世界の被ばく者の証言・資料
カザフスタン
原水爆禁止2000年世界大会・国際会議
障害児施設「アルパミース」会員
レナータ・イズマイロワ
大会に参加されている友人のみなさん、こんにちは。
私は、レナータ・イズマイロワです。セミパラチンスク州、アヤグーズで生まれました。アヤグーズのまわりは、とても美しい広々とした草原です。そこには、以前、馬たちが自由に放牧され、誇り高いラクダたちが歩きまわり、トビが空高く流れるように飛んでいました。人々は、自然に完全にとけ込んで幸せに暮らしていました。
残念なことに、人々の幸せ、草原での生活は、核実験場の出現によって破壊されてしまいました。
1947年8月、ソビエト政府は、セミパラチンスク核実験場の建設を決定しました。核実験場が存在していた40年間のあいだに、約470回の爆発が行われました。核実験場では、核兵器、熱核兵器、水爆の実験が行われました。もっともたくさんの爆発が行われたのは、1964年から1989年の期間でした。
私は、1982年に生まれました。核実験場が私の運命に消し去りがたい傷跡を残したのは当然のことでした。
私は、核実験場の被害者です。子どもの頃のことで一番よく覚えているのは、一人で家に残っていたことです。他の子どもたちは、健康なこどもたちのために作られた幼稚園に通っていたのです。冬の間は、日が早く沈みます。私は暗い中で横たわって、泣いていました。とても悲しくて、他の子供たちは遊んだり笑ったりしているのに、なぜ私はできないのかわかりませんでした。
成長するにつれ、自分の置かれた状況を認識するようになりました。学校のカリキュラムは自宅で終えたのです。先生たちは、私の家にやってきて、たくさんの面白いことを話してくれました。でも私はいつも、自分で学校に通いたいと思っていました。同じ年代の人たちを見ると、みんなと同じように街を歩いたり、図書館に通ったり、毎日の生活を楽しみたいと強く感じるのです。実験場は私からこの全てを奪ったのです。
つらい運命ですが、私は人生を諦めたくありません!いい成績で学校を終えることができましたし、友達もいます。絵や詩を書いたり、動物を飼ったり、屋外で過ごすことが大好きです。
私は核兵器を製造して貯蔵することに賛成な人たちに聞きたいです。「私のような障害を持った子供がほしいですか?」と。
最後に、私にこの大会に参加する機会を与えて下さった皆さんに感謝します。
広島・長崎の被爆者との連帯
親愛なる友人のみなさん、
40年間にわたるセミパラチンスク核実験場の活動の間に、何万という人々が様々な量の放射線の影響にさらされました。
セミパラチンスク核実験場に隣接した土地に住み、1レム以上の放射線で被曝した150万人の染色体障害が遺伝し、まさにそれによって、病気の子どもが産まれることになるだろうということが明らかになっています。
私と私の家族は、1年間に7レムから35レムの被曝線量の地域に住んでいました。
人々の健康や環境にもたらされた被害を回復することは、カザフスタンにとって大変困難なことです。
この責任は、セミパラチンスク核実験場で核兵器を開発し、製造し、実験した人たちがとるべきです。
放射性物質の加工、核兵器の開発や実験に費やされた資金は、それが人類にどれだけの悲劇をもたらしたかということとは、比較できません。
核実験場は、今でもいくつかの国に存在します。 核実験場の問題は、それらが存在する国だけの問題ではありません。これは、全世界の問題です。
ですから、私は国際社会にむかって、核兵器を製造している人たちへの次のような要求をもって団結するよう呼びかけます。
1、 核実験被害者の健康にもたらされた被害を補償する。
2、 被爆者の状態について情報を提供する。
3、 世界中の被爆者の生活向上のための計画を発足させる。
被害者は、常に強いストレスにさらされています。というのも、自分の健康を
不安に思い、慢性的な衰弱と疲労を感じながら、生活しているからです。教育を受けたり就職をする機会は、直接に健康状態にかかっています。私たち被害者は、暮らしが苦しく
なるのを心配しています。年々、治療や健康維持にかかる支出が増えているからです。被害者たちは、普通の生活をしたいと思っていますが、しばしば、支援や理解を得られない
ことがあります。これらすべては、精神状態につらい影響を与えます。年月がたつにつれ、私たちは、地球上でおこっている核の悲劇からどんどん遠ざかっていますが、核実験被害者
の問題は、今にいたるまで十分に解決されていないのです。
広島と長崎の被爆者との連帯を表明して、私は、私の声―被害者の声が届くよう期待します。
世界の被ばく者の証言・資料
カザフスタン
原水爆禁止2000年世界大会・国際会議
反核環境基金「フェニックス」
アリョーナ・クイディナ
私の名前はアリョーナ・クイディナです。反核環境基金「フェニックス」を代表して参加しています。
日本で起きた悲劇のことを私が初めて聞いたのは10歳の時でしたが、自分にとって最も恐ろしいもの、セミパラチンスク核実験場が自分の国にあることは実感できませんでした。11歳のとき、父が撮った被害者の写真を見ました。みなさんも大会会場で父の写真展「カザフスタンの核の悲劇」をご覧になったと思います。私の父、ユーリ・クイディンはこの世を去りましたが、父の写真はこの悲劇の静かな証人として残されました。結びついていますが、カザフスタン領内にはセミパラチンスク実験場だけでなく、小規模で秘密の実験場がいくつもあります。人々は何年もの間ほんとうのことを知りませんでした。
