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被爆者援護連帯

世界の被ばく者の証言・資料 アメリカ合衆国


原水爆禁止2000年世界大会・国際会議

サンフランシスコ・オークランド地域平和リンク
ハンフォード風下地区住民
ジューン・ケーシー



  1949年ワシントン州のハンフォード核施設での秘密放射線人体実験の犠牲者として密かにおこなわれた放射線人体実験の犠牲者として、この世界大会に招待されました。ハンフォードで製造されたプルトニウム爆弾が、長崎の上空で炸裂した言語を絶する被害と恐るべきほど多くの犠牲者をうみました。私は個人として謝罪する機会をいただいたことに感謝を申し上げるものです。55年たった今でも、日本では、潜伏していた放射線の影響で、毎年5000もの人が通常の寿命をまっとうせずして亡くなると聞いています。

  米国国民は、このほど解禁された文書から、遅ればせながら日本政府が米国によって8つの挑発行為の対象とされていたことを知りました。「醜行の日」と呼ばれていますが現実には「欺きの日」である真珠湾攻撃をおこなうよう仕向けられたのです。「欺きの日(Day of Deceit)」は、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領と真珠湾についての真実を明らかにした、ロバート・B・スティネット氏による新著のタイトルで、もうすぐ日本語訳が発行されます。また、原爆投下は、当時私たち国民が知らされていたように、第二次世界大戦を終わらせるために必要だったのではない、ということも知りました。太平洋の両側で私たち世界大会参加者は、それがいかに苦痛であっても真実を語らなくてはなりません。

  1999年11月、『エコロジスト』誌(原子力の狂気の特集号)において、カナダの疫学者ロザリー・バーテル博士は、核産業ではその開始以来、13億人が死亡したか不具になったか病気になったとの推定を発表しました。核産業側による数値は、世界で自分達が生み出した被害者を覆い隠そうと、被害の規模を実際より大幅に低く見積もっています。

  最近お目にかかる機会を得た物理学者のアーネスト・スターングラス博士は、「秘密主義は、開かれた社会を統制しうる手段のひとつである」と述べています。時として、最大の犯罪は、秘密主義を行使することにより、政府と企業により自国の国民にたいし犯されます。そういった犯罪の一例について私の経験をお話ししましょう。

  1940年代と50年代、ハンフォード核施設で操業していたジェネラル・エレクトリック社は、1,100億キューリーの放射性ヨウ素131を継続的に、秘密裏に放出しました。1986年の母の日、私は、自分が、その際被ばくしたワシントン州「風下地区住民」27万人のひとりであることを知りました。ヨウ素131には発ガン性が認められており、牛により消化されると、牛乳に高濃度で蓄積されます。

  1945年には、ハンフォードから55万キューリーの放射性ヨウ素が放出され、1億5千万のアメリカ国民が、一人当り40億ピコキューリーを超えるこの致死的放射物質にさらされました。これは、その結果、地域の甲状腺がん発生率を200倍に押し上げたチェルノブイリ原発の事故で放出された放射線に匹敵する量です。その後、20年にわたり大気圏実験がおこなわれましたが、米国の天然資源保護協議会(the Natural Resources Defense Council)が最近おこなった推定によれば、これは、広島型原爆4万発分に相当するといいます。

  連邦政府と州政府当局は、ハンフォード近くのコロンビア川を世界で最も放射線に汚染された川と宣言しています。原子炉の操業がピークだったころは、コロンビア川の岸に立っているだけで相当量の放射線を浴びることが可能でした。米国の核兵器製造から生ずる高濃度放射性廃棄物の3分の2が、ハンフォードに貯蔵されています。ハンフォードには、核戦争が起こったとして、そこから生ずる放射線を超える量の放射性物質があるのです。現在、ハンフォードの汚染除去作業には、1千億ドルの費用と30年の月日が必要だとされています。それでも何千年にもわたり放射能が消えることのない地域が残ります。

  今年6月ハンフォード施設とその周辺で火災が起こり、19万エーカーが焼けましたが、これは、重大な警告となりました。今年5月には、農務省林野部による野焼きが暴走し、ロスアラモス国立研究所周辺の200家屋と4万8千エーカーが焼けました。そのうち9,000エーカーが研究所の土地で、ベータ線量は通常の4倍、アルファ線量は20倍に増加しました。

  最近、ハンフォード付近の住民にたいし、そのすべてが医療記録により証明されている広範な疾病にかんする健康調査がおこなわれました。その結果、乳ガンと肺ガンの発生率が3倍、甲状腺と白血病が10倍に増加していることが判りました。「ハンフォード死の一マイル(the Hanford Death Mile)」と呼ばれる地域では、ここに暮らす世帯の100%で、ガン、心臓疾患、先天性異常のいずれかが見られました。私が450人のハンフォード風下地区住民におこなった健康調査では、回答したうちの40%の人に、遺伝上の障害をもつ子どもがいました。全国的には、1945年から1965年のあいだ、低体重児の出生率が40%増加しています。

  私の浴びた放射線の中でもっとも深刻な影響をおよぼしたのは、「グリーン・ラン」として知られる計画的な秘密実験によるものです。この実験は、1949年12月2日にジェネラル・エレクトリック社の原子核工学部がおこなったもので、放射性ヨウ素1万1千キューリーとキセノン2万キューリーが意図的に大気中に放出されました。これは、当時の放射線許容量の1万1千倍でした。しかも当時の許容量は今日の20倍という高さでした。当時私は、ハンフォード核施設から50マイル風下にあるホイットマン大学の学生でした。

  ハンフォード放射線医療顧問のハーバート・パーカー博士とカール・ガマーツフェルダー博士は(私は博士に電話インタビューをしたことがありますが)、この実験はおこなうべきではないと警告していました。パーカー博士は、実験は「10年、15年のうちに心身に有害な影響をもたらす」と述べていました。しかし、この医療上の助言は、完全に無視されました。バーテル博士は、「正義の問題で、人間の健康侵害に帰着しないものはない」と述べています。

