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異議を唱えるもの

 ジョージ・リー・バトラー将軍は、米核戦略の最高司令官に昇進した人物であり、四つ星将校であった。彼は、核戦争を計画し、その演習をおこなう任務をもっていた。やがて彼は、そのなかで自らの仕事の道義上の意味に疑問をもつようになったのである。
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 1988年12月4日、彼は初めてソ連を訪れたが、それ以前にその疑念はすでに芽生えていたと、彼は考えている。モスクワ郊外のシェレメチェボ空港の滑走路は、ひどくでこぼこで穴だらけだったので、ジョージ・リー・バトラー将軍は、飛行機が空き地に着陸したにちがいないと考えたほどだった。誘導路は、2日前の吹雪の雪に覆われており、彼の目には、滑走路に沿って何十もの壊れた街灯が通り過ぎていくのが見えた。中心街にむかって、でこぼこ道を、公用車の列がスピードをあげていくなかで、政府関係の巨大な建物群が、崩れかかり修理が不可欠な状態となっているのが目に留まった。そして、車の列がモスクワの中心部に近づいたとき、彼は、運転手の手の中で、ギアレバーが突然抜けてしまったのを見てあっけにとられた。

 アメリカの核戦争戦略全体の起案に責任を負っている空軍の将軍として、バトラーは、モスクワを心の中で何度も思い描いてきた。彼は、クレムリンでの荘厳なメーデー・パレードを映像で見たことがあったし、何千ものソ連の爆撃機、ミサイル、戦車、その他の兵器の配備を研究してきた。結局彼は、ソ連が、世界支配を追求し、西側との紛争を準備している、恐るべき要塞国家であると考えていた。アメリカにとって唯一の合理的な態勢は、戦争が勃発したら、アメリカができるだけ多くのソ連の兵器庫を破壊できるように、何千もの核兵器をただちに使用できるようにしておくことだと、同僚に語ったものだった。

 しかし、いま彼は、地上での第一印象から、その確信にぐらつきを感じていた。何千枚もの衛星写真、30年にわたるさまざまな機密報告から、彼は自分の目の前にあるものよりも、はるかに近代的で機能的な国を予想していた。しかし、実際彼が目にしたものは、「深刻な財政危機、……それ以上に、人々の目に写る敗北感だった。自分が長年、実は漫画のような現実を相手にしてきたのだという思いがどっと押し寄せてきた」。

 これは、自分が考えを変えたまさにその瞬間を、1997年の今、記憶をだどって思い起こそうとしている男の回顧録である。しかしそのような転機が実際には存在しなかったことを彼自身は知っている。指をパチンと鳴らすように、あるいは電球がぱっとひらめくように起こったのではなかったのだ。そうではなく、直感に訴えるような知覚が何度かあったのだ。運転手の手の中でギアレバーがはずれたときのような。他にも……。

 ロシア国防相のパヴェル・グラチョフがバトラーをたずねてオマハ近郊までやってきたのは、1993年12月であった。当時バトラーは、米戦略司令部あるいはSTRATCOMと呼ばれた米核戦略本部の司令官であった。ソ連はもはや存在せず、バトラーは引退を準備していた。グラチョフを司令センターに案内した後、バトラーは彼に、ロシアに向けてアメリカが核兵器を発射するさいには自分が座って命令を出すことになる椅子に腰掛けるように言った。バトラーの記憶では、会話は次のようなものだった。
 「将軍、あなたはこの司令センターの私の椅子に腰掛けておられます。そこは、私が軍隊を指揮・司令し、我が大統領の命令にもとづいて核戦争を開始する場所です。さて、何をお聞きになりたいですか。どんな質問にもお答えしましょう」。
 グラチョフは、通訳に耳をかたむけ、こう尋ねた。「本当の司令センターはどこにあるんですか?」
 「ここですよ」。
 「本気ですか?」
 「あなたは、私の本当の司令センターにいるんです」。
 「まさか。これでは、ひとたまりもない。ここはわずか地下10メートルですよ。地中深く埋められたあなたの司令センターはどこにあるんですか。このもっと下にあるんでしょう?」
 「いいえ、将軍。他にどんな司令センターもありませんよ」とバトラーは言った。しかし、ソ連軍人時代に長く培われてきたグラチョフの深い疑念と不信を解くことはできなかった。二人は話をすすめ、グラチョフは、バトラーに核兵器についての意見を尋ねた。
 「対決の時代は終わろうとしています」バトラーは自分が、そう口にしていることに気づいた。何千にもおよぶ核兵器は必要でなくなりつつある。「この方向がどこまで続くかはわかりません」。身振りで兵器数が減少してゆく線を示しながら、バトラーは述べた。「この末端が本当にゼロに達するのかどうかわかりませんが、私はそうなることを望んでいます」。
 「バトラー将軍、私はそれには同意できない」とグラチョフ。
 「なにが問題なのですか?」
 「核兵器は、われわれを大国にしてくれている」。
 「それはごもっともですが、」バトラーは答えた。「核兵器は、あなた方を恐れられるべき大国にしているのですよ。あなた方は、民主主義の国となってこそ、偉大な国になれるのです」。
 