写真や「ネバダ―セミパラチンスク」設立の歴史が真実を証明しています。カザフスタンにある他の実験場のことを知ったとき、私たちは、被害者の様子を世界に話したり写真を見せたり被害者を助けるためにできるだけのことをする団体を招くことにしました。その後、「フェニックス」基金が創設され、その最初の出版事業が写真集「カザフスタンの核の悲劇」です。カザフスタンのヌルスルタン・ナザルバエフ大統領はこの写真集300部を国連の総会に持っていきました。この会議ではカザフ地域の復興作業に関する決議が採択され、その結果、およそ100,600人が救済されました。
被害者の生活上の苦労、つまり薬や食べ物や服を買うお金がなく、助けてくれる人もいないという現状を見て、私たちは、核実験や核実験場がもとで苦しんでいる子供のアドレスをインターネット上で公開し、人々の支援を得られるようにしました<http://www.phoenix.org.kz>。それぞれの人が少なくとも1人の子どもの力になれば、世の中を良くすることができると思います。私は、核兵器廃絶が重要だということをもう一度強調したいと思います。子供たちの写真を見てください。あの子供たちは、政府のやっていることをやめさせなければ次の世代に何が起こるのかという生きた見本です。そして核兵器とその遺物を廃絶することが私たちの最優先課題です。放射線は目に見えません。感じることもできませんし、さわることもできません。けれどもその結果は恐ろしいものです。
「フェニックス」基金は中国のロプノール実験場やアズギール実験場と実験場での爆発の結果をあつかった写真集の出版、それにアズギール実験場からの呼びかけの出版を計画中です。また、教育プログラムも継続します。
平和について意見やアイデアを分かち合っていただきありがとうございました。核のない未来のためにたたかいを続けましょう!
世界の被爆者の証言・資料
カザフスタン
原水爆禁止2000年世界大会・国際会議
「東洋の女性」国際環境協会会長
ウルクス・イリエワ
核実験の被害を受け、汚染地帯に暮らすカザフスタンの女性たち
私は、7年間にわたり中国のロプノール核実験場がもたらした問題に取り組んでいる女性のNGOを代表して世界大会に参加しています。
カザフスタンでは非政府組織の活動が活発になってきており、特に女性団体は変化をもたらす強い勢力となりつつあります。女性団体は発展への新しいアプローチを引き出す力となっているのです。
私たちの国も、NGOが果たす重要な役割と、進歩のために協同して活動する意味を認めるようになってきています。
周辺環境の汚染と核実験の影響で被害を被った女性たちの健康回復の問題に取り組むNGOもどんどん新しく結成されています。
カザフスタンの女性たちの健康に脅威を与えているのは、核実験場の影響、汚染と毒性廃棄物、大規模な砂漠化、土壌の劣化です。最も苦しんでいるのは、農業に従事している女性および昔からその場所に住んでいた女性たちです。この人たちの仕事や毎日の生活は直接自然環境と関わっているからです。
1994年から1998年までの期間に、10,000人あたりのあらゆる専門分野の医師の人数は38.9人から34.3人まで減少しました。医師をのぞく医療従事者の人数は108.2人から77.7人に減りました。病床数は123.8床から79.6床。共和国内の外来および診療を行う医療機関の総数は上記の期間に3527から3034に減少しました。診察に来た女性の数は835から753。1993年から1998年までの5年間で子供用の病床数は45,985から22,669に減少。妊婦用の病床数は18,582から10,615に減少。
ロシア、キルギスタン、ウズベキスタン、カザフスタンの科学者たちは、アルマトイ州には中国のロプノール実験場が影響を与えていると意見を述べています。この州では、医療機関によるサービスは、高い質の医療を住民(女性や幼い少女たちを含む)に提供することより、医療コストをなるべく低く押さえる方針をとるようになってきています。
健康保障システム改悪の結果、地方の村々では中規模の医療施設が急激に減少し、約1200の村で準医師・産科医のいる医療センターがなくなりました。それらのセンターでは、妊婦や乳幼児を抱えた母親が優先的に治療を受けていたのです。村に住む人たちは高額の交通費が支払えず、また交通手段そのものがないために、早めに地域または州の診察・入院治療センターに行くことができずにいます。そして核実験の被害を受けた地域では、バイコヌール宇宙基地でのロケット発射実権や核弾頭の解体の結果により新たに悲劇的な状態が生まれています。
私たちがカザフスタン共和国小児病研究所、腫瘍学研究所と協同調査を行ったパンフィーロフスキー地方およびウィグル地方のある村では医療センターが閉鎖されました。地域の中心病院にも超音波診断機さえありません。
カザフスタンの女性の反核運動は発展しつつあります。私たちはセミパラチンスクでの核実験が繰り返されることを望みません。ですがカザフスタン共和国の議会内では、我が国が核兵器をもとうとしているという噂が流れ始めています。私は、国会議員に立候補しようとする一人として、アルマトィ市で1000回以上の集会に参加し、その場で日本の反核運動のこと、私たちが日本の運動からたたかい方を学ぶべきだと言うことを話しました。私たちは核実験場の悲劇を二度と繰り返してはならないのです。
21世紀が近づいています。人類が核戦争を否定するつもりがあるのかどうか決めるのは私たちの世代なのです。私たちには二つの道があります。
地球そのものを破壊するか
それとも未来の世代のために地球を守るか
私たち女性は二つ目の道を選びます。
ノーモア・ヒロシマ!ノーモア・ナガサキ!ノーモア・セミパラチンスク!ノーモア・ロプノール!