  疾病対策センターの調査では、1940年代から50年代のあいだ、ワシントン州風下地区に暮らす3万の子どもたちは、チェルノブイリから3マイルの地点に住んでいたソ連の人びとの20倍の放射性ヨウ素を浴びていたことが明らかになっています。これは、風が吹いた方向と、ソ連で地域住民にたいしてとられた保護措置の違いによるものです。

  ワシントン州保健局の放射線専門家であるアレン・W・コンクリン氏によると、世界でも知られている中で、ワシントン、オレゴン、アイダホに住んでいた私たちほど、長期にわたりそれほど大量の放射線に被ばくした民間人集団はいない、ということです。なかには、3万6千回のエックス線写真に相当する、3千ラドもの放射線を浴びた子どももいました(1990年7月13日付フロリダ州『セントピーターズバーグタイムズ』)。

  政府文書によれば、ハンフォードで放射性同位体が放出されたのは、放射線戦争の潜在的影響力を評定するためであり、なかには、地元住民にたいする破壊力と影響を見るためだったと考える人もいます。カーティス・ルメイ将軍が率いた放射線戦争実験秘密計画は、供給用の水と牛乳を汚染する目的で、放射性分裂物質を放出できるもので、ハンフォードにおいて1954年までおこなわれました。ワシントンの住民の多くは、1949年の実験が、この放射線戦争計画の一環であったと考えています。ぞっとするのは、現在の環境法のもとでは、おなじ秘密実験がいまでも可能なことです。

  被ばくした結果、私は、重度の甲状腺機能低下、流産、死産、乳腺腫瘤摘出、皮膚ガン、慢性変性脊椎、ガン性になりうる甲状腺結節、永久脱毛という影響を受けています。食道にも問題があります。食べ物が飲み込みづらく、腫瘍摘出のため内視鏡手術を2度受けました。脊椎は絶え間なく痛み、まるで、電気のこぎりで拷問にかけられているようにさえ感じます。肩は、バーベキューの熱い炭につかまれているように感じます。

  1997年の8月、もとの場所に延性ガン腫ができました。これは、非常に攻撃的になりうる種類の乳がんで、2度手術が必要でした。2回目のとき一部乳房を切除しました。毎年、17万5千人の女性が、転移性質の乳がんの診断を受けています。最近受けた乳房レントゲン写真により、ガンが再発しているかもしれず、生体組織検査が必要なことが判りました。モルモン教徒の作家であり自然主義者のテリー・テンペスト・ウィリアムは、胸がつぶれるような詩のなかで、こう書きました。「私たちは、乳房をひとつしかもたない女性の一族を形成するまでになった」。

  『サンフランシスコ・エグザミナー』紙(1997年8月13日付)の記事はショックでした。「こんにち最良の乳がん診断方法(乳がんレントゲン撮影法)は、40年も昔の技術で、誤診をまねきやすい。女性健康診療所(the Office on Women’s Health)によると、この方法でとられた映像は、ガンの15%から20%を見逃してしまう。乳がん診断を改善するのに必要な技術はある。しかし、それは適切でない者の手にあるのだ。莫大な予算をもち、国家の安全保障を任務とする国防・諜報分野は、医療分野の発展とハイテク映像の使用において、10年先をいっていると推定されている。」

  爆弾の標的を探し出したり、殺すことが、ガンの検出より優先されているとは、なんたる不条理でしょう。女性は、防止できる乳がん手術により、痛みを伴い、体を切り落とし、傷つけ、ゆがめる残忍な仕打ちを受けているのです。アメリカ人は、第三世界でおこなわれる生殖器一部切除を非難します。ならば、いわゆる第一世界がこれより進んでいるとでも言うのでしょうか。

  この驚くべき政府による欺まん行為は、ハイマン・G・リコーバー提督が、息子の妻であるジェーン・リコーバーにおこなった(公証人により認証された)告白により明らかになりました。リコーバー提督は、ケメニー大統領委員会が1979年のスリーマイル島事故について事実を報告すれば核産業は壊滅的打撃をうける、と述べました。よって、リコーバーは部分的炉心溶解の苛烈さについてウソをつくようジミー・カーター大統領を説得したというのです。リコーバーは後に、この重大なる国民にたいする欺きを後悔したと述べました。

  政府関係者や国防省と契約を結ぶ人間のなかには、核兵器は必要悪だという人がいます。いいかげんにこんな精神構造から脱して、悪などというものは決して必要でないとする考える時ではないでしょうか。

  ホイットマン大学時代の友人には、手のない子どもが生れました。いったいあと何人このような子どもが生れなくてはならないのでしょう。ハンフォード付近で育ったという、スポーカンからきた母親の11歳になる目が細長く切れていた娘のような子があと何人生れなくてはならないのでしょう。忌まわしいハンフォード死の一マイルで生れた目、頭、おしり、指のない子どもがあと何人生れなくてならないのでしょう。父の秘書を務めた女性の5歳の娘は、白血病により脚を切断しなくてはなりませんでした。あと何人の小さい子どもたちがこのような苦しみを受けなくてはならないのでしょう。

  核兵器廃絶の運動にたいする献身をあらたにするにあたり、こうした放射線犠牲者を想い起こそうではありませんか。大きすぎる頭をもって生れた赤ん坊、生まれつき脚の先にひざがくっついている女性、額のまん中に丸い目をひとつ持つ巨人キュクプロスのような赤ん坊、腕がない若い絵描き。彼に出会ったとき、彼は口を使って絵を描いていました。

  冷戦が終わった後ですら、世界は3万近くの核兵器の存在に苦しんでいます。(潜水艦を基地とする米国のトライデント核兵器システム(史上もっとも金がかかり、破壊的である)は、あわせて広島型原爆の8万5240発相当の破壊力をもつ弾頭を装着したミサイルを積んでいます。「トライデント反対ネットワーク」のマイケル・スプロングは、「核兵器は、その犠牲者に打撃を食らわそうと待ち構えている移動式『死の収容所』である」と述べています。

