除去できるような核兵器があるとすれば、かつそれが大量破壊兵器ではないとすれば、これは当法廷の能力をはるかにこえた技術的データを扱う問題となり、合法的な核兵器と非合法の核兵器を当裁判所が定義することは全く不可能になるだろう。よって当裁判所は、一般的な条件の下での合法性についてものを言わねばならない。

すべての 核兵器が非合法ではない(つまり、核兵器は一つ残らず違法というわけではない)と、当裁判所が権威をもって宣言することは、核兵器の使用あるいは使用威嚇を望んでいる者たちが「自分たちが使うあるいは使おうと考えているある特定の兵器は国際司法裁判所の判断の解釈の範囲内である」と主張できる道を開くことになる。これを取り締まることは誰にもできないだろう。ある国が使用を選択するいかなる核兵器の使用にも扉が開かれることになるだろう。当法廷がいかに明確にその理由を述べたとしても、核兵器使用を望む大国が、法廷が述べた論拠の範囲内の兵器をわざわざ選ぶと仮定するのは、まったく非現実的である。

勧告的意見を出すことに反対するいくつかの議論

1.勧告的意見には実際の効力が全くない

法律がどうであれ、核兵器使用という問題は政治的問題であり、政治的に提起され、政治的に決着がつくべき問題だとの議論がある。そうかもしれないが、問題がいかに政治的であろうが、法律の意味を明らかにすることは常に価値がある。それは効果がなくも、的外れでも、さまつなことでもない。

当法廷が、法をそのあるがままに肯定することは重要である。法に堅実に基づいた判決は法が本質的に有する権威の力によって敬意を集めるものである。それは法が尊重される世論の風潮を作り出す助けとなる。このような判決が出されれば、当法廷が政治的問題にかかわらず法を明確にし発展させるという任務を遂行していることが、人々に知らされるという意味で、当裁判所の権威を高めることになるだろう。

アパルトヘイト体制の違法性について当裁判所が下した判決は、アパルトヘイトを実施している当の政府からの同意がえられるような見込みはほとんどなかった。しかし、この判決は、アパルトヘイト体制の解体に至る世論の気運を作り出すのに役立った。もし裁判所が自らの判決が無益な行為であるとの観点から考えていたなら、アパルトヘイトの廃止は、もし達成されていたとしても、ずっと後のことになっていたであろう。法を明確にすることはそれ自体が目的であり、目的のためのたんなる手段ではないのである。法が明確になれば、それが曖昧さに包まれているよりは、法への遵守をえられる可能性は高い。

「高度な政策」に関わる事項については、国際法の影響力はほとんどないという意見は確かにある。しかし、ブラウンリー博士がこの論について述べたように、「基準をまったくすべて取り払ってしまうよりは、危機のときには無効とされるかも知れない 禁止を掲げるほうがまし」(442)であろう。

 この点について、私は、この個別意見の冒頭で引用した、核兵器の違法性について大衆的意識が高まっていることの価値について、アルバート・シュバイツァーが述べた鋭い意見にも注目を呼びかけたい。

国際司法裁判所は、法廷の関心事ではない政治の領域に関わる事項へのしんしゃくに左右されることなしに、法律がその託された権限を発揮できるよう、法を宣言し、明確化するという自らの司法的役割を遂行する必要がある。

