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反核平和運動・ビキニデー

主催者報告

原水爆禁止世界大会実行委員会 運営委員会代表
野口 邦和

 参加者のみなさん
 ちょうど55年前の1954年3月1日、太平洋上の楽園と呼ばれた美しい国、マーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカは水爆実験を行いました。「ブラボー」と名づけられた水爆の爆発威力は15メガトン、広島原爆1000発分に相当するとてつもないものでした。しかも、この水爆は3F爆弾と呼ばれ、水爆のまわりをウランで包み込んで大量の核分裂生成物が生成するよう設計された典型的な「きたない爆弾」でした。ブラボー爆発はサンゴ礁の島をえぐって蒸発させ、その時に生じた直径2キロメートルのクレーターが今も残っています。破壊されたサンゴ礁の微粉末に核分裂生成物などの放射性物質が付着したいわゆる死の灰は何万平方キロメートルもの広大な海域に降り注ぎ、ロンゲラップ環礁やウトリック環礁などの島民を被曝させました。

 死の灰は、アメリカが当初設定した危険水域の外側で操業していた日本のマグロはえ縄漁船「第五福竜丸」にも降り注ぎ、23名の乗組員を被曝させました。2週間後、第五福竜丸が母港の焼津港に戻った時、23名の乗組員は程度の差はあれ全員が急性放射線障害になっていました。半年後の9月23日、乗組員のひとりである久保山愛吉さんが手当の甲斐なく急性放射線障害により亡くなりました。

 参加者のみなさん
 このブラボー実験を皮切りに、アメリカは1954年3月から5月にかけ、ビキニ環礁とエニウェトク環礁でキャッスル作戦と呼ばれる6回の水爆実験を行いました。実験による海洋の放射能汚染は、海流を通じてマーシャル諸島海域から太平洋全域に広がりました。日本各地で採取された雨水からも強い放射能が検出されました。当時、魚体表面から10センチメートル離したガイガー計数管による測定で、1分間に100カウントを超える放射能汚染のあったマグロなどの魚はすべて廃棄されました。記録によれば、1954年12月末までに汚染されたマグロを水揚げした日本の漁船は856隻、廃棄されたマグロは486トンに及びました。しかし、ビキニ事件の幕引きを望んだアメリカ政府の要求を受け入れ、日本政府は放射能汚染検査をやめてしまいました。1955年1月以降の汚染マグロに関する記録がないのは、それが原因です。当時、広島・長崎の被爆者の病苦・貧困・差別を放置していた日本政府は、ビキニ事件でも再び被災者を放置するとともに、国民の安全よりアメリカ政府の意向を優先させたのです。ビキニ事件の記憶のない当時5歳未満の子どもやビキニ事件後に生まれた国民が日本の総人口の約3分の2を占めている今日、私たちはビキニ事件以来延々と続く日本政府の対米従属・安全軽視の姿勢を厳しく批判し、語り継いでいかなければならないと思います。
 広島、長崎、ビキニと三度原水爆の被害を体験した日本の国民は、原水爆の非人道的な恐ろしさを実感しました。もし原水爆が戦争で使われたら世界中が広島、長崎、ビキニになり、人類は滅亡するかも知れません。こうして日本各地で原水爆禁止を求める人びとの声が燎原の火のように広がり、翌1955年8月に広島で第1回原水爆禁止世界大会が開催されました。核戦争阻止、核兵器廃絶、被爆者援護・連帯を目的とする草の根の原水爆禁止運動の原点は、ビキニ事件を契機に生まれたのです。ビキニ事件を契機とする原水爆禁止運動の広がりの中で、1956年8月に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成されたことも指摘したいと思います。日本被団協が2003年4月に原爆症認定集団訴訟を提起し、これまで日本の各地の地裁・高裁で被告・厚生労働大臣に連戦連勝していることは、ご存知のとおりです。厚生労働省の矛盾に満ちた非人道的な被爆者行政を改めさせるため、日本被団協と原爆症認定集団訴訟に今いっそうの協力と支援をお願いします。