  第二世代の核兵器と、その設計と実験に費やされる何十億ドルもの費用が、生殖不能と32種類の放射性ガンが愛する家族と友人を不具にし殺しつづける地球を、永遠に放射線に汚染された地としているのです。この大会が、命のはかなさと母なる地球を守る必要性を認識する場所となることを願っています。私たちの住みかは地球のほかないのです。私たちハンフォードのヒバクシャは、私たちの傷跡から思いやりと英知が生れることを願います。核の蛮行は、ナチスによる死の収容所と同じ凶悪行為で、「音を立てないホロコースト」なのです。

  スター・ウォーズ(宇宙戦争)のセンサーを実験するため原子炉と原子力衛星を使った、宇宙の軍事化は、核の狂気のもっとも最近の例です。先の7月7日、米国は、弾頭を爆破する「殺人ロケット」を積んだミサイル迎撃機の実験に失敗しました。この三段階「殺人ロケット」は、その先端に装着した模擬弾頭により、改造されたミニットマン大陸弾道ミサイルを破壊することを目的とするものです。この実験失敗をもって、米国議会は、全米ミサイル防衛システムが機能しないという警告を受け取るべきです。私たちは、この国際会議において、米国の誤り導かれた科学者と技術者たちによる宇宙の核武装化を阻止するために奮闘せねばなりません。

  この国際的集まりが、あふれる喜びと、限りない情熱と、衰えることのない楽観主義をもって、私たちが直面する道徳的課題に取り組むため、反核運動にあたらしい力を吹きこんでくれることを願います。地球という名のこの奇跡が、私たちそれぞれがもつ神の力を呼び起こし、ひとつの大きな家族である私たち全員を守る力をあたえてくれることを祈ります。ボスニアの兄弟、ソウェトの姉妹、長崎のめい、ニカラグアと広島のおい、アフガニスタンとアンゴラのおば、ウクライナとウガンダのおじ、キューバとチェルノブイリのいとこが暮らす大家族を守る力を。

  この集会が、つまらぬ口論やけんかにたいする応えが、暴力の悪循環ではなく、愛のこもった抱擁と紛争の平和的解決である地球に暮らす家族の再会の場となることを願います。

  思いやりにあふれ親身ある支援、祈りに満ちた希望、深く根ざした信念によって、この会議が考え方の転換の突破口を開く一助となることを願います。あたらしい倫理的価値観とすべてを包む道徳が、政治的、経済的、社会的平等をすべての者にもたらす、平和で核のない世界にむかって。

  あたらしい千年期をむかえるにあたり、破壊の技術を使って富や権力を得るために魂を売り渡すような信仰を捨て去ろうではありませんか。神の愛と、人間の愛と、地球の愛のために、相生橋の下をゆく静かな元安川を流れる灯ろうが、新しい考え方への道を照らしてくれることを願います。決意をあらたにし、全身全霊をかけ、ともにこの巨大な挑戦に取り組もうではありませんか。夢は実現できるのです。



世界の被ばく者の証言・資料 アメリカ合衆国



原水爆禁止2000年世界大会・国際会議

アメリカ
ユタ州ネバダ核実験場風下地域
デニス・ネルソン



  私が子供のとき、広島のことを聞いたことはありませんでした。長崎のことも聞かされたことはありませんでした。4千万以上の生命を奪った世界大戦についてもあまり聞かされたことはありません。よく聞かされたのは、誇り高く愛国的なアメリカ市民に生まれてどれほど幸運かということでした。まだ幼い私には、戦争が実際にはどのようなものかなど知るよしもありませんでした。 戦争がどれほどひどい痛みや苦しみをもたらすかものかも知らず、戦争の英雄のほとんどが、実は 戦死した兵士だということにも気づきませんでした。私はアメリカの戦争を美化した多くのハリウ ッド映画に影響され、戦争に憧れを抱いていたのです。50年以上たった今日でさえ、本や映画のな かでは、アメリカ兵の勇敢な姿や犠牲や苦悩が理想化されて描かれています。成長するにつれ、私は、戦争が決して華やかなものではないことに気づきました。戦争は金持ちの支配層が彼ら自身の利益のために行うものであり、その犠牲となるのはほとんどが一般の人々だということも知りました。さらに私が気づいたのは、実際に戦闘が行われていなくとも、戦争を想定して常に戦闘準備をすることによって、国民が、道徳的、社会的、心理的に大きな被害をこうむり、さらには身体的な被害も受けるということです。

  戦闘自体は何世紀も激しく行われてきました。しかし、第二次世界大戦終結後から続いているこの戦闘ほど、人々の目から隠され、見えにくく、破壊的で、野蛮なものはありません。この戦闘は、アメリカ西部に広がる風光明媚なトリニティという地域で始まり、いまだに終わっていません。そこにあるのは華麗な軍服でもトランペットでも剣の音でもありません。対決しているのは、強大な権力を握る人々と世界の子供たちです。この戦闘に勝たなければ、未来も、私たちの住める世界も、安全な場所もなくなってしまうでしょう。

  1945年7月16日にニューメキシコの美しい砂漠地帯で始められ、現在も進行中の核戦争は、私の母と父と末の妹の命を奪いました。この戦争は今もなお日々、犠牲者を生みつづけています。アメリカ先住民の部族のなかには、ウラン鉱山で働く人々がいて、肺から血を流しています。カザフスタンでは、家族を失って悲嘆に暮れる女たちがいます。イラクでは奇形児が生まれ、キエフでは被曝して髪がすっかり抜けてしまった子供たちがいます。世界で最高水準の病院でさも、放射線被曝が原因の癌を治療しようとしても、すでに死にかけた患者たちにいっそうの痛みと苦しみを与えることしかできないのです。