世界の被爆者の証言・資料
カザフスタン
原水爆止1999年世界大会・国際会議
フェアト・イズマイロフ
私の名前はフェアト・イズマイロフです。カザフスタンから来ました。私は、セミパラチンスク州のアヤグスで生まれ育ち、セミパラチンスク州に30年近く住んでいました。そこでは、必要な情報が与えられず、完全な秘密主義がしかれていたため、住民たちは核実験による放射性降下物が人間に及ぼす害や環境の汚染について何も知りませんでした。
いまでもはっきり覚えているのですが、あの地域に住んでいたころ、私はよく友達と郊外へピクニックに出かけ、森で野イチゴを集めたり川で泳いだりしました。丘にはたくさんのイチゴが実っていました。あまりの実の多さに目を見張ったこともあります。いま考えると、きっと放射能の影響だったのでしょう。しかしその頃は何の情報もなかったので、そんなことはまったく分かりませんでした。子どものころ、核実験を目撃した人たちからいろいろな話を聞いてはいたのですが。
隣に住んでいた男性は、実験場の警備部隊として兵役についていたため、核実験に直接いあわせました。彼は当時、大分前のことですが、核実験の影響について何も知らないまま、きのこ曇の「美しさ」や、昼が一転して夜になってしまうほどの閃光の強さについて、感嘆をこめて近所の子どもたちに語っていたものでした。この人は、わずか45歳で亡くなっています。
私の親族、兄弟、姉妹たちはみな、胃や肝臓や膵臓にさまざまな内臓疾患を抱えています。これも核実験の影響でしょう。セミパラチンスク州に住んでいたころ、私はしょっちゅう頭痛に悩まされました。また、1989年には潰瘍の診断が下されました。これも核実験のためだと思います。セミパラチンスク市で実験の爆風で何度も窓が割れたことや、地下核実験後には地面がゆれるのを感じたことを覚えています。
実験場の周辺地域に住む人々の健康が、核実験の放射能の影響によってひどく損われてきたことは明らかです。放射能に直接さらされた人々だけでなく、その子孫までもが、精神障害や知恵遅れ、種々の奇形、腫瘍の疾患、未熟児など、これまでには見られなかった疾患にかかっています。
当時、地域住民を放射能から守る手だては何も取られませんでしたし、医学的な調査も行われませんでした。軍部は住民に実験の予定を知らせませんでした。医師たちは、疾患を放射線の影響と結び付けた正しい診断を下すことが許されませんでした。
私の家族は、末娘のレナータが産まれたとき、この問題に直面しました。レナータは1982年5月9日にセミパラチンスク州のアヤグスで産まれたのですが、非常に小さくて、四肢に先天性の障害のあることが産まれてすぐに判明しました。手足が短くて、曲がっていたのです。その後、身体が成長し発達するにつれて、胸部の側湾症も進行しはじめました。レナータはいま17歳ですが、身長はわずか82センチ、体重は14キロしかありません。ですが、知力は正常に発達しています。レナータは自宅で学習して、高校の課程を優秀な成績で修了しました。また、詩を書いていて、地元や全国レベルの若い詩人向けのコンテストに参加しています。最近は絵にも興味を持っています。ここに、レナータの絵を何枚か持ってきました。彼女に、広島の美術館に寄贈してほしいと頼まれたものです。
17年間、私たちは娘を産まれたての赤ん坊のように腕にかかえてきました。このような悲しい出来事が誰の身にも振りかからないことを願っています。この大会にはレナータも招待していただいたのですが、長旅はよくないと医師に止められたため、ここに来てみなさんとお話することができませんでした。
ですが、レナータは、いつかきっとみなさんにお会いしたいと望んでいます。私たちの国では現在、政府から支援を受けていない核実験被害者が何千人もいます。「核実験被害者の社会復帰」に関する法律は採択されましたが、経済状況が悪いため、まだ有効に機能していません。核兵器の近代化とその実験における科学技術の発達のために、環境が汚染され、何百万という人々が多大な苦しみを味わわせられました。核実験とその使用は、必ず禁止しなければならない課題となっています。
第三の千年紀を目前にして、人類は科学技術における功績を見つめなおし、人間や自然に害を及ぼすものはすべて廃棄する必要があります。環境保護を、人類の第一の緊急課題として位置づけなければなりません。私たちの家族は、カザフスタンだけでなく、全世界から核兵器をなくすためにたたかうことを固く決意しています。そのために、この大会の理念を広く伝えていくつもりです。
ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ!