 重い沈黙。バトラーは、その場にいた軍幹部や外交官たちが、自分の言っていることを見当違いだと思っているのではないかと、ふと思った。しかし、そのとき彼は、グラチョフに自分の意見を言っておかなければならないと感じたのである。

 バトラーは、自分自身との長い無言の対話のあと、こう述べた。
 「ばかげた、とんでもないことだと思う者もいるだろう……。私は、かつてフラニー・オコナーの『私は真実を目にし、真実は私を変わり者にした』というすばらしい一文を引用したこともあるのだ」。

 バトラーの引退後の四年間、米軍幹部が核戦争を計画するこの部屋の中には、ほとんど変化がなかった。ペンタゴンとオマハ近郊の丘陵でその任務を帯びている者たちは、ロナルド・レーガン大統領が署名し、後継大統領の誰も修正しようとしなかった極秘文書を、今も自分たちの全般的な指針としている。警戒センサー、通信網の結節点、兵器などの複雑なネットワークは若干縮小されてきたが、それらの維持には依然として年間330億ドルもの費用がかかっている。

 1993年にバトラーとグラチョフが会談した米戦略司令部は、いまも変わらぬままである。それは小さな、薄暗い明かりに照らされた、コンクリートと鉄骨に囲まれた階段式教室のような形をした部屋である。世界中の天候、ミサイルの軌道、爆撃機のルート、予定された核爆発による予想死亡率を表示した8つの大きなディスプレーの前には、椅子とコンピューターの列が並んでいる。終末の日の装置にふさわしく、殆どの時計が、最初の核弾頭の着弾の瞬間あるいは、アメリカのミサイルが発射される瞬間に向かって、カウントダウンするようになっている。

 米戦略司令部最高司令官のための椅子は2階にあり、大統領、国防長官、統合参謀本部議長、そして他の軍の高官に直接つながる電話の近くに置かれている。この椅子から、850億ドルもする200機もの重爆撃機が、大統領の核攻撃命令がありしだい、ロシアにむけて、あるいはいかなる場所にも出動できるようになっている。バトラーは、この椅子に、肩に四つ星をつけて、3年以上も座っていた。それは、長々しい下働き時代ののちに、上官たちがバトラーは核兵器の軍事的・戦略的価値について、冷静な判断としっかりした見解をもった男だと確信したすえに訪れた、彼の37年間の経歴における頂点の時期であった。

 しかし今日、ジョージ・リー・バトラーは、次のように信じ、公衆にむかってはっきりと述べている――核兵器は廃絶されなければならない。それはアメリカ人にも他の誰にたいしても安全を提供するものではない。冷戦時代のアメリカの国家安全保障政策の根本原則であった『核抑止力』論は、高価であり、誤った考えであり、危険であると。

 彼はこの見解を、昨年、ナショナル・プレス・クラブでの情熱的なスピーチで、はじめて公に宣言し、このスピーチは世界的な関心を集めるものとなった。「核兵器が受け入れられている世界をあたりまえの事として許容するよりも、もっとましなことが、われわれにはできる」とバトラーは述べた。核兵器の終末論的な威力を紛争の究極的な仲裁者とみることは、「人間の最も凶悪な本能を戦争の正当な根拠として認めるようなものである」。

 バトラーが初めて公式におこななったアピールは、段階的な核兵器廃絶を支持する60人の米ロなどの退役将軍・将校の声明の発表と時を同じくするものとなった。来月(98年1月)、バトラーは、核兵器廃絶にむけた措置を求める、約100人の世界中の現役あるいは元国家元首や文民指導者の声明発表に関連して、再び遊説をおこなう予定である。

 バトラーは、核兵器の廃絶を訴えた初の米核戦力司令官である――彼は、この大義にとって、もっとも有力な擁護者の一人となり、アメリカの主要な政治潮流によって、核兵器についての考え方を何年間も拒否されてきたリベラルな平和活動家たちにとっては、思いもよらない同盟者となったのである。バトラーの心変わりを知ったかつての同僚たちは信じられないという顔でかぶりを振る。バトラーの近しい友人であるチャールズ・F・ステビンス元米空軍准将は、ある知人が「バトラーは、十分な酸素もないまま、高く飛びすぎたのだ」と語っていたと述べている。だれもがこれほど礼儀正しいわけではない。

 アメリカの軍と政治組織の高官のなかには、これほど明晰で経験ある軍の高官が核抑止力の必要性を拒否したことに、はっきりと神経質になっている者たちがいる。バトラーが昨年例の演説を準備していた際、ホワイト・ハウス報道官のマイケル・マカリーは、バトラーの先を制してメディアに次のように語った。「われわれは、将来においても核兵器がわが国の抑止戦略のかなめ石の一部だと確信している。したがって、もちろんのこと、(バトラーの考えとは)いかなる完全な一致点もない」。