  私の父は、62歳のときに肺ガンと骨肉腫で死にました。母は、47歳のときに脳腫瘍で亡くなりました。妹は、40歳で直腸ガンで死にました。弟は19歳のときにリンパ腫を患い、ほかにも家族のなかには、膀胱ガン、皮膚ガン、甲状腺の病気にかかった者がいます。父は、私たちの家から120マイル(200キロ弱)のところで原子爆弾が爆発していることを知っていました。しかし、12年間でネバダで1000発近くが爆発し、その死の灰が私たちの屋根や果樹園や野菜畑や外に干した洗濯物に降りかかることになるとは思っていませんでした。死の灰は、家のなかや車のなかや、食べ物にまで入りこんできました。私たちが使う水や、牛が食む牧草や、私たちの飲むしぼりたてのミルクにも入りこみました。父は、それによって自分自身や妻や末娘が死ぬことになるとは知りませんでした。残された家族がその後ずっと、手術や治療や薬物療法を受け続けることになるとは知りませんでした。それは、戦争を煽る秘密でした。この秘密によって、「冷戦」の火は燃えつづけたのです。これによって、世界大戦終結た後も、軍需品製造で莫大な利益をあげ、富める者は、さらに裕福になったのです。「冷戦」は、実際にはきわめて熱い戦争だったのです。

  私の住んでいた町はそれほど大きくなく、約5000人の女性、男性、子供が住んでいました。無防備で、シェルターに囲まれていたわけでもなく、しのびよる破壊的な攻撃に関する警告もされま せんでした。私たちは、道を誤った科学の犠牲者でした。大量殺戮兵器を製造することで生命を救い「安全」を強化できると思い込んでいる狂人たちの犠牲者でした。現代の核の戦場によって被害を受けたり、汚染された犠牲者を追悼する記念碑は一つもありません。何千人もの女性が乳房を失い、何千人もの男性が自律呼吸機能を失い、何百万人もの子供たちが屈託のない幸せな子供時代を奪われたのです。私の子供たちの生まれる前に、祖父母は亡くなってしまいました。子供たちは、自分たちの愛する人や知人が不治の病気にかかったという知らせに慣れてしまいました。子供たちは生き残った犠牲者でもあります。私たちは彼らのことを認め、尊重し、援助する必要があります。彼らに、過去何が起きたのかをよく教えなければなりません。過ぎ去った日々の美しい記憶を分かち合うだけでなく、全人類に大きな影響を及ぼした不幸な歴史的事実も教える必要があるのです。そうしなければ、必ずまた同じことが繰り返されるでしょう。

  広島と長崎で起きた恐るべき破壊は、核兵器によって世界の安全が強化されることなどないこと、いかなる国家も核の保有によって安全を保障されることなどないことを、私たちに示し続けています。広島と長崎の生存者、そして核兵器施設や核実験上の風下地域に住む人々が被っている、生涯つきまとう病と早過ぎる死は、私たち人間がどれほど脆い存在であるかを冷厳に示しているのです。

  1945年7月16日にニューメキシコの砂漠で始められた核戦争は、今も人々を殺しつづけています。つい数週間前にネバダで行われた未臨界実験は、戦争がまだ終わっていないことを証明しています。私の家の近所で、あるいは他のどの場所でも、1000発近くの核兵器を爆発させる正当な理由は ありません。ここから分かるのはただひとつ、この重大な決定を極秘で下した特定の人々には、他の人々に対する敬意が完全に欠如していたということです。私たちは、多数の幸福のための捨石にされたのです。私たちは、意味もなく殺されかねないのです。日本人だろうとアメリカ人だろうと関係ありません。これは、国境のない戦争です。放射能と死の灰は、いったん放出されたらとどめることはできません。1957年のセラフィールド、1976年のスリーマイル島、1986年のチェルノブイリ、1999年の東海村の事故は、原子力の平和利用でさえ、多くの問題と危険を抱えていることを示しました。

  55年間にわたる放射能の攻撃によって、数百万の人々が命を奪われ、健康を損なわれました。ヒロシマは、日本の人々だけでなく、全世界に対する攻撃でした。そうでなければ、今日、私がここに立っているはずがありません。日本、カザフスタン、オーストラリア、マーシャル諸島、そして全世界の兄弟姉妹と同じく、私もまたヒバクシャです。苦しみと恐怖によって結び付けられた私たちが、核兵器のない新しい千年紀への道を照らす光となることこそ、平和を愛する私たちの共通の願いなのです。



世界の被ばく者の証言・資料 アメリカ合衆国


原水爆禁止1998年世界大会・国際会議

ウラン鉱山放射線被害者、ラグーナ・プエブロ
ドロシー・パーレイ



  私はドロシー・パーレイといいます。私は、合衆国南西部のニューメキシコ出身のアメリカ先住民です。私が今日この場に参加したのは、私の経験をみなさんに知ってもらうためです。私もまた、この美しい日本を傷つけた惨事の犠牲者です。私もまた、ヒバクシャなのです。

  1935年、アナコンダ鉱山会社と合衆国政府は、ラグーナ・プエブロという私たちの村で、神聖な土地を採掘することに決定しました。彼らは、鉱山が私たちの部族全員に富と仕事をもたらすだろうと説明しました。私たちは、アメリカ中の多くの先住民と同じく、常に貧しい境遇におかれてきました。あまりにも長い期間にわたる貧困のため、村の人々はこの申し出に飛びつきました。アナコンダ社は、ウラニウムの使用目的について、ラグーナの人々に何も話しませんでした。ウラン鉱石の採掘が私たちの健康や環境にとって危険なものであり、人類を脅かすものであるということは、一言も話しませんでした。アナコンダとはよく名付けたものだと思います。アナコンダは(油断のならない人を象徴する)ヘビの名前なのですから。

  ラグーナ・プエブロの村は、誰もが他人の面倒を見るような平和な地域でした。村の人々は、自分たちの子供に危険な遺産をのこすことになるとは思っていませんでした。ラグーナの人々は、鉱山を開くことがほかの人に死と破壊をもたらすとは思っていませんでした。鉱山は日常生活で重要な科学技術に利用するのだとしか聞かされなかったのです。この事業は人類の利益になると説明されたのです。もし村の人たちが実際にウラニウムの使用目的を知っていたら、鉱山の操業を許しただろうかと、私はいつも疑問に思っています。