原水爆禁止1999年世界大会・国際会議
レナータのメッセージ
親愛なる世界大会参加者のみなさん!
核実験とその被害の問題はたいへん現実的なテーマです。良識に反していくつかの国は核実験を続け、そのことによって次の世代から健康で幸せにいきる可能性を遠ざけているのです。
私は今でも、行われた核実験のあまりの規模に驚いています。私たちの住む星全部が実験場にされていたのです。
兵器の製造、実験と拡散は、人類に対する犯罪であるだけではなく、自然と、創造主と、この世の命のルールに対する犯罪なのです。私たちは、軍拡競争を世界中でするために作られたのではありません!
私たちが生きているのは、人類と自然の間の、調和と相互理解にみちあふれた人生を生きるためだと、私たち全員が理解し認識しなければなりません。そしてまた、どんな兵器でも、特に核兵器は、今までもそしてこれからも、使用後によい影響を残すことは決してないということを理解しなければなりません。核兵器を積極的に使えば、その後には核の冬が訪れます。そうなったら、地球上のすべての生きとし生けるもの、そしておそらく地球そのものも、死んで永遠に消え去ってしまうのです!
もし次の世代が存在するためのふつうの条件を与えられないのなら、彼らの繁栄について語る意味はありません。
新たに核実験を行うごとに、人類は二歩ずつ後退しているのです。一歩目は人間の健康状態の悪化と生命の危機、そして二歩目は地球そのものへの一歩なのです!
私たちはもう後ろに向かって進んではいけないのです。私たちは核兵器を忘却のかなたに追いやらなければなりません。私たちの星が、自分の子どもたちの無分別を耐えていてくれる間に、愚かなことはやめなければいけません!
私は生きること、そして人間が大好きです!そしてみんなに、私たちの回りに、毎日の生活の中に、わたしたちを取り囲む自然の中にあるのだという簡単なことをわかってほしいのです。昇る朝日を迎える喜び、草のみずみずしさ、澄みきった空の青さの素晴らしさをわかってほしいのです。
これらすべてのものを一緒に守っていきましょう!
世界の被爆者の証言・資料
カザフスタン
原水爆禁止1999年世界大会・国際会議
セミパラチンスク核実験被害者同盟「アイリス」
グルスム・カキムジャノバ
セミパラチンスク地方における核実験開始50周年の年に
今年8月29日は、セミパラチンスクで、核実験開始50周年という悲しい記念日です。
初めて核実験が行われたのは、1949年8月29日、午前7時でした。爆弾の威力は20キロトン。それから40年にわたり、かつては人々が野菜やウリ類を育て、ライ麦や小麦を栽培し、家畜を放牧した土地で、核兵器の実験が続けられたのです。アブラリンスキー地区は立入禁止とされ、住民はほかの土地に強制的に移されました。家族のつながりはとぎれ、人々は友人と別れ、生まれた土地から永遠に離されたのです。
実験は1949年から63年までは大気中と地表で、1963年から89年までは地下で行われ、自然と住民に被害がもたらされました。デゲレン山地があった場所には細かく砕かれた岩のかけらが残りました。そして住民の健康状態は急激に悪化したのです。
私たちの組織「アイリス」は、1996年から98年にかけて、「女性の健康は民族の健康」と名付けたプログラムを実行しました。プログラムを行った結果、私たちは次のような結論に達しました。
- 子どもを産む年齢層を含む全女性の健康の疾病率は高く、このことが現在妊娠・出産を困難にしている主要な原因の一つである。
- 新生児の健康指数の値が低く、死亡率が高いことが判明した。アバイスキー地区で行われた調査の結果、1995年の死亡率は新生児1000人あたり27.4人、96年には31人。アブラリンスキー地区では1995年には1000人あたり30.6人、96年には63.9人にまでのぼった。
- 腫瘍の罹患率が高い:アブラリンスキー地区とアバイスキー地区の腫瘍例は、合計1730であった。(アバイ村の人口は、1996年の統計によれば20084人)
- 甲状腺の良性新生物、甲状腺機能低下(慢性)、自己免疫性の甲状腺炎、甲状腺ガンが多数みられる。
「アイリス」は1998年の4月に、セミパラチンスク市と、以前は秘密都市であったクルチャトフ市で、「健康状態と、核実験が自然環境に与えた被害について」というセミナーを行いました。このセミナーの席でドイツのミュンヘン市から参加した精神医学の教授ゲルド・ビルマン氏は、食道ガンと甲状腺ガンの症例があまりに多いので大変驚いたと述べられました。氏はまた、当時子どもだった人たちに核実験のときどのような体験をしたかについて話しました。家から出るように言われ、時にはかなり長い時間が過ぎたあと爆発が起こり、地面が地震のときのように震えました。家も揺れ、壁には所々ヒビが入り、食器は落ち、家によっては壊れるものもありました。何回かの実験の爆心地から38キロの距離にあったサルジャル村では、住民は地平線に赤い光を見、羊飼いたちもキノコ雲を目撃しました。子どもたちが学校で何が起こったのか質問すると、教師は決まって演習だと答えるのでした。