2.核兵器は平和を維持してきた

合法性を主張するいくつかの国々は、核兵器がこの50年間、国際安全保障に中心的な役割を果たし、世界平和の維持に貢献してきたと論じている。

この主張が正しかったとしても、当法廷においての法的検討にはほとんど影響はない。威嚇による強い恐怖感で敵を抑止する心理的効果が生まれる、というだけの理由で人道法に違反する兵器使用の威嚇が、戦争法規の違反にならないわけではないのである。当法廷は、恐怖に依存する安全保障のパターンを承認することはできない。1955年にイギリス下院でおこなった演説の中で、ウィンストン・チャーチルは、当時直面しつつあった状況を、印象的な言葉でこう表現した。「安全は恐怖の元気な子どもとなり、生存は滅亡の双子の兄弟となるだろう」。安全が恐怖の結果であり、生存と滅亡は双子の兄弟同士であると語るような世界体制は、平和と人類の将来を、恐怖に依存するものへと変えてしまう。これは当裁判所が承認できるような世界秩序の基盤ではない。国際司法裁判所が専念するのは法の支配を支持することであって、力や恐怖の支配ではない。そして、戦争法規の人道上の原則は、当法廷が遂行するよう委託されている国際的な法の支配のなかでもっとも重要な部分である。

恐怖に依存した世界秩序は、われわれを、ホッブスが『リバイアサン』のなかで描いたような自然状態に引き戻すであろう。そこでは主権者は、「剣闘士の態勢をとっており、お互いにたいして武器を構え、にらみ合っている……これはWarreの態勢である」(443)

百年をこえる人道法の発展を含む三世紀以上の歴史を経て、現在、次世紀への境目にさしかかっている国際法は、恐怖に依存した国際法をたんに再承認する以上の能力をもっている。そして、恐怖に支配された国際法を再承認するならば、時計の針を、グロチウスが描いた国際的な法の支配よりはむしろホッブスが描いたような自然状態に戻すだろう。この同時代の人物たちの非常に隔たった世界観のあいだで、国際法は明らかにグロチウスの方の見解を守る役割を負っている。今回のこの提訴により、国際司法裁判所は、未来の歴史家が、国際法の歴史における「グロチウスの瞬間」とよぶであろう機会を与えられたのである。当裁判所がこの機会を利用しなかったことを私は残念に思う。抑止と国際法とのあいだにある矛盾に気がつかなかったこともまた、抑止ドクトリンには潜在的に存在するホッブスの言った「Warreの態勢」を長期化するのに一役かったといえるかもしれない。

しかし、これらの研究がいかに決定的であろうとも、世界平和を守ってきたから抑止は貴重であるとの議論の弱点は、これだけにとどまらない。その偽りは歴史的事実によって証明されている。過去50年間のあいだに核兵器の使用が一度ならず検討されたことはさまざまな文献で明らかになっている。そのうちもっとも有名な二つの例は、キューバミサイル危機(1962年)とベルリン危機(1961年)である。このテーマについての詳細な研究から、もっと多くの例を付け加えることができるだろう(444)。このような事態のたびごとに、世界はいわばかたずをのみながら、核破局のふちをさまよったのである。たいていは核のボタンに手をかける者たちの度胸試しであったこれらの対立状態の中では、何がおこってもおかしくはなかった。核兵器による交戦に至らなかったのは、人類にとって幸運であった。また、核兵器があったから世界は戦争勃発からまぬがれたというのも正確ではない(445)。1945年以来、100をはるかにこえる数の戦争がこれまで起きており、死者数は二千万人にのぼっている(446)。第二次世界大戦終了以来、おそらく1968年をのぞく毎年、世界のどこかで武力紛争はおこってきたという研究もある。また、1945年から1990年までの2340週間のあいだ、真に戦争がなかったといえるのはわずか3週にすぎない(447)、という詳細な推計数字もある。

 これまで世界的大戦争がなかったのは事実である。しかし、核兵器は戦争で荒廃した世界から人類を救ってきたわけではない。現実には、紛争がエスカレートし、かつ核兵器が手に入れば核兵器の使用をひきおこしかねない一触即発の危機にみちみちている。万一それが引き起こされれば、「言語に絶する悲哀を人類に」もたらすだろう。そしてそれは、国連憲章が防止すべき第一の目的に挙げたものなのである。