  53年前に原爆が投下されたとき、私は8歳でした。私は1939年に生まれてからずっと、放射線を浴びていました。いま、私たちは被爆者の方々と同じ苦しみを味わいつづけています。私が非常に怒りを感じるのは、アナコンダ鉱山会社とアメリカ政府が、当時でさえ、ウラン鉱の採掘が人間の生命を脅かすものだということを承知していたことです。2週間以上の被爆は望ましくないと鉱山会社に警告した科学者がいたことは、私たちが入手した文書から明らかです。それなのに、会社は私たちに伝えようとしませんでした。しかし、こうした態度は、先住民をはじめとする有色人種に対し、一貫してとられてきたものです。

  1975年頃、私は鉱山会社に職を求めました。一人で子供を育てていましたし、女ですから、あまり選択肢はなかったのです。とにかく子供を養わなければならないということで頭がいっぱいでした。私はトラックの運転手の仕事に就き、高濃度のウラン鉱石を精錬場まで運びました。安全対策は何もとられませんでしたし、放射能の影響について注意もされませんでした。約8年間、私はきわめて高い線量の放射能にさらされました。かつて美しかった村は、鉱山からおよそ1000ヤード(約900メートル)のところにあります。ラグーナの人々はいまだに、むき出しになっている採掘坑の有害な影響に日々苦しんでいます。

  私は1993年に初めて、免疫システムの癌であるリンパ腫の診断を受けました。これまでに2度の再開発を経て、3回目の化学療法を受けています。化学療法は癌細胞を殺しますが、同時に身体も弱らせます。身体の免疫システムがうまく機能しないため、あらゆる種類の感染にかかります。心は、肉体的にも精神的にも傷つけられました。身体がきかないため、以前のようなことができません。昨年の12月から癌は緩解期に入っています。この先どうなるかはわかりません。一瞬一瞬の貴重なときを生きるだけです。

  今日、私はこの厳粛な瞬間をみなさんとともにするためにここにいます。私たちすべてにとって、とても悲しく、謙虚な気持ちを呼び起こすひとときです。被害者のみなさん、その家族、友人 のみなさん、頭を高く上げ、断固としてがんばりましょう。このような大量破壊が良い結果を生むことはありえないし、本当の勝者など存在せず、戦争の犠牲者だけが残るということを、世界中の人々に知らせてゆくために、力を貸してください。平和で友愛に満ちた世界をのこしましょう。神の御もとに召されるとき、恥ずかしくなく顔を上げていられるように。みなさんが愛に満ちた幸せな人生を送られることを祈ります。ご静聴いただき、みなさんのやさしさに心から感謝します。どうもありがとう。



世界の被ばく者の証言・資料 アメリカ合衆国


原水爆禁止1997年世界大会・国際会議

ユタ風下住民
デニス・ネルソン



  今日、ここに私をご招待下さった方々に感謝します。私は、ここで皆さんにお話をする機会を与えられ、大変光栄に思います。

  私は、科学者として専門的な話をすることもできますが、そうするつもりはありません。私が話したい問題は、それよりはるかに重要な事だからです。私の話は、愛と命と失ったものについての話です。家族と果たせなかった夢の話です。

  私は、冷戦のさなか、アメリカ・ユタ州のセント・ジョージ市で育ちました。当時は、冷戦があまりに激しかったため、道徳や正しい行為など問題にもされませんでした。普通の人々の命は、たとえ少しくらい犠牲者を出そうと「国家の安全」や「自由」という作り話を守ることの重要性に比べたら、全く意味のないものと考えられていました。ネバダ核実験場の風下にあるユタ州南部とネバダ地方には「ほどんど人の住んでいない地方」というレッテルがはられ、そうした政府の声明によって、少なくとも2万人の人々が目にみえない、無視してもかまわない存在とされたのです。このなかには私の家族も含まれていました。

  私の子ども時代に、後に「死の灰の町」として知られるようになるセント・ジョージ市の西120マイルの地点で約200発の核爆弾が実験されました。風は私たちの町の方向に向かって吹くことが多く、ある時、特別やっかいな爆弾が、計画していたよりも「激しく爆発」してしまった時には、原子力委員会のある役人は、もし実験の当日に雨が降っていれば、その影響でセント・ジョージ市の住民の半分が死んでいただろうと後になってから言いました。たしかに、あの日、私たちは幸運に恵まれました。速やかに死ぬ代わりに、ゆっくりと死ぬことになったのですから。1950年代になると、あまり大騒ぎにはなりませんでしたが、一人また一人と、死者が出るようになり、それが今日もなお続いています。世界はユタ州の小さな町で何が起きているか知ることはありませんでした。この小さな町の人々は、放射線を浴びてからというもの、放射線実験に組み込まれ、知らないうちに、世界中で用いられることになる放射線の遮蔽基準を設定することに貢献させられていたのです。

  広島と長崎で何が起きたのかは疑う余地もありません。たとえ医学者や物理学者がその影響を過小評価しようとしても、そこにいた人々は真実を知っています。しかし、ユタをはじめ多くのアメリカの核被害地の人々は、今でもなお、この日本で起きたと同じ事が自分たちに起きたのだと信じようとしません。たしかに私たちは恐ろしい業火に焼かれたことはありません。しかし私たちの飼っている家畜の背中には、ベータ線によるやけどができています。「黒い雨」も降りませんでした。でも何年間も、放射性のほこりを含んだ乾燥した雲が私たちの空にただよっていました。破壊による膨大な被害もありませんでした。でも私たちは放射能で汚染された食物を食べ、汚染された牧草地で草を食べている乳牛のミルクを飲んでいたのです。

  子どもの頃、私は死の灰がどこに流れていくのだろうと思ったものでした。夏の間、私が木陰で昼寝をした木にも、家の庭に撒いた水にも死の灰は降りました。ネバダから吹いてきた風にも死の灰が含まれていました。しかし、私の両親は、心配しなくても安全だからと言われていました。私たちはそれを信じていました。死の灰がいたるところにあったのを知りませんでした。死の灰は、私の父親の肺や骨の中に、母親の脳の中に、私の弟の血液の中に、私の妹の腸の中に、そして私自身の皮膚にまで入り込んでいました。