1998年12月に開かれた国連の第53回総会で、カザフスタンが引き継ぎ91年に閉鎖したセミパラチンスク核実験場は、カザフスタン政府と国民の深刻な不安の対象となっていることを認めました。核実験が国民、特に子どもやその他の抵抗力の低い人たちの命と健康、また地域の自然環境にもたらした被害はそれほどひどいものだったのです。
国連総会は国際社会に向けて、もっとセミパラチンスク地域とその住民の生活に心を配るよう呼びかけました。
日本政府は今年9月東京で、セミパラチンスク地域の回復プログラムに関する会議を開きます。1945年の原爆を体験している日本国民は、核実験が私たちカザフ人に残した苦しみをよくわかってくれています。私たちは、日本の皆さんの援助と支えに感謝の意を表明します。私たちの組織は1992年からこの世界大会に参加しています。日本のいくつかの県からの代表団の皆さんがセミパラチンスクを訪問して下さり、実験場の与えた被害についての情報を広めて下さっています。
世界の反核運動は、核兵器が過去のものになるようもっと力をつくさなければいけません。核技術が新たにいくつかの国に拡散していることに不安を覚えます。どんな国も、核兵器をもつ権利があってはならないのです。私たちはずっと、人類は核兵器なしで次の世紀を迎えなければならないと訴えています。残された時間はわずかです。
国際社会はバルカン半島の状況に不安を持っています。NATOの空爆で、子どもや女性など、非武装の市民が殺されるのです。何千人もの人が家を出て、難民になりました。私たちは、ユーゴスラビアで記者である娘を亡くした父親の悲しみを見ました。NATOの作戦は何といおうと正当化できるものではありません。人間は言葉を話すことができ、ありとあらゆる紛争は話し合いで解決しなければならないのです。
平和というのは、単に戦争が起こっていない状態のことではありません。平和というのは、優しさと愛であり、慈悲と思いやりであり、忍耐とお互いを尊敬する気持ちなのです。
世界の被爆者の証言・資料
カザフスタン
原水爆禁止1998年世界大会
国際会議
セミパラチンスク核実験被害者同盟
クリムハン・ラヒモワ
度重なる体外・体内被曝を受けたセミパラチンスク州住民の健康状態の評価
セミパラチンスク核実験場では、1949年から度重なる核実験がおこなわれ、その結果州内の一部住民は、高濃度の放射能汚染地域内におかれたのです。地理的に実験場にもっとも近いのはセミパラチンスク市のアバイスキー、ベスカラガイスキー、ジャナセメイスキー、アブラリンスキー地区ですが、放射能汚染はチュバルタウスキー、ボロドゥリヒンスキー地区にもおよんでいることがわかりました。セミパラチンスク実験場で実験が行われていた時期を、住民が放射能の影響を受けた程度で二つに分けることができます。第一の時期は、大気中実験や掘削目的の地下実験が行われた1949〜1965年です。第二の時期は、もっぱら地下実験が行われた1965〜1989年の時期です。第一の時期のうち、1949年から53年まで行われた大気中実験は、もっとも放射能の影響を多く住民に与えたと言われています。その時期に、放射能が大量に蓄積され、ひどい後遺症を残したのです。
軍部の公式データでは、セミパラチンスク核実験場では、大気中実験と地上実験が166回、そして地下実験が約500回おこなわれたとされています。住民の健康と自然環境が受けた被害を評価するためには、この地域の汚染は次のことが原因で起こったということを考慮する必要があります。
・地上核実験
・大気中核実験
・1953年の水爆実験
・地下核実験
セミパラチンスク州住民の被曝の特徴は、度重なる急性被曝と慢性被曝であるということです。十分な安全対策がとられなかったため、土壌や水源や食糧がひどく汚染されました。1962年までは、はっきりした目的を持った医学調査は行われませんでした。この地域に住む人たちの安全に疑問を呈した勇気ある専門家は追放されました。
1962年から、セミパラチンスク放射線診療所によって州内のアバイスキー地区、ベスカラガイスキー地区、ジャナセメイスキー地区の14の居住区に住む1万人の健康調査がおおこなわれました。
これらの住民の健康状態の長年にわたる観察によって、循環器系と神経系の障害という二相の特徴が明らかになりました。調査の結果、核実験のせいで、寿命が10年短くなっただけでなく、実際の年齢よりも早く老化が進むことが分かったのです。
腫瘍の疫学調査も行われ、実験場に隣接する地域住民の間では、腫瘍の疾病率と腫瘍による死亡率が、調査開始から4?15年目にかけて、また23?27年目にかけて急激に増加していることがわかりました。被曝していない人たちと比較して、腫瘍発症率の年平均増加率は、40%も高いものでした。