 バトラーは世界の兵器庫から核兵器を廃絶するためのいかなる努力にも反対する議論をよく心得ている。その中には、次のような議論がある。ロシアのように潜在的に不安定な国は核の脅威となり続ける。核兵器廃絶は、イスラエルや日本その他のアメリカの同盟国を不必要な危険にさらすことになる。核兵器は、化学兵器や生物兵器によるアメリカ軍への攻撃を抑止し、あるいは、それに応酬するために維持されなければならない。アメリカや他の主要核保有国がどのような動きをしようとも、インドやパキスタンは、核兵器の保有を断念しないだろう。

 「このような批判はすべて、完全に予想できる」とバトラーは述べている。「数年前なら、私自身がそれらの議論を書いていたはずだ」。STRATCOM司令部からほんの2、3マイルの所にあるオマハ市の中心街にオフィスを構えるビジネスマンとして、バトラーはこれらを含め、複雑な核兵器政策の問題を、一つ一つ時間を割いて相当詳細に検討した。彼は、反タバコ運動の活動家になったもと喫煙者のような情熱を持って、彼の使命に打ち込んでいる。彼は、近年の歴史は、自分と同じ見解を持っている人々に希望を与えるもので、それは、最初は不可能だと思われたものが、専門家が予測したよりも容易に達成されるということを教えているからであると主張している。

 「核兵器の廃絶は空想的であると言う人々は、何十年ものあいだ、冷戦の終結は空想的だと考えられていたことを忘れてしまっているのだ」と彼は言う。
 
 情熱的な男でありながら厳格な軍人らしい態度で、バトラーは、自分もかつて「核に仕える聖職者の意見を信頼し、聖戦に夢中になっていた」ことを認めている。実際、彼自身、高位の聖職者だった。彼は、「新兵器の製造に立ち会い、そのために必要なものや技術について、直接指示する責任を負っていた。私は、12000ヶ所に標的を定めた戦争計画の作成を担当した。その中の多くの標的はくりかえし核攻撃をあびせられ、全く不条理としかいい様のない状態にまで陥ることも考えられていた」。話のなかにやや宗教的な言葉を織り交ぜながら、バトラーは、「冷戦の過酷な緊張から解放」された後、あらためて核兵器による安全保障の問題を自由に検討できるようになったと述べている。

 その解放の前には、南部の小さな田舎町からはじまって、軍事機構内の高みに上りつめ、核の発射ボタンに手をおき、ハルマゲドンを予期して道義心に逡巡しながらも大統領の命令を忠実に待ち受ける司令官となるまでの、長い人生の歩みがあった。おそらく、核司令部の他の同僚とバトラーとの際立った違いは、彼が自分の任務について熟考し、判断し、側面からも検討し、すべての起こりうる結果を鮮やかに想像してきたことだろう。軍人としての経歴を思い返すのに、明瞭かつ厳しい口調で話すバトラーを聞いていると、彼が自分の仕事の重要な意味を強く認識し、常にそれに疑問をなげかけ、その道徳的意味の源を探ってきた男であることが感じとられる。これは、戦争を戦い、勝つことを生業とする将軍としては正常な、そして軍事的観点からは望ましい思考様式とは言えない。

 しかし、これがバトラーのたどった道であり、それこそが、彼の考えを変えさせたものなのである。歴史が彼にいかなる審判を下そうと、それは、あるアメリカ人将軍の異論を唱える良心がたどった、驚くべき旅なのである。

 「記憶をたどり、すべてを思い返してみると、その道筋のどの箇所でも見えるのはまったく……。 これと取り組んでいる者たちの頭脳を見てほしい。帰ったら、これまで出版されている本や、そこからほとばしり出る言葉を読み返してみればいい。これまで何千という会議が開かれてきた。教養があり、賢明で、動機に満ちた者たちが、じっとあごをひいて座り込み…… SIOP(単一統合作戦計画)について議論している。大量攻撃の選択肢は1、2、3、4番まで、選択爆撃の選択肢は1から7までだ。そして大統領の目の前にどんなふうに「決定系図」をずらりと並べるかを話し合っている」。しかし、これらのすべての向かう先には何があるのか? 終末論的な核戦争だったのである。

 1957年、アナコスティアのボーリング空軍基地で、ミシシッピ州のオークランドから出てきたやせぎすの17才の少年は、給食係の軍曹に助けを求めた。もし、5日以内に5ポンド太れなければ、空軍士官学校の入学条件である最低体重117ポンドを満たせなくなってしまう。たった300人の第三期生募集定員にたいし1万人もの出願者がいる中で、候補生を選ぶボーリング基地の軍医たちは、1ポンドの体重不足であっても喜んで不合格理由としてしまうだろう。

 無償の大学教育へ必死の望みを託してきたバトラーは、その一週間のあいだ、目の開いている時間はとにかく可能なかぎりを食堂で過ごし、ミルクシェイクとマッシュポテトを詰めこんだ。体力測定の最終審査に合格した後、体重計の針がまだ2ポンド足りないのを見て、彼は気も狂わんばかりになった。ところが、医務室の事務をしていた若い航空兵は、バトラーに25セント硬貨を渡して、1クォート入りのチョコレートミルクを買うように言ったのである。なぜか?「あれは重さが2ポンドあるんだ」と、その航空兵は答えた。
 

(以下略)

  R. Jeffrey Smith covers national security issues for The Post.
  Copyright 1997 The Washington Post Company



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