  私の母は47歳で亡くなり、妹もわずか40歳で死にました。父はたばこを一度も吸ったことがないのに肺ガンで死に、弟と私は二人とも2回ガンを患いました。私や同世代の人々は、あまり長生きできないだろうと思っています。私の祖父母は元気で長生きしましたし、私は自分の子供たちも、また再び祖父母の世代と同じように、健康で長生きできるようになることを願っています。私は、あの美しく、聡明で、ウィットに富んだ妹が、ユダヤ人大虐殺の犠牲者のような変わり果てた姿になったことに気づいた時の恐ろしさを忘れることはできません。毒ガスを使ってであれ、アイソトープを使ってであれ、その犯罪性には変わりはありません。そして私の家族はその犠牲者に選ばれたのです。

  私の家族は、放射線被曝の影響について行われた統計や医学的調査の対象になったことはありません。私たちは利用され、見捨てられたのです。自分たちで医療費を負担し、一度も補償を受けることはありませんでした。

  社会保障による医療制度のない国では、人を病気にするのは簡単です。犠牲者自身が医療費を全額負担させられるのですから。

  今世紀のはじめには、科学が、肉体だけでなく、精神も道徳も心も破壊するようになるとは誰も想像すらしませんでした。次の世紀になっても、科学は破壊から私たちを救うことはないでしょう。人類を破壊から救うことができるのは、皆さんや私のように、たとえささやかな方法によってでも、この現実を変えようとしている人々なのです。紀元2000年が間近に迫った今、私たちは原子にまつわる真実を世界中の人々に知らせなければなりません。勇気ある男女の力を借りて、調査によって核兵器の引き起こした被害の実態を明らかにし、過去の犠牲者たちに発言の機会を与え、人間の行なった大虐殺が、極秘文書のなかに隠蔽されることを二度と再び許してはなりません。

  日本にある原爆記念碑は、私たちの後に続く世代の人々が過去を忘れることのないよう、彼らに私たちを苦しめ、変えてしまった核の悲劇を常に思い出させるものとして、そこに立っています。セント・ジョージには、記念碑はひとつもありません。あるのは多くの幼い子供たちと若くして死んだ大人たちの埋葬されている墓地だけです。彼らは自分たちの声に耳をかたむけてくれと叫んでいます。ちょうど、皆さんのなかにもご存知の方々がおられると思いますが、クローディアの美しい娘のベサニー・ピーターソンのような幼い子供たちです。そして、5年前に亡くなってからこれまで、私を休ませてくれない私の妹のマーガレットのような大人たちです。

  ここにいる私たちは皆同じひとつの絆で結ばれています。私たちが時間を過去に戻し、死ではなく生を語る事ができたなら、これまでに起こったあの出来事が、まったく起こらなかったならと、私は心から思います。しかし、過去を変えることはできません。それならば、私はせめて長生きして、この世界的な核のホロコーストによって命を失った全ての人に捧げられる記念碑が建てられるのを見てから死にたいと思っています。皆がそのまわりに集まって、この話題を避けることなく話し合い、私たち全員がヒバクシャであると聞かされても目をそむけなくなるその時に立ち会いたいと思います。私たちは罪のない犠牲者であり、核兵器がなくなるその最後の運命の日まで、声をあげ訴え続けるのだということを決して忘れてはなりません。

  私の愛する人々の命を奪ったあの原子兵器は、その標的や人命を破壊しただけでなく、その究極の力で、兵器を作り使用した人々の信用をも打ち砕いたのです。彼らの道徳や倫理の欠如は、図らずも、彼らが巧妙に秘密を隠し続けることで身を守ろうとしている臆病な殺人者に他ならないことを明らかにしました。

  私は真実を愛しています。真実は人間を解放し、私が子供の時に奪われた選択の自由を取り戻させてくれるからです。私は私ができなかったこと、両親と妹と共に過ごす太陽の輝く日々、そして平穏な夜を夢に見たいと思っています。私は、長生きする人々、健康な子供たち、良い政府の夢を見たいと思っています。私は、私たち全員が、この夢を現実に変えられるように祈ります。

デニス・P・ネルソンの経歴
  デニス・ネルソンはアメリカ・ユタ州リッチフィールドで1943年8月8日に生まれる。1943年から1959年まで、ユタ州セント・ジョージで弟と3人の姉妹とともに育つ。1959年、一家はユタ州北部へ移り住む。彼は当地のブリガム・ヤング大学で学び、化学で理学士号、生物物理化学で博士号を取得する。
  1968年、ネルソン博士はアメリカ海軍に入り、22年にわたって海軍将校として勤務する。彼は、メリーランド州の海軍医学研究所、カリフォルニア州の海軍地方医療センター、海軍保健研究センターで働いた後、ワシントンDC近郊の軍医科大学の大学コンピューターセンター所長を 最後に海軍でのキャリアに終止符を打つ。この間、免疫系、中毒性および出血性ショック、ヘモグロビンの酸素輸送など様々な分野で生物医学的研究にたずさわる。
  海軍を退役後、ネルソン博士は国立衛生研究所における廃棄物焼却の廃止に貢献したメリーランド州ベゼスダ環境問題啓発タスク・フォース議長として、地域活動に積極的に参加している。また、放射線が人体に及ぼす影響に関する実験についての大統領諮問委員会で2回証言した。彼はコンサルタント事務所を経営し、化学物質の毒性および環境汚染の分野での専門的助言を提供している。
  ネルソン博士の夫人はオーストリア人で、息子が1人、娘が3人いる。


世界の被ばく者の証言・資料 アメリカ合衆国


原水爆禁止1997年世界大会・国際会議

シュンダハイ・ネットワーク 創立者 (アメリカ先住民)
コービン・ハーニー



  私は西部ショショーニ族の一人であり、先住民として、あるいは、先住民族の一人として、われわれの母なる大地のことを懸念しています。それは、母なる大地が一つしかないからです。全ての生き物が母なる大地に依存しており、この母なる大地がわれわれを養い、活力を与え、水を与え、みなが吸う空気を提供してくれています。こういったものに、われわれは依存しています。全ての生き物が母なる大地に依存しており、われわれ世界中の人間は、手をつなぎ、協力して、この母なる大地を虐待から守ってゆかなければなりません。水が手に入らなくなりつつあるのを既にわれわれは目撃しています。水は化学薬品や放射能で汚染され、全ての生き物が死につつあります。われわれはみな、それを見ています。それなのに、どういう訳か、われわれは自分たちの目を信じられないのです。これが、みなさんに目を向けていただくためにこの問題を提起したい理由の一つです。私はそのために遠くから来ました。そのために、みなさんの国に来て、このような話をしているのです。ともに私たち人間が団結してゆかなければならないことです。水や、空気、私たちを養ってくれ生命を維持してくれる母なる大地を守るために協力するためです。