 参加者のみなさん
 第1回原水爆禁止世界大会の開催された1955年は、7月に原水爆が人類を絶滅させる可能性を憂慮して全人類に訴えた「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発表された年でもあります。この宣言を受け、2年後の1957年7月、科学と世界の諸問題に関するパグウォッシュ会議が開催されました。パグウォッシュ会議は戦争と平和に関する諸問題を討議し、原水爆禁止を訴える科学者による国際会議として発展し、今日に至っています。広島・長崎の被爆50周年の1995年、パグウォッシュ会議とジョセフ・ロートブラット会長(当時)がノーベル平和賞を受賞したことは、みなさんご承知のとおりです。

 参加者のみなさん
 「原子兵器、現在および将来に大量破壊に応用しうるその他すべての主要兵器を禁止し、各国の軍備から廃絶する」。これは1946年1月の第1回国連総会決議第1号の一節です。核兵器の廃絶は、国連がその発足当初から宣言してきた目標です。核兵器廃絶の目標は、核保有国を含む国連加盟各国が調印した数多くの宣言や決議においてもずっと確認されてきたものでもあります。冷戦が終わってちょうど20年、「核兵器のない世界」は今、究極の目標ではなく現実の課題として私たちの眼前にあります。核兵器廃絶の流れは今や世界の本流であり、それは署名活動や原爆展の開催など、被爆国日本の原水爆禁止運動と世界の反核平和運動が半世紀を超えるたゆみない草の根の努力によって共同で切り開いてきた成果です。
 昨年1年間をふり返ってみても、1月にはかつてアメリカの核政策の中心を担ってきたヘンリー・キッシンジャー氏ら4人の元高官が一昨年1月に続き、「核兵器のない世界」の実現を訴える共同論文をWSJ紙に発表しました。一昨年1月のキッシンジャー氏らの4人の共同論文を受け、ヘルムート・シュミット氏らドイツの4人の元高官も「核兵器のない世界」の実現に向けたドイツの見解を、同じ1月にIHT紙に発表しました。2月にはNATO加盟国ノルウェーの外務省がオスロ会議を主催し、「核兵器のない世界のビジョン達成」を優先課題として位置づけるよう訴えました。10月には日本とオーストラリアの元外務大臣を共同議長とする核不拡散・核軍縮に関する国際委員会の第1回会合がシドニーで開催されました。同じ10月に潘基文(バン・ギムン)国連事務総長は国連本部で、核兵器のない世界は世界がめざすべき最も高い善であるとする講演を行いました。11月にはアメリカで、核兵器のない世界を追求することを公約に掲げたバラク・オバマ氏が大統領選挙で勝利しました。12月には第63回国連総会で核兵器廃絶を求める決議が圧倒的多数の賛成により採択されました。

 参加者のみなさん
 繰り返しになりますが、核兵器は廃絶されなければならないというのが現在の世界の本流になっています。こうした中で、自国の安全保障をアメリカの「核の傘」の下でしか考えることのできない日本政府の姿勢は異常極まりないものです。被爆の国民的体験をもつ日本の政府が、核の傘から離脱して非核三原則と憲法9条を厳守する道を進み、核兵器のない世界を求める運動の先頭に立つよう、私たちは今いっそうの奮闘を誓い合おうではありませんか。
 今年8月に開催される原水爆禁止2009年世界大会は、2010年4月にニューヨークで開かれる核不拡散条約(NPT)再検討会議を8カ月後に控え、特別の役割が期待されています。「核兵器のない平和で公正な世界を」という人類共通の願いを早期に実現させるため、今年の原水爆禁止世界大会を歴史的な大会として成功させることが私たちに求められています。核兵器のない世界の実現という世界の流れをより確かなものとするため、本日の3・1ビキニデー集会を起点として国際署名「核兵器のない世界を」と原爆展の取り組みを車の両輪に、「6・9行動」や国民平和大行進などの取り組みを通じて大きなうねりをつくり出し、原水爆禁止2009年世界大会を大きく成功させ、「核兵器のない平和で公正な世界」の実現めざして前進していこうではありませんか。以上で主催者報告を終わります。ありがとうございました。

 

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