州立腫瘍学診療所のデータによれば、セミパラチンスク州住民の中では、白血病患者の数が1975年から85年にかけて、その前の10年間と比較して7倍になっています。長年にわたる周辺の自然環境の悪化によって住民の遺伝子にも悪影響が与えられ、それが先天性異常や発達異常という形で現れています。
セミパラチンスク州住民の白血球中の染色体異常の頻度は、被曝していない人たちと比べ4.5から 5倍も高いのです。先天性異常は、1986年から88年にかけて疾病の6.4%、死亡原因の2.3 から 7.3% を占めるようになりました。子供の神経系の病気や精神病、また知的障害や身体障害を持って生まれる子供の数も増えています。
私たちは、アバイスキー州カラウル村と、セミパラチンスク州に住む、3家族(トレウベコフ家、スイズドゥイコフ家、バイグージノフ家)の調査を行いましたが、これらの家族の7代から4代前までは、きわめて健康で長く生きたことが分かっています。3家族にとっても悲劇は、1949年から始まり、今日まで続いています。
1985年から89年にかけての、内分泌系異常の発症率は、古来のセミパラチンスク州住民の中では26.7%を占めています。
そのうちの一人、1978年生まれのエンリク・トレウベコワも、内分泌系の機能障害で苦しんでいます。現在エンリクは20歳になっていますが、彼女は4歳児にしか見えません。医者が下した診断は、先天性の重症の甲状腺機能減退症でした。著しい身体と知能の発達の遅れも見られます。
1949年までは、エンリクの祖先はきわめて丈夫でしたし、長く生きています。彼らの健康と長寿の秘訣は、きれいな空気と、汚染されていない食糧と、屋外での適度な労働だったと思います。その時代はまだ工場などがなかったため、土壌も空気も水もきれいだったのです。
当時は若い年齢での死亡原因としては、せいぜい伝染病の流行があるぐらいでした。
地上実験と地下核実験が行われていた時期、トレウベコフ家は、もっとも放射能汚染の危険が高かった地域に暮らしており、被曝すると同時に、ストロンチウム90とセシウム137に汚染された肉や牛乳や水を摂取していたのです。そのためにエンリクの親戚や父親が亡くなり、エンリクの母親やと姪が病気になり、エンリク本人の脳下垂体の機能が破壊されたのだと思います。
もう一人、実験によって悲劇的な運命に見舞われたベーリック・スイズドィコフのことを紹介したいと思います。
ベーリクも、セミパラチンスク核実験場の被害者です。彼は19歳ですが、背が低く、生まれたときから目が見えず、顔が腫瘍で腫れ上がっています。彼のことはロイター通信も報道しています。彼の家族のことを調べたとき、中国から1962年にズナーメンカ村に引っ越してきたということがわかりました。1963年、セミパラチンスク核実験場で大量の放射能の放出を伴う実験がおこなわれました。そのときベリクの父親は、核実験場内で羊を放牧していました。ベーリクは、つらい運命にも関わらず、社交的で明るく、イタリアに友人がたくさんいます。彼と話をしたとき、彼は記憶力と聴覚が優れていることに気がつきました。彼は点字で書かれた本を読み、イタリア語も少し話せます。
ベーリクに救いの手をさしのべたのは、反核運動のリーダー、オルジャス・スレイメノフで、彼のおかげでベーリクはイタリアで治療を受けています。ベーリクの家族は、ベーリクのホームステイと送り迎えを引き受けてくれたアルバネラ市のレナータ・ヨスナメルさんにとても感謝しています。
今日、日本の友人のみなさん、そして私たちを精神的・物質的に支えてくれた小児科医の宇籐千枝子さんと家族の方に、反核運動のメンバー、ジャムポーズィフ・アイジャンとヌルジャン、サリムベートワ・アナラ、バイグジーノオワ・オルジャス、カリバーソワ・アセム、カセーノワ・シハリーとアセヤ、ラヒーモワ・アルマンとエルボル、アフメトカーリエワ・アセリとエルヌル、その他たくさんおセミパラチンスクの子どもたちから感謝の言葉を伝えたいと思います。
終わりに、ジャーナリストであるナデージダ・ルブリョーワの言葉を紹介したいと思います。「ふるさとは女性であり、歴史も女性であり、地球も女性です。そして、地球を豊かにするためには、しっかり守らないといけないのです。」
世界の被爆者の証言・資料
カザフスタン
原水爆禁止1997年世界大会・国際会議
核実験被害者同盟
クリャシュ・オマーハーノバ
クリャシュ・オマーハーノバといいます。核実験被害者同盟の理事長をしています。私たちの同盟は1989年に、旧ソ連でも最大級の核実験場に近く、今世紀で最も被害を受けたことで世界に知られるようになったセミパラチンスクで結成されました。
私たちの組織はその発足当初から、反核運動を支持している全ての国と密接に協力しながら活動してきました。私たちの組織に最初に援助と連帯の手を差し伸べてくださったのは日本の平和活動家の皆さんでした。