  私の国で、ショショーニの土地は、核エネルギー省に利用されており、この土地で核実験が行なわれています。われわれが話している土地には、二つの異なる政府があるためです。白人の政府とインディアンの政府です。1863年に双方のあいだで調印された条約では、この土地はショショーニの土地であり、われわれはそのことに合意する、と書かれています。われわれ先住民は、彼らがわれわれに約束したことを果たすのを一度たりとも見た事がありません。どういうわけか、世界中で話されている土地に関する法律は、彼らに誤用され続けてきたのです。これは、われわれにも彼らにも影響を与えます。われわれは、それが双方を保護するものだと思っていました。これまでのところその法律は、彼らの側を保護していますが、先住民のほうをまったく保護してきませんでした。彼らは、母なる大地と先住民を虐待し続けています。現在先住民が住んでいる土地に、先住民の承認なしに、化学薬品と核廃棄物が置き去りにされました。これが、私が今日、国中を回っている理由の一つです。私の長老たちのほとんどは亡くなってしまいました。放射能が彼らの命を奪ったからです。化学薬品と放射能のために、何千人も、何千人も亡くなってしまいました。状況は さらに悪化しています。先住民としてわれわれがアメリカ政府の「お偉い方々」に話をしようとしても、全くわれわれには注意を払ってはくれません。1977年にもう2600万ドル払った、と彼らは言い続けますが、そのような金額を受け取ったとされる証明はどこにもありません。

  ですから、この問題をみなさんに御指摘することは非常に重要なのです。先住民としてわれわれがどのような経験をしてきたかを理解していただきたいのです。先住民としてわれわれは、地上に生きているすべてのものに依存しているからです。母なる大地は、植物も、動物も、鳥も、すべての生き物の世話をしてくれます。全ては、母なる大地から生まれたのですから、われわれは自分たちの母を破壊することはできません。われわれは力を合わせて、この無意味な核の力にストップをかけることができるのです。あまりに多くの廃棄物を生成しているからです。もし廃棄物が国中を移動し、世界中を移動し、国の端から端まで移動するなら、われわれはあまり長く生存することはできません。このために多くの病が生み出されているからです。わたしたちの母なる大地は、今日とても病んでいます。ですから、私がみなさんにお話ししていることを世界中の人びとみんなに本当に理解してもらいたいのです。そうすれは、核エネルギーではなく、異なるエネルギ?源を使うことができるようになります。もし、核廃棄物をある国の端から端まで移動させるなら、もっと病気を生み出してしまいます。若い世代、幼いこどもたち、そしてまだ生まれる前の胎児は、放射能によって障害者になってしまいます。ですから、そのようなことを起こさせないようにしましょう。いっしょに手をつなぎ、一つの民になりましょう。私たちの地球は一つ、飲む水も一つ、吸う空気も一つだからです。私の経験してきたのはこのようなことであり、みなさんがどんな道をたどってこられたかを私は知っています。つまり、私たちは同じ経験をしているのです。対立するのはやめましょう。互いに話し合いましょう。互いに協力しあいましょう。互いに支えあいましょう。これこそが私たちの使命を果たすために、世界中で私たちがしなければならないことなのです。原子力を無くすことができるために。原子力は、多くの命を奪ってきたからです。いますぐ、これをやめさせましょう。明日ではなくて今日、すぐに。

  私の土地で、彼らは、あの未臨界実験を行なっています。もう実験はしないと合意したのに、実験を続けているのです。そして悪い物をこの土地の上に移動し続けています。やめさせるには、世界中の人が行動しなければなりません。

  私の言っていることを理解していただきたいと願っています。そして、私に手を貸して下さい。みなさんから御連絡いただけることを願っています。シュンダハイ・ネットワークあてに御連絡下さい。シュンダハイとは、私の母国語で、全ての創造物との平和と調和という意味です。みなさんの前で、精一杯この問題を提起することは、私にとって本当に重要なことです。いっしょに活動を始めることができるよう願っています。

連絡先: SHUNDAHAI NETWORK
5007 Elmhurst St., Las Vegas, NV 89108 U.S.A.
Phone: 702-647-3095  Fax:702-647-9385
E-mail: shundahai@radix.net
http://www.shundahai.org


世界の被ばく者の証言・資料 アメリカ合衆国


原水爆禁止2000年世界大会・国際会議

放射線被害者支援教育の会
理事長
デニース・ネルソン



  今日ここに参加できる身に余る機会に感謝しています。私の父が「歴史を知り、過去の出来事を理解するには、その場へ行って実際に見なければならならない。響きを体験し、生き残った人々の言葉に耳を傾けなければならない」と、かつて私に言ったことがあります。それで私は今日ここにやってきました。みなさんの声を聞き、お顔を拝見し、そして私は胸がいっぱいです。初めて広島と長崎を見るのは辛いことです。ここで起きた身の毛のよだつような被害と苦痛について何十年もの間いろんなものを読んできたのですから。今日では、二つの都市ともとても活気ある元気な町となっています。人間というものは、想像を絶する悲劇をも克服できる信じられない強さをもっています。そして、こうした都市の再建は、生き残ったすべての人々の強さを象徴しています。

  私はオーストリアのウイーンで、この美しい都市のほとんどを破壊し尽くした戦争の数年後、生まれました。でも、建物の再建より生活の再建の方がより困難なのです。家族は悲惨な状況でした。姉も1945年に生まれましたが、多くの場所で多くの命を奪った同じ戦争のために亡くなりました。