 結論

1.当法廷に課せられた任務

(この個別意見の?W.4のなかで)反核の大義のために力を尽くしてきた幅広い団体について言及してきた。環境保護主義者、医師、法律家、科学者、俳優や芸術家、国会議員、女性団体、平和グループ、学生、連合体など数え切れないほど多くある。彼らはすべての地域、すべての国に存在する。

 さまざまな理由から、その反対の意見を主張する者たちもある。

 これまでのところ、この問題に関しては権威ある法的定説がなかったために、当裁判所に対して意見を求める要請がなされた。この要請は、この世界最高の司法機関の意見はこの非常に重要な問題において、世界のすべての人々にとって役に立つであろうという考えにもとづいて、世界でもっとも高度な代議機関である国連総会によって行われた。

 この要請は、こうして、国際司法裁判所に、この独特の問題について唯一無二の貢献をおこなえるまたとない機会を提供している。当裁判所は、勧告的意見によって、この問題において準拠すべき一定の重要な原則を、初めて法的に確立することになった。しかし、そうすべきであったにもかかわらず、これを全面的に行うには至らなかった。

 この個別意見の中で、私は法に関しての自らの結論を述べてきた。当面している問題の意味の大きさを意識しながらも、私は現在あるがままの 法に注意を集中した。それらは慣習法、そしてとくに人道法によってうちたてられた無数の諸原則であり、これらが特に核兵器が引き起こす被害の例に適用される。最初に述べたように、この問題について熟考の上で私が出した結論は、核兵器の使用あるいは使用の威嚇は国際法と相容れず、かつ、国際法の制度の基盤そのものと両立しない、ということである。この個別意見の中で私はやや詳細にわたって自らの論の根拠を示し、なぜ、現行法によって??あらゆる状況のもとで無条件に??核兵器の使用と使用の威嚇が禁止されているかについて述べた。

この法的結論が、この問題についての道徳原理であり人類にとっての利益であると自分が考えている意見とも一致していることに、私は励まされる思いである。

2.人類にとっての選択肢

この個別意見を終えるにあたり、1955年7月9日に発表された、ラッセル・アインシュタイン宣言に短く触れたい。バートランド・ラッセルとアルバート・アインシュタインは、今世紀最高の知性を代表し、どちらも、特に原子に閉じ込められた力に関して権威を持って語ることのできる2人である。彼らは、世界のもっとも著名な多数の科学者らとともに、核兵器に関連して、全人類に向かって強く心に訴えるアピールを発表したのである。このアピールは、理性、人間性、そして人類の未来への懸念に基づいて発表された。理性、人間性、人類の未来への懸念は、国際法の機構に組み込まれている。

 国際法のなかには、特に戦時人道法に関わった部分がある。私の今回の主張は、国際法の中の特にこの部分にもとづいて展開されたものである。そしてこの分野において、ラッセル・アインシュタイン宣言の中で発せられた懸念が、ひときわはっきりと共鳴して響いている。

 「この致死的な放射能をもった粒子がどれだけ広く拡散するのか、誰も知らない。しかし、もっとも権威ある人びとは一致して、水爆による戦争は実際に人類に終末をもたらす可能性が十分にあることを指摘している……

……私たちは、人類として、人類に向かって訴える??あなたがたの人間性を心にとどめ、そしてその他のことを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へ向かってひらけている。もしできないならば、あなたがたの前には全面的な死の危険が横たわっている」

 責任を果たすために必要な諸原則を整然と揃えることができれば、国際法は、きのこ雲の影を追い払い、非核の時代の陽光を呼び込むために重要な貢献を行なうことができるだろう。

 人類の未来にとって、これほど深い意味をもった問題は他になく、未来の脈は、国際法の本文の中に力強く波打っている。この問題はこれまでのところ、国際法廷の場に持ち出されたことはなかった。初めてそれがなされた今、この問題には解答が与えられねばならない??説得力をもって、明確に、そして断定的に。

(署名) クリストファー・グレゴリー・ウィーラマントリー

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