私は今回が初めての来日であり、広島・長崎の惨劇の後、核実験の被害に苦しんだ方々の前で発言するという責任と栄誉を感じています。セミパラチンスクの実験場では、40年間にわたって、約500回の核実験が行われました。そのうち26回は地上で、87回は空中、350回は地下の実験でした。
第五福竜丸の乗組員の久保山さんが、ビキニ環礁での核実験で被曝し、放射線障害で亡くなられたことは、世界中に知られています。しかし、私の国の人々の多くが自殺したことを知っている人がいるでしょうか。以前には、このようなことはカザフスタンにはありませんでしたが、今では良く知られるようになりました。
今日、放射能は深刻な問題となっています。私たちは自分たちがどれだけの量の放射線を浴びたのか正確には知りません。実験を行ったと同じ人々が、核爆発の影響を調査したからです。とにかく私たちは放射線を浴びたのです。私たちは感じませんが、私たちの遺伝子には多くの病気や異常の遺伝子が含まれています。そのため、これから生まれてくる赤ちゃんはもう爆発音を聞くことはなくても、現在病気にかかったり、奇形の子供が多く、その数はこれからも増えることでしょう。全ての核爆発は、遺伝子の中に記憶され、何年も消えることはありません。放射線の影響は次世代にはっきりと現れるからです。
私たちは、奇形の子供たちを見て衝撃を受け、未来からのろいの言葉を送ることになるでしょう。愛情は多くのことができます。でも私たちがいくら神に訴えても、子供たちをこのような不運から守ることはできないでしょう。クルチャトフ(セミパラチンスク核実験場内の都市)の科学者たちの行った動物実験で、被ばくした動物は7世代目には全て死に絶えてしまうことが明らかになりました。女性の生殖器官が機能しなくなるのです。しかも、私たちはまだ3代目にすぎません。私たちの未来には何が待ちうけているのでしょうか。
1997年3月末に、セミパラチンスクの核実験場で恐ろしい事件が起こりました。5名の男性が、1951年からレンガでふさがれていた実験用の横穴を開き、コンクリート壁を壊し、水をポンプで汲み出し、中のケーブルを取り出して売ろうとしたのです。そのうちの4人は、直ぐに横穴で死にました。5人目は心理的なストレスに耐えられず、自殺してしまいました。
国内の困難な経済状況のため、人々は死を選ぶようになりました。その殆どが家族や子供たちを残して自殺するのです。私たちの地方では、人々は極めて過酷な経済状況に適応できず、多くの人々は貧困を恐れ、自衛本能すら機能しなくなってしまうのです。核実験場の影響によって住民は健康が損なわれているため、その社会的な立場も悪化しています。
セミパラチンスク実験場の地表には11、600キュリーの低レベル放射性廃棄物580万トンが堆積し、地下には合計放射能量が12、800キュリーのガラス状の中レベル放射性廃棄物650万トンが濃縮されて埋蔵されています。家畜は、実験場の高レベル放射線汚染地帯の牧草地に放牧されています。干し草や食肉、乳製品などはまさにこの地帯から供給されています。
このように、実際の放射能汚染や私たちの健康状態は、いまだに不明です。放射能に汚染された地帯があり、危険な放射性核種が食物や空気や水に濃縮されて存在することは、大きな悲劇です。
国が深刻な経済危機に陥っている時期に、私たちの組織は国の問題の一部にも取り組んでいます。私たちの組織は、セミパラチンスクだけでなく、カザフスタン全土でも有力な非営利団体です。私たちの意見は、行政の代表者だけでなく、優れた医療専門家からも考慮されています。
いくつかの共和国にまたがる「核被害者同盟」は、オランダの人道援助団体「ヒボス」の財政的支援を得て、「女性の健康は国民の健康」という計画をすすめています。この計画の目的は、放射線被曝のリスクのある地帯に住む女性たちに、病気の予防や女性の生殖器官ガンの初期発見、結核、家族計画、健康な生活などについての啓発をおこなうことです。
私たちは実験場に隣接する二つの地方、ベスカラガイスクとアバイの調査を2年後までに終了する予定です。法律では、これらの地方は最大の被害地帯に指定されています。ベスカラガイスク地方の15歳以上の女性人口は8,744人です。この調査で、悪性新生物が476件発見されましたが、これは女性10万人あたり5,444人に相当します。1992年から1995年までの期間の成人人口の悪性新生物の罹病率は、ベスカラガイスク地方で10万人あたり400〜500人、セミパラチンスクで600〜700人、カザフスタンで500〜600人です。これと比較しますと、計画が実施された期間の悪性新生物の早期発見率は、統計平均の9〜10倍になっています。
アバイ地方の健康状態を分析してみると、健康を示す基本的な指標は悪化していることが分かります。この地方の人口は2万人で、全体の罹病率は千人あたり748人で、出産年齢の女性の罹病率は千人あたり682人です。また、この地方は死亡率が高いことで知られています。その原因の一つは悪性新生物の罹病率が高いことです。先天性奇形、死産、幼児死亡が死亡の大きな部分を占めています。