  ウイーンで私が通った学校には、すばらしい先生がいました。彼女は世界について自分の持っているすべての知識を分け与えることに熱心でした。ある日、彼女は学校にきて、私たちの援助を必要としている重い病気にかかった一人の少女の話をしてくれました。彼女は美しい色紙を持ってきて、折り鶴の作り方を教えてくれました。教室中がきれいな色紙の折り鶴でいっぱいになる頃には、いくら折り鶴を折っても少女の命は救えないのだということは問題ではありませんでした。でも私たちは学んだのです。決してあきらめないこと、周りの美しいものに目を向けること、そして罪のない子供たちを傷つけないためにできる限りのことをしなければならないと。

  数年後、私は広島のシンボルとして世界中に知られている原爆で爆撃された建物が、ウイーンにある同じような建物の設計者であるオーストリア人のデザインによるものだということを知りました。その建物の中で私が参加したきれいな催事は、私の子供の時代のなつかしい思い出となっ て残っています。そうなのです。人間の相似性を理解するためには似たことを体験しなければならないのです。大切なのは相違ではなく、私の先生が私と分かち合った知識なのです。つまり、各人には歴史から学び、善い行為は必ず報われ、悪い行為はいつかは暴露されることを学ぶ責任があるということです。簡単に言えば、私たちが学んだのは、禎子が大人になるまで生きられるような世界に向けて行動するということでした。

  いま私は米国で、放射線汚染で死ぬと知らされていない犠牲者に囲まれた社会で暮らしています。放射線を浴びたことが分かったときには、手遅れということがしばしばです。小児の甲状腺ガンでは、アメリカは世界で最も高い数値を示している国の一つです。高度の放射性降下物に汚染された地域で生活していた人たちは、健康診断を受けろと言われたこともなく、警告すら受けていません。多くの人が、自分に何が起こったのかを決して知ることもないまま、亡くなっています。彼らはその苦しみが、誰の、何の責任によるものなのか、一度も告げられたことはありません。放射線被曝の影響を隠し、口を閉ざさせるために莫大な金が使われているからです。私は毎日のように、病気や被害について被害者から悩みを聞かされています。彼らはほぼ1000回に及ぶ核実験の放射線により家族が病気になり、死んでいくことになるとは全く何も知りませんでした。広島に始まったことはまだ終わっていないのです。3年前、私はSERV(放射線被害者支援教育の会)を結成しました。主に私たちは、これまで無視され続けてきた人々、互いに交流し、悩みを語り合うの場もない、援助を得る方法についての情報も持たない被ばく者たちの話に耳を傾け、援助しようとしています。

  アメリカ政府は被害者の苦痛や貧困の軽減する措置を殆どとっていません。ユタ州風下地域の住民、兵器施設で働く労働者、ウラン鉱山労働者、そして1990年の退役兵士など一部の被害者への補償法が制定されました。しかし、それも医療費用をカバーするのではなく、立派な自動車一台が買えるほどの補償金をたった一回もらえるだけです。放射線被曝との関連が明確である多くのガンや病気も認定から除外されています。亡くなった人には、遺族がいなければ補償はありません。「補償」区域から1マイル外にいたというだけで、なにももらえないのです。補償を待っている間に多くの人々が亡くなっています。認定手続きに何年もかかるからです。認定申請手続きに関する情報は手に入りにくく、あきらめて何の援助も得られない人がほとんどです。働けず、かさむ医療費が原因で多くの人が破産しています。彼らの子供たちは、お金がないがためにより高い教育を受けられないということもしばしばです。彼らは、祖父母も早く亡くなり、死んだ友人を恋しがり、拒絶され無視されているという気持ちを持ち続けるのです。

  世界一裕福な国の政府は、未だにやらなければならないことをやろうとしていません。求められていることはたくさんありますが、何よりも放射線医学上の疾病の治療をすべて無料化し、そして無料医療が最優先されなければなりません。次に、何が行われたのかについて、国民を闇の中に閉じこめておくべきではありません。広島と長崎については全世界が知っていますが、アメリカ西部でなにがあったかはいまだに隠され、ごまかされており、決して共通の認識とはなっていないのです。これを変えなければなりません。将来的には、真実を隠し通し、罪のない男女や子供たちを意図的に傷つけることはより困難になるだろうと思っています。今日の通信技術は強力な手段です。新しい千年紀を迎え、真実と歴史を広め、何度も繰り返し、「友好的な」原子爆弾の嘘を信じる人が一人もいなくなるまで、語り伝えることが非常に重要になるでしょう。第三に、家族にとっては奪われたものを返済させることが必要です。亡くなった人は取り返しがつきませんが、失った所得、葬式などの費用、そして突然の死亡や疾病による損害の補償は完全に実行可能であるし、当然のことでしょう。いかなる者も他人を傷つけることによって財政的な利益を受けることは許されるべきではありません。

  私が今日、この会議に参加しているのは、人間は事態を変えるために何かできるし、やるだろうと信じ、人類にとって最もよいことをするのは私たち1人1人だということを信じ、そして、将来、よりやさしい、より人に温かい世界となることを信じているからです。みなさん、会う人に伝えてください。被害や苦しみは長崎で終わったのではないのです。オーストラリアや、マーシャル諸島やカザフスタンで続いているのです。今日、被害はパデューカ、オークリッジ、ハンフォード、サバンナリバー、ファーナルド、ロッキーフラッツ、ポーツマス/ピクトン、マウンド、アーマリロ、アイダホフォールズ、リバモア、ネバダ、そしてユタでいまだに続いているのです。核爆弾は、1人、100人、1000人、1万人、10万人の死という数字にとどまらず、その被害は何百万もの人々に及ぶことをみんなが知る日はそう遠くないでしょう。

  かつて、私の先生は核爆弾で破壊された日本の美しい都市の話をしてくれました。今日、同じように被害にあったアメリカの土地や人々のことを私たちがみんなに語る番です。放射線はどんな 国でもその国境内にとどまらないこと、そしてその影響はまさに世界的であることを一人ひとりが理解して、はじめて原爆のない世界を作り上げるチャンスは本当に現実のものになることでしょう。

被ばく者の声

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