十代の子供では、35人に1人が神経性疾患に苦しみ、10人に1人が呼吸器官の疾患にかかり、85人に1人が先天性異常をもっています。アバイ地方には14才の子供が6、632人おり、その5人に1人が診療所に登録され、4人に1人が貧血、18人に1人が幼いときから身体障害をもっています。403人の子供のうち50人に1人が先天性奇形をもち、35人に1人が死亡しています。経済状況の悪化と結びついて、障害手当てが支給されることもあって、これまで子供の障害を隠し、登録しなかった家族の多くが、子供に検診を受けさせ、正式に障害者登録するようになっています。
私たちの進めている計画は、少ない経費で効果的な活動ができ、それが国のためにもなっています。核実験被害者には以下のことを要求する権利があります。
- 核実験被害者に人間的な暖かい目をむけ、彼らと子供たちが被った精神的な被害を補償し、セミパラチンスクに核実験場をつくった国の負担で子供たちへの保健・医療を援助すること。
- 核実験の人体への影響についての情報を普及すること。
- まだ健康な人が実験場に立ち入らないように、実験場の境界を閉鎖すること。
地球上から核実験をなくすために私たちは団結しなければなりません。これからの世代に幸福な未来を実現しましょう。
世界の被爆者の証言・資料
カザフスタン
原水爆禁止1997年世界大会・国際会議
核実験被害者同盟
アシルジャン・ハビジャノバ
核実験場がセミパラチンスク地方住民の健康に与えた後遺症について
私の名前はアシルジャン・ハビジャノバです。37年間、産婦人科医として働いてきました。私はカザフスタンのセミパラチンスク市から、核実験の残した大きな爪痕を絶えず目の当たりにしている医療従事者たちを代表してこの世界大会に参加しています。
世界には、セミパラチンスク実験場ほど長い期間にわたって、空中、地表、地下核実験が行われた場所は存在しません。40年の間に多くの人命が奪われ、運命が狂わされました。
1949年の8月29日から、多くの居住地域の間に作られた核実験場で、核兵器の実験がおこなわれました。480から100キロトンの規模の空中、地表実験が160回、地下核実験は350回以上おこなわれました。地下核実験のうち3分の1は、放射性ガスの空気中への放出を伴うものでした。これらの実験の結果、地区の自然環境と、カザフ人の何世代にもわたって大きな影響が残りました。
1949年から66年まで、セミパラチンスク州の一部の地域住民は、平均150から200レムの被曝を受けています。実験場の医療機関と専門家たちによる大気、土壌、水、食物の放射化学的調査によって、核実験が始まったときから、カザフスタン共和国全土に放射性物質が降下していたことが明らかになっています。降下した放射性生成物は今でも存在します。
地下核実験に移行してからも、実験場周囲の安全は確保されませんでした。
いまでは明らかになっているように、一定の面積あたりの核実験の回数は、カザフスタンが世界で一番です。核実験はセミパラチンスク地区とその周辺地域住民の人々の身体だけでなく、遺伝子をも脅かし続けています。
実験が自然と人々の健康に与える危険を、初めて声を大にして知らせたのは医師たちでした。50年代にはすでに、アカデミー会員であるアチャバロフ医師とバルムハーノフ医師に率いられた調査隊が、セミパラチンスク州の一連の地域で、神経系と感覚器の異常、皮膚疾患、原因不明の貧血、前ガン症状・ガンに代表されるように、住民の健康が悪化していることを突き止めていたのです。
長年にわたって慢性的に大量の放射線を浴び続けた結果、セミパラチンスク核実験場に隣接する地域に人口学的な悪影響が出ていることがわかっています。セミパラチンスク全体の死亡率を示す指標は、1963年と比較すると平均して2倍に増えました。1966年にはこの数字は1000人あたり11.0を示しました(共和国全体では10.1)。ベスカラガイスキー地区では12.1、セミパラチンスク市では13.2です。
1996年の幼児死亡率は共和国平均が1000人あたり25.3に対しセミパラチンスク州が31.3、ベスカラガイスキー地区が37.0、アブラリンスキー地区が63.9です。
死亡例のうち明らかに増加したのが先天性奇形の割合です(新生児1000人あたり1963年の5.2から1995年の9.5)。1000人のうち13人が死産ですが、その主要な原因は胎児の発育停止や、生命に直接関わる感染や先天性の奇形です。1000人の新生児のうち10人が生後数日で死亡しており、この数はアブラリンスキー地区では14、ベスカラガイスキー地区では19人です。
実験場と境を接する地域では、新生児の15%が未熟児で、40%以上が発育不良で産まれており、これも幼児死亡率を増加させる要因となっています。
同地域の住民の平均寿命は、女性が58歳(共和国平均は68歳)、男性が56歳(共和国平均は76歳 |